2022年07月24日「人間の人権と神の恵み 인간의 인권과 하나님의 은혜」

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人間の人権と神の恵み 인간의 인권과 하나님의 은혜

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 21章1節~9節

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聖句のアイコン聖書の言葉

21:1あなたの神、主があなたに与えて、得させられる土地で、殺されて野に倒れている人が発見され、その犯人がだれか分からないならば、
21:2長老および裁判人たちが現場に赴き、その死体から周囲の町々への距離を測らねばならない。
21:3死体に最も近い町の長老たちは、労役に使われたことのない雌牛、すなわち軛を負わされたことのない若い雌牛を選び、
21:4長老たちは、その雌牛を水の尽きることのない川の、耕したことも種を蒔いたこともない岸辺に連れて行き、その川で雌牛の首を折らねばならない。
21:5それから、レビの子孫である祭司たちが進み出る。あなたの神、主が御自分に仕えさせ、また主の御名によって祝福を与えるために、お選びになったのは彼らであり、争いごとや傷害事件は、すべて彼らの指示に従わねばならないのである。
21:6死体に最も近い町の長老たちは皆、川で首を折られた雌牛の上で手を洗い、
21:7証言して言わねばならない。「我々の手はこの流血事件とかかわりがなく、目は何も見ていません。
21:8主よ、あなたが救い出されたあなたの民、イスラエルの罪を贖い、あなたの民、イスラエルのうちに罪なき者の血を流した罪をとどめないでください。」こうして、彼らの血を流した罪は贖われる。
21:9あなたは主が正しいと見なされることを行うなら、罪なき者の血を流した罪を取り除くことができる。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 21章1節~9節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 19章1節から本日の21章9節まで大きなまとまりを形成しておりまして、殺人について書かれています。この19章からの大きなまとまりは、基本的には十戒の第六戒「殺してはならない」の細部規定として位置付けられています。19章から少し振り返ってみますと、まず誤って人を殺してしまったケースが出てきました。その場合、その人は逃れの町が準備されているということでしたが、わざと殺した者には逃れの町はありませんでした。それから地境の侵入と、法廷での証人についての話がありました。地境の侵入は、当時、土地が神さまからの賜物であったという事を考えると、いかなる人もこれを犯すことの出来ない民の権利であって、王様でさえ民の嗣業の地を奪うことは許されませんでした。もし、勝手に地境を移動して他人の土地を脅かすということは、イスラエルの民にとって、命を脅かされることとして考えられていました。このように人の命と、命と関わりのある嗣業の地は、大変尊重されていました。そして、前回学んだ内容は、戦争で人を殺すケースになります。これは例外的で、たとえ、わざと人を殺す行為であっても、第六戒の違反にはならないということです。なぜなら、主がイスラエルを用いて、カナンの原住民の積み重ねられた罪悪に、審判を下すという意味合いにおいて、それは肯定されるからです。しかし、「逆もまた然り」という諺がありますように、もしイスラエルが主に背き、罪を犯し続けるなら、神さまはアッシリアやバビロンをお用いになり、イスラエルに審判を下されるのです。そのことは後の時代に、実際に起こりました。

それでは、本日の箇所ですが、犯人が誰なのか分からない未解決の殺人事件について、それをどのように扱えばよいのか、そのマニュアルについて書かれています。誰が殺したのか分からない、そして殺された人さえ誰なのか分からない「変死体」を見つけたケースです。今日も似たような殺人事件が、テレビのニュース番組を見ると、日々報道されています。私たちは、そのたびに物騒な世の中になったな~と憂慮するのですが、私たちがそこで期待するのは、とにかく早く、この殺人事件が究明されてほしいということだと思います。現代の場合、たとえ目撃者がいなくても、様々な遺留品や状況証拠から犯人をあぶり出していくことができますから、私たちの感覚ですと、「その殺人事件は自分とは何の関わりがないけれど、早く犯人が見つかってくれたらいいな」というふうに考える程度だと思います。この殺人事件に対し少し、他人事だということですね。ところが、当時のイスラエルに与えられた律法を見ますと、彼らの関心事は、この犯罪が自分たちと大いに関わりがあって、どのようにしたら、イスラエルの民と土地の聖さが保たれるかという点に関心が置かれていました。つまりイスラエルの民全体が、この罪なき者の血が流された事件を、自分たちの罪として認識しているという事です。21:1~2節をご覧ください。

【1】. 死体に最も近い町

 “あなたの神、主があなたに与えて、得させられる土地で、殺されて野に倒れている人が発見され、その犯人がだれか分からないならば、長老および裁判人たちが現場に赴き、その死体から周囲の町々への距離を測らねばならない。”

現場からの距離を正確に測量するために、長老たちだけでなく、裁判人たちまでも現場に赴き測量いたしました。その目的は現場から最も近い町をきちんと特定するためであります。最も近い町を特定させる目的は「現場から近い町に犯人が潜んでいるに違いにない」という憶測からでしょうか。違います。彼らは、犯人を捜すことに執着しているのではありません。もちろん故意に人を殺したということが、明らかに分かっている場合は、その人は死刑に処せられますが(民35:16-21)、しかしここで測量をしている目的は、最も近い町が全イスラエルを代表して、罪によって汚された土地とそこに住む民を贖うための儀式を行うためでありました。

このように、万一、イスラエルにおいて、罪なき者の血が流され、犯人が誰なのか分からないという事件が起きた場合、その流された血によって土地とそこに住む民は汚され、その罪は社会全体を汚染するという認識を持っていました。現代の私たちにはない感覚です。イスラエル共同体は、その咎から、その罪責から、解放されなければなりません。ここでは神の選ばれた聖なる民、イスラエルにおいて、聖さが維持されること、そのことが目的とされているのです。

それでは、そのマニュアルの具体的な内容ですが、最も近い町の長老たちと祭司たちは、使役されたことのない若い雌牛を準備し、耕されたことも、種を蒔かれたこともない、水が絶えず流れている川辺にひいていき、そこで雌牛の首を折って殺しました。このような儀式は一体何を意味しているのでしょうか。まず、使役されたことのない若い雌牛とは、それ自体、清いことを意味しています。さらに、人間によってまだ一度も耕されたことも、種を蒔かれたこともない水が絶えず流れているその土地も、同じく清いことを意味しています。ところが、この家畜の血を注いで、祭壇を通して神に献げることはしないで、首を折るという殺し方をしています。「首を折る」とは、汚れた動物を殺戮する方法でありました。出エジプト記13:13には、ろばがどのように殺戮されるのかが書かれています。

“ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない。もし、贖わない場合は、その首を折らねばならない。あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない。”

皆さんもご存じのように、ろばとはイスラエルの中で大変身近な家畜であり、荷物などを運搬する際に重宝していました。イエス様がエルサレムに入城される際も子ロバに乗って入って行かれました。このように親しみのある、ろばでありますが、実は、豚と同じように反芻をしない動物であり、食べることが許されていない汚れた動物として分類されていました。従ってこの汚れた動物が殺戮される方法は、首を折るという仕方であります。このことから、ある注解書には、ここで行われた儀式とは贖いのための神に捧げられる犠牲祭事というより、むしろ神の正義の要求を満たすために、野において倒れている人が無残に殺されたように、それと全く同じ仕方で、死刑が執行されたのだろうと書かれていました。若い雌牛の殺戮儀式は、その動物の未来に開かれていた可能性、まだ開発されていない活力を絶つということであり、殺された人の死を物語っている訳です。つまり、この儀式は、犯人に下されるべき死刑が執行されたということの象徴だったと思われます。罪のない清い家畜が、罪を犯した汚れた犯人として死刑されているのです。

【2】. 共同体の責任

 次に、長老たちは、首の折られた雌牛の上で手を洗い、証言して祈りました。7~8節をご覧ください。

“「我々の手はこの流血事件とかかわりがなく、目は何も見ていません。主よ、あなたが救い出されたあなたの民、イスラエルの罪を贖い、あなたの民、イスラエルのうちに罪なき者の血を流した罪をとどめないでください。」こうして、彼らの血を流した罪は贖われる。”

ここには、共同体の中で犯された罪は、共同体全員が責任を共に負うという事が示されています。全イスラエルにおいて「自分がやったことではないから関係がない」という感覚ではありません。また犯人の側からは「見つからなければ構わない、誰にも分からないようにすればいいだろう」、という考え方も通用しませんでした。イスラエルの民が、罪というものが個人の問題ではなく、共同体の清さに関わる問題であるという事を認識した時に、もし、無罪の者の血が流されてしまうなら、イスラエル全体に大きな荷物を負わせることになることが分かるため、滅多なことでは、悪いことができなくなるのです。このような共同体意識は、罪を犯すことの予防にもなったことでしょう。こういった考え方は、私たち教会にも適用することができるのではないでしょうか。私たち神の家族、神の民の群れにおいて、喜びや悲しみ、そして困難や苦しみだけでなく、さらには、お互いの罪さえも、共に担いあう事、お互いの罪を覆い合うことの大切さが示されていると思います。私たちがもし、神の民、神の家族であると言いながら、他人の罪を、自分がしたことではないから関係がないとし、ただ批判したり、裁くだけだとしたら、それは、神の民として、共に生きているとは到底、言えないということです。互いにとりなしの祈りを捧げ、互いの罪を担い合い、互いの罪を覆い合う、そのような私たちの歩みとなるように祈ってまいりましょう。

【3】. 十字架の予表

 さて、長老たちが証言する前に、首の折られた雌牛の上で手を洗っています。この描写は、新約聖書の総督ポンティオ・ピラトが、イエス様を死刑にするため、兵士たちにイエス様を明け渡した時にした行動を思い起こさせます。マタイによる福音書27:22~25をご覧ください。

“そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」”

この時、総督ピラトは、ナザレのイエスという青年に罪がないことが分かっていました。ユダヤ人の宗教指導者たちの妬みによって、このような事態が引き起こされているということを分かっていましたので、何とか釈放してやりたいと願っていました。しかし、祭司長たちやファリサイ人たちに扇動された群衆は、「イエスを十字架につけろ」とますます激しく叫び立てるため、暴動になることを恐れ、イエスを死刑に引き渡したのです。その際、水を持って来させ、群衆の前で手を洗い、この人の血について、わたしには責任がないと言いました。そして、群衆は「その血の責任は、我々と子孫にある。」と叫んでいますが、まさにこの群衆の言葉は私たちにおいて預言のように響いてきます。イエス様が十字架に架からなければならなかった理由は、イスラエルの民の罪にあったのです。イエス様が十字架に架からなければならなかった理由は、私たち一人ひとりの罪にこそあったのです。罪を犯しているイスラエルの民が、本来、神の御前に裁かれるべきですが、清いお方、何の罪もないお方が、罪人として、無残にも処刑されました。十字架刑とは、ローマ市民には決して適用されることのない、極刑であり、強盗や暴徒を働いた者が殺される刑罰でした。普通、ユダヤ人の処刑方法は石打ちの刑でしたが、イエス様の場合、ユダヤ人としての石打ちの刑さえ叶わず、裸にされ、呪われた者として木に架けられ、さらしものになり、無残な死を遂げました。従って、若い雌牛の殺戮を通して、私たちはそこに、イエス様の無残な十字架刑を眺めることが出来るのです。なぜ、清い家畜が、汚れた動物として殺戮されたのか、それは私たちの罪の代わりに、罪のないイエス様が死んでくださったということです。なぜ、長老たちは手を洗ってから証言したのか、それは、清い家畜の死によってイスラエルの共同体の罪が贖われ、赦されるためでありました。それは、罪のないお方が十字架刑に架けられることによって、神の正義が満たされ、イエス・キリストを信じる私たち教会の罪が赦され、贖われるためだったのです。このようにして、全イスラエルから、罪なき者の血を流した罪を取り除くことが出来たのです。

【結論】

 人は、男であれ女であれ、富んでいる人であれ貧しい人であれ、いかなる人種であれ、神によって尊い存在として造られました。一人の命は尊く、かけがえのないものであり、もし、無罪の者の血が流されてしまうなら、イスラエルの民全体が汚され、その責任を負うことになるのです。「殺してはならないという」という命令は、神さまが人を神のかたちに造られたという思いが、従って、一人でも罪なき者が無駄に死んではならないという強い神の思いが込められています。もし、私たちの社会が一人の命の死を、軽く考えたり、他人事のように考えたりするのなら、私たちの社会から、罪に対する感覚は麻痺し、神に対する恐れは消えてなくなるでしょう。イスラエルの民が未解決の殺人事件を共同体の責任として捉え、そして、イスラエルの住んでいる土地と、そこに生きているイスラエルの民の聖さが、常に保たれるために、神さまは若い雌牛の首を折るマニュアルを示されました。そのマニュアルとは、民の咎を贖い、罪の責任から解放するものであり、それは、まさにイエス・キリストの十字架を予表するものであります。イエス様は罪のないお方でありながら、都の外で、罪人として、極刑である十字架刑による死を遂げられました。それは本来、私たちが受けるべき刑罰でしたが、代わりに受けてくださったのであり、その無残な死は、私たちの罪を赦し、贖うための死であったのです。そのことを日々覚え、感謝しつつ、私たち教会も、罪を取り除くように互いに執り成し合い、互いに罪を覆い合い、互いに赦し合う共同体として日々歩ませていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

인간의 인권과 하나님의 은혜

2022년 7월 24일 센겐다이교회 주일설교

신명기 21장 1~9절

서론

19장 1절부터 오늘의 본문 21장 9절까지는 큰 덩어리를 형성하고 있으며 살인에 대해 쓰여져 있습니다. 이 19장 부터의 큰 정리는 기본적으로 십계명의 제 6계명인 「살인하지 말지니」의 세부 규정으로 자리 잡고 있습니다. 19장부터 조금 돌이켜 보면 먼저 실수로 사람을 죽여버린 경우가 나왔습니다. 그 경우 그 사람은 도망갈 도피성이 준비되어 있다고 했지만 고의로 살인 한 자에게는 도망갈 도피성이 없었습니다. 그리고 땅의 경계표와 법정에서의 증인에 대한 이야기가 있었습니다. 경계표의 침입은 당시 땅이 하나님의 선물이었다는 점을 감안한다면 어떤 사람도 이를 어길 수 없는 백성의 권리로 왕조차 백성의 기업의 땅을 빼앗는 것이 허용되지 않았습니다. 만약 마음대로 땅의 경계표를 이동하여 남의 땅을 위협한다는 것은 이스라엘 백성들에게는 생명을 위협받는 것으로 여겨졌습니다. 이처럼 사람의 생명과 생명과 관련된 기업의 땅은 매우 존중받았습니다. 그리고 지난 번에 배운 내용은 전쟁에서 사람을 죽이는 경우가 됩니다. 이것은 예외적이고 설사 일부러 사람을 죽이는 행위라 하더라도 제 6계명의 위반이 되지는 않는다는 것입니다. 왜냐하면 주께서 이스라엘을 사용하셔서 가나안 원주민들의 쌓인 죄악에 대한 심판을 내린다는 의미에서 그것은 긍정되기 때문입니다. 그러나 일본속담에「반대가 되면 마찬가지 처지」라는 말이 있듯이 만약 이스라엘이 주를 배반하고 죄를 짓는다면 하나님께서는 앗수르나 바빌론을 이용하셔서 이스라엘에 심판을 내리시는 것입니다. 그일은 후대에 실제로 일어났습니다.

그러면 오늘의 구절에서는 범인이 누구인지 모르는 미해결 살인사건에 관해서 그것을 어떻게 다루면 좋을지 그 메뉴얼에 대해서 적혀 있습니다. 누가 죽였는지 모르고 살해당한 사람이 누구인지도 모르는 「변사체」를 발견한 경우입니다. 오늘도 비슷한 살인사건이 TV 뉴스를 보면 매일 같이 보도되고 있습니다. 우리는 그때마다 어수선한 세상이 되었구나~하고 우려하는데 우리가 거기서 기대하는 것은 어쨌든 빨리 이 살인사건이 규명됐으면 좋겠다는 것이라고 생각합니다. 현대의 경우에는 비록 목격자가 없다하더라도 대부분 다양한 유류품이나 정황 증거를 통해 범인을 찾아낼 수 있기 때문에 우리의 감각으로는 “그 살인 사건은 나와는 아무런 관련이 없지만 범인은 빨리 잡았으면 좋겠다”는 식으로 생각하는 정도라고 생각합니다. 이런 살인 사건에 대해서 나와는 상관 없는 타인의 일이라고 생각하는 것이죠. 그런데 당시 이스라엘에게 주어진 율법을 보면 그들의 관심사는 이 범죄가 자신들과 많은 관련이 있고 어떻게 하면 이스라엘의 백성과 땅의 거룩함이 유지될 수 있을까 하는 점에 관심이 있었습니다. 즉 이스라엘 백성 전체가 이 무고한 자의 피가 흘려진 사건을 자신들의 죄로 인식하고 있다는 것입니다. 21장 1,2절을 참조하시기 바랍니다.

(1) 시체와 가장 가까운 마을

1 네 하나님 여호와께서 네게 주어 차지하게 하신 땅에서 피살된 시체가 들에 엎드러진 것을 발견하고 그 쳐죽인 자가 누구인지 알지 못하거든

2 너희의 장로들과 재판장들은 나가서 그 피실된 곳의 사방에 있는 성읍의 원근을 잴 것이요

현장에서의 거리를 정확하게 측량하기 위해 장로들분만 아니라 재판장들까지도 현장으로 가서 측량했습니다. 그 목적은 현장에서 가장 가까운 마을을 제대로 특정하기 위해서입니다. 가장 가까운 마을을 특정시키는 목적은 “현장에서 가까운 마을에 범인이 숨어 있는 것이 틀림없다” 추측 때문일까요? 아닙니다. 그들은 범인을 찾는 것에 집착하고 있는 것이 아닙니다. 물론 고의로 사람을 죽였다는 것을 분명히 알고 있다면 그 사람은 사형에 처해질 수 있지만(민수기 35장 16~21절) 그러나 이곳에서 측량을 하는 목적은 가장 가까운 마을이 전 이스라엘을 대표하여 죄로 더럽혀진 땅과 그곳에 사는 백성을 속죄하기 위한 의식을 거행하기 위함이었습니다.

이처럼 만일 이스라엘에서 무고한 자의 피가 흘러 범인이 누구인지 알 수 없는 사건이 발생할 경우 그 흘린 피로 인해 땅과 그곳에 사는 백성은 더럽혀지고 그 죄는 사회 전체를 오염시킨다는 인식을 가지고 있었습니다. 현대의 우리에게는 없는 감각입니다. 이스라엘 공동체는 그 허물로부터 그 죄책으로부터 해방되어야 합니다. 여기서는 하나님이 선택하신 거룩한 백성, 이스라엘에서 거룩함이 유지 되는 것, 그것이 목적입니다.

그러면 그 메뉴얼의 구체적인 내용입니다만 가장 가까운 마을의 장로들과 제사장들은 멍에를 매지 아니한 암송아지를 취하여 갈지도 않고 씨를 뿌린 일도 없는 물이 항상 흐르는 골짜기로 끌고 가서 암소의 목을 부러뜨려 죽였습니다. 이런 의식은 도대체 무엇을 의미하는 것일까요? 먼저 멍에를 매지 아니한 암송아지란 자체로 정결함을 의미합니다. 게다가 인간에 의해 아직 한 번도 경작되지도, 씨가 뿌려진 적이 없는 물이 항상 흐르는 그 땅 역시 정결하다는 것을 의미합니다. 그런데 이 가축의 피를 부어 제단을 통해 하나님께 바치지는 않고 목을 부러뜨리는 방식을 취하고 있습니다. 「목을 부러뜨리다」라는 것은 부정한 동물을 살육하는 방법이었습니다. 출애굽기 13장 13절에는 나귀가 어떻게 살육되는지가 적혀 있습니다.

나귀의 첫 새끼는 다 어린 양으로 대속할 것이요 그렇게 하지 아니하려면 그 목을 꺽을 것이며 네 아들 중 처음 난 모든 자는 대속할지니라

여러분도 아시다시피 나귀는 이스라엘 안에서 매우 친숙한 가축으로 짐 등을 운반할 때 편리했습니다. 예수님이 예루살렘에 입성하실 때도 새끼 나귀를 타고 들어가셨습니다. 이렇게 친숙한 나귀지만 사실 돼지와 마찬가지로 되새김질을 하지 않는 동물이며, 먹는 것이 허용되지 않는 부정한 동물로 분류되었습니다. 따라서 이 부정한 동물이 살육되는 방법은 목을 부러뜨리는 방법입니다. 그래서 어떤 주해서에는 여기서 거행된 의식이란 속죄를 위한 하나님께 바치는 희생제사라기보다는 오히려 하나님의 공의로운 요구를 충족시키기 위해 들에 쓰러져 있는 사람이 무참히 살해된 것처럼 그와 똑같은 방식으로 사형이 집행되었을 것이라고 적혀 있습니다. 젊은 암소의 살육의식은 그 동물의 미래에 열려 있었을 가능성, 아직 개발되지 않은 활력을 끊는다는 것으로 죽음을 당한 사람의 죽음을 말해주는 것입니다. 즉, 이 의식은 범인에게 내려져야 할 사형이 집행되었다는 상징이었다고 생각됩니다. 무고한 정결한 가축이 죄를 지은 더러운 범인으로 사형을 당한 것입니다.

(2) 공동체의 책임

다음으로 장로들은 목이 부러진 암소 위에서 손을 씻고 증언하며 기도했습니다. 7,8절을 보시기 바랍니다.

7 말하기를 우리의 손이 이 피를 흘리지 아니하였고 우리의 눈이 이것을 보지도 못하였나이다

8 여호와여 주께서 속량하신 주의 백성 이스라엘을 사하시고 무죄한 피를 주의 백성 이스라엘 중에 머물러 두지 마옵소서 하면 그 피 흘린 죄가 사함을 받으리니

여기에서 공동체 안에서 저지른 죄는 공동체 모두가 함께 책임을 진다는 것이 나타나있습니다. 전 이스라엘에 있어서 “내가 한 짓이 아니기 때문에 나는 상관이 없다”는 감각이 아닙니다. 또 범인 쪽에서는 “발각되지 않으면 상관이 없다. 아무도 모르게 하면 되겠지”라는 생각이 통하지 않았습니다. 이스라엘 백성들이 죄라는 것이 개인의 문제가 아니라 공동체의 정결함과 관련된 문제라는 것을 인식했을 때, 만약 무죄자의 피가 흘려진 다면 이스라엘 전체에 큰 짐을 지게 한다는 것을 알 수 있기 때문에 함부로는 나쁜 일을 할 수 없게 되는 것입니다. 이러한 공동체 의식은 죄를 짓는 것을 예방하기도 했을 것입니다. 이런 생각은 우리 교회에도 적용할 수 있지 않을까요? 우리들 하나님의 가족, 하나님의 백성의 무리에 있어서 기쁨과 슬픔, 그리고 어려움과 괴로움뿐만 아니라 심지어 서로의 죄까지도 함께 짊어지는 것, 서로의 죄를 덮어주는 것의 중요성이 나타나 있다고 생각합니다. 우리가 만약 하나님의 백성, 하나님의 가족이라고 하면서 남의 죄를 내가 한 일이 아니기 때문에 상관이 없다며 그냥 비판하거나 심판하는 것이라면 그것은 하나님의 백성으로서 함께 살고 있다고 도저히 말할 수 없다는 것입니다. 서로를 위하여 기도하고 서로의 죄를 함께 짊어지고 서로의 죄를 덮어주는 그런 우리들의 발걸음이 되도록 기도하며 나아갑시다.

(3) 십자가의 예표

장로들이 증언하기 전에 목이 부러진 암소 위에서 손을 씻고 있었습니다. 이 묘사는 신약성경 총독 본디오 빌라도가 예수님을 사형시키기 위해 병사들에게 예수님을 내줄 때 한 행동을 상기시킵니다. 마태복음 27장 22~25절을 보시기 바랍니다.

22 빌라도가 이르되 그러면 그리스도라 하는 예수를 내가 어떻게 하랴 그들이 다 이르되 십자가에 못 박혀야 하겠나이다

23 빌라도가 이르되 어찜이냐 무슨 악한 일을 하였느냐 그들이 더욱 소리 질러 이르되 십자가에 못 박혀야 하겠나이다 하는지라

24 빌라도가 아무 성과도 없이 도리어 민란이 나려는 것을 보고 물을 가져다가 무리 앞에서 손을 씻으며 이르되 이 사람의 피에 대하여 나는 무죄하니 너희가 당하라

25 백성이 다 대답하여 이르되 그 피를 우리와 우리 자손에게 돌릴지어다 하거늘

이때 총독 빌라도는 나사렛의 예수라는 청년에게 죄가 없다는 것을 알고 있었습니다. 유대인 종교 지도자들의 질투로 인해 이런 사태가 일어나고 있다는 것을 알고 있었기 때문에 어떻게든 석방시켜 주고 싶었습니다. 그러나 제사장들과 바리새인들에게 선동된 군중들은 예수가 「십자가에 못 박혀야 하겠나이다」라고 점점 거세게 외치는 바람에 폭동이 일어날 것을 두려워하여 예수에게 사형을 선고한 것입니다. 그때 물을 가져오게 하고 군중 앞에서 손을 씻고, 이 사람의 피에 대해 나는 책임이 없다라고 말했습니다. 그리고 군중은 「그 피를 우리와 우리 자손에게 돌릴지어다」라고 외치고 있는데 바로 이 군중의 말은 우리에게 예언처럼 울려 퍼집니다. 예수님이 십자가형에 처해져야 했던 이유는 이스라엘 백성의 죄에 있었던 것입니다. 예수님이 십자가에 못 박혔어야 했던 이유는 우리들 한 사람 한 사람의 죄 때문인 것입니다. 죄를 짓고 있는 이스라엘 백성이 원래 하나님 앞에서 심판을 받아야 하는데 정결하신 분, 아무 죄가 없는 분이 죄인으로 무참히 처형되었습니다. 십자가형이란 로마 시민에게는 결코 적용되지 않는 극형으로 강도나 폭도를 저지른 자가 죽임을 당하는 형벌이었습니다. 보통 유대인의 처형 방법은 돌팔매형이었지만 예수님의 경우 유대인으로서의 돌팔매형조차 이루어지지않고 벌거벗겨지고 저주받은 자로 나무에 달려 구경거리가 되고 참혹한 죽음을 당했습니다. 따라서 암송아지의 살육을 통해 우리는 그곳에서 예수님의 끔찍한 십자가형을 바라볼 수 있는 것입니다. 왜 정결한 가축이 부정한 동물로 살육되었는지 그것은 우리의 죄 대신 무고한 예수님께서 죽으셨다는 것입니다. 장로들은 왜 손을 씻고 증언했을까요. 그것은 정결한 가축의 죽음으로 이스라엘 공동체의 죄가 속죄되고 용서받기 위해서였습니다. 그것은 죄 없는 한 분이 십자가 형에 놓임으로써 하나님의 공의가 충족되고 예수 그리스도를 믿는 우리 교회의 죄가 용서받고 속죄되기 때문이었습니다. 이렇게 해서 온 이스라엘에서 무고한 자의 피를 흘린 죄를 제거할 수 있었습니다.

결론

사람은 남자든 여자든 부유한 사람이든 가난한 사람이든 어떤 인종이든 하나님에 의해 고귀한 존재로 만들어졌습니다. 한 사람의 생명은 고귀하고 둘도 없는 것이며, 만약 무고한 자의 피가 흐른다면 이스라엘 백성 전체가 더렵혀지고 그 책임을 지게 되는 것입니다. 죽여서는 안된다는 명령은 하나님이 사람을 하나님의 형상을 따라 지으셨다는 생각, 따라서 한 사람이라도 무고한 사람이 헛되이 죽어서는 안된다는 강한 하나님의 생각이 담겨 있습니다. 만약 우리 사회가 한 생명의 죽음을 가볍게 생각하거나 남의 일처럼 생각한다면 우리 사회에서 죄에 대한 감각은 마비되고 하나님에 대한 두려움은 사라질 것입니다. 이스라엘 백성들이 미해결 살인사건을 공동체의 책임으로 여기고 이스라엘이 살고 있는 땅과 그곳에 살고 있는 이스라엘 백성들의 거룩함이 항상 유지되기 위해 하나님께서는 암송아지의 목을 꺽는 메뉴얼을 제시하셨습니다. 그 메뉴얼은 백성의 허물을 속죄하고 죄의 책임에서 해방시키는 것이며 그것은 바로 예수 그리스도의 십자가를 예견하는 것입니다. 예수님은 죄가 없는 분이시면서도 도읍 밖에서 죄인으로서 극형인 십자가형으로 죽음을 당하셨습니다. 그것은 본래 우리가 받아야 할 형벌이었지만 대신 받아주신 것이고 그 끔찍한 죽음은 우리의 죄를 용서하고 속죄하기 위한 죽음이었습니다. 그일을 날마다 기억하고 감사하며 우리 교회도 죄를 제하기 위해서 서로 기도하며 서로 죄를 덮고 서로 용서하는 공동체로 하루하루 걸어가도록 합시다.

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