2022年07月17日「主が共に戦われる 함께 싸우시는 주」

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主が共に戦われる 함께 싸우시는 주

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 20章1節~20節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1あなたが敵に向かって出陣するとき、馬と戦車、また味方より多数の軍勢を見ても恐れてはならない。あなたをエジプトの国から導き上られたあなたの神、主が共におられるからである。
2いよいよ戦いの場に臨んだならば、祭司は進み出て、民に告げ、
3次のように言わねばならない。「イスラエルよ、聞け。あなたたちは、今日、敵との戦いに臨む。心ひるむな。恐れるな。慌てるな。彼らの前にうろたえるな。
4あなたたちの神、主が共に進み、敵と戦って勝利を賜るからである。」
5役人たちは民に勧めなさい。「新しい家を建てて、まだ奉献式を済ませていない者はいないか。その人は家に帰りなさい。万一、戦死して、ほかの者が奉献式をするようなことにならないように。
6ぶどう畑を作り、まだ最初の収穫をしていない者はいないか。その人は家に帰りなさい。万一、戦死して、ほかの者が最初の収穫をするようなことにならないように。
7婚約しただけで、まだ結婚していない者はいないか。その人は家に帰りなさい。万一、戦死して、ほかの者が彼女と結婚するようなことにならないように。」
8役人たちは更に民に勧めて言いなさい。「恐れて心ひるんでいる者はいないか。その人は家に帰りなさい。彼の心と同じように同胞の心が挫けるといけないから。」
9役人たちが民への勧めを終えたならば、各部隊の長は民の指揮を取りなさい。
10ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を勧告しなさい。
11もしその町がそれを受諾し、城門を開くならば、その全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばならない。
12しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。
13あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。
14ただし、女、子供、家畜、および町にあるものはすべてあなたの分捕り品として奪い取ることができる。あなたは、あなたの神、主が与えられた敵の分捕り品を自由に用いることができる。
15このようになしうるのは、遠く離れた町々に対してであって、次に挙げる国々に属する町々に対してではない。
16あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。
17ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。
18それは、彼らがその神々に行ってきた、あらゆるいとうべき行為をあなたたちに教えてそれを行わせ、あなたたちがあなたたちの神、主に罪を犯すことのないためである。
19あなたが町を攻略しようとして、長期にわたって包囲するとき、斧を振るってその町の木を切り尽くしてはならない。木の実は食糧になるから、それを切り倒してはならない。一体、野の木はあなたの前から城壁に囲まれた町に逃げ込む人間なのか。
20ただ食用にならないことが分かっている木を切り尽くし、切った木を用いて塁を築き、あなたに抗戦する町を攻め落としなさい。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 20章1節~20節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

私たちの人生は、不安と恐れの連続であると言えます。自分の未来がどうなるのか全く予想がつかない以上、それぞれの置かれた職場において、人間関係において、これからの進路において、或いは健康管理において、私たちは常に不安と恐れの中に置かれているのではないでしょうか。ところが神さまは私たちに、「恐れなくてもよい」、「怖がらなくてもよい」と言われます。なぜでしょうか。それは私たちに一人ひとりに向かった、神さまの永遠のご計画があるからです。万物が創造される前から、私たち一人ひとりは、神さまによって愛される存在であり、信仰によってこの世の人生を走りぬき、ついには栄光の冠と神の安息に入れられるように、ご計画されているからです。

神さまが、カナン征服を目前にしたイスラエルの民に対し語ってくださったことも、やはり「恐れるな」という言葉でありました。神さまのご計画の中でカナンの地は、イスラエルに与えられる約束の地でありました。しかし、同時にそれは信仰によって征服していかなければならない地でもあります。イスラエルの民にとってカナンの原住民は、明らかに、自分たちより数の多い民であり、馬と戦車を所有した、強い軍隊でした。彼らを前にしてイスラエルの民は恐れ、震える以外にありませんでした。1節をご覧ください。

【1】. 神に信頼するのか、人間の力に信頼するのか

あなたが敵に向かって出陣するとき、馬や戦車、また自分よりも数の多い軍勢を見て、恐れてはならない。エジプトの地からあなたを導き上ったあなたの神、主が共におられる。

カナンの原住民は「馬と戦車」を所有していました。馬とは騎馬隊のことで、戦車とはチャリオットと呼ばれる馬車のことです。当時、抜群の機動力をもたらす馬と戦車の登場によって、それまでの戦争のやり方を根本的に変えてしまったと考えられています。一方でイスラエルは、エジプトにおいて400年以上、奴隷生活をし、出エジプトをしてからも40年間荒れ野をさまよっていました。当然、馬や戦車などは持ち合わせていません。イスラエルの民が、カナン人の馬と戦車と、そして大勢の軍勢を見た時、恐れるのも無理はありませんでした。40年前、エジプトのファラオがイスラエルの民を追って葦の海に迫って来た時も、やはり馬と戦車による軍隊でありました。あの時、主は、葦の海の水を真っ二つに割り、そこから出て来た乾いた地にイスラエルの民を招き入れ、そして渡り終えると、再び海を元に戻し、追い迫るファラオの軍隊を葦の海の水の中に沈めたのであります。エジプトから導いてくださった主は、カナンの地を征服するにあたっても、同じようにイスラエルの民と共にいてくださり、きっと救ってくださるに違いありません。この戦いにおいて、イスラエルの軍隊の真の将軍であられる、万軍の主が共におられるので、恐れてはならないと言われるのです。2~4節をご覧ください。

いよいよ戦いの場に臨んだならば、祭司は進み出て、民に告げ、次のように言わねばならない。「イスラエルよ、聞け。あなたたちは、今日、敵との戦いに臨む。心ひるむな。恐れるな。慌てるな。彼らの前にうろたえるな。あなたたちの神、主が共に進み、敵と戦って勝利を賜るからである。」

3節に「心ひるむな。恐れるな。慌てるな。彼らの前にうろたえるな。」とありますが、この箇所は、新しい聖書協会共同訳では若干翻訳が変わっています。「気弱になるな。恐れるな。うろたえるな。敵の前でおののくな。」と訂正されています。つまり、だんだんと恐れる気持ちに支配されていき、状況が次第に悪化していく様子を読み取ることができます。聖書には一貫して「恐れるな」という勧めが出てまいりますが、この勧めは決して、私たちが堅固な意志をもって、勇気を持つならば、必ず戦争に勝利できるという意味ではありません。私が小学生の頃、剣道をやっていましたが、試合の時、自分の番を待っている時間、ただ立っているだけで、心臓がバクバクして、大変緊張しました。しかし、いざ試合が始まり、大きな声を出して、足を動かして、フットワークを良くすると、緊張していた自分は消えてしまい、恐れや、不安は吹き飛び、普段の練習の時の自分に戻ることができたことを覚えています。しかし聖書が、ここで語っていることは、そのような心理学的なことを言っているのではありません。

ここで教えられているのは、イスラエルの戦争とは、すべて、神さまに信頼するのか、それとも人間の力に依り頼むのかの戦いであるということです。私たちは時には、気弱になることがあります。震えることがあります。恐れおののくことがあります。そのような時に、心理学的に気持ちをしっかり持ち、自分を信じて、強い意志を持って臨むなら大丈夫という意味ではないということです。そうことではなく、神さまに全面的に信頼し、神さまを仰ぎなさいと言っているのです。敵の数を見るならば、敵の最新兵器を見るならば、恐れないではいられません。そのような中でも主が共におられることを信じ、主に信頼しなさいと言っているのです。

聖書に書かれているイスラエルの戦争のすべて記事は、神さまに信頼するのか、それとも人間の力に頼るのかの戦いでありました。そして、結果的にイスラエルが勝つにしても、負けるにしても、そこには必ず神さまの、ご自身の民に対する信仰教育、信仰の訓練が含まれていました。ですからイスラエルの戦争において勝ち負けが究極の目的ではないということです。この世にあって、イスラエルの民が信仰によって生きること、神を仰ぎ、神に信頼することを、教えることこそ戦いの目的でした。「信仰によって生きること」は、彼らにとって、全生涯をかけて全うすべき使命でもありました。ですから、そのことは、今日に生きる私たちにもそのまま適用することが出来るのです。私たちの戦いとは、心理的な戦いではありません。私たちの信じている福音というのは、私たちが恐れることなく、大胆になって、肯定的な思考、肯定的なビジョンを持つなら、この世にあって成功を収めることができるというような教えではありません。イエス様は、次のように言われました。「勇気を出しなさい、私は既にこの世に勝利したから」(ヨハネ16:33)。イエス様がこの世に勝利されたこと、このことこそ、私たちが恐れなくてもよい確かな根拠があるという事です。それはイエス・キリストが既に勝利されたから、イエス・キリストが既に十字架上で救いを成就されたから、恐れる必要はないのです。勇気を出すことが出来るのです。これこそ私たちの信じている福音です。従って私たちの戦いとは、このイエス様に信頼するのか、それとも人間の力に依り頼むのかという信仰の戦いになってくるのです。弱さの中で神に信頼するのか、それとも人間の力に信頼するのかの戦いなのです。

【2】. 主が共に戦われる

さて、5~8節まで、この戦争にあたって徴兵が免除される4種類の人々について書かれています。ご覧ください。

役人たちは民に勧めなさい。「新しい家を建てて、まだ奉献式を済ませていない者はいないか。その人は家に帰りなさい。万一、戦死して、ほかの者が奉献式をするようなことにならないように。ぶどう畑を作り、まだ最初の収穫をしていない者はいないか。その人は家に帰りなさい。万一、戦死して、ほかの者が最初の収穫をするようなことにならないように。婚約しただけで、まだ結婚していない者はいないか。その人は家に帰りなさい。万一、戦死して、ほかの者が彼女と結婚するようなことにならないように。」役人たちは更に民に勧めて言いなさい。「恐れて心ひるんでいる者はいないか。その人は家に帰りなさい。彼の心と同じように同胞の心が挫けるといけないから。」

戦争が免除される4種類の人々として、新しい家を建てて、まだ奉献式を済ませていない者、ぶどう畑を作り、まだ最初の収穫をしていない者、婚約しただけで、まだ結婚していない者、恐れて心ひるんでいる者が列挙されています。こういった人々は徴兵から免除される訳ですが、今お読みした5~8節で繰り返し出て来る言葉は「その人は家に帰りなさい」という言葉です。戦争において一人でも兵の数が多ければ、それだけ勝利の確立が上がるのは常識だと思いますが、ここでは、ばっさりと「その人は家に帰りなさい」と言うのです。イスラエルの民がヨルダン川を越えて約束の地に入るというこの歴史的な瞬間にあって、「当然、国のために戦うことの方が重要でしょ。」「新築の何が重要なのか?」「あんたの結婚がそんなに重要なのか?」「あんたのぶどう園の収穫がそんなに重要なのか?」と思ってしまうかもしれません。聖書は「その人は家に帰りなさい」と語ります。それなら一体誰が残るのでしょうか?貧乏くじを引いた者は誰なのかと思わず考えてしまいますね。

「その人は家に帰りなさい」とは一体どういう意味なのでしょうか。その理由として第一に考えられることは、主なる神さまが人道的な配慮に満ちた方であるということです。家の奉献式は大事な行事ですし、婚約している女性と結婚生活を始めること、ぶどう園の最初の収穫を味わうことも、本人たちにとっては大変重要なことであります。神さまは人道的な配慮に満ちた方であると言えるかもしれません。しかし、もっと大切な真理がここには隠されているのではないかと思うのです。つまり、神さまは少数の残された信仰の民を通して、ご自身の御心を成就されるという事です。そして、もし、人数が多ければ自分たちが強かったため、自分たちがうまくやったため、自分たちが敵をやっつけたと勘違いすることもあるかもしれません。そうではなく、主が驚くべき御業を通して、恵みによって勝利をもたらされたということを、はっきりと分からせるために「その人は家に帰りなさい」と言われるのです。士師記7章には、ギデオンがイスラエルの兵士を32,000人からわずか300人に減らしたという記事があります。士師記7:3~7をご覧ください。

それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。」こうして民の中から二万二千人が帰り、一万人が残った。主はギデオンに言われた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきではないと告げる者は行かせてはならない。」彼は民を連れて水辺に下った。主はギデオンに言われた。「犬のように舌で水をなめる者、すなわち膝をついてかがんで水を飲む者はすべて別にしなさい。」水を手にすくってすすった者の数は三百人であった。他の民は皆膝をついてかがんで水を飲んだ。主はギデオンに言われた。「手から水をすすった三百人をもって、わたしはあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分の所に帰しなさい。」

最初に32,000人ほどいた兵士が、最終的には99%削減され、300人だけが残されました。99%の減です。信じられますでしょうか。残された300人は神さましか頼るものはありませんでした。彼らがどのように戦ったのかと言うと、夜、主が敵の陣営に恐れを注ぎ込まれ、イスラエルの民が角笛を吹き鳴らし、水がめを打つ砕き、大声で叫ぶだけで、敵陣にパニックがもたらされ、同士討ちとなり、結局、イスラエルに敗北したのです。主の聖なる戦いとは、主が私たちと共に戦われ、主によって、救いと勝利がもたらされるのです。その戦いに求められるのは、ただ、信仰だけです。私たちの力が弱い時にこそ、私たちの人数があまりにも少ない時にこそ、自分の力を信頼することができず、神さまに依り頼むことができるのです。信仰によって委ねる以外にできないため、その戦いは主の戦いとなり、驚くべき御業が起こされるのです。そのために神さまは、私たちに「恐れるな」と励ましてくださるのです。今日、神さまはそのような共同体になるように私たちにも語り掛けているように思われます。一人ひとりが残された300人の民、信仰の民でございます。神さまはこの時代においてもそのような信仰の民をお用いになられるのです。

【結論】

私たちは、日々神さまに依り頼むのか、それとも人間の力に依り頼むのかの戦いに置かれています。私たちの主イエスは、既にこの世に勝利されました。このお方を私たちの人生の将軍として、頭として迎え入れる時に、私たちの人生は主と共にある歩みとなり、これまでと全く違った意味を持った人生に変えられることでしょう。神さまが私たちの信仰を用いて大いなる御業を起こされるからです。その際、残された民から、最も弱い者から、信仰の民を起こされるということも併せて覚えたいと思います。数も少なく、弱さにある私たちに、主が望まれることは、私たちが日々、神さまに信頼して歩むことです。祭司の国の一員として、信仰によって生きることこそ私たちが全生涯をかけて全うすべき使命だと言えます。すべてのことを信仰によって行い、御言葉を通して神さまと交わり、日々感謝し、共に祈り合い、素晴らしい神さまの福音を宣べ伝えながら、天にある栄光の冠と、神の安息を目指して、走り抜く私たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

함께 싸우시는 주

2022년 7월 17일 센겐다이교회 주일설교

신명기 20장 1~20절

서론

우리의 삶은 불안과 두려움의 연속이라고도 말할 수 있습니다. 자신의 미래가 어떻게 될지 전혀 예상할 수 없는 이상, 각자가 처한 직장에서, 앞으로의 진로에 대해서 혹은 건강관리에 있어서 우리는 항상 불안과 두려움 속에 놓여 있지 않을까요? 그런데 하나님은 우리에게 두려워하지 않아도 된다고 말씀하십니다. 왜 그럴까요? 그것은 우리 한 사람 한 사람을 향한 하나님의 영원한 계획이 있기 때문입니다. 만물이 창조되기 전부터 우리 개개인은 하나님의 사랑을 받는 존재이며 믿음에 의해 이 세상에서의 인생을 살아내어 마침내는 영광의 관과 하나님의 안식에 들어갈 수 있도록 계획되어 있기 때문입니다.

하나님이 가나안 정복을 눈앞에 둔 이스라엘 백성들에게 말씀해 주신 것 역시 「두려워하지 말라」는 말씀이었습니다. 하나님의 계획 중 가나안 땅은 이스라엘에게 주어지는 약속의 땅이었습니다. 그러나 동시에 그곳은 믿음을 가지고 정복해 나가야 하는 땅이기도 합니다. 이스라엘 백성들에게 가나안 원주민들은 분명히 자신들보다 수가 많은 백성이었고 말과 병거를 소유한 강한 군대였습니다. 그들 앞에서 이스라엘 백성들은 두려워하고 떨 수밖에 없었습니다. 1절을 보시기 바랍니다.

(1) 하나님을 신뢰하는가 인간의 힘을 신뢰하는가

네가 나가서 적군과 싸우려 할 때에 말과 병거와 백성이 너보다 많음을 볼지라도 그들을 두려워하지 말라 애굽 땅에서 너를 인도하여 내신 네 하나님 여호와께서 너와 함께 하시느니라

가나안 원주민들은 「말과 병거」를 소유하고 있었습니다. 말이란 기마대를 말하는 것이고 병거란 채리엇이라고 불리는 마차를 말합니다. 당시 뛰어난 기동력을 가져오는 말과 병거의 등장으로 그동안의 전쟁 방식을 근본적으로 바꿔 버렸다고 생각됩니다. 한편 이스라엘은 애굽에서 400년 넘게 종살이를 했고 출애굽을 하고도 40년간 광야에서 방황하고 있었습니다. 당연히 말이나 병거 등은 가지고 있지 않았습니다. 이스라엘 백성들이 가나안 사람들의 말과 병거를 보고서 두려워하는 것도 무리가 아니었습니다. 40년 전 애굽의 바로가 이스라엘 백성을 홍해까지 추격해 왔던 때도 역시 말과 병거에 의한 군대였습니다. 그때 주님은 홍해의 바다를 두개로 나누고 드러난 마른 땅으로 이스라엘 백성을 인도하시고 다 지나간 후 다시 바다를 원래대로 돌려서 쫓아오는 바로의 군대를 홍해바다의 물 속에 가라앉혔던 것입니다. 애굽에서 인도하여 주신 주님은 가나안 땅을 정복하는데 있어서도 그때와 마찬가지로 이스라엘 백성들과 함께 해 주시고 반드시 구원해 주실 것이 틀림없습니다. 이 싸움에서 이스라엘 군대의 진정한 장군이신 만군의 주가 함께 계시니 두려워하지 말라고 말씀하시는 것입니다. 2~4절을 보세요.

2 너희가 싸울 곳에 가까이 가면 제사장은 백성에게 나아가서 고하여 그들에게

3 말하여 이르기를 이스라엘아 들으라 너희가 오늘 너희의 대적과 싸우려고 나아왔으니 마음에 겁내지 말며 두려워하지 말며 떨지 말며 그들로 말미암아 놀라지 말라

4 너희 하나님 여호와는 너희와 함께 행하시며 너희를 위하여 너희 적군과 싸우시고 구원하실 것이라 할 것이며

3절에 「마음에 겁내지 말며 두려워하지 말며 떨지 말며 그들로 말미암아 놀라지 말라」라고 되어 있는데 이 부분은 새성경협회 공동번역(일본성경)에서는 약간 번역이 달라져 있습니다. 「마음이 약해지지 말라. 두려워하지 말라. 당황하지 말라. 떨지 말라」라고 정정되어 있습니다. 즉 점점 두려워하는 마음에 지배되어 가고, 상황이 점차 악화되어 가는 모습을 읽을 수 있습니다. 성경에는 일관되게 「두려워하지 말라」는 권유가 나오지만 이 권유는 결코 우리가 굳건한 의지를 가지고 용기를 가진다면 반드시 전쟁에서 승리할 수 있다는 의미는 아닙니다. 제가 초등학교 때 검도를 했는데 경기 때 제 차례를 기다리는 시간, 그냥 서 있기만 해도 심장이 두근거리고 긴장이 많이 됐습니다. 하지만 막상 경기가 시작되면서 큰 소리를 내고 다리를 움직이고 풋워크를 잘하자 긴장했던 저는 사라지고 두려움과 불안감은 싹 가시고 평소의 연습하던 때의 저로 돌아갈 수 있었던 기억이 납니다. 그러나 성경이 여기서 말하고 있는 것은 그런 심리학적인 것을 말하는 것이 아닙니다.

여기서 가르치고 있는 것은 이스라엘의 전쟁이란 모두 하나님께 신뢰를 두느냐 아니면 인간의 힘을 신뢰하느냐의 싸움이라는 것입니다. 우리는 때로는 마음이 약해질 때가 있습니다. 떨릴 수 있어요. 겁나는 일이 있습니다. 그럴 때 심리학적으로 마음을 단단히 먹고 자신을 믿고 강한 의지를 가지고 임한다면 괜찮다는 뜻이 아니라는 것입니다. 그게 아니라 하나님을 전적으로 신뢰하고 하나님을 앙망하라고 하는 것입니다. 적의 숫자를 본다면, 적의 최신 무기를 본다면 두려워하지 않을 수 없습니다. 그런 가운데서도 주님이 함께 하실 것을 믿고 주님께 신뢰를 두라는 것입니다.

성경에 적혀 있는 이스라엘 전쟁의 모든 기사는 하나님을 신뢰하느냐 아니면 인간의 힘을 의지하느냐의 싸움이었습니다. 그리고 결과적으로 이스라엘이 이기든 지든 거기에는 반드시 하나님의 자신의 백성에 대한 믿음 교육, 믿음 훈련이 포함되어 있습니다. 그래서 이스라엘 전쟁에서 이기고 지는 것이 궁극적인 목적은 아니라는 것입니다. 이 세상에서 이스라엘 백성들이 믿음으로 사는 것, 하나님을 앙망하고 하나님께 신뢰를 두는 것을 가르치는 것이야말로 싸움의 목적이었습니다. 「믿음으로 사는 것」은 그들에게 전 생애를 걸쳐 완수해야 할 사명이기도 했습니다. 그래서 그 일은 오늘을 사는 우리에게도 그대로 적용될 수 있는 것입니다. 우리의 싸움이란 심리적인 싸움이 아닙니다. 우리가 믿는 복음이란 우리가 두려워하지 않고 대담해지고, 긍정적인 사고, 긍정적인 비전을 가진다면 이 세상에서 성공을 거둘 수 있다는 가르침이 아닙니다. 예수님은 다음과 같이 말씀하셨습니다. 「담대하라 내가 세상을 이기었노라(요한복음 16장 33절) 」예수님이 이 세상에 승리하신 것, 이 일이야말로 우리가 두려워하지 않아도 될 확실한 근거가 있다는 것입니다. 그것은 예수 그리스도가 이미 승리 하셨기 때문에, 예수님이 이미 십자가 위에서 구원을 완성하셨기 때문에 두려워할 필요가 없는 것입니다. 용기를 낼 수 있는 것이죠. 이것이야말로 우리가 믿는 복음입니다. 따라서 우리의 싸움이란 이 예수님께 신뢰를 둘 것이냐 아니면 인간의 힘을 의지할 것이냐 하는 믿음의 싸움이되어 오는 것입니다. 약함 속에서 하나님께 신뢰를 둘 것인가 아니면 인간의 힘에 신뢰를 둘 것인가의 싸움인 것입니다.

(2) 함께 싸우시는 주

자 5~8절까지 이 전쟁에서 징병이 면제되는 네 종류의 사람들에 대해서 쓰여져 있습니다. 보시죠.

5 책임자들은 백성에게 말하여 이르기를 새 집을 건축하고 낙성식을 행하지 못한 자가 있느냐 그는 집으로 돌아갈지니 전사하면 타인이 낙성식을 행할까 하노라

6 포도원을 만들고 그 과실을 먹지 못한 자가 있느냐 그는 집으로 돌아갈지니 전사하면 타인이 그 과실을 먹을까 하노라

7 여자와 약혼하고 그와 결혼하지 못한 자가 있느냐 그는 집으로 돌아갈지니 전사하면 타인이 그를 데려갈까 하노라

8 책임자들은 또 백성에게 말하여 이르기를 두려워서 마음이 허약한 자가 있느냐 그는 집으로 돌아갈지니 그의 형제들의 마음도 그의 마음과 같이 낙심될까 하노라 하고

전쟁이 면제되는 네 종류의 사람들로서 새 집을 건축하고 아직 낙성식을 행하지 못한 자, 포도원을 만들고 아직 그 첫 수확물을 먹지 못한 자, 약혼만 하고 아직 결혼을 하지 못한 자, 마음이 허약한 자가 열거되어 있습니다. 이런 사람들은 징병에서 면제 되는데 지금 읽은 5~8절에서 반복적으로 나오는 말은 「그는 집으로 돌아갈지니」라는 말입니다. 전쟁에 있어서는 한 사람이라도 병사의 수가 많으면 그만큼 승리의 확률이 높아지는 것은 상식이라고 생각합니다만, 여기서는 딱 「그는 집으로 돌아갈지니」라고 말하는 것입니다. 이스라엘 백성들이 요단 강을 건너 약속의 땅으로 들어가는 이 역사적인 순간에 있어서 “당연히 나라를 위해 싸우는 것이 중요하지, 새 집의 낙성식이 그리 중요한가? 네 결혼이 그렇게 중요한가? 네 포도원의 수확이 그렇게 중요한가?”라고 생각할 수 있습니다. 성경은 「그는 집으로 돌아갈지니」라고 말합니다. 그렇다면 도대체 누가 남는 걸까요? 운 나뿐 제비를 뽑은 자는 누구일까 생각하게 됩니다.

「그는 집으로 돌아갈지니」는 것은 도대체 무슨 의미일까요? 그 이유로 첫 번째로 생각할 수 있는 것은 주 하나님이 인도적 배려로 가득 찬 분이라는 것입니다. 새 집의 낙성식은 중요한 행사이며 약혼녀와 결혼생활을 시작하는 것, 포도원의 첫 수확물을 맛보는 것도 본인들에게는 매우 중요한 일입니다. 하나님은 인도적인 배려가 가득한 분이라고 할 수 있을지도 모릅니다. 하지만 더 소중한 진리가 여기에는 숨겨져 있지 않을까 하는 생각이 듭니다. 즉 하나님은 소수의 남겨진 믿음의 백성을 통해 자신의 뜻을 성취하신다는 것입니다. 그리고 만약 인원이 많으면 자신들이 강했기 때문에, 자신들이 잘했기 때문에 자신들이 적을 물리쳤다고 착각할 수도 있습니다. 그게 아니라 주께서 놀라운 역사를 통해 은혜로 승리를 쟁취했다는 것을 분명히 알리기 위해 「그는 집으로 돌아갈지니」라고 말씀하시는 것입니다. 사사기 7장에는 기드온이 이스라엘 병사를 삼만 이천 명에서 불과 삼백 명으로 줄였다는 기사가 있습니다. 사사기 7장 3~7절을 참조하십시오.

3 이제 너는 백성의 귀에 외쳐 이르기를 누구든지 두려워 떠는 자는 길르앗 산을 떠나 돌아가라 하라 하시니 이에 돌아간 백성이 이만 이천 명이요 남은 자가 만 명이었더라

4 여호와께서 또 기드온에게 이르시되 백성이 아직도 많으니 그들을 인도하여 물 가로 내려가라 거기서 내가 너를 위하여 그들을 시험하리라 내가 누구를 가리켜 네게 이르기를 이 사람이 너와 함께 가리라 하면 그는 너와 함께 갈 것이요 내가 누구를 가리켜 네게 이르기를 이 사람은 너와 함께 가지 말 것이니라 하면 그는 가지 말 것이니라 하신지라

5 이에 백성을 인도하여 물 가에 내려가매 여호와께서 기드온에게 이르시되 누구든지 개가 핥는 것 같이 혀로 물을 핥는 자들을 너는 따로 세우고 또 누구든지 무릎을 꿇고 마시는 자들도 그와 같이 하라 하시더니

6 손으로 움켜 입에 대고 핥는 자의 수는 삼백 명이요 그 외의 백성은 다 무릎을 꿇고 물을 마신지라

7 여호와께서 기드온에게 이르시되 내가 이 물을 핥아 먹은 삼백 명으로 너희를 구원하며 미디안을 네 손에 넘겨 주리니 남은 백성은 각각 자기의 처소로 돌아갈 것이니라 하시니

처음 삼만 이천 명 정도였던 병사가 결국 99% 감축되고 삼백 명만 남게 되었습니다. 99%가 감소 됐습니다. 믿어지십니까? 남은 삼백 명은 하나님밖에 의지할 대상이 없었습니다. 그들이 어떻게 싸웠냐면 밤에 주께서 적의 진영에 두려움을 쏟으시고 이스라엘 백성들이 뿔피리를 불며 항아리를 박살내고 소리를 지르니 적진이 패닉상태에 빠져서 자기들끼리 싸우다 결국 이스라엘에게 패한 것입니다. 주님의 거룩한 싸움이란 주님이 우리와 함께 싸우시고 주님에 의해 구원과 승리가 주어지는 것입니다. 그 싸움에 요구되는 것은 오직 믿음뿐입니다. 우리의 힘이 약할 때에만 우리의 인원이 너무 적을 때에만 자신의 힘을 신뢰하지 않고 하나님만 의지할 수 있기 때문입니다. 믿음에 맡기는 것 외에는 할 수 있는 것이 없기 때문에 그 싸움은 주님의 싸움이 되어 놀라운 일이 일어나게 됩니다. 그렇기 위해 하나님께서는 우리에게 「두려워하지 말라」고 격려해 주시는 것입니다. 그런 공동체가 되라고 하나님은 오늘날 우리에게도 말씀 하신다고 생각합니다. 한 사람 한 사람이 남겨진 삼백 명의 백성, 믿음의 백성입니다. 하나님은 이 시대에도 그런 믿음의 백성을 사용하시는 것입니다.

결론

우리는 날마다 하나님을 의지할 것인가? 아니면 인간의 힘에 의지할 것인가의 싸움에 놓여 있습니다. 우리 주 예수님은 이미 이 세상에 승리하셨습니다. 이분을 우리 인생의 장군으로 머리로 맞아들일 때 우리의 삶은 주님과 함께 하는 걸음이 되어 지금까지와는 전혀 다른 의미를 가진 삶으로 바뀔 수 있을 것입니다. 하나님께서 우리의 믿음을 사용하여 큰 역사를 일으키시기 때문입니다. 그 때 남겨진 백성으로부터 가장 약한 자로부터 믿음의 백성을 일으키신다는 것도 함께 기억하고 싶습니다. 수도 적고 연약한 우리에게 주님이 바라시는 것은 우리가 날마다 하나님을 신뢰하며 걷는 것입니다. 제사장 나라의 일원으로서 믿음에 따라 사는 것이야말로 우리가 전 생애를 걸쳐 완수해야 할 사명이라고 할 수 있습니다. 모든 일을 믿음으로 행하고 말씀으로 하나님과 교제하며 날마다 감사하고 함께 기도하며 놀라운 하나님의 복음을 전하며 하늘에 있는 영광의 관과 하나님께서 주시는 안식을 목표로 달려가는 우리가 되도록 합시다.

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