2022年07月02日「神さまと和解せよ 하나님과 화해하라」

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神さまと和解せよ 하나님과 화해하라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 18章15節~20節

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18:15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
18:16聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
18:17それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18:18はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
18:19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
18:20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 18章15節~20節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 私たちは日々罪を犯してしまいます。罪を犯したなら悔い改めて神さまと和解するまでは、私たちの魂は、一匹の迷える羊であると言うことができるでしょう。外から見ると礼儀正しく普通の人のように振舞っていますが、心の中では他人の知らない罪をいつも犯しています。或いは、自分も知らずに罪を犯していた、人から指摘されて初めて気づかされた、というケースもあるのではないでしょうか。イスラエルの人々にとって罪というのは、決して罪を犯している本人だけの問題にとどまるものではありませんでした。個人的な次元ではなく、共同体的な次元で理解されていたというのです。イスラエルは一つの家族であり、一つの有機体であって、一人が罪を犯すということは、共同体全体の問題でありました。共同体の聖さに関わる問題であったという事です。このことは今日、キリストの身体である教会においても全く同じように当てはまるように思います。罪は個人的次元ではなく、共同体全体の問題であります。もし私たちのうちに隠れた罪があれば、どのような罪でも赦してくださるイエス様の御前に出て行き、罪を告白し、赦しをいただき、神さまと和解するべきであります。罪人が神と和解する時に、共同体は聖めと、回復を与えられ、愛と赦しの共同体として生まれ変わることが出来るのです。

【1】. 三つの段階

 さて、本日の箇所は、一般的に訓練規定について書かれていると言われています。イエス様は具体的な手順として三つの段階を教えてくださいました。この三つの段階は、一匹の羊も失いたくないというイエス様の愛の表れであります。教会の訓練規定とは、このイエス様の愛に支えられていて、失われた「兄弟を得る」ために、「迷える羊を得る」ために、施行されたという事です。

兄弟が罪を犯した場合、第一の段階として、そのことに気づいた人がまず、その人のもとへ行き、二人だけの所で忠告してください。この時、他の人にその罪を公にしてはなりません。牧師や長老にもです。当時、ユダヤ人は罪人が恥を受けないように、できる限り他の人に広めないで、むしろ忠告を受け入れてくれること、そのことに重要性が置かれていました。今日でも同じことが当てはまります。知らないで罪を犯してしまったというケースも十分考えられますから、不必要に恥をかかせることのないようにすることこそ、共同体の愛の業であると言えるのです。もし、忠告を受け入れてくれたなら、兄弟を得ることになり、共同体に和解が訪れます。ここで少し、釈義的なことを言いますと、18:15節で、「あなたに対して」という言葉がありますが、ギリシア語の有力な写本(シナイ、バチカン)には、この言葉が抜け落ちています。恐らくこの「あなたに対して」という言葉は、後で付け加えられたものと思われるので、本日はこの言葉を削除して本文を読み進めたいと思います。(なぜ、この言葉が付け加えられたのかと言えば、21節においてペトロが、私の兄弟が「私に対して」罪を犯したなら…と言っているので、これに調子を合わせて15節にも「あなたに対して」という言葉が付け加えられたのだろうと推測されます。)そうしますと、15節は加害者と被害者という構図ではなく、罪を犯した兄弟と、その罪を知った目撃者、証人ということになる訳です。仮に、被害者と加害者という構図であるなら、これは、すぐに感情論になりやすく、泥仕合のようになるため、実際、収拾がつかなくなるでしょう。

続いて第二段階です。もし彼が聞き入れない場合、「ほかに一人か二人、一緒に連れていきなさい」とあります。ユダヤの社会では、二人ないし三人の証言によって罪が確定されました。「他に証人を一人か二人を連れていく」というのは、問題を客観化して、罪の扱いに対し、慎重には慎重を期するという事です。冤罪のないように、本当にこの人が罪を犯したのか、どのような動機でそのような罪がなされたのか。丁寧に調べなければなりません。実際の罪に対して怒りに任せて個人的な報復をすることになってはなりません。或いは、訴える人が感情論に走ったりしてもなりません。罪を犯した兄弟には、そのようにして確定された罪にきちんと向き合うようにさせて、悔い改めに導くためです。悔い改めたなら、和解が訪れます。しかし、もし聞き入れない場合は、どうしたらいいでしょうか。

第三段階として、イエス様は、17節において「教会に申し出なさい」と言われました。教会は最高裁判所のような役割をしたということです。もし教会の忠告さえ受け入れなければ、彼を異邦人か徴税人同様に見なしなさいとあります。つまり、共同体から除名しなさいということです。「もはや、我々共同体の一員としては見なさない!」これは、私たちの目には大変厳しい戒規だと思われますが、実はそうではなかったということが後で判明したします。17~18節をご覧ください。

【2】. 鍵の権能

 “それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。”

17節には「教会」という言葉が出てきますね。このギリシア語は、皆さまも良くご存じのように「エクレシア」という言葉です。ヘブライ語の「カーハール」という言葉がギリシア語のエクレシアに対応しているため、ここでイエス様はおそらくヘブライ語の「カーハール」という言葉を使用したのかもしれません。旧約のユダヤ人にとってカーハールという言葉は、「ヤハウェの集会」とか、「ヤハウェの集い」という意味であり、即ち自分たちが、主ヤハウェに召された者たちである、我々は選ばれた者だ、ということを意味していました。つまり、エクレシアとは、旧約におけるイスラエルの民のことであり、新約における教会のことであるということです。そして、それは神の国の地上的な現れであるということが言えるのです。そんなことを言われても、確かに教会は、罪人の集まりで、いろいろと問題があり、葛藤もあります。それにも拘わらず、イエス様は、このエクレシアに、「つなぐこと、解くことの権能」を与えてくださったと言われるのです。「つなぐこと、解くことの権能」これは、18章だけでなく、マタイの16章18~19節においても使用されています。ペトロがイエス様に信仰告白をした、すぐ後ですが、その時もエクレシアという言葉をご使用になりました。マタイ16章18~19節をご覧ください。

“わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」”

この16章19節と本日の18章の御言葉を総合して考えるなら、使徒に天国に入る扉の鍵が与えられ、そして教会にも天国に入る扉の鍵が与えられているということです。簡単に言えば、使徒と教会の判断によって、この人の罪は赦され天国に入ることが出来て、あの人の罪はそのまま残り天国に入ることができないということです。しかし、そんなことを言われると「これは聞き捨てならない!そんな恣意的なことがあって良いのだろうか?罪を赦すことができるのは、神様お一人である」と思われる方もいるかと思います。或いは、さらに「地上の教会はオレを有罪としたが、天の法廷で判決をくつがえして見せる」と、反逆心さえ持つ人も、もしかしたらいるかもしれません。それでは、聖書に書かれている「つなぐこと、解くことの権能」とは、一体何なのか?という事になります。一般に「鍵の権能」と言われますが、これは、第一にイエス・キリストが教会にご自身とご自身の父の権限を譲り渡したという訳ではないという事です。そのことを大原則として押さえなければなりません。教会ではなく、イエス・キリストこそ、すべての恵みと権威の源泉なのです。それにも拘わらず、イエス様と教会は結び合わされていて、教会の頭であるイエス様が、教会をご支配してくださり、イエス様の恵みと権威を、教会を通して現わしてくださるのです。ですから、「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」と言われたのは、キリストにある教会を通して、イエス様の権威が現わされるということです。従って教会は、主ご自身がそこに臨在されるように、よく祈りながら、罪人に対し接しなければなりません。主ご自身が裁判長として支配し、導いていただけるよう、御言葉と聖霊によって批准された判決でなければなりません。教会が悔い改めない兄弟姉妹に対して、「あなたが今の態度を取り続けるなら、あなたは天の御国のメンバーではない」と宣言するなら、天においてもそのようになっていると私たちは信じるべきです。また、教会が「あなたは主に受けれられており、天国の民の一人とされている」と宣言するなら、天においてもそうなっていると信じるべきです。教会の、つなぐこと、解くことの決定は、天上の決定と直結しているのです。

【3】. 二人または三人が私の名によって

 ところで、旧約の律法を見ると、神さまに対する背教や、御名を冒涜すること、安息日規定を破ること、姦淫、計画的・意図的な殺人の場合において、これらは石打ちにという死刑に処されることもありました。それに比べれば、本日のイエス様のお言葉は、除名以上には及ばないという点において、罪を犯した当人に対する優しさがにじみ出ていると見ることができます。そのように考えるなら、このイエス様の教えは、当時、画期的な戒めとして映ったに違いありません。旧約聖書を見ると、二人、三人の証人によって罪が確定され、その罪の重さによっては、その場で石打ちの刑とされました。その際、証人がまず最初に、彼に石を投げるようにしました。申命記17:3~7をご覧ください。(旧p.307)

“他の神々に仕え、その神々や太陽、月、天の万象などわたしが命じたことのないものにひれ伏す者がいるならば、その知らせを受け、それを聞いたときには、よく調べなさい。もし、それが確かな事実であり、イスラエルの中でこうした、いとうべきことが行われたのであれば、この悪事を行った当の男ないし女を町の門に引き出し、その男ないし女を石で打ちなさい。彼らは死なねばならない。死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない。死刑の執行に当たっては、まず証人が手を下し、次に民が全員手を下す。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。”

申命記の記事によれば、裁判所が置かれていた町の門において、万が一、死刑の判決が下された場合、まず、証人が罪人に対して石を投げなければならなかったとあります。ですから、証人は死刑執行人となる覚悟をしながら、全生命をかけて証言をしなければならないということです。それほどの覚悟で証言がなされました。そのように厳かになされた裁判の結果、判決が有罪であり、重い罪であれば、その場で死刑が執行されたのです。しかし、新約時代において、イエス様は、最高裁判所である教会に持ち込まれた案件で、もし教会の言葉を聞き入れないならば、二人ないし三人の証人は、彼に石を投げるのではなく、心を一つにして祈るようにと勧めています。なんという恵みでしょうか。これはイエス様ご自身が、私たちの罪をすべて背負われ十字架に架かってくださるからこそ、言うことができる言葉なのです。イエス様が神と人との大祭司であるからこそ言うことができる言葉なのです。マタイ18:19~20節をご覧ください。

“また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」”

ここで、二人ないし三人の証人は、何を祈るのでしょうか。当然、罪を犯した人が悔い改めて、神のもとに立ち帰って来ることを祈るのであります。その祈りの中に、イエス様も共にいてくださり、どんな願いであれ、聞き遂げてくださり、叶えてくださいます。しばらくの間、除名ということで、異邦人か、徴税人と同様に見なされますが、その間も共同体の中で引き続き祈りがささげられ、いつの日か迷い出た羊が再び帰ってくるその日まで、粘り強く祈るのであります。さまよう一匹を探し出すイエス様の心情を持って、一人も失いたくないという、そのイエス様の心情を持って祈るのです。これこそ、兄弟を得るための教会の愛の業であると言えるでしょう。

【結論】

 イエス・キリストが十字架に架けられ、私たちのすべての罪を担ってくださいました。私たちは悔い改めて、このイエス様に信頼する時に、信仰によって救われます。もし今、罪を犯しているのなら、神の御前に告白し、速やかに神と和解しなければなりません。もし、忠告してくれた人と和解するなら、その忠告してくれた人を通して神さまと和解することが出来るでしょう。二人、三人の証人と和解するなら、二人、三人の証人を通して、神さまと和解することが出来るでしょう。そして、教会と和解するなら、教会を通して、天におられる神さまと和解することができるのです。このようにして、教会は赦しの共同体となるのです。教会の一人ひとりは、神さまにとって尊い存在であり、かけがえのない存在です。迷い出た羊一匹をイエス様はどこまでも探し続けます。ですからたとえ罪を犯してしまっても、たとえ兄弟姉妹を傷つけてしまい、人々の心に大きな傷を与えてしまっても、たとえ自分が教会の中で問題児としてレッテルを張られてしまったとしても、イエス様の十字架にすがり、悔い改めるなら、そこにキリストの贖いの血が覆ってくださり、完全に罪赦され、恐れから解放され、平安の内に歩み出すことが出来るのです。このようにして、教会は赦しの共同体として、愛と喜びに満ち溢れた聖なるキリストの身体として、歩んでいくことができるのです。

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하나님과 화해하라

2022년7월 3일 주일설교

마태복음 18장 15~20절

서론

우리는 날마다 죄를 짓고 맙니다. 죄를 지었다면 회개하고 하나님과 화해하기 전까지는 우리 영혼은 한 마리의 길 잃은 양이라고 말할 수 있을 것입니다. 겉으로 보면 예의 바르고 보통 사람처럼 처신하지만 속으로는 남이 모르는 죄를 항상 저지르고 있습니다. 혹은 자신도 모르게 죄를 짓고 있다가 남에게 지적을 받고 처음으로 알아차린 경우도 있지 않을까요? 이스라엘 사람들에게 죄라는 것은 결코 죄를 짓고 있는 본인만의 문제에 머무르는 것이 아니었습니다. 개인적인 차원이 아니라 공동체적인 차원에서 이해되고 있었다는 거죠. 이스라엘은 하나의 가족이고 하나의 유기체이며 한 사람이 죄를 짓는다는 것은 공동체 전체의 문제였습니다. 이 일은 오늘날 그리스도의 몸인 교회에서도 똑같이 해당된다고 생각합니다. 죄는 개인적 차원이 아니라 공동체 전체의 문제입니다. 만약 우리 중 숨은 죄가 있다면 어떤 죄라도 용서해 주시는 예수님 앞에 나아가 죄를 고백하고 용서를 받아 하나님과 화해해야 합니다. 죄인이 하나님과 화해할 때 공동체는 거룩하게 회복되며 사랑과 용서의 공동체로 거듭날 수 있는 것입니다.

(1) 세 단계

자, 오늘의 본문은 일반적으로 훈련 규정에 대해 쓰여져 있다고 알려져 있습니다. 예수님은 구체적인 절차로 세 단계를 알려주셨습니다. 이 세 단계는 단 한 마리의 양도 잃고 싶지 않다는 예수님의 사랑의 표시입니다. 교회의 훈련 규정이란 이 예수님의 사랑에 힘입어 잃어버린 형제를 얻기 위해, 길 잃은 양을 얻기 위해 시행되었다는 것입니다.

형제가 죄를 지었을 때 첫 번째 단계로 그것을 깨달은 사람이 먼저 그 사람에게 가서 둘만의 곳에서 권고하세요. 이때 다른 사람에게 그 죄를 공개해서는 안됩니다. 목사님이나 장로님 한테도요. 당시 유대인들은 죄인들이 창피를 당하는 것이 아니라 가능한 한 다른 사람들에게 퍼뜨려지지 않고 오히려 형제가 그 권고를 받아들이는 것, 형제를 얻는 것, 거기에 중요성을 놓았습니다. 오늘날에도 같은 것이 적용됩니다. 모르고 죄를 지었다는 경우도 충분히 생각할 수 있기 때문에 불필요하게 망신을 주는 일이 없도록 하는 것이야말로 공동체의 사랑의 사역이라고 할 수 있습니다. 만약 권고를 받아준다면 형제를 얻게 되고 공동체에 화해가 찾아옵니다. 여기서 조금 석의적인 말씀을 드리자면 18장 15절에서 「네게」라는 말이 있는데(한국어 성경에는 없지만 일본어 성경에는 있음) 헬라어로 된 유력한 사본(시나이, 바티칸)에는 이 단어가 빠져 있습니다. 아마 이 「네게」라는 말은 나중에 덧붙인 것으로 생각되기 때문에 오늘은 이 말을 삭제하고 본문을 읽어보도록 하겠습니다. (왜 이 말이 덧붙여졌냐면 21절에서 베드로가 「주여 형제가 내게 죄를 범하면 몇 번이나 용서하여 주리이까」라고 말하고 있기 때문에 이에 장단을 맞추어 15절에도 「네게」라는 단어가 덧붙여졌을 것으로 추측됩니다.) 그러면 15절은 가해자와 피해자라는 구도가 아니라 죄를 지은 형제와 그 죄를 알게 된 목격자, 증인이라는 것입니다. 만일 피해자와 가해자의 구도라면 이는 곧 감정적이 되기 쉽고 진흙탕 싸움처럼 되기 때문에 실제로 수습이 되지 않게 될 것입니다.

이어서 두 번째 단계입니다. 만약 그가 듣지 않거든 「한두 사람을 데리고 가서 두세 증인의 입으로 말마다 확증하게 하라」라고 되어 있습니다. 유대 사회에서는 두 사람 내지 세 사람의 증언에 의해 죄가 확정되었습니다. 다른 증인「한두 사람을 데리고 가서」라는 것은 문제를 객관화하고 죄의 취급에 신중을 기한다는 것입니다. 누명이 없도록 정말 이 사람이 죄를 지었는지, 어떤 동기로 그런 죄가 이뤄졌는지 꼼꼼히 살펴봐야 해요. 실제 죄에 대해 분노에 맡기고 개인적인 보복을 하게 되어서는 안됩니다. 아니면 호소하는 사람이 감정적으로 치닫거나 해서도 안 됩니다. 죄를 지은 형제에게는 그렇게 확정된 죄를 제대로 마주하게 하여 회개로 이끌기 위함입니다. 회개했다면 화해가 찾아옵니다. 하지만 만약 듣지 않을 경우에는 어떻게 하면 좋을까요?

세 번째 단계로 예수님은 17절에서 교회에 말하라고 하셨습니다. 교회는 대법원과 같은 역할을 했다고 합니다. 만약 「교회의 말도 듣지 않거든 이방인과 세리와 같이 여기라」고 말씀하십니다. 즉「더 이상 우리 공동체의 일원으로 간주 하지 않겠다!」

라고 공동체에서 제명하라는 것입니다. 이것은 우리들의 눈에는 매우 엄한 징계라고 생각되지만 실은 그렇지 않았다는 것이 나중에 밝혀집니다. 17,18절을 보시기 바랍니다.

(2) 열쇠의 권세

17 만일 그들의 말도 듣지 않거든 교회에 말하고 교회의 말도 듣지 않거든 이방인과 세리와 같이 여기라

18 진실로 너희에게 이르노니 무엇이든지 너희가 땅에서 매면 하늘에서도 매일 것이요 무엇이든지 땅에서 풀면 하늘에서도 풀리리라

17절에는 교회라는 말이 나오네요. 이 헬라어는 여러분도 잘 아시다시피 「에클레시아」라는 말입니다. 히브리어의 「카할」이라는 말이 헬라어의 「에클레시아」에 대응하고 있기 때문에 여기서 예수님은 아마 히브리어의 「카할」이라는 말을 사용했을지도 모릅니다. 구약의 유대인들에게 카할이라는 말은 「여호와의 총회」, 「여호와의 백성들의 모임」이라는 뜻이었고, 즉 자신들은 주 여호와께서 불러낸 자들이다, 우리는 선택받은 자이다라는 것을 의미했습니다. 즉 에클레시아는 구약에서 이스라엘 백성을 말하며 신약에서 교회를 말합니다. 그리고 그것은 하나님의 나라의 지상적인 발현이라고 할 수 있습니다. 그런 말을 들어도 확실히 교회는 죄인들의 모임으로 여러 가지 문제가 있고 갈등도 있습니다. 그럼에도 불구하고 예수님은 이 에클레시아에게 「매는 것, 푸는 것의 권세」를 주셨다고 합니다. 「매는 것, 푸는 것의 권세」, 이것은 18장 뿐만이 아니라 마태복음 16장 18,19절에 있어서도 사용되고 있습니다. 베드로가 예수님께 신앙고백을 한 바로 뒤인데 그때도 에클레시아라는 말을 사용하셨습니다. 마태복음 16장 18,19절을 보시기 바랍니다.

18 또 내가 네게 이르노니 너는 베드로라 내가 이 반석 위에 내 교회를 세우리니 음부의 권세가 이기지 못하리라

19 내가 천국 열쇠를 네게 주리니 네가 땅에서 무엇이든지 매면 하늘에서도 매일 것이요 네가 땅에서 무엇이든지 풀면 하늘에서도 풀리리라 하시고

이 16장 19절과 오늘의 18장의 말씀을 종합해서 생각한다면 사도들에게 천국으로 들어갈 문의 열쇠가 주어지고 그리고 교회에도 천국으로 들어갈 문의 열쇠가 주어져 있다는 것입니다. 간단히 말해서 사도와 교회의 판단에 따라 이 사람의 죄는 용서받고 천국에 들어갈 수 있고, 그 사람의 죄는 그대로 남아 천국에 들어갈 수 없다는 것입니다. 그러나 그런 말을 들었다고 해도 “이건 그냥 흘려 들을 수가 없어! 그런 제멋대로의 일이 일어나도 괜찮은건가? 죄를 용서할 수 있는 분은 하나님 한 분이시다!”라고 생각하시는 분도 계실 것입니다. 혹은 심지어 지상의 교회는 나를 유죄로 인정했지만 하늘 법정에서 판결을 뒤집고 말겠다며 반역심까지 갖는 사람도 어쩌면 있을지도 모릅니다. 그렇다면 성경에 적혀 있는 「매는 것, 푸는 것의 권세」란 도대체 무엇일까? 하는 것입니다. 흔히 「열쇠의 권세」라고 하는데 이는 첫째, 예수 그리스도께서 교회에 자신과 자신의 아버지의 권한을 양도하셨다는 것은 아니라는 것입니다. 그 일을 대원칙으로 확실히 해 두어야 합니다. 교회가 아니라 예수 그리스도야말로 모든 은혜와 권위의 원천입니다. 그럼에도 불구하고 예수님과 교회는 연결되어 있고 교회의 머리되신 예수님이 교회를 다스리시고 예수님의 은혜와 권위를 교회를 통해 드러내 주시는 것입니다. 그래서 「네가 땅에서 무엇이든지 풀면 하늘에서도 풀리리라」라고 말씀하신 것은 그리스도 안에 있는 교회를 통해 예수님의 권위가 나타난다는 것입니다. 따라서 교회는 주님이 그곳에 임재하시도록 기도하면서 죄인을 대해야 합니다. 주님이 재판장으로서 다스리시고 이끌어 주실 수 있도록 말씀과 성령에 의해 비준된 판결이어야 합니다. 교회가 회개하지 않는 형제자매에 대해 “당신이 지금의 태도를 계속 취한다면 당신은 하늘 나라의 구성원이 아니다”라고 선언한다면 하늘에서도 그렇게 되어 있다고 우리는 믿어야 합니다. 또한 교회가 “당신은 주님께 받아들여지고 천국 백성의 한 사람으로 여겨진다”라고 선언한다면 하늘에서도 그렇게 되어 있다고 믿어야 합니다. 교회의 매는 것, 푸는 것의 결정은 천상의 결정과 직결되어 있는 것입니다.

(3) 두세 사람이 내 이름으로

그런데 구약의 율법을 보면 하나님에 대한 배교나 하나님의 이름을 모독하는 것, 안식일 규정을 어기는 것, 간음, 계획적 의도적 살인의 경우에 있어서 이것들은 돌팔매질이라는 사형에 처하기도 했습니다. 그에 비하면 오늘날 예수님의 말씀은 제명 이상에는 미치지 못한다는 점에서 죄를 지은 당사자에 대한 다정함이 배어 있다고 볼 수 있습니다. 그렇게 생각한다면 이 예수님의 가르침은 당시 획기적인 계명으로 비쳤을 것입니다. 구약성경을 보면 두세 명의 증인에 의해 죄가 확정되었고, 그 죄의 무게에 따라서는 그 자리에서 돌팔매형을 선고 받았습니다. 그때 증인이 먼저 그에게 돌을 던지도록 했습니다. 신명기 17장 3~7절을 참조하시기 바랍니다.

3 가서 다른 신들을 섬겨 그것에게 절하며 내가 명령하지 아니한 일월성신에게 절한다 하자

4 그것이 네게 알려지므로 네가 듣거든 자세히 조사해 볼지니 만일 그 일과 말이 확실하여 이스라엘 중에 이런 가증한 일을 행함이 있으면

5 너는 그 악을 행한 남자나 여자를 네 성뭉느로 끌어내고 그 남자나 여자를 돌로 쳐죽이되

6 죽일 자를 두 사람이나 세 사람의 증언으로 죽일 것이요 한 사람의 증언으로는 죽이지 말 것이며

7 이런 자를 죽이기 위하여는 증인이 먼저 그에게 손을 댄 후에 뭇 백성이 손을 댈지니라 너는 이와 같이 하여 너희 중에서 악을 제할지니라

신명기 기사에 따르면 법원이 있던 마을 문에서 만일 사형 선고가 내려지면 먼저 증인이 죄인에 대해 돌을 던져야 했다고 합니다. 그러니까 증인은 사형 집행인이 될 각오를 하면서 전 생명을 걸고 증언을 해야 한다는 거죠. 그만한 각오로 증언이 이루어졌습니다. 그렇게 엄숙하게 이뤄진 재판 결과 판결이 유죄이고 중죄라면 그 자리에서 사형이 집행된 것입니다. 그러나 신약 시대에 예수님은 대법원인 교회로 넘어간 안건에서 만약 교회의 말을 듣지 않는다면 두세 명의 증인은 그에게 돌을 던질 것이 아니라 한마음으로 기도하라고 권하고 계십니다. 무슨 은혜일까요? 이것은 예수님 자신이 우리의 죄를 모두 짊어지고 십자가에 달리셨기 때문에 하실 수 있는 말씀입니다. 예수님이 하나님과 사람 사이의 대제사장이시기 때문에 하실 수 있는 말씀입니다. 마태복음 18장 19,20절을 참조하시기 바랍니다.

19 진실로 다시 너희에게 이르노니 너희 중의 두 사람이 땅에서 합심하여 무엇이든지 구하면 하늘에 계신 내 아버지께서 그들을 위하여 이루게 하시리라

20 두세 사람이 내 이름으로 모인 곳에는 나도 그들 중에 있느니라

여기서 두세 사람의 증인은 무엇을 구할까요? 마땅히 죄를 지은 사람이 회개하고 하나님 품에 돌아오기를 간구하는 것입니다. 그 간구 안에 예수님도 함께 해주시고 어떤 소원이든 들어주시고 이루어주십니다. 한동안 제명되어 이방인이나 세리과 동일하게 여겨지지만, 그 동안에도 공동체 안에서 계속 기도를 드리며 언젠가 길 잃은 양이 다시 돌아오는 그날까지 끈질기게 기도하는 것입니다. 방황하는 한 마리의 양을 찾아다니는 예수님의 심정을 가지고 한 영혼도 잃고 싶지 않다는 그 예수님의 심정을 가지고 기도하는 것입니다. 이것이야말로 형제를 얻기 위한 교회의 사랑의 사역이라고 할 수 있겠지요.

결론

예수 그리스도께서 십자가에 못박혀 우리의 모든 죄를 담당해주셨습니다. 우리는 회개하고 이 예수님을 신뢰할 때 믿음에 의해 구원을 받습니다. 만약 지금 죄를 짓고 있다면 하나님 앞에 고백하고 신속하게 하나님과 화해해야 합니다. 만약 충고해 준 사람과 화해한다면 그 충고해준 사람을 통해 하나님과 화해할 수 있을 것입니다. 두세 사람의 증인과 화해한다면 두세 명의 증인을 통해 하나님과 화해할 수 있을 것입니다. 그리고 교회와 화해한다면 교회를 통해 하늘에 계신 하나님과 화해할 수 있는 것입니다. 이렇게 해서 교회는 용서의 공동체가 되는 것입니다. 교회의 한 사람 한 사람은 하나님께 있어서 고귀한 존재이며 둘도 없는 존재입니다. 길 잃은 양 한 마리를 예수님은 끝까지 계속 찾으십니다. 그러므로 비록 죄를 지었더라도 비록 형제자매에게 상처를 입히고 사람들의 마음에 큰 상처를 주었더라도 설령 자신이 교회안에서 문제아로 낙인찍혀 버렸다 하더라도 예수님의 십자가를 붙들고 매달리고 회개한다면, 거기에 그리스도의 속죄의 피가 덮어 주시고 완전히 죄사하여 주시고 두려움에서 해방되어 평안 속으로 나아갈 수 있는 것입니다. 그리하여 교회는 용서의 공동체로서 사랑과 기쁨으로 가득 찬 거룩한 그리스도의 몸으로 걸어갈 수 있는 것입니다.

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