2022年06月26日「神の国の正義 하나님 나라의 공의」

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神の国の正義 하나님 나라의 공의

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 19章1節~21節

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聖句のアイコン聖書の言葉

19:1あなたの神、主が国々の民を絶やされ、あなたの神、主があなたにその土地を与えられ、あなたがそれを得て、彼らの町々、家々に住むようになったならば、
19:2あなたの神、主があなたに与えて得させられる土地のうちに三つの町を選び分けなさい。
19:3そして道のりを測り、あなたの神、主があなたに受け継がせられる領土を三つに分け、人を殺した者がだれでもそこに逃げられるようにしなさい。
19:4意図してでなく、積年の恨みによるのでもないのに、隣人を殺してしまった者が逃れて生き延びうるのは、次のような場合である。
19:5すなわち、隣人と柴刈りに森の中に入り、木を切ろうと斧を手にして振り上げたとき、柄から斧の頭が抜けてその隣人に当たり、死なせたような場合である。彼はこれらの町の一つに逃れて生き延びることができる。
19:6復讐する者が激昂して人を殺した者を追跡し、道のりが遠すぎるために、追いついて彼を打ち殺すことはあってはならない。その人は、積年の恨みによって殺したのではないから、殺される理由はない。
19:7わたしはそれゆえ、三つの町を選び分けるようにあなたに命じる。
19:8-9わたしが、今日、あなたに命じるこの戒めをすべて忠実に守って、あなたの神、主を愛し、生涯その道に従って歩むならば、あなたの神、主は、先祖に誓われたようにあなたの領土を広げ、先祖に与えると約束された土地をことごとくあなたに与えられる。そのときには、この三つの町のほかに、更に三つの町を加えなさい。
19:10あなたの神、主があなたの嗣業として与えられる土地に罪なき者の血が流され、その責任があなたに及ぶことがないようにするためである。
19:11しかし、もしある者が隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかって打ち殺し、これらの町の一つに逃れたならば、
19:12その犯人を出した町の長老たちは、人を遣わして彼を捕らえ、復讐する者の手に引き渡して殺させねばならない。
19:13彼に憐れみをかけてはならない。罪なき者の血を流した罪をイスラエルから除き去れば、あなたは幸いを得る。
19:14あなたの神、主があなたに与えて得させられる土地で、すなわちあなたが受け継ぐ嗣業の土地で、最初の人々が定めたあなたの隣人との地境を動かしてはならない。
19:15いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。
19:16不法な証人が立って、相手の不正を証言するときは、
19:17係争中の両者は主の前に出、そのとき任に就いている祭司と裁判人の前に出ねばならない。
19:18裁判人は詳しく調査し、もしその証人が偽証人であり、同胞に対して偽証したということになれば、
19:19彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。
19:20ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。
19:21あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 19章1節~21節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

私たちの命は、神さまからの賜物であり、決して自分勝手に扱ってはなりません。イスラエルの人々にとってカナンの土地が究極的には、神様からのものであったように、彼らの命も神のかたちとして、究極的には、もとをたどれば、神のものであると考えられていました。それは何よりも尊重されるべきもの、大切にされるべきものでありました。十戒の第6戒の「殺してはならない」という戒めも、意訳するなら「人を殺してはならない」となります。つまり第6戒は、殺生そのものを言っているのではなく「殺人」に限定されています。人の命が、そもそも神に由来しているからです。さらに、もし、この命が何らかの形で奪われるなら、それに対する償いは死であると創世記には書かれています。9:5-6(聖書協会共同訳)をご覧ください。

“また、私はあなたがたの命である血が流された場合、その血の償いを求める。あらゆる獣に償いを求める。人に、その兄弟に、命の償いを求める。人の血を流す者は/人によってその血を流される。/神は人を神のかたちに造られたからである。”

動物であれ、人間であれ、人の命である血を流すなら、命の償いが求められます。その償いとは、血を流したものの命が要求されるのであって、それは、動物であれ、人間であれ、区別されていないということが分かります。本来、動物は人間の支配に服さなければなりませんが、万が一、動物が人殺しをした場合、それは神のかたちへの冒涜だからです。そして、万が一、人が人殺しをした場合には、神のかたちへの冒涜であると同時に、「兄弟」愛のきずなを破る罪でもありました。

本日の個所では、この、「殺してはならない」「血の復讐」について、どのように扱われるべきかが書かれています。当時の人々には人殺しという結果だけに注目し、同態復讐法が常識でありました。同態復讐法とは「命には命、目には目、歯には歯」という考え方です。しかし、神様は人殺しが起こった時に、その結果ではなく、その動機に着目されます。人殺しが起こった時に、故意的な殺人なのか、或いは過失死なのかをきちんと見分けて、故意的殺人の場合には厳しく同態復讐法が適用されますが、過失死である場合には、逃れの町を準備し、これ以上、無実の人の血を流してはならないと教えています。そうすることにより、加害者に対し、怒りに任せた個人的な報復したり、憎しみを晴らすことを抑制することができるのです。憎しみを晴らすことができれば、気持ちいいかもしれませんが、神さまは罪と悪を憎まれ、人を殺してしまった本人を憎まれるのではないということが明らかにされています。このようにしてイスラエルにおいて真の意味で、神の正義が立てられるのです。

【1】. 逃れの町

さて、逃れの町はヨルダン川の東側とヨルダン川の西側にそれぞれ三つづつ選び分けられました。既にヨルダン川の西側には三つの町が立てられたと言うことが申命記4:43に書かれています。ベツェル、ラモト、バシャンのゴランという町です。この三つに加えて、ヨルダン川の西側には、どの町が逃れの町に指定されたかというと、申命記には書かれていませんが、ヨシュア記20章を見るなら、ケデシュとシケムとヘブロンが逃れの町として加えられたとあります。これらの町は道のりをきちんと測り、均等に配置し、意図せず人を殺した者が、誰でもそこに逃げられるようにしました。意図せず殺人を犯してしまったというのは、例えば、隣人と柴刈りに森の中に入り、木を切ろうと斧を手にして振り上げた時、柄から斧の頭が抜けて、その隣人に当たり、死なせたような場合です。そのような場合、復讐する者が追いかけて来ても大丈夫なように、逃れの町に逃げて生き延びることができるのです。19:6~7をご覧ください。

“復讐する者が激昂して人を殺した者を追跡し、道のりが遠すぎるために、追いついて彼を打ち殺すことはあってはならない。その人は、積年の恨みによって殺したのではないから、殺される理由はない。わたしはそれゆえ、三つの町を選び分けるようにあなたに命じる。”

6節と、それから12節にも「復讐する者」という言葉が出てきます。ヘブライ語聖書を直訳すると「血の復讐をする者」、「血を贖う者」と書かれています。「贖う」という言葉は、「買い戻す」という意味ですが、この言葉はルツ記にも何度か出てきた「ゴエル」という動詞です。ですから、血を贖う者とは、最も血のつながりが近い親近者であったと考えられています。また、なぜ、血の贖いをするのか、その理由について、民数記35:33を見ると説明されています。ご覧ください。

“あなたたちは、自分のいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血は、それを流した者の血によらなければ、贖うことができない。”

民数記には、「血が土地を汚す」という表現があります。これは血そのものが汚れているために、土地が汚されるという意味ではありません。罪によって流されてしまった血によって、土地が霊的に汚れることを意味します。土地が汚れると、そこに生きているイスラエルの民全員が汚れてしまう。悪い影響が及ぼされる。その霊的な汚れを贖うために、罪を犯した人の血が流されなければならない。そうしてこそ初めて、元の状態に戻すことができるという意味です。つまり、「血の贖い・血の復讐」とは、個人の復讐心を晴らすとか、怒りと任せて加害者に個人的に報復するという意味ではなく、共同体から罪と悪を取り除くことにポイントが置かれているということです。

【2】. 土地の収奪と偽証

続いて19:14節に移りますと、地境の標を動かしてはならないとあります。イスラエルにとって土地は主が与えて下さった贈り物です。地境を動かすことは、主が与えた贈り物を無効にする重大な犯罪であり、ひいては彼の生計の手段を脅かすことであり、命を奪うことと同じように、深刻な罪として考えられていたのでしょう。

15節以下には、十戒の第9戒にあたる「偽証をしてはならない」という戒めについて書かれています。偽証であることが、もしバレてしまったら、その人は、同胞に対し、たくらんだことを彼自身に報いられることになります。ちょうど、その解説としてふさわしい事件が、アハブ王とイズレエル人ナボトのぶどう畑をめぐって起こりました。

ソロモン王が死んで、イスラエルが南ユダと北イスラエルに分裂されてから、しばらく経った頃です。北イスラエルのアハブ王は、サマリアにあるアハブの宮殿のそばにある、ナボトの所有するぶどう畑を喉から手が出るほど欲しがりました。それでアハブ王は直接ナボトに対して打診しました。「金銭によってそのぶどう畑を王に譲ってはもらえないだろうか?私の家のすぐ隣にあるので野菜畑にしたいのだ。」現代の資本主義時代に生きている私たちの考えですと、王の直々のお願いですし、高いお金で見積もってくれるなら、喜んでこんな土地、お譲りいたしましょうとなると思うのですが、当時のイスラエルの民は、そのようには考えません。私たちが想像する以上に土地は大切なものでありました。土地はイスラエルの民に与えられた神からの贈り物であり、それによって生計を立て、子々孫々と受け継いでいくものだからです。

断られたアハブ王が落胆していると、そこに妻のイゼベルが悪知恵を働かせて近寄ってきました。ナボトについて偽証を立てるようにし、ナボトを石打ちの刑に処し、彼に相続人がいなかったため、彼の土地を王の所有地としてしまったのです。かわいそうにナボトが、一体どのように騙されて、どのように死んだのか、聖書を通して確認してみましょう。列王記上21:13をご覧ください。聖書を開ける方は旧約のp.571です。

“ならず者も二人来てナボトに向かって座った。ならず者たちは民の前でナボトに対して証言し、「ナボトは神と王とを呪った」と言った。人々は彼を町の外に引き出し、石で打ち殺した。”

イズレエル人ナボトが殺されると、すぐに預言者エリヤがアハブ王の下に遣わされ、神なる主の言葉を宣告しました。列王記上21:19です。

“彼に告げよ。『主はこう言われる。あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしようとするのか。』また彼に告げよ。『主はこう言われる。犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる。』」”

ナボトはアハブとイゼベルの偽証によって殺され、その偽証は裁判人によって公けにされることはありませんでした。しかし、聖書を読み進んでいけば分かりますが、神さまはアハブとイゼベルに対し、律法の通りの、偽証の報いと、血の贖いをさせるのです。偽証の報いとは何だったでしょう。アハブとイゼベルが偽証することによってたくらんだことを、そのまま本人に報いるということです。故意に殺人を犯した場合の血の贖いとは、必ず命を持って贖われるという事でした。最初にアハブについて見ていきましょう。三年後にアラムと北イスラエルの間に戦争が起きますが、この時アハブ王は彼の預言者たちから、この戦争に上るべきかどうか伺いを立てる訳です。「必ず上って行きなさい。主は王の手に敵を渡されるでしょう」と、偽りの預言を告げられました。アハブの預言者たちがわざと嘘を言っているのではなく、偽りの霊が天から送られたとあります(列王上22:22)。その時、唯一、「今回の戦争で敗北することになるでしょう」と預言した人物が一人いました。預言者ミカヤです。このミカヤの言葉が少し気になったのでしょうか、アハブは念のために変装して一兵士として出陣することにしました。ところが、戦場において、一人の兵士が何気なく放った矢が、アハブ王を射抜いたのです。列王記上22:34~38をご覧ください。

“ところが一人の兵が何気なく弓を引き、イスラエル王の鎧の胸当てと草摺りの間を射貫いた。王は御者に言った。「手綱を返して敵陣から脱出させてくれ。傷を負ってしまった。」その日、戦いがますます激しくなったため、王はアラム軍を前にして戦車の中で支えられていたが、夕方になって息絶えた。傷口から血が戦車の床に流れ出ていた。日の沈むころ、「おのおの自分の町、自分の国へ帰れ」という叫びが陣営の中を行き巡った。王は死んでサマリアに運ばれた。人々はこの王をサマリアに葬った。サマリアの池で戦車を洗うと、主が告げられた言葉のとおり、犬の群れが彼の血をなめ、遊女たちがそこで身を洗った。”

主が告げられた言葉通り、アハブ王は、偽りの言葉によってはめられて出陣し、サマリアに運ばれたその遺体は、犬の群れによって、血がなめられることになりました。ここにおいて私たちは、イズレエル人ナボトの死がアハブ王の上に、そのまま再現されていることを見て取ることができるのです。偽証の報いと、血の贖いがアハブ王の上に成就したのです。続いて、その妻イゼベルについて見ていきましょう。アハブ王が死んでから14年の歳月が流れました。その間にアハブ王の後継者として、アハブの息子たちが立てられましたが戦士したり、謀反によって暗殺されたりしました。イゼベルは、このイエフの謀反の時に、殺されます。王宮の窓から突き落とされ、地面に落ちた時、彼女の血は、壁や馬に跳ね返りました。後で、イエフが彼女の死骸を見に行くと、なんと、エリヤの語られた通りであったとイエフは証言しています。列王記下9:36b~37をご覧ください。

“これは主の言葉のとおりだ。主はその僕ティシュベ人エリヤによってこう言われた。『イゼベルの肉は、イズレエルの所有地で犬に食われ、イゼベルの遺体はイズレエルの所有地で畑の面にまかれた肥やしのようになり、これがイゼベルだとはだれも言えなくなる。』”

このようにして、たとえ不法な偽証をした者が、裁判人よって見抜かれることがなくても、天の裁判人である神様がご覧になられ、偽証をした者に報いを与え、血を流した者にその贖いをさせるのです。そのようにして、イスラエルの土地が霊的汚れを贖い、民に悪影響が及ぶことがないように回復してくださるのです。

【結論】

神さまは、咎のある者を決して無罪な者とされません。しかし、無実の者を罪に定めてはならないと命じられます。刑罰とは、個人的な復讐であったり、怒りや憎しみのはけ口ではなく、刑罰とは、神の聖なる御心に基づいた、善と悪に基づいているのです。ですから、当時、イスラエルの律法ほど、厳格に正義の要求を堅持する法律はなかったはずです。そして、そのような律法の教えの骨格が、現代の法律に引き継がれているのではないでしょうか。神様が律法を通して、このように正義をイスラエルにおいて実現されるその理由は、選びの民イスラエルが、必ず聖なる国民、王なる祭司の国にならなければいけないからです。神が全きお方であるように、イスラエルも全き者でなければならないからです。今日、私たち教会も、神の選びの民であります。勿論、その選びとは私たちが選ばれるに相応しい能力や力があったからではありません。一方的な神の憐れみと恵みに違いありませんが、それにも拘わらず教会は、人の命を尊重し、大切にするということにおいて、或いは悪に対してはあいまいな態度を取るのではなく、毅然として戦うことにおいて世の模範となるべきです。

最近は10年前とは異なり、世の中がもっと悪くなっていると感じます。例えばアメリカで銃による無差別殺人が起こったり、日本においても子どもたちは、親から守ってもらえず、性の商品化の犠牲となりさまよっています。命は尊重されず、軽く扱われているのです。このような社会に置かれている私たちが、聖なる国民、王なる祭司として何が出来るでしょうか。私たちの家庭に何も問題が起こっていないからと安心するのではなく、教会が、この時代と共に痛む心を持ち、神に祈って行くものとさせていただきましょう。神の聖なる御心に基づいた善と悪を打ち立てることは、私たちの力ではできませんが、教会が信仰によってキリストと共に歩むときに、神さまが成就してくださいます。そのことを願い、祈っていく者とさせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

하나님 나라의 공의

2022년 6월 26일 센겐다이교회 주일설교

신명기 19장 1~21절

서론

우리의 생명은 하나님이 주신 것이며 결코 제멋대로 다루어서는 안 됩니다. 이스라엘 사람들에게 가나안 땅이 궁극적으로 하나님의 것이었던 것처럼 그들의 생명도 하나님의 형상대로 지어진, 궁극적으로는 근본적인 근원을 따지면 하나님의 것으로 여겨졌습니다. 생명은 무엇보다도 존중 받아야 할 것, 소중히 여겨져야 할 것이었습니다. 십계명의 제 6계명인 「죽여서는 안 된다」라는 계명도 의역한다면 「사람을 죽여서는 안 된다」가 됩니다. 즉 제 6계명은 살생 그 자체를 말하는 것이 아니라 「살인」에 한정되어 있습니다. 사람의 생명이 원래 하나님으로부터 유래했기 때문입니다. 게다가 만약 이 생명이 어떤 식으로든 빼앗긴다면 그에 대한 댓가는 죽음이라고 창세기에 쓰여있습니다. 창세기 9장 5,6절을 보시죠.

5 내가 반드시 너희의 피 곧 너희의 생명의 피를 찾으리니 짐승이면 그 짐승에게서, 사람이나 사람의 형제면 그에게서 그의 생명을 찾으리라

6 다른 사람의 피를 흘리면 그 사람의 피도 흘릴 것이니 이는 하나님이 자기 형상대로 사람을 지으셨음이니라

동물이든 인간이든 사람의 생명인 피를 흘린다면 목숨으로 속죄 해야합니다. 그 속죄는 피를 흘린 자의 생명이 요구되는 것으로 그것은 동물이든 인간이든 구별되지 않는다는 것을 알 수 있습니다. 본래 동물은 인간의 지배에 복종해야 하는데 만일 동물이 살인을 했을 경우 그것은 하나님의 형상에 대한 모독이기 때문입니다. 그리고 만일 사람이 살인을 했을 경우에는 하나님의 형상에 대한 모독이자 「형제」 사랑의 연결을 깨는 죄이기도 했습니다.

오늘의 구절에서는 이 「죽여서는 안 된다」 「피의 보복」에 대해서 어떻게 다뤄져야 하는지가 적혀 있습니다. 당시의 사람들은 살인이라는 결과에만 주목해서 동태복수법이 상식이었습니다. 동태복수법이란 「생명에는 생명, 눈에는 눈, 이에는 이」라는 사고방식입니다. 그러나 하나님은 살인이 일어났을 때 그 결과가 아니라 그 동기에 주목하십니다. 살인이 일어났을 때 고의적인 살인인지 혹은 과실사인지를 제대로 가려 고의적 살인의 경우에는 엄격하게 동태복수법이 적용되지만 과실사일 경우에는 도피성을 준비해서 이 이상 무고한 사람의 피를 흘리지 말아야 한다고 가르치고 있습니다. 그래야 가해자에 대한 복수심에 불타 개인적인 보복을 하거나 분풀이 하는 것을 억제할 수 있습니다. 분풀이를 하면 기분은 좋을 수 있지만 하나님은 죄와 악을 미워하시고 사람을 죽여버린 장본인을 미워하시는 것이 아니라는 것이 밝혀져 있습니다. 이렇게 이스라엘에서 진정한 의미로 하나님의 공의가 세워지는 것입니다.

(1) 도피성

자, 도피할 마을은 요단 강 동쪽과 요단 강 서쪽으로 각가 세 개씩 선택되었습니다. 이미 요단 강 서쪽에는 세개의 마을이 세워졌다다는 것이 신명기 4장 43절에 적혀 있습니다. 베셀, 길르앗 라못, 바산 골란이라는 마을입니다. 이 세 가지 외에 요단 강 서쪽에는 어느 마을이 도피성으로 선택되었는지는 신명기에는 적혀 있지 않지만 여호수아서 20장을 보면 게데스와 세겜과 헤브론이 도피성으로 추가되었다고 합니다. 이들 마을은 길을 제대로 재고 균등하게 배치하고 의도치 않게 사람을 죽인 자가 누구나 그곳으로 도망칠 수 있도록 했습니다. 의도치 않은 살인을 저질렀다는 것은 예를 들어 이웃과 나무를 베러 숲속으로 들어가 나무를 베려고 도끼를 들어올렸을 때 도끼 자루에서 도끼 머리가 빠져 그 이웃을 맞아 죽게 한 것과 같은 경우입니다. 그럴 경우 복수하는 자가 쫓아와도 도움을 받을 수 있는 도피성으로 도망쳐 살아남을 수 있는 것입니다. 19장 6,7절을 참조하세요.

6 그 사람이 그에게 본래 원한이 없으니 죽이기에 합당하지 아니하나 두렵건대 그 피를 보복하는 자의 마음이 복수심에 불타서 살인자를 뒤쫓는데 그 가는 길이 멀면 그를 따라 잡아 죽일까 하노라

7 그러므로 내가 네게 명령하기를 세 성읍을 너를 위하여 구별하라 하노라

6절과 그리고 12절에도 「보복하는 자」라는 말이 나옵니다. 히브리어 성경을 직역하면 「피의 복수를 하는 자」 「피를 속죄하는 자」라고 적혀 있습니다. 「속죄」라고 하는 단어는 「사서 되돌리다」라는 뜻인데 이 말은 룻기에도 여러 번 나왔던 「고엘」이라는 동사입니다. 그래서 피를 속죄하는 자라는 것은 무엇보다 피의 혈연관계가 가까운 혈족이었다고 생각됩니다. 또 왜 피를 속죄해야 하는지 그 이유에 관해서 민수기 35장 33절을 보면 설명되어 있습니다. 살펴 보시죠.

너희는 너희가 거주하는 땅을 더럽히지 말라 피는 땅을 더럽히나니 피 흘림을 받은 땅은 그 피를 흘리게 한 자의 피가 아니면 속함을 받을 수 없느니라

민수기에는 「피는 땅을 더럽힌다」라는 표현이 있습니다. 이것은 피 자체가 더럽혀져 있기 때문에 땅이 더럽혀진다는 것을 의미하지 않습니다. 죄에 의해 흘려져버린 피에 의해 땅이 영적으로 더러워지는 것을 의미합니다. “땅이 더러워지면 그곳에 살고 있는 이스라엘 백성 모두가 더러워진다, 나쁜 영향이 미친다, 그 영적인 더러움을 속죄하기 위해 죄를 지은 사람의 피가 흘려지지 않으면 안 된다, 그래야 원래 상태로 되돌릴 수 있다”는 뜻입니다. 즉 「피의 속죄・피의 보복」이란 개인의 복수심을 풀어준다거나 분노에 맡겨 가해자에게 개인적인 보복을 한다는 의미가 아니라 공동체에서 죄와 악을 제거하는 데 포인트가 놓여져 있다는 것입니다.

(2) 토지의 수탈과 증여

이어서 19장 14절로 넘어가면 이웃의 경계표를 움지여서는 안 된다고 합니다. 이스라엘에게 있어서 땅은 하나님께서 주신 선물입니다. 경계표를 움직인다는 것은 주께서 주신 선물을 무효화하는 중대한 범죄이며 나아가 그의 생계수단을 위협하는 것이며 목숨을 빼앗는 것과 마찬가지로 심각한 죄로 여겨졌을 것입니다.

15절 이하에는 십계명의 제 9계명에 해당하는 「위증을 해서는 안 된다」라는 계명이 적혀 있습니다. 위증이라는 것이 만약 들킨다면, 그 사람은 동포에 대해서 꾀한 것을 그 자신이 그대로 받을 수 있습니다. 마침 그 해설로서 어울리는 사건이 아합 왕과 이스르엘 사람 나봇의 포도밭을 둘러싸고 일어났습니다.

솔로몬 왕이 죽고, 이스라엘이 남유다와 북이스라엘로 분열되고 난지 한참 지났을 무렵입니다. 북이스라엘의 아합 왕은 사마리아에 있는 아합의 공전 옆에 있는 나봇이 소유한 포도밭을 목구멍에서 손이 나올 정도로 탐냈습니다. 그래서 아합 왕은 직접 나봇에게 타진(남의 마음이나 사정을 미리 살펴보다) 했습니다. “돈을 주고 값을 치르겠으니 그 포도밭은 내게 팔면 어떤가? 내 궁전 바로 옆에 있으니 채소밭으로 만들고 싶다”현대 자본주의 시대에 살로 있는 우리의 생각으로는 왕의 직접적인 부탁이고, 비싼 돈으로 사 준다면 기꺼이 팔고자 하겠지만 당시 이스라엘 백성들은 그렇게 생각하지 않았습니다. 우리가 상상하는 것 이상으로 땅은 소중한 것이었습니다. 땅은 이스라엘 백성들에게 주어진 하나님의 선물이고 그로 인해 생계를 유지하며 대대로 자손에게 물려주는 것이었기 때문입니다.

거절당한 아합 왕이 낙담하고 있는데 그곳에 아내 이세벨이 교활한 꾀를 가지고 접근해 왔습니다. 나봇에 대해 위증을 세우도록 하고 나봇을 돌팔매형에 처했고 그에게 상속인이 없었기 때문에 그의 땅을 왕의 소유지로 만들어 버린 것입니다. 불쌍하게도 나봇이 도대체 어떻게 속고 어떻게 죽임을 당했는지 성경을 통해 확인해 봅시다. 열왕기상 21장 13절을 참조 하시기 바랍니다.

때에 불량자 두 사람이 들어와 그의 앞에 앉고 백성 앞에서 나봇에게 대하여 증언을 하여 이르기를 나봇이 하나님과 왕을 저주하였다 하매 무리가 그를 성읍 밖으로 끌고 나가서 돌로 쳐죽이고

이스르엘 사람 나봇이 살해당하자 곧 선지자 엘리야가 아합 왕에게 보내져 하나님의 말씀을 선고했습니다. 열왕기상 21장 19절입니다. 보시죠.

너는 그에게 말하여 이르기를 여호와의 말씀이 네가 죽이고 또 빼앗았느냐고 하셨다 하고 또 그에게 이르기를 여호와의 말씀이 개들이 나봇의 피를 핥은 곳에서 개들이 네 피 곧 네 몸의 피도 핥으리라 하였다 하라

나봇은 아합과 이세벨의 위증에 의해 살해되었고 그 위증은 재판인에 의해 공개되지 않았습니다. 그러나 성경을 읽어나가면 알겠지만 하나님은 아합과 이세벨에게 율법대로 위증에 대한 댓가와 피의 속죄를 하게 하십니다. 위증의 댓가란 무엇이었을까요? 아합과 이세벨이 위증함으로써 꾸민 일을 그대로 본인들에게 보답하시겠다는 것입니다. 고의로 살인을 저질렀을 경우 피의 속죄란 반드시 목숨을 걸고 속죄해야 한다는 것입니다. 먼저 아합 왕에 대해 알아보겠습니다. 3년 후에 아람과 북이스라엘 사이에 전쟁이 일어나는데, 이때 아합 왕은 그의 선지자들로부터 이 전쟁에 나가야 하는지에 대한 질문을 하게 됩니다. 선지자들은“반드시 나가야 합니다. 주께서 왕의 손에 적을 넘겨주실 것입니다”라고 거짓 예언을 하게 됩니다. 아합 왕의 선지자들이 일부러 거짓말을 하는 것이 아니라 거짓 영혼이 하늘에서 보내졌다고 합니다(열왕기상 22장 22절). 그때 유일하게 “이번 전쟁에서 패배하게 될 것입니다”라고 예언한 인물이 한 명 있었습니다. 예언자 미가야입니다. 이 미가야의 말이 조금 마음에 걸렸던 것일까요? 아합은 만약을 위해서 변장을 하고 한 병사로 출전하기로 했습니다. 그런데 전쟁터에서 한 병사가 무심코 쏜 화살이 아합 왕을 쏘아 맞춘것입니다. 열왕기상 22장 34~38절을 읽어보시겠습니다.

34 한 사람이 무심코 활을 당겨 이스라엘 왕의 갑옷 솔기를 맞힌지라 왕이 그 병거 모는 자에게 이르되 내가 부상하였으니 네 손을 돌려 내가 전쟁터에서 나가게 하라 하였으니

35 이 날에 전쟁이 맹렬하였으므로 왕이 병거 가운데에 붙들려 서서 아람 사람을 막다가 저녁에 이르러 죽었는데 상처의 피가 흘러 병거 바닥에 고였더라

36 해가 질 녘에 진중에서 외치는 소리가 있어 이르되 각기 성읍으로 또는 각기 본향으로 가라 하더라

37 왕이 이미 죽으매 그의 시체를 매어 사마리아에 이르러 왕을 사마리아에 장사하니라

38 그 병거를 사마리아 못에서 씻으매 개들이 그의 피를 핥았으니 여호와께서 하신 말씀과 같이 되었더라 거기는 창기들이 목욕하는 곳이었더라

주께서 말씀하신 대로 아합 왕은 거짓된 말에 꾀여 출전했고 사마리아로 운구된 그의 시신에서 나온 피를 개떼가 핥았습니다. 여기서 우리는 이스르엘 사람 나봇의 죽음이 아합 왕 위에 그대로 재현되어 있음을 알 수 있습니다. 위증에 대한 댓가와 피의 속죄가 아합 왕 위에 성취된 것입니다. 이어서 그 아내 이세벨에 대해서 알아보겠습니다. 아합 왕이 죽은지 14년의 세월이 흘렀습니다. 그 사이 아합 왕의 후계자로 아합의 아들들이 세워졌지만 전사하거나 모반에 의해 암살당했습니다. 이세벨은 예후의 모반 때 죽임을 당합니다. 왕궁 창문에서 밀려 땅에 떨어졌을 때 그녀의 피는 벽과 말에 튀었습니다. 나중에 예후가 그녀의 시체를 보러 가니 놀랍게도 엘리야가 말한 대로였다고 예후는 증언하고 있습니다. 열왕기하 9장 36b,37절을 참조하세요.

36b 이는 여호와께서 그 종 디셉 사람 엘리야를 통하여 말씀하신 바라 이르시기를 이스르엘 토지에서 개들이 이세벨의 살을 먹을지라

37 그 시체가 이스르엘 토지에서 거름같이 밭에 있으리니 이것이 이세벨이라고 가리켜 말하지 못하게 되리라 하셨느니라 하였더라

이렇게 하여 비록 불법 위증을 한 자가 재판관에 의해 간파되지 않더라하더라도 하늘의 재판인이신 하나님께서 보시고 위증을 한 자에게 댓가를 치르게 하시고 피를 흘린 자에게 그 속죄를 하게 하는 것입니다. 그렇게 이스라엘 땅이 영적 오염을 속죄하고 백성들에게 악영향이 미치지 않도록 회복시켜 주시는 것입니다.

결론

하나님은 죄가 있는 자를 결코 무죄로 간주하지 않습니다. 그러나 무고한 자를 죄로 정죄해서는 안된다고 명령하십니다. 형벌이라는 것은 개인적인 보복이거나 분노나 증오의 수단이 아니며 형벌이란 하나님의 거룩한 마음에 기초한 선과 악에 기초한 것입니다. 그래서 당시 이스라엘 율법만큼 엄격하게 공의의 요구를 굳게 지지하는 법률은 없었을 것입니다. 그리고 그런 율법의 가르침의 골격이 현대의 법에 계승되고 있는 것은 아닐까요? 하나님께서 율법을 통해 이처럼 공의를 이스라엘에서 실현하시는 이유는 선택한 백성 이스라엘이 반드시 거룩한 백성, 거룩한 제사장의 나라가 되어야 하기 때문입니다. 하나님이 완전하신 것처럼 이스라엘도 완전하지 않으면 안되기 때문입니다. 오늘날 우리 교회도 하나님이 택하신 백성입니다. 물론 그 선택하심이란 우리가 선택받기에 합당한 재능이나 힘이 있기 때문이 아닙니다. 일방적인 하나님의 은혜임에는 틀림이 없습니다만 그럼에도 불구하고 교회는 사람의 생명을 존중하고 귀중히 여김을 통해 또는 악에 대해서는 애매한 태도를 취할 것이 아니라 의연하게 싸우는 데 있어서 세상의 모범이 되어야 합니다.

요즘은 10년 전과는 달리 세상이 더 악해지고 있다고 느낍니다. 예를들면 아메리카에서 총에 의한 무차별 살인이 일어나든가 일본에 있어서도 어린이들은 부모로부터 보호받지 못하고 성의 상품화의 희생양이 되고 있습니다. 생명은 존중받지 못하고 경시되어 가볍게 취급되고 있는 것입니다. 이런 사회에 살고 있는 우리가 거룩한 백성, 왕같은 제사장으로서 무엇을 할 수 있을까요? 우리 가정에는 아무 문제가 없다고 안심할 것이 아니라 교회가 이 시대와 함께 아픈 마음을 가지고 하나님께 기도해 가도록 합시다. 하나님의 거룩한 마음을 바탕으로 한 선과 악을 바르게 세우는 일은 우리 힘으로는 할 수 없지만 교회가 믿음으로 그리스도와 함께 걸을 때 하나님께서 성취해 주십니다. 그러기를 바라며 기도하며 나아가는 자가 되도록 합시다.

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