2022年06月19日「祭司と預言者 제사장과 선지자」

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祭司と預言者 제사장과 선지자

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 18章1節~22節

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聖句のアイコン聖書の言葉

18:1レビ人である祭司、レビ族のすべての者には、イスラエル人と同じ嗣業の割り当てがない。彼らは、燃やして主にささげる献げ物を自分の嗣業の分として食べることができる。
18:2同胞の中で彼には嗣業の土地がない。主の言われたとおり、主が彼の嗣業である。
18:3祭司が民から、牛にせよ羊にせよ、それをいけにえとしてささげる者から受け取る分は次のとおりである。肩と両頬と胃の部分は祭司に与えられる。
18:4穀物、ぶどう酒、オリーブ油の初物および羊の毛の初物も祭司に与えられる。
18:5あなたの神、主が全部族の中から彼を選び、彼とその子らを永久に主の名によって仕える者とされたからである。
18:6レビ人は、現在寄留しているイスラエル中のどの町からでも、望むがままに主の選ばれる場所に移り、
18:7主の御前に立つ者となっている自分の兄弟である他のレビ人と同じように、その神、主の名によって仕えることができる。
18:8彼は先祖の財産を売って得たものを別として、他のレビ人と同じ分を食べることができる。
18:9あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入ったならば、その国々のいとうべき習慣を見習ってはならない。
18:10あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、
18:11呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。
18:12これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。
18:13あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない。
18:14あなたが追い払おうとしているこれらの国々の民は、卜者や占い師に尋ねるが、あなたの神、主はあなたがそうすることをお許しにならない。
18:15あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。
18:16このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」とあなたの神、主に求めたことによっている。
18:17主はそのときわたしに言われた。「彼らの言うことはもっともである。
18:18わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。
18:19彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。
18:20ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。」
18:21あなたは心の中で、「どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか」と言うであろう。
18:22その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 18章1節~22節

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【序】

 私たちは申命記の御言葉に耳を傾けています。17章では、私たちの常識を覆すような「従順な王」について語られていました。そこで語られた姿は人々の上に君臨する王ではなく、あたかもロバの子に乗って来られるような、人々に仕えられる柔和な王の姿でありました。本日の個所では、イスラエルの民に仕える祭司と預言者について書かれています。神がイスラエルに指導者として王と、そして祭司と、そして預言者を与えられるのは、イスラエルという国が、祭司の王国、聖なる国民(出19:6)であるからです。そして、イスラエルという国が、義と平和と喜びの国であるからです(ロマ14:17)。本日は神の民に仕える祭司と預言者について聖書の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。

【1】. レビ人である祭司

 まず、祭司について見てまいりましょう。レビ人である祭司は、他の部族と異なり「嗣業の割り当て地がない」とあります。その代わりに、主ヤハウェが彼の嗣業であると書かれています。レビ人の祭司は、自ら生活の糧を得るための手段を持たず、肉や、穀物、オリーブ油、羊毛など、主への献げ物の一部をもらうことによって生計が守られました。衣食は守られても、住の方はどうだったのかと言いますと、レビ人は、約束の地のあちこちにある6つの「逃れの町」という場所に、主に集まって生活してようです。レビ人と祭司たちの仕事は、第一に神の律法を保管することが挙げられます。前のページの17章18節を見ると、王は「レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り」とありました。つまり、彼らは律法を教えること、そしてイスラエルの民に対し礼拝を司る仕事をしていました。また、戦争の時には契約の箱を担ぐ任務も担いました。後になり、ダビデ・ソロモンの時代になると、契約の箱をエルサレムに運び入れたのも祭司とレビ人でありました。また、神殿の聖歌隊は、アサフ族というやはりレビ族の子孫が聖歌隊を担うようになりました。18:3~4節をご覧ください。ここでは、祭司の受け取る分について書かれています。

“祭司が民から、牛にせよ羊にせよ、それをいけにえとしてささげる者から受け取る分は次のとおりである。肩と両頬と胃の部分は祭司に与えられる。穀物、ぶどう酒、オリーブ油の初物および羊の毛の初物も祭司に与えられる。”

4節の「初物」という言葉に注目してください。民は、なぜ、初物を祭司に捧げなければならないのでしょうか。これは、皆様が礼拝の中で神様に献金を献げる時にも、おそらくこの初物を捧げるような気持ちで捧げているのだと思います。例えば、その気持ちは、きれいなピン札でもって献金を捧げることによって、現れたりいたします。つまり、祭司に初物を捧げるということは、神さまに献金を捧げるかのように、祭司の受け取る分を、何よりも第一に、優先にしなければならないということです。何かのついでで捧げたり、或いは、捧げたのか捧げていないのか分からない、これではダメだというのです。そこに心を込めながら、うっかり忘れたりすることがないようにしましょう、それがこの、初物という言葉に込められているのだと思います。

従って、イスラエルの民にとって喜びとは、彼らの捧げ物によって、レビ人の生活が無事に守られて、神さまにきちんと礼拝が捧げられた時に、何よりも喜びが与えられたのではないかと思います。自ら生活の糧を得るための手段を持たないレビ人を、他の部族が、神への献げ物を通して、彼らを支え、養っていくのです。

一方、レビ人においても、民が神さまに礼拝を捧げられるように導くことが出来た時に、何よりも喜びが与えられるのだと思います。そのように祭司とイスラエルの民は、持ちつ持たれつの関係の中で、互いに助け合い、神の民として、神への礼拝を重んじつつ、歩んでいくのであります。ここから教えられることは、神礼拝とは、レビ人だけが守っているのではなく、民全員で整え、民全員で支え、守っていくべきものだ、ということではないでしょうか。せんげん台教会で語られている礼拝説教も、これは説教者が一人で語っている説教ではなく、皆様のとりなしの祈りによって紡がれていくものだと思います。牧師が語っている説教であっても、教会員、皆で紡ぎあげた説教であるということです。続いて5節をご覧ください。

“あなたの神、主が全部族の中から彼を選び、彼とその子らを永久に主の名によって仕える者とされたからである。”

祭司の職分は、世襲制度によって受け継がれていきました。なぜこの部族が特に、礼拝奉仕の職務のために選ばれたのか、その理由は分かりません。因みにモーセもアロンもレビ族です。族長時代のレビを見るなら、彼は人一倍、血の気が多く、剣をすぐに抜いてしまう危険人物であったようです。創世記49:5~7には、父ヤコブのレビに対する遺言が語られています。ご覧ください。

“シメオンとレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具。わたしの魂よ、彼らの謀議に加わるな。わたしの心よ、彼らの仲間に連なるな。彼らは怒りのままに人を殺し/思うがままに雄牛の足の筋を切った。呪われよ、彼らの怒りは激しく/憤りは甚だしいゆえに。わたしは彼らをヤコブの間に分け/イスラエルの間に散らす。”

この、ヤコブの呪いのような遺言の言葉通りに、レビ部族は嗣業の地が与えられず、イスラエルの間に散らされたのでありますが、この最も罪深いレビ族が、神の民に仕える者として、選ばれたという事です。そういった意味では、モーセがイスラエルの仲保者として選ばれたこと、サウルとダビデがイスラエルの王として選ばれたこと、預言者がその都度、神によって選ばれたことと何ら変わりありません。彼らが何か有能で秀でていたから、その部族が優れていたから、神の民の上に君臨するように選ばれたのではなく、その選びとは、神の民に仕えるため、神の民にへりくだるために選ばれたということです。

【2】. ヤハウェの言葉を授けられた預言者

 次に預言者について見ていきましょう。今も昔も占い師は多く存在しました。先々のことについて、或いは人生の岐路に立たされた時などに、占いによって意思決定する人がいたに違いありません。一国の王であれば、今、戦争に出て行くべくか、行かないべきか、占いによって意思決定したこともあったことでしょう。しかし、イスラエルの民が約束の地に入ったなら、このような土着の忌むべき習慣に見習ってはならないと厳しく禁じられています。

10節の「自分の息子、娘に火の中を通らせる者」とありますが、これは申命記12章にも出てまいりました。子どもを火の中に通らせたようです。10節の「占い師」とは、犠牲の供え物の肝臓を観察して占ったりしていたようです。「卜者」、「易者」、「呪術師」とは、はっきり分かりませんが、薬草や麻薬などを用いて、悪魔の力を借りる魔術を行っていたようです。或いは水の入った杯に油を数滴たらして、その模様を伺う「油占い」などもしたと考えられています。11節の「呪文を唱える者」、「口寄せ」、「霊媒」、「死者に伺いを立てる者」とは、オカルト的な降霊術と関係があるようです。主の御声に聞き従うことのできなかったサウル王は、エン・ドルの口寄せの女のところへ行き、この口寄せ女の声に聴き従ってしまいました。何を隠そう、私も救われる前は、おみくじを引いたり、姓名判断や、占いに大変興味を持っていました。ある時は、自分の手相を見ながら、もう少し「生命線」が長ければよかったのに、思っていた時もありました。しかし、イエス様を信じてから、そのような考え方から少しずつ解放されたことを覚えています。人は誰でも、唯物論的な考えでは満足することができず、霊的な世界へ関心を抱くようになるのだと思います。それは尤もなことであって、聖書も、創世記1:1の「初めに、神は天地を創造された」という御言葉にあるように、神は目で見える世界と、目には見えない霊的な世界を創造されたと語っています。しかし、この霊的な世界に対し、カナンの人々のような習慣を真似てアプローチするのではなく、むしろ主の立てられた預言者の声に聴き従いなさいとモーセは言うのです。神は預言者に、ご自身の言葉を授けて下さるからです。13~15節と18節をご覧ください。

“あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない。あなたが追い払おうとしているこれらの国々の民は、卜者や占い師に尋ねるが、あなたの神、主はあなたがそうすることをお許しにならない。あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。”

引き続いて18節です。

“わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。”

このように、イスラエルの民において、占い、偶像の神や悪霊との交わりが厳しく禁じられていました。客観的に見ても、このような占いに従事する人は、やがて健康が損なわれ、悲惨な運命の末路を迎えることになると言えるのではないでしょうか。18:13節にはイスラエルの民に対し「全き者でなければならない」とあります。英語の聖書(KJV)では、「パーフェクト」という言葉で翻訳されています。「私たちがどのようにして全き者(パーフェクト)になれると言うのか!」と思われるかも知れませんが、この言葉の前に「主と共にあって」という言葉が付け足されています。主が共におられるから、主の言葉が私たちの人生を支えてくださるから、私たちは罪深い者でありながら、「全き者」「傷のない者」「聖別された者」とされるのです。

もう一つ興味深い点は、神の御言葉に与る預言者は、レビ人の祭司のように世襲ではありませんでした。主が直接立ててくださり、神様ご自身の言葉を授けて下さるのです。この言葉に信頼して聞き従うなら、神の民として幸いの内に、平安に歩むことが出来るのです。しかし、その際に、次のような疑問ももしかしたら出て来るかもしれません。「預言者が勝手に自分の願望を、主ヤハウェの名によって語ったらどうしたら良いのか?そして、どうやって我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知り得るのか?」という疑問です。この場合、22節にあるように、預言者が主の御言葉を語るなら、必ずその語られた事柄がその通りに実現されること、しかし預言者が自分勝手に語るなら、その言葉は成就されないという事です。モーセの時代のその後に出て来た、預言者サムエルが、当時イスラエルの民からどのように見られていたのかを調べてみましょう。サムエル記上3:19-20をご覧ください。

“サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルのすべての人々は、サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた。”

ここでは、主がサムエルと共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかったとあります。また、サムエル記上9:6をご覧ください。

“若者は答えた。「ちょうどこの町に神の人がおられます。尊敬されている人で、その方のおっしゃることは、何でもそのとおりになります。その方を訪ねてみましょう。恐らくわたしたちの進むべき道について、何か告げてくださるでしょう。」”

ここでも、サムエルは神の人であり、その方のおっしゃることは、何でもその通りになると考えられていました。このようにイスラエルの民には、モーセのような神の言葉を授かった預言者が与えられ、民は預言者の言葉に絶対的に信頼し、そして神を礼拝する生活へと導かれるのです。

【結論】

 以上、見てまいりましたように、イスラエルの民の為に、神様はレビ人の祭司を立ててくださり、神さまにきちんと礼拝を捧げられるようにしてくださいました。また、神ご自身によって立てられた預言者を通して、神の御言葉が授けられ、神の啓示が与えられたのです。この祭司の働きと、預言者の働きは、契約の民イスラエルに、謙遜に仕えるという働きでありますが、このような職分が与えられた理由は、神の民イスラエルが、祭司の王国、聖なる国民であるからです。契約の民イスラエルに仕える者として、神様は王と祭司と預言者を遣わしてくださるのです。この王と祭司と預言者の働きですが、この働きがそのまま、イエス・キリストの働きにオーバーラップしているという事に、私たちは気づかされます。

なぜなら、イエス様こそ真の大祭司として、神の民のために、十字架を通して完全な献げ物を神に献げてくださり、そして、神と人間の仲保者としての働きを全うされたからです。三日目に復活された後も、天に昇られ、今もなお、父なる神の右において私たちのために執り成しの祈りを捧げてくださっているからです。また、イエス様こそ真の預言者であられます。イエス様は旧約聖書の啓示の頂点であり、神の言葉そのものとして働かれ、今でも聖書を通して、私たちに直接語ってくださるからです。イエス様の語られた言葉は一つたりとも地に落ちることはありません。

啓示が完成した今日においては、旧約時代のような、神に生贄の犠牲を捧げる祭司はいなければ、新しい神の啓示を語る預言者もいません。犠牲祭事と啓示は、イエス・キリストにおいて完全にされました。これ以上は与えられません。完結された啓示は、聖書という書物にまとめられ、今日、聖書の言葉が聖霊を通して私たちに語り掛けてくださるのです。ですから、ユーチューブなどでやっているように、新しい啓示をいただいたとか、現代の預言者として神の啓示を授かったなどと言って、多くの預言者が紹介されていますが、そういったものを信じてはなりません。私たちは、与えられている聖書を大切にしながら、聖書を通して神の御言葉に耳を傾けていくのです。また、神の国の拡がりの為に、皆さまお一人お一人が、この世に遣わされているということを考えるなら、まさに皆さまお一人お一人が、この世に仕える王であり、祭司であり、預言者であるということが出来るでしょう。もし、まだ家族が救われていなければ、皆さまが、神さまから遣わされた祭司として、日々家族のために執り成し、家庭に神の主権が回復されるように祈ってまいりましょう。或いは、神さまから遣わされた預言者として、キリストの福音を語り、キリストにある赦しを宣言していく者とならせていただきましょう。

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제사장과 선지자

2022년 6월 19일 센겐다이교회 주일설교

신명기 18장 1~22절

서론

우리들은 신명기의 말씀을 귀를 기울이고 있습니다. 17장에서는 우리들의 상식을 뒤업는 「순종의 왕」에 대해서 쓰여져 있었습니다. 거기서 이야기된 모습은 사람들 위에 군림하는 왕이 아니고 마치 당나귀 새끼를 타고 오시는 것처럼 사람들을 섬기는 온화한 왕의 모습이었습니다. 오늘의 구절에서는 이스라엘 백성을 섬기는 제사장과 선지자에 대해 쓰여져 있습니다. 하나님이 이스라엘에게 지도자로서 왕과 그리고 제사장과 선지자를 주시는 것은 이스라엘이라는 나라가 제사장 나라 거룩한 백성(출애굽기 19장 6절)이기 때문입니다. 그리고 이스라엘이라고 하는 나라가 의와 평강과 희락의 나라이기 때문입니다(로마서 14장 17절). 오늘은 하나님의 백성을 섬기는 제사장과 선지자에 대한 성경 말씀을 듣고자 합니다.

(1) 레위인 제사장

먼저 제사장에 대해 알아보겠습니다. 레위인인 제사장은 다른 부족들과 달리 「기업이 없다」라고 되어 있습니다. 그대신 주 야훼가 그들의 기업이라고 쓰여져 있습니다. 레위인의 제사장은 스스로 생활의 양식을 얻기 위한 수단 없이 고기와 곡물, 올리브유, 양모 등 주로 바치는 제물의 일부를 받음으로써 생계가 지켜졌습니다. 의식은 지켜지더라도 거주지는 어땠냐면 레위인들은 약속된 땅 곳곳에 있는 6개의 「도피성」이라고 하는 장소에 주로 모여 생활했던 것 같습니다. 레위인과 제사장들의 일은 첫째로 하나님의 율법을 보관하는 것을 들 수 있습니다. 앞 페이지의 17장 18절을 보면 왕은 「왕위에 오르거든 이 율법서의 등사본을 레위 사람 제사장 앞에서 책에 기록하여」라고 쓰여 있습니다. 즉 그들은 율법을 가르치는 일, 그리고 이스라엘 백성들에게 예배를 주관하는 일을 하고 있었습니다. 또한 전쟁 때는 언약궤를 매는 임무도 맡았습니다. 나중에 다윗・솔로몬 시대가 되자 언약 상자를 예루살렘으로 운반한 것도 제사장과 레위인이었습니다. 또한 신전 성가대는 역시 고핫족속이라는 레위인의 후손들이 성가대를 맡았습니다. 18장 3,4절을 참조하세요. 여기에서는 제사장이 받을 몫에 대해 쓰여져 있습니다.

3 제사장이 백성에게서 받을 몫은 이러하니 곧 그 드리는 제물의 소나 양이나 그 앞다리와 두 볼과 위라 이것을 제사장에게 줄 것이요

4 또 네가 처음 거둔 곡식과 포도주와 기름과 네가 처음 깍은 양털을 네가 그에게 줄 것이니

4절의 「처음」이라고 하는 말에 주목하세요. 백성들은 왜 처음 것을 제사장에게 바쳐야 할까요? 이것은 여러분이 예배 중에 하나님께 헌금을 드릴 때도 아마 처음 것을 드리는 것과 같은 마음으로 드린다고 생각합니다. 예를 들면, 그 마음은 빳빳하고 깨끗한 지폐로 헌금을 바침으로 나타나기도 합니다. 즉 제사장에게 처음 것을 바친다는 것은 하나님께 헌금을 바치듯 제사장이 받는 몫을 무엇보다 우선으로 해야 한다는 것입니다. 뭔가를 바치는 김에 바치거나 아니면 바쳤는지 안 바쳤는지 모르겠다. 이러면 안된다는 것이죠. 거기에 마음을 담으면서 깜빡 잊거나 하는 일이 없도록 합시다. 그것이 바로 「처음 거둔 곡식」과 「처음 깍은 양털」이라는 말에 담겨 있는 것이라고 생각합니다.

따라서 이스라엘 백성에게 있어서 기쁨이란 그들이 바침으로써 레위인의 생활이 무사히 지켜지고 하나님께 제대로 예배를 드렸을 때 무엇보다 기쁨이 주어지지 않았나 생각합니다. 스스로 삶의 양식을 얻기 위한 수단이 없는 레위인들을 다른 부족들이 하나님께 드리는 헌물을 통해 그들을 지지하고 부양해 나가는 것입니다.

한편 레위인에게 있어서도 백성들이 하나님께 예배를 드릴 수 있도록 인도할 수 있을 때 무엇보다도 기쁨이 주어진다고 생각합니다. 그렇게 제사장과 이스라엘 백성은 서로 돕는 관계 속에서 하나님의 백성으로서 하나님께 드리는 예배를 소중히 여기며 걸어가는 것입니다. 여기서 배울 수 있는 것은 하나님을 예배한다는 것은 레위인만이 지켜야 하는 것이 아니라 백성 모두가 심혈을 기울여 단정히 자세를 가다듬어 백성 전원이 지켜나가야 한다는 것이 아닐까요? 센겐다이교회에서 이야기되는 예배설교도 이것은 설교자가 혼자서 하는 설교가 아니라 여러분의 끊임없는 기도에 의해 잣는(목화고치 등에서 실을 뽑는 것)이라고 생각합니다. 목사가 말하는 설교라도 성도가 모두 함께 잣는 것이 설교라는 것입니다. 이어서 5절을 만나 보시겠습니다.

이는 네 하나님 여호와께서 네 모든 지파 중에서 그를 택하여 내시고 그와 그의 자손에게 항상 여호와의 이름으로 서서 섬기게 하셨음이니라

제사장의 직분은 후손들에게 세습으로 이어져 내려갔습니다. 왜 이 부족이 특히 예배 봉사의 직무를 위해 선택되었는지 그 이유는 알 수 없습니다. 덧붙여서 모세도 아론도 레위인입니다. 족장 시절의 레위를 본다면 그는 남달리 혈기가 왕성하여 검을 금방 뽑아버리는 위험인물이었던 것 같습니다. 창세기 49장 5~7절에는 아버지 야곱의 레위에 대한 유언이 나와 있습니다. 함께 보시죠.

5 시므온과 레위는 형제요 그들의 칼은 폭력의 도구로다

6 내 혼아 그들의 모의에 상관하지 말지어다 내 영광아 그들의 집회에 참여하지 말지어다 그들이 그들의 분노대로 사람을 죽이고 그들의 혈기대로 소의 발목 힘줄을 끊었음이로다

7 그 노여움이 혹독하니 저주를 받을 것이요 분기가 맹렬하니 저주를 받을 것이라 내가 그들을 야곱 중에서 나누며 이스라엘 중에서 흩으리로다

이 야곱의 저주와 같은 유언 대로 레위인에게는 기업의 땅이 주어지지 않았고 이스라엘 사이에 흩어졌는데 가장 죄 많은 이 레위인이 하나님의 백성을 섬기는 자로 선정되었다는 것입니다. 그런 의미에서 모세가 이스라엘의 중보자로서 뽑힌 것, 사울과 다윗이 이스라엘의 왕으로 뽑힌 것, 선지자가 그때마다 하나님에 의해 뽑힌 것과 다르지 않습니다. 그들이 무언가 유능하고 뛰어났기 때문에, 그 부족이 뛰어났기 때문에 하나님의 백성 위에 군림하도록 선택된 것이 아니라 그 선택이란 하나님의 백성에게 자기를 낮추어 섬기기 위해서 선택받은 것입니다.

(2) 야훼의 말씀을 받은 선지자

다음으로 선지자에 대해 알아보겠습니다. 예나 지금이나 점쟁이는 많이 존재했습니다. 먼 훗날의 일에 대해서 혹은 인생의 기로에 섰을 때 점을 쳐서 의사결정을 하는 사람이 있었음에 틀림이 없습니다. 한 나라의 왕이라면 지금 전쟁에 나갈 것인지, 나가지 않아야 할 것인지 점에 의해서 의사결정을 내린 적도 있었겠지요. 그러나 이스라엘의 백성이 약속의 땅에 들어 갔다면 이런 토착민들의 꺼림칙한 관습을 본받아서는 안 된다고 엄격히 금지하고 있습니다.

10절에 「그의 아들이나 딸을 불 가운데로 지나게 하는 자」라고 되어 있는데 이는 신명기 12장에도 나왔습니다. 자녀를 불 가운데로 지나가게 하는 것입니다. 10절의 「점쟁이」란 희생제물의 간을 관찰하며 점치기도 했던 것 같습니다. 「길흉을 말하는 자」 「요술하는 자」 「무당」은 정확히는 알 수 없지만 약초나 마약 등을 이용해서 악마의 힘을 빌리는 마술을 했던 것 같습니다. 혹은 물이 담긴 잔에 기름을 몇 방울 떨어뜨려 그 모양을 살피는 「기름점」등도 행했을 것으로 생각됩니다. 11절의 「진언자」나 「신접자」나 「박수」나 「초혼자」는 오컬트적이 강령술과 관련이 있는 것 같습니다. 주님의 말씀을 듣지 못한 사울왕은 엔돌의 신접한 여인에게 가서 이 신접녀의 말을 듣고 따르고 말았습니다. 무엇을 숨기겠습니까? 저도 구원받기 전에는 점괘를 뽑거나 이름의 자획으로 운명을 점치는 일이나 점에 매우 흥미를 가지고 있었습니다. 어떨 때는 제 손금을 보면서 ‘좀 더 생명선이 길었으면 좋았을텐데’하고 생각한 적도 있었습니다. 하지만 예수님을 믿고 나서 그런 사고방식에서 조금씩 해방되었던 것을 기억합니다. 사람은 누구나 유물론적인 생각(인간의 사고는 인간을 둘러싼 물질적 가치에 따라 결정된다는 사고방식)으로는 만족할 수 없고 영적인 세계에 관심을 갖게 된다고 생각합니다. 그것은 지당한 일이며 성경도 창세기 1장 1절의 「태초에 하나님이 천지를 창조하시니라」는 말씀에 나와 있듯이 하나님은 눈에 보이는 세계와 눈에는 보이지 않는 영적인 세계를 창조하셨다고 말하고 있습니다. 그러나 이 영적인 세계에 대해 가나안 사람들과 같은 관습을 따라 접근할 것이 아니라 오히려 주께서 세우신 선지자의 목소리를 따르라고 모세는 말합니다. 하나님은 선지자에게 자신의 말씀을 내려주시기 때문입니다. 13~15절과 18절을 보세요.

13 너는 네 하나님 앞에서 완전하라

14 네가 쫓아낼 이 민족들은 길흉을 말하는 자나 점쟁이의 말을 듣거니와 네게는 네 하나님 여호와께서 이런 일을 용납하지 아니하시느니라

15 네 하나님 여호와께서 너희 가운데 네 형제 중에서 너를 위하여 나와 같은 선지자 하나를 일으키시리니 너희는 그의 말을 들을지니라

18 내가 그들의 형제 중에서 너와 같은 선지자 하나를 그들을 위하여 일으키고 내 말을 그 입에 두리니 내가 그에게 명령하는 것을 그가 무리에게 다 말하리라

이처럼 이스라엘 백성들에게 점을 치거나 우상의 신이나 악령과의 교제가 엄격히 금지되어 있었습니다. 객관적으로 보더라도 이런 점치는 일에 종사하는 사람은 머지않아 건강이 손상되고 비참한 운명의 말로를 맞이하게 된다고 할 수 있지 않을까요? 18장 13절에는 이스라엘 백성에게 「완전하라」고 되어 있습니다. 영어 성경((KJV)에서는 「퍼팩트」라는 단어로 번역되어 있습니다. “우리가 어떻게 완전한 사람(퍼팩트)이 될 수 있단 말인가!”라고 생각하실 수도 있게지만 이 말 앞에 「네 하나님 앞에서」라는 말이 덧붙여져 있습니다. 주께서 함께 계시니, 주님의 말씀이 우리 삶을 지탱해 주시니 우리는 죄 많은 자이나 「완전한 자」, 「흠이 없는 자」, 「거룩한 자」로 여겨지는 것입니다.

또 하나 흥미로운 점은 하나님의 말씀을 받는 선지자는 레위인의 제사장 처럼 세습하지 않았습니다. 주님이 직접 세우시고 하나님 자신의 말씀을 내려주시는 것입니다. 이 말씀을 믿고 따른다면 하나님의 백성으로서 복된 가운데 평안하게 살아갈 수 있는 것입니다. 그러나 그 때 다음과 같은 의문도 어쩌면 들지도 모릅니다. “선지자가 마음대로 자신의 소망을 주 야훼의 이름으로 말한다면 어떻게 해야 하는가? 그리고 어떻게 우리는 그 말씀이 주의 말씀이 아니라는 것을 알 수 있을까?” 라는 의문입니다. 이 경우에 22절에 나와 있듯이 선지자가 주의 말을 한다면 반드시 그 말씀이 성취되고 그러나 선지자가 자신의 마음대로 말한 것이라면 그 말씀은 성취되지 않는다는 것입니다. 모세 시대 그 이후에 나온 사무엘이 당시 이스라엘 백성들로부터 어떻게 보였는지 알아보겠습니다. 사무엘상 3장 19,20절을 참조하십시오.

19 사무엘이 자라매 여호와께서 그와 함께 계셔서 그의 말이 하나도 땅에 떨어지지 않게 하시니

20 단에서부터 브엘세바까지의 온 이스라엘이 사무엘은 여호와의 선지자로 세우심을 입은 줄을 알았더라

여기서는 주께서 사무엘과 함께 계셨고 그의 말이 하나도 땅에 떨어지지 않았다고 합니다. 또 사무엘상 9장 6절을 참조하세요.

그가 대답하되 보소서 이 성읍에 하나님의 사람이 있는데 존경을 받는 사람이라 그가 말한 것은 반드시 다 응하나니 그리로 가사이다 그가 혹 우리가 갈 길을 가르쳐 줄까 하나이다 하는지라

여기서도 사무엘은 하나님의 사람이고 그의 말은 무엇이든 그대로 된다고 생각했습니다. 이처럼 이스라엘 백성에게는 모세와 같은 하나님의 말씀을 받은 선지자가 주어지고 백성들은 선지자의 말씀에 절대적으로 신뢰하고 하나님을 예배하는 생활에로 인도되는 것입니다.

결론

이상 살펴보았듯이 이스라엘 백성을 위해 하나님께서는 레위인 제사장을 세워 주시고 하나님께 제대로 예배를 드릴 수 있게 해주셨습니다. 또 하나님 자신이 세우신 선지자를 통해 하나님의 말씀이 내려지고 하나님의 계시가 주어진 것입니다. 이 제사장의 일과 선지자의 일은 언약 백성인 이스라엘을 겸손하게 섬기는 일인데 이러한 직분이 주어진 이유는 하나님의 백성 이스라엘이 제사장의 나라 거룩한 백성이기 때문입니다. 언약 백성인 이스라엘을 섬기는 자로서 하나님은 왕과 제사장과 선지자를 보내주시는 것입니다. 이 왕과 제사장과 선지자의 일이지만, 이 일이 그대로 예수 그리스도의 사역에 오버랩되어 있다는 것을 우리는 깨닫게 됩니다.

왜냐하면 예수님이야말로 진정한 대제사장으로서 하나님의 백성을 위하여 십자가를 통해 완전한 헌물로 하나님께 바쳐지고 그리고 하나님과 인간의 중재자로서의 역할을 다하셨기 때문입니다. 셋째 날 부활하시고 하늘로 올라가신 후에도 지금도 여전히 아버지 되신 하나님 우편에서 우리를 위해 중보기도를 드리고 계시기 때문입니다. 또 예수님이야말로 진정한 선지자이십니다. 예수님은 구약성경의 계시의 정점이자 하나님의 말씀 그 자체로 일하셨고 지금도 성경을 통해 우리에게 직접 말씀해주시기 때문입니다. 예수님이 하신 말씀은 하나도 땅에 떨어지지 않습니다.

계시가 완성된 오늘날에는 구약시대와 같은 하나님에게 제물의 희생을 바치는 제사장도 없고 새로운 하나님의 계시를 말하는 선지자도 없습니다. 희생제사와 계시는 예수 그리스도에 의해서 완전히 이루어졌습니다. 더 이상의 계시는 없습니다. 완결된 계시는 성경이라는 책으로 정리되어 오늘날 성경 말씀이 성령을 통해 우리에게 말씀하시는 것입니다. 그래서 유튜브 등에서 하는 것처럼 새로운 계시를 받았다든가, 현대의 예언자로서 하나님의 계시를 받았다든가 해서 많은 예언자들이 소개되고 있지만 그런 것들을 믿어서는 안 됩니다. 우리는 주어진 성경을 소중히 여기면서 성경을 통해 하나님의 말씀에 귀를 기울이는 것입니다. 또 하나님 나라의 확장을 위해서 여러분 한 사람 한 사람이 이 세상으로 보내심을 받았다는 것을 생각한다면 바로 여러분 한 분 한 분이 이 세상을 섬기는 왕이요, 제사장이요, 선지자일 수 있을 것입니다. 만약 아직 가족이 구원을 받지 못했다면 여러분이 하나님께서 보내주신 제사장으로서 날마다 가족을 위해 기도하고 가정에 하나님의 주권이 회복되기를 기도합시다. 또는 하나님으로부터 보냄을 받은 선지자로서 그리스도의 복음을 말하고 그리스도에게 있는 용서를 선언해 나가는 자가 되도록 합시다.

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