2019年08月11日「すべての国民を弟子とせよ 모든 민족을 제자로 삼아」

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すべての国民を弟子とせよ 모든 민족을 제자로 삼아

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 28章16節~20節

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聖句のアイコン聖書の言葉

16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 28章16節~20節

原稿のアイコン日本語メッセージ

イエス様は復活された後に女たちに最初に現れ、そして28:10に書いてあるように、「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と言付けしました。

このように、イエス様は復活なされ、ローマに行かれたわけでもなく、総督ピラトの法廷に行かれたわけでもなく、イスラエルの宗教指導者たちの下へ行かれたわけでもありませんでした。公生涯を始めるにあたり、ご自分の弟子たちを召されたガリラヤに行かれたのでした。

復活されたイエス様が、まずガリラヤにおいて弟子たちとお会いされた目的は、さらに言えば、神の啓示を与えようとするときはいつもそうでありますが、聖なる山において、弟子たちとお会いしようとされた目的は、それは、再び弟子たちを整えて、弟子たちを通して教会を建てることにあったということです。ですから、この箇所は、一般的に「大宣教命令」と呼ばれていますが、贖いの御業を成し遂げ、天の右の座に着座され、一切の権威を御父から授けられたイエス様から教会に対する委託であります。英語では「the great comission」つまり、「大いなる委託」と言われています。

例えば、現在、世界に及ぼす最も影響力の大きい人物は誰でしょうか。恐らくアメリカの大統領でしょう。アメリカの大統領の意思を忠実に現地に伝えられるように、日本ではアメリカ大使館がありますね。イエス様と教会の関係もまさにこのような関係です。イエス様の御心を人々に伝えるために教会が、大使館の役割として立てられているのです。ですから、イエス様から、教会の代表である十一弟子に与えられたThe Great Commissionとは、教会の存在意義でもあると言えるでしょう。教会はなぜ存在するのか、イエス様が教会をどのような目的で立てられたのか、それを教えてくれるのが、great comissionであるということです。それでは本日の聖書箇所の28章16~17節を御覧ください。

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。

そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。

十一弟子たちは、復活されたイエス様に出会い、ひれ伏して礼拝を捧げました。しかし復活という尋常ではない出来事を前にして、信仰の薄い弟子たちは、半信半疑で受け止めたのだと思われます。もしかしたら幽霊を見ているのかもしれないという気持ちを振り払うことができず、恐れと震え、心配、不確実さと疑いが、喜んで礼拝を捧げようとする気持ちと葛藤しているのです。弟子たちはこのように弱い者たちでした。しかし、イエス様はこのような弟子たちを安心させるかのようにご自身から近づかれます。そして、全人類がキリストの御前に跪くよう大宣教命令を与えられる前に、まず、イエス様ご自身が持たれたのは、平凡な権力ではなく、最高の神的権力を持たれたんだよ!ということを弟子たちに証しされます。18節を御覧ください。

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。

この御言葉によってイエス様は、弟子たちにそれぞれが任せられた職分を遂行できるように確信を与えようとされているのです。もし彼らを統治するお方が天に座っておられ、最高の権力が彼に与えられているなら、そして彼らが仕えていくお方がまさに天と地を統治される王の王、主の主であられるなら、いくら自分たちがふがいない弟子であっても任せられた職分を遂行し、実を結ぶことができるかもしれないという希望と勇気が自然と湧き上がってくるものです。ここで少し余談ですが、イエス様は天と地の一切の権威を授かっていると言われました。エフェソ1:20~22にも同じようなことが書かれています。ご覧ください。

神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ

すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。

神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。

これは、イエス様がこの時、初めて王として即位されたということではありません。本来イエス様は神そのものであられましたし、マタイ福音書の1章ではイエス様の系図が書かれていて、王としての血筋からお生まれになったことが紹介されていました。また、2章では、東方の博士たちがエルサレムにやってきて「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこでしょうか。贈り物を授けさせてください」と言いました。イエス様は受肉して、卑しめられ、低くされたとしても、天地万物の王であることに変わりありませんでした。

従って、復活の出来事とは、この時、初めて王として即位されたというより、むしろイエス様が本当に王であったことを証明されたと言う方が正しいでしょう。それでは、なぜ、エフェソ書にも書いてあるように「復活によって天地の一切の権威を授かった、あらゆる名の上に高く置かれた」と言うのでしょうか。これは一体どういう意味なのでしょう。

これは、イエス様が、神様と罪びととの仲保者として来られたことと関係があります。仲保者として私たちを贖うためにイエス様は低くなられ、そして高められたのです。イエス様は人となられ、低くなり、茨の冠と赤のマントを着せられ、もっていた笏で頭をたたかれ、唾をかけられ辱められ、鞭うたれ、血を流し十字架にくぎ打ちにされ、死刑にされ、葬られました。罪のないお方がこのように苦しまれたのです。それは、全て罪人、犯罪人である私たちのためだったのです。

即ち、キリストが有罪宣告されたが故に、私たちは無罪とされました。キリストが木に架けられたが故に、私たちは呪いから解放されました。キリストが血潮をながされたが故に、私たちは清められ、鞭うたれたが故に、私たちの傷は癒されたのです。

このように仲保者として謙卑の働きを全うされたが故に、次に贖われた者たちを義とし、神の家族として、養子にするために、キリストは一切の権威を授けられ高くされたのです。つまりキリストが復活されたが故に、わたしたちに聖霊による再生と永遠の命が与えられ、キリストが天に昇られたが故に、私たちに御国の相続地が与えられ、キリストにすべての権威が授けられることによって、私たちが保護と安全と豊かさとあらゆる祝福を享受できるようにされ、やがてキリストが裁き主として来られるが故に、神の支配と統治を喜ぶことができるようにされたのです。結局低められたこと(謙卑)も、高められたこと(高挙)もすべて私たちの救いのためでした。19節は「だから」という言葉で始まっています。いよいよ大宣教命令ですが、19~20節前半部分を御覧ください。

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、

あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。

ここには、4つの動詞が出て来ます。「行くこと; ポリュテンテス」「弟子とすること; マテテューサテ」「洗礼を授けること; バプティゾンテス」「教えること; ディダスコンテス」ですが、メインの動詞は一つで、「弟子としなさい」であり、あとはすべて分詞になっています。「弟子としない」要約すればこれが教会に委託された命令であり、教会の存在意義であるということです。弟子と言われても、じゃ、そもそも弟子とは何なのか?ということになってきます。弟子を定義することは、考え方によって違ってきたり、色々あるかと思いますが、簡単に言えば、イエス様が弟子たちに対し三年半、共に時間と過ごしたように、今度はあなたがそれをしてみなさいということだと思います。具体的内容として三つのポイントがありますので見ていきましょう。

第一に「行きなさい」です。「ユダヤ人だけではなく、全ての民」のところに出て行きなさいということです。言葉も違う、文化も、考え方も違う、全く共通点のない人に向かって、教会は出て行かなければならないということです。このような御言葉を聞くと、そのことは日本の宣教の文脈にはあてはまらないのでは、と、つい思ってしまいます。日本は、どの国よりも宗教アレルギーのある国かもしれません。オウム真理教というテロ事件がありましたし、統一教会などによって財産を奪われた人も多くいます。日本では宗教に対する警戒感が強いのは確かです。ですから出て行き、無理やりお誘いするのは日本においては、逆効果になるかもしれません。

しかし、イエス様が弟子たちを召した時のことを思い出してください。弟子たちが弟子入りを志願したわけではありませんでした。弟子たちはイエス様によって直接声をかけられ、召されたのです。自分で選んだのではありません。同じように私たちが教会に導かれた時のことを思い浮かべてください。決して私たちの考えや、決意によって、イエスキリストを信じたのではなく、なんとなく導きがあり、そこに見えない神の招きがあったんだと思います。だからこそ、イエス様の召しを成就するために、私たちは積極的に出て行かなければならないのです。私たちをお用いになられ、例えば、私たちが配ったチラシを見て教会に導かれたり、私たちの讃美を通して、人々がイエス様の召しの言葉を聞き取ることになるのです。

第二に「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」です。ここでは、三位一体の神知識が明らかにされています。旧約の時代には、かすかにしか現わされていませんでした。19節で、父と子と聖霊という三つの位格を持ちながら、名前が単数になっています。つまり、三つの位格があっても本質は一つの神であられるということです。私たちは御子を通して父なる神が明らかにされました。御子を通して神が愛なる方であることを知りました。もしイエス様によって、神さまに「アバ神よ」と呼び掛けて祈っても構わないということを教えられなかったなら、私たちは、神さまを父と呼んで祈ることもしなかったでしょう。三位一体の神のご支配の中に入れられる洗礼は、洗礼者ヨハネによる悔い改めの洗礼とも異なります。父子聖霊の名による洗礼は、私たちを聖霊によってきよめ、そして父なる神が御子によって私たちを養子としてくださった恵みをはっきりと悟らせてくださるのです。

第三に「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」です。これは、イエス様が語られた、たくさんの御言葉を、そのまま伝えなければならないということです。自分たちが勝手に考え出したり、イエス様の御言葉の中から勝手にえり好みをして教えてはならないということです。教会が罪や裁きについて語らないで、神さまの愛だけを語ろうとするなら、たちまち教会は仲良しサークルや同好会のようになってしまいます。このような教会らしくない例としてⅡテモテ4:2~4の御言葉を挙げることがでるでしょう。ご覧ください。

御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。

だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、

真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。

驚くべきことに、聖書の中で誰よりも地獄について頻繁に教えられたのはイエス・キリストです。「どうして地獄の罰を免れることができようか」とか「体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」と福音書の中で何度も警告しています。つまり、イエス様が教会に教師を立てられているのは、教師が正しいと考えることを教えなさいということではなく、教師たちも他の人々と同じようにただ主の口だけを眺めなさい、主が言われる通りに語りなさいと言っているのです。したがって大宣教命令とは牧師の弟子ではなく、教会の弟子ではなく、主の弟子を育てなさいということなのです。

以上のように、イエス様が弟子たちに委託された大宣教命令は、人間の力によっては決して成し遂げることのできないような難しい使命でした。だからこそ、イエス様が天から彼らと共におられ、彼らを守られると約束されることによって、励ましているのです。20節後半部分を御覧ください。

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

イエス様は天におられ、私たちから遠く離れておられますが、キリストの霊である聖霊を通して、全世界に働きかけるだけでなく、キリスト者一人一人の中にも実際に留まり、住まわってくださるのです。この内住の聖霊を通して、私たちはこの世で活動しながらも国籍は天にあり、天にある御国の豊かさを、信仰によって享受しているのです。そして、もう一点注意すべきこととして、「世の終わりまで、いつも」と翻訳されている箇所ですが、直訳すると「終末までの、全ての日々において」という意味です。終末までの全ての日々、おとといも、昨日も、今日も、明日もイエス様は共におられて、弟子たちが大宣教命令を遂行していけるように助けてくださるのです。ですから、この御言葉は、当時の弟子たちだけに語られたのではなく、世の終わりの日まで、すべての世代においてそれぞれの信者を助けるために「共におられる」と約束されているのです。

キリスト教会がイエス様の十字架から2000年経った今日も存在しているのは、弟子たちがこの大宣教命令に忠実に従ってきたからだと言えるでしょう。また、私たちせんげん台教会も、そのような教会の歴史の中で生まれてきたのです。本日はマタイの終章として、大宣教命令を学びましたが、せんげん台教会も、同じように、この大宣教命令に従順し、主からの大切な委託を、共におられるイエス様の助けの中で担っていくことができるように、使命を与えられているのです。ですから、この教会から、いよいよ多くの主の弟子が輩出されてくように祈っていきたいと思います。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

모든 민족을 제자로 삼아

2019년 8월 11일 설교 카와에 토모아키 목사

마태복음 28장 16절~20절

예수님께서는 부활하신 후 여자들에게 가장 먼저 나타나셨고, 28:10절에 기록된 대로 「내 형제들에게 갈릴리로 가라 하라 거기서 나를 보리라」라고 말씀하셨습니다.

이처럼 예수님께서는 부활하신 후 로마로 가신 것도 아니었고, 총독 빌라도의 법정으로 가신 것도 아니었으며, 이스라엘의 종교 지도자들에게로 가신 것도 아니었습니다. 공적 사역을 시작하시면서, 자신의 제자들을 부르셨던 갈릴리로 가신 것이었습니다.

부활하신 예수님께서 먼저 갈릴리에서 제자들을 만나신 목적은, 더 나아가 말하자면, 하나님의 계시를 주실 때면 언제나 그러하듯이, 거룩한 산에서 제자들을 만나려 하신 목적은, 다시 제자들을 준비시켜 그들을 통해 교회를 세우시는 데에 있었다는 것입니다. 그러므로 이 구절은 일반적으로 「대선교 명령」이라고 불리지만, 구속의 사역을 이루시고 하늘의 우편에 앉으시며, 모든 권세를 아버지께로부터 받으신 예수님께서 교회에 주신 위탁입니다. 영어로는 「the great commission」, 즉 「대선교명령」이라고 합니다.

예를 들어, 현재 세계에 가장 큰 영향력을 미치는 인물은 누구일까요? 아마도 미국 대통령일 것입니다. 미국 대통령의 뜻을 현지에 충실히 전달할 수 있도록, 일본에는 미국 대사관이 있지요. 예수님과 교회의 관계도 바로 이와 같은 관계입니다. 예수님의 뜻을 사람들에게 전하기 위해 교회가 대사관의 역할로 세워진 것입니다. 그러므로 예수님께서 교회의 대표인 열한 제자에게 주신 「대선교명령(The Great Commission)」은 교회의 존재 이유이기도 하다고 할 수 있습니다. 교회는 왜 존재하는가, 예수님께서 교회를 어떤 목적으로 세우셨는가, 그것을 가르쳐 주는 것이 바로 대선교명령이라는 것입니다. 그럼 오늘의 성경 본문인 28장 16~17절을 함께 보시겠습니다.

16 열한 제자가 갈릴리에 가서 예수께서 지시하신 산에 이르러

17 예수를 뵈옵고 경배하나 아직도 의심하는 사람들이 있더라

열한 제자들은 부활하신 예수님을 뵙고 엎드려 경배드렸습니다. 하지만 부활이라는 비범한 사건을 마주한, 믿음이 약한 제자들은 반신반의하며 받아들였던 것으로 보입니다. 어쩌면 유령을 보고 있는 것은 아닐까 하는 생각을 떨쳐버리지 못해, 두려움과 떨림, 걱정, 불확실함과 의심이 기쁘게 경배드리고자 하는 마음과 갈등하고 있는 것입니다. 제자들은 이처럼 연약한 사람들이었습니다. 그러나 예수님께서는 이러한 제자들을 안심시키시려는 듯 스스로 그들에게 다가오십니다. 그리고 온 인류가 그리스도의 면전에 무릎 꿇게 하려는 대선교명령을 주시기 전에, 먼저 예수님 자신이 지니신 것은 평범한 권력이 아니라, 최고의 신적 권능이셨다는 사실을 제자들에게 증거해 주십니다. 18절을 보십시오.

18 예수께서 나아와 말씀하여 이르시되 하늘과 땅의 모든 권세를 내게 주셨으니

이 말씀을 통해 예수님께서는 제자들이 각자 맡은 사명을 완수할 수 있도록 확신을 주려 하시는 것입니다. 만약 그들을 다스리시는 분이 하늘에 앉아 계시고, 최고의 권세가 그분께 주어져 있다면, 그리고 그들이 섬기게 될 분이 바로 하늘과 땅을 다스리시는 왕 중의 왕, 주 중의 주이시라면, 아무리 자신이 보잘것없는 제자라 할지라도 맡겨진 사명을 수행하고 열매를 맺을 수 있을지도 모른다는 희망과 용기가 저절로 솟아오르게 마련입니다. 여기서 잠시 여담을 덧붙이자면, 예수님께서는 하늘과 땅의 모든 권세를 받으셨다고 말씀하셨습니다. 에베소서 1장 20~22절에도 비슷한 내용이 기록되어 있습니다. 함께 보시죠.

에베소서 1장

20 그의 능력이 그리스도 안에서 역사하사 죽은 자들 가운데서 다시 살리시고 하늘에서 자기의 오른편에 앉히사

21 모든 통치의 권세와 능력과 주권과 이 세상뿐 아니라 오는 세상에 일컫는 모든 이름 위에 뛰어나게 하시고

22 또 만물을 그의 발 아래에 복종하게 하시고 그를 만물 위에 교회의 머리로 삼으셨느니라

이것은 예수님께서 이때, 비로소 왕으로 즉위하셨다는 뜻은 아닙니다. 본래 예수님께서는 하나님 그 자체이셨으며, 마태복음 1장에는 예수님의 족보가 기록되어 있어, 왕의 혈통에서 태어나셨음이 소개되어 있었습니다. 또한 2장에서는 동방 박사들이 예루살렘에 와서「유대인의 왕으로 나신 이가 어디 계시냐 우리가 동방에서 그의 별을 보고 그에게 경배하러 왔노라」라고 말했습니다. 예수님께서는 육신을 입고 비천하게 되시고 낮아지셨더라도, 천지 만물의 왕이신 사실에는 변함이 없었습니다.

따라서 부활 사건은 이때 비로소 왕으로 즉위하셨다는 것보다는, 오히려 예수님께서 진정으로 왕이셨음을 증명하셨다고 말하는 것이 더 정확할 것입니다. 그렇다면 왜 에베소서에도 기록된 대로 「부활을 통해 천지 만물의 모든 권세를 받으시고, 모든 이름 위에 높이 올리우셨다」고 말하는 것일까요? 이것은 도대체 무슨 의미일까요?

이는 예수님께서 하나님과 죄인 사이의 중보자로 오신 것과 관련이 있습니다. 중보자로서 우리를 구속하시기 위해 예수님께서는 낮아지셨다가, 다시 높이 들려지신 것입니다. 예수님은 사람이 되셔서 낮아지셨고, 가시관을 쓰고 홍포를 입으셨으며, 침 뱉고 갈대로 머리를 맞으시는 모욕을 당하셨고, 채찍질을 당하시고, 피를 흘리시며 십자가에 못 박히시고, 사형당하시고, 장사되셨습니다. 죄 없으신 분이 이처럼 고통받으신 것입니다. 그것은 모두 죄인, 범죄자인 우리를 위함이었습니다.

즉, 그리스도께서 유죄 선고를 받으셨기에, 우리는 무죄로 선포되었습니다. 그리스도께서 나무에 매달리셨기에, 우리는 저주에서 해방되었습니다. 그리스도께서 피를 흘리셨기에, 우리는 깨끗해졌고, 채찍질당하셨기에, 우리의 상처는 치유되었습니다.

이처럼 중보자로서 겸손한 사역을 완수하셨기 때문에, 다음으로 구속받은 자들을 의롭다 하시고 하나님의 가족으로서 입양하기 위해, 그리스도께서는 모든 권세를 받으시고 높이 들려지셨습니다. 즉, 그리스도께서 부활하셨기 때문에 우리에게 성령에 의한 중생과 영생이 주어졌고, 그리스도께서 하늘로 승천하셨기 때문에 우리에게 하나님의 나라의 상속지가 주어졌으며, 그리스도께 모든 권세가 주어짐으로써 우리가 보호와 안전과 풍요와 모든 축복을 누릴 수 있게 하셨고, 마침내 그리스도께서 심판자로 오실 것이기 때문에 하나님의 통치와 다스림을 기뻐할 수 있게 하신 것입니다. 결국 낮아지심(겸손)도, 높아지심(승천)도 모두 우리의 구원을 위한 것이었습니다. 19절은 「그러므로」라는 말로 시작됩니다. 이제 「대선교명령」입니다. 19~20절 전반부를 보십시오.

19 그러므로 너희는 가서 모든 민족을 제자로 삼아 아버지와 아들과 성령의 이름으로 세례를 베풀고

20 내가 너희에게 분부한 모든 것을 가르쳐 지키게 하라 …

여기에는 네 가지 동사가 등장합니다.「가다; 폴로이텐테스」, 「제자로 삼다; 마테테우사테」, 「세례를 베풀다; 바프티존테스」, 「가르치다; 디다스콘테스」입니다만, 핵심 동사는 하나뿐이며, 바로 「제자로 삼아」이고, 나머지는 모두 분사 형태입니다. 「제자로 삼으라」 요약하자면 이것이 교회에 위탁된 명령이며, 교회의 존재 이유라는 것입니다. 제자라고 해도, 그럼 애초에 「제자란 무엇인가?」 하는 문제가 생깁니다. 제자를 정의하는 것은 생각에 따라 달라지거나 여러 가지가 있겠지만, 간단히 말하면 예수님께서 제자들과 3년 반 동안 함께 시간을 보내신 것처럼, 이번에는 여러분이 그렇게 해보라는 뜻이라고 생각합니다. 구체적인 내용으로 세 가지 포인트가 있으니 살펴보겠습니다.

첫째는 「가라」입니다. 「유대인뿐만 아니라 모든 민족」에게로 나가라는 것입니다. 언어도 다르고, 문화도, 사고방식도 다른, 전혀 공통점이 없는 사람들을 향해 교회는 나가야 한다는 것입니다. 이러한 말씀을 들으면, 그 내용은 일본의 선교 맥락에는 맞지 않는 것이 아닐까 하고 무심코 생각하게 됩니다. 일본은 어느 나라보다도 종교에 대한 거부감이 강한 나라일지도 모릅니다. 옴 진리교라는 테러 사건이 있었고, 통일교 등에 의해 재산을 빼앗긴 사람도 많습니다. 일본에서 종교에 대한 경계심이 강한 것은 확실합니다. 그러므로 나가서 억지로 권유하는 것은 일본에서는 역효과가 날지도 모릅니다.

그러나 예수님께서 제자들을 부르셨을 때를 떠올려 보십시오. 제자들이 제자가 되겠다고 자원한 것은 아니었습니다. 제자들은 예수님께서 직접 부르셔서 부르심을 받은 것입니다. 스스로 선택한 것이 아닙니다. 마찬가지로 우리가 교회로 인도받았던 때를 떠올려 보십시오. 결코 우리의 생각이나 결심에 의해 예수 그리스도를 믿은 것이 아니라, 어렴풋이 인도하심이 있었고, 그 속에 보이지 않는 하나님의 부르심이 있었다고 생각합니다. 그렇기 때문에 예수님의 부르심을 성취하기 위해, 우리는 적극적으로 나가야만 합니다. 하나님께서 우리를 사용하셔서, 예를 들어 우리가 나눠 준 전단지를 보고 교회로 인도받거나, 우리의 찬양을 통해 사람들이 예수님의 부르심의 말씀을 듣게 되는 것입니다.

둘째로「아버지와 아들과 성령의 이름으로 세례를 베풀고」라는 것입니다. 여기에서는 삼위일체 하나님에 대한 지식이 분명히 드러나 있습니다. 구약 시대에는 희미하게만 나타났을 뿐이었습니다. 19절에서, 아버지와 아들과 성령이라는 세 위격을 지니고 있으면서도 이름은 단수로 되어 있습니다. 즉, 세 위격이 있더라도 본질은 한 분 하나님이시라는 뜻입니다. 우리는 성자를 통해 아버지 하나님을 알게 되었습니다. 성자를 통해 하나님이 사랑이신 분임을 알게 되었습니다. 만약 예수님을 통해 하나님께 「아바 아버지」라고 부르며 기도해도 좋다는 것을 배우지 못했다면, 우리는 하나님을 아버지라고 부르며 기도하지도 않았을 것입니다. 삼위일체 하나님의 통치 안에 들어가는 세례는 세례 요한의 물 세례와도 다릅니다. 성부, 성자, 성령의 이름으로 행하는 세례는 우리를 성령으로 거룩하게 하시고, 또한 성부 하나님께서 성자를 통해 우리를 양자로 삼아 주신 은혜를 분명히 깨닫게 해 주시는 것입니다.

셋째로 「내가 너희에게 분부한 모든 것을 가르쳐 지키게 하라」는 말씀입니다. 이는 예수님께서 하신 수많은 말씀을 그대로 전해야 한다는 뜻입니다. 우리가 제멋대로 생각해 내거나, 예수님의 말씀 중에서 마음대로 골라 가르쳐서는 안 된다는 뜻입니다. 교회가 죄나 심판에 대해 말하지 않고, 오직 하나님의 사랑만을 말하려 한다면, 금세 교회는 친목 모임이나 동호회처럼 되어 버리고 맙니다. 이러한 교회답지 않은 예로 디모데후서 4: 2~4절의 말씀을 들 수 있을 것입니다. 함께 보시겠습니다.

디모데후서 4장

2 너는 말씀을 전파하라 대를 얻든지 못 얻든지 항상 힘쓰라 범사에 오래 참음과 가르침으로 경책하며 경계하며 권하라

3 때가 이르리니 사람이 바른 교훈을 받지 아니하며 귀가 가려워서 자기의 사욕을 따를 스승을 많이 두고

4 또 그 귀를 진리에서 돌이켜 허탄한 이야기를 따르리라

놀랍게도, 성경에서 누구보다도 지옥에 대해 자주 가르치신 분은 예수 그리스도이십니다. 「어떻게 지옥의 형벌을 피할 수 있겠느냐」거나 「몸의 일부가 없어지더라도 온몸이 지옥에 던져지는 것보다 낫다」고 복음서에서 여러 번 경고하고 계십니다. 즉, 예수님께서 교회에 교사를 세우신 것은, 교사가 옳다고 생각하는 것을 가르치라는 것이 아니라, 교사들도 다른 사람들처럼 오직 주님의 입만 바라보고, 주님께서 말씀하시는 대로 전하라는 뜻입니다. 따라서 대선교명령이란 목사의 제자가 아니라, 교회의 제자가 아니라, 주님의 제자를 양육하라는 것입니다.

이처럼 예수님께서 제자들에게 맡기신 대선교명령은 인간의 힘으로는 결코 이룰 수 없는 어려운 사명이었습니다. 그렇기에 예수님께서 하늘에서 그들과 함께 계시며 그들을 지키시겠다고 약속하심으로 그들을 격려하고 계신 것입니다. 20절 후반부를 보십시오.

20 … 볼지어다 내가 세상 끝날까지 너희와 항상 함께 있으리라 하시니라

예수님께서는 하늘에 계시며 우리와 멀리 떨어져 계시지만, 그리스도의 영이신 성령을 통해 온 세상에 역사하실 뿐만 아니라, 그리스도인 한 사람 한 사람의 마음속에도 실제로 머무르시고 거하시며 함께하십니다. 이 내주하시는 성령을 통해 우리는 이 세상에서 활동하면서도 국적은 하늘에 있으며, 믿음으로 하늘에 있는 하나님의 나라의 풍요로움을 누리고 있는 것입니다. 그리고 한 가지 더 주의해야 할 점은, 「세상 끝날까지, 항상」이라고 번역된 구절인데, 직역하면 「종말까지의 모든 날에」라는 의미입니다. 종말까지의 모든 날, 그저께도, 어제도, 오늘도, 내일도 예수님께서는 함께 계셔서, 제자들이 대위임령을 수행해 나갈 수 있도록 도와주시는 것입니다. 그러므로 이 말씀은 당시 제자들에게만 주어진 것이 아니라, 세상의 마지막 날까지 모든 세대의 신자들을 돕기 위해 「함께 계신다」고 약속하신 것입니다.

그리스도 교회가 예수님의 십자가 이후 2000년이 지난 오늘날에도 존재하는 것은, 제자들이 이 대선교명령에 충실히 순종해 왔기 때문이라고 할 수 있습니다. 또한 우리 센겐다이 교회도 그러한 교회의 역사 속에서 탄생한 것입니다. 오늘은 마태복음의 마지막 장으로서 대선교명령을 배웠습니다만, 센겐다이 교회도 마찬가지로 이 대선교명령에 순종하여, 주님께서 주신 소중한 사명을 함께 계시는 예수님의 도움 안에서 감당해 나갈 수 있도록 사명을 부여받은 것입니다. 그러므로 이 교회에서 이제부터 더욱 많은 주님의 제자들이 배출되기를 기도하고 싶습니다.

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