2022年05月29日「従順な王 순종하는 왕」

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従順な王 순종하는 왕

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説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 17章14節~20節

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17:14あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入って、それを得て、そこに住むようになり、「周囲のすべての国々と同様、わたしを治める王を立てよう」と言うならば、
17:15必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい。同胞の中からあなたを治める王を立て、同胞でない外国人をあなたの上に立てることはできない。
17:16王は馬を増やしてはならない。馬を増やすために、民をエジプトへ送り返すことがあってはならない。「あなたたちは二度とこの道を戻ってはならない」と主は言われた。
17:17王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない。銀や金を大量に蓄えてはならない。
17:18彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、
17:19それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。
17:20そうすれば王は同胞を見下して高ぶることなく、この戒めから右にも左にもそれることなく、王もその子らもイスラエルの中で王位を長く保つことができる。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 17章14節~20節

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【序】

 申命記の御言葉に耳を傾けております。先週は、裁判人について、つまりショーフェール(裁き司)について見てまいりました。最終的には中央法廷が示す「トーラー」に、「律法」に権威があるということでした。本日の個所は王について、そして次回以降は、祭司と預言者について見てまいります。

人類の歴史の中で最大の領土を獲得した王と言えば、13世紀のモンゴル帝国を創設したチンギスカンであると言われています。何と言ってもチンギスカンの騎兵部隊が大変有名でありました。産業革命の前においては、兵士の肉体的鍛錬もさる事ながら、馬とチャリオット(当時の戦車)の数が、まさにその国の軍事力であったと言っても良いでしょう。王になれば、誰であれ、この軍事力の増強に関心が行くものであります。それが王国の繁栄につながると思われるからです。軍事力の増強に関心を持つというのは、現代にもそのまま当てはまり、このことは時代を問わず常識であると思われます。しかしモーセはイスラエルの民に対し、まるで、この常識を覆すようなことを命じています。やがて、イスラエルにも王が立てられる時が来るであろうが、その時が来たならば、周辺諸国の王たちの習わしに従わないように、という戒めでした。イスラエルの王が守らなければならない、その戒めについて、本日は具体的に見ていきたいと思います。

【1】. 契約の民の王

 まずイスラエルの王は、15節にありますように、同胞の中から主なる神様が選ばれる者を王として立てなければなりませんでした。例えば、背が高く、外見が美しく、民に人気があるからという理由だけで王に選出されるのではなく、主が選ばれる者を王として立てなければなりませんでした。続いて16、17節をご覧ください。ここには、王がしてはならない三つの否定的な戒めが書かれています。

“王は馬を増やしてはならない。馬を増やすために、民をエジプトへ送り返すことがあってはならない。「あなたたちは二度とこの道を戻ってはならない」と主は言われた。王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない。銀や金を大量に蓄えてはならない。”

王が守るべき三つの否定的な戒めとは、第一に、「馬を増やしてはならない」ということです。馬を増やすとは先ほど申しましたように、「軍事力の増強をはかることによって、安全が保障されるようにする」ということです。16節の「民をエジプトへ送り返すことがあってはならない」というのは、当時軍事大国であったエジプトに頼り、その後ろ盾によって、安心を得ようとすることです。イスラエルの王はそのように人間の力によって、武力の力によって、国を守り、平和を維持しようとしてはならないと戒められています。契約の民イスラエルを守るお方は、神様だからです。この戒めを守らなかった王として、ソロモン王を例に挙げることができるでしょう。彼は馬の廏舎4千(歴代下9:25)と、戦車1,400台(列王上10:26)を装備しました。最強の軍事力を擁していた訳です。このようにしてはならないということです。

王が守るべき三つの否定的な戒めの第二は、「妻を多くめとってはならない」です。日本においても戦国時代、大名の正室は、親同士が決めるという、所謂「政略結婚」が行われていました。モーセの時代の王たちも諸外国から妻を娶り、政略結婚をしながら、同盟関係を強固にしていったようです。この戒めを守らなかった例として、やはりソロモン王が挙げられます。ソロモンには700人の王家出身の正室と、300人の妾がいました(列王上11:3)。特にファラオの娘を正室に迎え入れたことが有名であります。このような政略結婚の多さは、ソロモンの権勢と財力を現わしている尺度でもあったとも言われています。それだけソロモンと同盟関係を結びたいと願う国々がたくさんあったという事です。

王が守るべき第三の否定的な戒めは、銀と金を大量に蓄えてはならないということです。これも経済的に豊かになり、国を安泰にするということだと思います。やはりこの戒めを守らなかった例としてソロモンを挙げますと、ソロモンは大河ユーフラテスからエジプトとの国境に至るすべての王国を支配し、それらの王国からソロモンの一生の間、貢物を持って来るようにさせました(列王上4:20-21)。そのためエルサレムを訪問したシェバの女王は、宮殿のあまりにも美しかったこと、食卓の料理の絢爛さ、家臣や給仕たちの装いに大変驚かされたのであります。

ソロモン王はこの戒めをパーフェクトで守ることができませんでしたが、何もソロモンだけでなく、その後に続く王様も大体、この戒めを守ることが出来ませんでした。人間の欲望には際限がなく、何かを手に入れると、もっともっとそれが欲しくなってしまうからです。それが「人の性」であると言えるでしょう。イギリスの歴史学者であるアクトン卿は、「権力には腐敗の傾向がある。絶対的権力は絶対的に腐敗する」という格言を残しました。モーセによって語られた王の戒めを守ることができる人物は、一体どこにいるのでしょうか。続いて17:18~20節をご覧ください。今度は王が守るべき肯定的な戒めが書かれています。

【2】. 真のイスラエル

 “彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。そうすれば王は同胞を見下して高ぶることなく、この戒めから右にも左にもそれることなく、王もその子らもイスラエルの中で王位を長く保つことができる。”

王が守るべき肯定的な戒めとは、次のように要約することができるでしょう。第一に、律法を自分の傍らにおいて神なる主を畏れることを学ぶこと。第二に、律法のすべての言葉と掟を忠実に守ること。第三に、同胞を見下して高ぶることなく、この戒めから右にも左にもそれてはならないこと、です。この中で特に興味深い点として、王は同胞を見下して高ぶってはならないという点です。イスラエルの王は民の上に高く君臨するのではなく、民を見下してもなりませんでした。契約の民の上に立てられている王だからということでしょうか。もう一つ興味深い点として、「トーラー(律法)」という文字が前回に引き続いて再度登場している点です。王がこの律法(トーラー)を常に読まなければならない、その目的は、19節によりますと「神なる主を畏れることを学ぶ」ことだと書かれています。もしかしたら、この言葉は、王の戒めにしてはありきたりで、退屈に聞こえてくるかもしれません。それもそのはずで、「主なる神を畏れることを学び、律法の全ての言葉と掟を守らなければならない」という教えは、これまでモーセからさんざん聞かされてきた内容でもあったからです。例えば申命記6:13には次のようにあります。

“あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。”

或いは、申命記5:32には次のように語られています。

“あなたたちは、あなたたちの神、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない。”

「主によって命じられたことから、右にも左にもそれてはならない!」。以前、民に語られた内容が王に対する戒めとして、そのまま語られているのです。さらに、申命記8:13~17には次のように語られています。

“牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。あなたは自分の強さと手の力で、この富を生み出したと考えてはならない。”

ここでも同じように「銀や金が増し、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないように!」。ということです。以前、民に語られた内容が王に対する戒めとして、そのまま語られている訳です。

ですから、王の戒めというのは、王をして「イスラエルの模範にする」という一言に言いつくされるのではないかと思われます。イスラエルの王の根本的な使命、それは神の国の繁栄のために、主ヤハウェに対して真の従順を成し遂げ、「真のイスラエル」として、民に模範を示すことにあったと言えるのではないでしょうか。

それでは、その「真のイスラエル」とは、一体誰なのでしょうか。神の心に適う、イスラエルの王で、同時に私たちを兄弟と見なし仕えてくださった「真のイスラエル」と言えば、皆さんは誰を思い浮かべるでしょうか。そうです。イエス・キリストですね。イエス様こそ真のイスラエルと言うことが出来るでしょう。イエス様はイスラエルの王として、この世に来られましたが、馬を求めたことがあったでしょうか。民に重税を課したり、民を搾取したりしたことがあったでしょうか。民の上に強権を振るうことがあったでしょうか。ありませんでした。むしろ、イエス様は、律法の一点一画をもないがしろにせず、律法の要求を全て全うされ、全生涯を生き抜いた人物です。律法の要求とは、他でもなく、天におられる父が完全であられるように、完全になることです。

少し余談になるかもしれませんが、福音と律法の関係について、以前、パウロ書簡の説教でお話しさせていただきました。神の聖なる律法というのは、福音を信じることによって決してそれは無効になる訳ではありません。マタイによる福音書の山上の垂訓を見ても分かりますように、新約時代に生きる私たちには、モーセの律法より、さらにハードルの高いキリストの律法を与えられています。ですから、神の聖なる律法は永遠であるということが分かります。例えば、私たちの死んだ後、もはや福音を聞くことができませんね。律法のみがそこにあります。悔い改めて福音を信じるということは、この世で私たちが生きている間にしかすることができませんね。このような意味で、福音は一時的であると言うことができますが、一方で、律法は、聖なる神様の属性を現わすものとして、永遠であると言えるのです。それでは、パウロ書簡にありますように、「私たちキリスト者が律法から自由になった」というのは、どういう意味なのかと言いますと、これは決して、「キリスト者はもはや律法とは関係なく、自由奔放に生きていいんだ」とか、「恵みの下にいるのだから、もっと罪を犯そうではないか」ということではないということです。律法から自由になったというのは、律法が、永遠の命を与える条件として、もはや、キリスト者に迫ってくることはないという意味でございます。或いは、キリスト者を、律法によって裁いたり、律法によって罪に定めることができなくなったという意味です。なぜなら、真のイスラエルであるイエス様が、私たちの代わりに十字架に架かって死んでくださったからであり、真のイスラエルであるイエス様が、私たちを代表し、私たちの代わりに律法の下に生き抜かれ、そして罪を犯すことなく、完全に律法を成就され、私たちに永遠の命の道を切り開いてくださったからです。私たちはこのイエス様にあって、何の行いもないのに、何の功もないのに、義とされ、聖とされ、父が完全であられるように、完全な者とされたのです。イエス・キリストにあって律法を成就した者として、聖別されたのです。イエス様こそイスラエルの民の模範であり、イエス様こそイスラエルの王として「真のイスラエル」だということが理解できるのです。この模範であるイエス様の御足に私たちは従い行き、その後を歩むことが許されているのです。エフェソの手紙2:8~10をご覧ください。

“事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。”

私たちは、天地の創造がなされる前に、既にイエス・キリストの中で命が与えられるということが定められていたのです。

【結論】

 私たちは、主がお立てなる、イスラエルを治める王を、迎え入れました。彼は真のイスラエルとして、私たちの模範となってくださいました。力に依り頼むことなく、神の御教えである「律法」に従順にされ、死と罪の支配を滅ぼされ、そして、彼に属する者たちを、イスラエルの王座に永遠に座ることができるようにしてくださいました。私たちはこの神さまの恵みを褒めたたえ、讃美し、日々、イエス・キリストの模範に従って歩ませていただきましょう。そして、信仰は聞くことから始まりますので、できれば毎日聖書を開くようにいたしましょう。或いは聖書日課としてリジョイスを活用されたり、聖書を写経されるのも良いかと思います。そこで神様から示されたことに喜んで従順にしていく私たちとならせていただきましょう。

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순종하는 왕

2022년 5월 29일 센겐다이교회 주일설교

신명기 17장 14~20절

서론

신명기의 말씀에 귀를 기울이고 있습니다. 지난 주는 재판인에 관해서 즉 쉐펠 (재판관)에 관해서 살펴보았습니다. 최종적으로는 중앙법정이 제시하는 「토라」에, 「율법」에 권위가 있다는 것이었습니다. 오늘의 구절은 왕에 관해서 그리고 다음부터는 제사장과 선지자에 관해서 알아보겠습니다.

인류 역사상 가장 큰 영토를 획득한 왕은 13세기 몽골제국을 창설한 칭기스칸이라고 합니다. 뭐니뭐니해도 칭기스칸의 기병부대가 매우 유명했습니다. 산업혁명 이전에는 병사들의 육체적 단련은 물론이거니와 채리엇(당시 전차)의 수가 바로 그 나라의 군사력이었다고 해도 좋을 것입니다. 왕이 되면 누구나 이 군사력 증강에 관심이 가는 법입니다. 그것이 왕국의 번영으로 이어진다고 생각되기 때문입니다. 군사력 증강에 관심을 갖는다는 것은 현대에도 그대로 적용되며, 이는 시대를 불문하고 상식이라고 생각됩니다. 그러나 모세는 이스라엘 백성에게 마치, 이 상식을 뒤집을 것을 명하고 있습니다. 곧 이스라엘에도 왕이 세워질 때가 오겠지만 그때가 왔을 때 주변국 왕들의 풍습을 따르지 말라는 훈계였습니다. 이스라엘 왕이 지켜야 할 그 계명에 대해 오늘은 구체적으로 알아보겠습니다.

(1) 언약 백성의 왕

먼저 이스라엘 왕은 15절에 나와 있듯이 동포 중에서 주 하나님이 선택하시는 자를 왕으로 세워야 했습니다. 예를 들어 키가 크고 외모가 아름다우며 백성들에게 인기가 많아서 왕으로 선출되는 것이 아니라 주께서 선택하시는 자를 왕으로 세워야 했습니다. 이어서 16,17절을 만나보시죠. 여기에는 왕이 해서는 안 될 세 가지 부정적인 계명이 적혀져 있습니다.

16 그는 병마를 많이 두지 말 것이요 병마를 많이 얻으려고 그 백성을 애굽으로 돌아가게 하지 말 것이니 이는 여호와께서 너희에게 이르시기를 너희가 이 후에는 그 길로 다시 돌아가지 말 것이라 하셨음이며

17 그에게 아내를 많이 두어 그의 마음이 미혹되게 하지 말 것이며 자기를 위하여 은금을 많이 쌓지 말 것이니라

왕이 지켜야 할 세 가지 부정적인 훈계는 첫째, 「병마를 많이 두지 말 것이요」라는 것입니다. 병마를 늘린다는 것은 앞서 말씀드린 것처럼 군사력 증강을 도모함으로써 안전이 보장되도록 한다는 것입니다. 16절 「그 백성을 애굽으로 돌아가게 하지 말 것이니」라는 것은 당시 군사대국이었던 애굽에 의지하고 그 배후를 통해서 안심을 얻으려는 것입니다. 이스라엘 왕은 그렇게 인간의 힘에 의해, 무력의 힘에 의해, 나라를 지키고 평화를 유지하려고 해서는 안 된다고 훈계하고 있습니다. 언약의 백성 이스라엘을 지키는 분은 하나님이시기 때문입니다. 이 계명을 지키지 않은 왕으로 솔로몬 왕을 예로 들 수 있을 것입니다. 그는 병거 매는 말의 외양간이 사천 (역대하 9장 25절) 이었고 병거가 천사백 대(열왕기상 10장 26절)를 장비했습니다. 최강의 군사력을 지녔던 셈이죠. 이렇게 해서는 안되었던 것입니다.

왕이 지켜야 할 세 가지 부정적인 계명 중 두 번째는 「아내를 많이 두지 말라」였습니다. 일본에서도 전국시대 다이묘의 정실은 부모끼리 결정하는 이른바 「정략결혼」이 이루어지고 있었습니다. 모세 시대의 왕들도 여러 나라에서 아내를 맞아 들이고 정략결혼을 하면서 동맹관계를 공고히 해나간 것 같습니다. 이 계명을 지키지 않은 예로는 역시 솔로몬 왕을 들 수 있습니다. 솔로몬에게는 700명의 왕가 출신의 후궁과 300명의 첩들이 있었습니다(열왕기상 11장 3절). 특히 바로의 딸을 정실로 맞아들인 것으로 유명합니다. 이러한 정략결혼의 많고 적음은 솔로몬의 권세와 재력을 보여주는 척도이기도 했다고도 합니다. 그만큼 솔로몬과 동맹관계를 맺고 싶어하는 나라들이 많이 있었다는 것입니다.

왕이 지켜야할 세 가지 부정적인 계명은 「은과 금을 대량으로 쌓아서는 안 된다」는 것입니다. 이것도 경제적으로 풍요로워지고 나라를 안정시키겠다는 것이라고 생각합니다. 역시 이 계명을 지키지 못한 예로 솔로몬을 꼽자면 솔로몬은 큰강 유프라테스에서부터 블레셋 사람의 땅에 이르기까지와 애굽 지경에 미치기까지의 모든 나라를 다스리므로 솔로몬이 사는 동안에 그 나라들로부터 조공을 받았습니다(열왕기상 4장 20,21절). 그래서 예루살렘을 방문한 시바의 여왕은 궁전이 너무 아름다운 것과 휘왕찬란한 식탁의 요리, 가신과 급사들의 치장에 크게 놀랐습니다.

솔로몬 왕은 이 계명을 완벽하게 지키지 못했지만 비단 솔로몬뿐만 아니라 그 뒤를 이은 왕들도 대체로 이 계명을 지키지 못했습니다. 인간의 욕망은 끝이 없고, 무언가를 얻으면 더 많은 것을 원하기 때문입니다. 그것이 「인간의 본성」이라고 할 수 있겠죠. 영국 역사학자인 액턴 경은 “권력에는 부패하는 경향이 있다. 절대 권력은 절대적으로 부패한다”라는 격언을 남겼습니다. 모세가 말한 왕의 계명을 지킬 수 있는 인물은 도대체 어디에 있을까요? 이어서 17장 18~20절을 보시겠습니다. 이번에는 왕이 지켜야 할 긍정적인 훈계가 있습니다.

(2) 진정한 이스라엘

18 그가 왕위에 오르거든 이 율법서의 등사본을 레위 사람 제사장 앞에서 책에 기록하여

19 평생에 자기 옆에 두고 읽어 그의 하나님 여호와 경외하기를 배우며 이 율법의 모든 말과 이 규례를 지켜 행할 것이라

20 그리하면 그의 마음이 그의 형제 위에 교만하지 아니하고 이 명령에서 떠나 좌로나 우로나 치우치지 아니하리니 이스라엘 중에서 그와 그의 자손이 왕위에 있는 날이 장구하리라

왕이 지켜야 할 긍정적인 계명은 다음과 같이 요약할 수 있을 것입니다. 첫째, 율법을 자신의 곁에 두고 하나님을 경외하는 법을 배우는 것. 둘째 율법의 모든 말과 규례를 지켜 행할 것. 셋째 형제 위에 교만하지 아니하고 이 명령에서 좌로나 우로나 치우쳐서는 안된다는 것입니다. 이 중에서 특히 흥미로운 점은 왕은 백성들인 그 형제를 업신여겨서는 안 된다는 점입니다. 이스라엘 왕은 백성들 위에 높이 군림하는 것이 아니라 백성들을 업신여겨도 안되는 것이었습니다. 언약의 백성 위에 세워져 있는 왕이었기 때문일까요? 또 하나 흥미로운 점은 「토라(율법)」라는 글자가 지난 번에 이어서 다시 등장하고 있다는 점입니다. 왕이 이 율법(토라)를 항상 읽어야 한다는 그 목적은 19절에 따르면 「하나님 여호와 경외하기를 배우며 이 율법의 모든 말과 이 규례를 지켜 행할 것이라」고 적혀 있습니다. 어쩌면 이 말은 왕에 대한 훈계치고는 뻔하고 지루하게 들릴지도 모릅니다. 그것도 그럴것이 「하나님 여호와 경외하기를 배우며 이 율법의 모든 말과 이 규례를 지켜 행할 것이라」는 가르침은 그동안 모세에게 많이 들었던 내용이기도 했기 때문입니다. 예를 들어 신명기 6장 13절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다.

네 하나님 여호와를 경외하며 그를 섬기며 그의 이름으로 맹세할 것이니라

또는 신명기 5장 32절에는 다음과 같이 쓰여져 있습니다.

그런즉 너희 하나님 여호와께서 너희에게 명령하신 대로 너희는 삼가 행하여 좌로나 우로나 치우치지 말고

「주님께서 명하셨으니 좌로나 우로나 치우쳐서는 안 된다!」는 예전에 백성들에게 말씀하셨던 내용이 왕에 대한 계명으로 그 대로 회자되고 있는 것입니다. 또한 신명기 8장 13~17절에는 다음과 같이 쓰여 있습니다.

13 또 네 소와 양이 번성하며 네 은금이 증식되며 네 소유가 다 풍부하게 될 때에

14 네 마음이 교만하여 네 하나님 여호와를 잊어버릴까 염려하노라 여호와는 너를 애굽 땅 종 되었던 집에서 이끌어 내시고

15 너를 인도하여 그 광대하고 위험한 광야 곧 불뱀과 전갈이 있고 물이 없는 건조한 땅을 지나게 하셨으며 또 너를 위하여 단단한 반석에서 물을 내셨으며

16 네 조상들도 알지 못하던 만나를 광야에서 네게 먹이셨나니 이는 다 너를 낮추시며 너를 시험하사 마침내 네게 복을 주려 하심이었느니라

17 그러나 네가 마음에 이르기를 내 능력과 내 손의 힘으로 내가 이 재물을 얻었다 말할 것이라

여기서도 마찬가지로 「은금이 증식되며, 마음이 교만하여, 네 하나님 여호와를 잊어버리지 않도록!」라는 것입니다. 이전에 백성들에게 이야기 되었던 내용이 왕에게 그대로 이야기 되고 있는 것입니다.

그래서 왕이 지켜야 할 계명이라는 것은 왕으로 하여금 「이스라엘의 모범으로 하겠다」라고 하는 한 단어에 다 포함되어 있지 않을까 생각합니다. 이스라엘의 왕의 근본적인 사명, 그것은 하나님 나라의 번영을 위해 주 야훼에 대한 진정한 순종을 이루고 진정한 이스라엘로서 백성들에게 모범을 보이는 데 있었다고 할 수 있지 않을까요?

그렇다면 그 「진정한 이스라엘」은 도대체 누구일까요? 하나님의 마음에 맞는 이스라엘의 왕이자 동시에 우리를 형제로 여겨주신 「진정한 이스라엘」이라고 한다면 여러분은 누구를 떠올리실까요? 맞습니다. 예수 그리스도이십니다. 예수님이시야말로 진정한 이스라엘이라고 할 수 있을 것입니다. 예수님은 이스라엘의 왕오로 세상에 오셨는데 병마를 구하신 적이 있었을까요? 백성에게 중세를 부과하거나 백성을 착취하신 적이 있었을까요? 없었습니다. 오히려 예수님은 율법의 한 점 한 획도 소홀히 하시지 않고 율법의 요구를 모두 이루어 전 생애를 살아내신 인물입니다. 율법의 요구란 다름이 아니라 하늘에 계신 아버지가 완전하신 것처럼 완전해 지는 것입니다.

조금 여담이 되겠지만 복음과 율법의 관계에 대해 이전에 바울서신서의 설교에서 말씀드린 바 있습니다. 하나님의 거룩한 율법이라는 것은 복음을 믿는 것으로 결코 무효가 되는 것이 아닙니다. 마태복음의 산상수훈을 봐도 알 수 있듯이 신약시대에 사는 우리에게는 모세의 율법보다 더 장벽이 높은 그리스도의 율법이 주어져 있습니다. 그래서 하나님의 거룩한 율법은 영원하다는 것을 알 수 있습니다. 예를 들어 우리가 죽은 후 더 이상 복음을 들을 수 없죠. 율법만이 거기에 있습니다. 회개하고 복음을 믿는다는 것은 이 세상에서 우리가 살아 있는 동안에만 가능한 일입니다. 이런 의미에서 복음은 일시적이라고 할 수 있지만 반면 율법은 거룩한 하나님의 속성을 나타내는 것으로서 영원하다고 할 수 있습니다. 그러면 바울서신서에 나와 있듯이 「우리들 그리스도인이 율법에서 자유로워졌다」는 것은 무슨 뜻이냐면, 이것은 결코 「그리스도인은 이제 율법과 상관없이 자유분방하게 살아도 된다」거나 「은혜 아래 있으니 더 죄를 지어도 된다」는 것이 아니라는 것입니다. 울법으로부터 자유로워졌다는 것은 율법이 영원한 생명을 주는 조건으로 더 이상 그리스도인에게 다가오지 않는다는 뜻입니다. 혹은 그리스도인들을 율법에 의해 심판하거나 율법에 의해 죄로 정죄할 수 없게 되었다는 뜻입니다. 왜냐하면 진정한 이스라엘이신 예수님께서 우리 대신 십자가에 못 박혀 죽으셨기 때문이고, 진정한 이스라엘이신 예수님께서 우리를 대표하시고, 우리 대신 율법 아래에서 살으셨고 그리고 죄를 짓지 않으심으로 완전히 율법을 성취하셔서 우리에게 영원한 생명의 길을 열어주셨기 때문입니다. 우리는 이 예수님을 만나 아무런 행위도 하지 않고 아무런 공로도 없음에도 불구하고 의롭고 거룩하고 아버지가 완전하신 것처럼 완전한 자로 여김을 받은 것입니다. 예수 그리스도 안에서 율법을 성취한 자로 성별하신 것입니다. 예수님이야말로 이스라엘 백성의 모범이시고 예수님이야말로 이스라엘 왕으로서 「진정한 이스라엘」이라는 것을 이해할 수 있는 것입니다. 이 모범이신 예수님의 걸음을 우리는 따르고 그 뒤를 쫓아 걷는 것이 허락되어 있는 것입니다. 에베소 2장 8~10절을 보시기 바랍니다.

8 너희는 그 은혜에 의하여 믿음으로 말미암아 구원을 받았으니 이것은 너희에게서 난 것이 아니요 하나님의 선물이라

9 행위에서 난 것이 아니니 이는 누구든지 자랑하지 못하게 함이라

10 우리는 그가 만드신 바라 그리스도 예수 안에서 선한 일을 위하여 지으심을 받은 자니 이 일은 하나님이 전에 예비하사 우리로 그 가운데서 행하게 하려 하심이니라

우리는 천지창조가 이루어지기 전에 이미 예수 그리스도 안에서 생명이 주어져 있었던 것입니다.

결론

우리는 주께서 세우시는 이스라엘을 다스릴 왕을 맞아들였습니다. 그는 진정한 이스라엘로서 우리의 모범이 되어 주셨습니다. 힘에 의지하지 않고 하나님의 가르침인 율법에 순종하여 죽음과 죄의 지배를 부수시고 그에게 속한 자들을 이스라엘 왕좌에 영원히 앉을 수 있게 해주셨습니다. 우리는 이 하나님의 은혜를 찬양하고 찬양하며 날마다 예수 그리스도의 모범을 따라서 걸어갑시다. 그리고 믿음은 들음에서 시작되므로 가능하면 매일 성경을 펴도록 합시다. 아니면 성경일과로 리조이스를 활용하거나 성경을 필사 하는 것도 좋을 것 같습니다. 그렇게 말씀을 가까이 하고 하나님께서 제시하신 것을 기꺼이 순종하는 우리가 되도록 합시다.

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