2022年05月22日「正しい裁き、正しい礼拝 공의로운 재판 옳바른 예배」

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正しい裁き、正しい礼拝 공의로운 재판 옳바른 예배

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 16章18節~17章13節

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聖句のアイコン聖書の言葉

16:18あなたの神、主が部族ごとに与えられるすべての町に、裁判人と役人を置き、正しい裁きをもって民を裁かせなさい。
16:19裁きを曲げず、偏り見ず、賄賂を受け取ってはならない。賄賂は賢い者の目をくらませ、正しい者の言い分をゆがめるからである。
16:20ただ正しいことのみを追求しなさい。そうすれば命を得、あなたの神、主が与えられる土地を得ることができる。
16:21あなたは、あなたの神、主の祭壇を築いて、そのそばに、アシェラ像をはじめいかなる木の柱も据えてはならない。
16:22また、あなたの神、主が憎まれる石柱を立ててはならない。
17:1いかなる欠陥であれ傷のある牛や羊を、あなたの神、主にいけにえとしてささげてはならない。それは、あなたの神、主のいとわれることである。
17:2あなたの神、主が与えられるどこかの町で、あなたの中に、男にせよ女にせよ、あなたの神、主が悪と見なされることを行って、契約を破り、
17:3他の神々に仕え、その神々や太陽、月、天の万象などわたしが命じたことのないものにひれ伏す者がいるならば、
17:4その知らせを受け、それを聞いたときには、よく調べなさい。もし、それが確かな事実であり、イスラエルの中でこうした、いとうべきことが行われたのであれば、
17:5この悪事を行った当の男ないし女を町の門に引き出し、その男ないし女を石で打ちなさい。彼らは死なねばならない。
17:6死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない。
17:7死刑の執行に当たっては、まず証人が手を下し、次に民が全員手を下す。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。
17:8あなたの町で、流血、もめ事、傷害などの訴えを裁くのが極めて難しいならば、直ちにあなたの神、主が選ばれる場所に上り、
17:9レビ人である祭司およびその時、任に就いている裁判人のもとに行って尋ねなさい。彼らが判決を告げるであろう。
17:10あなたは、彼らが主の選ばれる場所から告げる判決に従い、彼らの指示するとおりに忠実に実行しなければならない。
17:11あなたは彼らの示す指示と下す判決に従い、彼らが告げる言葉に背いて、右にも左にもそれてはならない。
17:12あなたの神、主に仕えてそこに立つ祭司あるいは裁判人を無視して、勝手にふるまう者があれば、その者を死刑に処し、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。
17:13民は皆、これを聞くと、恐れを抱き、もはや勝手にふるまうことはないであろう。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 16章18節~17章13節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

本日の個所は、大きく二つに分けられます。初めにそれぞれの町における裁判人と役人の任命について書かれておりまして、続いて裁判の実践について書かれています。裁判の実践については、さらに細かく段落分けすることができますが、17章2~7節では、「主なる神との契約に違反したケース」について、また8節~13節では、一般に裁判が難しい場合において、その問題が「中央法廷へ持ち込まれるケース」について書かれています。全体の背景として、イスラエル部族が族長社会から国家へと、少しずつ移行していく中で、モーセがその道筋を立てているという事が言えるでしょう。どういうことかと言いますと、長を立てて組織化するという事は実は以前にもありました。最初、荒れ野において、イスラエルを裁いてきたのは、専ら宗教指導者であるモーセ一人でありました。ある時、舅のエトロから、些細な問題はモーセに直接持ってくるのではなく、それぞれ選ばれた人を任命して彼らに裁かせるように、と助言をもらい、モーセは助言通り、それぞれのリーダーを選出したのです。そして彼らが裁くにはどうにも難しい問題だけを、モーセの下に持ってくるようにさせたのであります。出エジプト記18:22~26には、そのエトロの助言と、それに従ったモーセのことが書かれています。ご覧ください。

“平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命令を与えてくださるならば、あなたは任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分の所へ帰ることができよう。」モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、その勧めのとおりにし、全イスラエルの中から有能な人々を選び、彼らを民の長、すなわち、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とした。こうして、平素は彼らが民を裁いた。難しい事件はモーセのもとに持って来たが、小さい事件はすべて、彼ら自身が裁いた。”

このように以前、既に、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長が立てられたと書かれています。当時の立てられたそれぞれの長の役割が、本日お読みした申命記における町々の裁判人の役割に該当していると言えるでしょう。そして、当時モーセがしていた役割が、中央法廷の役割に該当していると言えるのではないでしょうか。ここにおいて、族長社会から国家への移行の兆しを、私たちは見て取ることが出来るのです。族長社会から国家への移行に伴い、次第に教会と国家の役割に線引きが引かれるようになっていきました。教会も国家も神が御作りになったものではありますが、その果たす役割において線引きがされるようになったということです。もしかしたら、教会は聖なる事柄について、国家は俗的な事柄について扱うように、作られたと考える人もいるかも知れませんが、そういう事ではありません。教会も国家も神がご支配なされ、教会も国家も、罪人である私たちの救いのためになくてはならない、独自な働きをするために、神様がお作りになったものと考えるのが良いと思います。従って、教会も国家もそれぞれ置かれた領域において、神の御言葉に従順になり、神さまに栄光を捧げなければならないということを、本日の個所から確認していきたいと思います。

【1】. 中央法廷による最終判決の権威

イスラエルの国家の働きにおいて、大切なことは王様である神さまが制定したその法律を守らせることでありますが、法律を守らせるため、法に違反する者たちをどのように取り締まるのかが重要な働きとなってまいります。18節では、それぞれの町に「裁判人」と「役人」を任命しなさいとあります。裁判人とは、ヘブライ語で「ショーフェティーム」という言葉でありまして、後で「士師」と訳される言葉です。サムソンとかギデオンとか、デボラなど、彼らのことをショーフェティーム(士師)と言います。また「役人」とは、その「助け手」とか、「官僚」という意味です。裁判人と役人は、裁きを曲げず、偏った判断をすることがないように、賄賂を受け取ってはなりませんでした。16:20~17:1節をご覧ください。

“ただ正しいことのみを追求しなさい。そうすれば命を得、あなたの神、主が与えられる土地を得ることができる。あなたは、あなたの神、主の祭壇を築いて、そのそばに、アシェラ像をはじめいかなる木の柱も据えてはならない。また、あなたの神、主が憎まれる石柱を立ててはならない。いかなる欠陥であれ傷のある牛や羊を、あなたの神、主にいけにえとしてささげてはならない。それは、あなたの神、主のいとわれることである。”

カナンの女神であるアシェラ像は、神木のように地面に植えられた木であったようです。それから、主が憎まれる石柱とは、カナンの繁栄をもたらす神、バアルを象徴していたのかもしれません。ここで裁判人と役人を任命する目的というのは、もっと言えば、国家の目的というのは、まさに16:20節の言葉に集約されていると言えるでしょう。「ただ正しいことのみを追求しなさい。」ヘブライ語の聖書では「正義」という言葉が重ねられていて、「正義を、ただ正義を追求しなさい。」となっています。この正義を追求する上で、特に最優先順位を置かれている法律は、主なる神との契約の関係を守る法でありました。イスラエルにとって主との関係、まずこれありきで始まるために、主なる神を畏れさせ、偶像礼拝を大変厳しく取り締まらなければならないのです。もし民の間で、偶像礼拝が事実であると判明したなら、その人は男であれ、女であれ、石打ちで死刑に処せられました。ただ、死刑の執行にあたっては、少なくとも、二人ないし三人の証言が必要とされました。もし死刑の判決が下された場合、まず、証人である彼が犯罪人に対して石を投げなければなりませんでした。従って、証人は死刑執行人となる覚悟をしながら証言をしなければならないということです。もし、その証言が偽りであったなら、自分自身が殺人罪に問われ、自分が死刑に処せられるかもしれないという、それほど命がけの行為であったという事です。いずれにせよ、ここで強調されていることは、イスラエルの共同体から悪を取り除くことであり、そして、主なる神を恐れるようにさせて、犯罪を未然に防ぐことにありました。

もし、それぞれの町々で、流血、もめ事、傷害などの訴えを裁判することが極めて難しい場合、主が選ばれる場所に上り、祭司と裁判人のもとにその問題を持って行かなければなりません。この中央法廷での判決は、まさに最終判決として大変重みがあり、その判決に対しては絶対従順が要求されます。この中央法廷とは、イエス様の時代には祭司と長老と律法学者から成る、サンヘドリン最高議会という形で機能していたと言えるでしょう。17:11~13節をご覧ください。

あなたは彼らの示す指示と下す判決に従い、彼らが告げる言葉に背いて、右にも左にもそれてはならない。あなたの神、主に仕えてそこに立つ祭司あるいは裁判人を無視して、勝手にふるまう者があれば、その者を死刑に処し、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。民は皆、これを聞くと、恐れを抱き、もはや勝手にふるまうことはないであろう。

中央法廷が下す最終判決がいかに重たいものなのか、そして権威があったのかということが書かれています。この権威とは、その時に任命されている、祭司と裁判人に権威があったという事なのでしょうか。或いはイエス様の時代で言うなら、サンヘドリンの議員たちに権威があったということなのでしょうか。11節を丁寧に読むと、どうやら、そうではないようです。11節において、「彼らの示す指示と下す判決に従って」とありますが、ヘブライ語の聖書を見ますと、「指示」という言葉が「トーラー」という言葉になっています。つまり、時の祭司と裁判人に権威があったというより、むしろ神によって与えられた「御教え」である「トーラー」に、つまり「律法」に権威があったという事です。トーラーに照らしてみて、極めて難しい問題に対しても判決が導き出されたということです。このことが意味することが何なのかについて、さらに深堀りしていきたいと思います。

【2】. 国家が依って立つ権威

聖書には「復讐と報復は神のものである」と書かれています(ロマ12:19)。この言葉には罪人である人間には、決して他人を裁くことなど出来ないということの暗示であると思われます。祭司や裁判人が人を裁くのは、自分の復讐のために、報復のために裁いているのではありません。神の律法に従って、神の御教えに従って、神の裁きを代行しているという事です。このことは、現代、私たちの国の法律で定められている刑罰にも適用できる内容で、その法律を制定した人たちは、そのようには考えなかったとしても、国家における裁判人は、実は神の裁きを代行しているということを自覚すべきだと思います。なぜなら、人間は、元来罪人であって、神の法が定めている全ての戒めを違反した者として、決して他人を裁くことはできないからです。私たちは、他人を自分の審判席に召喚し、審判することのできる、いかなる権利も持ち合わせていないのです。17:11節で確認したように、中央法廷による最終判決は、人に権威があるのではなく、神の御教えに、神のトーラーに権威があるということでした。そうであるなら、現代における私たちの国家で制定されている法律というのも、たとえ制定した人たちはそのようには考えなかったとしても、究極的には神の権威に依って立っているということが推測できるのです。法の究極的権威は神様なのです。

ところで、以前の説教でもお話ししましたが、罪を犯した人間に対して、神の裁きは直ちに、そして100%、完全に執行されるということはありませんでした。その完全な刑罰はやがての日まで、主の再臨の日まで、緩和され、延期されているのは、神がご自身の民に対し別の計画を持っておられたからです。別の計画というのは、救い主イエス・キリストによる「救いと回復」という計画です。イエス・キリストを自らの救い主として信じ、告白する者には、罪の赦しが与えられ、神の義が回復されます。従って、律法の中で命じられている「刑罰」というのも、実はこのイエス・キリストによる「救いと回復」がその根底に敷かれていると言えるでしょう。キリストの再臨の日まで完全な刑罰の執行は延期されており、それ迄、この地上において執行される神の刑罰というのは、たとえ死刑であっても、罪に対する応報的な刑罰ではなく、怒るのに遅い、神の憐れみが根底に敷かれているということです。従って刑罰の目的とは、罪人をイエス・キリストへ導くことであり、義を回復させて、神を畏れるようにさせ、罪の予防するところにあると言えるのです。

ところが、19世紀から20世紀にかけて、古代キリスト教の価値観が軽視されるようになりました。相対主義的価値観が蔓延するようになったのです。国家は、無神論を唱えるようになり、絶対的正義など存在しないと主張し、相対的な見方の中で、人間と、罪と、犯罪の問題を、聖書の視点とは異なる視点から眺めるようになりました。どういうことか申しますと、罪と犯罪は、当人の責任ではなく、そもそも罪と犯罪は、動物的本能の結果であり、後遺症であるため、彼の本性や、彼を取り巻く環境、彼の属している社会から、その犯罪が説明されなければならないと主張するようになっていったのです。例えば、犯罪者当人の性格に焦点を当ててみて、「彼のこういった世話好きな性格が今回は裏目に出てしまった」とか、「今回の事件は、犯罪というより、社会の構造が生み出してしまった必然的な事故」であったと結論づけるのです。この見方は確かに大切であり、刑罰の前提には必ず憐れみがあるべきです。しかし、犯罪というものを現象として捉え、社会的な病気、社会的集団の傷であると理解し、人間が風邪をひくように、或いは、転んで骨折してしまうように、社会が犯罪者を持つことは当然のことだと言い始めるなら、それは行き過ぎであると言えるでしょう。「犯罪という現象は、当人の責任ではない」「むしろ、社会が彼に対し教育を十分に施すことができなかったことを反省すべきである。彼はむしろ社会の犠牲者だ」と主張するようになってきます。このように神を否定し、法が依って立つ絶対的な正義を否定するなら、もはや犯罪者に対して刑罰を下すことが難しくなってしまいます。そうなると国家は犯罪者から国民を守るために、社会が犯罪者を一生懸命教育したり、改善するように投資するにせよ、或いは、そのような予算がなくなり犯罪者を厳しく弾圧するにせよ、いずれにしても、国家は常に自分にとって都合の良い実用性の立場の取るようになってしまうのです。絶対的な、価値観がそこには欠けているのです。神を否定し、犯罪と病気の間の境界線を取り除く者は、正義の原理の上に樹立された国家を、人間的な慣習の上に樹立された国家として没落させてしまい、最終的には、全ての市民を、独裁的な国家の支配に譲り渡し、国民の自由を奪ってしまうのです。従って、教会も国家も、神を神として仰ぎ、それぞれ置かれた領域において神の御言葉に従順し、神さまに栄光を帰さなければならないのです。

【結論】

教会の領域も、国家の領域も、神様がお作りになったものであり、神が支配しておられ、国の法律とは、神の権威の上に依って立っていることを、本日覚えたいと思います。それはたとえ日本のように神様のことを知らない人々が大多数を占める異教国家でさえ、それは当てはまります。神のトーラーに、神の御教えにこそ究極的権威があり、すべての最終判決は、そこに係っているのです。立てられている裁判人や役人たちは、神の僕であり、神の御心を代行しているという意識も決して忘れるべきではないでしょう。イスラエルが神政国家であったように、現在の私たちの国も私たちの祈りと働きかけによって、国の為政者が神の御心に従うことができるように日々祈ってまいりましょう。そして、教会も国家も、互いに神さまから豊かに祝福されるように祈ってまいりましょう。

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공의로운 재판 옳바른 예배

2022년 5월 22일 센겐다이교회 주일예배

신명기 16장 18~17장 13절

서론

오늘의 구절은 크게 두 가지 내용으로 나눌 수 있습니다. 처음에 각 성의 재판장들과 지도자들의 임명에 대해 쓰여져 있고, 이어서 재판의 실천에 대해서 쓰여져 있습니다. 재판의 실천에 관해서는 더욱 세밀하게 단락을 나눌 수 있는데, 17장 2~7절에서는 「주 하님과의 언약을 위반한 경우」에 대해서, 또 8~13 절에는 일반적으로 판결하기 어려운 경우에 있어서 그 문제가 「중앙법원으로 가지고 가야 할 경우」에 관해서 쓰여져 있습니다. 전체적인 배경으로 이스라엘 부족들이 족장사회에서 국가로 조금씩 발전해 가는 가운데 모세가 국가의 토대를 세우고 있다고 할 수 있습니다. 무슨 말이냐하면 장을 세워서 조직화하는 일은 사실 예전에도 있었습니다. 처음 광야에서 이스라엘을 재판 해 온 것은 오로지 종교 지도자였던 모세 한 사람이었습니다. 어느날, 장인 이드로에게서 사소한 문제는 모세에게 직접 가져오지 말고 각각 뽑힌 사람을 임명해서 그들이 재판 하도록 하라는 조언을 받았고, 모세는 조언대로 각각의 리더를 선출한 것입니다. 그리고 그들이 재판 하기 어려운 문제만을 모세에게 가져오도록 시킨 것입니다. 출애굽기 18장 22~26절에는 그 이드로의 조언과 그에 따른 모세의 이야기가 적혀 있습니다. 보시기 바랍니다.

22 그들이 때를 따라 백성을 재판하게 하라 큰 일은 모두 네게 가져갈 것이요 작은 일은 모두 그들이 스스로 재판할 것이니 그리하면 그들이 너와 함께 담당할 것인즉 일이 네게 쉬우리라

23 네가 만일 이 일을 하고 하나님께서도 네게 허락하시면 네가 이 일을 감당하고 이 모든 백성도 자기 곳으로 평안히 가리라

24 이에 모세가 자기 장인의 말을 듣고 그 모든 말대로 하여

25 모세가 이스라엘 무리 중에서 능력 있는 사람들을 택하여 그들을 백성의 우두머리 곧 천부장과 백부장과 오십부장과 십부장을 삼으매

26 그들이 때를 따라 백성을 재판하되 어려운 일은 모세에게 가져오고 모든 작은 일은 스스로 재판하더라

이렇게 이전에 이미 천부장과 백부장과 오십부장과 십부장을 삼았다고 적혀 있습니다. 당시 세워진 각각의 장의 역할이 오늘 읽은 신명기에서 각 성의 재판관의 역활에 해당한다고 말할 수 있겠지요. 그리고 당시 모세가 하던 역할이 중앙법정의 역할에 해당한다고 볼 수 있지 않을까요? 여기서 족장 사회에서 국가로의 이동의 조짐을 우리들은 파악 할 수 있습니다. 족장 사회에서 국가로의 이동에 따라 점차 교회와 국가의 역할에 선을 긋게 되었습니다. 교회도 국가도 하나님이 만드신 것이기는 하지만 그 역할에 있어서 선 긋기가 이루어지게 되었다는 것입니다. 어쩌면 교회는 성스러운 일에 대해, 국가는 세속적인 일에 대해 다루도록 만들어 졌다고 생각하는 사람도 있을지 모르지만 그런 것은 아닙니다. 교회도 국가도 하나님이 지배하시고 교회도 국가도 죄인인 우리의 구원을 위해 없어서는 안 될 독자적인 일을 하기 위해 하나님이 만드신 것으로 생각하는 것이 좋다고 생각합니다. 따라서 교회도 국가도 각각 놓인 영역에서 하나님의 말씀에 순종하고 하나님께 영광을 드려야 한다는 것을 오늘의 본문에서 확인하고자 합니다.

(1) 중앙법원의 최종 판결 권위

이스라엘의 국가의 일에서 중요한 것은 왕이신 하나님께서 제정하신 율법을 지키게 하기 위해 법을 어기는 자들을 어떻게 단속하느냐가 중요한 일이 되었습니다. 18절에서는 각 성에서 재판장과 지도자를 두라고 되어 있습니다. 재판장은 히브리어로 「솨파트」라고 하는 단어인데 나중에 「사사」라고 번역되는 말입니다. 삼손이라든가 기드온이라든가 드보라 등 그들을 「솨파트(사사)」라고 합니다. 또 「지도자」란 도움자라든가 「관료」라고 하는 의미 입니다. 재판장과 지도자들은 재판을 바꾸거나 편향된 판단을 하는 일이 없도록 뇌물을 받아서는 안되었습니다. 16장 20~17장 1절을 참고하십시오.

16장

20 너는 마땅히 공의만을 따르라 그리하면 네가 살겠고 네 하나님 여호와께서 네게 주시는 땅을 차지하리라

21 네 하나님 여호와를 위하여 쌓은 제단 곁에 어떤 나무로든지 아세라 상을 세우지 말며

22 자기를 위하여 주상을 세우지 말라 네 하나님 여호와께서 미워하시느니라

17장

1 흠이나 악질이 있는 소와 양은 아무것도 네 하나님 여호와께 드리지 말지니 이는 네 하나님 여호와께 가증한 것이 됨이니라

가나안의 여신인 아세라 상은 神木(샤머니즘에서 하늘의 신이 내려오는 나무)처럼 지면에 심어진 나무였던 것 같습니다. 그리고 주님이 미워하시는 주상이란 가나안에 번영을 가져온다고 하는 신 바알을 상징했을지도 모릅니다. 여기서 재판장과 지도자를 임명하는 목적은 조금 더 말하자면 국가의 목적이라는 것은 바로 16장 20절 말씀에 집약되어 있다고 할 수 있습니다. 「마땅히 공의만을 따르라」라고 쓰여 있습니다. 히브리어 성경에는 「공의」라는 말이 겹쳐져 있고 「공의를, 오직 공의를 추구하라」라고 되어 있습니다. 이 공의를 추구하는 데 특히 최우선 순위를 두고 있는 율법은 주 하나님과의 언약 관계를 지키는 법이었습니다. 이스라엘에게 주님과의 관계가 먼저 큰 전제로서 시작하기 위해 주님을 경외케 하고 우상예배를 매우 엄격하게 단속해야 했습니다. 만약 백성들 사이에서 우상에게 절한 것이 사실로 판명되었다면 그 사람은 남자든 여자든 돌팔매질로 사형에 처해졌습니다. 다만 사형집행에 있어서는 적어도 두 사람이나 세 사람의 증언이 필요했습니다. 만약 사형 판결이 내려질 경우 증인인 그가 먼저 범죄인에게 돌을 던져야 했습니다. 따라서 증인은 사형집행인이 될 각오를 하면서 증언을 해야 한다는 것입니다. 만약 그 증언이 거짓이었다면 자기 자신이 살인죄로 기소도어 자신이 사형에 처해질 수도 있는 그만큼 목숨을 건 행위였다는 것입니다. 어쨌든 여기서 강조되는 것은 이스라엘 공동체에서 악을 제거하는 것이고, 그리고 주 하나님을 두려워하게 하여 범죄를 미연에 방지하는 데 있었습니다.

만약, 각각의 성에서 유혈, 분쟁, 상해 등의 소송을 판결하기 어려운 경우에는 하나님 여호와께서 택하실 곳으로 올라가서 레위 사람 제사장과 당시 재판장에 나아가서 물어야 했습니다. 이 중앙법정에서의 판결은 바로 최종 판결로서 매우 무게가 있으며 그 판결에 대해서는 절대 순종이 요구됩니다. 이 중앙법정은 예수님 시대에는 제사장과 장로와 율법학자로 구성된 산헤드린 최고의회의 형태로 기능했다고 할 수 있습니다. 17장 11~13절을 참조하십시오.

11 곧 그들이 네게 가르치는 율법의 뜻대로, 그들이 네게 말하는 판결대로 행할 것이요 그들이 네게 보이는 판결을 어겨 좌로나 우로나 치우치지 말 것이니라

12 사람이 만일 무법하게 행하고 네 하나님 여호와 앞에 서서 섬기는 제사장이나 재판장에게 듣지 아니하거든 그 사람을 죽여 이스라엘 중에서 악을 제하여 버리라

13 그리하면 온 백성이 듣고 두려워하여 다시는 무법하게 행하지 아니하리라

중앙법정이 내리는 최종판결이 얼마나 무거운지 그리고 권위가 있었는지가 적혀 있습니다. 이 권위는 그때 임명되어 있는 제사장과 재판인에게 권위가 있었다는 것입니까? 혹은 예수님 시대로 말한다면 산헤드린 의원들에게 권위가 있었다는 것입니까? 11절을 꼼꼼히 읽으면 아무래도 그렇지는 않은 것 같습니다. 11절에는 「그들이 네게 가르치는 율법의 뜻대로, 그들이 네게 말하는 판결대로」라고 되어 있는데, 히브리어 성경을 보면 「율법」이라고 하는 단어가 「토라」라고 하는 단어로 되어 있습니다. 즉 당시 제사장과 재판인에게 권위가 있었다기 보다는 오히려 하나님께서 주신 가르침인 「토라」에 즉 「율법」에 권위가 있다라는 것입니다. 토라에 비추어 볼 때 극히 어려운 문제에 대해서도 판결이 나왔다는 것입니다. 이것이 의미하는 바가 무엇인지에 대해 더욱 깊이 살펴보도록 하겠습니다.

(2) 국가의 토대인 권위

성경에는 「원수 갚는 것이 내게 있으니 내가 갚으리라」라고 적혀 있습니다(로마서 12장 19절). 이 말씀에는 죄인인 인간에게는 결코 타인을 심판할 수 없다는 것을 암시하는 것으로 보입니다. 제사장이나 재판장이 사람을 재판하는 것은 자신의 복수를 위해서 보복을 위해서 재판하는 것이 아닙니다. 하나님의 율법에 따라서 하나님의 가르침에 따라서 하나님의 심판을 대행하고 있다는 것입니다. 이것은 현대 우리나라의 법이 정한 형벌에도 적용할 수 있는 내용으로 그 법을 제정한 사람들은 그렇게 생각하지 않았더라도 국가에서 재판장은 사실 하나님의 심판을 대행하고 있다는 것을 알아야 한다고 생각합니다. 왜냐하면 인간은 원래 죄인이며 하나님이 정한, 법이 정한 모든 계명을 위반한 사람으로서 결코 다른 사람을 심판할 수 없기 때문입니다. 우리는 다른 사람을 자신의 심판석으로 소환하고 심판할 수 있는 어떠한 권리도 가지고 있지 않습니다. 17장 11절에서 확인했듯이 중앙법정에 의한 최종판결은 사람에게 권위가 있는 것이 아니라 하나님의 가르침에 하나님의 토라에 권위가 있다는 것입니다. 그렇다면 현대에 있어서 우리의 국가에서 제정되고 있는 법률이라는 것도 비록 제정한 사람들은 그렇게 생각하지 않더라도 궁극적으로 하나님의 권위를 토대로 해서 서 있다는 것을 짐작할 수 있는 것입니다. 법의 궁극적 권위는 하나님이십니다.

그런데 이전의 설교에서도 말씀드렸지만, 죄를 지은 인간에게 대해 하나님의 심판은 즉시 그리고 100% 완전히 집행되지는 않았습니다. 그 완전한 형벌이 이윽고 주님의 재림의 날까지 완화되고 연기되고 있는 것은 하나님께서 자신의 백성에 대해 다른 계획을 가지고 계셨기 때문입니다. 다른 계획은 구세주 예수 그리스도에 의한 「구원과 회복」이라는 계획입니다. 예수 그리스도를 자신의 구원자로서 믿고 고백하는 사람에게는 죄의 용서가 주어지고 하나님의 의가 회복됩니다. 따라서 율법 속에서 명하고 있는 형벌이라는 것도 사실 이 예수 그리스도에 의한 구원과 회복이 그 뿌리에 깔려 있다고 할 수 있겠습니다. 그리스도의 재림일까지 완전한 형벌의 집행은 연기 되었고 그때까지 이 지상에서 집행되는 하나님의 형벌이라는 것은 비록 사형일지라도 죄에 대한 응보적 형벌이 아니라 노하시기를 더디하시는 하나님의 연민이 바탕에 깔려 있다는 것입니다. 그러므로 형벌의 목적은 죄인을 예수 그리스도로 인도하는 것이며, 의를 회복시키고 하나님을 경외하게 하며 죄를 예방하는 데 있다고 할 수 있습니다.

그런데 19세기부터 20세기에 걸쳐 고대 기독교의 가치관이 경시되게 되었습니다. 상대주의적 가치관이 만연하게 된 것입니다. 국가는 무신론을 주창하게 되면서 절대적 공의란 존재하지 않는다고 주장하면서 상대적 시각속에서 인간과 죄와 범죄의 문제를 성경의 시각과는 다른 시각에서 바라보게 되었습니다. 무슨 말인가 하면 죄와 범죄는 당사자의 책임이 아니라 애초에 죄와 범죄는 동물적 본능의 결과이자 후유증이기 때문에 그의 본성과 그를 둘러싼 환경, 그가 속한 사회에서 그 범죄가 설명되어야 한다고 주장하게 된 것입니다. 예를 들어 범죄자 본인의 성격에 초점을 맞추어 “그의 아무 일에나 쓸데 없이 참견하는 그 성격이 이런 사고를 불러왔다”라거나 “이번의 사건은 범죄라고 말하기 보다는 사회의 구조가 만들어버린 필연적인 사고였다”고 결론짓는 것입니다. 이 견해는 확실히 중요하며 형별의 전제에는 반드시 연민이 있어야 합니다. 하지만 범죄라는 것을 현상으로 받아들이고 사회적 질병, 사회적 집단의 상처로 이해하고 인간이 감기에 걸리거나 넘어져 골절되는 것처럼 사회에 범죄자가 있는 것을 당연한 일이라고 말하기 시작한다면 그것은 지나친 것이라고 할 수 있을 것입니다. “범죄라고 하는 현상은 본인의 책임이 아니다” “오히려, 사회가 그에게 대해 교육을 제대로 시키지 못한 것을 반성을 해야 한다. 그는 오히려 사회의 희생자다”라고 주장하게 됩니다. 이처럼 하나님을 부정하고 법의 토대인 절대적인 정의를 부정한다면 더 이상 범죄자에 대해 형벌을 내리기가 어려워지고 맙니다. 그렇게 되면 국가는 범죄자로부터 국민을 보호하기 위해 사회가 범죄자를 열심히 교육하거나 개선하도록 투자하든. 아니면 그런 예산이 없어져 범죄자를 엄격하게 탄압하든 어쨌든 국가는 항상 자신에게 편리한 실용성 입장을 취하게 됩니다. 절대적인 가치관이 거기에는 결여되어 있는 것입니다. 하나님을 부정하고 범죄와 질병 사이의 경계선을 제거하는 자는 공의의 원리 위에 수립된 국가를 인간적 관습 위에 수립된 국가로 몰락시켜 버리고 결국 모든 시민을 독재적인 국가의 지배로 양도하여 국민의 자유를 빼앗아 버리는 것입니다. 그러므로 교회도 국가도 하나님을 하나님으로서 우러러 보고 각자 놓인 영역에서 하나님의 말씀에 순종하여 하나님께 영광을 올려 드려야 하는 것입니다.

결론

교회의 영역도 국가의 영역도 하나님이 만드신 것이며 하나님이 지배하고 계시며, 국가의 법률이라는 것은 하나님의 권위를 토대로 해서 세워진 것을 오늘 기억하면 좋겠습니다. 그것은 비록 일본처럼 하나님을 모른 사람들이 다수를 차지하는 이교국가조차도 해당되는 것입니다. 하나님의 토라에 하나님의 가르침에 그 궁극적인 권위가 있으며, 모든 최종판결은 그 권위에 관련되어 있는 것입니다. 세워져 있는 재판장이나 관리들은 국가가 하나님의 나라이며 하나님의 마음을 대행하고 있다는 의식도 결코 잊지 말아야 할 것입니다. 이스라엘이 신정국가였던 것처럼 현재 우리나라도 우리의 기도와 움직임으로 나라의 정치가들이 하나님의 마음을 따를 수 있도록 날마다 기도해 갑시다. 그리고 교회도 국가도 하나님의 풍성한 복을 받을 수 있도록 기도해 나갑시다.

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