2022年05月15日「三つの祝祭 이스라엘의 중요한 세가지 절기」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千間台教会のホームページへ戻る

三つの祝祭 이스라엘의 중요한 세가지 절기

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 16章1節~17節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

16:1アビブの月を守り、あなたの神、主の過越祭を祝いなさい。アビブの月のある夜、あなたの神、主があなたをエジプトから導き出されたからである。
16:2あなたは、主がその名を置くために選ばれる場所で、羊あるいは牛を過越のいけにえとしてあなたの神、主に屠りなさい。
16:3その際、酵母入りのパンを食べてはならない。七日間、酵母を入れない苦しみのパンを食べなさい。あなたはエジプトの国から急いで出たからである。こうして、あなたはエジプトの国から出た日を生涯思い起こさねばならない。
16:4七日間、国中どこにも酵母があってはならない。祭りの初日の夕方屠った肉を、翌朝まで残してはならない。
16:5過越のいけにえを屠ることができるのは、あなたの神、主が与えられる町のうちのどこででもよいのではなく、
16:6ただ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所でなければならない。夕方、太陽の沈むころ、あなたがエジプトを出た時刻に過越のいけにえを屠りなさい。
16:7それをあなたの神、主が選ばれる場所で煮て食べ、翌朝自分の天幕に帰りなさい。
16:8六日間酵母を入れないパンを食べ、七日目にはあなたの神、主のために聖なる集まりを行い、いかなる仕事もしてはならない。
16:9あなたは七週を数えねばならない。穀物に鎌を入れる時から始めて七週を数える。
16:10そして、あなたの神、主のために七週祭を行い、あなたの神、主より受けた祝福に応じて、十分に、あなたがささげうるだけの収穫の献げ物をしなさい。
16:11こうしてあなたは、あなたの神、主の御前で、すなわちあなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、息子、娘、男女の奴隷、町にいるレビ人、また、あなたのもとにいる寄留者、孤児、寡婦などと共に喜び祝いなさい。
16:12あなたがエジプトで奴隷であったことを思い起こし、これらの掟を忠実に守りなさい。
16:13麦打ち場と酒ぶねからの収穫が済んだとき、あなたは七日間、仮庵祭を行いなさい。
16:14息子、娘、男女の奴隷、あなたの町にいるレビ人、寄留者、孤児、寡婦などと共にこの祭りを喜び祝いなさい。
16:15七日間、主の選ばれる場所であなたの神、主のために祭りを行いなさい。あなたの神、主があなたの収穫と手の業をすべて祝福される。あなたはただそれを喜び祝うのである。
16:16男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。
16:17あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 16章1節~17節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

本日はイスラエルの三つの祝祭である、過越しの祭、七週の祭、そして仮庵の祭について、聖書の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。先週の説教では、ユダヤ人の生活は、安息日を中心に安息日から安息日へと繰り返されていると言っても言い過ぎではないと申し上げましたが、本日の個所ではさらに視野を広げて、ユダヤ人の生活は一年の節気を中心に、一年の巡礼祭を中心に、繰り返されていると言っても言い過ぎではないかもしれません。この祭の時には、イスラエルの成年男子は、必ず礼拝を捧げるために主の定められた場所へ巡礼しなければなりませんでした。現在においても、ユダヤ人は外国に離散しているディアスポラも含めて、三大祝祭のシーズンになるとエルサレムへ、巡礼をしてやって来ます。そのためエルサレムは巡礼祭の時期、大変混雑するようです。神さまはなぜ、ご自身の民に、繰り返し、巡礼祭を守るように命じられたのでしょうか。そこには格別な神さまの思いが込められていたはずです。私たちがすぐに思いつくのは、この三つの祭が、すべてエジプトからの贖いに関連づけられているということです。以前、奴隷であったイスラエルの民が主の恵みによって解放されたことを、この三大祝祭を通して思い起こすため、ということでありましょう。しかし、同時に、もっと深い霊的な意味も込められているようです。なぜなら出エジプトというのは、詰まるところ、私たちの「罪の奴隷からの解放」を意味しているからです。一言で言えば、私たちの「救い」を意味しているからです。従って繰り返し守られた巡礼祭とは、究極的には、神の救いを説明するものとして、イスラエルの民に迫ってくるのであります。神様の救いというのは一時的なものではなく、プロセスでありまして、それは、救いの成就であり、聖霊の結実であり、救いの完成であるということです。過越しの祭と、七週の祭と、仮庵の祭、これらは、まさにイエス・キリストによってもたらされた、「救いの成就」、「聖霊の降臨」、そして「救いの完成」を説明するものとして私たちに迫ってくるのであります。

【1】. 過越しの祭

それでは最初に過越しの祭から具体的に見てまいります。16:1節に「アビブの月」という言葉が出てきます。アビブとは「麦の新しい穂」という意味です。イスラエルではアビブの月から穀物の収穫のシーズンが始まりますが、過越しの祭とは、特に大麦の刈り入れの祭でもありました。4月のこの時期は、所謂「後の雨」が降る季節でもあり、この「後の雨」が止んだら乾季に突入します。アビブの月は、後でバビロニア暦が導入されて「ニサンの月」という言葉に言い換えられますけれども、開始の月、第1月を表していました。そもそもこの第1月、アビブの月とは、イスラエルの民が実際に出エジプトをした時に、その出来事を記念して、イスラエルの暦の開始の月、第1月としなさいと神さまに定められたものであったのでございます。それではイスラエルの民にとって、出エジプトとは何だったのでしょうか、それは、彼らがエジプトの支配に我慢ならず、民衆が蜂起して自由を勝ち取ったというものではありません。そのような戦勝記念日ではありません。出エジプトの出来事とは、その日、イスラエルの家の門柱と鴨居に子羊の血が塗られ、その血が塗られていないエジプト全土の家の長子が殺された事件です。奴隷から家畜に至るまで、すべての長子が打たれました。その日、エジプトの全土から悲鳴の叫び声が上がり、「イスラエルを追い出さない限り、われわれも皆死んでしまう」と極度な恐れに見舞われたのであります。こうして奴隷のイスラエルを解放せざるを得ないような状況に追い込まれてしまいました。「どうか、出て行って欲しい」とイスラエルの民はエジプト人にお願いされた訳です。その際、エジプト人に対して金の飾りや着物などを求めると、望む通りにそれらが与えられました。出エジプトとは、奴隷であったイスラエルに解放がもたらされた日でありますが、それは大変不思議な事件であり、神の一方的な恵みの業によるものでありました。

申命記の16:1~8節までが過越しの祭の説明になっています。ここでは過越しの祭と除酵祭が一つの祭として説明されていますが、聖書の他の個所を見ますと、別々に記述されている場合もございます。この過越しの祭と除酵祭の関係の図を「2022年の教会暦」を例にして、抜粋のプリントに印刷してまいりました。そちらをご覧ください。過越しの祭とは正確に言うと、イエス様が弟子たちと過越しの食事をされた14日の木曜日の一日だけであります。その翌日からは除酵祭です。つまり15日から21日迄、黄色いマーカーで表示された一週間が除酵祭にあたります。除酵祭の最終日には聖なる会合が持たれました。14日も含めてこの期間は、酵母の入っていないパンを食べなければなりませんでした。16:3~4をご覧ください。

“その際、酵母入りのパンを食べてはならない。七日間、酵母を入れない苦しみのパンを食べなさい。あなたはエジプトの国から急いで出たからである。こうして、あなたはエジプトの国から出た日を生涯思い起こさねばならない。七日間、国中どこにも酵母があってはならない。祭りの初日の夕方屠った肉を、翌朝まで残してはならない。”

この期間は、マッツァと呼ばれる酵母を入れない「苦しみのパン」を食べなければなりませんでした。マッツァ(複数形はマツォト)は、遊牧民の間では一般的な食物でしたが、基本的には貧しい人々が食べていた食物です。それを食べるのは、出エジプトをしたあの夜、急いでエジプトを出発したことを思い起こすためでありました。過越しの祭で屠られた子羊が、イエス・キリストを表していることは、私たちの聖餐式を通して毎回確認していることであります。イエス様が私たちの代わりに死んでくださったので、イエス様が十字架上で私たちの代わりに罪の代価を支払ってくださったので、イエス・キリストを救い主として信じる者は、罪赦され義とされるのです。ですから過越しの祭は、キリストによる救いの成就を意味しているのであります。

【2】. 七週の祭

続いて七週の祭です。七週の祭は、小麦の刈り取りの祭です。七週の祭の特徴は、喜びを分かち合うということだと思います。過越しの祭が、苦しみのパンを食べながら厳粛に守られたのに対して、七週の祭では、普通のパンを食べたと思われます。そして16:11節を見ますと、息子、娘、男女の奴隷、町にいるレビ人、寄留者、孤児、寡婦などと共に喜び祝うように命じられています。この奴隷や寄留者、孤児ややもめとは、まさにイスラエルが救われる前の状態を象徴しているかのようです。あなた方も、以前は貧しく、弱い者であったのだから、そのような者たちと共に喜び祝いなさいと主は言われるのです。七週の祭は五旬節(ペンテコステ)とも呼ばれ、過越しの祭と深く関連付けられていました。どういうことかと申しますと、過越しの祭の最中に必ず安息日が一度訪れます。その安息日の翌日に、穀物に鎌を入れ、祭司は刈り入れた初穂を主の御前に差し出しました。英語の聖書ではwaveという言葉が使われていて、祭司が主の前に「揺り動かした」となっています。祭司が初物を奉献した儀式を特に「初物の奉献」と呼ばれています。レビ記23:10-11には、そのことについて書かれています。ご覧ください。

“イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。わたしが与える土地に入って穀物を収穫したならば、あなたたちは初穂を祭司のもとに携えなさい。祭司は、それを主に受け入れられるよう御前に差し出す(揺り動かす)。祭司は安息日の翌日にそれを差し出さ(揺り動かさ)ねばならない。”

この「初物の奉献」から七週間後、49日後に、七週の祭が規定されていましたので、七週の祭は、必ず週の初めの日、日曜日になるように決まっていたのです。今年の教会暦で言うと、過越しの祭の期間中にある16日に安息日が訪れていますね。その翌日である17日が「初物の奉献」で、その日から七週間後の6/5が七週の祭、つまり五旬節となるわけです。ところで、パウロによると、この初物を奉献したこの日、鎌を入れて祭司によって初穂が捧げられたこの日は、イエス・キリストの復活を表していると解釈しています。1コリントの手紙15:20をご覧ください。

“しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。”

パウロが復活したキリストのことを初穂という言葉で表現しています。イエス様は、十字架に架かられ、週の初めの日に蘇られましたね。私たちはそれをイースターと呼んで4/17にお祝いしました。このイースターというのは、旧約聖書で言う「初物の奉献」であったとパウロは言っているのです。ですから、私たちはペンテコステの日に聖霊降臨を祝いますが、このペンテコステは、まさにイエス・キリストの復活後、七週目、49日目ということで連動されているのです。また、ユダヤ人の伝承によれば、出エジプトの後、七週の後にシナイ山において律法が授与されたとも言われています。従って、七週の祭、ペンテコステというのは、律法が授与されたことをお祝いする祭でもありました。恵みによって贖われた民として、神の律法を守り、実を結ぶように、招かれているのです。新約時代に生かされている私たちにとっては、聖霊が降臨されて、まさに聖霊の実を豊かに結ぶようにと勧められているのです。イエス様を信じた後、隣人を愛し、貧しい者、弱い者を特に顧みて、自身が受けた恵みを互いに分かち合うようにと勧められているのです。

【3】. 仮庵の祭

最後に仮庵の祭です。この祭りは「仮庵」という言葉に示されているように、仮小屋で七日間を過ごしながら、出エジプトをした後、荒れ野において仮の住まいに住まわせられたことを覚えるためのものです。現在でもイスラエルに行くと、仮庵の祭の時期には、アパートのベランダに仮小屋を立てて、本来の家ではない、その場所で七日間を過ごしています。快適なエアコンの効いた部屋ではなく、外の仮小屋で過ごすのです。それは出エジプトをした後、40年間荒れ野で過ごしたことを覚えるためでした。もう一つ仮庵の祭の意味として、収穫の完成という意味もありました。16:13節をご覧ください。

“麦打ち場と酒ぶねからの収穫が済んだとき、あなたは七日間、仮庵祭を行いなさい。”

「麦打ち場と酒ぶねからの収穫が済んだとき」、つまり、最後に熟した穀物と果物を収穫して貯蔵してからこの祭が祝われたということです。この祭りも七週の祭のように、息子、娘、男女の奴隷、町にいるレビ人、寄留者、孤児、寡婦などと共に喜び祝いましたが、この祭りでは特に「喜び」が強調されています。それは七週の祭に勝る喜びでした。14節に「喜び祝いなさい」という言葉があり、また、15節にも「喜び祝うのである」と繰り返されています。それから、新共同訳では少しわかりづらいですが、15節には、修飾語がついていて「喜び祝いなさい」という言葉の前に「大いに」ですとか「ただただ」喜び祝いなさいとなっています。ですから、この仮庵の祭とは、収穫の完成のために、「ただただ」喜びに満ち溢れた日であったということが伝わってまいります。これは一体何を意味しているのでしょうか。ある注解書によると仮庵の祭とは収穫の完成ですから、それは栄光に満ちた最後の審判を意味していると書かれていました(S.H.ケロッグ)。主が再臨されて、すべてが整理され、世が改まること、つまり救いの完成を説明しているのであります。その日には麦打ち場で、最後の収穫を収め、麦と、もみ殻にふるい分けられるのです。その日は、あたかも、良い麦は主の倉へ貯蔵され、毒麦は火の炉に投げ込まれるかのようであります。その日は、あたかも、地引き網が引かれ、良い魚は貯蔵され、悪い魚は捨てられるかのようであります。その日は、あたかも、ぶどうが酒ぶねで踏まれるように、神の激しい怒りが都の外で踏まれ血がそこから流れ出るような恐ろしい審判の日であります。この時、義しい者たちは御国で太陽のように輝きます。ですから仮庵の祭を真に祝うことのできた人々は、この世における、私たちの肉体とは、まさにテントであり、それは仮住まいに過ぎなかったという事を確認するのです。そして私たちの本当の家は、私たちの本当の身体は、復活の身体であり、栄光に満ちた身体であるということを確認することになるのです。収穫の完成、それは審判を受ける者たちには大変恐ろしい日でありますが、キリストの血によって義とされた者たちには、あまりにも豊かで、あまりにも栄光に富んだ、ただただ、喜ばしい日となるのです。

【結論】

イスラエルの三つの祝祭である、過越しの祭、七週の祭、そして仮庵の祭を見てまいりました。これらはすべてエジプトからの贖いに関連づけられていましたが、霊的な意味において、それは救いのプロセス全体を表していたという事であります。過越しの祭とは、イエス・キリストによる救いの成就であり、七週の祭とは、聖霊の降臨、そして仮庵の祭は、救いの完成でございます。私たちは過越しの祭の実体と、七週の祭の実体を歴史的に体験していますが、仮庵の祭の実体は、未だ体験してはおりません。栄光に満ちた救いの完成、つまり仮庵の祭を真に捧げる時に、私たちのこの世の人生は、旅人にすぎなかったこと、私たちの身体は仮住まいの天幕に過ぎなかったことを確認することが出来るのです。その時、私たちの喜びは、普通の喜びではない、大いなる喜びへと昇華されるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

이스라엘의 중요한 세가지 절기

2022년 5월 15일 센겐다이교회 주일 설교

신명기 16장 1~17절

서론

오늘은 이스라엘의 세 가지 절기인 유월절, 칠칠절, 그리고 초막절에 대한 성경 말씀을 살펴보고자 합니다. 지난주 설교에서는 유대인의 생활이 안식일을 중심으로 안식일에서 안식일로 반복되고 있다고 해도 지나치지 않다고 말씀드렸지만, 오늘의 구절에서는 더욱 시야를 넓혀 유대인의 생활은 한 해의 절기를 중심으로 한 해의 순례제를 중심으로 반복되고 있다고 해도 지나치지 않습니다. 이 절기때 이스라엘 성년 남자들은 반드시 예배를 드리기 위해 주님께서 정하신 장소에 순례해야 했습니다. 오늘날에도 유대인들은 외국에 흩어진 디아스포라를 포함하여 3대 절기 시즌이 되면 예루살렘으로 순례를 하러 옵니다. 그래서 예루살렘은 순례절기 시기에 매우 혼잡한 것 같습니다. 하나님은 왜 자신의 백성들에게 반복해서 순례절기를 지키라고 명령하셨을까요? 거기에는 각별한 하나님의 마음이 담겨 있었을 것입니다. 우리가 바로 생각할 수 있는 것은 이 세 가지 절기가 모두 애굽으로부터의 속죄와 연관되어 있다는 것입니다. 이전에 종의 신분이었던 이스라엘 백성들이 주님의 은혜로 해방되었음을 이 세 가지 절기를 통해 상기시키기 위해서입니다. 그러나 동시에 더 깊은 영적인 의미도 담겨있는 것 같습니다. 왜냐하면 출애굽이라는 것은 결국 우리의 「죄의 종에서의 해방」을 의미하기 때문입니다. 한마디로 우리의 「구원」을 의미하기 때문입니다. 따라서 반복적으로 지켜진 순례절기는 궁극적으로 하나님의 구원을 설명하는 것으로 이스라엘 백성들에게 다가옵니다. 하나님의 구원이란 일시적인 것이 아니라 과정이고, 그것은 구원의 성취이며 성령의 결실이며 구원의 완성이라는 것입니다. 유월절과 칠칠절과 초막절 이 절기들은 그야말로 예수 그리스도에 의해서 초래된 「구원의 성취」, 「성령 강림」 그리고 「구원의 완성」을 설명하는 것으로 우리에게 다가옵니다.

(1) 유월절

그럼, 첫 번째로 유월절부터 구체적으로 살펴보겠습니다. 16장 1절에 「아빕월」이라는 단어가 나옵니다. 아빕월은 「곡식의 어린 이삭」이라는 뜻입니다. 이스라엘에서는 아빕월에서부터 수확의 시즌이 시작됩니다만, 유월절란 특히 보리 수확의 제사이기도 했습니다. 4월의 이 시기는 이른바 「늦은비」가 내리는 계절이기도 하며, 이 「늦은비」가 그치면 건기에 돌입합니다. 아빕월은 나중에 바빌로니아력이 도입되면서 「니산월」로 바꾸어지게 되었는데, 첫 달, 제 1월을 나타내고 있습니다. 원래 이 제 1월, 아빕월은 이스라엘의 백성이 실제로 출애굽을 했을 때에 이 일을 기념하여 이스라엘 달력의 첫 달 제 1월로 삼으라고 하나님께서 정하신 것입니다. 그렇다면 이스라엘 백성들에게 출애굽이란 무엇이었을까요. 그것은 그들이 애굽의 지배를 참지 못하고 민중이 봉기하여 자유를 쟁취했다는 것이 아닙니다. 그런 전승기념일은 아닙니다. 출애굽에서 일어난 일은 그날 이스라엘 집안의 인방과 좌우 문설주에 어린 양의 피가 칠해지고 그 피가 칠해지지 않은 애굽 전역의 온 집안의 장자가 죽은 사건입니다. 노예부터 가축에 이르기까지 모든 장자가 죽었습니다. 그날 애굽 전역에서 비명이 터져 나와 이스라엘을 쫓아내지 않는 한 우리도 모두 죽고 만다며 극도의 두려움에 휩싸였습니다. 이렇게 종살이 하던 이스라엘을 해방시킬 수밖에 없는 상황에 몰리고 말았습니다. 애굽인들은“제발 나가 달라”고 이스라엘 백성들에게 부탁을 했습니다. 이스라엘 백성은 그 때 애굽 사람에게 은금 패물을 요구했고 여호와께서 애굽 사람들에게서 이스라엘 백성이 은혜를 입히게 하사 그들이 구하는 대로 주게 하셨습니다. 출애굽이라는 것은 종살이 하던 이스라엘에 해방이 온 날인데 이것은 매우 놀라운 사건이며 하나님이 일방적인 은혜의 역사에 의한 것입니다.

신명기의 16장 1~8절까지가 유월절에 대한 설명입니다. 이곳에서는 유월절과 무교절이 같은 제사로서 설명되어 있습니다만 성경의 다른 부분을 보면 따로 기술되어 있는 경우도 있습니다. 유월절과 무교절의 관계도를 「2022년 교회력」을 예로 들어 발췌 프린트 해 왔습니다. 한번 보시죠. 유월절이란 정확히 말하면 예수님께서 제자들과 유월절을 식사를 하신 14일의 목요일 하루뿐입니다. 그 다음날부터는 무교절입니다. 즉 15일부터 21일까지 노란 색으로 표시된 일주일이 무교절에 해당합니다. 무교절 마지막 날에는 성회를 가졌습니다. 14일을 포함하여 이 기간은 누룩이 들어 있지 않은 떡을 먹어야만 했습니다. 16장 3,4절을 참조하십시오.

3 유교병을 그것과 함께 먹지 말고 이레 동안은 무교병 곧 고난의 떡을 그것과 함께 먹으라 이는 네가 애굽 땅에서 급히 나왔음이니 이같이 행하여 네 평생에 항상 네가 애굽 땅에서 나온 날을 기억할 것이니라

4 그 이레 동안에는 네 모든 지경 가운데에 누룩이 보이지 않게 할 것이요 또 네가 첫날 해 질 때에 제사 드린 고기를 밤을 지내 아침까지 두지 말 것이며

이 기간에 「맛차」라는 누룩을 넣지 않은 「고난의 떡」을 먹어야만 했습니다. 맛차는 유목민들 사이에서는 일반적인 음식입니다만 기본적으로 가난한 사람들이 먹던 음식입니다. 그것을 먹는 것은 출애굽을 하던 그날 밤 서둘러 애굽을 출발해야 했음을 상기시키기 위해서였습니다. 유월절에서 도살된 어린 양이 예수 그리스도를 나타내는 것은 우리들이 하는 성찬식을 통해 매번 확인하고 있습니다. 예수님이 우리들 대신에 죽으셨기 때문에 예수님께서 십자가 위에서 우리 대신 죄값을 치르셨기 때문에 예수님을 구원자로 믿는 자는 죄 용서받고 의롭게 여겨지는 것입니다. 그래서 유월절은 그리스도에 의한 구원의 성취를 의미하는 것입니다.

(2) 칠칠절

이어서 칠칠절입니다. 칠칠절은 밀 수확 제사입니다. 칠칠절의 특징은 즐거움을 나누는 것이라고 생각합니다. 유월절이 고난의 떡을 먹으며 엄숙하게 지켜진 반면 칠칠절에서는 보통의 떡을 먹었다고 생각됩니다. 그리고 16장 11절을 보면 아들, 딸, 남종과 여종, 마을에 있는 레위인, 나그네, 고아, 과부등과 함께 즐거워하며 축하하라고 명하셨습니다. 이 종이나 나그네, 고아나 과부란 바로 이스라엘이 구원받기 전의 상태를 상징하는 것 같습니다. 너희도 예전에는 가난하고 약한 자였으니 그런 자들과 함께 즐거워하며 축하하라고 주님은 말씀하십니다. 칠칠절은 오순절(펜테코스테)이라고도 불리며 유월절과 깊은 관련이 있었습니다. 무슨 말이냐면 유월절 중에 반드시 안식일이 한 번 찾아옵니다. 안식일 다음 날 곡식에 낫을 대고 제사장은 추수한 첫 이삭 한 단을 주님 앞에 바쳤습니다. 영어성경에 wave라는 말이 쓰이고 있으며, 제사장이 여호와 앞에서 「흔들었다」고 되어 있습니다. 제사장이 맏물을 봉헌한 의식을 특히 「맏물의 봉헌」이라고 부릅니다. 레위기 23장 10,11절에는 그것에 대해 쓰여져 있습니다. 보시기 바랍니다.

10 이스라엘 자손에게 말하여 이르라 너희는 내가 너희에게 주는 땅에 들어가서 너희의 곡물을 거둘 때에 너희의 곡물의 첫 이삭 한 단을 제사장에게로 가져갈 것이요

11 제사장은 너희를 위하여 그 단을 여호와 앞에 기쁘게 받으심이 되도록 흔들되 안식일 이튿날에 흔들 것이며

이 「맏물의 봉헌」이후 7주간 후, 49일 후에 칠칠절이 규정되어 있기 때문에 칠칠절은 반드시 주의 첫 날, 일요일이 되도록 정해져 있었습니다. 올해 교회력으로 말하자면, 유월절 기간 중인 16일에 안식일이 돌아왔네요. 그 다음날인 17일이 「맏물의 봉헌」이고 그로부터 7주후인 6월 5일이 칠칠절 즉, 오순절인 셈입니다. 그런데 바울에 따르면 이 맏물을 봉헌한 이날 낫을 대고 제사장에 의해 첫 열매가 바쳐진 이날은 예수 그리스도의 부활을 나타내는 것으로 해석하고 있습니다. 고린도전서 15장 20절을 참조하십시오.

그러나 이제 그리스도께서 죽은 자 가운데서 다시 살아나서 잠자는 자들의 첫 열매가 되셨도다

바울이 부활한 그리스도를 첫 열매라는 단어로 표현하고 있습니다. 예수님은 십자가에 달리시고 주의 첫 날에 살아나셨습니다. 우리는 그것을 부활절이라고 부르며 4월 17일에 축하했습니다. 이 부활절이라고 하는 것은 구약성경에서 말하는 「맏물의 봉헌」이었다고 바울은 말합니다. 그래서 우리는 펜테코스테의 날 성령 강림을 축하하는데, 이 펜테코스테는 바로 예수 그리스도의 부활 후 일곱째 주, 49일째로 연동되어 있는 것입니다. 또한 유대인의 전승에 의하면 출애굽 이후, 7주후 시내 산에서 율법이 수여되었다고도 합니다. 따라서 칠칠절, 펜테코스테라고 하는 것은 율법이 수여된 것을 축하하는 제사이기도 했습니다. 은혜로 속죄된 백성으로서 하나님의 율법을 지키고 열매를 맺도록 초대받고 있는 것입니다. 신약시대에 살고 있는 우리에게는 성령이 강림하셔서 바로 성령의 열매를 풍성하게 맺으라는 권면을 받고 있는 것입니다. 예수님을 믿은 후 이웃을 사랑하고 가난한 자, 약한 자를 특히 돌아보며 자신이 받은 은혜를 서로 나누라는 권면을 받고 있는 것입니다.

(3) 초막절

마지막으로 초막절입니다. 이 제사는 「초막」이라고 하는 단어에서 알 수 있듯이 임시천막에서 7일간을 지내면서 출애굽을 한 뒤 광야에서 임시거처에 살았던 것을 기억하기 위한 것입니다. 지금도 이스라엘에 가면 초막절 시기에는 아파트 베란다에 임시천막을 치고 원래 집이 아닌 그 자리에서 7일을 보내고 있습니다. 쾌적한 에어컨이 있는 방이 아니라 밖의 임시천막에서 지내는 것입니다. 그것은 출애굽을 한 후 40년간 광야에서 지냈던 것을 기억하기 위해서였습니다. 또 하나 초막절의 의미로 소출의 완성이라는 의미도 있었습니다. 16장 13절을 참조하십시오.

너희 타작 마당과 포도주 틀의 소출을 거두어 들인 후에 이레 동안 초막절을 지킬 것이요

「타작 마당과 포도주 틀의 소출을 거두어 들인 후에」, 즉 마지막으로 익은 곡식과 과일을 소출하여 저장한 후 이 절기가 축하되었다는 것입니다. 이 절기도 칠칠절처럼 아들과 딸 남종과 여종, 마을에 있는 레위인, 나그네, 고아, 과부 등과 함께 즐거워하며 축하했는데 이 제사에서는 특히 「즐거움」이 강조되어 있습니다. 그것은 칠칠절보다 더 큰 즐거움 이었습니다. 14절에 「즐거워하되」라는 말이 있고 또 15절에도 「즐거워할지니라」라고 반복되고 있습니다. 그리고15절에는「즐거워할지니라」라고 하는 단어 앞에 「온전히」라는 수식어가 붙어 있습니다. 그래서 이 초막절이라고 하는 것은 소출의 완성을 위해 「온전히」 즐거워한 날이었다는 것이 전해집니다. 이것은 도대체 무엇을 의미하는 것일까요? 한 주해서(Samuel Henry Kellogg)에 따르면 초막절이란 소출의 완성이기 때문에 영광으로 가득찬 최후의 심판을 의미한다고 적혀 있습니다. 주가 재림하시고 모든것이 정리되고, 세상이 새로워지는 것, 즉 구원의 완성을 설명하고 있는 것입니다. 그날은 타작마당에서 마지막 소출을 거두고 알곡과 쭉정이로 분류되는 것입니다. 그날은 마치 알곡은 주님의 창고에 저장되고 쭉정이는 꺼지지 않는 불에 던져지는 것과 같습니다. 그날은 마치 후릿그물(강이나 바다에 넓게 둘러치고 여러 사람이 두 끝을 끌어당겨 물고기를 잡는 큰 그물)이 펼쳐지고 좋은 물고기는 저장되고 나쁜 물고기는 버려지는 것과 같습니다. 그날은 마치 포도가 포도주 틀에서 밟히듯, 하나님의 격한 분노가 포도주 틀이 성읍 밖에서 밟혀 그 포도주 틀에서 피가 흘러나오는 것 같은 무서운 심판의 날입니다. 이때 의로운 자들은 하나님나라에서 태양처럼 빛납니다. 그래서 초막절을 진정으로 즐거워할 수 있었던 사람들은 이 세상에서 우리의 육체란 바로 천막이었고 그것은 임시천막에 불과했다는 것을 확인하는 것입니다. 그리고 우리의 진짜 집은 우리의 진짜 몸은 부활의 몸이고 영광스러운 몸이라는 것을 확인하게 되는 것입니다. 소출의 완성, 그것은 심판을 받는 자들에게는 매우 무서운 날이지만 그리스도의 보혈로 의인으로 칭함받은 자들에게는 너무나 풍성하고 영광스럽고 온전히 즐거워하는 날이 되는 것입니다.

결론

이스라엘의 세 제사인 유월절, 칠칠절과 초막절을 살펴보았습니다. 이것들은 모두 애굽으로부터의 속죄와 관련되어 있었지만, 영적인 의미에서 그것은 구원의 과정 전체를 나타내고 있었다는 것입니다. 유월절이란 예수 그리스도에 의한 구원의 성취요, 칠칠절이란 성령의 강림, 그리고 초막절은 구원의 완성입니다. 우리는 유월절의 실체와 칠칠절의 실체를 역사적으로 체험하고 있지만 초막절의 실체는 아직 체험하지 못했습니다. 영광스러운 구원의 완성, 즉 초막절을 계시의 완성으로 드릴때 우리의 세상에서의 삶은 나그네에 불과했다는 것, 우리 몸은 임시거처인 천막에 불과했음을 확인할 수 있는 것입니다. 그때 우리의 즐거움은 보통 즐거움이 아닌 온전한 즐거움으로 승화되는 것입니다.

関連する説教を探す関連する説教を探す