2022年05月01日「貧しい同胞に手を大きく開け 가난한 형제에게 네 손을 움켜 쥐지 말고」

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貧しい同胞に手を大きく開け 가난한 형제에게 네 손을 움켜 쥐지 말고

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 14章22節~15章23節

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聖句のアイコン聖書の言葉

14:22あなたは、毎年、畑に種を蒔いて得る収穫物の中から、必ず十分の一を取り分けねばならない。
14:23あなたの神、主の御前で、すなわち主がその名を置くために選ばれる場所で、あなたは、穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の十分の一と、牛、羊の初子を食べ、常にあなたの神、主を畏れることを学ばねばならない。
14:24あなたの神、主があなたを祝福されても、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所が遠く離れ、その道のりが長いため、収穫物を携えて行くことができないならば、
14:25それを銀に換えて、しっかりと持ち、あなたの神、主の選ばれる場所に携え、
14:26銀で望みのもの、すなわち、牛、羊、ぶどう酒、濃い酒、その他何でも必要なものを買い、あなたの神、主の御前で家族と共に食べ、喜び祝いなさい。
14:27あなたの町の中に住むレビ人を見捨ててはならない。レビ人にはあなたのうちに嗣業の割り当てがないからである。
14:28三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、
14:29あなたのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなたの行うすべての手の業について、あなたの神、主はあなたを祝福するであろう。
15:1七年目ごとに負債を免除しなさい。
15:2負債免除のしかたは次のとおりである。だれでも隣人に貸した者は皆、負債を免除しなければならない。同胞である隣人から取り立ててはならない。主が負債の免除の布告をされたからである。
15:3外国人からは取り立ててもよいが、同胞である場合は負債を免除しなければならない。
15:4あなたの神、主は、あなたに嗣業として与える土地において、必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなるが、
15:5そのために、あなたはあなたの神、主の御声に必ず聞き従い、今日あなたに命じるこの戒めをすべて忠実に守りなさい。
15:6あなたに告げたとおり、あなたの神、主はあなたを祝福されるから、多くの国民に貸すようになるが、借りることはないであろう。多くの国民を支配するようになるが、支配されることはないであろう。
15:7あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、
15:8彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。
15:9「七年目の負債免除の年が近づいた」と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。
15:10彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。
15:11この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。
15:12同胞のヘブライ人の男あるいは女が、あなたのところに売られて来て、六年間奴隷として仕えたならば、七年目には自由の身としてあなたのもとを去らせねばならない。
15:13自由の身としてあなたのもとを去らせるときは、何も持たずに去らせてはならない。
15:14あなたの羊の群れと麦打ち場と酒ぶねから惜しみなく贈り物を与えなさい。それはあなたの神、主が祝福されたものだから、彼に与えなさい。
15:15エジプトの国で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が救い出されたことを思い起こしなさい。それゆえ、わたしは今日、このことを命じるのである。
15:16もしその奴隷があなたとあなたの家族を愛し、あなたと共にいることを喜び、「わたしはあなたのもとから出て行きたくありません」と言うならば、
15:17あなたは錐を取り、彼の耳たぶを戸につけて刺し通さなければならない。こうして、彼は終生あなたの奴隷となるであろう。女奴隷の場合にも同様にせねばならない。
15:18自由の身としてあなたのもとを去らせるときは、厳しくしてはならない。彼は六年間、雇い人の賃金の二倍も働いたからである。あなたの神、主はあなたの行うすべてのことを祝福される。
15:19牛や羊の雄の初子は、みなあなたの神、主に奉献しなければならない。牛の初子を仕事に使ってはならない。羊の初子の毛を刈ってはならない。
15:20あなたの神、主の御前で、年ごとに、主が選ばれる聖所で、家族と共にそれを食べなさい。
15:21初子の足や目、あるいはほかのどこかに大きな傷があれば、あなたの神、主にいけにえとして屠ってはならない。
15:22かもしかや雄鹿の場合と同様に、それは汚れている者も、清い者も皆、共に町の中で食べることができる。
15:23ただし、その血を食べてはならず、水のように地面に注ぎ出さねばならない。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 14章22節~15章23節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

神さまは、常にイスラエルの共同体をご自身の関心事として心配してくださいますが、その中でも特に貧しい者たちのために主の憐れみと顧みが注がれます。もともとイスラエルの民はエジプトにおいて奴隷の民でありましたが、主が彼らを憐れんでくださり、ご自身の民として、救い出してくださいました。ですからイスラエルの民は、これからカナンの地に入植するようになった時に、同じように憐れみをもって兄弟姉妹に施しを豊かにするべきであるということが、本日の個所で書かれています。

歴史を通してキリスト教会は、貧しい者への施しを率先して行って来ました。それは現代においても、なお引き継がれています。私個人の体験について振り返らせていただきますと、私は30代に大変貧しい状況にあっても、奨学金を受けながら韓国の神学校で学ばせていただきました。その後、日本キリスト改革派教会に導かれ、神戸の神学校に編入しましたが、その時の学びも諸教会の献金によって支えられていました。そして、せんげん台教会では、いろいろな形による皆様からの支援をいただき、子どもを大学にまで進学させることが許されています。これは、本当に奇跡的な神様の恵みであり、幸いなことだと日々思わされています。一方で、私たちせんげん台教会も、中会から支援金をいただいたり、或いは南浦和教会や、上福岡教会から献金をいただいていますね。これは、神様が私たちを憐れんでくださり、その神さまの視点を持って、いろいろな教会が私たちに憐れみをかけてくださり、今日のように支えられているのだと思います。

【1】. 十分の一の献げ物の意味

さて、本日お読みした聖書個所の14:22~29には、十分の一の献げ物について規定されています。イスラエルの民がカナンの地に入って農耕生活をするようになったなら、「毎年、収穫される農作物の十分の一を取り分けねばならない」ということです。古代イスラエルにおいて、十分の一の献げ物が、特に主を礼拝し、主を喜ぶために用いられました。14:22-23節をご覧ください。

“あなたは、毎年、畑に種を蒔いて得る収穫物の中から、必ず十分の一を取り分けねばならない。あなたの神、主の御前で、すなわち主がその名を置くために選ばれる場所で、あなたは、穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の十分の一と、牛、羊の初子を食べ、常にあなたの神、主を畏れることを学ばねばならない。”

イスラエルの民は、毎年、主の御前に十分の一の献げ物を持っていき、そこで家族と共に食事を取りました。収穫物の十分の一を主の御前に捧げたということは、何を意味していたのでしょうか。それは、主から与えられたカナンの土地が、主なる神様の所有であるということの告白であると考えられるでしょう。そして、その土地から収穫された農作物もまた、主からの賜物であるということの告白なんだと思います。イスラエルに豊かさをもたらしてくださる主が、全ての命の源であるという、信仰の告白であったに違いありません。そして、その豊かさと命の源である神さまが、先週見ましたように14章の最初のところで、イスラエルと契約を結んでくださり、「あなた方は主の聖なる民、主の選ばれた宝の民である」と宣告してくださっているのです。その宣告を、畏れを持って受け入れるために、イスラエルは、十分の一の献げ物を献げるのです。私たちが日々捧げている献金も、イスラエルの民の恵みの応答と同じように、畏れを持って捧げられなければなりません。豊かさと命の源であられる神さまが、私たちを契約の民として顧みてくださり、日々の生活の営みの中で必要な物すべてを与え、養ってくださっているからです。

ところで、この十分の一の献げ物ですが、14:23節を見ると、牛、羊などの家畜の初子と関連づけられていることが分かります。そしてさらに言えば、申命記の26:2には「十分の一の献げ物」が、地の実りの「初物」という言葉によって言い換えられています。26:2をご覧ください。

“あなたの神、主が与えられる土地から取れるあらゆる地の実りの初物を取って籠に入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所に行きなさい。”

従って、十分の一の献げ物というのは、土地から収穫される農作物の「初物」、「最初の実」でもあった、という事が分かります。これは大変重要なポイントだと思われます。初物、最初の実とは、「代表」とか「長子」という意味合いもありますから、それは、まさに死から復活された最初の命である、イエス様を指していると言うこともできるのであります。私の解釈ですが、主は、豊かさと命の源でありながら、同時に死の力を打ち破った最初の実、初穂でもあられるのです。この救い主イエス・キリストを喜び祝うために、十分の一の献げ物を持っていき、主の御前で、家族で食事を取りなさいと言われるのです。またその際に、嗣業の割り当てがないレビ人や、或いは寄留者、孤児、やもめなど、貧しい者たちをないがしろにしてはならない、彼らと一緒に主を喜び祝いなさいと言われるのです。

【2】. サンドイッチ構造

15章は入りますと、サンドイッチの構造になっております。こちらの図のように15:1~6節には「7年ごとの借金の免除(帳消し)」について書かれています。そして15:12~18節には「7年契約ごとの奴隷の解放」について書かれています。「7」という数字は、安息日や、安息年を指しており、完全な状態を表しています。そしてそのサンドイッチをさらに外から包み込むように、先ほどの14:22~29において「十分一の献げ物」について書かれていて、そして15:19~23において「家畜の初子の献げ物」について書かれているのです。実際、十分一の献げ物という制度は、何もイスラエルだけでなく、他の多くの国々に見られるような献げ物でした。現在の日本でも消費税が10%ですね。しかし、家畜の初子を献げ物として、神に捧げるというのは、古代近東の他の文化圏において、類を見なかったようです。この初子の献げ物は、まさに出エジプトの際に、エジプトのすべての長子が人間から家畜に至るまで、全て死んでしまったという状況にあって、柱と鴨居に子羊の血を塗られたその天幕の中のイスラエルの長子だけが奇跡的に救済された事件を記念するためのものと考えられるのです。十分の一とは、初物という意味でしたので、結局のところ、最初の「十分一」も、最後の「初子」も、両方とも、イエス・キリストを指していると解釈することが出来るのです。十字架に架けられ、その尊い血によって私たちを贖ってくださったイエス様のお陰で、神の恵みを享受することができている、そのことを覚え、感謝と告白をすることが十分一の献げ物であり、初子の献げ物であると解釈することが出来るのです。このサンドイッチは、「十字架サンド」ということです。その感謝と告白の献げ物の間に、借金の帳消しと奴隷の解放の記事が挟み込まれているのです。

因みにですが、ある注解書を読むと、イスラエルの古代において、果たして貸し借りが行われていたのかとか、利息の受け取りなどがあったのかなど疑問を呈する学者たちもいます。つまり、実際ここに書かれている内容は、古代イスラエルの事柄ではなく、もっと歴史的に後代の事柄が描写されているのではないかという事です。申命記が実際に書かれた年代については明らかにすることはできませんが、しかし、紀元前18世紀のハムラビ法典において、既に利子をつけて貸し出しが行われていたということ、そして、凶作が続いた時に、農夫たちは翌年の種を蒔く準備をするために借金をしなければならなかったということが確認されています。ですから、この申命記の決して古代のイスラエルにおいて成立しないとは言えないということです。

また、もう一つ興味深いこととして、七年契約ごとの、奴隷の解放についてですが、ここに書かれていることから、イスラエルの民は基本的に、共同体の中で完全に奴隷の身分になることはなかったということになります。つまり、仮に借金のために奴隷の身分になったとしても、6年の終わりには解放されて、自由の身にされたということです。6年間みっちり働きとおした奴隷に対しては、7年目に惜しみなく贈り物を与えられ、解放されるようにと命じられているのです。万一、6年の終わりに奴隷が主人と共にいることを喜び、「わたしはあなたのもとから出て行きたくありません」と言うなら、錐で奴隷の耳たぶを戸につけて刺し通さなければなりませんでした。つまり耳にピアスの穴をあけるということです。恐らくそのような奴隷は一家の中で重要な立場にあったのだろうと考えられます。例えばアブラハムの奴隷、エリエゼルは、そのような重要な立場に置かれていたと考えられます。こうして、その奴隷は、生涯、主人のもとで奴隷になることができますが、その場合であっても、奴隷は、主人の財産の一部として主人の相続人に相続されることはなかったようです(WBC)。つまり主人が死んだ時には、奴隷は自由になったと考えられています。イスラエルの民はこのようにお互いが平等であったということです。

【3】. 貧しい同胞に気前よく手を開け

それでは、肝心の、この二つの記事の真ん中の7~11節には、つまり、サンドイッチの中身になりますが、そこに一体何が書かれているのかということになります。それは、ずばり「隣人愛の実践」について、特に、貧しい同胞に気前よく手を差し伸べなさいということが書かれています。その気前良さは、現実では考えられないような気前良さでありました。非常識と言ってもいいかもしれません。申命記15:9~10をご覧ください。

“「七年目の負債免除の年が近づいた」と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。”

安息年である第七年が近づくにつれて、おそらく裕福な人たちは、返済されないであろう貸付を躊躇したものと考えられます。あと少ししたら、第七年になったら、自動的に帳消しになってしまうのに、一体、誰が第六年に、お金を貸すというのでしょうか。貧しい者に対し何かを第六年に貸すということは、それは事実上、贈り物をするようなものでした。しかし申命記は、そのような非常識なことを敢えてせよ!と命じているのです。贈り物のように、ただで与えるように、気前良くしなさいと言うのです。それから、「同胞」という言葉が気になりますが、ヘブライ語を見ると「あなたの兄弟」となっています。この言葉によって、気前良さを、外国人にではなく、特に共同体の中の兄弟姉妹に対し、実践しなさいということになります。その理由は、「この国から、貧しい者がいなくなる」ようにされるべきであり、そして、外国人に対して、自分もイスラエルの共同体に入れられたいという思いを抱かせる、救いの招きであったのかもしれません。このような教えは新約聖書のイエス様の教えにも通じるところがございまして、例えば、イエス様は「求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。(ルカ6:30)」と言われました。また、ルカ14:12~14には、次のように書かれています。

“また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」”

ですから、このような申命記の気前良さの勧めは、神さまがイスラエルの民に与えてくださっている祝福の裏付けであると言えるのであります。その祝福があまりにも素晴らしいので、その祝福があまりにも栄光に富んだものなので、いくら気前よくしても決してし過ぎることはないということです。いくらただで贈り物を与えても決して損することはないということです。そんな祝福が一体どこにあるのでしょうか。古代のイスラエルにとって、それは、まだみぬ祝福であり、キリストが来られる時に明らかにされる事柄にあったに違いありません。つまり、罪の赦しと永遠の命であります。直近においては、イスラエルがカナンの土地に入ること、それがその祝福であると言えるかもしれませんが、究極的には、その祝福とはキリストの来臨によって与えられる罪の赦しと永遠の命であったのです。イスラエルの民において現実にはまだ成就されていない未来の祝福でありました。しかし、それは必ず成就される祝福であり、イスラエルの民はそのような、まだ見ない神の祝福を仰ぎつつ、日々信仰の歩みを重ねていったのです。同じように、新約時代に生かされている私たちも、まだ見ない神様の完全な祝福を仰ぎつつ、つまり救いの完成としての罪の赦しと、永遠の命を仰ぎつつ、信仰生活を送らせていただいています。やがての日に、キリストが再び来られる日に、すべてが完成するのです。

【結論】

私たちは、週の初めの日の礼拝の中でも、献金を捧げていますね。この献金は私たちの贖い主イエス・キリストを覚え、初物として献金を捧げているわけです。またそれだけではありません。兄弟姉妹に対し気前よく施し、特に貧しい兄弟姉妹に対し、現実では考えられないような助けと顧みを実践しています。それは神さまが必ず私たちを豊かに祝福してくださるという約束を与えてくださり、主イエスの十字架の贖いによって、私たちにもたらされた、まだ見ない神の祝福が、あまりにも素晴らしく、あまりにも栄光に富んでいるために、そのような隣人愛を私たちは実践することができるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

가난한 형제에게 네 손을 움켜 쥐지 말고

2022년 5월 1일 센겐다이 교회 주일 설교

신명기 14장 22~15장 23절

서론

하나님은 항상 이스라엘의 공동체를 자신의 관심사로 마음에 두고 계시는데 그 중에서도 특히 가난한 자들에게 주의 긍휼하심과 보살핌이 부어집니다. 원래 이스라엘 백성들은 애굽에서 종살이를 했는데 주께서 그들을 불쌍히 여기시고 자신의 백성으로서 구원해 주셨습니다. 그래서 이스라엘 백성들은 앞으로 가나안 땅에 정착하게 되었을 때 똑같이 긍휼한 마음을 가지고 넉넉한 마음으로 베풀어야 한다는 것이 오늘 살펴볼 본문에 적혀 있습니다.

역사를 통틀어 그리스도 교회는 가난한 자들을 위한 돕는 일에 솔선수범해 왔습니다. 그것은 현대에 있어서도 여전히 계승되고 있습니다. 제 개인의 체험을 되돌아보면, 저는 30대 후반에 한국으로 건너가 신학공부를 하게되었습니다. 그 때는 매우 궁핍한 처지였습니다. 그 상황에서도 장학금을 받으면서 한국의 신학대학원을 졸업하고 일본의 그리스도 개혁파 교회로 인도하심을 받고 코베의 신학교에 편입했습니다만, 그 때의 배움도 여러 교회의 헌금으로 지원 받고 있었습니다. 그리고 센겐다이 교회에서는 여러가지 형태로 여러분의 지원을 받아, 아이를 대학에까지 진학시키게 되었습니다. 이것은 정말 기적적인 하나님의 은혜이자 복을 받은 것이라고 매일 생각하고 있습니다. 우리 센겐다이 교회도 노회로부터 지원금을 받거나 혹는 미나미우라와 교회나 카미후쿠오카 교회로부터 헌금을 받고 있습니다. 이것은 하나님께서 우리를 불쌍히 여기시고 그 하나님의 마음을 헤아린 여러 교회들이 우리에게 긍휼하심을 베풀어 주셔서 오늘날과 같이 지탱되고 있는 것이라고 생각합니다.

(1) 십일조의 의미

자, 오늘 읽은 성경구절의 14장 22~29절에는 십일조에 대해서 규정되어 있습니다. 이스라엘 백성들이 가나안 땅에 들어가 농경생활을 하게 되었다면 「매 년 토지 소산의 십일조를 드릴 것이며」라는 것입니다. 고대 이스라엘에 있어서 십일조가 특히 주님을 예배하고 주님을 경외하기 위해 사용되었습니다. 14장 22,23절을 보시기 바랍니다.

22 너는 마땅히 매 년 토지 소산의 십일조를 드릴 것이며

23 네 하나님 여호와 앞 곧 여호와께서 그의 이름을 두시려고 택하신 곳에서 네 곡식과 포도주와 기름의 십일조를 먹으며 또 네 소와 양의 처음 난 것을 먹고 네 하나님 여호와 경외하기를 항상 배울 것이니라

이스라엘 백성들은 매년 주님 앞에 소산의 십일조의 제물을 가지고 갔고, 그곳에서 가족들과 함께 식사를 했습니다. 소산의 십일조를 주님 앞에 바쳤다는 것은 무엇을 의미했을까요? 그것은 주님께서 주신 가나안 땅이 주님의 소유라는 것의 고백이라고 생각할 수 있을 것입니다. 그리고 그 땅에서 수확된 농작물 또한 주님의 선물이라는 고백인 것 같습니다. 이스라엘에 풍요로움을 가져다 주시는 주님이 모든 생명의 근원이라는 믿음의 고백이었음에 틀림이 없습니다. 그리고 그 풍요로움과 생명의 근원이신 하나님께서 지난주에 살펴 보았듯이 14장의 첫 부분에서 이스라엘과 언약을 맺어 주시고, 「지상 만민 중에서 너를 택하여 자기 기업의 백성으로 삼으셨느니라」라고 선고해 주셨습니다. 그 선고를 경외롭게 받아들이기 위해 이스라엘은 십일조를 바치는 것입니다. 우리가 날마다 바치는 헌금도 이스라엘 백성의 은혜의 응답과 마찬가지로 경외를 가지고 바쳐야 합니다. 풍요로움과 생명의 근원이신 하나님께서 우리를 언약의 백성으로 보살펴 주시고 일상의 삶 속에서 필요한 모든 것을 주시고 양육해 주시기 때문입니다.

그런데 이 십일조입니다만 14장 23절을 보면 소와 양의 처음 난 것과 연관되어 있음을 알 수 있습니다. 그리고 나아가 신명기 26장 2절에는 「십일조」가 땅의 결실인 「맏물」이라고 하는 단어로 바뀌어져 있습니다. 26장 2절을 보시기 바랍니다.

네 하나님 여호와께서 네게 주신 땅에서 그 토지의 모든 소산의 맏물을 거둔 후에 그것을 가져다가 광주리에 담고 네 하나님 여호와께서 그의 이름을 두시려고 택하신 곳으로 그것을 가지고 가서

따라서 십일조라는 것은 땅에서 수확되는 농작물인 「맏물」, 「첫 열매」이기도 하였음을 알 수 있습니다. 이것은 매우 중요한 포인트라고 생각됩니다. 「맏물」, 「첫 열매」는 「대표」라든가 「장자」라고 하는 의미가 포함되어 있기 때문에, 그것은 그야말로 죽음에서 부활한 첫 번째 생명인 예수님을 지칭한다고 할 수도 있습니다. 제 해석이지만 주님은 풍요와 생명의 근원이시면서 동시에 죽음의 힘을 이기신 첫 열매, 초삭이시기도 하기 때문입니다. 이 구세주 예수 그리스도를 기뻐하며 축하하기 위해 십일조를 가져가서 주님 앞에서 가족끼리 식사를 하라고 하는 것입니다. 또 그때 기업을 받지 못한 레위인이나 혹은 나그네, 고아, 미망인 등 가난한 자들을 소홀히 여겨서는 안 된다, 그들과 함께 주님을 기뻐하라고 말씀하십니다.

(2) 샌드위치 구조

15장은 들어가보면, 샌드위치 구조로 되어 있습니다. 15장 1~6절에는 「매 칠 년 끝에 하는 면제(탕감)」에 대하여 쓰여져 있습니다. 그리고 15장 12~18절에는 「일곱째 해에 네게 팔린 자들을 놓아 자유롭게 할 것」에 대해 쓰여 있습니다. 「7」이라는 숫자는 안식일이나 안식년을 가리키며 완전한 상태를 나타냅니다. 그리고 그 샌드위치를 밖에서 더 감싸듯이 아까 14장 22~29절에 「십일조」에 대해서 쓰여져 있고 그리고 15장 19~23절에 「소와 양의 처음 난 것」에 대해서 쓰여져 있는 것입니다. 사실 십일조라는 제도는 이스라엘뿐만이 아니라 다른 많은 나라에서도 볼 수 있는 헌물이었습니다. 현재 일본에서도 소비세가 10%입니다. 그러나 가축의 처음 난 것을 바친다는 것은 고대 근동의 다른 문화권에서 유례를 찾기 어려웠던 것 같습니다. 이 처음 난 것의 헌물은 바로 출애굽 때 애굽의 모든 장자가 인간에서 가축에 이르기까지 모두 죽어버린 상황에서 인방과 집 좌우 문설주에 어린 양의 피를 칠한 이스라엘의 장자만이 기적적으로 구제된 사건을 기념하기 위한 것으로 보입니다. 십일조라는 것은 맏물이라는 의미였기 때문에 결국 최초의 「십분의 일」도 마지막의 「처음 난 것」도, 양쪽 다 모두 예수 그리스도를 가르키는 것으로 해석할 수 있습니다. 십자가에 달려 보혈로 우리를 속죄해 주신 예수님 덕분에 하나님의 은혜를 누릴 수 있다는 것을 기억하고 감사와 고백을 하는 것이 십일조이며 처음 난 것을 바치는 것이라고 해석 할 수가 있는 것입니다. 이 샌드위치 구조는 「십자가 샌드」라고 합니다. 이 감사와 고백의 헌물 사이에 빛 탕감과 노예 해방의 기사가 끼어 있는 것입니다.

덧붙여서, 어떤 주해서를 읽으면 이스라엘 고대에 과연 대출이 행해졌는지, 이자 수령 등이 있었는지 등 의문을 제기하는 학자도 있습니다. 즉 실제 여기에 쓰여져 있는 내용은 고대 이스라엘의 일이 아니라 좀 더 역사적으로 후대의 일들이 묘사되어 있지 않느냐는 것입니다. 신명기가 실제로 쓰여진 연대는 밝힐 수 없지만 기원전 18세기 함무라비 법전에서 이미 이자를 붙여 대출이 행해졌다는 것, 그리고 흉년이 계속되었을 때 농부들은 이듬해 씨앗을 뿌릴 준비를 하기 위해 빛을 질 수 밖에 없었다는 것이 확인되고 있습니다. 그래서 이 신명기의 내용이 결코 고대 이스라엘에서 성립하지 않는 내용이라고 말할 수 없다는 것입니다.

또 하나 흥미로운 것은 7년 계약마다 종의 해방에 관한 것인데, 여기에 쓰여져 있는 것으로 보아 이스라엘 백성들은 기본적으로 공동체 안에서 완전히 종의 신분이 되지는 않았다는 것입니다. 즉 빚 때문에 종의 신분이 되었다 하더라도 6년 말에는 해방되어 자유의 몸이 되었다는 것입니다. 6년간 부지런히 일한 종을 7년 째에는 그를 놓아 자유롭게 할 것이며 자유하게 할 때에는 빈 손으로 가게 하지 말고 후히 주라고 명령하고 계시는 것입니다. 만일 6년 말에 종이 「주인의 집을 사랑하므로 주인과 동거하기를 좋게 여겨 내가 주인을 떠나지 아니하겠노라」라고 말한다면 송곳으로 그의 귀를 문에 대고 뚫어야 했습니다. 즉 귀에 피어싱 구멍을 뚫는 것이죠. 아마도 그런 종들은 집에서 중요한 위치에 있었을 것으로 생각됩니다. 예를 들어 아브라함의 종 엘리에셀은 그런 중요한 위치에 있었다고 생각됩니다. 이렇게 해서 그 종은 평생 주인 밑에서 종이 될 수 있지만, 그 경우에도 종은 주인 재산의 일부로서 주인의 상속인에게 상속되지는 않았던 것 같습니다(WBC). 즉 주인이 죽었을 때에는 그 종은 자유로워졌다고 생각합니다. 이스라엘 백성들이 이처럼 서로가 평등했다는 것입니다.

(3) 가난한 동포에게 넉넉히 꾸어주라

그러면 중요한 이 두 기사 가운데 7~11절에는 즉 샌드위치의 내용물이 되는데 거기에 도대체 뭐가 적혀 있느냐 하는 얘기가 됩니다. 그것은 바로 「이웃사랑 실천」에 대해 특히 가난한 동포들에게 손을 움켜 쥐지 말고 반드시 손을 그에게 펴라는 것이 적혀져 있습니다. 그 관대함은 현실에서는 생각할 수 없는 관대함이었습니다. 비상식적이라고 해도 좋을지도 모릅니다. 신명기 15장 9,10절을 참조하세요.

9 삼가 너는 마음에 악한 생각을 품지 말라 곧 이르기를 일곱째 해 면제년이 가까이 왔다 하고 네 궁핍한 형제를 악한 눈으로 바라보며 아무것도 주지 아니하면 그가 너를 여호와께 호소하리니 그것이 네게 죄가 되리라

10 너는 반드시 그에게 줄 것이요, 줄 때에는 아끼는 마음을 품지 말 것이니라 이로 말미암아 네 하나님 여호와께서 네가 하는 모든 일과 네 손이 닿은 모든 일에 네게 복을 주시리라

안식년인 제 7년이 다가오면서 아마도 부유한 사람들은 빌려 주어도 받지 못할 대출을 주저했을 것으로 생각됩니다. 조금 있어 7년이 되면 자동으로 빚이 탕감이 되어 버리는데, 도대체 누가 6년에 돈을 빌려준다는 것입니까? 가난한 사람에게 무언가를 제 6년에 빌려준다는 것은 사실상 선물을 하는 것과 같았습니다. 그러나 신명기는 그런 비정상적인 일을 굳이 하라고 명하고 있는 것입니다. 선물처럼, 공짜로 주는 것처럼 선뜻하라고 하는 것입니다. 그리고 「형제」라는 말이 궁금한데 히브리어를 보면, 「네 형제」라고 되어 있습니다. 이 말에 의해서 관대함을, 외국인에게가 아니라 특히 공동체 안의 형제자매에 대해서 실천하라는 것이 됩니다. 그 이유는 「너희 중에 가난한 자가 없으리라」의 상태가 되어야 했고, 그리고 외국인에게 자신도 이스라엘의 공동체에 들어가고 싶다는 생각을 하게끔 하는 구원의 초대였을지도 모릅니다. 이러한 가르침은 신약성경의 예수님의 가르침과도 통하는 바가 있는데, 예를 들어 예수님은 「네게 구하는 자에게 주며 네 것을 가져가는 자에게 다시 달라 하지 말며(누가복음 6장 30절)」라고 말씀하셨습니다. 또한 누가복음 14장 12~14절에는 다음과 같이 적혀 있습니다.

12 또 자기를 청한 자에게 이르시되 네가 점심이나 저녁이나 베풀거든 벗이나 형제나 친척이나 부한 이웃을 청하지 말라 두렵건대 그 사람들이 너를 도로 청하여 네게 갚음이 될까 하노라

13 잔치를 베풀거든 차라리 가난한 자들과 몸 불편한 자들과 저는 자들과 맹인들을 청하라

14 그리하면 그들이 갚을 것이 없으므로 네게 복이 되리니 이는 의인들의 부활시에 네가 갚음을 받겠음이라 하시더라

그래서 이러한 신명기의 형제에게 넉넉하게 베풀라는 권유는 하나님께서 이스라엘 백성들에게 주시는 축복의 입증이라고 할 수 있습니다. 그 축복이 너무나 놀랍기 때문에 그 축복이 너무나 영광스러운 것이기 때문에 아무리 선심을 써도 결코 지나치지 않는다는 것입니다. 아무리 공짜로 선물을 줘도 결코 손해 볼 것이 없다는 것입니다. 이런 선심의 축복이 도대체 어디에 있을까요? 고대 이스라엘에게 그것은 아직 본적도 없는 축복이었고 그리스도가 오실 때 밝혀질 일이었음에 틀림없습니다. 즉 죄의 용서와 영원한 생명입니다. 가장 가까운 일로는 이스라엘이 가나안 땅에 들어가는 것, 그것이 축복이라고 말할 수 있을지 모르지만, 궁극적으로 그 축복은 그리스도의 재림에 의해서 주어지는 죄의 용서와 영원한 생명에 있는 것입니다. 이스라엘 백성에게 있어서 현실에는 아직 성취되지 않는 미래의 축복이었습니다. 그러나 그것은 반듯이 성취될 축복이며 이스라엘 백성들은 그런 아직 보지 못한 하나님의 축복을 받들어 날마다 믿음의 발걸음을 거듭해 나갔습니다. 마찬가지로 신약시대를 살아가고 있는 우리들도 아직 보지 못한 하나님의 완전한 축복을 앙망하며, 즉 구원의 완성으로서의 죄의 용서와 영원한 생명을 앙망하며, 신앙생활을 보내고 있습니다. 이윽고 그 날에 그리스도가 다시 오시는 날에 모든 것이 완성되는 것입니다.

결론

우리는 주의 첫날에 드리는 예배 가운데서도 헌금을 바치고 있네요. 이 헌금은 우리의 구세주 예수 그리스도를 기억하고 맏물로 헌금을 바치고 있는 셈입니다. 또 그뿐만이 아닙니다. 형제자매에 대해 넉넉히 베풀고 특히 가난한 형제자매에 대해 현실에서는 생각할 수 없는 도움과 보살핌을 실천하고 있습니다. 그것은 하나님께서 반드시 우리를 풍요롭게 축복해 주시겠다는 약속을 주시고 주 예수의 십자가의 속죄로 우리에게 가져다 주신 아직 보지 못한 하나님의 축복이 너무나 놀랍고 너무나 영광스럽기 때문에 그러한 이웃사랑을 우리는 실천할 수 있는 것입니다.

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