2022年04月24日「主の宝の民として生きる 하나님의 기업의 백성으로서 살아가는 것」

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主の宝の民として生きる 하나님의 기업의 백성으로서 살아가는 것

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 14章1節~21節

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聖句のアイコン聖書の言葉

14:1あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである。死者を悼むために体を傷つけたり、額をそり上げてはならない。
14:2あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面のすべての民の中からあなたを選んで、御自分の宝の民とされた。
14:3すべていとうべきものは食べてはならない。
14:4食べてよい動物は次のとおりである。牛、羊、山羊、
14:5雄鹿、かもしか、子鹿、野山羊、羚羊、大かもしか、ガゼル。
14:6その他ひづめが分かれ、完全に二つに割れており、しかも反すうする動物は食べることができる。
14:7ただし、反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの動物は食べてはならない。らくだ、野兎、岩狸。これらは反すうするが、ひづめが分かれていないから汚れたものである。
14:8いのしし。これはひづめが分かれているが、反すうしないから汚れたものである。これらの動物の肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。
14:9水中の魚類のうち、ひれ、うろこのあるものはすべて食べてよい。
14:10しかしひれやうろこのないものは、一切食べてはならない。それは汚れたものである。
14:11清い鳥はすべて食べてよい。
14:12しかし、次の鳥は食べてはならない。禿鷲、ひげ鷲、黒禿鷲、
14:13赤鳶、隼、鳶の類、
14:14烏の類、
14:15鷲みみずく、小みみずく、虎ふずく、鷹の類、
14:16森ふくろう、大このはずく、小きんめふくろう、
14:17このはずく、みさご、魚みみずく、
14:18こうのとり、青鷺の類、やつがしら鳥、こうもり。
14:19羽のある昆虫はすべて汚れたものであり、食べてはならない。
14:20清い鳥はすべて食べてよい。
14:21死んだ動物は一切食べてはならない。町の中にいる寄留者に与えて食べさせるか、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 14章1節~21節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 本日の与えられた聖書箇所は、所謂、ユダヤ人の食物規定と呼ばれている内容が語られています。私たちキリスト者は、この規定を守らなくていいのだろうかと、心配される方がおられるかも知れませんが、イエス様によって律法は完成され、食物規定に関する律法や、祭儀に関する律法から私たちは解放されました。ですから、私たちは、旧約時代の食物規定を守る必要はありません。福音書を見ると、イエス様は弟子たちに対し、「口に入るものはみな、腹に入り、外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来て、これが人を汚すのである。悪い思い、殺人、姦淫、淫行、盗み、偽証、冒瀆は、心から出て来るからである。」(マタ15:17~19)と言われました。また、使徒言行録を見ると、ペトロが祈りながら夢心地になった時、その夢の中で次のような幻を示されました。天から大きな布にくるまれながら、あらゆる獣、地をはうもの、空の鳥がつるされてきて、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と声がかかります。ペトロは「主よ、そんなこととてもできません。」と答えると、再び声がありました。「神が清めた物を、清くないなどと、言ってはならない。」そのような事が三度もあった後、ペトロは夢から覚めたということです(使徒10:11以下)。

ですから、あるものは食べても良い、あるものは食べてはならないという食物規定は、今日、その効力は失われています。それではこの食物規定を通して神さまは、当時のイスラエルの民に、何を教えようとされたのでしょうか。当時、この食物規定が与えられた理由として、神さまがイスラエルの民の衛生面を配慮されたからという解釈があります。或いは、忌むべき汚れた動物は、異教の民の偶像崇拝の儀式と密接な関係があったために、イスラエルがそれを真似て偶像礼拝に走ることがないように神さまが配慮されたという解釈があります。そうであるかも知れません。しかし学者によって、意見が色々と分かれており、なぜある動物が清く、ある動物が汚れているのか、その理由として誰もが納得のいく答えはないようです。その理由が何であれ、一つ言えることは、この食物規定の遵守がイスラエルの民にとって、否が応でもカナンの原住民から分離させるようにしたということです。イスラエルの民が食物規定を守ることにより、イスラエルに民に周りの人々とは異なる、強烈なアイデンティティが形成されていったということです。そのアイデンティティとは、何かと言いますと14章1~2節に具体的に書かれています。ご覧ください。

【1】. イスラエルの持つべきアイデンティティ

 “あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである。死者を悼むために体を傷つけたり、額をそり上げてはならない。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面のすべての民の中からあなたを選んで、御自分の宝の民とされた。”

ここには、「あなた方は主の子どもたちである」。「あなた方は主の聖なる民、主の選ばれた宝の民である」と書かれています。このように言われたら、どうでしょうか。大変うれしいですね。このモーセを通して語られた主の御言葉こそ、イスラエルの民が持つべきアイデンティティであったと言えるでしょう。「私は神の子である。」「私は聖徒である。」「私は主の選ばれた宝の民である。」このアイデンティティは、まさに主なる神とイスラエルの間にある契約に根差していると言わなければならないでしょう。レビ記11:45には次のような御言葉があります。

“わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。”

ここを見ますとわたしは、あなたたちの神になるために、と冒頭にかかれています。「わたしはあなたと契約を結んだよ。」「あなたが主の民であるなら、あなたが主の子どもたちであるなら、わたしが聖であるように、あなた方も聖別されるべく、日々の生活の営みの中で異邦人から分離するよう、守るべき注意事項に従っていきなさいということです。ただ、一つここで確認したいことは、イスラエルがこれらの律法を遵守することによって、その行いによって、聖くなるわけではないという点です。以前、パウロ書簡を通して学んできましたように、人間を聖くするのは、専ら神さまの業であって、人間の行いによるのではありません。聖くするのは、聖霊の御業であり、私たちはそのことをただ、信じることによって聖くされるのです。ですから、イスラエルがこれらの律法の戒めを守るのは、そうすることによって、自分たちが聖なる民であるという、その主の御言葉を日々想い起こしながら、その信仰に堅く立つためなのです。律法の戒めを守り行うという事は、神様の恵みに対する応答であり、またそうすることにより彼ら自身の信仰を支え、さらに義と愛の業に進ませるためであったと言うことが出来るでしょう。

【2】. 異邦人と同化しないために

 さて、1~2節にはイスラエルの民が持つべきアイデンティティの他に、死者の追悼の仕方についても書かれています。異教の人々は死者を追悼する時に、自分の体を傷つけたり、額を剃り上げながら、死者を悼み、自分たちの悲しみを表していたようです。実際に聖書を見るとモアブ人(イザ15:2)やペリシテ人(エレ47:5)は追悼する時にそのような行いをしていました。また、列王記上を見ると、これは死者の追悼ではありませんが、預言者エリアとバアルの預言者たちの対決において、バアルの預言者たちはバアルに天からの火を叫び求めながら、自分たちの体を傷つけています(列王記上18:25~28)。イスラエルの民はこのような行為を真似てはなりませんでした。なぜなら、身体も創造主である神さまから貸し与えられているものであって、主の栄光を現わすために用いるべきであり、自分自身の身体を乱用したり、自ら害を及ぼしてはならないからです。レビ記19:27-28には次のような御言葉がございます。

“もみあげをそり落としたり、ひげの両端をそってはならない。死者を悼んで身を傷つけたり、入れ墨をしてはならない。わたしは主である。”

イスラエルの民は、主の子どもとして、主の聖なる民、主の選ばれた宝の民として、自分の身体を尊重し、外観を損ねたり、傷つけることを避けなければならないということです。続いて、14:3節からは、具体的な食物規定に入ります。食べ物を清いものと汚れたものに分別し、清いものは食べても良いが、汚れたものは食べてはならないという戒めです。最初に地上の動物のケースです。地上の動物は、ひづめが分かれていて、さらに食べ物をムシャムシャと何度も反芻する動物は清い動物ですが、ひづめが分かれていない動物、例えば、らくだ、野兎、岩だぬきなどはひづめが分かれていないため食べられませんでした。また、反芻しない動物として、いのしし(聖書協会共同訳には「豚」と翻訳されている)は、食べてもならず、その死骸に触れてもなりませんでした。反芻しないからです。この規定は実は、現代においてもなお、ユダヤ人の中で守られています。私たちは豚肉をおいしくいただきますね。ところが厳密なユダヤ教においては、豚肉は汚れているということで食べることを禁じられているのです。確かに豚肉は傷みやすいと言われますが、彼らは、豚の生姜焼きや、豚骨ラーメンなどを食べることができないのです。次に水中の動物のケースを見ていきましょう。水中の動物は、ひれとうろこのあるものは清いものですが、ひれや、うろこのないものは汚れていて食べてはなりませんでした。従って、現代においてもユダヤ人が日本の回転すしに行くと、食べられないものがたくさんあります。貝は食べられません。エビも食べられません。タコもイカもウナギも食べられません。回転すしに行ってもあまり楽しむことが出来ないという事です。次に空を飛ぶ動物のケースを見ていきましょう。空を飛ぶ動物は、肉食の鳥や、死肉を食べる猛禽類は食べてはなりませんでしたし、また、羽がついていても、昆虫は食べてはなりませんでした。21節に書かれている内容は、死んだ動物の肉を一切食べてはならないという事ですが、これはどういうことかと言いますと、イスラエルでは血を食べてはならなかったことと関係しています。血は命を象徴し、命は、命の源である神様にお返しするものと考えられていたため、血は地面に注がれなければなりませんでした。自然に死んだ動物は、血抜きがされていないので、それを食べてはならないという事です。ただし、その規定は、選民イスラエルにだけ有効であり、寄留者や外国人には適用されないため、彼らにそれを売っても良いという事です。ここの個所は、衛生的に問題のある腐った肉を、寄留者や外国人に売りなさいということではありません。そうであるなら、寄留者や外国人に対する差別や、虐待となってしまいます。律法は、むしろ寄留者や外国人を特別に顧みて、大切にしなさいと教えているからです。最後に子山羊をその母の乳で煮てはならないとあります。これも血と関係があるようです。子山羊にとっては、乳が血であると考えられていて、母の乳で煮た子山羊を食べるということは、即ち肉を血抜きしないで、血が滴ったまま食べることと同じだと考えられたようです。この規定は、現代でも大変神経質に守られています。イスラエルに行きますと、「コーシェルキッチン(適正な台所)」というのがありまして、このキッチンは、肉類と乳製品を同時に食べることがないように、キッチン自体も厳格に区分されていることを意味します。ユダヤ人は肉を食べている時に、牛乳を飲んだり、バターを使ったり、チーズを食べることなどはタブーとされていまして、ですから、乳製品のチーズやバターや牛乳は、大概、朝食に食べるようです。また、肉製品は大概、昼食や夕食に食べるようです。また、私は乗ったことがありませんが、イスラエルで飛行機に乗ると「コーシェルフード」というのが出され、それは汚れたものが除かれている機内食だということです。

人間は毎日、必ず食事を取りますが、イスラエルの民は、その都度、清いものと汚れたものを意識しながら食事を取っていました。そして、それは、現代に至るまで続いています。イスラエルの民が、これらの戒めをきちんと守っていくときに、明らかに彼らの行動は、カナンの地においてとても異質なものとして映ったに違いありません。イスラエルの人々を見て「みんながやっているのに、なぜ彼らは我々と同じことをしないのだろうか。みんなが食べているのに、なぜ彼らは我々と同じものを食べないのだろうか。」と白い目で見られたかもしれません。また、戒めを実践している当の本人においても、「私は神の子である。」「私は聖徒である。」「私は主の選ばれた宝の民である。」という意識が先鋭化されていき、彼らの強烈なアイデンティティとして定着していったのです。このように食物規定を守ることとは彼らのアイデンティティを堅くさせたと言えるのです。

【結論】

 私たちの信仰生活において、最も重要な土台はこのアイデンティティの問題であると言ってもいいかもしれません。つまり、私は誰なのか、主なる神はどのようなお方なのかという事です。本日の御言葉は、そのことを明らかにしています。神は、イスラエルを神の子として受け入れてくださり、イスラエルを聖なる民、ご自身の宝の民であると宣言されます。イスラエルは主との契約の関係に入れられ、神が聖であるように、彼らもこの世から区別された生活を送らなければなりませんでした。

カナンの異教の文化の中で、このような戒めが与えられた理由は、部分的には、健康と衛生のためであったのかもしれません。しかし、根本的な理由は、やはり、イスラエルの民に選民としてのアイデンティティを想起させ、彼らの信仰を守るようにするためであったと考えられます。イスラエルはまさに神の被造物の中で、神さまから新しく生まれた最初の実、初穂のような存在でありました。現代に生きる私たちキリスト者も、同じように全世界の中にあって、全被造物の中にあって、堕落したこの世界の中で、樹立されるべく神の国の最初の実であり、初穂であります。イスラエルを通して全地が回復されるように、私たちキリスト者も福音を信じないこの世にあって、神の国の拡大という宣教の使命を担っているのです。従って、イスラエルの民が食物規定を通して、異教の民に同化することなく、自らのアイデンティティを頑なに守ったということは、私たちにとって、大変大きな励ましとチャレンジを与えてくれるでしょう。私たちの日々の信仰生活を振り返ってみるときに、主日の生活と平日の生活が異なり、教会の中での人生と、教会の外での人生に乖離が生じているということはないでしょうか?教会では食前の祈りをささげるけれど、家に戻ると食前の祈りなんかしないといった感じです。もし、そこに乖離が生じているのなら、本日の御言葉は、私たちの人生に対する警告の御言葉であると捉えることが出来ます。私たちは、主日の生活と平日の生活に差が生じないようにしなければなりません。隠れクリスチャンとして、この世に同化しようとするのではなく、周りの人々との違いに恐れるのではなく、自分の信じている信仰を公にすべきであります。確かに自分の信仰を公にすることによって社会から白い目でみられ、不利益を被ることもあるでしょう。しかし、周りの人々との違いを、むしろ神の所有とされ、神の聖なる民、神の子どもとされた者の特権として捉え、神さまから聖別の恩寵を受けているという実感に浸り、日々神様の恵みと祝福に感謝できるのです。そのようにして喜んで神の国の拡大のために、私たちは宣教の使命を担わせてくださいと祈るべきです。「私は神の子である。」「私は聖なる民である。」「私は主の選ばれた宝の民である。」というアイデンティティをしっかりと持ち、神様がノンクリスチャンの前で私たちに何を求めておられるのかを、日々祈りつつ、私たちは聖なる民としてこの世から区別された信仰の歩みを御前に捧げてまいりましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

하나님의 기업의 백성으로서 살아가는 것

2022년 4월 24일 센겐다이교회 주일설교

신명기 14장1~21절

서론

오늘 살펴 볼 성경 본문은 이른바 유대인의 음식 규정이라고 불리는 내용이 이야기 되고 있습니다. 우리 그리스도인들은 이 규정을 지키지 않아도 되는 것일까 걱정하시는 분들이 계실지 모르지만 예수님에 의해 율법은 완성되었고 음식 규정에 관한 율법이나 제의에 관한 율법으로부터 우리는 해방되었습니다. 그래서 우리는 구약 시대의 음식 규정을 지킬 필요가 없습니다. 복음서를 보면 예수님은 제자들에게 「입으로 들어가는 모든 것은 배로 들어가서 뒤로 내버려지는 줄 알지 못하느냐 입에서 나오는 것들은 마음에서 나오나니 이것이야말로 사람을 더럽게 하느니라 마음에서 나오는 것은 악한 생각과 살인과 간음과 음란과 도둑질과 거짓 증언과 비방이니」(마태복음 15장 17~19절)라고 하셨습니다. 또한 사도행전을 보면 베드로가 기도하면서 황홀한 중에 다음과 같은 환상을 보았습니다. 땅에 있는 각종 네 발 가진 짐승과 기는 것과 공중에 나는 것들이 큰 보자기 같은 것에 감싸인채 하늘에서 내려 오고 있었고 「베드로야 일어나 잡아 먹어라」하는 소리가 들렸습니다. 베드로는 「주여 그럴 수 없나이다 속되고 깨끗하지 아니한 것을 내가 결코 먹지 아니하였나이다」라고 대답하자「하나님께서 깨끗하게 하신 것을 네가 속되다 하지 말라」라는 소리가 들렸습니다. 그런 일이 세 번이나 있은 후 베드로는 꿈에서 깨어났다고 합니다. (사도행전 10장 11절 이하)

그래서 어떤 것은 먹어도 된다, 어떤 것은 먹으면 안 된다라는 음식 규정은 오늘날 그 효력이 상실되었습니다. 그러면 이 음식 규정을 통해서 하나님은 당시 이스라엘 백성들에게 무엇을 가르치려고 하셨을까요? 당시 이 음식 규정이 주어진 이유로 하나님께서 이스라엘 백성들의 위생을 배려하셨기 때문이라는 해석이 있습니다. 혹은 꺼려야 할 더러운 동물은 이교 백성들의 우상숭배 의식과 밀접한 관계가 있었기 때문에 이스라엘이 그것을 본떠 우상 예배에 달려 가지 않도록 하나님께서 배려하셨다는 해석이 있습니다. 그럴 수도 있어요. 하지만 학자마다 의견이 다양하게 나뉘고 있고 왜 어떤 동물은 정하고 어떤 동물은 부정한지 그 이유로 누구도 납득할 만한 답은 없는 것 같습니다. 그 이유가 무엇이든 한가지 말할 수 있는 것은 이 음식 규정의 준수가 이스라엘 백성으로 하여금, 싫든 좋든 가나안 원주민으로부터 분리되도록 했다는 것입니다. 이스라엘 백성들이 음식 규정을 지키면서 이스라엘 백성들에게 주위 사람들과는 다른 강렬한 정체성이 형성되어 갔다는 것입니다. 그 정체성이 뭐냐 하면 14장 1,2절에 구체적으로 적혀 있습니다. 보시기 바랍니다.

(1) 이스라엘이 가져야 할 정체성

1 너희는 너희 하나님 여호와의 자녀이니 죽은 자를 위하여 자기 몸을 베지 말며 눈썹 사이 이마 위의 털을 밀지 말라

2 너는 네 하나님 여호와의 성민이라 여호와께서 지상 만민 중에서 너를 택하여 자기 기업의 백성으로 삼으셨느니라

여기에는 「너희는 너희 하나님 여호와의 자녀이니」 「너는 네 하나님 여호와의 성민이라 여호와께서 지상 만민 중에서 너를 택하여 자기 기업의 백성으로 삼으셨느니라」라고 쓰여져 있습니다. 이런 말을 들으면 어떤가요? 굉장히 기쁘네요. 모세를 통해 하신 주님의 이 말씀이야말로 이스라엘 백성이 가져야 할 정체성이었다고 할 수 있습니다. “나는 하나님의 자녀이다” “나는 성도이다” “나는 주께서 선택하신 주의 기업의 백성이다” 이 정체성은 바로 주 하나님과 이스라엘 사이에 있는 언약에 뿌리를 두고 있다고 말해야 할 것입니다. 레위기 11장 45절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다.

나는 너희의 하나님이 되려고 너희를 애굽 땅에서 인도하여 낸 여호와라 내가 거룩하니 너희도 거룩할지어다

여기 보시면 「나는 너희의 하나님이 되려고」라고 첫머리에 쓰여져 있습니다. 「나는 너희와 언약을 맺었다」「너희는 여호와의 성민이니 너희는 여호와의 자녀이니 내가 거룩하니 너희도 거룩하고 매일의 생활의 행실을 통해서 이방인들로부터 분리되도록 지켜야 할 주의사항을 따라가라」는 것입니다. 다만 한 가지 여기서 확인하고 싶은 것은 이스라엘이 이 율법들을 준수한다고 해서 그 행함으로 거룩해지는 것은 아니라는 점입니다. 이전에 바울 서신서를 통해서 배워왔듯이 인간을 거룩하게 하는 것은 오로지 하나님의 역사이지 인간의 행함에 의한 것이 아닙니다. 거룩하게 하는 것은 성령의 사역이며 우리들은 그것을 그저 믿음으로써 거룩하게 되는 것입니다. 그러므로 이스라엘이 이러한 율법의 계명을 지키는 것은 그렇게 함으로써 자신들이 거룩한 백성이라는 그 주의 말씀을 날마다 상기하면서 그 믿음에 굳게 서기 위함입니다. 율법의 계명을 지켜 행한다는 것은 하나님의 은혜에 대한 응답이었고, 또 그렇게 함으로써 그들 자신의 믿음을 뒷받침하고 더욱 의와 사랑을 행함 으로 나아가게 하기 위함이었다고 할 수 있을 것입니다.

(2) 이방인에게 동화되지 않기 위해

자, 12절에는 이스라엘 백성이 가져야 할 정체성 외에 죽은 사람을 추모하는 방법에 대해서도 적혀 있습니다. 이교인들은 죽은 사람들을 추모할 때 자신의 몸을 베거나 눈썹 사이 이마 위의 털을 밀며 죽은 사람들을 애도하고 자신들의 슬픔을 표현했던 것 같습니다. 실제로 성경을 보면 모압인(이사야 15장 2절)이나 블레셋인(예레미야 47장 5절)은 추모할 때 그런 행동을 했습니다. 또한 열왕기상을 보면 이는 죽은 자들의 추모는 아니지만 선지자 엘리야와 바알 선지자의 대결에 있어서 바알 선지자들은 바알에게 큰 소리로 부르짖으며 하늘에서의 불을 구하면서 피가 흐르기까지 칼과 창으로 자신들의 몸을 상하게 했습니다 (열왕기상 18장 25~28절). 이스라엘 백성들은 이런 행위를 본받아서는 안 되었습니다. 왜냐하면 신체도 창조주이신 하나님께서 빌려주신 것으로 주의 영광을 나타내기 위해 사용해야 하며, 자기 자신의 신체를 남용하거나 스스로 해를 끼쳐서는 안 되기 때문입니다. 레위기 19장 27,28절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다.

27 머리 가를 둥글게 깍지 말며 수염 끝을 손상하지 말며

28 죽은 자 때문에 너희의 살에 문신을 하지 말며 무늬를 놓지 말라 나는 여호와이니라

이스라엘 백성은 주의 자녀로서, 주님의 성민, 주님이 택하신 주님의 기업의 백성으로서 자신의 신체를 존중하고 외관을 훼손하거나 손상시키는 것을 피해야 한다는 것입니다. 이어서 14장 3절부터는 구체적인 음식 규정으로 들어갑니다. 음식은 정한 것과 부정한 것으로 분리하고 정한 것은 먹어도 되지만 부정한 것은 먹지 말라는 훈계입니다. 첫 번째로 지상동물의 케이스입니다. 지상의 동물은 발굽이 나뉘어져 있고 게다가 음식을 우적우적 몇번이나 새김질을 하는 동물은 정한 동물이지만 발굽이 갈라지지 않은 동물, 예를 들어 낙타, 산토끼, 사반(바위 너구리) 등은 발굽이 갈라져 있지 않기 때문에 먹을 수 없었습니다. 또한 새김질을 하지 않는 동물로서 돼지는 먹어서도 안되고 그 사체를 만지지도 않았습니다. 새김질을 하지 않기 때문입니다. 이 규정은 사실 현대에도 여전히 유대인들 사이에서 지켜지고 있습니다. 우리들은 돼지고기를 맛있게 먹고 있죠. 그런데 엄격한 유대교에서는 돼지고기가 부정하다고 해서 먹는 것이 금지되어 있습니다. 확실히 돼지고기는 상하기 쉽다고 알려져 있지만 그들은 쇼가야키(돼지 생강 구이)나 돈코츠라멘(돼지뼈 국물 라면)등을 먹을 수 없습니다. 다음으로 수중 동물의 케이스를 살펴보겠습니다. 물속의 동물은 지느러미와 비늘이 있는 것은 정한 것이지만 지느러미나 비늘이 없는 것은 부정해서 먹지 말아야 했습니다. 따라서 현대에도 유대인이 일본의 회전 초밥집에 가면 먹을 수 없는 것이 많이 있습니다. 조개는 못 먹습니다. 새우도 못 먹습니다. 문어도 오징어도 장어도 먹을 수 없어요. 회전 초밥집에 가도 별로 즐길 수 없다는 거죠. 다음으로 하늘을 나는 동물의 케이스를 살펴보겠습니다. 하늘을 나는 동물은 육식을 하는 새나 사체를 먹는 맹금류는 먹지 말아야 했고 또 날개가 달려 있어도 곤충은 먹지 말아야 했습니다. 21절에 적혀 있는 내용은 스스로 죽은 모든 것은 일절 먹지 말아야 한다는 것인데 이것이 무슨 말인가 하면 이스라엘에서는 피를 먹어서는 안 된는 것과 관계가 있습니다. 피는 생명을 상징하고 생명은 생명의 근원이신 하나님께 돌려드리는 것으로 여겨졌기 때문에 피는 땅에 뿌려져야 했습니다. 자연적으로 죽은 동물은 피를 빼지 않았기 때문에 그것을 먹으면 안 된다는 것입니다. 다만 그 규정은 성민인 이스라엘에게만 국한되며 나그네나 외국인에게는 적용되지 않았기 때문에 그들에게 그것을 팔아도 된다는 것입니다. 이곳의 구절은 위생적으로 문제가 있는 썩은 고기를 나그네나 외국인에게 팔아도 된다는 것은 아닙니다. 그렇다면 나그네나 외국인에 대한 차별이나 학대가 되어 버립니다. 율법은 오히려 나그네나 외국인을 특별히 돌보고 귀중히 여기라고 가르치고 있기 때문입니다. 마지막으로 염소 새끼를 그 어미의 젖으로 삶아서는 안 된다고 합니다. 이것도 피와 관련이 있는 것 같아요. 염소 새끼에게는 젖이 피라고 생각되고, 어미의 젖으로 삶은 염소 새끼를 먹는다는 것은 곧 피 빼지 않고 피가 방울져 있는 고기를 먹는 것과 같다고 생각되었던 것 같습니다. 이 규정은 현대에도 매우 까다롭게 지켜지고 있습니다. 이스라엘에 가면 「코셸 키친(적정한 부엌) 」이라는 것이 있는데, 이 주방은 육류와 유제품을 동시에 먹는 일이 없도록 주방 자체도 엄격하게 구분되어 있다는 것을 의미합니다. 유대인은 고기를 먹을 때 우유를 마시거나 버터를 사용하거나 치즈를 먹는 것 등은 금기시되고 있기 때문에 유제품 치즈나 버터나 우유는 대개 아침 식사로 먹는 것 같습니다. 또한 고기 제품은 대개 점심이나 저녁에 먹는 것 같습니다. 또는 저는 타본 적이 없지만 이스라엘에서 비행기를 타면 「코셸 푸드」라는 것이 나오고 그것은 부정한 것이 제외되어 있는 기내식이라고 합니다.

인간은 매일 반드시 식사를 하지만 이스라엘 백성들은 그때마다 정한 것과 부정한 것을 의식하며 식사를 했습니다. 그리고 그것은 현대에 이르기까지 계속되고 있습니다. 이스라엘 백성들이 이러한 계명을 잘 지켜나갈 때 분명히 그들의 행동은 가나안 땅에서 매우 이질적인 행동으로 비춰졌을 것입니다. 이스라엘 사람들을 보며 “모두가 하는데 왜 그들은 우리와 똑같은 일을 하지 않는 걸까?” “모두가 먹는데 왜 그들은 우리와 같은 것을 먹지 않는 것일까?”라고 따가운 눈총을 받았을지도 모릅니다. 또한 계명을 실천하고 있는 본인에게도 정작 “나는 하나님의 자녀다” “나는 성도이다” “나는 주님이 선택하신 하나님의 기업의 백성이다”라는 의식이 첨예화 되면서 그들의 강렬한 정체성으로 자리잡게 된 것입니다. 이렇게 음식 규정을 지키는 것은 그들의 정체성을 견고하게 만들었다고 할 수 있습니다.

결론

우리의 믿음생활에 있어서 무엇보다 중요한 토대는 이 정체성의 문제라고 해도 좋을지도 모릅니다. 즉, 나는 누구인가, 주 하나님은 어떤 분인가 하는 것입니다. 오늘의 말씀은 그 사실을 밝히고 있습니다. 하나님은 이스라엘을 하나님의 자녀로 받아주시고 이스라엘을 거룩한 백성, 자신의 기업의 백성으로 선포하십니다. 이스라엘은 주님과의 언약관계에 들어갔고 하나님이 거룩하시듯이 그들도 이 세상에서 구별된 삶을 살아야 했습니다.

가나안의 이교 문화 속에서 이러한 훈계가 주어진 이유는 부분적으로는 건강과 위생을 위해서였을지도 모릅니다. 그러나 근본적인 이유는 역시 이스라엘 백성들로 하여금 성민으로서의 정체성을 상기시키고 그들의 믿음을 지키도록 하기 위함이었다고 생각됩니다. 이스라엘은 바로 하나님의 피조물 중에서 하나님에게서 새롭게 태어난 첫 열매인 초삭과 같은 존재였습니다. 현대에 사는 우리 그리스도인들도 마찬가지로 전 세계 가운데, 모든 피조물 가운데, 타락한 이 세계 가운데 마땅히 수립되어져야 할 하나님 나라의 첫 열매이며 첫 이삭입니다. 이스라엘을 통해 온 땅이 회복되듯이 우리 그리스도인도 복음을 믿지 않는 이 세상에 하나님의 나라의 확대라는 선교의 사명을 맡고 있는 것입니다. 따라서 이스라엘 백성들이 음식 규정을 통해 이교 백성들에게 동화되지 않고 스스로의 정체성을 완강히 지켰다는 것은 우리에게 매우 큰 격려와 도전을 줄 것입니다. 우리의 일상적인 믿음생활을 되돌아볼때 주일의 생활과 평일의 생활이 다르고 교회 안에서의 삶과 교회 밖에서의 삶에 괴리가 발생하지는 않을까요? 교회에서는 식전 기도를 하지만 집에 돌아오면 식전 기도 같은 건 하지 않는 것과 같은 것이라고 할까요. 만약 우리의 생활에 그런 괴리가 생긴다면 오늘의 말씀은 우리 삶에 대한 경고의 말씀이라고 볼 수 있습니다. 우리는 주일 생활과 평일 생활에 차이가 생기지 않도록 해야 합니다. 크리스챤인 것을 밝히지 않고 이 세상에 동화되려 할 것이 아니라, 주변 사람들과의 다름에 두려워할 것이 아니라, 자신이 믿는 신앙을 공개적으로 밝혀야 합니다. 확실히 자신의 신앙을 공개함으로써 사회로부터 눈총을 받고 불이익을 받을 수도 있을 것입니다. 그러나 주변 사람들과의 차이를 오히려 하나님의 소유로 택함받아 하나님의 거룩한 백성, 하나님의 자녀로 여겨진 자로서의 특권으로 여기고 하나님으로부터 거룩하게 구별되는 은총을 받고 있다는 실감에 젖어 날마다 하나님의 은혜와 축복에 감사할 수 있는 것입니다. 그렇게 기꺼이 하나님 나라의 확대를 위해 우리는 선교의 사명을 맡겨 달라고 기도해야 합니다. “나는 하나님의 자녀이다” “나는 거룩한 백성이다” “나는 주님이 선택하신 하나님의 기업의 백성이다”라는 정체성을 확고히 가지고 하나님께서 하나님을 믿지 않는 불신자들 앞에서 우리에게 무엇을 요구하고 계시는지 날마다 기도하면서 우리는 거룩한 백성으로서 이 세상과 구별된 믿음의 걸음을 하나님께 올려 드립시다.

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