2022年04月17日「わたしの夫 네 남편이시라」

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わたしの夫 네 남편이시라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
イザヤ書 54章1節~10節

聖句のアイコン聖書の言葉

54:1喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え/産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは/夫ある女の子供らよりも数多くなると/主は言われる。
54:2あなたの天幕に場所を広く取り/あなたの住まいの幕を広げ/惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て。
54:3あなたは右に左に増え広がり/あなたの子孫は諸国の民の土地を継ぎ/荒れ果てた町々には再び人が住む。
54:4恐れるな、もはや恥を受けることはないから。うろたえるな、もはや辱められることはないから。若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな。
54:5あなたの造り主があなたの夫となられる。その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/全地の神と呼ばれる方。
54:6捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように/主はあなたを呼ばれる。若いときの妻を見放せようかと/あなたの神は言われる。
54:7わずかの間、わたしはあなたを捨てたが/深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。
54:8ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが/とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと/あなたを贖う主は言われる。
54:9これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。再び地上にノアの洪水を起こすことはないと/あのとき誓い/今またわたしは誓う/再びあなたを怒り、責めることはない、と。
54:10山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず/わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと/あなたを憐れむ主は言われる。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
イザヤ書 54章1節~10節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

イースターおめでとうございます。現在、世界においては戦争が起こり、またコロナウイルスの感染拡大が心配される中にあっても、今日、この日はイエス・キリストが復活された記念日として全世界でお祝いされています。主の復活をお祝いできる恵みに心から感謝したいと思います。今日のこの礼拝に呼び集められた皆さまお一人お一人の上に、神さまの豊かな祝福と平安がありますようにお祈りいたします。

本日は、イザヤ書54章の預言に耳を傾けていきたいと思います。54章は、52章13節~53章迄の段落を受けて語られています。その段落の小見出しには何と書かれているでしょうか。前のページの52章13節の小見出しをご覧ください。「主の僕の苦難と死」と書かれていますね。受難節によく読まれる箇所ですが、ここに出てくる「主の僕」とはまさにイエス・キリストを指しています。そして「主の僕の苦難と死」とは、イエス様の十字架事件を指しています。この段落を受けて54章は語られているのです。ですからイザヤ書54章は、十字架の事件によって、何がもたらされたのかについて書かれているということです。十字架の事件によって、何がもたらされたのか。結論から言うと、神の「とこしえの慈しみ」が明らかにされたという事であります。この、明らかにされた、神の「とこしえの慈しみ」とは何かと言いますと、これは8節、10節に出てくる言葉ですが、ヘブライ語で「ヘセッド オーリム」という言葉です。「ヘセッド(慈しみ)」は、聞いたことがある言葉ですね。この言葉は、旧約聖書に何度も出てくる重要な言葉です。日本語でも「慈しみ」の他に、「恵み」とか「愛」等と訳されます。また、英語では、kindness goodness等、いろいろと訳されていて、大変含蓄のある言葉です。このヘセッドを分かりやすく説明しようと、ある人は、「契約に基づく恵み」と表現しますし、また、ある人は、「愛する人のため自ら低く、貧しくなろうとする、恵み深く、犠牲的な誠実さ」と表現しています。いずれにせよ、この「とこしえの慈しみ」をもって、「永遠の愛」をもって、イスラエルは愛されているのです。ですから命ある限り、恵みと慈しみが、主の民を追ってくるのです。そのために、主の民は、「歌を歌え!天幕を広げよ!恥を再び思い起すな!」という呼びかけに、応答することが出来るのです。

【1】. 歌を歌え!天幕を広げよ!恥を再び思い起すな!

それでは、54:1節をご覧ください。

“喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え/産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは/夫ある女の子供らよりも数多くなると/主は言われる。”

ここでは、子どもが授からない女の苦難と深い悲しみを通して、エルサレムの受ける苦難が描写されています。古代の中近東においては、女は子を授かることによって、社会の中で自分の居場所を見つけ、確かな地位を確立しました。しかし、子どもを授かるというのは、これは全く神様の業でございます。人間の努力では、どうにもならないものです。もし、子どもが授からなかった場合、その女は役に立たないものとして、大変な恥を被り、神に呪われた者、或いは神の前に何らかの非があるものとして、人々から蔑まれました。その時の女たちの苦しみは、アブラハムの妻サラが、ハガルから受けたいやがらせの話や、サムエルの母である不妊の女ハンナが、ペニナから受けたいやがらせの話などを見れば、理解することができるでしょう。場合によっては、当時の男尊女卑の差別的な文化の中で、子どもが授からないために、夫に捨てられるような女たちもいたかも知れません。万が一、夫に捨てられるなら、経済的にも困窮し、生きていくことさえままならなかったでしょう。彼女たちの悲しみ、落胆、荒んだ心の内は、どれほどだったでしょうか。罪を犯し、偶像礼拝に走ったエルサレムも、まさに不妊の女のように、夫に捨てられた女のように、荒廃するとイザヤは言うのです。しかし、そのような女たちに向かって、54章は『歓声をあげ、喜び歌え』と呼びかけます。なぜでしょうか。それは、彼女たちの子供らが、夫のある女の子供らよりも数多くなるからです。どれくらい子どもたちが多くなるのかが、2~3節に書かれています。

“あなたの天幕に場所を広く取り/あなたの住まいの幕を広げ/惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て。あなたは右に左に増え広がり/あなたの子孫は諸国の民の土地を継ぎ/荒れ果てた町々には再び人が住む。”

ここでは、あまりにも子どもが増えるので、天幕の場所を広く取り、住むための天幕のスペースを広げなさいとあります。ところで、イザヤの時代は、イスラエルの民は既に遊牧生活を終えて、定住生活に入っていましたので、町の中で、石でできた家に住んでいたと考えられます。それなのに、イザヤは過去、天幕生活をしていた頃のイスラエルをイメージしながら語っています。天幕を張る仕事というのは、普通、女たちがする仕事でした。天幕を張る女たちは、子供が多くなるという主の約束を信じ、喜び歌いながら、信仰を持って、天幕を広く張らなければならないということです。これは、神と神の民イスラエルの回復を描写していると考えられます。イスラエルは罪の故に、彼らの忘恩背徳の故に、主はイスラエルの神であることを一時放棄されます。誤解を恐れずに言えば、聖書はイスラエルに対し「夫に捨てられた女」という言葉さえ使っています。つまり、イスラエルの罪によって、神とイスラエルの交わりは断絶し、神がイスラエルから御顔を隠されたという意味です。祝福はイスラエルから去り、エルサレムは荒廃してしまいますが、神が御顔を隠されるのは一時であり、やがて、もう一たび、イスラエルを顧みて下さり、荒廃した町々に再び人が住むようになるだろうと、励ましの言葉が語られているのです。引き続いて4節をご覧ください。

“恐れるな、もはや恥を受けることはないから。うろたえるな、もはや辱められることはないから。若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな。”

ここでは「やもめ」という言葉が新しく出てきます。やもめとは未亡人のことであり、夫に先立たれた女のことですね。ルツ記には、ナオミとモアブ人ルツがそれぞれ夫に先立たれてしまったやもめとして登場します。子どもがいないというのは、まさに財産を形成することが出来ないということを意味しました。そのような女たちに、主は「恐れるな」、「若い時の恥を忘れよ」、「屈辱を再び思い出すな」と言われるのです。今、悲惨な状況に置かれている女に、神は御顔を向けられ、神の顧みによって恥を忘れ、彼女の頭を高くあげることが出来るようにしてくださるというのです。なぜなら、創造主なる主があなたの夫になられるからです。このように祝福の原因は、女の側にあるのではありません。つまり、女が何か改善したから、女が何か努力したからではなく、祝福の原因は、夫の側にこそあるということが分かります。祝福の原因は、主があなたの夫になられるからです。続いて5節をご覧ください。

【2】. 主の僕が罪の問題を解決してくださったから

“あなたの造り主があなたの夫となられる。その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/全地の神と呼ばれる方。”

不妊の女の夫として、捨てられた女の夫として、やもめの夫として、主、ヤハウェが夫になられると書いてありますが、これは一体どういう意味でしょうか。ホセア書を思い浮かべてください。ホセア書は夫から去り、愛人の後を追い、売春行為を重ねていたホセアの妻は、奴隷居住区域に行くことになりますが、そんな彼女をホセアが買い戻してくれる物語です。或いは、ルツ記を思い浮かべてください。ルツ記は未亡人のナオミとルツに対し、ボアズがルツの夫となって買い戻してくれる物語です。イスラエルの夫となる方はどのような方でしょうか。彼は、天地万物の創造主であり、その名は、万軍の主、つまり天の軍隊を司る主ということであり、その能力の限りないことを表しています。その方はただ、能力を持っているばかりではありません。その能力を持って、女を買い戻してくださる「贖い主」でもあられます。そして、彼は、嘘偽りのなく、傷や汚れの何一つない聖なる神であり、イスラエルをご自身のものとして聖別してくださるお方でもあられます。さらにイスラエルだけでなく、全地の神として異邦人の中からもご自身の民を御元に集め、救ってくださる神であるというのです。

「あなたの夫が、主ヤハウェとなるので、もう大丈夫だ、心配ない」という事です。なぜなら主なる神は、「私があなたの神となり、あなたは私の民となる」と契約を結んでくださる方でありますが、その契約とは、主ご自身の御名にかけて誓われた契約であるからです。普通、契約を締結した場合、一方が契約を破るなら、その契約は破棄され、効力を消滅してしまいますが、主とイスラエルの間に交わされた契約というのは、神の側からの一方的な契約であり、仮にイスラエルが罪を犯して契約を破ってしまったとしても、それによって主とイスラエルの関係は完全に断絶されるわけではなく、回復されるようになっているのです。「そんな都合のいい話があるものか」、と思われるかもしれません。それがなぜ可能なのかと言えば、主の僕がこの契約を担保してくださり、主の僕がこの契約を保証してくださっているからです。主の僕が、女の根本的な問題である、罪の問題を完全に解決してくださいました。実際、歴史を通して、イスラエルは神さまに対し、ことあるごとに罪を犯してきましたが、それでもなお、神さまがイスラエルを訪ねて来てくださり、関係を回復してくださいました。イスラエルの救済史は、まさにそのことを証明しています。結局、主とイスラエルの契約関係は、その契約に対するイスラエルの忠実さの上に置かれているのではないということです。人間的な忠実さの上に契約が置かれているのではない、そのような揺り動かされるものに基礎を置いているのではない。そうではなく、主の僕、イエス様の成就された忠実さの上に、イエス様の信実の上に、契約は永遠に堅く置かれているのです。7~8節をご覧ください。

“わずかの間、わたしはあなたを捨てたが/深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが/とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと/あなたを贖う主は言われる。”

しばらくの間、主が御顔を隠されることはあるでしょう。しばらくの間、イスラエルに審判が下り、裁きが訪れることもあるでしょう。しかし、その審判とは、神の最終的な審判ではなく、神の怒りと神の刑罰が完全に下されたという事ではありません。神の燃えるような怒りを、罪に対する神の審判を、そのように過小評価してはなりません。神の完全な裁きと、罪に相当する刑罰は、終わりの日まで延期されているのです。神はご自身の民に対し、穀物を脱穀するように、振るいにかけることはありますが、完全に滅ぼされることはありません。わずかの間、イスラエルに下った裁きとは、わが子を懲らしめるための、ひとときの訓練に過ぎなかったということです。神がイスラエルから御顔を隠されるのは、わずかの間に過ぎず、とこしえにおいて、神はご自身の民に御顔を向けられ、慈しみをもって憐れんでくださるのです。私たちは8節の「ひととき」という言葉と「とこしえ」という言葉をよく吟味しなければなりません。詩編30:6には次のような御言葉があります。

“ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。”

主は、わずかの間、御顔を隠し、あなたを捨てられることもありますが、しかし、永遠の愛を持って顧みてくださるのです。主が夫になられるとは、このように恵み深いことであり、祝福に満ち溢れたことなのです。ですから、「歌を歌え!天幕を広げよ!恥を再び思い起すな!」という呼びかけは、神の救いの現象、そのものを表していると言えるでしょう。神の救いとは、絶望の代わりに歌を歌う事のできる希望を与えるものであり、荒廃し虚しさだけが残った場所に、天幕を広げるような豊かさを与えるものであり、恥の代わりに栄光を与えるものであります。この救いは、まさに婚礼の祝宴の喜びとして、言い換えることが出来るでしょう。女の夫となられる方は、やがてシオンの山で、まさに豊かな祝宴を施されるからです。イザヤ書25:6~10をご覧ください。

“万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。主の御手はこの山の上にとどまる。”

主の僕によって、私たちに与えられた救いとは、やがての日に花婿との婚宴に入れられるような、そのような豊かさであります。とこしえの慈しみの中で、そのことが約束されているため、私たちは歌を歌い、豊かさを隣人に施し、やがて与えられる栄光を期待しながら待ち望むことができるのです。

【結論】

本日はイースターという記念すべき日であります。全世界に渡って、主の復活をお祝いする日でありますが、世界に目を向けると、現在なお、苦難の中におられる方々がいます。なお苦しみの中に、悲しみと恐怖の中におられる方々がいます。そういった方々の上に主の御手が伸ばされ、この一時の艱難が速やかに過ぎ去るようにお祈りしたいと思います。そして、死を滅ぼし、涙をぬぐってくださるお方が、彼らの中に臨在され、慰めと励ましを与えられ、信仰に堅く立つことができるようにお祈りいたしましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

네 남편이시라

2022년 4월 17일 센겐다이교회 주일설교

이사야서 54장 1~10절

서론

부활절을 축하합니다. 현재 세계에서는 전쟁이 일어나고 또 코로나 바이러스의 확산이 걱정되는 가운데서도 오늘 이날은 예수 그리스도가 부활하신 기념일로 전 세계에서 축하하고 있습니다. 주님의 부활을 축하할 수 있는 은혜에 진심으로 감사드립니다. 오늘 이 예배에 부르심을 받은 여러분 한 분 한 분 위에 하나님의 풍성한 축복과 평강이 함께 하시기를 기원합니다.

오늘은 이사야서 54장의 예언에 귀를 기울이고자 합니다. 54장은 52장 13절부터 53장까지의 단락을 받아서 이야기를 하고 있습니다. 그 단락의 소제목에는 뭐라고 쓰여져 있을까요? 앞 페이지의 52장 13절의 소제목을 참조하시기 바랍니다. 「주의 종의 고난과 죽음」이라고 쓰여져 있습니다. 수난절에 자주 읽혀지는 구절입니다만 여기에 나오는 「주의 종」은 바로 예수 그리스도를 가리키고 있습니다. 그리고 「주의 종의 고난과 죽음」이란 예수님의 십자가 사건을 말합니다. 이 단락을 받아서 54장은 이야기가 되는 것입니다. 그래서 이사야 54장은 십자가의 사건에 의해 무엇이 초래되었는지에 대해 쓰여져 있다는 것입니다. 십자가 사건으로 인해 무엇이 초래되었는가? 결론부터 말하면 하나님의 「영원한 인자하심」이 밝혀졌다는 것입니다. 이 밝혀진 「하나님의 영원한 인자하심」이 뭐냐하면 그것은 8절, 10절에 나오는 단어입니다만, 히브리어로 「헤세드 올람」이라는 단어입니다. 「헤세드(인자하심)」는 들어본 말이죠. 이 말은 구약성경에 여러 번 나오는 중요한 말입니다. 일본어로도 「자애」외에「은혜」라든가 「사랑」등으로 번역됩니다. 또 영어에서는 kindness goodness등 여러가지로 번역되고 있어 매우 함축이 있는 말입니다. 이 헤세드를 알기 쉽게 설명하고자 어떤 사람은 「언약에 기초한 은혜」라고 표현하고, 또 어떤 사람은 「사랑하는 사람을 위해 스스로 낮고 가난해지려는 깊은 은혜, 희생적인 성실함」이라고 표현하고 있습니다. 어쨌든 이 「영원한 인자하심」으로 「영원한 사랑」으로 이스라엘은 사랑받고 있습니다. 그러므로 생명이 있는 한 은혜와 인자하심이 주님의 백성의 뒤를 쫓아오는 것입니다. 그렇기 때문에 주의 백성들은 「노래할지어다! 장막터를 넓혀라! 치욕을 다시 기억하지 말라!」라고 하는 부름에 응답할 수 있는 것입니다.

(1) 노래할지어다! 장막터를 넓혀라! 치욕을 다시 기억하지 말라!

그러면 54장 1절을 보시기 바랍니다.

1 잉태하지 못하며 출산하지 못한 너는 노래할지어다 산고를 겪지 못한 너는 외쳐 노래할지어다 이는 홀로 된 여인의 자식이 남편 있는 자의 자식보다 많음이라 여호와께서 말씀하셨느니라

여기서는 아이를 갖지 못한 여인의 고난과 깊은 슬픔을 통해 예루살렘이 겪는 고난이 묘사되어 있습니다. 고대 중동에서 여자는 자식을 낳음으로써 사회 속에서 자신의 거처를 찾고 확실한 지위를 확립했습니다. 그러나 아이를 갖는다는 것, 이것은 전적으로 하나님의 일입니다. 인간의 노력으로는 어쩔 수 없는 것입니다. 만약 아이를 낳지 못했을 경우 그 여자는 쓸모없는 존재로 큰 망신을 당하거나 하나님께 저주 받은 자, 혹은 하나님 앞에 어떤 죄가 있는 것으로 여겨져 사람들로부터 멸시를 받았습니다. 그때 여자들의 고통은 아브라함의 아내 사라가 하갈에게서 받은 괴롭힘 이야기나 사무엘의 어머니인 불임의 여자 한나가 브닌나에게 괴롭힘을 받은 이야기 등을 보면 이해할 수 있을 것입니다. 경우에 따라서는 당시 남존여비의 차별적인 문화 속에서 아이를 낳지 못하여 남편에게 버림받는 여자들도 있었을지 모릅니다. 만일 남편에게 버림을 받는다면 경제적으로도 곤궁하고 살아갈 엄두조차 내지 못했을 것입니다. 그들의 슬픔, 낙담, 상한 마음 속은 어땠을까요? 죄를 범하고 우상숭배로 달려간 예루살렘도 그야말로 불임인 여자처럼 남편에게 버림 받은 여자처럼 황폐해진다고 이사야는 말합니다. 그러나 그런 여자들을 향해 54장은 「외쳐 노래할지어다!」라고 당부합니다. 왜 그럴까요? 그것은 그녀들의 자식이 남편 있는 자의 자식보다 많아지기 때문입니다. 얼마나 자식들이 많아지는지가 2,3절에 적혀 있습니다.

2 네 장막터를 넓히며 네 처소의 휘장을 아끼지 말고 널리 펴되 너의 줄을 길게 하며 너의 말둑을 견고히 할지어다

3 이는 네가 좌우로 퍼지며 네 자손은 열방을 얻으며 황폐한 성읍들을 사람 살 곳이 되게 할 것임이라

여기서는 자식들이 너무 많아지기 때문에 장막터를 넓히며 살기위한 처소의 휘장을 널리 펴라고 합니다. 그런데 이사야 시대에는 이스라엘 백성들이 이미 유목생활을 마치고 정착생활에 들어갔기 때문에 마을 안에서 돌로 된 집에 살았던 것으로 보입니다. 그런데도 이사야는 과거 장막생활을 하던 시절의 이스라엘을 이미지화하면서 말하고 있습니다. 장막을 치는 일이라는 것은 보통 여자들이 하는 일이었습니다. 장막을 치는 여자들은 자식이 많아진다는 주님의 약속을 믿고 기뻐하며 노래하며 믿음을 가지고 장막을 넓게 쳐야 한다는 것입니다. 이것은 하나님과 하나님의 백성 이스라엘의 회복을 묘사하고 있다고 생각됩니다. 이스라엘은 죄 때문에 그들의 배은망덕 때문에 하나님은 이스라엘의 하나님이 되시기를 잠시 포기하십니다. 오해를 무릅쓰고 말씀드리자면 성경은 이스라엘에 대해 「남편에게 버림받은 여자」라는 말까지 사용하고 있습니다. 즉 이스라엘의 죄로 말미암아 하나님과 이스라엘의 교제는 단절되고 하나님이 이스라엘로부터 얼굴을 가렸다는 뜻입니다. 축복은 이스라엘을 떠나고 예루살렘은 황폐해지지만 하나님이 얼굴을 가리는 것은 잠시이며, 이윽고 다시 한번 이스라엘을 돌아보시고 황폐한 마을과 마을에 다시 사람이 살게 될 것이라는 위로의 말씀이 전해지고 있습니다. 이어서 4절을 읽어보시겠습니다.

두려워하지 말라 네가 수치를 당하지 아니하리라 놀라지 말라 네가 부끄러움을 보지 아니하리라 네가 네 젊었을 때의 수치를 잊겠고 과부 때의 치욕을 다시 기억함이 없으리니

여기서는 「과부」라고 하는 단어가 새롭게 나옵니다. 과부는 미망인을 말하는 것이고 남편을 먼저 앞세운 여자를 말합니다. 룻기에 나오는 나오미와 모압 여자인 룻이 각각 남편을 먼저 앞세운 과부로 등장합니다. 자식이 없다는 것은 바로 재산을 형성할 수 없다는 것을 의미했습니다. 그런 여자들에게 주님은 「두려워하지 말라」, 「젊었을 때의 수치를 잊겠고」, 「과부 때의 치욕을 다시 기억함이 없으리니」라고 말씀하십니다. 지금 비참한 상황에 처한 여자에게 하나님께서는 얼굴을 돌려 하나님의 보살핌으로 인하여 치욕을 잊고 그녀의 머리를 높게 들 수 있도록 해주신다는 것입니다. 왜냐하면 창조주께서 당신의 남편이 되시기 때문입니다. 이렇게 복의 원인은 여자 편에 있는 것이 아닙니다. 즉 여자가 뭔가 개선되었기 때문에, 여자가 뭔가 노력해서가 아니라 복의 원인은 남편의 편에 있다는 것을 알 수 있습니다. 복의 원인은 주께서 당신의 남편이 되시기 때문입니다. 이어서 5절을 만나보시죠.

(2) 여호와의 종이 죄의 문제를 해결해 주시기 때문에

이는 너를 지으신 이가 네 남편이시라 그의 이름은 만군의 여호와이시며 네 구속자는 이스라엘의 거룩한 이시라 그는 온 땅의 하나님이라 일컬음을 받으실 것이라

불임 여자의 남편으로, 버림 받은 여자의 남편으로, 과부의 남편으로, 주 여호와가 남편이 된다고 쓰여 있는데, 이것은 도대체 무슨 의미일까요? 호세아서를 떠올려 보세요. 호세아서에서 남편을 떠나 정부의 뒤를 쫓고 매춘 행위를 거듭하던 호세아의 아내는 노예 거주 구역으로 가게 되는데, 그런 그녀를 호세아가 되 사오는 이야기입니다. 또는 룻기를 떠올려 보세요. 룻기는 과부 나오미와 룻에 대해 보아스가 룻의 남편이 되어 기업을 되 사주는 이야기입니다. 이스라엘의 남편이 될 분은 어떤 분일까요? 그는 천지만물의 창조주이며, 그 이름은 만군의 여호와, 즉 하늘의 군대를 관장하는 하나님이라는 것으로 그 능력이 무궁무진함을 나타냅니다. 그분은 단지 능력을 가지고만 있는 것이 아닙니다. 그 능력을 가지고 여자를 되 사시는 「속죄주」이시기도 합니다. 그리고 그는 거짓이 없고 흠이나 더러움이 일절 없는 거룩한 하나님이시며 이스라엘을 자신의 것으로 성별해주시는 분이기도 합니다. 나아가 이스라엘뿐만 아니라 온 땅의 하나님으로서 이방인 중에서도 자신의 백성을 자신께로 모아 구원해 주시는 하나님이시라는 것입니다.

「네 남편이 하나님 여호와가 되시니 이젠 괜찮다, 걱정 없다」라는 것입니다. 왜냐하면 여호와 하나님은 「내가 네 남편이 되고 너는 내 백성이 되리라」고 언약을 맺어 주시는 분인데, 그 언약이란 하나님 자신의 이름으로 맹세하신 언약이기 때문입니다. 보통 언약을 체결한 경우 한쪽이 언약을 깬다면 그 언약은 파기되고 효력을 소멸하게 되는데 하나님과 이스라엘 사이에 체결된 언약이라는 것은 하나님 쪽으르부터의 일방적인 언약이며 설사 이스라엘이 죄를 짓고 언약을 깨버렸다고 하더라도 그로 인해 하나님과 이스라엘의 관계는 완전히 단절되는 것이 아니라 회복되게 되어 있는 것입니다. “그런 편한 이야기가 있을 수 있을까?”라고 생각하실 수도 있습니다. 그게 왜 가능하냐 하면 하나님의 종이 이 언약을 담보해주시고 하나님의 종이 여자의 근본적인 문제인 죄의 문제를 완전히 해결해 주시기 때문입니다. 실제 역사를 통해서 이스라엘은 하나님께 대해 사사건건 죄를 지었지만 그래도 하나님께서는 이스라엘을 찾아와 관계를 회복해 주셨습니다. 이스라엘의 구속사는 바로 그것을 증명하고 있습니다. 결국 여호와와 이스라엘의 언약 관계는 그 언약에 대한 이스라엘의 충실함 위에 놓여 있는 것이 아니라는 것입니다. 인간적 충실함 위에 언약이 놓여 있는 것이 아니라 그러한 흔들리는 것에 기초를 두고 있는 것이 아니다. 그런 것이 아니라 여호와의 종, 예수님이 성취하신 충실함 위에, 예수님의 신실하심 위에 언약은 영원히 굳게 놓여 있는 것입니다. 7,8절을 보시기 바랍니다.

7 내가 잠시 너를 버렸으나 큰 긍휼로 너를 모을 것이요

8 내가 넘치는 진노로 내 얼굴을 네게서 잠시 가렸으나 영원한 자비로 너를 긍휼히 여기리라 네 구속자 여호와께서 말씀하셨느니라

잠시 여호와께서 얼굴을 가리실 수는 있을 것입니다. 잠시 이스라엘에 심판이 내려져 벌을 받을 수도 있을 것입니다. 그러나 그 심판이란 하나님의 최종 심판이 아니고 하나님의 분노와 하나님의 형벌이 완전히 내려졌다는 것은 아닙니다. 하나님의 불타는 분노를, 죄에 대한 하나님의 심판을 그렇게 과소평가 해서는 안 됩니다. 하나님의 완전한 심판과 죄에 상응하는 형벌은 마지막 날까지 연기되어 있는 것입니다. 하나님은 자기 자신의 백성에 대해서 곡물을 탈곡하는 것처럼 흔들기는 하시지만 완전히 멸망시키지는 않습니다. 잠시 이스라엘에게 내려진 벌은 자기 자신의 자녀를 징계하기 위하여 잠시 하시는 훈련에 불과하다는 것입니다. 하나님이 이스라엘에게 얼굴을 가리우시는 것은 잠시뿐이며 하나님은 다시 자신의 백성에게 얼굴을 돌려 인자하심으로 불쌍히 여겨 주시는 것입니다. 우리는 8절의 「잠시」라는 말과 「영원한」이라는 말을 잘 음미해야 합니다. 시편 30편 5절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다.

그의 노염은 잠깐이요 그의 은총은 평생이로다 저녁에는 울음이 깃들일지라도 아침에는 기쁨이 오리로다

여호와는 잠시 얼굴을 가리고 당신을 버리실 수도 있지만 영원한 사랑으로 보살펴 주시는 것입니다. 여호와께서 남편이 되신다는 것은 이렇게 크고 깊은 은혜이며, 복이 충만한 것입니다. 그래서 「노래할지어다! 장막터를 넓혀라! 치욕을 다시 기억하지 말라!」라고 하는 부르심은 하나님의 구원의 현상 그 자체를 나타내고 있다고 말할 수 있겠습니다. 하나님의 구원이란 절망 대신 노래를 부를 수 있는 희망을 주는 것이며, 황폐하고 허망함만이 남은 자리에 장막터를 넓히는 풍요로움을 주는 것이며 치욕대신 영광을 주는 것입니다. 이 구원은 바로 혼례 잔치의 기쁨으로 바꾸어 말 할 수 있을 것입니다. 여자의 남편 되시는 분은 곧 시온의 산에서 그야말로 풍성한 잔치를 베풀기 때문입니다. 이사야 25장 6~10절을 참조하시기 바랍니다.

6 만군의 여호와께서 이 산에서 만민을 위하여 기름진 것과 오래 저장하였던 포도주로 연회를 베푸시리니 곧 골수가 가득한 기름진 것과 오래 저장하였던 맑은 포도주로 하실 것이며

7 또 이 산에서 모든 민족의 얼굴을 가린 가리개와 열방 위에 덮인 덮개를 제하시며

8 사망을 영원히 멸하실 것이라 주 여호와께서 모든 얼굴에서 눈물을 씻기시며 자기 백성의 수치를 온 천하에서 제하시리라 여호와께서 이같이 말씀하셨느니라

9 그 날에 말하기를 이는 우리의 하나님이시라 우리가 그를 기다렸으니 그가 우리를 구원하시리로다 이는 여호와시라 우리가 그를 기다렸으니 우리는 그의 구원을 기뻐하며 즐거워하리라 할 것이며

10 여호와의 손이 이 산에 나타나시리니 모압이 거룸물 속에서 초개가 밟힘 같이 자기 처소에서 밟힐 것인즉

여호와의 종에 의해서 우리들에게 주어진 구원은 머지않아 그날에 신랑과 혼인잔치에 들어갈 수 있는 그런 풍요로움입니다. 영원한 인자하심 가운데 그 일이 약속되어 있기 때문에 우리는 노래를 부르고 풍요로움을 이웃에게 베풀고 이윽고 주어지는 영광을 기대하며 기다릴 수 있는 것입니다.

결론

오늘은 부활절이라는 기념할 만한 날입니다. 전 세계에 걸쳐 주님의 부활을 축하하는 날이지만 세계로 눈을 돌리면 현재까지도 고난 가운데 계신 분들이 있습니다. 고통 속에 슬픔과 두려움 속에 계신 분들이 있습니다. 그런 분들 위로 주님의 손길이 뻗쳐 이 잠시의 환난이 조속히 지나가기를 기도합니다. 그리고 죽음을 부수시고 눈물을 닦아주시는 분이 그들 안에 임재하셔서 위로와 격려를 받고 믿음 위에 굳건히 설 수 있도록 기도합시다.

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