2022年04月03日「共同体の聖さ 공동체의 거룩」

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共同体の聖さ 공동체의 거룩

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 12章29節~13章19節

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聖句のアイコン聖書の言葉

12:29あなたが行って追い払おうとしている国々の民を、あなたの神、主が絶やされ、あなたがその領土を得て、そこに住むようになるならば、
12:30注意して、彼らがあなたの前から滅ぼされた後、彼らに従って罠に陥らないようにしなさい。すなわち、「これらの国々の民はどのように神々に仕えていたのだろう。わたしも同じようにしよう」と言って、彼らの神々を尋ね求めることのないようにしなさい。
12:31あなたの神、主に対しては彼らと同じことをしてはならない。彼らは主がいとわれ、憎まれるあらゆることを神々に行い、その息子、娘さえも火に投じて神々にささげたのである。
13:1あなたたちは、わたしが命じることをすべて忠実に守りなさい。これに何一つ加えたり、減らすことがあってはならない。
13:2預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、
13:3そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘われても、
13:4その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。
13:5あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない。
13:6その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。彼らは、あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主に背くように勧め、あなたの神、主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。
13:7同じ母の子である兄弟、息子、娘、愛する妻、あるいは親友に、「あなたも先祖も知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」とひそかに誘われても、
13:8その神々が近隣諸国の民の神々であっても、地の果てから果てに至る遠い国々の神々であっても、
13:9誘惑する者に同調して耳を貸したり、憐れみの目を注いで同情したり、かばったりしてはならない。
13:10このような者は必ず殺さねばならない。彼を殺すには、まずあなたが手を下し、次に、民が皆それに続く。
13:11あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出したあなたの神、主から離して迷わせようとしたのだから、彼を石で打ち殺さねばならない。
13:12全イスラエルはこれを聞いて、恐れを抱き、あなたの中でこのような悪事は二度と繰り返されることはないであろう。
13:13あなたの神、主があなたに与えて住まわせるどこかの町のうわさとして、
13:14あなたの中からならず者が現れて、「お前たちの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と言って、その町の住民を迷わせているということを聞いたならば、
13:15それを尋ね、探り、よく問いたださねばならない。それが確かな事実であり、そのようないとうべきことがあなたたちの中で行われたのであれば、
13:16その町の住民を剣にかけて殺し、町もそこにあるすべてのものも滅ぼし尽くし、家畜も剣にかけねばならない。
13:17分捕り品をすべて広場の中央に集め、分捕り品もろとも町全体を焼き払い、あなたの神、主に対する完全に燃やし尽くす献げ物としなければならない。その町はとこしえに廃虚の丘となって、再び建てられることはない。
13:18主が激しい怒りをやめ、あなたに憐れみを垂れ、先祖たちに誓われたとおり、憐れみをもってあなたの数を増やされるように、その滅ぼし尽くすべきものは何一つ手もとにとどめてはならない。
13:19あなたの神、主の御声に聞き従い、わたしが今日命じるすべての戒めを守り、あなたの神、主が正しいと見なされることを行いなさい。

日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 12章29節~13章19節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 「共同体の聖さがどのようにして守られるのか」、これは私たちの行いではなく、主の御業であります。共同体の聖を守るため、万一イスラエルの民が偶像礼拝をしてしまったなら、その刑罰は石打ちの刑、つまり死刑であるというふうに定められました。偶像礼拝とは異教の神々を拝むことで、神様が最も憎まれる罪であると言ってもいいでしょう。ですから偶像礼拝の禁止とは、そういった異教の神々を礼拝することの禁止であります。そんなことは誰でも知っていると思われるかも知れません。そして、「分かっている。主なる神様だけを礼拝すればいいんでしょ。」「そんなこと簡単ではないか」と思われるかもしれません。しかし、実はそのように安易に考える、そこに落とし穴があるのです。主なる神様だけを礼拝すること、このことは考えていたよりも難しいという事をイスラエルの民は学ぶことになります。主なる神様だけを礼拝する、その模範的な歩みについては、13章5節に書かれている通りです。

「あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない。」

5節の最後の「付き従わなければならない」という言葉は、以前にも出てきました「ダバク」というヘブライ語です。粘着するという意味ですが、「すがる」とか「結び合わせられる」「夢中になる」と翻訳される場合もあります。私たちは、主なる神に意識的にすがらなければならない、意識的に粘着しなければならない、そうでないといつの間にか、偶像に夢中になってしまうということです。13章18節には、これとは対照的な言葉遣いが出てきます。やはりダバクという言葉が使用されていますが、否定形で使われていて、聖絶すべき偶像に執着してはならないというのです。18節後半をご覧ください。「その滅ぼし尽くすべきものは何一つ手もとにとどめてはならない。」とありますね。ここの「とどめる」という言葉がダバクという単語です。結局、主に執着するのか、主だけを握りしめるのか、それとも偶像に執着するのか、偶像を握りしめるのか、二つに一つであり、私たちの信仰生活において、このことが日々試みられているのです。イスラエルの歴史全体も、まさに主にしがみつくのか、偶像にしがみつくのか、そのことが問われ続けてきたのです。

【1】. 偶像にしがみつく民

 12:29~31では、40年の荒れ野生活をしてきたイスラエルの民が、カナンに入植した後に、好奇心の故に異教の神々に関心を持ち、自分たちも同じようにしてはならないと注意しています。息子、娘を火に投じるというのは、人身御供のことで、具体的にはアンモン人のモレク崇拝のことを指していると思われます。現代でも日本の仏教やインドなどに、「火渡り」という祭りがありまして、地面に燃えている炭火を敷き、その上を大人から子どもまで歩かせるという風習が見られます。もしかしたら、モレク崇拝と何らかの関係があるのかもしれません。このモレク崇拝を、後に南ユダの王様も、自分たちの礼拝にも取り入れてしまい、子どもたちを燃える火に投じて、モレクを拝むという事をしてしまいました。列王記下16:3~4をご覧ください。ヒゼキヤ王のお父さんであるアハズ王の業績について書かれています。

彼はイスラエルの王たちの道を歩み、主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣って、自分の子に火の中を通らせることさえした。彼は聖なる高台、丘の上、すべての茂った木の下でいけにえをささげ、香をたいた。

また、モレク崇拝を行ったのはアハズ王だけに限りませんでした。ヒゼキヤ王の子どもであるマナセ王も同じことをしています。列王記下21:5~6をご覧ください。

彼はまた、主の神殿の二つの庭に天の万象のための祭壇を築いた。彼は自分の子に火の中を通らせ、占いやまじないを行い、口寄せや霊媒を用いるなど、主の目に悪とされることを数々行って主の怒りを招いた。

このようにイスラエルの王たちは、カナンに入植し、豊かな生活に慣れてしまい、おごってしまったのか、自分たちのことを本当に守ってくださる、主を忘れ、カナン人が崇拝する神々に走って行ってしまったのです。

続いて13章1~6節では預言者や夢占いをする者に対する警告が与えられています。ここで預言者とか夢占いをする人、それ自体については、否定的な意味はないと考えられます。なぜなら、預言者(ヘブライ語でナビー)とは、神の使者という意味もあり、モーセやアロンも預言者として考えられていたからです(申18:18)。また、旧約時代、神の啓示は夢を通して与えられることもありましたから、ここで夢占いも、典型的な神の使者を指していると考えられます。ヨセフも夢を見る者でありました。後の時代のダニエルもやはり、夢を解き明かす者でありました。問題は、13:3節にありますように、彼らが「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と民を惑わしている点にあります。偽預言者、或いは偽の夢占い、その見極めのポイントは、主ヤハウェを証しし、ヤハウェの御名を高く掲げているのかどうかであります。主を崇めているように見せかけて自分の名をあがめるようにさせる人は、実は大勢いるのです。決して、彼らの行うしるしや奇跡だけをもって、真の預言者や、真の夢を解き明かす者としての証拠にはならなかったということです。ところで、北イスラエルの王様は後に、ここで言われているような偽預言者たちを受け入れてしまいました。アハブ王の妻イゼベルは、誰よりも積極的に偽預言者を受け入れた人物です。彼女は主の預言者を次々と殺していきました。預言者エリヤが、イゼベルの手から一人だけ免れた時、エリヤ一人とバアルの預言者450人、アシェラの預言者400人、合わせて850人の偽預言者と直接対決をする機会が訪れました。その対決とは、一頭の雄牛を屠り、それを祭壇に献げて、その祭壇の上に水をたくさんかけて、人が火を点火するのではなく、ヤハウェとバアルのどちらの神が、祭壇に火を下すことができるかという対決です。結果は、エリヤの圧勝であり、エリヤが主に祈ると、天から主の火が降ってきました。重要なことは、この時、北イスラエルの中でエリヤは孤独な戦いを強いられていて、北イスラエルの国全体が偶像礼拝に陥っていたという事です。

また、惑わす者というのは、何も偽預言者や夢見る者だけに限りません。兄弟や、子どもたち、愛する妻、親友を通しても惑わしが迫ってくることもあります。アダムは、妻を通してやってきた誘惑に勝つことが出来ず、一緒に主を裏切ってしまいました。サムソン、ソロモンもしかりであります。イスラエルの民は近しい者を通して、惑わしが迫って来た時にも、その誘惑に対し目を覚まして戦わなければならないのです。

最後に、ならず者によって惑わされ、都市全体が偶像礼拝に陥り、背教してしまったケースにおいて、指示が与えられています。13:15、16節を見るならば、「そのことをよく尋ね、探り、よく問いたださねばならない。それが確かな事実であるならば、その町の住民を剣にかけて殺し、町もそこにあるすべてのものも滅ぼし尽くし、家畜も剣にかけねばならない」とあります。16節の滅ぼし尽くしという言葉は、ヘレムという言葉で、聖絶せよという意味です。しかし、このようなモーセの指示に対して、後のイスラエルの民はそれをきちんと守り行うことが出来ませんでした。エリコの町を滅ぼし尽くした後に、アカンはその聖絶の物を惜しんで、こっそり手を出してしまったのです。ヨシュア記の7:1を見ますと、「イスラエルの人々は滅ぼし尽くしてささげるべきことに対し不誠実であった。」とありまして、7:20~21には次のように書かれています。

アカンはヨシュアに答えた。「わたしは、確かにイスラエルの神、主に罪を犯しました。わたしがしたことはこうです。分捕り物の中に一枚の美しいシンアルの上着、銀二百シェケル、重さ五十シェケルの金の延べ板があるのを見て、欲しくなって取りました。今それらは、わたしの天幕の地下に銀を下に敷いて埋めてあります。」

つまりアカンは、分捕り物の中から、それが無性にほしくなってかすめ取ってしまったという事です。「全て滅ぼし尽くしてささげなさい」という主の命令に逆らってしまいました。アカンの罪にゆえに連帯責任として、イスラエルはアイの町の攻略に失敗し、敗北を喫してしまったのです。

【2】. 怒るのに遅く憐れみ深い神

 このようにして見ると、モーセによって戒められた内容について、イスラエルは、それらを悉く守り行うことが出来ず、遅かれ早かれ、すべての警告や戒めを破り、神さまとの契約を汚してしまったということになります。その刑罰として最終的にアッシリア捕囚やバビロン捕囚という結果を、自らに招いてしまったと言うことができるでしょう。それでは、本日の申命記13章は、神は単に罪に対し必ず刑罰を与える「応報の神」であるという事を言わんとしているのでしょうか。確かに神は罪を嫌われ、罪に対してはその報いとして刑罰が伴うということは聖書全体に書かれている内容です。しかし、神様の刑罰というのは、ただ罪人に対し応報的に、機械的に、そして即刻的に与えられるものではないということについても目を留めなければなりません。なぜなら、アダムとエバがサタンの言葉に耳を傾けて、神の戒めを破った時に、その刑罰が直ちに、そして100%、完全には執行されることはなかったからです。神様は創世記2章17節において、「食べると必ず死んでしまう」と明確に言われたのですが、実際アダムとエバは取って食べて堕落した後にも、引き続き長い年月を生きることになりました。エバについて言えば、その後、生きている者の母(創3:20)にさえなりました。それでは、神様は、創世記2章17節において、嘘を言われたということなのでしょうか。そういう訳でもありません。2:17では、確かに、罪そのものが受けるべき報いとしての刑罰が宣言されているのです。罪とは神との交わりを破るものであり、それは霊的な死であり、まことに死に値するからです。しかし、実際にはその刑罰が緩和され、延期され、さらに言えば免除されることにさえなるのは、神が罪人に対し、別の異なるご計画を持っておられたからです。その別の異なる計画とは、まさにキリストによる罪の贖いであり、万物の回復でありました。従って、神の刑罰の完全な執行は、現在、延期されていると考えるべきであります。真の刑罰は、100%の執行は、延期されている。いつまで延期されているのか、それはキリストの再臨の日までであります。その日、真の裁判官の前で、すべての罪に対し公正に、完全に裁きが行われるのです。従って、キリストの再臨の日まで真の刑罰は延期されていて、この地上において行われる神の刑罰というのは、罪に対する応報的な刑罰ではなく、それは神の憐れみ、神の恵みが根底に敷かれていて、実は、それを通して、神の恵みと正義が明らかにされ、刑罰を通して損傷された神の義が贖われること、回復されるということが起こっているのです。神さまはご自身の刑罰を、イスラエルの信仰共同体に対し、救い主に目を向けさせ、義の回復のために用いられるのです。そのように考えるなら、共同体の聖さを守るために執行された全ての刑罰は、もしかしたらパラダイムシフトのように聞こるかもしれませんが、バビロン捕囚でさえ、アカンの石打ちの刑でさえ神の恵みであると捉えることが出来るのです。なぜならアカンは共同体の前で罪を告白しているからです。

バビロン捕囚以降、イスラエルの信仰は確かに変わりました。捕囚以前においては瞬間ごとに偶像崇拝と不義に陥り、絶えず汚れと背教の罪を犯していましたが、捕囚以降、主が定められた場所、エルサレム神殿で礼拝を捧げることも叶わず、捕囚の地においてシナゴーグ(会堂)を建設し、そこで律法を学び、祈りと礼拝を捧げるようになりました。民はそこで謙虚に律法に服従し、すべての偶像崇拝と形状崇拝を極度に嫌い、目に見えない神の戒めの遵守を自分たちの喜びと生命とみなすように、変えられたのです。そこからファリサイ派や律法学者という、極端な律法主義が生まれてしまったのも事実ですが、神の御言葉である律法は、より一層、イスラエルの人生の中心点となっていったのは確かです。律法を大切にし、預言者によって与えられた約束を握りしめ、いつの日か自分たちが再び、憐れみを受けて、救い主メシアを通して、神の国が到来するに違いない。このような形によってメシアに対する期待は、イスラエルの信仰の中で脈々と育まれていき、ついにイエス・キリストが世に与えられる「時が満ちる」に至ったのであります。すべての刑罰には目的と意味があり、その目的と意味とは共同体を聖め、共同体をイエス・キリストへ導くということです。イスラエルが罪を犯せば犯すほど、一層、神の恵みが明らかにされ、その恵みは、イエス・キリストにフォーカスされていったのです。

【結論】

 今日、私たちも主にしがみつくのか、偶像にしがみつくのか日々試みられています。イスラエルの歴史が示しているように、ただ主にのみ依り頼む歩みとは、大変難しいものであるということが出来るでしょう。しかし、私たちの歩みの根本には神の恵みが支配しており、聖霊によって導かれ、ある時には懲らしめが与えられ、ある時には慰めと助けが与えられ、イエス・キリストにしがみつくようにと導かれているのです。そして、仮にこの地上において私たちが罪を犯し、神様から懲らしめが与えられることがあったとしても、それはあくまで最終的な審判ではなく、罪の贖いのため、共同体において損傷された義の回復のための愛の鞭であり、訓練であるということを私たちは覚えていきたいと思います。イエス・キリストによっていかなる罪も赦されているからです。今週も互いに励まし合い、互いに助け合い、怒るのに遅く、憐れみ深い私たちの神さまのすべての御業を讃美する私たちとして歩ませていただきたいと思います。

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공동체의 거룩

2022년 4월 3일 센겐다이교회 주일설교

신명기 12장 29절~13장 19절

서론

「공동체의 거룩함이 어떻게 지켜질 것인가」이것은 우리의 행함이 아니라 주님의 사역입니다. 만일 이스라엘 백성이 우상숭배를 했다면 공동체의 거룩함을 지키기 위해서 그 우상숭배에 대한 형벌은 돌팔매 형, 즉 사형이라는 식으로 정해졌습니다. 우상숭배는 이교의 신들을 숭배하는 것으로 하나님이 무엇보다도 가장 미워하시는 죄라고 해도 좋을 것입니다. 그래서 우상숭배 금지란 그러한 이교의 신들을 예배하는 것의 금지입니다. 그런 건 누구나 알고 있다고 생각하실 수도 있어요. 그래서 “알고 있어요. 하나님만 예배하면 되는 거지요?” “그런 건 간단한 일이에요.”라고 생각하실 수도 있습니다. 그런데 사실 그렇게 안이하게 생각하는 거기에 함정이 있는 것입니다. 주님만을 예배하는 것, 이 일은 생각했던 것보다 어렵다는 것을 이스라엘 백성들은 배우게 됩니다. 주님만을 예배하는 그 모범적인 삶에 대해서는 13장 4절에 적혀 있는 바와 같습니다.

너희는 너희의 하나님 여호와를 따르며 그를 경외하며 그의 명령을 지키며 그의 목소리를 청종하며 그를 섬기며 그를 의지하며

4절의 마지막 「그를 의지하며」라는 단어는 이전에도 나왔던 「다바크」이라는 히브리어입니다. 점착하다는 의미인데요, 「의지하다」라든가, 「결합하다」, 「빠지다」라고 번역되는 경우도 있습니다. 우리는 주 하나님께 의식적으로 의지해야 하고 의식적으로 점착해서 붙어 있어야 합니다. 그렇지 않으면 어느샌가 우상에 빠져들게 된다는 것입니다. 13장 17절에는 이와는 대조적인 말투가 나옵니다. 역시 다바크라고 하는 단어가 사용되어 있습니다만, 부정형으로 사용되어져 있으며 진멸할 우상에 집착해서는 안된다는 것입니다. 17절 전반을 보시기 바랍니다. 「너는 이 진멸할 물건을 조금도 네 손에 대지 말라」라고 쓰여 있습니다. 이 「대지 말라」라고 하는 단어가 「다바크」입니다. 결국 주께 집착하느냐, 주만을 꽉 붙드느냐 아니면 우상에 집착할 것인가, 우상을 꽉 붙들 것인가 둘중에 하나이며, 우리 믿음 생활에서 이 일이 날마다 시험받고 있는 것입니다. 이스라엘 역사 전체도 바로 주께 매달리는지 우상에 매달리는지에 대한 질문이 계속되어 온 것입니다.

(1) 우상숭배를 하는 백성

12장 29~31절에서는 사십 년 광야생활을 해온 이스라엘 백성들이 가나안에 정착한 후 호기심 때문에 이교의 신들에게 관심을 갖고 자신들도 똑같이 해서는 안 된다고 주의하고 있습니다. 아들, 딸을 불에 던진다는 것은 암몬인의 몰렉 숭배를 가리키는 것으로 생각됩니다. 현대에도 일본의 불교와 인도등에 「불 건너기」라는 축제가 있는데, 땅에 타고 있는 숯불을 깔고 그 위를 어른부터 아이까지 걷게 하는 풍습을 볼 수 있습니다. 어쩌면 몰렉숭배와 어떤 관계가 있을지도 모릅니다. 이 몰렉숭배를 나중에 남유다의 왕도 자신들의 예배에도 도입해 버리고 아이들을 불타는 불에 던져 몰렉에게 절하는 짓을 저질러 버렸습니다. 열왕기하 16장 3,4절을 참조하십시오. 히스기야 왕의 아버지인 아하스 왕의 업적에 대해 쓰여져 있습니다.

3 이스라엘의 여러 왕의 길로 행하며 또 여호와께서 이스라엘 자손 앞에서 쫓아내신 이방 사람의 가증한 일을 따라 자기 아들을 불 가운데로 지나가게 하며

4 또 산당들과 작은 산 위와 모든 푸른 나무 아래에서 제사를 드리며 분향하였더라

또한 몰렉숭배를 한 것은 아하스 왕뿐만이 아니었습니다. 히스기야 왕의 자녀인 므낫세 왕도 같은 일을 하고 있습니다. 열왕기하 21장 5,6절을 참조하십시오.

5 또 여호와의 성전 두 마당에 하늘의 일월 성신을 위하여 제단들을 쌓고

6 또 자기의 아들을 불 가운데로 지나게 하며 점치며 사술을 행하며 신접한 자와 박수를 신임하여 여호와께서 보시기에 악을 많이 행하여 그 진노를 일으켰으며

이처럼 이스라엘 왕들은 가나안에 정착하면서 풍요로운 생활에 익숙해져서 교만해져서 자신들을 진정으로 지켜주시는 주님을 잊고 가나안 사람이 숭배하는 신들에게 달려가 버린 것입니다.

이어서 13장 1~6절에서는 선지자나 꿈 꾸는 자에 대한 경고가 주어져 있습니다. 여기서 선지자나 꿈 꾸는 자는 그 자체에 대해서는 부정적인 의미가 없다고 생각됩니다. 왜냐하면 (히브리어로 나비)란 하나님의 사자라는 즉, 말하도록 부르심을 받은 자라는 뜻도 있고 모세나 아론도 선지자로 여겨졌기 때문입니다(신명기 18장 18절). 또한 구약시대 하나님의 계시는 꿈을 통해 주어지기도 했으므로 여기서 꿈 꾸는 자도 전형적인 하나님의 사자를 가리키는 것으로 생각됩니다. 요셉도 꿈을 꾸는 자였습니다. 후대의 다니엘 역시 꿈을 푸는 자였습니다. 문제는 13장 2절에 나와 있듯이 그들이 「너희가 알지 못하던 다른 신들을 우리가 따라 섬기자」라고 백성들을 현혹하고 있다는 데 있습니다. 거짓 선지자 거짓 꿈 꾸는 자 그 판별의 포인트는 주 야훼를 증명하고 야훼의 이름을 높이 내걸고 있는지의 여부입니다. 주님을 높이는 것처럼 꾸며서 자신의 이름을 떨치는 사람은 많이 있습니다. 결코 그들이 행하는 표적과 기적만을 가지고 진정한 선지자나 진정한 꿈을 풀어내는 자로서의 증거가 되지 않았다는 것입니다. 그런데 북이스라엘의 왕은 나중에 여기서 말하는 것과 같은 거짓 선지자들을 받아들이고 말았습니다. 아합 왕의 아내 이세벨은 누구보다 적극적으로 거짓 선지자들을 받아들인 인물입니다. 그녀는 주님의 선지자들을 차례차례 죽여나갔습니다. 선지자 엘리야가 이세벨의 손에서 혼자 살아 남았을 때, 엘리야 혼자와 바알 선지자 사백 오십명과 아세라 선지자 사백 명, 합해서 팔백 오십명의 거짓 선지자들과 직접 대결을 펼칠 기회가 찾아왔습니다. 그 대결이란 송아지 한 마리를 택하여 잡아 제단에 바치고 그 제단 위에 물을 많이 뿌려 사람이 불을 점화하는 것이 아니라 야훼와 바알 중 어느 신이 제단에 불을 내릴 수 있느냐 하는 대결입니다. 결과는 엘리야의 압승이었고 엘리야가 주께 기도하자 하늘에서 주님의 불이 내려왔습니다. 중요한 것은 이때 북이스라엘 안에서 엘리야 홀로 외로운 싸움을 감당하고 있었고 북이스라엘 나라 전체가 우상 숭배에 빠져 있었다는 것입니다.

또 현혹시키는 자는 비단 선지자나 꿈 꾸는 자에게만 국한 된 것이 아닙니다. 형제나 자녀나 품에 안은 아내나 생명을 함께 하는 친구를 통해서도 현혹이 다가올 수 있습니다. 아담은 아내를 통해 찾아온 유혹을 이기지 못하고 함께 주님을 배신하고 말았습니다. 삼손, 솔로몬도 마찬가지입니다. 이스라엘 백성들은 가까운 자를 통해 현혹이 다가올 때도 그 유혹에 대해서 눈을 뜨고 싸워야만 합니다.

마지막으로 불량배에 의해 현혹되어 성읍 전체가 우상숭배에 빠져 배교해 버린 경우에 대해 지시가 내려져 있습니다. 13장 14,15절을 보시면 「자세히 묻고 살펴 보아서 이런 가증한 일이 너희 가운데에 있다는 것이 확실한 사실로 들어나면 너는 마땅히 그 성읍 주민을 칼날로 죽이고 그 성읍과 그 가운데에 거주하는 모든 것과 그 가축을 칼날로 진멸하고」라고 되어 있습니다. 15절 진멸이라는 말은 헤렘이라는 말로 성절(聖絶)하라는 뜻입니다. 그러나 이러한 모세의 지시에 대해 후대 이스라엘 백성들은 그것을 제대로 지켜내지 못했습니다. 여리고 성읍을 진멸한 후에 아간은 그 진멸한 것을 아쉬워하며 슬그머니 손을 대고 말았습니다. 여호수아서의 7장 1절을 보면 「이스라엘 자손들이 온전히 바친 물건으로 말미암아 범죄하였으니라」고 기록되어 있고 7장 20,21절에는 다음과 같이 적혀 있습니다.

20 아간이 여호수아에게 대답하여 이르되 참으로 나는 이스라엘의 하나님 여호와께 범죄하여 이러이러하게 행하였나이다

21 내가 노략한 물건 중에 시날 산의 아름다운 외투 한 벌과 은 이백 세겔과 그 무게가 오십 세겔 되는 금덩이 하나를 보고 탐내어 가졌나이다 보소서 이제 그 물건들을 내 장막 가운데 땅 속에 감추었는데 은은 그 밑에 있나이다 하더라

즉 아간은 포획물 중에서 그것이 너무 탐이 난 나머지 슬쩍 손을 댔다는 것입니다. 「모든 것을 진멸하여 바치라」는 주의 명령을 거역하고 말았습니다. 아간의 죄 때문에 연대책임으로 이스라엘은 아이 성읍 공략에 실패하고 패배를 당하고 말았습니다.

(2) 노하기에 더디시고 긍휼하심이 깊은 하나님

이렇게 보면 모세가 훈계한 내용에 대해 이스라엘은 그것들을 온전히 지켜내지 못하고 후에 모든 경고와 훈계를 어기고 하나님과의 언약을 더럽히고 말았습니다. 그 형벌로 최종적으로 앗시리아와 바빌론으로 포로로 끌려가는 결과를 스스로 초래해 버렸다고 할 수 있을 것입니다. 그렇다면 오늘의 신명기 13장은 하나님이 단순히 죄에 대해 반드시 형벌을 내리는 「인과응보의 하나님」이라는 것을 말하고 있을까요? 확실히 하나님은 죄를 미워하시고 죄에 대해서는 그 보답으로 징계가 따른다는 것은 성경 전체에 적혀 있는 내용입니다. 그러나 하나님의 징계라는 것은 단지 죄인에 대해 인과응보적으로, 기계적으로 그리고 즉각적으로 주어지는 것이 아니라는 점에 대해서도 눈 여겨 봐야 합니다. 왜냐하면 아담과 하와가 사탄의 유혹에 넘어가 하나님의 계명을 어겼을 때 그 형벌이 즉시 그리고 100% 완전히 집행되지는 않았기 때문입니다. 하나님은 창세기 2장 17절에서 「반드시 죽으리라」라고 분명히 말씀하셨는데 실제로 아담과 하와는 따먹고 타락한 후에도 계속 오랜 세월을 살았습니다. 하와에 대해서 말하자면 그 후 모든 산 자의 어머니 (창세기 3장 20절)까지 되었습니다. 그렇다면 하나님은 창세기 2장 17절에서 거짓말을 하셨다는 말씀일까요? 그런 것이 아닙니다. 2장 17절에서는 죄 자체가 받아야 할 보답으로 형벌을 선포하고 계십니다. 죄란 하나님과의 교제를 깨뜨리는 것이고, 그것은 영적인 죽음이며, 참으로 죽을 만하기 때문입니다. 그러나 실제로는 그 형벌이 완화되고 연기되고 심지어 면제되기까지 하는 것은 하나님께서 죄인에 대해 또 다른 계획을 가지고 계셨기 때문입니다. 또 다른 계획이란 바로 그리스도에 의한 죄의 속죄이자 만물의 회복이었습니다. 따라서 하나님의 완전한 집행은 현재 연기되고 있다고 생각해야 합니다. 진정한 형벌은 100% 연기되고 있다. 언제까지 연기되고 있냐면 그것은 그리스도의 재림의 날까지입니다. 그날은 진정한 재판관 앞에서 모든 죄에 대해 공정하게, 완전히 심판이 이루어지는 것입니다. 따라서 그리스도의 재림날까지 진정한 형벌은 연기되고 있고, 이 지상에서 행해지는 하나님의 징계라는 것은 죄에 대한 인과응보적 형벌이 아니라 그것은 하나님의 연민, 하나님의 은혜가 뿌리에 깔려 있고, 사실 그것을 통해 하나님의 은총과 정의가 밝혀지고 징계를 통해 손상된 하나님의 의로움이 속죄되고 회복되는 일이 일어나고 있다는 것입니다. 하나님은 의의 회복을 위하여 자신이 정한 죄에 대한 형벌을 이스라엘 신앙공동체에서 구원자에게로 돌리셨습니다. 그렇게 생각한다면 공동체의 거룩함을 지키기 위해서 집행된 모든 징계는 어쩌면 패러다임 전환처럼 들릴지 모르지만 바빌론 포로조차 아간에게 행해진 돌팔매 형조차도 하나님의 은총으로 파악할 수 있습니다. 왜냐하면 아간은 공동체 앞에서 죄를 고백하고 있기 때문입니다.

바빌론 포로 이후 이스라엘의 신앙은 확실히 바뀌었습니다. 포로로 끌려가기 이전에는 순간마다 우상숭배와 불의에 빠져 끊임없이 더러움과 죄를 지었으나 포로 이후 주님께서 정해주신 곳, 예루살렘 신전에서 예배를 드리는 것이 허락되지 않자 포로로 끌려간 땅에 시나고그 (유대교 회당)를 짓고 그곳에서 율법을 배우고 기도와 예배를 드리게 되었습니다. 백성들은 거기서 겸허하게 율법에 복종하고 모든 우상숭배와 형상숭배를 극도로 싫어하며 눈에 보이지 않는 하나님의 계명의 준수를 자신들의 기쁨과 생명으로 간주하게 되도록 바뀌었던 것입니다. 거기서부터 바리새인과 서기관이라고 하는 극단적인 율법주의자가 생겨났던 것도 사실이지만, 하나님의 말씀인 율법은 더욱 이스라엘 사람들의 인생의 중심점이 되어간 것은 확실합니다. 율법을 아끼고 선지자를 통해 주어진 약속을 붙들고 언젠가는 자신들이 다시 하나님의 긍휼하심을 입어 구원자 메시아를 통해 하나님의 나라가 도래할 것임에 틀림없다는 이러한 형태로 메시아에 대한 기대는 이스라엘 신앙 속에서 맥을 이어 계속 자라나갔고 마침내 예수 그리스도가 세상에 오시는 「때가 차매」에 이르렀습니다. 모든 징계에는 목적과 의미가 있으며 그 목적과 의미는 공동체를 거룩하게 하여 공동체를 예수 그리스도께로 인도한다는 것입니다. 이스라엘이 죄를 지으면 지을수록 한결 하나님의 은혜가 드러났고 그 은혜는 그리스도에게 초점이 맞춰져 갔습니다.

결론

오늘날 우리도 주님께 매달릴 것인지 우상에 매달릴 것인지 매일의 생활 가운데 시험받고 있습니다. 이스라엘의 역사가 나타내고 있듯이 그저 주님만 의지하여 산다는 것은 매우 어려운 일이라는 것을 알 수 있을 것입니다. 그러나 우리들의 걸음의 밑바닥에는 하나님의 은혜가 지배하고 있으며 성령에 의해 인도되고 어떤 때에는 징계를 받고 어떤 때에는 위로와 도우심이 임하며 예수 그리스도를 꽉 붙들도록 인도하심을 받는 것입니다. 그리고 만일 이 지상에서 우리가 죄를 짓고 하나님으로부터 징계를 받는 경우가 있다고 할지라도 그것은 어디까지나 최종 심판이 아니라 죄의 속죄를 위해 공동체에서 손상된 의의 회복을 위한 사랑의 채찍이자 훈련이라는 것을 우리는 기억하고자 합니다. 예수 그리스도에 의해 어떠한 죄도 용서받고 있기 때문입니다. 이번 주도 서로 격려하고 서로 돕고 화내기는 더디하고 긍휼이 많으신 우리 하나님의 모든 역사를 찬양하는 자로서 걸어가도록 합시다.

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