2022年03月20日「主の選ばれる場所で 자기의 이름을 두시려고 택하신 곳」

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主の選ばれる場所で 자기의 이름을 두시려고 택하신 곳

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 12章1節~28節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1これから述べる掟と法は、あなたの先祖の神、主があなたに与えて得させられる土地で、あなたたちが地上に生きている限り忠実に守るべきものである。
2あなたたちの追い払おうとしている国々の民が高い山や丘の上、茂った木の下で神々に仕えてきた場所は、一つ残らず徹底的に破壊しなさい。
3祭壇を壊し、石柱を砕き、アシェラ像を火にくべ、神々の彫像を切り倒して、彼らの名をその場所から消し去りなさい。
4あなたたちの神、主に対しては国々の民と同じようにしてはならない。
5必ず、あなたたちの神、主がその名を置くために全部族の中から選ばれる場所、すなわち主の住まいを尋ね、そこへ行きなさい。
6焼き尽くす献げ物、いけにえ、十分の一の献げ物、収穫物の献納物、満願の献げ物、随意の献げ物、牛や羊の初子などをそこに携えて行き、
7あなたたちの神、主の御前で家族と共に食べ、あなたたちの手の働きをすべて喜び祝いなさい。あなたの神、主はあなたを祝福されているからである。
8あなたたちは、我々が今日、ここでそうしているように、それぞれ自分が正しいと見なすことを決して行ってはならない。
9あなたの神、主が与えられる安住の地、嗣業の土地に、あなたたちはまだ入っていないが、
10ヨルダン川を渡り、あなたたちの神、主が受け継がせられる土地に住み、周囲の敵から守られ、安らかに住むようになったならば、
11あなたたちの神、主がその名を置くために選ばれる場所に、わたしの命じるすべてのもの、すなわち焼き尽くす献げ物、いけにえ、十分の一の献げ物、収穫物の献納物、および主に対して誓いを立てたすべての最良の満願の献げ物を携えて行き、
12あなたたちの神、主の御前で、息子、娘、男女の奴隷、町の中に住むレビ人と共に、喜び祝いなさい。レビ人には嗣業の割り当てがないからである。
13あなたは、自分の好む場所で焼き尽くす献げ物をささげないように注意しなさい。
14ただ、主があなたの一部族の中に選ばれる場所で焼き尽くす献げ物をささげ、わたしが命じることをすべて行わなければならない。
15ただし、どの町においてもあなたの神、主が与える祝福に従って、欲しいだけ獣を屠り、その肉を食べることができる。かもしかや雄鹿を食べる場合のように汚れている者も清い者も食べることができる。
16ただし、その血は食べてはならず、水のように地面に注ぎ出さねばならない。
17あなたは穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油などの十分の一の献げ物、牛や羊の初子、あなたが誓いを立てた満願の献げ物、随意の献げ物、収穫物の献納物などを自分の町の中で食べてはならず、
18ただ、あなたの神、主の御前で、あなたの神、主の選ばれる場所で、息子、娘、男女の奴隷、町の中に住むレビ人と共に食べ、主の御前であなたの手の働きすべてを喜び祝いなさい。
19あなたは、地上に生きている限り、レビ人を見捨てることがないように注意しなさい。
20約束されたとおり、あなたの神、主があなたの領土を広げられるとき、肉が食べたいと言うなら、欲しいだけ肉を食べることができる。
21あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所が遠く離れているならば、わたしが命じたとおりに、主が与えられた牛や羊を屠り、自分の町で、欲しいだけ食べることができる。
22かもしかや雄鹿を食べる場合のように食べることができる。汚れている者も清い者もその肉を食べることができる。
23ただ、その血は断じて食べてはならない。血は命であり、命を肉と共に食べてはならないからである。
24血は食べることなく、水のように地面に注ぎ出さねばならない。
25それを食べてはならない。こうして主が正しいと見なされることを行うなら、あなたも子孫も幸いを得るであろう。
26ただ、あなたは、ささげるべき聖なる献げ物と満願の献げ物を携えて、主の選ばれる場所に行かねばならない。
27焼き尽くす献げ物の場合は、肉も血もあなたの神、主の祭壇にささげる。その他のいけにえは血をあなたの神、主の祭壇の側面に注ぎ、肉は食べることができる。
28わたしが命じるこれらのことをすべて聞いて守りなさい。こうして、あなたの神、主が良しとし、正しいと見なされることを行うなら、あなたも子孫もとこしえに幸いを得る。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 12章1節~28節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

私たちは今、キリストの受難を覚えながら日々を過ごしています。キリストは私たちの罪の刑罰を十字架上で全て引き受けられ、死に渡されました。その十字架を仰ぐたびに、私たちの罪がどんなに大きかったのかを思い起こしていきたいと思います。また、キリストは死に渡され三日目に復活なさいました。それは私たちを義の道に生かすようにするためです。イスラエルにとっては、カナンの地に入植すること、そのことが、まさに奴隷生活から解放された後に、イスラエルが義の道に生きることでありました。

私たちは今、モーセの第二の説教に耳を傾けておりますが、この第二の説教は、5~11章で大まかな内容が描かれていました。そして本日の12~28章において、その具体的な適用の内容が描かれています。モーセの説教で興味深い点を挙げるなら、モーセはここでカナンの地を征服する方法についてではなく、カナンの地を征服した後にその地に住む方法について教えていると言うことです。これは、つまり恵みによって与えられる土地の征服より、その地においてどのように生きるのか、そのことが難しいのであり、そのことが重要な問題であると言っているようであります。私たちにおいても救われた後、イエス・キリストを受け入れた後、日々の信仰生活をどのように送るのか、そのことこそ難しいのであり、そのことこそ重要な問題なのであります。

モーセは民に、カナンの土地に入植し、第一にすることとして、礼拝について語っています。礼拝は何よりも大切であり、礼拝こそ、神の臨在を喜び、神の祝福を受け、イスラエルの民の人生を確かにするものでありました。イスラエルの捧げる礼拝は、第一に「主がその名を置くために選ばれる場所」において献げなければならないということが強調されています。この言葉は、多少表現が異なりますが、12章において6回も繰り返されています。5節と、11節と、14節と、18節と、21節と、26節です。反復されているのは、そのことが大変重要であるからです。そして、二つ目に礼拝において反復されていることがあります。それは「共に喜び祝いなさい」という言葉です。この言葉は7節で語られ、12節で語られ、18節で語られています。少なくともイスラエルにおいて礼拝とは、何か犠牲を伴う苦行や、厳しい修行ではないということが分かってきます。それは、息子たちと、娘たちと、そして男奴隷や、女奴隷、レビ人たちと共に、神の御前で食事をしながら、喜び祝うということでありました。本日は礼拝における、この二つの強調点から申命記12章を眺めていきたいと思います。

【1】. 主の選ばれる場所

第一の強調点である、主の選ばれる場所で礼拝を捧げるために、モーセは、これまでカナン人が礼拝場所として使用した場所を徹底的に破壊するように命じています。そのカナン人の礼拝場所とは、2節にあるように高い山であったり、丘の上であったり、茂った木の下でありました。また同時に、そこにある石柱やアシェラ像などの偶像も取り除くように命じています。これは所謂、「聖所の中央集中化」が起こっていると見られます。それでは、主の選ばれる、その場所が一体どこなのかと言えば、申命記にはその場所について具体的な言及はありません。カナンへの入植後、イスラエルの中央聖所の場所は、ある時はシケムであり、ある時はベテルであり、ある時はシロであったようです。しかし、ダビデ王以降、中央聖所の場所はエルサレムになったと言うことができるでしょう。リベラルな注解書を読みますと、このエルサレムを暗示させるような中央聖所の記述について、これは実は、後代の人々の著述であって、実際モーセが語った言葉ではないだろうと説明します(出エジプト20:22~24との比較)。つまり、後の時代に、エルサレムで献げている自分たちの礼拝を権威づけるために、そして自分たちの礼拝を合理化するために、「聖所の中央集中化」の記事が挿入されたのでは、と主張します。皆さまはどのように思われますでしょうか。確かに申命記を見ると、先々のことを予見するかのような多くの記事に出会います。従って申命記が書かれた時期は、実際、ずいぶんと後代になってからではないだろうか。例えばヨシヤ王の宗教改革の頃に執筆されたのではないかという仮説が立てられています。そうかも知れません。しかし、執筆時期や著者については私たちには正確には分からないということで保留にした方がいいかと思われます。なぜなら、一方において「聖所の中央集中化」は、本来の神のご計画であり、永遠において、そのような青写真が神様のお考えの中に既に描かれていたのではないかと思われる記事にも我々は出くわすからです。申命記より古い資料とされている「イサク献祭」の記事の、その祭壇が築かれた場所に注目いたしますと次のように書かれています。創世記の22:1~2をご覧ください。

“これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」”

ここで神さまは、アブラハムにモリヤ山において、息子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさいと命じています。実際には、アブラハムがイサクに手をかけようとしたその瞬間に、「その子に手を下すな」と中断させ、アブラハムが目を上げるとちょうど、後ろの茂みに一匹の雄羊が角をとられていたため、その雄羊をイサクの代わりに、焼き尽くす献げ物として捧げたという内容でございます。このイサク献祭事件における、アブラハムとイサクの描写は、御父が御子を、罪を贖う生贄として、この世に与えるということが啓示されていると解釈されます。この祭事が行われたモリヤ山において、後の時代にまさにソロモンが神殿を建設したのでありました。歴代誌下3:1をご覧ください。

“ソロモンはエルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建築を始めた。そこは、主が父ダビデに御自身を現され、ダビデがあらかじめ準備しておいた所で、かつてエブス人オルナンの麦打ち場があった。”

つまり、神はモリヤ山において、即ち後のエルサレムにおいて、祭儀が行われるべきことを既に決めておられたのではないかと思わされるのです。このような不思議な聖書の統一性を見るときに、申命記は自分たちの礼拝を権威づけるための後代の著述であると結論づけるのは、いかがなものかと思うのであります。

それでは、神さまがそれほどまでに礼拝を捧げる場所にこだわったその理由とは、一体何だったのでしょうか。新約の時代に生きる私たちには、エルサレムでの祭儀律法は廃棄されていますね。なぜ旧約時代は、主の選ばれる場所で礼拝を捧げることが大切だったのでしょうか。ヨハネの福音書には、どこで礼拝を捧げるべきなのか、イエス様に直接問いただした女性がいました。ヨハネ4:20-21と4:23をご覧ください。

“わたしどもの先祖はこの山(ゲリジム山)で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。”

“しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。”

この女性はサマリアの女でありまして、サマリア地方にあるゲリジム山こそ、主の選ばれる礼拝場所ではないのでしょうかと言うのです。しかし、イエス様はシケムにあるゲリジム山でもなく、エルサレム神殿でもないと言われ、礼拝の中央聖所は場所ではなく、人格にあると言われました。つまり、霊と真理によって礼拝する時が来ようとしているとお応えになったのです。「イエス・キリストを通して礼拝する時が来ようとしている。」「ゲリジム山でもなく、エルサレム神殿でもなく、イエス・キリストを通して礼拝を捧げる時が到来する」と言われたのでした。そういえば、イエス様は、「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる」と言われ、三日目に復活されるご自身のことを、神の神殿であると言われたことがありました。旧約時代の神殿とは、来るべきイエス様を予表するものであります。したがって聖所の中央集中化の、その本当の意味とは何かと言いますと、罪の赦しはイエス・キリストを通してのみ与えられる、神との会見、神との交わりは、イエス・キリストを通してのみ与えられる。救いはイエス・キリストを通してのみ与えられるということなのです。「主がその名を置くために選ばれる場所」それは、まさにイエス・キリストご自身を指していたのであります。主がその名を置くために選ばれる場所の実体は、イエス・キリストであるということです。

【2】. 共に喜び祝いなさい

礼拝における、第二の強調点である「共に喜び祝いなさい」という言葉は、神様の御前で家族全員と共に食べる食事と関係しています。そもそも、神のイスラエルに対する選びとは、彼らがエジプトよりも、或いはカナン人よりも力が強く、人数が多かったからではありませんでした。イスラエルは、エジプトやカナン人と同様に、うなじの強い民であり、滅ぼされて当然の、根絶やしにされて当然の民でありました。しかしなぜか、イスラエルはカナンの住民とは異なる扱いを受け、主ヤハウェによって恵みによって死から救い出され、奴隷の土地から贖われたのです。そのことを覚えるだけで、心から神に感謝し、共に喜び祝うべきだと言えるのではないかと思います。

ところで祭儀と食事、この二つの関連は、異邦人の中にもたびたび見られる風習です。イスラエルの中でも祭儀の中で、食事が大切な要素として取り入れられました。ただし、焼き尽くす献げ物の場合は、祭壇で完全に燃やされましたが、その他の献げ物の場合については、脂肪だけが燃やされて、残りは保存され、祭司長とその家族が食べたり、生贄を捧げた人とその家族が食べることがありました。

神さまは、このように礼拝の中における食事を、大変重要視されましたが、その理由は一体なぜでしょうか。それは神様との結合、イスラエルの間に住まわれる神の「住み込み(ヘブライ語シャカン)5節」に関係があると思われます。礼拝の中における食事を通して、神がご自分の民と一緒に集まり、民が捧げた祭儀に基づいて、喜びの中で、その民と結合するためでありました。聖所において、神はイスラエルの民に近づかれ、彼らの中に住まわれるのです。そのような食事は、現在、私たちの礼拝の中でも行われています。それは聖餐です。私たちの礼拝の中で執り行われている聖餐式とは、イスラエルの民の祭儀の中の食事に由来していたということです。神様は捧げられた供え物の一部をとっておいて、ご自分の民に食事を招く主人であられます。この食事に参加する者は皆、神との契約に参加しているのです。食事に与ることは、契約の民であることの印となっていました。この食事は家族以外にも、男女の奴隷やレビ人たちと共にするようにと12節や18節で勧められています。レビ人には、嗣業の地が与えられていませんでした。彼らは専ら礼拝の奉仕に専念する人々です。もしかしたら聖所の中央集中化によって、これまでの様々なところで為されていたレビ人の仕事が奪われたのかもしれません。神さまは社会的弱者を特に顧みてくださっているということが見て取れます。イスラエルもエジプトにおいて奴隷の民でありました。ただ、神の恵みによって奴隷から解放されたのですから、イスラエルの民も積極的に、社会的な弱者に手を差し伸べていかなければならないのです。この、礼拝における食事が大切にされていたという考え方によって、イスラエルは異邦人が神殿で捧げた生贄の肉を食べることが禁止されていました。異邦人が神殿で捧げた肉は、偶像の神々に属する食事であり、それを食べるというのは、偶像の神々と結合することを意味するからです。これがどれだけ厳しく禁じられていたのかは、使徒言行録を見ればそのことが伝わってきます。また、申命記12章に「血を食べてはならない」という言葉があります。これは少し余談になりますが、血だけは特別扱いされていました。これは血が、命そのものを表していたからです。人間は、物を作り出すことができますが、命そのものを作り出すことはできませんね。命とは神さまだけが作り出すことができるものであります。従って命それ自体は神様に属するものであると言えるでしょう。神に属するものを神さまにお返しするために生贄の血を祭壇に注いだり、地面に注いだりしたわけです。従いまして私たちの命も実は私たちのものではなく、神さまのものという結論に導かれます。この命が私たちに貸し与えられている、賜物として与えられている、そのことを覚え、私たちの命を大切にしながら神の栄光を現わすように生きていきたいと思わされます。

【結論】

以上見てきましたように礼拝において、二つの強調点がモーセによって反復されました。第一に「主がその名を置くために選ばれる場所で」礼拝を捧げることです。第二に「共に喜び祝いなさい」ということです。これを現代に生きる私たちに言い換えるならば、キリストの中にあって、罪赦され、契約の民とされたことを喜びなさいということになります。これは、まさに私たちの聖餐において行われていることであります。私たちは神の一方的な恵みによって救われました。イエス・キリストの中で罪赦され契約の民とされています。そのことを喜び祝い特に社会的弱者に目を注ぎながら、彼らを顧みながら歩んでいく私たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

자기의 이름을 두시려고 택하신 곳

2022년 3월 20일 센겐다이교회 주일설교

신명기 12장 1~28절

서론

우리는 지금 그리스도의 수난을 기억하며 하루하루를 보내고 있습니다. 예수님은 우리 죄의 형벌을 십자가 위에서 모두 받으시고 죽으셨습니다. 그 십자가를 우러러 볼 때마다 우리의 죄가 얼마나 컸는지 생각해 보고 싶습니다. 또한 그리스도는 죽으신지 3일만에 부활하셨습니다. 그것은 우리를 의의 길로 살게 하기 위함이셨습니다. 이스라엘에게는 가나안 땅에 정착하는 것, 그것이 바로 노예생활에서 해방된 후 이스라엘이 의롭게 사는 것입니다.

우리는 지금 모세의 두 번째 설교에 귀를 기울이고 있는데 이 두 번째 설교는 5~11장에서 대략적인 내용이 그려져 있었습니다. 그리고 오늘 12~28장에서 그 구체적인 적용의 내용이 묘사되어 있습니다. 모세의 설교에서 흥미로운 점을 꼽자면 모세는 여기서 가나안 땅을 정복하는 방법에 대해서가 아니라 가나안 땅을 정복한 후에 그 땅에서 사는 방법에 대해 가르치고 있다는 것입니다. 이는 곧 은혜로 주어지는 땅의 정복보다 그 땅에서 어떻게 살 것인가가 더 어려운 것이고, 그것이 중요한 문제라고 말하고 있는 것 같습니다. 우리도 구원을 받고 예수 그리스도를 믿은 후에 매일의 믿음생활을 어떻게 보낼 것인가, 그것이야말로 어려운 일이며 그것이 가장 중요한 문제인 것입니다.

모세는 백성들에게 가나안 땅에 정착하여 첫째로 해야 할 것으로 예배에 대해서 말하고 있습니다. 예배는 무엇보다 소중하며 예배야말로 하나님의 임재를 기뻐하고 하나님의 축복을 받으며 이스라엘 백성의 삶을 확실히 하는 것이었습니다. 이스라엘이 드리는 예배는 첫째, 「자기의 이름을 두시려고 택하신 곳」에서 드려져야 한다는 것이 강조되어 있습니다. 이 단어는 다소 표현이 다르지만 12장에 있어서 여섯 번이나 반복되고 있습니다. 5절과 11절과 14절과 18절과 21절과 26절입니다. 반복되고 있는 것은 그것이 매우 중요하기 때문입니다. 그리고 두 번째로 예배에서 반복되는 것이 있습니다. 바로 「함께 즐거워하라」는 말입니다. 이 말은 7절에서 말하고 12절에서 말하고 18절에서 말합니다. 적어도 이스라엘에게 예배란 어떤 희생을 수반하는 고행이나 혹독한 수행이 아니라는 것을 알게 됩니다. 그것은 아들들과 딸들과 그리고 남자노비와 여자노비, 레위인들과 함께 하나님 앞에서 식사를 하면서 기뻐하며 축하한다는 것이었습니다. 오늘은 예배에 있어서 이 두 가지 강조점으로부터 신명기 12장을 살펴보도록 하겠습니다.

(1) 주님이 택하신 곳

첫 번째 강조점인 주님께서 택하신 곳에서 예배를 드리기 위해 모세는 그동안 가나안 사람들이 예배 장소로 사용했던 곳을 철저히 파괴하라고 명령하고 있습니다. 그 가나안인의 예배 장소란 2절에 나와 있듯이 높은 산이거나 작은 산이거나 푸른 나무 아래였습니다. 또 동시에 거기에 있는 돌기둥이나 아세라상 등의 우상도 제거하라고 명령하고 있습니다. 이른바 「성소의 중앙집중화」가 일어나고 있는 것으로 보입니다. 그러면 주님이 택하시는 곳이 도대체 어디냐 하면 신명기에는 그 장소에 대한 구체적인 언급이 없습니다. 가나안에 정착한 후 이스라엘의 중앙성소 자리는 어떤 때는 세겜이었고, 어떤 때는 벧엘이었고, 어떤 때는 실로였던 것 같습니다. 그러나 다윗 왕 이후 중앙성소의 자리는 예루살렘이 되었다고 할 수 있을 것입니다. 자유주의적인 주해서를 읽으면 이 예루살렘을 암시하게 되는 중앙성소의 기술에 대해 이것은 사실 후대 사람들의 저술이지 실제 모세가 한 말은 아닐 것이라고 설명합니다. (출애굽기 20장 22~24절의 비교). 즉 후대에 예루살렘에서 드리고 있는 자신들의 예배를 권위화하기 위해서 그리고 자신들의 예배를 합리화하기 위해 「성소의 중앙집중화」기사가 삽입된 것이 아닐까 주장합니다. 여러분은 어떻게 생각하십니까? 확실히 신명기를 보면 먼 훗날을 예견하는 듯한 많은 기사들을 만나게 됩니다. 따라서 신명기가 쓰인 시기는 사실 한참 후대에 이르러서가 아닐까, 예를 들어 요시야 왕의 종교개혁 무렵에 집필된 것이 아닐까 하는 가설이 세워져 있습니다. 그럴 수도 있습니다. 그러나 집필 시기나 저자에 대해서는 저희가 정확히 알 수 없기 때문에 보류하는 것이 좋을 것 같습니다. 왜냐하면 한편으로 「성소의 중앙집중화」는 본래 하나님의 계획이며, 영원히 그런 청사진이 하나님의 생각 속에 이미 그려져 있지 않았나 하는 기사도 우리는 마주치기 때문입니다. 신명기보다 오래된 자료로 알려진 「아브라함의 이삭의 번제」의 시기의 그 제단이 세워진 장소에 주목하면 다음과 같습니다. 창세기 22장 1,2절을 참조하시기 바랍니다.

1 그 일 후에 하나님이 아브라함을 시험하시려고 그를 부르시되 아브라함아 하시니 그가 이르되 내가 여기 있나이다

2 여호와께서 이르시되 네 아들 네 사랑하는 독자 이삭을 데리고 모리아 땅으로 가서 내가 네게 일러 준 한 산 거기서 그를 번제로 드리라

여기서 하나님은 아브라함에게 모리아 산에서 아들 이삭을 다 태우는 번제물로 바치라고 명하십니다. 실제로 아브라함이 이삭에게 손을 대려고 하는 그 순간에 하나님은「그 아이에게 네 손을 대지 말라」라고 중단시키셨으며 아브라함이 눈을 들어 살펴본즉 한 마리의 숫양이 뒤에 있었고 뿔이 수풀에 걸려 있었기 때문에 그 숫양을 이삭 대신 번제물로 바쳤다는 내용입니다. 「아브라함의 이삭의 번제」사건에서 아브라함과 이삭의 묘사는 아버지가 자식을 속죄하는 제물로 새상에 준다는 것이 계시된 것으로 해석됩니다. 이 제사가 드려졌던 모리아 산에서 훗날 바로 솔로몬이 신전을 건설한 것입니다. 역대하 3장 1절을 보시기 바랍니다.

1솔로몬이 예루살렘 모리아 산에 여호와의 전 건축하기를 시작하니 그 곳은 전에 여호와께서 그의 아버지 다윗에게 나타나신 곳이요 여부스 사람 오르난의 타작 마당에 다윗이 정한 곳이라

즉 하나님은 모리아 산에서 즉 나중의 예루살렘에서 제사가 거행되어야 할 것을 이미 결정하시지 않았나 하는 생각이 듭니다. 이런 신기한 성경의 통일성을 볼 때 신명기는 자신들의 예배의 권위를 세우기위한 후대의 저술이라고 결론짓는 것은 맞지 않다고 생각합니다.

그렇다면 하나님이 그토록 예배드리는 장소를 구애를 받으시는 이유는 도대체 무엇일까요? 신약의 시대에 사는 우리에게는 예루살렘에서의 제사에 관한 율법은 폐기되어 있습니다. 왜 구약시대에는 주께서 택하신 곳에서 예배드리는 것이 중요했을까요? 요한복음에는 어디서 예배를 드려야 하는지 예수님께 직접 물어본 여성이 있었습니다. 요한복음 4장 20,21절과 4장 23절을 참조하십시오.

요한복음 4장

20 우리 조상들은 이 산에서 예배하였는데 당신들의 말은 예배할 곳이 예루살렘에 있다 하더이다

21 예수께서 이르시되 여자여 내 말을 믿으라 이 산에서도 말고 예루살렘에서도 말고 너희가 아버지께 예배할 때가 이르리라

23 아버지게 참되게 예배하는 자들은 영과 진리로 예배할 때가 오나니 곧 이 때라 아버지께서는 자기에게 이렇게 예배하는 자들을 찾으시느니라

이 여성은 사마리아 여자로 사마리아 지방에 있는 그리심 산이야말로 하나님이 선택하시는 예배 장소가 아닐까 하는 것입니다. 그러나 예수님은 세겜에 있는 그리심 산도 아니고 예루살렘 성전도 아니라고 하셨고 예배의 중앙성소는 장소가 아니라 메시아라는 인격에 있다고 하셨습니다. 즉 영과 진리에 의해 예배드릴 때가 온다고 대답하신 것입니다. 「예수 그리스도를 통해 예배드릴 때가 올 것이다」 「그리심 산도 아니고 예루살렘 성전도 아니고 예수 그리스도를 통해서 예배를 드리는 때가 온다」라고 말씀하신 것입니다. 그러고 보니 예수님은 「이 성전을 헐라 내가 사흘만에 일으키리라」라고 말씀하시고 셋째 날 부활하시는 자신을 가리켜 하나님의 성전이라고 말씀하신 적이 있었습니다. 구약시대의 성전이란 다가올 예수님을 예표하는 것입니다. 따라서 성소 중앙집중화의 진정한 의미가 무엇이냐 하면 죄의 용서는 오직 예수 그리스도를 통해서만 주어진다는 것입니다. 주께서 자기의 이름을 두시려고 택하신 곳 그곳이 바로 예수 그리스도 자신을 가리키고 있엇던 것입니다. 「자기의 이름을 두시려고 택하신 곳」의 실체는 예수 그리스도라는 것입니다.

(2) 함께 즐거워하라

예배에서 두 번째 강조점인 「함께 너희의 하나님 여호와 앞에서 즐거워할 것이라」는 말씀은 하나님 앞에서 온 가족과 함께 먹는 식사와 관련이 있습니다. 원래 이스라엘에 대한 하나님의 선택은 그들이 애굽보다 혹은 가나안보다 힘이 세고 인원수가 많았기 때문이 아니었습니다. 이스라엘은 애굽이나 가나안 사람들과 마찬가지로 목이 곧은 백성이었고 멸망당해야 마땅하고 근절되어야 마땅했습니다. 그러나 웬일인지 이스라엘은 가나안 주민들과는 다른 대우를 받았고, 주 여호와께 은혜를 입고 죽음에서 구원받고 노예의 신분에서 속죄함을 받았습니다. 그것을 기억하는 것만으로도 하나님께 감사하고 함께 즐거워하며 축하해야 한다고 말할 수 있지 않을까 생각합니다.

그런데 제의와 식사, 이 두 가지 관련은 이방인들 사이에서도 종종 볼 수 있는 풍습입니다. 이스라엘 안에서도 제의 중 식사가 중요한 요소로 도입되었습니다. 다만 다 태우는 번제의 경우 제단에서 완전히 불태웠지만 그 외 제물의 경우에는 지방만 불태우고 나머지는 보존 되어 제사장과 그 가족이 먹거나 제물을 바친 사람과 그 가족이 먹는 경우가 있었습니다.

하나님은 이처럼 예배 속 식사를 매우 중요하게 여겼는데 그 이유는 도대체 왜일까요? 그것은 하나님과의 연합, 이스라엘 가운데 계시는 하나님의 「거주하심(히브리어로 샤칸) 5절」에 관계가 있다고 생각합니다. 예배 중 식사를 통해 하나님이 자신의 백성과 함께 모여 백성이 바친 제의에 따라 즐거움 가운데 그 백성과 연합하시기 위함이었습니다. 성소에서 하나님은 이스라엘 백성에게 가까이 가셔서 그들 안에 사시는 것입니다. 그러한 식사는 현재 우리 예배 중에서도 행해지고 있습니다. 그것은 성찬입니다. 우리 예배에서 거행되고 있는 성찬식이란 이스라엘 백성들의 제의 가운데의 식사에서 유래되었다는 것입니다. 하나님은 바쳐진 제물의 일부를 덜어내어 자신의 백성을 식사에 초대하시는 주인이십니다. 이 식사에 참여하는 사람들은 모두 하나님과의 언약에 참여하고 있는 것입니다. 식사에 참여한다는 것은 언약의 백성이라는 것 증표입니다. 이 식사는 가족 이외에도 남녀 노비나 레위인들과 함께 하라고 12절과 18절에서 권고하고 있습니다. 레위인에게는 분깃이나 기업의 땅이 주어지지 않았습니다. 그들은 오로지 예배 봉사에 전념하는 사람들입니다. 어쩌면 성소의 중앙집중화에 의해 지금까지 여러 곳에서 행해지고 있던 레위인들의 일이 없어졌을지도 모릅니다. 하나님은 사회적 약자를 특히 보살펴 주신다는 것을 알 수 있습니다. 이스라엘도 애굽에서 노예의 신분이었습니다. 오로지 하나님의 은혜로 노예에서 해방되었으니 이스라엘 백성들도 적극적으로 사회적 약자에게 손을 내밀어야 합니다. 이 예배에서 식사가 소중히 여겨졌다는 생각에 따라 이스라엘은 이방인이 우상의 신전에서 바친 제물인 고기를 먹는 것이 금지되었습니다. 이방인이 신전에서 바친 고기는 우상의 신들에게 속한 식사이고 그것을 먹는다는 것은 우상의 신들과 연합하는 것을 의미하기 때문입니다. 이것이 얼마나 엄격하게 금지되어 있었는지 사도행전을 보면 그 사실이 전해집니다. 또 신명기 12장에 「피를 먹지 말라」는 말이 있습니다. 이건 여담입니다만 피만은 특별 취급되고 있었습니다. 이것은 피가 생명 그 자체를 나타내고 있었기 때문입니다. 인간은 사물을 만들어 낼 수 있지만 생명자체를 만들어낼 수는 없습니다. 생명이란 하나님만이 만들어낼 수 있는 것입니다. 따라서 생명 그 자체는 하나님께 속한 것이라고 할 수 있습니다. 하나님께 속한 것을 하나님께 돌려드리기 위해 제물의 피를 제단에 붓거나 땅에 붓거나 한 것입니다. 따라서 우리의 생명도 사실은 우리의 것이 아니라 하나님의 것이라는 결론에 인도됩니다. 이 생명을 우리가 빌려 쓰고 있고 선물로써 주어졌다는 것을 기억하고 우리의 생명을 소중히 여기며 하나님의 영광을 나타내도록 살고 싶다고 생각합니다.

결론

이상 살펴보았듯이 예배에서 두 가지 강조점이 모세에 의해 반복되었습니다. 첫째, 「자기의 이름을 두시려고 택하신 곳」에서 예배를 드리는 것입니다. 둘째, 「함께 즐거워한다」는 것입니다. 이것을 현대에 사는 우리에게 바꾸어 말하면 그리스도 안에 있고 죄사함을 받고, 언약의 백성안에 들어온 것을 즐거워하라라는 것이 됩니다. 이것은 바로 우리의 성찬식에서 행해지고 있는 것입니다. 우리는 하나님의 일방적인 은혜로 구원 받았습니다. 예수 그리스도 안에서 죄사함을 받고 언약의 백성으로 여겨지고 있습니다. 그 일을 즐거워하고 축하하며 특히 사회적 약자에 눈을 두고 그들을 돌아보며 살아가는 우리들이 되도록 합시다.

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