2022年03月06日「祝福と呪い 축복과 저주」

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祝福と呪い 축복과 저주

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 11章1節~32節

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聖句のアイコン聖書の言葉

11:1あなたは、あなたの神、主を愛し、その命令、掟、法および戒めを常に守りなさい。
11:2あなたたちは、あなたたちの神、主の訓練を知ることも見ることもない子孫とは違うことを、今日知らねばならない。その大いなる御業、強い御手と伸ばされた御腕、
11:3エジプトの中でエジプトの王ファラオとその全土に対してなさったしるしと御業、
11:4エジプト軍、その馬と戦車に対してなさったこと、すなわち彼らがあなたたちを追撃して来たとき、主が彼らの上に葦の海の水を溢れさせて滅ぼし、今日に至っていること、
11:5あなたたちがここに来るまで主が荒れ野でなさったこと、
11:6また、ルベンの孫で、エリアブの子であるダタンとアビラムになさったこと、すなわち、大地が口を開けて、彼らとその家、その天幕、および全イスラエルの中で彼らと行を共にした者を皆、呑み込んだことなど、
11:7主のなさった大いなる御業をすべて、あなたたちは自分の目で見てきた。
11:8あなたたちは、わたしが今日命じるすべての戒めを守りなさい。こうして、あなたたちは勇ましくなり、川を渡って、得ようとしている土地に首尾よく入り、それを得ることができる。
11:9こうして、主があなたたちの先祖に、彼らとその子孫に与えると誓われた土地、すなわち乳と蜜の流れる土地で、あなたたちは長く生きることができる。
11:10あなたが入って行って得ようとしている土地は、あなたたちが出て来たエジプトの土地とは違う。そこでは種を蒔くと、野菜畑のように、自分の足で水をやる必要があった。
11:11あなたたちが渡って行って得ようとする土地は、山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている。
11:12それは、あなたの神、主が御心にかけ、あなたの神、主が年の初めから年の終わりまで、常に目を注いでおられる土地である。
11:13もしわたしが今日あなたたちに命じる戒めに、あなたたちがひたすら聞き従い、あなたたちの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば、
11:14わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたには穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の収穫がある。
11:15わたしはまた、あなたの家畜のために野に草を生えさせる。あなたは食べて満足する。
11:16あなたたちは、心変わりして主を離れ、他の神々に仕えそれにひれ伏さぬよう、注意しなさい。
11:17さもないと、主の怒りがあなたたちに向かって燃え上がり、天を閉ざされるであろう。雨は降らず、大地は実りをもたらさず、あなたたちは主が与えられる良い土地から直ちに滅び去る。
11:18あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、
11:19子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、
11:20あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
11:21こうして、主が先祖に与えると誓われた土地にあって、あなたたちとあなたたちの子孫の日数は天が地を覆う日数と同様、いつまでも続くであろう。
11:22もし、わたしがあなたたちに行うようにと命じるこのすべての戒めをよく守り、あなたたちの神、主を愛してそのすべての道に従って歩み、主につき従うならば、
11:23主はあなたたちの前からこれらの国々をすべて追い払われ、あなたたちは自分よりも大きく強い国々を追い払うことができる。
11:24あなたたちが足の裏で踏み込む所は、すべて、あなたたちのものとなり、荒れ野からレバノン山まで、ユーフラテス川から西の海まであなたたちの領地となる。
11:25あなたたちに立ち向かいうる者は一人もいない。あなたたちが言われたように足を踏み入れる土地の至るところに、あなたたちの神、主は、あなたたちに対する脅威とおののきを起こされる。
11:26見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。
11:27あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、
11:28もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。
11:29あなたが入って得ようとしている土地に、あなたの神、主が導き入れられるとき、ゲリジム山に祝福を、エバル山に呪いを置きなさい。
11:30この二つの山は、ヨルダン川の西のアラバに住むカナン人の領内を貫く街道の、更に西方にあって、ギルガルの前方、モレの樫の木の近くにある。
11:31あなたたちはヨルダン川を渡って、あなたたちの神、主が与えられる土地に入って、それを得ようとしているが、それを得て、そこに住むときには、
11:32今日、わたしがあなたたちに授けるすべての掟と法を忠実に守らねばならない。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 11章1節~32節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 今、私たちはイエス様の受難を覚えるレントの時期を過ごしております。この時期に東ヨーロッパでは戦争が始まってしまいました。日々つらいニュースが報道されていますが、ウクライナの人々の、また戦災にあっている全ての人々の、その苦痛と痛みと涙とを覚え、そこに少しでも寄り添いながら、とりなしていきたいと思わされます。

さて、本日の申命記11章は、大まかに言えば、従順にするのか、或いは不従順にするのかという、イスラエルの前に置かれた選択について記述されています。私たちは主、ヤハウェに献身し、従順に歩むのか、或いは偶像の神々、実はそれは自分の欲望なのですけれども、その自分の欲望に従って歩むのか、今日、決断しなければなりません。「白にするのか、黒にするのか」、「あたかも出家するような思いで主に献身するのか、それとも、世俗に生きるのか」、中間の灰色はありません。そのことを今日、決意表明しなさいと聖書は語りかけます。これは、とても重要なことです。口だけで、「私はイエス様を信じています」「私は聖書を信じています」というだけで、いざ、信仰が試された時に、その人が一体どのように行動するのかということが問われているのだと思います。行いが伴わない信仰は、真の信仰ではありませんね。信仰にしっかり立つように、どんなことがあっても唯一の主なる神様だけに依り頼んで歩んでいくようにと、モーセは励ましているのです。

 イスラエルの前に「従順と不従順」が、そして「祝福と呪い」が置かれているということですが、これは以前から、繰り返して申し上げているように、私たちが従順を選択したから、主を選択したから、その功績として幸いが与えられる。あるいは、私たちが主に背き、偶像に従ったから、その反対の報いとして、神さまに棄てられて、新しい民が起こされるということではありません。なるほど、見方によれば従順と不従順というのは、私たちの応答でありますから、その結果次第によって、祝福と呪いがもたらされると読み取る人もいるでしょう。あたかも、人間の行動によって、人間の頑張りによって、結果が変わる。祝福も呪いも人間の側の選択に、すべてがかかっているように見えます。しかし、申命記の他の個所を見ますと、祝福と呪いは神の主権に置かれていて、実際に祝福と呪いを下されるのは、「イスラエルを宝の民として愛してやまない、契約の神、父なる神」であるということが明らかにされています。たとえば、8:17には、「あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。」とあります。イスラエルの従順によって、カナンに入り、そしてこの富が築かれたのではない、専ら神の恵みによるのだということです。さらに、8:2と5節において、「あなたの神、主がこの四十年の間、荒れ野であなたを導いた、すべての道のりを思い起こしなさい。主はあなたを苦しめ、試み、あなたの心にあるもの、すなわちその戒めを守るかどうかを知ろうとされた。…人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練することを心に留めなさい。」とあります。この箇所は、カデシュ・バルネアの不従順によって与えられた荒れ野での40年の放浪は、罪の罰というより、神さまの試みであり訓練であったと言っています。それは、不信仰に対する刑罰というより、ご自身の愛する子に対する懲らしめであったと言うのです。そして、極めつけとして、9:8では、「ホレブにいたとき、あなたたちが主を怒らせたので、主はあなたたちに向かって激しく憤り、滅ぼそうとされた。」とあります。これは、金の小牛を作った時、イスラエルの民は本来、滅ぼされて当然であった、それにも拘わらず罰を受けなかった。それは、モーセがとりなしの祈りをささげてくれたからです。この時、アロンでさえ神を怒らせましたが、主はモーセのとりなしの祈りを聞き入れてくださり、アロンとイスラエルの罪を赦してくださいました。

 このように見てくると、祝福と呪いはイスラエルの前に置かれているのですが、それはイスラエルと契約を結んでくださった「契約の神」に主権が置かれているということになります。因果応報の法則が常に自動的に、機械的に適用されるということではなく、その根底には神の愛があり、イスラエルが幸いの道に、命の道に生きるようにと、主は常に励ましてくださっているということです。

【1】. 1.5世代の民に語りかける神

 さて、イスラエルの民は、今モアブの平野でモーセの説教を聞いています。彼らは、出エジプトをした第一世代ではありませんでした。1.5世代の民と言えるでしょうか。40年前、出エジプトをした世代の戦士たちは、即ち当時20歳以上の民は、モーセとヨシュアとカレブの三人を残して全員、荒れ野で命を落としてしまいました。あれから40年経った現在、60歳以上の人は、モーセとヨシュアとカレブだけで、それ以外の民は全員60歳未満の人ということになります。出エジプトの大いなる御業を実際に目にした人もいれば、まだ生まれていない人もいました。しかし神さまの関心は、常に現在のイスラエルにあります。この1.5世代の民が、神の御前にどのような信仰を持って立つのか、そこに関心が注がれているのです。ですから、神さまは40年前に結んだシナイ契約が、今まさに有効であり、イスラエルの民は主との契約の前に、どのように応答するのか、そこに強い関心を持っておられるのです。「今日」という言葉が申命記に繰り返し使われていますが、それは、「40年前の契約が、今日、あなた方に適用されているのだ!」と言っているようです。そして、もしイスラエルが御言葉を守り行うのなら、約束の地を得ることができる、幸いに歩むことができると約束してくださっているのです。8~12節をご覧ください。

“あなたたちは、わたしが今日命じるすべての戒めを守りなさい。こうして、あなたたちは勇ましくなり、川を渡って、得ようとしている土地に首尾よく入り、それを得ることができる。こうして、主があなたたちの先祖に、彼らとその子孫に与えると誓われた土地、すなわち乳と蜜の流れる土地で、あなたたちは長く生きることができる。あなたが入って行って得ようとしている土地は、あなたたちが出て来たエジプトの土地とは違う。そこでは種を蒔くと、野菜畑のように、自分の足で水をやる必要があった。あなたたちが渡って行って得ようとする土地は、山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている。それは、あなたの神、主が御心にかけ、あなたの神、主が年の初めから年の終わりまで、常に目を注いでおられる土地である。”

ここではエジプトの土地と、カナンの土地が比較されています。エジプトの土地とは、一言でいえば、「自分の努力によって富を築く」ということを象徴しています。そこには大きなナイル川が流れていて灌漑施設が発達していました。しかし、それは人間の力がどれだけそこに注がれたかによって、収穫が左右される土地でありました。一方、カナンの土地とは、一言でいえば、「神の恵みによって富を築く」ということを象徴しています。川はなく、灌漑施設はありませんが、神さまが常に目を注いでくださり、天から「初めの雨」、「終わりの雨」を降り注いでくださるのです。ちなみに「初めの雨」とは、イスラエルの乾季が終わる秋の雨のことを指します。「終わりの雨」とは、雨季が終わる春の雨のことを指します。初めの雨も、終わりの雨の豪雨のように、嵐のようにやってきます。10月頃の初めの雨によって、干からびた大地が一気に潤されて、耕作を可能とし、4月頃の終わりの雨は収穫になくてはならない雨であったようです。このことを現代の私たちに適用するなら、今日、御言葉に聞き従う皆様も、実は、神さまの恵みによって富を築かせていただいているということになります。そのことを覚えてまいりましょう。それから11:22の最後に「主につき従うならば」、という言葉がありますが、「つき従う」という言葉は、ヘブル語でダバク(粘着する)という言葉です。先週も紹介しましたが、「主に結び合わされる」、「主に夢中になる」という意味になります。ですから御言葉を守り行うこととは、神さまを愛し、「主に結び合わされ」、「主に夢中になる」ということです。そうすることによって、恵みの地であるカナンが与えられるのです。

【2】. 契約を忘れない神さま

 つづいて26~30節をご覧ください。

“見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。あなたが入って得ようとしている土地に、あなたの神、主が導き入れられるとき、ゲリジム山に祝福を、エバル山に呪いを置きなさい。この二つの山は、ヨルダン川の西のアラバに住むカナン人の領内を貫く街道の、更に西方にあって、ギルガルの前方、モレの樫の木の近くにある。”

モーセはここで何を言っているのかと言いますと、あなた方がカナンの地に入植した後、ゲリジム山とエバル山の両方を見渡すことのできる、ある場所で一つの儀式を行いないなさいと命じています。その場所は、モレの樫の木の近くにあるということですが、そこはシケムであると考えられています。新共同訳聖書の裏の地図3「カナンへの定住」をご覧ください。カナンのちょうど真ん中あたりに北側にエバル山、南側にゲリジム山があるのを確認できますでしょうか。その間にシケムという町が確認できます。このモーセの命令は、後ほどヨシュア記8章において実行されました。ヨシュア記8:30~33をご覧ください。

“そのころ、ヨシュアはエバル山にイスラエルの神、主のための祭壇を築いた。この祭壇は、主の僕モーセがイスラエルの人々に命じ、モーセの教えの書に記されたとおり、鉄の道具を使わない自然のままの石で造られた。彼らはその上で、主に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。ヨシュアはこの祭壇の石に、モーセがイスラエルの人々のために記した教えの写しを刻んだ。全イスラエルは、長老、役人、裁判人をはじめ、寄留者もその土地に生まれた者も、主の契約の箱を担ぐレビ人である祭司たちの前で、箱のこちら側とあちら側に、半分はゲリジム山の前に、他の半分はエバル山の前に立った。それは主の僕モーセがかつて命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。”

ここでは、イスラエルの民が半分に分けられて、一方はゲリジム山に、もう一方はエバル山に立たされたとあります。これは半分の民を祝福し、もう半分の民を呪うためということではありません。ですからエバル山の側に立たされた民を気の毒だと思わないでください。ヨシュア記の記事を見ると、祭壇はどちら側にあったと記されているでしょうか。エバル山ですね。エバル山で祭壇が築かれました。そしてその祭壇において、「焼き尽くす献げ物と和解の献げ物」が献げられました。この祭儀は神による贖いを現わしていると思われます。本来、イスラエルの民は、主に背き続けた民であり、カナン人と全く同じように滅ぼされて当然の民でありました。ところが、呪いの側のエバル山に祭壇が築かれ、犠牲の生贄が献げられ、神との和解が与えられているのです。ですからこの儀式は、エバル山にいた民が、死から命へ、呪いから祝福へ、エバル山からゲリジム山へ移されたということを暗示しているのです。つまり、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物は、やがて来られるイエス様の救いの御業である十字架の死を指し示していると言うことが出来るでしょう。従ってここで語られているエバル山とゲリジム山とは、向こうの山の方が良かったとか、そういう問題ではなく、神の子羊の犠牲によって、キリストの功労によって、どのような恵みが罪深いイスラエルに与えられたのかを示しているのです。イスラエルのその根深い罪がどのように赦され、うなじの強いイスラエルがどのように呪いから祝福へ、死から命へ移されたのかを示しているのです。この儀式が行われたシケムという町ですが、この場所は実はアブラハムがカナンの地に到着し初めて神さまに祭壇を築いた場所でもありました。そこで神さまがアブラハムに現れてくださったのです。創世記12:5~7をご覧ください。

“アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。”

そして、シケムに祭壇を築いたのはアブラハムだけではありませんでした。実はヤコブもそこに祭壇を築いたと創世記33章に書かれています。創世記33:18~20をご覧ください。

“ヤコブはこうして、パダン・アラムから無事にカナン地方にあるシケムの町に着き、町のそばに宿営した。ヤコブは、天幕を張った土地の一部を、シケムの父ハモルの息子たちから百ケシタで買い取り、そこに祭壇を建てて、それをエル・エロヘ・イスラエル(神はイスラエルの神である)と呼んだ。”

「シケム」という場所をめぐって、神さまはイスラエルの先祖たちに繰り返し祝福を語って下さり、そしてモーセに導かれてカナンの地に入った第1.5世代の民に対しても、同じように祝福を宣言してくださったのです。ここにイスラエルに対する神の信実さが現わされていると言っていいのではないでしょうか。先祖たちと結ばれた契約を現在進行形のものとして捉えてくださり、今日、御言葉によって歩む、信仰の民イスラエルを支え、励まし続けておられるのです。私たちはこの神の恵みに感謝しつつ、その愛の応答として御言葉を守り行わなければなりません。

【結論】

 祝福と呪いは、私たちの行いにただひたすら置かれているのではなく、それは、神の主権に置かれていて、「イスラエルを常に顧みられ、宝の民として愛してやまない、契約の神」の御手の中に置かれています。私たちはこの信実な神さまに愛されている恵みの応答として、神さまに日々感謝をささげ、与えられた御言葉を守り行わなければなりません。今日、白にするのか黒にするのか決断し、御言葉によって生きる者として主の御前に新たに決意表明をしていく、私たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

축복과 저주

2022년 3월 6일 센겐다이 교회 주일 설교

신명기 11장 1~32절

서론

지금 우리는 예수님의 수난을 기억하는 수난절의 시기를 보내고 있습니다. 이 시기에 동유럽에서는 전쟁이 시작되고 말았습니다. 매일 매일 괴로운 뉴스가 보도 되고 있습니다만 우크라이나 사람들 뿐만이 아니라 전쟁의 재난을 겪고 있는 모든 사람들의 그 고통과 아픔과 눈물을 기억하고 그 고통에 조금이나마 동참하여 중보하고 싶습니다.

자, 오늘의 신명기 11장은 대략 말하면 “순종할 것인가?” 아니면 “불순종 할 것인가?”라는 이스라엘 앞에 놓인 선택에 관해서 기술하고 있습니다. 우리는 주 여호와께 헌신하고 순종의 삶을 살아갈 것인지 또는 우상의 신들, 실은 그것은 자신의 욕망에 불과한 것이지만 자신의 욕망에 따라 살아갈 것인지 오늘 결단하지 않으면 안됩니다. “흰색으로 할 것인가, 검정으로 할 것인가”, “마치 출가한 것 같은 마음으로 주님께 헌신할 것인지, 아니면 세속에 살 것인가”를 결정해야 합니다. 중간지대인 회색은 없습니다. 그것을 오늘 결의표명하라고 성경은 말하고 있는 것입니다. 이것은 매우 중요한 문제입니다. 입만으로 “나는 예수님을 믿습니다.” “나는 성경을 믿습니다.”라고 말만하는 것만으로는 언젠가 믿음이 시험대에 올려졌을 때 그 사람이 도대체 어떻게 행동할것인가를 질문 받고 있는 것이라고 생각합니다. 행함이 따르지 않는 믿음은 진정한 믿음이 아닙니다. 믿음위에 굳건히 서도록, 어떤 일이 있어도 유일한 주님께만 의지하고 걸어가라고 모세는 격려하고 있는 것입니다.

이스라엘 앞에 「순종과 불순종」이 그리고 「축복과 저주」가 놓여 있다고 하는데, 이것은 예전부터 거듭 말씀드렸듯이 우리가 순종을 선택했으니, 주님을 선택했으니 그 공적으로 복을 받는다. 또는 우리가 주님을 등지고 우상을 따랐기 때문에 그 반대인 벌에 대한 댓가로 하나님께 버림받고 새로운 백성이 일어나게 된다는 것이 아닙니다. 어떻게 보면 순종과 불순종이라는 것은 우리의 응답이기 때문에 그 결과에 따라 축복과 저주가 초래된다고 이해하는 사람도 있을 것입니다. 마치 인간의 행동에 따라, 인간의 노력에 따라 결과가 달라진다. 축복도 저주도 인간 쪽의 선택에 모든 것이 달려 있는 것처럼 보입니다. 그러나 신명기의 다른 곳을 보면 축복과 저주는 하나님의 주권아래 놓여져 있고 실제로 축복과 저주를 내리는 것은 「이스라엘을 보물같은 백성으로 사랑해 마지 않는 언약의 하나님, 아버지 하나님」이시라는 것이 밝혀져 있습니다. 예를 들어 8장 17절에는 「내 능력과 내 손의 힘으로 내가 이 재물을 얻었다」라고 생각해서는 안된다라고 되어 있습니다. 이스라엘의 순종에 따라서 가나안으로 들어가고 그리고 이 부를 얻은 것이 아니라 오직 하나님의 은혜에 의한 것이라는 것입니다. 이어서 8장 2절과 5절에서 「네 하나님 여호와께서 이 사십 년 동안에 네게 광야 길을 걷게 하신 것을 기억하라 이는 너를 낮추시며 너를 시험하사 네 마음이 어떠한지 그 명령을 지키는지 지키지 않는지 알려 하심이라.. 너는 사람이 그 아들을 징계함 같이 네 하나님 여호와께서 너를 징계하시는 줄 마음에 생각하고」라고 되어 있습니다. 이 부분은 가데스 바네아의 불순종으로 인한 광야에서의 40년간의 방랑은 죄에 대한 벌이라기보다는 하나님의 시험이며 훈련이었다는 것을 말하고 있는 것입니다. 그것은 불신앙에 대한 형벌이라기보다는 사랑하는 자녀에 대한 징계였다는 것입니다. 그리고 궁극적으로 9장 8절에서는 「호렙 산에서 너희가 여호와를 격노하게 하였으므로 여호와께서 진노하사 너희를 멸하려 하셨느니라」라고 되어 있습니다. 이것은 금송아지를 만들었을 때 이스라엘 백성들은 본래 멸망당해야 마땅했고 그럼에도 불구하고 벌을 받지 않았습니다. 그것은 모세가 중보기도를 했기 때문이었습니다. 이때 아론조차도 하나님을 진노케 했는데 주께서는 모세의 중보기도를 들어 주시고 아론과 이스라엘의 죄를 용서해 주셨습니다.

이렇게 보면 축복과 저주는 이스라엘 앞에 놓여 있는데, 그것은 이스라엘과 언약을 맺어주신 「언약의 하나님」에게 주권이 있다는 것입니다. 인과응보의 법칙이 항상 자동으로 기계적으로 적용된다는 것은 아니며, 그 깊은 뿌리에는 하나님의 사랑이 있으며 이스라엘이 복된 길에, 생명의 길에 살도록 주님께서는 항상 격려해 주신다는 것입니다.

(1) 1.5세대의 백성에게 말씀하시는 하나님

자, 이스라엘 백성들은 지금 모압 평야에서 모세의 설교를 듣고 있습니다. 그들은 출애굽을 한 1세대가 아니었습니다. 1.5세대 백성이라고나 할까요? 40년 전 출애굽을 했던 세대의 전사들은 곧 당시 20세이상의 백성들은 모세와 여호수아와 갈렙 세 사람을 남기고 모두 광야에서 죽었습니다. 그로부터 40년이 지난 현재 60세 이상의 사람은 모세와 여호수아와 갈렙 뿐이고 그 이외의 백성은 모두 60세 미만의 사람이라는 얘기가 됩니다. 출애굽의 큰 역사를 셀제로 본 사람도 있고 그때 태어나지 않았던 사람도 있었습니다. 그러나 하나님의 관심은 항상 현재 이스라엘에 있습니다. 이 1.5세대 백성들이 지금 하나님 앞에서 어떤 신앙을 선택할지 거기에 관심이 집중되어 있으신 것입니다. 그래서 하나님께서는 40년 전에 맺은 시내 산의 언약이 지금 바로 유효하고 이스라엘 백성들은 하나님과의 언약 앞에서 어떻게 응답하는지 거기에 강한 관심을 가지고 계신 것입니다. 「오늘」이라는 말이 신명기에 반복적으로 쓰이고 있는데, 그것은 “40년 전의 언약이 오늘 너희들에게 적용되고 있는 것이다!”라고 말하는 것과 같습니다. 그리고 만약 이스라엘이 말씀을 지켜 행한다면 약속의 땅을 얻을 수 있고 복된 인생을 살 수 있다고 약속해 주시고 계시는 것입니다. 8~12절을 보시기 바랍니다.

8 그러므로 너희는 내가 오늘 너희에게 명하는 모든 명령을 지키라 그리하면 너희가 강성할 것이요 너희가 건너가 차지할 땅에 들어가서 그것을 차지할 것이며

9 또 여호와께서 너희의 조상들에게 맹세하여 그들과 그들의 후손에게 주리라고 하신 땅 곧 젖과 꿀이 흐르는 땅에서 너희의 날이 장구하리라

10 네가 들어가 차지하려 하는 땅은 네가 나온 애굽 땅과 같지 아니하니 거기에서는 너희가 파종한 후에 발로 물 대기를 채소밭에 댐과 같이 하였거니와

11 너희가 건너가서 차지할 땅은 산과 골짜기가 있어서 하늘에서 내리는 비를 흡수하는 땅이요

12 네 하나님 여호와께서 돌보아 주시는 땅이라 연초부터 연말까지 네 하나님 여호와의 눈이 항상 그 위에 있느니라

여기에서는 애굽 땅과 가나안 땅이 비교되고 있습니다. 애굽 땅이란 한마디로 “자신의 노력으로 부를 쌓는다”는 것을 상징하고 있습니다. 그곳에는 큰 나일강이 흐르고 있었고 관개시설이 발달해 있었습니다. 그러나 그것은 인간이 얼마나 힘을 들였느냐에 따라 수확이 좌우되는 땅이었습니다. 반면 가나안 땅이란 한마디로 하나님의 은혜로 인해 부를 쌓는다는 것을 상징하고 있습니다. 강도 없고 관개시설도 없지만 하나님께서 늘 눈을 기울여 주시고 하늘에서 「이른 비」 「늦은 비」를 내려 주시는 것입니다. 참고로 「이른 비」는 이스라엘의 건기가 끝나는 가을 비를 말합니다. 「늦은 비」는 우기가 끝나는 봄 비를 말합니다. 이른 비도 늦은 비의 호우처럼 폭풍처럼 찾아옵니다. 10월경 이른 비로 인해 메마른 대지가 일시에 촉촉해져 경작이 가능해지고, 4월경 늦은 비는 수확에 없어서는 안 될 비였던 것 같습니다. 이를 현대의 우리에게 적용한다면 오늘날 말씀에 순종하는 여러분도 사실 하나님의 은혜로 부를 쌓고 있다는 얘기가 됩니다. 그것을 기억하시기를 바랍니다. 그리고 11장 22절 마지막에 「그에게 의지하면」이라는 단어가 있습니다만 「의지하다」라고 하는 단어는 히브리어로 다바크(점착하다)라는 단어입니다. 저번 주에도 말씀 드렸습니다만 「주와 연합하다」 「주님께 매달리다」라는 의미가 됩니다. 그렇기 때문에 말씀을 지킨다는 것은 하나님을 사랑하고, 주님과 연합되어 주님께 매달린다는 것입니다. 그래야 은혜의 땅인 가나안을 얻을 수 있는 것입니다.

(2) 언약을 잊지 않으시는 하나님

이어서 26~30절을 보십시오.

26 내가 오늘 복과 저주를 너희 앞에 두나니

27 너희가 만일 내가 오늘 너희에게 명하는 너희의 하나님 여호와의 명령을 들으면 복이 될 것이요

28 너희가 만일 내가 오늘 너희에게 명령하는 도에서 돌이켜 떠나 너희의 하나님 여호와의 명령을 듣지 아니하고 본래 알지 못하던 다른 신들을 따르면 저주를 받으리라

29 네 하나님 여호와께서 네가 가서 차지할 땅으로 너룰 인도하여 들이실 때에 너는 그리심 산에서 축복을 선포하고 에발 산에서 저주를 선포하라

30 이 두 산은 요단 강 저쪽 곧 해지는 쪽으로 가는 길 뒤 길갈 맞은편 모레 상수리나무 곁의 아라바에 거주하는 가나안 족속의 땅에 있지 아니하냐

모세는 여기서 무슨 말을 하냐하면, 너희들이 가나안 땅에 정착한 후 그리심 산과 에발 산을 모두 바라볼 수 있는 어떤 장소에서 하나의 의식을 거행하라고 명령하고 있습니다. 그 장소는 모레 상수리나무 근처에 있다고 하는데 그곳은 세겜이라고 생각됩니다. 가나안 딱 중간쯤 북쪽에 에발 산, 남쪽에 그리심 산이 있습니다. 그 사이에 세겜이라는 마을을 확인할 수 있습니다. 이 모세의 명령은 나중에 여호수아 8장에서 실현 되었습니다. 여호수아8장 30~33절을 보세요.

30 그 때에 여호수아가 이스라엘의 하나님 여호와를 위하여 에발 산에 한 제단을 쌓았으니

31 이는 여호와의 종 모세가 이스라엘 자손에게 명령한 것과 모세의 율법책에 기록된 대로 쇠 연장으로 다음지 아니한 새 돌로 만든 제단이라 우리가 여호와께 번제물과 화목제물을 그 위에 드렸으며

32 여호수아가 거기서 모세가 기록한 율법을 이스라엘 자손의 목전에서 그 돌에 기록하매

33 온 이스라엘과 그 장로들과 관리들과 재판장들과 본토인뿐 아니라 이방인까지 여호와의 언약궤를 맨 레위사람 제사장들 앞에서 궤의 좌우에 서되 절반은 그리심 산 앞에, 절반은 에발 산 앞에 섰으니 이는 전에 여호와의 종 모세가 이스라엘 백성에게 축복하라고 명령한 대로 함이라

이곳에서는 이스라엘 백성들이 반으로 나뉘어 한쪽은 그리심 산에 다른 한쪽은 에발 산에 섰다고 합니다. 이것은 절반의 백성을 축복하고 다른 절반의 백성을 저주하기 위한 것이 아닙니다. 그러니 에발 산 편에 선 백성들을 불쌍히 여기지 마시기 바랍니다. 여호수아 기사를 보면 제단은 어느 쪽에 있었다고 적혀 있을까요? 에발 산이네요. 에발 산에 제단이 세워졌습니다. 그리고 그 제단에서 「번제물과 화목제물」이 드려졌습니다. 이 제의는 하나님에 의한 속죄를 나타낸다고 생각됩니다. 본래 이스라엘 백성들은 하나님을 계속해서 배반해왔던 백성이며 가나안 사람처럼 똑같이 멸망당해야 마땅한 백성이었습니다. 그런데 저주받는 쪽 에발 산에 제단이 쌓이고 희생의 제물이 바쳐지고 하나님과의 화해가 주어져 있는 것입니다. 그래서 이 의식은 에발 산에 있던 백성들이 죽음에서 생명으로, 저주에서 축복으로, 에발 산에서 그리심 산으로 옮겨졌다는 것을 암시하는 것입니다. 즉 다 태우는 번제물과 화목케 하는 화목제물은 곧 오실 예수님의 구원의 역사이신 십자가의 죽음을 가리킨다고 할 수 있을 것입니다. 따라서 여기서 이야기되고 있는 에발 산과 그리심 산은 건너편 산이 더 좋았다거나 그런 문제가 아니라 하나님의 어린 양의 희생으로 그리스도의 공로로 놀라운 은혜가 죄 많은 이스라엘에게 주어졌는지를 보여주는 것입니다. 이스라엘의 그 뿌리깊은 죄가 어떻게 용서되고 목이 곧은 이스라엘이 어떻게 저주에서 축복으로, 죽음에서 생명으로 옮겨졌는지를 보여주는 것입니다. 이 의식이 거행된 세겜이라는 마을인데 이 곳은 사실 아브라함이 가나안 땅에 도착한 후 처음으로 하나님께 제단을 쌓았던 곳이기도 했습니다. 그래서 하나님께서 아브라함에게 나타나주신 것입니다. 창세기 12장 5~7절을 참조하시기 바랍니다.

5 아브람이 그의 아내 사래와 조카 롯과 하란에서 모은 모든 소유와 얻은 사람들을 이끌고 가나안 땅으로 가려고 떠나서 마침내 가나안 땅에 들어갔더라

6 아브람이 그 땅을 지나 세겜 땅 모레 상수리나무에 이르니 그 때에 가나안 사람이 그 땅에 거주하였더라

7 여호와께서 아브람에게 나타나 이르시되 내가 이 땅을 네 자손에게 주리라 하신지라 자기에게 나타나신 여호와께 그가 그 곳에서 재단을 쌓고

그리고 세겜에 제단을 쌓은 것은 아브라함뿐만이 아니었습니다. 사실 야곱도 그곳에 제단을 쌓았다고 창세기 33장에 적혀 있습니다. 창세기 33장 18~20절을 참조하시기 바랍니다.

18 야곱이 밧단아람에서부터 평안히 가나안 땅 세겜 성읍에 이르러 그 성읍 앞에 장막을 치고

19 그가 장막을 친 밭을 세겜의 아버지 하몰의 아들들의 손에서 백 크시타에 샀으며

20 거기에 제단을 쌓고 그 이름을 엘엘로헤이스라엘이라 불렀더라

「세겜」이라는 곳을 두고 하나님은 이스라엘 조상들에게 거듭 축복을 말씀해 주셨고, 모세의 인도로 가나안 땅에 들어간 1.5세대 백성들에게도 똑같이 축복을 선언해 주신 것입니다. 여기에 이스라엘에 대한 하나님의 신실하심이 드러나 있다고 해도 되지 않을까요? 선조들과 맺은 언약을 현재진행형으로서 인식하여 주시고 오늘 말씀을 따라 사는 믿음의 백성 이스라엘을 지지하여 주시고 계속해서 격려해 주시는 것입니다. 우리들은 이 하나님의 은혜에 감사하며 그 사랑에 대한 응답으로 말씀을 지켜야만 하는 것입니다.

결론

축복과 저주는 우리들의 행함에 따라 좌우되는 것이 아니라 그것은 하나님의 주권에 속해 있고 「이스라엘을 항상 보살펴 주시고 보물같은 백성으로 사랑해 마지않는 언약의 하나님」의 손안에 놓여 있습니다. 우리는 이 신실하신 아나님께 사랑받은 은혜의 응답으로 하나님께 날마다 감사를 드리고 주어진 말씀을 지켜나가야 합니다. 오늘 백으로 할지 흑으로 할지 결단하고 말씀에 따라 사는 자로서 주님 앞에 새롭게 결의표명을 해 나가는 우리가 되도록 합시다.

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