2022年02月27日「心の割礼を受けよ 마음의 할례를 받으라」

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心の割礼を受けよ 마음의 할례를 받으라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 10章12節~22節

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聖句のアイコン聖書の言葉

10:12イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、
10:13わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。
10:14見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。
10:15主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。
10:16心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。
10:17あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、
10:18孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。
10:19あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。
10:20あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。
10:21この方こそ、あなたの賛美、あなたの神であり、あなたの目撃したこれらの大いなる恐るべきことをあなたのために行われた方である。
10:22あなたの先祖は七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを天の星のように数多くされた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 10章12節~22節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 人の性格は変われるだろうか?うなじの強い民であったイスラエルが、果たして神を愛し、神を喜ぶ民へと、変わることが出来るのだろうか?それが本日のテーマでございます。先に結論から申し上げますと、それは「人には出来ないことですが、神には出来る」ということです。本日、与えられた聖書箇所の冒頭には、「あなた方の神、主があなたに求めておられることは何か」という質問で始まっています。主があなた方に求めておられることとは一体何でしょうか。この質問は、私たちの信じているキリスト教の核心でもあり、人間の主な目的であると言い換えることもできるでしょう。主があなた方に求めておられること、それは、神さまの栄光を現わし、神さまを喜ぶことであります。私たちが、自分の子どもたちに両親として望むことを考えてみても、そのことは分かるのではないでしょうか。

子どもは、両親に何らかの利益をもたらすために両親から愛されるのではありませんね。子どもが有名大学に入るから両親は愛してくれる。子どもが一流会社に就職するから両親は僕のことを愛してくれる。そのような親はどこにもいないと思います。ただ、両親がいることに感謝し、そして子ども自身が健康に、幸せになってくれたなら、そのことより両親にとって喜ばしいことはありません。決して両親は、自分の子どものことを投機の対象として考えたり、大きくなったら親孝行を存分にしてもらおうなどとは計算しないものです。子どもの幸せそれ自体を望んでいます。神さまも私たちのことを両親のように愛してくださり、私たちが幸いの内に、生きることを望まれているのです。神さまは、私たちをご自身の利益のために利用しようとしているのではなく、私たち自身の幸せが、それ自体が目的なのです。それではその目的はどのように達せられるのでしょうか。

【1】. あなた方の神、主があなたに求めておられることは何か

 12、13節をご覧ください。

“イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。”

ここに、主がイスラエルに求めておられることとして、五つの義務が書かれています。つまり、「畏れること」「従うこと」「愛し」「仕え」「戒めと掟を守る」ことです。これは一般的には、宗主国と属国の間の約束事において、属国側が果たさなければならない義務として解釈されます。しかし、ここに命じられた義務は、頑なな、うなじの強いイスラエルにとっては、いかにも高いハードルではないかと思われます。なぜならイスラエルは、前のページの9:24に書かれているように、“主があなたたちをお選びになって以来、あなたたちは背き続けてきた”とモーセ自身が語っているからです。「うなじの強いイスラエル」、この肩書を果たして返上することができるのでしょうか。

13節を最後まで注意深く見ると、この五つの義務の目的として、「あなたが幸いを得る」ためとあります。この「幸せになる」という箇所のヘブライ語を見ると、「トーブ」という言葉が使用されています。英語ではgoodと翻訳されています。「トーブ」という言葉は、神さまが六日の天地創造をなされた時に、それを一つ一つ見られて「善し」と言われた、あの言葉であります。六日目には人間を創造された時には「極めて善かった」と神さまはおっしゃいました。

「トーブ」、「善い」とか「喜ばしい」とか「好ましい」という意味ですね。ですから、13節は、あなた方が喜ばしくなるために、あなた方が幸せになるために、五つのことを守りなさい。あなた方が喜ばしい状態となること、それこそ主があなた方に求めておられることであり、神さまにとってもやはり喜ばしいことだと言っているのです。しかし、9章において、さんざん強調されていたように、この五つの義務を行うということは、イスラエルにとって、どだい無理な話であり、彼らがそのように性格が変わることは一生かけても不可能であろうと思われるのであります。すなわち、イスラエルには、自分の力で善くなり、自分の力で幸いをつかみ取ることは、不可能であるということが申命記9章から暗示されているのです。ここには大変、深い意味が込められています。人間は自分の力で善くなり、自分の力で幸いをつかみ取ることは、どだい無理な話であると言い換えることができるのではないでしょうか。この世で生きている私たちは、「戦争がなくなれば幸せに生きていくことが出来る」「環境さえ整備され、貧困に見舞われなければ…、社会が自由になれば…、幸せに生きていくことが出来る」と考えがちです。ところが現実は、経済が発展しても、貧困問題が解決されても、一向に幸せになることが出来ません。むしろ、発展途上国の人々が、先進国の人々より、見方によれば、もっと幸せそうに見えるということもあるのです。これは罪の問題が、その根本にあるからです。人間は、罪びとであるため、自分の力で善くなり、自分の力で幸せをつかみ取ることは不可能なのです。人間に、罪が入ってくる前は、即ち創世記のアダムとエバが罪を犯す前までは、主を「畏れ」、「主の道に従い」、「主を愛し」、「主に仕え」、「戒めと掟を守る」ことが可能でありました。ですから、もし、人間が創造された本来の姿に回復されるなら、幸いに生きることができるでしょう。罪と死の支配から解放されて、神の支配に入れられるならば、主を愛し、主を喜ぶことができるようになり、五つの義務を果たすことができるでしょう。主なる神は、そのことを、イスラエルに成し遂げてあげようと言われるのです。それは、主こそ万物の創造主であり、罪によって歪んだ世界を回復させることは、主にのみ、可能なことだからです。14、15節をご覧ください。

“見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。”

 ここにはっきり書かれているように、創造主なる神さまは、万物をご自身の御手の中に治めています。その神さまが、万民の中から、特にイスラエルを愛されて召してくださいました。それは、イスラエルをご自身の宝の民とし、イスラエルが喜ばしい状態になるため、つまり「トーブ」の状態に回復させるためなのです。イスラエルが善くなること、イスラエルが幸いになること、それ自体が、神のイスラエルをお選びになった目的なのです。

【2】. 心の割礼

 さらに読み進めていくと、大変重要な真理に私たちは気づかされます。16節をご覧ください。

“心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。”

この16節では、「割礼」という言葉が出てきますが、割礼と言えば、主がアブラハムと契約を結ばれた時に、契約を覚えるためにお命じになったしるしでありました(創造17:11)。出エジプトをしたイスラエルの民はもちろんのこと、在留異国人までもエジプトを出た民は全員、割礼を受けています。割礼こそ、イスラエルの礼拝共同体の一員として認められる「印」でありました。割礼は、神の民に加えられた「しるし」であるということです。それは、今日、新約時代の教会で施されている洗礼と同じであります。洗礼とは、語源的な意味では「水に沈められる」という意味でありまして、これは一度死ぬことを象徴しております。つまり、古い自分に死んで、新しく生まれ変わること、そして、契約の民に加えられたということを表しています。しかし、実際に、旧約時代の割礼や、新約時代の洗礼というような、外的な儀式が、その人を神の民とする訳ではありません。神の民とするのは、そのような外的なものではなく、内的な信仰によるのです。神の恵みを信じる「信仰」によって、罪赦され、神の家族、神の民とされるのです。ですから外的な割礼や洗礼は、目に見える「しるし」に過ぎないのであって、その実体は、私たちの心の中にあるということです。「心の割礼」とは一体何なのでしょうか。心の割礼とは、神さまが石のように固くなった私たちの心に、やわらかい心を与えてくださるということだと思います。心の割礼とは、イスラエルが「うなじの強い民」という肩書を返上し、一切合切、考え方、価値観からすべてが変えられるということです。新しく生まれ変わるということです。この「心の割礼」という言葉は、実は新約聖書にも何か所か出てきますが、例えばローマ書2:27~28をご覧ください。

“外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。”

パウロによれば、「心の割礼」とは聖霊によって施されるものだと言います。聖霊によって心の覆いが取り除けられ、目からうろこが落ちたような体験をし、ある日、突然信仰が与えられ、聖書の言葉が信じられようになること、或いは、聖書の言葉が生き生きと私の心に迫ってきて、悔い改めに導かれ、あたかも聖霊によって聖別されて、新しく生まれ変わったような、そのような感じを受けることだと主張していると思われます。つまり、心の割礼とは心の中において、実際に、あの洗礼式のような恵みがなされたということです。主の御前にへりくだり、跪き、父と子と聖霊の御名によって洗礼が授けられた、あの恵みです。あるいは、イエス様の時代であれば、ヨルダン川で水の中に沈められ、起き上がるようにされた、あの恵みが、心に与えられ、新しく生まれ変わったような経験をし、心が180度方向転換されたことを言っているのです。これまで心の王座に居座っていた古い自分が死んで、キリストに座っていただくことそのことを言っていると思われます。続いて20節をご覧ください。

“あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。”

ある注解書は「つき従って」という言葉に注目しています。この言葉は、ヘブライ語で「ダバク」という言葉ですが、「すがる」とか「付着する、粘着する」とか「固守する」という意味です。創世記2:24の“こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。”という御言葉の「結ばれて」と翻訳された箇所にまさにこの単語が使われています。また、創世記34:3(聖書協会共同訳)の“彼はヤコブの娘ディナに夢中になり、この若い娘を愛し、優しく語りかけるようになった。”という御言葉の「夢中になり」と翻訳された箇所もこの単語が使われています。つまりモーセは、20節において、「あなたの神、主を畏れ、主に仕え、「主に結ばれて(或いは主に夢中になって)」、その御名によって誓いなさい」と勧めているのです。これは、新約聖書で教えられている、イエス様との神秘的な結合を意味していると思います。イエス様と結び合わされる時に、私たちは聖霊によって心の割礼が与えられ、創造の本来の姿を回復され、幸せになるということです。そして創造の本来の姿とは、主を「畏れ」、「主の道に従い」「主を愛し」「主に仕え」「戒めと掟を守る」この五つを実行することが出来るようになるということです。

イエス様の時代のファリサイ人や律法学者たちは、モーセ五書を誤って理解してしまいました。あたかも律法の戒めを自分の力で守ることによって、神様から義とされると解釈しました。律法順守を通して神の民とされると理解しました。それだけでなく、律法を解釈した「先祖の言い伝え」なるものを作成し、それを民に負わせようといたしました。しかし、モーセ五書の申命記には、はっきりと心の割礼を受けて、主に結ばれて、古い自分に死に、新しく生まれ変わりなさいという「勧め」がなされているのであります。心の割礼を受けるというのは、人間の業ではなく、神の御業であり、私たちは自分ではどうしても変えることのできなかった性格が、聖霊によって柔らかく変えていただくのです。聖霊によって新しく生まれ変わり、聖霊によって罪と死の支配から解放されるのです。その時、私たちは本来の姿に回復されて、神さまの栄光を現わし、神を愛すること、神を喜ぶことができるようになるのです。申命記10章に書かれていることと、新約聖書においてパウロが主張していることと全く同じことであると言うことに気づかされます。聖書はこのように旧約聖書であろうと、新約聖書であろうと、福音について証しされた不思議な一貫性を持った書物なのです。

【結論】

 うなじの強い民、イスラエルは、聖霊によって心の割礼を受けるときに、その肩書を全て返上し、頑なであった心が柔らかくなり、罪と死の支配から解放され、神の支配へと移り、神さまの栄光を現わし、神を喜ぶことができるようにされるのです。私たちも、今このように、主の日ごとに神を賛美し、感謝と礼拝を捧げていますね。私たちが聖書の御言葉を信じられるようになり、神様を心から愛するようにされ、神様に仕え、従順で柔らかい心を与えられたのは、ひとえにイエス・キリストの恵みによるものです。私たちはこのイエス様の御名を高らかに掲げ、隣人を愛し、憐れみの心を持ちながら、世にこの福音を宣べ伝えていく者とさせていただきましょう。今、ロシアとウクライナの間に戦争が始まりましたが、ウクライナにおいては侵略したロシア軍の負傷兵を病院で看護したというニュースが流れていました。ウクライナ人にとっては、ロシアの負傷兵など見殺しにしたいという思いが無きにしも非ずかと思いますが、負傷兵を守り、看護し、そして手当をしている、そのようなニュースに心が温かくなりました。このような働きを私たちも見習って、イエス様を信じる者として、敵をも憐れみ、愛を施していく私たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

마음의 할례를 받으라

2022년 2월 27일 센겐다이 교회 주일 설교

신명기 10장 12~22절

서론

사람의 성격은 변할 수 있을까요? 목이 곧고 완강한 백성이었던 이스라엘이 과연 하나님을 사랑하고 하나님을 기뻐하는 백성으로 변할 수 있을까요? 그것이 오늘의 주제입니다. 먼저 결론부터 말씀드리자면, 그것은 “사람은 할 수 없는 일이지만 하나님은 하실 수 있으시다”는 것입니다. 오늘 주어진 성경 구절의 첫머리에는 「네 하나님 여호와께서 네게 요구하시는 것이 무엇이냐」라는 질문으로 시작합니다. 주님이 당신들에게 요구하시는 것이 도대체 무엇입니까? 이 질문은 우리가 믿는 기독교의 핵심이기도 하고 인간의 주된 목적이라고 바꿔 말할 수도 있을 것입니다. 하나님께서 우리에게 원하시는 것, 그것은 하나님의 영광을 나타내고 하나님을 기뻐하는 것입니다. 우리가 우리 아이들에게 부모로서 원하는 것을 생각해 봐도 그것은 알 수 있지 않을까요?

아이는 부모에게 어떤 이익을 가져다 주기 때문에 부모로부터 사랑받는 것이 아닙니다. 진정으로 자녀를 사랑하는 부모라면“자녀가 유명 대학에 들어갔기 때문에 부모로부터 사랑받는다.”라든가 “자녀가 일류회사에 취직했으니까 부모로부터 사랑받는다.”라는 이유로 자식을 사랑하는 부모는 어디에도 없다고 생각합니다. 다만, 부모가 있는 것에 감사하고, 그리고 자녀 자신이 건강하게, 행복하게 살아만 준다면 부모에게는 그것 이상으로 기쁜 일은 없는 것입니다. 결코 부모는 자신의 자녀를 투기의 대상으로 생각하거나 크면 투자한 만큼 효도를 마음껏 받겠다는 계산을 하지 않는 것입니다. 아이의 행복 그 자체를 바라고 있습니다. 하나님께서도 우리를 부모처럼 진정으로 사랑해 주시고, 우리가 복된 인생을 살기를 바라고 계시는 것입니다. 하나님은 우리를 자신의 이익을 위해 이용하려는 것이 아니라 자녀된 우리의 행복 그 자체가 목적이십니다. 그러면 그 목적은 어떻게 달성될 수 있을까요?

(1) 네 하나님 여호와께서 네게 요구하시는 것이 무엇이냐

12,13절을 보십시오.

12 이스라엘아 네 하나님 여호와께서 네게 요구하시는 것이 무엇이냐 곧 네 하나님 여호와를 경외하며 그의 모든 도를 행하고 그를 사랑하며 마음을 다하고 뜻을 다하여 네 하나님 여호와를 섬기고

13 내가 오늘 네 행복을 위하여 네게 명하는 여호와의 명령과 규례를 지킬 것이 아니냐

여기에 하나님께서 이스라엘에게 요구하시는 것으로 다섯가지 의무가 나열되어 있습니다. 즉, 「경외하는 것」「행하고」「사랑하며」「섬기고」「명령과 규례를 지키는 것」입니다. 이는 일반적으로 종주국과 속국 간의 약속에 있어서 속국 측이 다해야 할 의무로 해석됩니다. 그러나 여기에 나열된 의무는 목이 곧고 완강한 이스라엘 백성들에게는 매우 높은 장벽이 아닐까 생각됩니다. 왜냐하면 이스라엘은 앞 페이지에 있는 9장 24절에 쓰여져 있듯이 「내가 너희를 알던 날부터 너희가 항상 여호와를 거역하여 왔느니라」고 모세가 말하고 있기 때문입니다. 「목이 곧은 백성 이스라엘」이 과연 이 직함을 반납할 수 있을까요?

13절을 끝까지 유심히 보면 이 다섯 가지 의무의 목적으로 「네 행복을 위하여」 라고 되어 있습니다. 이 「행복을 위하여」라는 부분의 히브리어를 보면 「토브」라는 말이 사용되고 있습니다. 영어로는 good으로 번역되어 있습니다. 「토브」라는 말은 하나님께서 6일 천지창조를 하셨을 때 그것을 하나하나 보시고 「좋다」라고 하신 그 말씀입니다. 여섯째 날에는 인간을 창조하시고는 「심히 좋았다」고 말씀하셨습니다.

「토브」는「좋다」, 「심히 좋았다」, 「마음에 들다」라는 뜻입니다. 그러므로 13절은 “네 행복을 위하여 다섯 가지를 지켜서 네가 심히 좋은 상태가 되는 것” 그것이야말로 하나님께서 우리들에게 요구하시는 것이며 하나님께도 기쁜 일이라고 말하고 있는 것입니다. 그러나 9장에서 누누이 강조했듯이 이 다섯 가지 의무를 수행한다는 것은 이스라엘로서는 도저히 무리한 이야기이며, 그들이 그렇게 성격이 변하는 것은 평생을 걸쳐도 불가능할 것으로 생각됩니다. 즉 이스라엘은 자신의 힘으로 선한 상태로 변하고 자신의 힘으로 복을 얻는 것은 불가능한 일이라는 것이 신명기 9장부터 암시되어 있는 것입니다. 인간은 자신의 힘으로 선해지고 자신의 힘으로 복을 손에 넣은 것이 얼마나 무리한 이야기인지 바꿔 말할 수 있지 않을까요? 이 세상에 살고 있는 우리는 “전쟁이 없어지면 행복하게 살아갈 수 있어” “환경만 조성되고 빈곤 문제가 닥쳐오지 않는다면…, 사회가 자유로워진다면…” 행복하게 살아갈 수 있다고 생각하기 쉽습니다. 그런데 현실은 경제가 발전해도 빈곤 문제가 해결되도 행복하다고 느끼지 못할 수도 있습니다. 오히려 개발도상국 사람들이 선진국 사람들보다 어떻게 보면 더 행복감을 느낄 수도 있습니다. 이것은 죄의 문제가 그 근본에 있기 때문입니다. 인간은 죄인이기 때문에 자신의 힘으로는 선하게 되거나 자신의 힘으로 복을 취한다는 것은 불가능합니다. 인간에게 죄가 들어오기 전에는 곧 창세기에서 아담과 하와가 죄를 짓기 전까지는 주님을「경외하고」 주의「도를 행하고」주를 「사랑하며」 주를「섬기고」주의 「명령과 규례를 지키는 것」이 가능했습니다. 그러므로 만일 인간이 창조된 본래의 모습으로 회복된다면 복된 인생을 살 수 있을 것입니다. 죄와 죽음의 권세에서 해방되어 하나님의 통치에 들어가게 된다면, 주님을 사랑하고 주님을 기뻐할 수 있고 다섯 가지 의무를 다할 수 있을 것입니다. 주 하나님은 그 일을 이스라엘에게 성취하게 하시겠다고 말씀하고 계시는 것입니다. 그것은 주님이야말로 만물의 창조주요 죄로 인해 왜곡된 세계를 회복시키는 것은 오직 주님만이 가능한 일이기 때문입니다. 14,15절을 보십시오.

14 하늘과 모든 하늘의 하늘과 땅과 그 위의 만물은 본래 네 하나님 여호와를 섬기고

15 여호와께서 오직 네 조상들을 기뻐하시고 그들을 사랑하사 그들의 후손인 너희를 만민 중에서 택하셨음이 오늘과 같으니라

여기 분명히 적혀 있듯이 창조주 하나님은 만물을 자신의 손안에서 다스리고 계십니다. 그 하나님께서 만민들 중에서 특히 이스라엘을 사랑해 주셨습니다. 그것은 이스라엘을 자신의 보물같은 백성으로 만들고 하나님이 보시기에 심히 좋은 상태로 회복되어 즉 「토브」 상태로 회복시키기 위해서 입니다. 이스라엘이 선해지는 것, 이스라엘이 복되는 것, 그 자체가 하나님이 이스라엘을 선택하신 목적입니다.

(2) 마음의 할례

더 읽어나가면 매우 중요한 진리를 우리는 깨닫게 됩니다. 16절을 보세요.

16 그러므로 너희는 마음에 할례를 행하고 다시는 목을 곧게 하지 말라

이 16절에서는 「할례」라는 말이 나오는데, 할례라고 하면 하나님이 아브라함과 언약을 맺으실 때 언약을 기억하기 위해 명하신 표시였습니다 (창세기 17장 11절). 출애굽을 한 이스라엘 백성들은 물론 기류자 이국인까지도 애굽을 떠난 사람들은 모두 할례를 받았습니다. 할례야말로 이스라엘 예배 공동체의 일원으로 인정받는 「증표」였습니다. 할례는 하나님의 백성에게 베풀어지는 「증표」라는 것입니다. 그것은 오늘날 신약시대 교회에서 행해지고 있는 세례와 같습니다. 세례란 어원적인 의미로는 「물에 잠기다」라는 뜻으로 이는 한 번 죽는 것을 상징합니다. 즉, 옛 자신이 죽고 새롭게 태어나는 것 그리고 언약의 백성에 더해졌다것을 나타내고 있습니다. 그러나 실제로 구약시대의 할례나 신약시대의 세례와 같은 외적인 의식이 그 사람을 하나님의 백성으로 만드는 것은 아닙니다. 하나님의 백성이 된다는 것은, 그러한 외적인 의식이 아니라 내적인 믿음에 의한 것입니다. 하나님의 은혜를 믿는 「믿음」에 의해서 죄사함을 받고, 하나님의 가족, 하나님의 백성이 되는 것입니다. 그렇기 때문에 외적인 할례와 세례는 눈에 보이는 「증표」에 지나지 않는 것이며, 그 실체는 우리들의 마음 가운데 있는 것입니다. 「마음의 할례」라고 하는 것은 도대체 무엇일까요? 마음의 할례라고 하는 것은 하나님이 돌처럼 딱딱해진 우리들의 마음에 부드러운 마음을 주시는 것이라고 생각합니다. 마음의 할례란 이스라엘이 「목이 곧은 백성」이라고 하는 직함을 반납하고 가지고 있던 사고방식, 가치관에서부터 모든것이 바뀌어 질 수 있다고 하는 것입니다. 새롭게 태어나는 것입니다. 이 마음의 할례라는 말은 사실 신약성경에도 여러 군데 나오는데 예를 들면 로마서 2장 27,28절을 보시기 바랍니다.

27 또한 본래 무할례자가 율법을 온전히 지키면 율법 조문과 할례를 가지고 율법을 범하는 너를 정죄하지 아니하겠느냐

28 무릇 표면적 유대인이 유대인이 아니요 표면적 육신의 할례가 할례가 아니니라

바울에 따르면 「마음의 할례」란 성령에 의해 베풀어지는 것이라고 합니다. 성령에 의해 마음의 덮개가 제거되고 눈에서 비늘이 떨어지는 것 같은 체험을 하다가 어느 날 갑자기 믿음이 주어지고 성경 말씀을 믿게 되는 것, 혹은 성경 말씀이 생생하게 내 마음에 다가와 회개로 인도되며 마치 성령에 의해서 성별되어서 새롭게 태어나는 것 같은 느낌을 받는 것이라고 주장하고 있는 것으로 보입니다. 즉 「마음의 할례」는 마음의 중심에서 실제로 그 세례식과 같은 은혜가 이루어진다는 것입니다. 주님 앞에 자기를 낯춰 무릎을 꿇고 아버지와 아들과 성령의 이름으로 세례를 받는 은혜입니다. 혹은 예수님의 시대라면 요단 강에서 물속에 잠겼다가 일으킴을 받는 것 같은 그 은혜가 마음에 주어지고 새롭게 태어난 것 같은 경험을 하고 마음이 180도 방향전환이 되었음을 말하는 것입니다. 그동안 자신의 마음의 왕좌에 눌러 앉아 있던 옛 자신은 죽고 그리스도께서 그 마음의 왕좌에 앉으시는 것을 말하는 것으로 보입니다. 이어서 20절을 읽어보시죠.

20 네 하나님 여호와를 경외하며 그를 섬기며 그에게 의지하고 그의 이름으로 맹세하라

어떤 주해서는 「의지하고」라는 말에 주목하고 있습니다. 이 단어는 히브리어로 「다바크」라는 말입니다. 「매달리다」라든지 「붙다, 점착하다」라든지 「굳게 지키다」라는 의미입니다. 창세기 2장 24절의 「이러므로 남자가 부모를 떠나 그의 아내와 합하여 둘이 한 몸을 이룰지로다」라는 말씀의 「합하여」라고 번역된 부분에 바로 이 단어가 사용되고 있습니다. 또한 창세기 34장 3절의 「그 마음이 깊이 야곱의 딸 디나에게 연연하며 그 소녀를 사랑하여 그의 마음을 말로 위로하고」의 「연연하며」라고 번역된 부분에도 이 단어가 사용되고 있습니다. 즉 모세는 20절에서 「네 하나님 여호와를 경외하며 그를 섬기며 그에게 의지하고 (또는 연연하며) 그의 이름으로 맹세하라」고 권하고 있는 것입니다. 이것은 신약성경에서 가르치고 있는 예수님과의 신비로운 연합을 의미한다고 생각합니다. 예수님과 연합될 때 우리는 성령에 의해 마음의 할례가 주어지고 창조의 본래 모습을 회복받으며 복된 인생이 된다는 것입니다. 그리고 창조의 본래 모습인 주님을「경외하고」 주의「도를 행하고」주를 「사랑하며」 주를「섬기고」주의 「명령과 규례를 지키는 것」이 다섯 가지를 실행할 수 있게 된다는 것입니다.

예수님 시대의 바리새인과 율법학자들은 모세오경을 잘못 이해하고 말았습니다. 마치 율법의 계명을 자신의 힘으로 지킴으로써 하나님으로부터 의롭게 여김을 받는다고 해석 했습니다. 율법 준수를 통해서 하나님의 백성이 된다고 이해했습니다. 그것뿐만이 아니라 율법을 해석한 「조상의 유전」이라는 것을 만들어 백성들에게 물려주고자 했습니다. 그러나 모세오경의 신명기에는 분명하게 마음의 할례를 받고 주님과 연합하여 옛 자신에 대해서는 죽고 새롭게 태어나라는 「권고」가 있습니다. 마음의 할례를 받는다는 것은 인간의 사역이 아닌 하나님의 사역이며 우리는 아무리 애를 써도 차마 바꿀 수 없었던 성격이 성령에 의해 부드럽게 바뀌게 됩니다. 성령에 의해 거듭나고 성령에 의해 죄와 죽음의 권세로부터 해방되는 것입니다. 그때 우리는 본래의 모습으로 회복되어 하나님의 영광을 나타내고 하나님을 사랑하고 하나님을 기뻐할 수 있게 되는 것입니다. 신명기 10장에 쓰여져 있는 것과 신약성경에서 바울이 주장하는 것이 정확히 같다는 사실을 깨닫게 됩니다. 성경은 이처럼 구약성경이든 신약성경이든 복음에 대해서 증언하는 불가사이한 일관성을 가진 책입니다.

결론

목이 곧은 백성 이스라엘은 성령에 의해 마음의 할례를 받을 때 예전의 직함을 모두 반납하고 완강했던 마음이 부드러워져 죄와 죽음의 권세에서 해방되어 하나님의 통치 아래로 옮겨져 하나님의 영광을 나타내고 하나님을 기뻐할 수 있게 되는 것입니다. 우리도 지금 이렇게 주의 날마다 모여서 하나님을 찬양하고 감사와 예배를 드리고 있습니다. 우리들이 성경의 말씀을 믿을 수 있게 되고 하나님을 마음으로부터 사랑하게 되어서 하나님을 섬기고 순종하는 부드러운 마음을 갖게 된 것은 오로지 예수 그리스도의 은혜 때문입니다. 우리들은 이 예수님의 이름을 높이며 이웃을 사랑하고 긍휼히 여기는 마음을 가지면서 세상에 이 복음을 전하는 자가 됩시다. 지금 러시아와 우크라이나 사이에 전쟁이 시작되었는데 우크라이나에서는 침략한 러시아군 부상병을 병원에서 간호했다는 뉴스가 있습니다. 우크라이나인들에게는 러시아 부상병을 죽이고 싶다는 생각이 들지 않는 것은 아니겠지만 적군인 부상병을 죽이지 않고 간호하며 치료를 하고 있다는 그런 소식에 마음이 따뜻해졌습니다. 우리도 예수님을 믿는 자로서 원수도 불쌍히 여기며 사랑을 베풀어가는 사람이 되도록 합시다.

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