2022年02月20日「うなじの強い民 목이 곧은 백성」

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うなじの強い民 목이 곧은 백성

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 9章1節~29節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1聞け、イスラエルよ。あなたは今日、ヨルダン川を渡り、行ってあなたよりも大きく強い国々を追い払おうとしている。町々は大きく、城壁は天に達し、
2民は、あなたの知っているアナクの子孫で、大きくて背が高い。あなたは、「誰がアナクの子孫に立ち向かいえようか」というのを聞いたことがあろう。
3しかし、今日、あなたの神、主は焼き尽くす火となり、あなたに先立って渡り、彼らを滅ぼしてあなたの前に屈服させられることを知り、主が言われたとおり、彼らを追い払い、速やかに滅ぼしなさい。
4あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、「わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである。
5あなたが正しく、心がまっすぐであるから、行って、彼らの土地を得るのではなく、この国々の民が神に逆らうから、あなたの神、主が彼らを追い払われる。またこうして、主はあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたことを果たされるのである。
6あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。
7あなたは荒れ野で、あなたの神、主を怒らせたことを思い起こし、忘れてはならない。あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた。
8ホレブにいたとき、あなたたちが主を怒らせたので、主はあなたたちに向かって激しく憤り、滅ぼそうとされた。
9わたしが石の板、すなわち主があなたたちと結ばれた契約の板を受け取るため山に登ったとき、わたしは四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず水も飲まなかった。
10主は、神の指で記された二枚の石の板をわたしにお授けになった。その上には、集会の日に、主が山で火の中からあなたたちに告げられた言葉がすべてそのとおりに記されていた。
11四十日四十夜が過ぎて、主はわたしにその二枚の石の板、契約の板を授けられた。
12そのとき、主はわたしに言われた。「すぐに立って、ここから下りなさい。あなたがエジプトから導き出した民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、鋳像を造った。」
13主は更に、わたしに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。
14わたしを引き止めるな。わたしは彼らを滅ぼし、天の下からその名を消し去って、あなたを彼らより強く、数の多い国民とする。」
15わたしが身を翻して山を下ると、山は火に包まれて燃えていた。わたしは両手に二枚の契約の板を持っていた。
16わたしが見たのは、あなたたちがあなたたちの神、主に罪を犯し、子牛の鋳像を造って、早くも主の命じられた道からそれている姿であった。
17わたしは両手に持っていた二枚の板を投げつけ、あなたたちの目の前で砕いた。
18主の目に悪と見なされることを行って罪を犯し、主を憤らせた、あなたたちのすべての罪のゆえに、わたしは前と同じように、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏した。
19わたしは、主が激しく怒りに燃え、あなたたちを滅ぼされるのではないかと恐れたが、主はこのときも、わたしに耳を傾けてくださった。
20アロンに対しても、主は激しく怒って滅ぼそうとされたが、わたしはそのとき、アロンのためにも祈った。
21また、あなたたちの罪、あなたたちが造った子牛を取り上げて火に投じ、粉々に砕いて塵とし、その塵を山から流れる川に投げ捨てた。
22あなたたちはタブエラでも、マサでも、キブロト・ハタアワでも主を怒らせた。
23主がカデシュ・バルネアからあなたたちを遣わし、「上って行って、わたしが与える土地を取りなさい」と言われたときも、あなたたちの神、主の命令に背き、主を信頼せず、その声に聞き従わなかった。
24主があなたたちをお選びになって以来、あなたたちは背き続けてきた。
25わたしは、四十日四十夜、主の御前にひれ伏した。主があなたたちを滅ぼすと言われたからである。わたしはひれ伏して、
26主に祈って言った。「主なる神よ。あなたが大いなる御業をもって救い出し、力強い御手をもってエジプトから導き出された、あなたの嗣業の民を滅ぼさないでください。
27あなたの僕、アブラハム、イサク、ヤコブを思い起こし、この民のかたくなさと逆らいと罪に御顔を向けないでください。
28我々があなたに導かれて出て来た国の人々に、『主は約束された土地に彼らを入らせることができなかった。主は彼らを憎んで、荒れ野に導き出して殺してしまった』と言われないようにしてください。
29彼らは、あなたが大いなる力と伸ばされた御腕をもって導き出されたあなたの嗣業の民です。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 9章1節~29節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

本日の9章では、「シェマ イスラエル(イスラエルよ、聞け)」という言葉で始まっています。「シェマ イスラエル」この命令は、6章にも出てきた有名な言葉です。これから語られる一段落のメッセージは(9~11章)、とても重要であり心に刻まなければならない、ということだと思います。また「シェマ イスラエル」という命令は、現代に生きる私たちにも、今日、神様から語られている御言葉です。そのことを念頭に置きながら本日の御言葉に耳を傾けてまいりましょう。

前回までの流れですが、申命記8章では、「荒れ野においてイスラエルが御言葉によってこれまで養われてきたことを忘れるな、約束の地に入っても決して高ぶってはならない」という警告でありました。本日の9章も、イスラエルが約束の地カナンに入ることが出来るのは、イスラエルが正しいからではない、むしろ彼らは、主の御前に正しいどころか「うなじの強い民」であると語られています。イスラエルが約束の地に入れるのは、神の一方的な恵みであるということです。「うなじの強い」という言葉は、家畜にくびきをかけようとする時、その首筋があまりにも真っすぐで、頑ななため、うなじを下げて、頸木をかけることが出来ないという意味です。神の民とされた私たちは、今、目には見えませんがキリストの頸木をかけられていますね。そして日々、イエス様とともに、二人三脚をして歩んでいます。そんな私たちでありますが、元来、私たちはうなじの強い民であり、今でも引き続きそうであり、それがあまりにも頑ななため、イスラエルに対し、頸木を装着するのに、神様が一苦労されたということであります。

【1】. あなたはうなじの強い民である

さて、イスラエルの民は、これからカナンの地に入植するために、大きくて強いアナク人を追い払わなければなりませんでした。アナク人とは、巨人(ネフィリム)の子孫として知られている民族であり、ダビデと戦ったゴリアトもアナク人でありました。恐らく周りの人々が「だれがアナクの子孫に立ち向かい得ようか」と言っているのを耳にしたことがあったに違いありません。思えば38年前、全く同じ状況において、イスラエルの民はそういった人々の声に耳を傾けて、信仰に立つことが出来ませんでした。カデシュ・バルネアから12人の偵察隊をカナンの地に送り、その報告を聞いた時に、民は大声をあげて泣き崩れてしまったのです。民数記13章には、次のように書かれています。

13:28

“しかし、その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました。”

13:33

“そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。”

あれから、38年の時を経て、今やイスラエルの民は信仰に立っています。イスラエルの神、主が焼き尽くす火となり、イスラエルに先立って導き、巨人アナク人を滅ぼして、イスラエルの前に屈服させるという御言葉をそのまま信じ、受け入れることができました。荒れ野の40年の旅路において、主は、昼は雲の柱、夜は火の柱となってイスラエルを守り導いてくださいましたし、今後も自分たちを約束の地に地へ導き入れてくださるに違いないと思ったに違いありません。荒れ野での40年は、決して無駄な時間ではなかったのです。それは学びの時であり、訓練の時でもありました。そもそも、神さまはイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放することだけを目的としたのではありませんでした。エジプトから救い出した後、信仰の旅路を通して、必ず、アブラハムに誓った約束の地を与えること、アブラハムが東西南北を見渡したあのカナンの地に戻って来ること、それが1セットでした。イスラエルをエジプトから掬い出されたのは、約束の地を相続させることが目的だったのです。ですから、もし、イスラエルの神、主がイスラエルの前から敵を追い出されるとき、彼らは「わたしが正しいので、主は、わたしを導いてこの土地を得させてくださった」などと思ってはなりません。そうではなく、カナン人が神に逆らうから、カナン人を追い払われるのです。間違っても自分たちが正しく、自分たちの心が純真で素直だから、約束の地を得られるのではありません。主がアブラハム、イサク、ヤコブに誓われたことを果たされて、イスラエルに約束の地が得られるようにしてくださるのです。神様の一方的な約束の故に、イスラエルにカナンの地が与えられるのです。6~7節をご覧ください。

“あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。あなたは荒れ野で、あなたの神、主を怒らせたことを思い起こし、忘れてはならない。あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた。”

「かたくなな民」とは、直訳すると、「うなじが強い」、「首筋が真っすぐな」という言葉です。ここから分かるのは信仰とは、何かと言いますと、自分自身が「うなじが強い」ということを認めることであると思います。信仰とは自分の力で何かを成就することではなく、神の恵みを信じるということですが、たとえば、目の前に何か素晴らしいことが起こったとしても、自分自身、うなじが強いことを認め、決して自分に栄光を回すのではなく、主に栄光を帰することです。高慢な考えを一切捨てて、ただただ、主の御名が崇められるようにすることです。なぜならイスラエルとは、生まれながら不従順であり、神の御言葉に一貫して背き続けたからであります。このような性格は、イスラエル以外の異邦の民族と何ら違いはないかもしれません。イスラエル人とアナク人を並べてみた時に、イスラエルに何か秀でた点などは何も見つからないと思われるのです。

【2】. モーセの論証

さて、9:8~24節までは、イスラエルの民がいかに不従順な民であり、うなじの強い民であるのかをモーセが論証していきます。イスラエルが過去に犯した不従順な事件を五つ挙げていますが、その場所は8節のホレブ山と、22節のタブエラと、マサと、キブロト・ハタアワと、23節のカデシュ・バルネアです。ホレブ山での事件とは、金の小牛事件です。タブエラとは、主の怒りが「燃えあがる」という意味ですが、民数記11章に詳しく書かれています。マサとは、主を「試みる」という意味ですが、出エジプト記17章に詳しく書かれています。キブロト・ハタアワとは、「欲望の墓」という意味ですが、民数記11章31節以降に詳しく書かれています。カデシュ・バルネアとは、先ほど申しましたように、38年前に偵察隊を送った場所です。この不従順を犯した五つの場所の中でも、特に類似点が見られる、ホレブの事件とカデシュ・バルネアの事件を詳細に報告しています。

ホレブの事件とは一体どのような事件だったのでしょうか。モーセが十戒の言葉の二枚の石板を、主からもらうためにホレブ山の頂上に登っている時に、事件は起こりました。モーセは40日40夜の断食をし、山の頂上で過ごし、二枚の石板をいただきました。二枚の石板とは、当時一般的に見られたような契約証書として機能しています。当時の石板を見ると表と裏にぎっしり文字が掘られているのが分かります。ですから、おそらく一枚目の石板に例えば第一戒から第五戒まで書かれていて、二枚目の石板に残りが書かれているというのではなく、契約証書として同じ内容が書かれた石板を二枚もらったのではないかと注解書には書かかれていました。おそらく十戒の石板も、一枚は神様の分として、もう一枚はイスラエルの分として、両者の間に契約が交わされた証拠として与えられたのではないかということです。ところで、山のふもとでは、イスラエルの民は、モーセがなかなか戻ってこないからとして、金の小牛の偶像を作り、その金の小牛こそ自分たちをエジプトから導いてくださった神であると拝み始めていました。ちょうど神とイスラエルの間に契約が交わされた直後の出来事です。これは言ってみれば、結婚式の当日に、早速不倫の罪を犯してしまったようなものです。何ということでしょうか。戻ってきたモーセはふもとで起こっているお祭り騒ぎを知り、思わず主からいただいた二枚の石板を破壊してしまいました。それはまるで主との契約が破られたことを象徴しているかのようです。モーセは民が作った偶像の金の小牛を破壊し、粉々にしました。主なる神はイスラエルに対し彼らを滅ぼそうと決意されますが、モーセはイスラエルの犯した大きな罪のために、再度40日40夜の断食をし、とりなしの祈りを捧げます。13~14節をご覧ください。

“主は更に、わたしに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。わたしを引き止めるな。わたしは彼らを滅ぼし、天の下からその名を消し去って、あなたを彼らより強く、数の多い国民とする。」”

13節において、「頑なな民」つまり「うなじの強い民」という言葉がまた出てきますね。主は、イスラエルの民を滅ぼして、天の下からその名を消し去り、モーセから、強く数の多い国民を生じさせようと提案しています。この時の「滅ぼす(シャマッド)」という言葉は、3節の「主が焼き尽くす火となって先立ち、アナク人を滅ぼす」と書かれている言葉と全く同じ言葉が使われています。新改訳聖書では「根絶やしにする」と翻訳されています。この「シャマッド」は、9章の中で3節だけアナク人に対して使われていて、残りの5回は、すべてイスラエルの民に対し用いられていることに注意しなければなりません(8節、14節、19節、20節、25節)。つまり、神様の恵みがなければ、モーセのとりなしがなければ、元来、イスラエルの民も、カナンの原住民と何ら変わることのない、滅ぼされて当然の民であったと言うのです。神の一方的な恵みがなければ、根絶やしにされて当然な民であったと言うのです。

カルヴァンは、人間は生まれつき全的に堕落していると言いました。そのことに反対する教派もあります。「人間には少しはいいところもある。」「全的とは、あまりにも言い過ぎではないか」と言うのです。「イスラエルとアナク人を並べたら、何かしらイスラエルが神に選ばれるにたる秀でた点があったに違いない」と言うのです。しかし、私たち改革派教会はそのような主張を一切認めません。改革派教会においては、人間は、生まれつき腐敗しており、本性から根源的に腐敗していると信じています。旧約のイスラエルだけでなく、新約に生きる私たちこそ、「うなじの強い民」なのです。それにも拘わらず、神はイスラエルを召してくださり、カナンの地に導き入れられました。これは神の一方的な恵みと、モーセによるとりなしによるものです。同じように、神は現代に生きる私たちを召してくださり、信仰の歩みへと導かれ、やがて天の嗣業に与ることができるようにしてくださったのも、一方的な神の恵みと、仲保者であるイエス様のとりなしによるものと言えるでしょう。イスラエルに起こっていることは、現在の私たちにもそのまま当てはまるのです。

さて、カデシュ・バルネア事件も、ホレブ事件と同じような構造になっています。「上って行って、わたしが与える土地を取りなさい(1:21)」と、主が命じられますが、イスラエルの民は主に信頼せず、御言葉に聞き従いませんでした。この時、主はイスラエルを滅ぼそうとされ、イスラエルの代わりにモーセから大いなる国を生じさせようと提案しますが、モーセは、やはりイスラエルのためにとりなしの祈りをささげました。民数記14:11、12には次のようにあります。

“主はモーセに言われた。「この民は、いつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか。わたしは、疫病で彼らを撃ち、彼らを捨て、あなたを彼らよりも強大な国民としよう。”

ホレブ山での出来事とほとんど同じような描写です。従いましてモーセはイスラエルの民の本質について、申命記9:24節に書かれているように“主があなたたちをお選びになって以来、あなたたちは背き続けてきた。”と結論づけるのです。

【結論】

このような訳ですから、仮に約束の地に入ることが出来たとしても、それは、「イスラエルが正しかったから」ではないということが明らかにされました。イスラエルはカナンの地の原住民と同じように悪く、背く民であり、滅ぼされて当然の民でありました。それにも拘わらず、神がご自身で立てた誓いの故に、また、モーセのとりなしの故に、一方的な恵みによって、イスラエルは滅びから免れ、約束の地に入ることが許されたのです。もし、モーセのとりなしの祈りがなかったなら、そして、もし、神さまが約束を果たされなかったなら、どうなるでしょうか。もし、神さまが約束を果たされなかったなら、聖書のすべての主張は崩れ去ります。主は変わらないお方、主は決して偽ることなく、真実なるお方。主は義なるお方、善いお方など、聖書の中で語られている神の属性についての主張が、すべて崩れ去ってしまいます。しかし、神さまはイエス・キリストをこの世に送ってくださることによってご自身の約束を完全に果たしてくださいました。ご自身が決して変わらないこと、偽ることなく真実であられること、義なる方、善いお方、愛なるお方であることを証明してくださいました。そして、イエス・キリストは今日も、天において、うなじの強い私たちのために執り成していてくださいます。頑なである私たちに頸木をかけてくださり、獣のような私たちの本性を日々砕き、信仰へと導き、従順な民へと訓練され、天の嗣業へと招き入れてくださるのです。私たちは、このイエス様の頸木を通してイエス様と共に歩むことができることは何という恵みでしょうか。この限りない恵みに感謝しつつ、私たちの恵みの応答として、神を心から愛し、賛美し、霊と真理によって礼拝を捧げていく者とならせていただきましょう。そして、私たちが祈る時には、必ず神への賛美の言葉から始めさせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

목이 곧은 백성

2022년 2월 20일 센겐다이 교회 주일 설교

신명기 9장 1~29절

서론

오늘 9장에서는 「쉐마 이스라엘(이스라엘이여, 들어라) 」이라는 말로 시작합니다. 「쉐마 이스라엘」이 명령은 6장에서도 나온 유명한 말입니다. 이제부터 이야기 될 한 단락의 메시지는(9~11장) 굉장히 중요하고 마음에 새겨야한다고 생각합니다. 또한 「쉐마 이스라엘」이라는 명령은 현대에 사는 우리에게도 오늘 하나님께서 하시는 말씀입니다. 그것을 염두에 두면서 오늘의 말씀에 귀를 기울이도록 합시다.

지금까지의 흐름입니다만 신명기 8장은 「광야에서 이스라엘이 말씀으로 지금까지 살아온 것을 잊지 마라, 약속의 땅에 들어가도 자신의 힘으로 얻었다고 결코 교만해져서는 안된다」는 경고였습니다. 오늘 9장도 이스라엘이 약속의 땅 가나안에 들어갈 수 있는 것은 이스라엘이 공의로워서가 아니고 오히려 그들은 주님 앞에서 공의롭기는 커녕 「목이 곧은 백성」이라고 말하고 있습니다. 이스라엘이 약속의 땅에 들어가는 것은 하나님의 일방적인 은혜라는 것입니다. 「목이 곧다」라는 단어는 가축에게 멍에를 씌우려고 할 때 그 목덜미가 너무 뻣뻣하고 완강하여 목을 곧게 해서 멍에를 씌울 수 없다는 뜻입니다. 하나님의 백성으로 여겨졌던 우리는 지금 눈에는 보이지 않지만 그리스도의 멍에를 메고 있습니다. 그리고 날마다 예수님과 함께 이인삼각을 하고 걷고 있습니다. 그런 우리지만 원래 우리는 목이 곧은 백성이요 지금도 계속 그러하며 그것이 워낙 완강하기 때문에 이스라엘에게 멍에를 씌우기까지 하나님께서 애를 태우셨습니다.

(1) 너희는 목이 곧은 백성이라

자, 이스라엘 백성은 이제부터 가나안의 땅에 정착하기 휘해서 크고 강한 아낙 자손을 몰아내야 했습니다. 아낙 자손이란 거인(네피림)의 후손으로 알려진 민족이며 다윗과 싸운 골리앗도 아낙 사람이었습니다. 아마 주변 사람들이 “누가 아낙 자손에게 맞설 수 있을까?”라고 말하는 것을 들은 적이 있었을 것입니다. 생각해보면 38년 전 똑같은 상황에서 이스라엘 백성들은 그런 사람들의 목소리에 귀를 기울이고 믿음 가운데 서지 못했습니다. 가데스 바네아에서 12명의 정탐대를 가나안 땅으로 보냈고 그 보고를 들었을 때 백성들은 큰 소리로 울음을 터뜨리고 말았습니다. 민수기 13장에는 다음과 같이 적혀있습니다.

민수기 13장

28절 주께서 우리를 인도하여 내신 그 땅 백성이 말하기를 여호와께서 그들에게 허락하신 땅으로 그들을 인도하여 들일 만한 능력도 없고 그들을 미워하기도 하사 광야에서 죽이려고 인도하여 내셨다 할까 두려워하나이다

33절 거기서 네피림 후손인 아낙 자손의 거인들을 보았나니 우리는 스스로 보기에도 메뚜기 같으니 그들이 보기에도 그와 같았을 것이니라

그로부터 38년의 시간을 거쳐 지금 이스라엘 백성들은 믿음 위에 서 있습니다. 이스라엘의 하나님, 주께서 다 불사르는 불이 되어 이스라엘에 앞서서 인도하시어 거인 아낙 자손을 멸망시키시고 이스라엘 앞에 굴복시키겠다는 말씀을 그대로 믿고 받아들일 수 있게 되었습니다. 광야의 40년간의 여정에서 하나님은 낮에는 구름기둥, 밤에는 불기둥이 되어 이스라엘을 지키고 인도해 주셨으며 앞으로도 자신들을 약속의 땅으로 인도해 주실 것임에 틀림 없다고 생각했을 것입니다. 광야에서의 40년은 결코 헛된 시간이 아니었습니다. 그것은 배움의 때이자 훈련의 때이기도 했습니다. 애초에 하나님은 이스라엘 백성을 애굽의 노예 상태에서 해방시키시는 것만을 목적으로 하신 것이 아니었습니다. 애굽에서 구출하신 후 믿음의 여정을 통해 아브라함에게 맹세한 약속의 땅을 반드시 주시는 것, 아브라함이 동서남북을 바라보던 그 가나안 땅으로 돌아오게 하는 것, 그것이 한 세트였습니다. 이스라엘을 애굽에서 건져내신 것은 약속된 땅을 상속받게 하기 위한 목적이있었습니다. 그러므로 만일 이스라엘의 하나님께서 이스라엘 앞에서 적을 내쫓으실 때 그들은 “내가 공의롭기 때문에 하나님이 나를 인도하여 이 땅을 얻게 하셨다”고 생각해서는 안됩니다. 그게 아니라 가나안 사람들이 하나님을 거역하기 때문에 가나안 사람들이 쫓겨나게 되는 겁니다. 자신들이 공의롭고 자신들의 마음이 순진하고 솔직하기 때문에 얻었다고 절대로 착각이라도 해서는 안되는 것입니다. 하나님께서 아브라함, 이삭, 야곱에게 맹세하신 바를 이루어 이스라엘에게 약속의 땅을 얻게 해 주시는 것입니다. 하나님의 일방적인 약속 때문에 이스라엘에게 가나안 땅이 주어지는 것입니다. 6,7절을 보십시오.

6 그러므로 네가 알 것은 네 하나님 여호와께서 네게 이 아름다운 땅을 기업으로 주신 것이 네 공의로 말미암음이 아니니라 너는 목이 곧은 백성이니라

7 너는 광야에서 네 하나님 여호와를 격노하게 하던 일을 잊지 말고 기억하라 네가 애굽 땅에서 나오던 날부터 이 곳에 이르기까지 늘 여호와를 거역하였으되

「목이 곧은 백성」이라는 것은 직역하면 「목에 힘이 들어갔다」「목이 뻣뻣하다」라는 말입니다. 여기서 알 수 있는 것은 믿음이란 무엇인가 하면 자기 자신이 「목에 힘이 들어가 뻣뻣하다」라는 것을 인정하는 것이라고 생각합니다. 믿음이란 자신의 힘으로 무엇인가를 성취하는 것이 아니라 하나님의 은혜를 믿는다는 것입니다. 가령 눈앞에 어떤 멋지고 놀라운 일이 일어났다하더라도 자기 자신은 목에 힘이 들어가 뻣뻣한 상태임을 인정하고 결코 자신에게 영광을 돌리는 것이 아니라 하나님께 영광을 올려드리는 것입니다. 교만한 생각을 일절 버리고 오직 하나님의 이름만이 높힘을 받게 해야 합니다. 왜냐하면 이스라엘이란 태어날 때부터 순종적이지 않고 하나님의 말씀을 늘 거역하였기 때문입니다. 이러한 성격은 이스라엘 이외의 이방 민족과 아무런 차이가 없을지도 모릅니다. 이스라엘 백성과 아낙 자손을 나란히 놓고 볼 때 이스라엘에서 뭔가 뛰어난 점 같은 것은 아무것도 발견되지 않는다고 생각됩니다.

(2) 모세의 논증

자, 9장 8~34절까지는 이스라엘 백성이 얼마나 불순종하는 백성인지, 목이 곧은 백성인지를 모세가 논증해가고 있습니다. 이스라엘이 과거에 범한 불순종적인 사건을 다섯가지 열거하고 있습니다만 그 장소는 8절의 호렙 산과 22절 다베라와 맛사와 기브롯 핫다아와 그리고 23절 가데스 바네아 사건입니다. 호렙 산에서의 사건이란 금송아지 사건입니다. 다베라는 주의 노여움이 「타오르다」라는 뜻입니다. 민수기 11장에 자세히 적혀 있습니다. 맛사는 「주님을 시험하다」라는 뜻인데 민수기 11장 31절 이후에 자세히 적혀 있습니다.

기브롯 핫다아와는 「욕망의 무덤」이라는 뜻인데 민수기 11장 31절 이후에 자세히 적혀 있습니다. 가데스 바네아는 아까 말씀드린 것처럼 38년 전에 정찰대를 보낸 곳입니다. 이 불순종을 저지른 다섯 장소 중에서도 특히 유사한 점을 볼 수 있는 호렙 산 사건과 가데스 바네아 사건을 상세히 보고하고 있습니다.

호렙 산의 사건이란 대체 어떤 사건이었을까요? 모세가 십계명 말씀의 두 장의 돌판을 주님께 받기 위해 호렙 산 정상에 오르고 있을 때 사건은 일어났습니다. 모세는 40일 40밤을 단식을 하고 산 정상에서 지내며 두 장의 돌판을 받았습니다. 두 장의 돌판은 당시 일반적으로 볼 수 있었던 계약증서 역할을 하고 있습니다. 당시의 돌판을 보면 앞면과 뒷면에 빽빽하게 글자가 파여 있는 것을 알 수 있습니다. 그래서 아마 첫 번째 돌판에, 예를 들어서 첫 번째 계명부터 다섯 번째 계명까지 적혀 있고 두 번째 돌판에 나머지가 적혀 있다는 것이 아니라 계약증서로 같은 내용이 적힌 돌판을 두 장 받은 게 아닌가 하고 주해서에는 쓰여 있습니다. 아마 십계명의 돌판도 하나는 하나님 몫으로 다른 하나는 이스라엘 몫으로 양자 사이에 언약이 체결된 증거로 주어지지 않았을까 하는 것입니다. 그런데 산기슭에서는 이스라엘 백성들이 모세가 좀처럼 돌아오지 않는다면서 금송아지 우상을 만들고 그 금송아지 우상이야말로 자신들을 애굽에서 인도해 주신 신이라고 절하기 시작했습니다. 마침 하나님과 이스라엘 사이에 언약이 체결된 직후의 일입니다. 이것은 말하자면 결혼식 당일에 즉시 불륜의 죄를 저지른 것과 같습니다. 어떻게 이런 일이 일어날 수 있습니까? 돌아온 모세는 산기슭에서 벌어지고 있는 광란의 축제를 보고 하나님이 주신 두 장의 돌판을 파괴해버렸습니다. 그것은 마치 하나님과의 계약이 깨졌음을 상징하는 것 같습니다. 모세는 백성들이 만든 금송아지 우상을 파괴하고 산산조각 냈습니다. 하나님은 이스라엘에 대하여 그들을 멸망시키기로 결의하셨지만 모세는 이스라엘이 저지른 큰 죄를 위하여 다시 40일40밤 금식을 하며 중보기도를 올립니다. 13,14절을 보세요.

13 여호와께서 또 내게 말씀하여 이르시되 내가 이 백성을 보았노라 보라 이는 목이 곧은 백성이니라

14 나를 막지 말라 내가 그들을 멸하여 그들의 이름을 천하에서 없애고 너를 그들보다 강대한 나라가 되게 하리라 하시기로

13절에서 「목이 곧은 백성」 즉 목에 힘을 주고 뻣뻣한 백성이라고 하는 단어가 또 나왔습니다. 하나님은 이스라엘 백성을 멸하시고 그들의 이름을 천하에서 없애고 모세를 그들보다 강대한 나라가 되게 하리라 제안하십니다. 이때의 「멸하다(샤마드)」라는 말은 3절의 「네 하나님 여호와께서 맹렬한 불과 같이 네 앞에 나아가신 즉 여호와께서 그들을 멸하사」라고 쓰여져 있는 단어와 완전히 같은 단어가 사용되어 있습니다. 이 「샤마드」는 9장 중에서 3절에서만 아낙 자손에 대해 사용되고 나머지 5번은 모두 이스라엘 백성에게 사용되고 있음을 유의해야 합니다 (신명기 9장 8, 14, 19, 20, 25절). 즉 하나님의 은혜가 없으면 모세의 중재가 없다면 원래 이스라엘 백성도 가나안 원주민과 다를 바 없는 멸망당해야 마땅하다는 것입니다. 하나님의 일방적인 은혜가 없었다면 근절되어야 마땅했던 백성이었다는 것입니다.

칼빈은 인간이 선천적으로 타락했다고 말했습니다. 그 말에 대해 반대하는 교파도 있습니다. “인간에게도 조금은 좋은 점이 있다” “전적으로 타락했다는 말은 너무 지나치지 않은가”라고 말입니다. “이스라엘 백성과 아낙 자손을 나열했더니 뭔가 이스라엘 쪽이 하나님이 선택하실 만한 뛰어난 점이 있었음에 틀림없다”고 말하는 것입니다. 그러나 우리 개혁파 교회는 그런 주장을 일절 인정하지 않습니다. 개혁파 교회에서는 인간은 선천적으로 부패하고 본성에서 부터 근원적으로 부패하고 있다고 믿습니다. 구약의 이스라엘뿐만 아니라 신약시대에 사는 우리들도 목이 곧은 백성입니다. 그럼에도 불구하고 하나님께서는 이스라엘을 부르셔서 가나안 땅으로 인도 하셨습니다. 이것은 하나님의 일방적인 은혜와 모세의 중재에 의한 것입니다. 마찬가지로 하나님은 현대에 사는 우리를 부르시고 믿음의 걸음으로 인도하셔서 곧 하늘의 유업에 참여하도록 해 주신것도 일방적인 하나님의 은혜와 중보자이신 예수님의 주선으로 인한 것이라고 할 수 있습니다. 이스라엘에 일어나고 있는 일은 현재의 우리에게도 그대로 해당됩니다.

그런데 가데스 바네아 사건도 호렙 산의 사건과 같은 구조로 되어 있습니다. 「올라가서 차지하라」고 하나님께서 명령하시지만 이스라엘 백성들은 하나님을 신뢰하지 않고 말씀에 따르지 않았습니다. 이때 하나님은 이스라엘을 멸망시키려 하시고 이스라엘 대신에 모세로부터 강대한 나라를 세우겠다고 제안하시지만 모세는 역시 이스라엘을 위해 중보기도를 드렸습니다. 민수기 14장 11,12절에는 다음과 같이 기록되어 있습니다.

민수기 14장

11 여호와께서 모세에게 이르시되 이 백성이 어느 때까지 나를 멸시하겠느냐 내가 그들 중에 많은 이적을 행하였으나 어느 때까지 나를 믿지 않겠느냐

12 내가 전염병으로 그들을 쳐서 멸하고 네게 그들보다 크고 강한 나를 이루게 하리라

호렙 산에서 일어난 일과 거의 비슷한 묘사입니다. 따라서 모세는 이스라엘 백성의 본질에 대해 신명기 9장 24절에 쓰여 있듯이 「내가 너희를 알던 날부터 너희가 항상 여호와를 거역하여 왔느니라」고 결론 짓는 것입니다.

결론

사정이 이렇다 보니 만일 약속의 땅에 들어 갈 수 있었다 하더라도 그것은 「이스라엘이 공의로웠기 때문」이 아니라는 것이 밝혀졌습니다. 이스라엘은 가나안 땅의 원주민들과 마찬가지로 악하고 배반하는 백성이며 멸망 당해야 마땅했습니다. 그럼에도 불구하고 하나님께서 직접 세우신 맹세 때문에, 또 모세의 중재 때문에, 하나님의 일방적인 은혜로 이스라엘은 멸망에서 벗어나 약속의 땅으로 들어가는 것이 허락되었습니다. 만일 모세의 중보기도가 없었다면 그리고 만약 하나님이 약속을 지키지 않으셨다면 어떻게 될까요? 만약 하나님께서 자신의 약속을 이행하지 않으셨다면 성경의 모든 주장은 무너집니다. 주님은 변하지 않는 분, 주님은 결코 속이지 않고 진실하신 분, 주님은 의로운 분, 선한 분 등 성경에서 말하는 하나님의 속성에 대한 주장이 모두 무너져 버립니다. 그러나 하나님께서는 예수 그리스도를 이 세상에 보내심으로써 자신의 약속을 온전히 이루어 주셨습니다. 자신이 결코 변하지 않는다는 것, 거짓 없이 진실하다는 것, 의로운 분이라는 것, 선하신 분이라는 것, 사랑이시라는 것을 증명해 주셨습니다. 그리고 예수 그리스도는 오늘도 하늘에서 목이 곧은 백성인 우리를 위해서 중재해 주고 계십니다. 완고한 우리들에게 멍에를 메게 해 주시고 짐승 같은 우리들의 본성을 날마다 부수시고 믿음으로 인도하시어 순종하는 백성으로 훈련시키시고 하늘의 유업에 참여하게 해 주시는 것입니다. 우리가 이 예수님의 멍에를 통해서 예수님과 함께 걸을 수 있다는 것은 무슨 은혜일까요. 이 끝없는 은혜에 감사드리며, 우리 은혜의 응답으로 하나님을 진심으로 사랑하고 찬양하며 영과 진리로 예배를 드리는 자가 됩시다. 그리고 우리가 기도 할 때에는 반드시 하나님께 드리는 찬양으로 시작합시다.

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