2019年05月26日「最後の晩餐」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千間台教会のホームページへ戻る

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

26一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
27また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。
28これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
29言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
30一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 26章26節~30節

原稿のアイコン日本語メッセージ

私たちが「最後の晩餐」と言うと、有名なレオナルドダヴィンチの名画を思い起こすことでしょう。弟子たちの内の一人が、私を裏切るだろうと指摘され、一同はざわめき、「主よ、まさか私では」慌てふためいているシーンです。しかし、本当の意味で「最後の晩餐」の中心的なシーンとは、むしろ本日お読みした26~30節に描かれています。つまり、最後の晩餐とは何かというと、第一のポイントとして、過越しにおいて屠られた羊は、イエス・キリストご自身であったということです。

夕暮れとなり日付が変わって、ニサンの月の15日、つまり過越しの日にイエス様と弟子たちは、備えられた部屋で過越し祭の食事をとっています。当時の過ぎ越し祭の様子がどうだったのか、正確な資料はありませんが、後の時代のユダヤ教の文献から分かることは、過ぎ越し祭の食事が大変儀式的に行われていたということです。恐らく、イエス様の時代にも同じように、過ぎ越しの食事をとっていたのではないかと推定されます。通常過ぎ越しの食事は、一家の主人であったり、主催者に、もてなしの責任がありました。ここでは当然ですが、主人としてイエス様が食卓を整えているわけです。

その儀式的な過越しの食事は、儀式の進行の節目に過ぎ越しの血を象徴する赤いぶどう酒が交わされました。そしてエジプトの苦役を想起するため、塩水に浸したパセリのような「苦菜」が出されたり、種入れぬパンが(マッツァー)出されたり、また、その家の最年少の者が、この儀式の由来を質問して、その家の最年長者が過ぎ越し祭の意義を教えたりしました。それから、いよいよメインディッシュである子羊が出されます。この食事の時間がそろそろ終わろうとしている頃が、本日の26章26節に該当すると思われます。聖餐式の制定の御言葉である26節をご覧ください。

“一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」”

ここで、イエス様は普通の過ぎ越しの食事には出てこないような言葉を語られました。パンをご自身の体と同一視されて、「取って食べなさい。これはわたしの体である。」と厳かに宣言されたのです。恐らく弟子たちは驚いたことでしょう。そして与えられたパンを言われた通り受け取って食べたと思われます。イエス様がパンを取り、讃美の祈りを唱えて、それを裂く仕草は、弟子たちには大変馴染み深い光景でした。たとえば、5千人の供食の時、あるいは4千人の供食の時にも同じようなことをして、その後に人間業とは到底思えない、奇蹟的な御業をなさったこと(マタイ14:19、15:36)をまだはっきりと覚えていたと思われますから、その仕草が弟子たちには大変印象深く心に残ったことでしょう。

ひき続いて、イエス様は弟子たちに杯を渡されました。この杯は過ぎ越しの食事の中で習慣的なものでしたが、そこにおいてもやはり、普通の過ぎ越しの食事には出てこないような言葉を語られました。27~28節をご覧ください。

“また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。”

本来、この赤いぶどう酒は、出エジプトをした夜にイスラエルの民が子羊を屠って、モーセに言われた通り柱と鴨居に塗った子羊の血を象徴していました。ところが、その羊の血を表したぶどう酒を、イエス様は「罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」つまり、ご自分の血であると言われるのです。

ユダヤ人の一日の数え方は夕暮れから一日が始まりますので、イエス様は、まさにこの日、ニサンの月の15日の夜、引き渡されて、ろくに裁判も受けず、十字架に架けられ、昼の3時頃に息を引き取られることになるのですが、そのご自分の十字架の死こそ、罪を贖うための生贄の供え物だと言われるのです。この点について、パウロはもっとはっきりと述べています。1コリント11章23~25節をご覧下さい(p314)。

“わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。”

パウロによれば、イエス様の十字架の死を告げ知らせるために、主の晩餐を行うように制定されたと言っています。それでは、イエス様はなぜ死なれたのでしょうか。それは罪を贖うための生贄の供え物としての死でした。誰の罪のために死なれたのでしょうか。私たちの罪のためです。

したがって、最後の晩餐の第二のポイントとは、旧約の過越し祭が新約の聖餐式に書き換えられたということです。過ぎ越しの祭とは、エジプトでの奴隷生活から解放されたことをお祝いする祭でしたが、イエス様が書き替えられた聖餐式とは、罪と死の縄目に縛られていた私たち罪びとが、贖われ解放されたということです。「古い契約」がイエス様によって「新しい契約」に再解釈され、書き換えられたということです。

余談ですが、古い契約と新しい契約があるということですが、皆さん、英語の聖書の表紙になんと書かれているか覚えておられるでしょうか。new testament bibleとかold testament bibleと書かれていますね。Testamentとは「契約」という意味です。old testamentとなれば、古い契約、つまり旧約という意味で、new testamentとなれば、新しい契約、新約という意味です。Testamentが契約という意味ですから、聖書とは神の「契約の書物」とも言えるのです。それでは、この「古い契約」と「新しい契約」の違いは何かと言うことですが、両方とも神の恵みの契約という意味では全く同じと言えば同じですが、神の啓示の鮮明さにおいて異なるということです。旧約は少しぼやけていて、新約はよりはっきりしているということです。旧約において「過越し祭」は、やがて来られる救い主を約束しました。神はエジプトから自分たちの先祖を救い出してくださったように、モーセのような預言者であるメシアを送ってくださり、虐げられている自分たちを救い出してくださるでしょうということです。モーセは救い主の模型だと言えるでしょう。申命記18:15をお読みしますのでそのままお聞きください。

“あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。”

新約において「主の晩餐」は、キリストの贖いの死を指し示しています。人はただ信仰によってその恵みを受け取ることができるのです。信仰以外に神の民とされて恵みを享受する方法はありません。旧約の時代は、モーセを通して律法を通して、やがて来られるであろう、救い主を信じて救われるのですが、新約時代の時代は十字架上で救いを成就された、救い主の実体であるイエス様を信じて救われるのです。旧約におけるイスラエルも、新約におけるキリスト者も信仰によって救われて恵みの内に入れられるということです。つづいて29節をご覧ください。

“言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」”

この御言葉も、旧約から新約に移ったことを意味します。表面的に見ると、イエス様が天国の祝宴につくまでは、もはや一杯もぶどう酒を口にしないと捉えることがでるでしょう。つまり、「あー、イエス様の十字架の死が間近に迫っているんだな、その預言だな」と理解できるのです。ところで、ルカによる福音書の並行箇所を見るなら、この御言葉の意味をさらにはっきり、確定することができます。ルカ22:15~16をご覧ください。

“イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」”

マタイにおいて「ぶどうの実から作ったもの」とは、ルカに言わせると、「この過越の食事」だと言っています。ですから、イエス様は間もなく十字架刑によって死なれるということよりも、来年からは過ぎ越しの食事をしないだろうと言っているのです。なぜなら、この過ぎ越しは、最後の過ぎ越しであって、来年からは廃棄されるということです。それにとって代わって新約時代の聖餐式が、それから後において、守られるようにお命じになっているのです。ですから最後の晩餐とは、これ以降反復されることになる「聖餐式」の第一回目だったということです。

第三のポイントとして、さらに一点、注意すべきことは、イエス様がパンとぶどう酒という、イスラエル人にとって最もありふれた日々の糧を通して、ご自身の肉であり血であると言われたことです。パンとぶどう酒を食べるなら確かにお腹がみたされ、力が与えられます。イエス様がご自身をお与えになるということは、パンを食べて力がみなぎり、ぶどう酒を飲んで体がほてるほどに、私たちに霊的な支えとなり、あたかも父と子が一つに結合されているように、キリストと命の結合をしてくださることを教えてくださるのです。ですから最後の晩餐の第三のポイントとして、それはキリストとの神秘的結合を意味しています。ヨハネの福音書6:53~57をご覧ください。

“イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。”

私たちがキリストに結び合わされるという事は、キリストと共に古い自分に死に、キリストと共に復活させられるということです。私たちはイエスキリストを信じ、洗礼を受けて新しく生まれ変わりました。それは、復活の主が聖霊を通して私たちの中に生きて働いてくださるということです。そして私たちは、今現在、信仰により、聖霊によってキリストと結び合わされていますが、やがて天に引き上げられ、父と子が一つに結合されているようにキリストと結びあわされるのです。その結合とは私たちの想像もできないほどの結合です。ですから旧約における過越しの祭が、新約の聖餐式の模型であったように、新約の聖餐式は終わりの日の天の祝宴の模型となるのです。それは、天の父の国において、完全にキリストに結ばれて一つとなって、私たちが家族のように近しく祝宴にあずかるのです。初代教会の人々は、集まるごとにパンを裂いて、聖餐式を行いましたが、その時に「マラナタ、主よ来たりませ」という式文も一緒に唱えました。

ですから整理しますとイエス様は最後の晩餐において、過越しの祭りを成就を宣言され、新しい聖餐式を制定されました。その内容とは、イエス・キリストが十字架にかかられて死なれたのは、贖いの供え物としての死であり、私たちの罪の完全な赦しを、はっきりと理解できるようにさせてくださるということ、そしてもう一つは、主の再臨と終末を待望し、天の祝宴におけるキリストとの結合を信仰によって眺めるためであったということです。ですから当教会で月に一度聖餐式が行われていますがその度に、この三点を瞑想してください。今日の聖餐式とは、旧約における所の過越しの食事であり、啓示がより鮮明になりイエス様によって契約が更新されたということ。そして、私たちは十字架を通して、完全な罪の赦しを頂いたこと、さらに、天の食卓におけるキリストとの結合を瞑想することができるのです。

聖餐式は洗礼と同じように、主が命じられた礼典です。この二つの聖礼典は、キリスト教会で御言葉に並ぶ大切なものとして認識されています。ですから一般に「御言葉」と「礼典」を恵みの外的手段と言います。この外的手段を通して聖霊が内的に恵みを私たちに豊かに注いでくださるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

ハングル語によるメッセージはありません。

関連する説教を探す関連する説教を探す