2022年02月13日「病の癒しと罪の赦し 병의 치유와 죄 사함」

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病の癒しと罪の赦し 병의 치유와 죄 사함

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 2章1節~12節

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:1数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2:2大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、
2:3四人の男が中風の人を運んで来た。
2:4しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
2:5イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
2:6ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
2:7「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
2:8イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
2:9中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
2:10人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
2:11「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
2:12その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 2章1節~12節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

病は様々な形で人の心や体を蝕みます。自分の力では治すことはおろか、蝕まれた心や体は日々の営みに大きな影を落とします。自分の周りに目を向けるなら、健康を与えられた人々がいる。社会生活を順風満帆の中で過ごしている人がいる。自分だけ、なぜ、病に苦しまなければならないのかと、その置かれている現状に落胆し、病になってしまった原因を突き止めようとするかもしれません。時には自分の出生さえ呪うこともあるでしょう。そのような絶望の中に置かれている人々に明るいニュースが飛び込んできました。安息日に奇跡をおこなわれたお方が、再びカファルナウムに戻って来られたというのです。群衆はこのお方に希望を持ち、その方が滞在している家に集まってきました。多くの人が家に押し掛けたため、中に入れず、戸口の外にも人があふれ出していました。この方のところに行けば、自分の病の原因が癒されるかもしれない、表面的な癒しではなく、その原因を取り除いてくれるかもしれない、人々はそのように考えてイエス様のおられる家に殺到したのかもしれません。

【1】. 罪の赦しの宣言

さて、2:1、2節を見ると、

“数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられる”

と、あります。ここを見ますと、以前カファルナウムにおいて、イエス様が後に置き去りにした群衆とは、少し様子が違うような感じがいたします。と言うのは、今回、家に押しかけた群衆は、ただ病の癒しや悪霊の追放だけを望んでいるわけではなく、イエス様の語る宣教の御言葉(ロゴス)に耳を傾けているからです。以前のカファルナウムの状況については、1:36~38には次のように書かれています。聖書の前のページをご覧ください。

シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」

このようにして、イエス様はカファルナウムを去り、ガリラヤの他の町や村を巡回していたのですが、数日ぶりに、再び戻って来たわけです。そして今回は、イエス様の語られる救いの御言葉に、命の御言葉に、耳を傾け始めたのであります。そこへ四人の男が、中風の人を床に寝かせたまま運んできました。中風というのは、脳出血などが原因で、腕や足が麻痺してしまい、体の自由が利かない病気であります。彼らは群衆によってイエス様に近づくことを阻まれてしまいました。しかし、そのまま諦めるのではなく、なんと、非常識にも、屋上の屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をそのまま、上からつりおろしたのです。当時、ユダヤ人の家は石で出来ていました。家は平屋建てになっていて、外階段を通じて屋根に上がることができるようになっていたそうです。普通、屋根材は、木の枝と、藁をのせて、乾いた泥を漆喰のように覆ったものでありました。ですから、屋根を掘ってイエス様の前に中風の病人をつり下ろすことは、今日の私たちが考えるように器物損壊罪として全くあり得ないことという訳ではなかったようですが、それにしても非常識であり、恥ずかしいことであったに違いありません。イエス様は彼らの信仰をご覧になられ、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と暖かく受け入れてくださり、罪の赦しを宣言してくださったのです。もしかしたら、病の癒しを求めていたのに、肩透かしを食らったのではと思われるかもしれませんが、当時、ユダヤにおいては、病と罪の間に、何らかの関係があると考えられていました。もし、ある人に癒されない病があるのなら、その人が何か罪を犯したからではないかと考えられていたのです。旧約聖書を読むと、最初の人類であるアダムとエバが罪を犯したために、死と、死の影である病が、人類に入り込んだと読み取ることができるため、当時のユダヤ人がそのように考えるのも、無理はありませんでした。そして当然ですが、張本人であるこの中風の男も、そのように考えていたと思われます。自分がこのように全身が麻痺し、絶望的な人生を送っているのは、あの時に、あんな罪を犯したから、また、こんな罪を犯したからと、自分を責め立てる思いと、そして、どうしようもないという後悔の念で一杯だったのではと思われます。ですから、イエス様は、4人の男と、そしてこの中風の人を含め、彼ら全員の信仰をご覧になられ、「子よ、あなたの罪は赦された、諸々の罪は赦された」と男に優しく語ってくださったのです。

【2】. 罪を赦す権威が与えられていることの証明

ところが、そこに律法学者が数人座っていました。彼らは口をつぐみながらも、心の中でイエス様の罪の赦しの宣言に不服を立てながら、「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか!」と思っていました。律法によれば、神聖冒涜罪は死刑に当たります(レビ24:16)。律法学者たちはこれまで、イエス様の福音の言葉を聞いていたはずですが、その御言葉は右の耳から左の耳に通り過ぎていくだけでありました。彼らは、自分たちは罪びとではない、罪など犯したこともない、とでも言い出しかねないような考え方をしていましたので、イエス様の語る福音が全く響かなかったのであります。福音は、心の貧しい者、病んでいる者、罪びとに語られるものです。また、律法学者たちは、実際、病人の困った状況を目の前にしても、お前が罪を犯した天罰であると考えるだけで、彼らに同情したり、憐れみの心をかけてやろうなどとは、少しも考えることはなかったのです。ところで、「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」という律法学者の指摘は、決して間違ったものではありませんでした。彼らが言うように、罪の赦しは、専ら神様からのみ来るからです。そして、イエス様が罪の赦す権威を主張されたことは、ご自身が神であるということを主張するに等しいことでありました。そのことをもって、神を冒涜していると主張しているのです。しかし、律法学者は、一つ重要な点を見落としていました。それは、罪の赦しは、神から遣わされたメシアが来たことを知らせるしるしでもあるという点です。罪の自覚のない彼らにとって罪の赦しなどどうでもいいことであったかもしれませんが、旧約聖書のイザヤ40:2とゼカリア書13:1には次のような御言葉が書かれています。

イザヤ40:2

“エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。”

ゼカリア書13:1

“その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。”

このようにメシアが来られ、神の国が到来し、神の支配が明らかになるとき、罪の赦しがはっきりと示され、悔い改める民に神の慰めが与えられるのあります。イエス様は律法学者たちの、不信仰な考えを見通され、「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」と質問しました。実際、罪を赦すことも、中風のため体が麻痺して動かない人が起きて歩けるようにすることも、両方とも難しいことであり、神様にしかなし得ないことでありましょう。しかし、イエス様の宣教活動を見る時に、専ら肉体の癒しと悪霊追い出しをするだけではなく、御言葉を語り、罪の赦しの福音を語ることにこそ、優先順位が置かれていたのは明らかであります。イエス様が病を癒されたり、悪霊を追い出しをされたのは、人間のより根源的な問題である罪の問題が解決されたことのしるしであり、そのことの現れであったと結論づけることができるのです。私たちにとって罪の問題こそが、すべての根本的な問題なのです。罪の問題こそ、最も難関で神にしかできない御業であります。ですから、「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」という二者択一の質問は、現在に生きる私たちに対しても、心をえぐるようにして、迫ってくる訳です。一人の人間の生涯において、何がより重要なのか、病の癒しなのか、それとも罪の赦しなのか。罪の赦しこそ、私たちが第一に神に求めなければならないものであるということです。続いて10~12節をご覧ください。

人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

イエス様は、地上で罪を赦す権威がご自身に与えられていることを証明するために、そして、ご自身が神様から遣わされたメシアであることを証明するために、中風の癒しの奇跡を行いました。男は、皆の見ている前で起き上がり、床を担いで出て行ったのです。今、まさに神の御業がイエス様を通して現れました。神の国が到来し、神の支配がはっきりと目に見える形で現れ、ご自身がメシアであることを証明されたのです。人々はみな驚き、神を賛美いたしました。

【3】. 人の子

さて、10節において私たちが注目したい個所として、イエス様がご自分のことを「人の子」と呼んでいるということです。「人の子」とはいったい何でしょうか。この言葉はパウロ書簡には一切現れません。イエス様がご自身のことを言われる時に、好んで用いた呼び名です。普段は「私」という言葉を使いますが、厳かなことを言われる時には、「私」の代わりに「人の子」という言葉をお使いになられました。この「人の子」という呼び名が多く出てくるのは、8章の、フィリポ・カイサリアで、ペトロが弟子を代表し「あなたはキリストです」と信仰告白をした後からであります。それ以降、イエス様はご自身の死と復活について受難告知を三度されるのですが、その受難告知において必ずご自身のことを「人の子」と呼んでいます。この「人の子」という言葉は、ダニエル書7章のメシア預言の引用であると思われます。ダニエル7:13~14をご覧ください。

“私は夜の幻を見ていた。/見よ、人の子のような者が/天の雲に乗って来て/日の老いたる者のところに着き/その前に導かれた。この方に支配権、栄誉、王権が与えられ/諸民族、諸国民、諸言語の者たちすべては/この方に仕える。/その支配は永遠の支配で、過ぎ去ることがなく/その統治は滅びることがない。”

福音書の中でイエス様が「人の子」という言葉を使われる時は、ご自身が権威をもち、安息日の主でもあり、死んで再び蘇り、終わりの日に栄光をもって来臨する者として、表現する時であります。つまり、イエス様が「人の子」という言葉を使う時、ご自身がまさに来るべき「メシア」であるということを主張しているメッセージであると読み取れるのです。しかし当時、イエス様を取り囲む人々のうち、甚だしくは12弟子たちでさえ「メシア」という言葉と「人の子」という言葉をイコールとして結び付ける人はいませんでした。なぜそう言えるのかと言うと、「人の子」という言葉によって、イエス様は律法学者やファリサイ人から攻撃を受けることはなかったからです。それではイエス様は、なぜ、直接「メシア」という言葉を使わずに「人の子」という言葉を使ったのでしょうか。それは意図的にイエス様が「メシア」と「人の子」がイコールの関係であることを隠されたからであります。いえ、隠されたというより、当時の人々が持っていた、メシアという言葉に対して抱いている間違った理解を正された、と言った方が適切かもしれません。つまり、メシアとは、ダビデの子として、イスラエルの王としてのみ来られる方ではなかったということです。メシアとは、第一に、政治的な王ではなく、霊的な王であられます。私たちの罪の問題と、そこから派生してくるすべての問題を解決される神のようなお方なのです。そうでありながら、第二に、人の子のようなお方で、低い方として来られ、ご自身の命を多くの人々のための罪の代価としてお与えになる方であります。死んで、復活し、神の右に高くあげられ、やがて、最後の審判のために再臨の栄光を持って現れるお方なのです。イエス様は公生涯の働きの初期から、ご自身が「人の子」、つまり「メシア」であることを公になさいました。しかし「人の子」という言葉を使うことによって、メシアに対する真の理解は、後ほど、聖霊の働きによって弟子たちに徐々に教えられるように残しておかれたのであります。この「人の子」によって、病人が癒され、悪霊に取り付かれた人を解放され、思い皮膚病患者が清められ、中風の者は再び歩くようになり、そして、何よりも罪の赦しが宣言されたのであります。これは来るべきメシアの働きでなくして、一体何なのでしょうか。

【結論】

今日も、主は「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」という質問を私たちに語り掛けておられます。それと同時に、今まさにメシアが来られ、神の国が到来し、十字架による罪の赦しが宣言されているのです。このことこそ私たちの希望でありましょう。私たちの記憶の中には、後悔しても後悔しきれない、多くの罪が存在しています。なぜあの時、自分はあのようにしてしまったのか、なぜ、あんなふうにしか出来なかったのかと、過去の失敗について悔いては、また思い起こされる毎日です。本当に自分の愚かさを思わずにはいられません。しかし、イエス・キリストが、私たちのすべての問題の根本である罪の問題を解決してくださる方として来られました。イエス・キリストは今日も「罪の赦しを受けなさい」と、私たちを招いてくださっています。私たちは、この方の前に、たとえ非常識に見えても、自らを投げ出し、諸々の罪を明るみにし、御前に告白していかなければなりません。このお方こそ、私たちの救い主であり、このお方こそ私たちの問題を、その根本から癒し、赦してくださるお方であるからです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

병의 치유와 죄 사함

2022년 2월 13일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 2장 1~12절

서론

병은 다양한 형태로 사람의 마음이나 몸을 갉아먹습니다. 스스로의 힘으로는 치료하기는 커녕, 갉아먹힌 몸과 마음은 일상생활에 큰 그림자를 두리웁니다. 자신의 주변으로 눈을 돌린다면 건강을 누리는 사람들이 있습니다. 사회생활을 순탄하게 보내고 있는 사람이 있습니다. 왜 나만 이런 병에 시달려야 하는가 하고, 처해진 상황에 낙담하여 병에 걸린 원인을 알아내려 하고 있는지 모릅니다. 때로는 자신의 출생조차 저주할 수 있겠지요. 그런 절망 속에 놓인 사람들에게 희망의 소식이 날아왔습니다. 안식일에 기적을 이루신 분이 다시 가버나움으로 돌아오셨다는 것입니다. 군중들은 이분에게 희망을 가지고 그분이 머물고 있는 집으로 모여들었습니다. 많은 사람들이 집으로 몰려드는 바람에 안으로 들어갈 수 없었고 문밖에도 사람들이 넘쳐나고 있었습니다. 이분에게 가면 자신의 병의 원인이 치유될 수도 있는, 표면적인 치유뿐만이 아니라 그 원인을 제거해 줄지도 모른다. 사람들은 그렇게 생각하고 예수님이 계신 집으로 몰렸을지도 모릅니다.

(1) 죄 사함의 선언

자 2장 1,2절을 보자면,

1 수 일 후에 예수께서 다시 가버나움에 들어가시니 집에 계시다는 소문이 들린지라

2 많은 사람이 모여서 문 앞까지도 들어설 자리가 없게 되었는데 예수께서 그들에게 도를 말씀하시더니

라고 기록되어 있습니다. 이 부분을 보면 이전 가버나움에서 예수님이 뒤에 두고 간 군중과는 조금 다른 모습이 보입니다. 왜냐하면 이번에 집으로 몰려든 군중들은 단지 병의 치유와 더러운 귀신의 축출만을 바라는 것이 아니라 예수님께서 하시는 선교 말씀(로고스)에 귀를 기울이고 있기 때문입니다. 이전 가버나움의 상황에 대해서는 1장 36~38절에는 다음과 같이 적혀 있습니다. 성경 앞 페이지를 보시면 됩니다.

36 시몬과 및 그와 함께 있는 자들이 예수의 뒤를 따라가

37 만나서 이르되 모든 사람이 주를 찾나이다

38 이르시되 우리가 다른 가까운 마을들로 가자 거기서도 전도하리니 내가 이를 위하여 왔노라 하시고

이렇게 예수님은 가버나움을 떠나 갈릴리의 다른 도시와 마을을 순회하다가 며칠 만에 다시 돌아온 셈입니다. 그리고 이번에는 예수님께서 하시는 구원의 말씀, 생명의 말씀에 귀를 기울이기 시작했습니다. 거기에 네명의 남자가 중풍걸린 사람을 상에 실은 채 운반해 왔습니다. 중풍이라는 것은 뇌출혈 등이 원인으로 팔과 다리가 마비되어 몸의 자유가 없는 질병입니다. 그들은 군중에 의해서 예수님께 접근하는 것이 막히고 말았습니다. 하지만 그냥 포기해버리는 것이 아니라 세상에, 몰상식하게도 옥상 지붕을 뜯어 구멍을 내고 병자가 누워 있는 상을 그대로 위에서 내린 것입니다. 당시 유대인의 집은 돌로 되어 있었습니다. 집은 단층집으로 되어 있고, 바깥 계단을 통해 지붕으로 올라갈 수 있게 되어 있었다고 합니다. 보통 지붕의 재료는 나뭇가지와 짚을 얹고 마른 진흙을 회반죽처럼 덮은 것이었습니다. 그래서 지붕을 뜯어 내고 구멍을 내어 예수님 앞에 중풍병자가 누운 상을 달아 내려 놓는 것이 오늘날 우리가 생각하는 것처럼 기물파손죄로서 전혀 있을 수 없는 일을 한 건 아니었던 것 같은데요. 그렇다고 해도 몰상식하고 부끄러운 일이었음에는 틀림없습니다. 예수님은 그들의 믿음을 보시고 중풍병자에게 「네 죄 사함을 받았느니라」라고 따뜻하게 말씀해주시고 죄는 용서 받았다고 선언해 주셨습니다. 어쩌면 병이 낫기를 구했는데 예상밖의 말을 들은 것이 아닐까 생각할지 모르지만, 당시 유대에서는 병과 죄 사이에 어떤 관계가 있다고 생각했었습니다. 만약 어떤 사람에게 치유되지 않는 병이 있다면 그 사람이 무슨 죄를 지었기 때문이 아닐까 생각했었습니다. 구약성경을 읽으면 최초의 인류 아담과 하와가 죄를 지었고 그로인해 죽음과 죽음의 그림자인 병이 인류에게 스며들었기에 무리가 아니었습니다. 그리고 당연하지만 장본인인 이 중풍병자도 그렇게 생각했었을 것으로 보입니다. 내가 이렇게 온몸이 마비되고 절망적인 삶을 살고 있는 것은 그때 저런 죄를 지었기 때문에 또 이런 죄를 지었기 때문이라는 자신을 자책하는 생각과 그리고 어쩔 수 없다는 후회감으로 가득 차 있지 않았나 싶습니다. 그래서 예수님은 네 남자와 그리고 이 중풍병자를 포함하여 그들 모두의 믿음을 보시고, 「중풍병자에게 이르시되 작은 자야 네 죄 사함을 받았느니라」라고 다정하게 말씀해 주셨습니다.

(2) 죄 사함의 권위가 부여되었다는 증거

그런데 거기에 율법학자가 몇 명 앉아 있었습니다. 그들은 입을 다물면서도 마음속으로 예수님의 죄 사함의 선언에 불복하면서 “이 사람은 왜 이런 말을 하는가, 하나님을 모독하고 있다. 하나님 외에 도대체 누가 인간의 죄를 용서할 수 있다는 말인가!”라고 생각했습니다. 율법에 따르면 신성모독죄는 사형에 해당합니다(레위기 24장 16절). 율법학자들은 그동안 예수님의 복음의 말씀을 듣고 있었을 것인데, 그 말씀은 오른쪽 귀에서 왼쪽 귀로 지나갈 뿐이었습니다. 그들은 자신들은 죄인이 아니다, 죄나 범죄는 저지른 적이 없다라고 말할 수 있는 생각을 하고 있었기 때문에 예수님께서 말씀하시는 복음이 전혀 와 닿지 없었던 것입니다. 복음은 마음이 가난한 자, 병든 자, 죄인들에게 이야기되는 것입니다. 또 율법학자들은 사실 병자의 난처한 상황을 눈앞에 두고도 네가 지은 죄에 대한 천벌이라고만 생각할 뿐 그들에게 동정하거나 연민의 마음을 가지고 대하겠다는 생각은 조금도 없었습니다.

그런데 하나님 한 분 외에 도대체 누가 인간의 죄를 용서할 수 있겠느냐는 율법학자의 지적은 결코 틀린 것이 아니었습니다. 그들이 말하는 것처럼 죄의 용서는 오직 하나님에게서만 오기 때문입니다. 그리고 예수님께서 죄 사함의 권위를 주장하신 것은 자신이 하나님임을 주장하는 것과 다름없는 일이었습니다. 그것을 가지고 하나님을 모독하고 있다고 주장하는 것입니다. 그러나 율법학자는 한 가지 중요한 점을 간과하고 있었습니다. 그것은 죄의 용서는 하나님께서 보내신 메시아가 왔음을 알리는 표시이기도 한다는 점입니다. 죄의식이 없는 그들에게 죄 사함 따위는 아무래도 좋은 일이었을지도 모르지만, 구약성경 이사야 40장 2절과 스가랴 13장 1절에는 다음과 같은 말씀이 쓰여져 있습니다.

이사야 40장

2 너희는 예루살렘의 마음에 닿도록 말하며 그것에게 외치라 그 노역의 때가 끝났고 그 죄악이 사함을 받았느니라 그의 모든 죄로 말미암아 여호와의 손에서 벌을 배나 받았느니라 할지니라 하시니라

스가랴 13장

1 그 날에 죄와 더러움을 씻는 샘이 다윗의 족속과 예루살렘 주민을 위하여 열리리라

이처럼 메시아가 오고 하나님의 나라가 오고 하나님의 통치가 밝혀질 때 죄 사함이 뚜렷이 나타나고 회개하는 백성들에게 하나님의 위로가 주어지는 것입니다. 예수님은 율법학자들의 불신하는 생각을 읽으시면서 「어찌하여 이것을 마음에 생각하느냐 중풍병자에게 『네 죄 사함을 받았느니』라 하는 말과 『일어나 네 상을 가지고 걸어가라』 하는 말 중에서 어느 것이 쉽겠느냐」라고 질문하셨습니다. 사실 죄를 용서하는 것도, 중풍 때문에 몸이 마비되어 움직이지 않는 사람이 일어나서 걸을 수 있게 하는 것도 둘 다 어려운 일이고 하나님밖에는 하실 수 없는 일이지요. 그러나 예수님의 선교활동을 볼 때 오로지 육체의 치유와 더러운 귀신을 쫓아내시는 것만이 아니라 복음을 말씀하시고 죄 사함의 복음을 말씀하시는 것에 우선순위가 놓여 있음이 분명합니다. 예수님이 병을 고치시거나 더러운 귀신을 내쫓으신 것은 인간의 보다 근원적인 문제인 죄의 문제가 해결 되었음을 나타내는 표시이자 그 일을 드러냄이었다고 결론 지을 수 있는 것입니다. 우리들에게 있어서 죄의 문제야말로 모든 근본적인 문제인 것입니다. 죄의 문제야말로 무엇보다 난관이며 오직 하나님 한 분 외에는 할 수 없는 역사이기 때문입니다. 그렇기 때문에 「『네 죄 사함을 받았느니』라 하는 말과 『일어나 네 상을 가지고 걸어가라』라고 말하는 것 중 어느 쪽이 쉽겠느냐」라는 양자택일의 문제는 현재에 사는 우리에 대해서도 마음을 후벼파는듯이 다가오는 것입니다. 한 인간의 생애에 있어서 무엇이 더 중요한가, 병의 치유인가, 죄의 용서인가, 죄 사함이야말로 우리가 첫째로 하나님께 구해야 하는 것이라는 것입니다. 이어서 10~12절을 보도록 하겠습니다.

10 그러나 인자가 땅에서 죄를 사하는 권세가 있는 줄을 너희로 알게 하려 하노라 하시고 중풍병자에게 말씀하시되

11 내가 네게 이르노니 일어나 네 상을 가지고 집으로 가라 하시니

12 그가 일어나 곧 상을 가지고 모든 사람 앞에서 나가거늘 그들이 다 놀라 하나님께 영광을 돌리며 이르되 우리가 이런 일을 도무지 보지 못하였다 하더라

예수님은 지상에서 죄 사함의 권위가 자신에게 주어졌음을 증명하기 위해, 그리고 자신이 하나님께서 보내신 메시아임을 증명하기 위해 중풍병자에게 치유의 기적을 행했습니다. 남자는 모두가 보는 앞에서 일어나 상을 가지고 나갔습니다. 지금 바로 하나님의 말씀이 예수님을 통해 나타났습니다. 하나님의 나라가 도래하면서 하나님의 통치가 뚜렷하게 가시적인 형태로 나타나 자신이 메시아임을 증명하신 것입니다. 사람들은 모두 놀라 하나님을 찬양했습니다.

(3) 인자(人の子)

자, 10절에서 우리가 주목하고 싶은 부분으로 예수님이 자신을 「인자」라고 부르고 계신다는 것입니다. 「인자」는 도대체 무엇일까요? 이 말은 바울의 서신서에는 일절 나타나지 않습니다. 예수님이 자신을 말할 때 즐겨 쓰신 호칭입니다. 평소에는 「나」라는 말을 쓰지만 엄숙하게 말씀하실 때는 「나」대신「인자」라는 단어를 쓰셨습니다. 이 「인자」라고 하는 호칭이 많이 나오는 것은 8장의 빌립보 가이사랴에서 베드로가 제자를 대표해서 「당신은 그리스도이십니다」라고 신앙고백을 한 뒤부터 입니다. 그 이후 예수님은 자신의 죽음과 부활에 대해 수난고지를 세 번 하시는데 그 수난고지에서 반드시 자신을 「인자」라고 부르고 계십니다. 이 「인자」라는 말은 다니엘서 7장 메시아 예언의 인용인 것으로 보입니다. 다니엘 7장 13,14절을 보시겠습니다.

다니엘 7장

13 내가 또 밤 환상 중에 보니 인자 같은 이가 하늘 구름을 타고 와서 옛적부터 항상 계신 이에게 나아가 그 앞으로 인도되매

14 그에게 권세와 영광과 나라를 주고 모든 백성과 나라들과 다른 언어를 말하는 모든 자들이 그를 섬기게 하였으니 그의 권세는 소멸되지 아니하는 영원한 권세요 그의 나라는 멸망하지 아니할 것이니라

복음서에서 예수님께서 「인자」라는 말씀을 쓰실 때는 자신이 권위를 가지시고 안식일의 주인이기도 하며, 죽은 후 다시 살아나며, 마지막 날 영광스럽게 재림하는 자로서 표현할 때입니다. 즉 예수님이 「인자」라는 말을 사용할 때 자신이 바로, 오기로 한 「메시아」임을 주장하는 메시지라는 것을 읽을 수 있는 것입니다. 그러나 당시 예수님을 둘러싼 사람들 중 심지어 12제자들조차 「메시아」라는 말과 「인자」라는 말이 같다라고 연결짓는 사람은 없었습니다. 왜 그렇게 말할 수 있냐 하면 「인자」라는 말로 인해 예수님이 율법학자나 바리새인으로부터 공격을 받지 않았기 때문입니다. 그렇다면 예수님은 왜 직접 「메시아」라는 말을 쓰지 않고 「인자」라는 말을 사용했을까요? 그것은 의도적으로 예수님이 「메시아」와「인자」가 같다는 것을 감추셨기 때문입니다. 아니요, 감추셨다기 보다는 당시 사람들이 가지고 있던 메시아라는 단어에 대해 품고 있는 잘못된 이해를 바로잡았다고 말하는 것이 적절할지도 모릅니다. 즉 메시아는 다윗의 아들로서 이스라엘의 왕으로만 올 수 있는 분이 아니었다는 것입니다. 메시아는 첫째, 정치적 왕이 아니라 영적 왕입니다. 우리 죄의 문제와 거기서 파생되어 오는 모든 문제를 해결하시는 하나님과 같은 분입니다. 그러면서 둘째, 인자와 같은 분이고 낮은 분으로 오셔서 자신의 목숨을 많은 사람들을 위한 죄값으로 주시는 분입니다. 죽고 부활하셔서 하나님의 오른편에 앉아 계시다가 마침내 최후의 심판을 위해 재림의 영광을 가지고 나타나는 분이십니다. 예수님은 공생애의 사역의 초기부터 자신이 「인자」즉「메시아」임을 공개하셨습니다. 그러나 「인자」라는 말을 사용함으로써 메시아에 대한 진정한 이해는 나중에 성령의 역사에 의해 제자들에게 서서히 가르칠 수 있도록 남겨 두셨던 것입니다. 이 「인자」에 의해서 병자가 치유를 얻고 더러운 귀신들린 자가 해방되고 나병환자가 정결함을 받고 중풍병자는 다시 걷게 되었으며 무엇보다 죄 사함이 선포되었습니다. 이것이 와야 할 메시아의 사역이 아니면 도대체 무엇이란 말일까요?

결론

오늘도 주님은 「『네 죄 사함을 받았느니』라 하는 말과 『일어나 네 상을 가지고 걸어가라』 하는 말 중에서 어느 것이 쉽겠느냐」 라는 질문을 우리에게 하고 계십니다. 그와 동시에 이제 막 메시아가 오고 하나님의 나라가 오고 십자가에 의한 죄 사함이 선언되어 있습니다. 이것이야말로 우리의 희망이지요. 우리의 기억 속에는 후회해도 후회할 수밖에 없는 많은 죄가 존재합니다. 왜 그때 나는 그렇게 해버렸는지, 왜 그렇게 밖에 할 수 없었는지 과거의 실패에 대해 후회해도 후회가 떠나지 않는 매일입니다. 정말 자신의 어리석음을 생각하지 않을 수 없습니다. 그러나 예수 그리스도께서 우리 모든 문제의 근본인 죄의 문제를 해결해 주시는 분으로 오셨습니다. 예수 그리스도께서는 오늘도 「죄 사함을 받으라」고 우리를 초대해 주시고 계십니다. 우리는 이 분 앞에 비록 비상식적으로 보일지라도 스스로를 내던지고 죄를 낱낱이 하나님 앞에 고백해야 합니다. 이분이야말로 우리의 구원자요, 이분이야말로 우리의 문제를 그 근본부터 치유하고 용서해 주시는 분이기 때문입니다.

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