2022年01月30日「人の命を養うもの 사람이 떡으로만 살 수 있는가」

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人の命を養うもの 사람이 떡으로만 살 수 있는가

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 8章1節~20節

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聖句のアイコン聖書の言葉

8:1今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる。
8:2あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。
8:3主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
8:4この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。
8:5あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。
8:6あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。
8:7あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、
8:8小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。
8:9不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である。
8:10あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。
8:11わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。
8:12あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、
8:13牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、
8:14心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、
8:15炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、
8:16あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。
8:17あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。
8:18むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。
8:19もしあなたが、あなたの神、主を忘れて他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すようなことがあれば、わたしは、今日、あなたたちに証言する。あなたたちは必ず滅びる。
8:20主があなたたちの前から滅ぼされた国々と同じように、あなたたちも、あなたたちの神、主の御声に聞き従わないがゆえに、滅び去る。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 8章1節~20節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 出エジプトをしたイスラエルの民は、今、荒れ野と約束の地カナンの地の境界線であるモアブの平野にに立たされています。40年の間、モーセを通して語られた神の御言葉に聞き従ってきましたが、今も、モーセの第二の説教に耳を傾けています。モーセはここで、これから約束の地に入って行こうとしているイスラエルの民に、質問を投げかけながら、あることを説得しようとしています。そのあることとは、「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る全ての言葉によって生きる」ということです。ご存知のように、この言葉はイエス様が、荒れ野においてサタンから誘惑を受けた時に、引用した御言葉でもあり、大変有名な御言葉です。「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る全ての言葉によって生きる」、このことをモーセは民に説得し、とりなして祈っているのです。ここにこそ神様の目的がありました。神様はイスラエルをご自分の民と選び、彼らを召し、彼らをエジプトの奴隷状態から解放し、荒れ野を経て、約束の地に導いた目的は、彼らを奴隷の身分からハイレベルな人々、ハイステータスな人々にすることではありませんでした。弱い者が強い者に勝つという痛快なストーリーを書き上げるためでもありませんでした。彼らをエジプトの奴隷状態から解放し、荒れ野を経て、約束の地に導いた目的とは、主の口から出る全ての言葉によって生きる民を形成するため、言い換えれば、信仰の共同体を形成するためであったのです。信仰によってでなければ、真に意味のある人生を歩むことはできません。信仰によってでなければ、神の国を受け取ることは出来ないのであります。

【1】. 荒れ野での記憶

 最初に、8章全体を概観しますと、1節と19、20節では全く対照的なことが言われています。主の御言葉を愛し戒めを忠実に守り行うのか、それとも主に背き御言葉から離れるのかによって、祝福か呪い、命か滅びに至るであろうということです。そして、両方に共通している言葉として、「今日」という言葉が挙げられます。この「今日」という言葉によって、モーセはイスラエルの民に、あなた方はどうするのかと、まさに選択を迫っているようにも聞こえてきます。8:1節の御言葉をご覧ください。

今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる。

そして19、20節もご覧ください。

もしあなたが、あなたの神、主を忘れて他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すようなことがあれば、わたしは、今日、あなたたちに証言する。あなたたちは必ず滅びる。主があなたたちの前から滅ぼされた国々と同じように、あなたたちも、あなたたちの神、主の御声に聞き従わないがゆえに、滅び去る。

この8章の最初と最後の言葉をお聞きになって、皆さんはどんなことを感じられたでしょうか。感じ方はそれぞれあるかと思いますが、改めて、襟を正さなければと思わたのではないでしょうか。それでは、イスラエルに与えられる「祝福と呪い」、「命と滅び」というのは全くの因果応報なのでしょうか。つまり、イスラエルがきちんとするなら、自己責任において祝福と命を収めることになり、そうでなければ呪いと滅びを刈り取るということなのでしょうか。2節以降を読み進めて行くと分かりますが、その答えは「YES」とも言えるし、「NO」とも言えるでしょう。確かに聖書には、自分で蒔いたものをそのまま刈り取ることになるという思想は書かれています。しかし、2節から読み進めますと40年の荒れ野の旅を思い起こしなさいとあります。あの40年の苦難に満ちた荒れ野生活とは、カデシュバルネアにおいて不信仰を働いてしまった報いであったとこれまで語られて来ました。しかし、8章では、これまでの論調とは少し異なっているのです。あの40年の荒れ野生活は、主があなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされたためだと言います。さらに5~6節には次のように書かれています。

あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。

父なる神が、ご自身の子であるイスラエルを懲らしめ、訓練するために40年の荒れ野生活に導かれたと言うのです。つまり、荒れ野の40年とは、不信仰に対する刑罰ではなく、ご自身の子に対する懲らしめであり、訓練であったというのです。荒れ野は確かに広くて恐ろしい場所でありました。神の恵みによって天からマナが与えられましたが、それは蓄えることができず、その日食べる分しか与えられませんでした。つまり明日の保証なしに日々生きて行くということです。先の見通しがきかず、落ち着かない、不安な歩みだったことでしょう。しかし、そのような苦難の中にあっても、神様の不思議な介入と保護がありました。それはマナを降らせてくださったこともそうですが、ある時は、硬い岩から水を湧き出させ喉の渇きを癒してくださいました。また、ある時は、ウズラの肉を食べさせてくださいました。そして40年の間、彼らの着ていた着物は古びず、足が腫れることもありませんでした。荒れ野という場所は、イスラエルにとって両親が子を育むような、神様の保護と神様の恵みを体験した場所でもあったのです。そして食べ物と、飲み物と、とにかく生きて行く上で必要なもの一切が、その源泉が、自分たちをエジプトから呼び出してくださった主なる神にあるということを、学んだ場所でもありました。子が親の言葉に従順にするように、イスラエルは主だけを畏れ、主の戒めを守らなければなりません。このように見てまいりますと、因果応報と思われる1節の約束は、荒れ野で体感した、まだ記憶に新しい、あの神様との幸いな交わりに基礎づいていたということが分かります。神様は決して機械的に因果応報の報いをイスラエルに与えようとしているのではなく、その根底に愛があり、イスラエルを教育しながら、時には懲らしめと鞭を用いて、究極的には、幸いの道に、命の道に生きるようにと促しているのです。

【2】. 良い土地であるカナン

 これからイスラエルが入っていく約束の地、カナンはどれほど良い土地でしょうか。「良い」とはヘブル語は「トーブ」という言葉が使われています。創世記1章の七日の創造物語の中で「神様は見て、良しとされた。」、「見て、喜ばれた」とありますが、そこでもトーブという言葉が使われています。つまり「良い土地」とは、まさに「神様の喜ばれる土地」なのです。そこには、川が流れ、泉と地下水が湧き、7つの産物が取れました。小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブ、蜜です。また、鉄や銅もふんだんに採れました。このような鉄や銅は、後に神殿建築に大いに用いられることになります。いずれにせよ、このような素晴らしい土地へ神様は導いてくださるのです。ここでモーセはイスラエルの民に対し、不安の色をのぞかせます。11節をご覧ください。

わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。

果たして、イスラエルの民がカナンの地の豊かさの中でも、神様の全ての戒めと命令を守るだろうか。食べて、何不足なく満足するようになった時、彼らは良い土地を与えてくださった神様を褒めたたえ、讃美するだろうか。かえって、心が傲慢になり、主なる神を忘れてしまうのではないだろうかという不安です。主なる神を忘れて他の神々を拝むようになるということの根本原因は、おごり高ぶる高慢の罪であります。実際に人が偶像礼拝に陥る時、そこで起こっているのは、「自分は一体どの神様を信じるのか」、という選択の問題ではありません。自分の人生が神様によって導かれ、支えられているということを信じているのか、それとも自分の力によって生きていると思っているのか、であります。つまり偶像というのは何かと言えば、自分の力で生きていると思っている者が、自分が主人であり続ける中で造り出した神なのです。偶像崇拝の根本的な部分には、神を忘れた人間の、おごり高ぶりがあるのです。このおごり高ぶりは、人類の始祖であるアダムとエバが罪を犯した原因でもありました。彼らは善悪を知る木の実を食べて神のようになろうとしたのです。ですから全ての罪の根に、おごり高ぶりがあると言っても過言ではないでしょう。私たちはこの高慢によくよく警戒しなければならないのです。17~18節をご覧ください。

あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。

従いまして、これから入ることになるであろう、約束の地カナンには、荒れ野とは異なる危険が存在するという事をモーセは警告しているのです。荒れ野における「苦難」が神に対する従順の試験であったとすれば、約束の地における、その「豊かさ」もまた、神に対する従順の試験であると言うことができるでしょう。彼らが、荒れ野において、主だけに依り頼み、奇跡的に生き残ることができたのなら、富と豊かさの中でも、同じように主だけに依り頼み、戒めと法と掟を守らなければなりません。「人は、パンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きる」という事を、カナンの地の豊かさの中でも実践して行かなければならないのです。この世は、常に私たちに「自分自身の力でパンを食べてみよ」と迫ってきます。そして、豊かさを自らの功績だと勘違いさせるのです。次第に神様のことを忘れ、自分を誇ってしまいます。豊かさの中に潜んでいる、このような試みの中で、ただ主にだけ依り頼んでいかなければなりません。

【3】. 天からのマナ

 さて、戒めと法と掟を完全に守り、主の口から出るすべての言葉によって生きた人物は、地上にイエス様以外にいませんでした。イエス様は公生涯を始める前に聖霊によって荒れ野に導かれ、40日の断食をしました。それ後、サタンが近づき「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑に遭われました。イエス様は神の子ですからもちろん、石に命じてパンにすることがおできになったはずです。しかし、イエス様は、申命記8:3の御言葉を引用しながら「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」(マタ4:4)とおしゃいました。一体なぜ、この御言葉によって、サタンを退かせることが出来たのでしょうか。サタンの狙いというのは、イエス様に「あなたの能力を用いてみよ、父から離れてその力を自由に行使してみよ」という誘惑であったのです。しかし、イエス様はご自分の空腹を真に解決してくださるのは、自分の力ではなく、父なる神様であるとして申命記の御言葉を引用されたのです。この箇所で、私たちが特に留意しなければならない点は、「私たちは物質的なパンは必要ではなく、霊的なパンこそ、必要なんだ」ということではないということです。ここに注意しなければなりません。問題は、物質的なものか、霊的なものかということではなく、主の備えてくださるものへ信頼し従順するのか、それとも自分自身に信頼を置くのか、この対比であるということです。イエス様は、ご自分が神でありながら、全き人として遜られ、神様の支えと神様の備えに完全に依り頼みました。神様の御心に適う歩みとは、イエス様が示されたように、神の御言葉によって養われる歩みなのです。全て善きものの源泉は、神様であることを認め、そのことを告白し、讃美し、御言葉によって養われること、このことこそ神様が願われる歩みなのです。そして、この歩みを完全に全うされた方はイエス様であられました。イエス様こそ真のイスラエルであり、真の神の子であられます。私たちは、戒めと法と掟を完全には守ることができませんが、イエス様が完全に守られ、私たちに信仰と従順の模範を示してくださいましたから、その足跡に従って着いて行きましょう。また、今日、このイエス様ご自身が天からの贈り物として、私たちに与えられていることも事実であります。なぜならイエス様はご自身のことを、天から降って来たパンであると言われたからです。ヨハネ福音書6:51をご覧ください。

わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。

パンとはイスラエルが食べたマナのことを指しています。イスラエルが荒れ野において毎日食べた、あの、天から降ってきたマナのことです。実はイスラエルの民は、信仰による歩みをあたかもリハーサルしているかのように、日々、マナによって養われ続けたのです。あの時、経験したように、これから先も、たとえ物資的な豊かさの中におかれても、神の御言葉を日々食べながら、御言葉に養われて、歩んでいくイスラエルとなるようにとモーセは祈り願っているのです。信仰によって生きる共同体が形成されるようにとモーセは祈り願っているのです。

【結論】

私たちが、これまで歩んで来た過去を少し振り返ってみてください。私たちの歩みを振り返るなら、それは、苦痛で試練と困難に溢れ、大変しんどい歩みであった、まさに40年の荒れ野のような道を歩んで来た、と思われるのではないでしょうか。しかし、注意深く振り返るなら、そのような荒れ野のような歩みであっても、そこに確かに神様の導きと、支えと、保護があって、今日に至ることができたという事が分かります。私たちは、確かに天からのマナによって養われ、導かれて来たという事に気づかされるのです。不思議に、ここまでくることができたのは、神の恵みであったことに気づかされるのです。その時、神様がどれほど慈しみ深い方であり、私たちを愛してくださっているのかを悟ることが出来るでしょう。今日まで、恵みのマナによって導かれて、歩ませていただいたように、これからも神の御言葉によって養われていく私たちとならせていただきたいと思います。信仰の歩みこそ祝福と命の歩みであり、信仰の歩みこそ真に意味のある人生の歩みだからです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

사람이 떡으로만 살 수 있는가

2022년 1월 30일 센겐다이교회 주일설교

신명기 8장 1~20절

서론

 출애굽을 한 이스라엘 백성들은 지금 광야와 약속의 땅 가나안의 경계선인 모압 평지에 서 있습니다. 40년 동안 모세를 통해 말씀하신 하나님의 말씀을 들어왔지만 지금도 모세의 두 번째 설교에 귀를 기울이고 있습니다. 모세는 여기서 이제 약속의 땅으로 들어가려는 이스라엘 백성들에게 질문을 던지며 어떤 것을 설득하려고 합니다. 그 어떤 것은 「사람이 떡으로만 살 것이 아니요 하나님의 입으로 나오는 모든 말씀으로 살 것이라」는 것입니다. 아시는 것처럼 이 말씀은 예수님이 광야에서 사탄의 유혹을 받으셨을 때 인용한 말씀이기도 하고 매우 유명한 말씀입니다. 「사람은 떡만으로 사는 것이 아니라 하나님의 입에서 나오는 모든 말씀으로 산다」는 것을 모세는 백성들을 설득하고 중보하며 기도하는 것입니다. 여기야말로 하나님의 목적이 있었습니다. 하나님은 이스라엘을 자신의 백성으로 선택하시고, 그들을 부르시고 그들을 애굽에서의 노예상태에서 해방시키시고 광야를 거쳐 약속의 땅에 인도하신 목적은 그들을 노예의 신분에서 고위층의 신분으로 만들기 위함이 아니었습니다. 약한 자가 강한 자를 이긴다는 사이다같은 결말의 스토리를 써내기 위해서도 아니었습니다. 그들을 애굽의 노예 상태에서 해방시키고 광야를 거쳐 약속의 땅으로 인도하시는 목적은 하나님의 입에서 나오는 모든 말씀에 따라 사는 백성을 형성하기 위해, 다시 말해서 믿음의 공동체를 형성하기 위해서였습니다. 믿음에 의해서가 아니면 진정으로 의미 있는 삶을 살 수 없습니다. 믿음에 의해서가 아니면 하나님의 나라를 상속 받을 수 없는 것입니다.

(1) 광야에서의 기억

먼저 8장 전체를 대략 살펴보면 1절과 19,20절에서는 완전히 대조적인 것이 쓰여져 있습니다. 하나님의 말씀을 사랑하고 계명을 충실하게 지키고 행하느냐 아니면 하나님의 말씀을 등지고 떠나느냐에 따라서 축복이냐 저주냐, 생명이냐, 망하느냐에 이를 것이라는 것입니다. 그리고 양쪽에 공통된 말로 「오늘」이라는 단어가 들어있습니다. 이 「오늘」이라고 하는 단어를 통해서 모세는 이스라엘 백성에게 너희들은 어떻게 할 것이냐고 마치 선택을 강요하는 것처럼 들립니다. 8장 1절의 말씀을 보시기 바랍니다.

1 내가 오늘 명하는 모든 명령을 너희는 지켜 행하라 그리하면 너희가 살고 번성하고 여호와께서 너희의 조상들에게 맹세하신 땅에 들어가서 그것을 차지하리라

계속해서 19,20절도 함께 보시죠.

19 네가 만일 네 하나님 여호와를 잊어버리고 다른 신들을 따라 그들을 섬기며 그들에게 절하면 내가 너희에게 증거하노니 너희가 반드시 멸망할 것이라

20 여호와께서 너희 앞에서 멸망시키신 민족들 같이 너희도 멸망하리니 이는 너희가 너희의 하나님 여호와의 소리를 청종하지 아니함이니라

이 8장의 처음과 마지막 말을 들으면서 여러분은 어떤 것을 느끼셨는지 궁금합니다. 느끼는 방법은 각각 다를것이라고 생각합니다만, 다시 제대로 옷깃을 여미지 않으면 안된다고 생각하지 않으셨나요? 그렇다면 이스라엘에게 주어지는 「축복과 저주」,「생명과 멸망」이라는 것은 완전한 인과응보란 말일까요? 즉 이스라엘이 제대로 하고 자기책임을 진다면 축복과 생명을 거두게 되고, 그렇지 않으면 저주와 멸망을 거두게 된다는 말입니까? 2절 이후를 읽어 나가면 알 수 있는데, 그 답은 “YES”라고도 할 수 있고 “NO”라고도 할 수 있습니다. 확실히 성경에는 스스로 뿌린대로 거둔다는 사상은 있습니다. 그러나 2절부터 읽어나가면 40년의 고난에 찬 광야 여행을 상기해 보라고 되어 있습니다. 그 40년의 고난에 찬 광야 생활이란 가데스바네아에서의 불신앙에 대한 댓가라고 지금까지 들어왔습니다. 하지만 8장에서는 지끔까지의 논조와는 조금 다릅니다. 그 40년의 광야생활은 하나님께서 너희를 시험하고 너희를 낮추신 것은 너희의 마음에 있는 것, 즉 하나님의 계명을 지킬 것인지를 알려고 하셨기 때문이라고 합니다. 또 5,6절에는 다음과 같이 적혀 있습니다.

5 너는 사람이 그 아들을 징계함 같이 네 하나님 여호와께서 너를 징계하시는 줄 마음에 생각하고

6 네 하나님 여호와의 명령을 지켜 그의 길을 따라가며 그를 경외할지니라

아버지 하나님께서 자신의 아들 이스라엘을 징계하고 훈련시키기 위해 40년간의 광야생활로 인도하셨다는 것입니다. 즉 광야의 40 년이란 불신앙에 대한 형벌이 아니라 자신의 자녀에 대한 징계이자 훈련이었다는 것입니다. 광야는 확실히 넓고 무서운 장소였습니다. 하나님의 은총으로 하늘에서 만나가 내렸지만 그것은 저축할 수 없고 그날 먹을 만큼 밖에 주어지지 않았습니다. 즉 내일의 보장 없이 하루하루 살아간다는 것입니다. 앞의 전망이 보이지 않고 안정되지 못한 불안한 걸음이었을 것입니다. 그러나 그런 고난 속에서도 하나님의 불가사의한 개입과 보호가 있었습니다. 그것은 만나를 내려주신 것도 그렇지만 어떤 때는 단단한 바위에서 물을 뿜어내게 하여 갈증을 풀어주셨습니다. 또 어떤 때는 메추리 고기를 먹게 해주셨습니다. 그리고 40년 동안 그들이 입고 있던 의복은 헤어지지 않았고 발이 부르트지도 않았습니다. 광야라는 곳은 이스라엘에게 부모가 자식을 키우는 것과 같은 하나님의 보호와 하나님의 은혜를 체험한 곳이기도 했습니다. 그리고 음식과 음료와 어쨌든 살아가는 데 필요한 모든 것이 그 원천이 자신들을 애굽에서 구해주신 하나님께 있다는 것을 배운 장소이기도 했습니다. 자녀가 부모의 말씀에 순종하듯이 이스라엘은 하나님만을 경외하고 하나님이 명하신 계명을 지켜야 합니다. 이렇게 살펴보면 인과응보처럼 여겨지는 1절의 약속은 광야에서 체감했던 아직 기억에 새로운, 그 하나님과의 행복한 교제에 근거하고 있다는 것을 알 수 있습니다. 하나님은 결코 기계적으로 인과응보의 보답을 이스라엘에게 주려고 하시는 것이 아니라 그 고난같이 보이는 광야 길의 여정의 근저에 사랑이 있고 이스라엘을 교육하면서 때로는 징계와 매를 이용하여 궁극적으로는 복의 길을, 생명의 길을 선택하여 전진하라고 인도하고 계시는 것입니다.

(2) 좋은 땅인 가나안

앞으로 이스라엘이 들어갈 약속의 땅인 가나안은 얼마나 좋은 땅일까요? 「좋다」는 히브리어어로 「토브」라는 단어가 사용되어 있습니다. 창세기 1장의 7일간의 창조 이야기 중에 「하나님이 보시기에 좋았더라」「보시기에 심히 좋았더라」라고 기록되어 있습니다만 거기서도 토브라는 말이 쓰여졌습니다. 즉 「좋은 땅」이라는 것은 바로 「하나님이 기뻐하시는 땅」인 것입니다. 그곳에는 강이 흐르고 샘과 지하수가 솟아나 7개의 산물이 수확되었습니다. 밀, 보리, 포도, 무화과, 석류, 올리브, 꿀입니다. 또 철이나 구리도 듬뿍 채취되었습니다. 이런 철이나 구리는 나중에 신전 건축에 많이 쓰이게 됩니다. 어쨌든 이런 풍족한 땅으로 하나님은 인도해 주시는 것입니다. 여기서 모세는 이스라엘 백성들에게 불안의 빛을 내비칩니다. 11절을 보십시오.

11 내가 오늘 네게 명하는 여호와의 명령과 법도와 규례를 지키지 아니하고 네 하나님 여호와를 잊어버리지 않도록 삼갈지어다

과연 이스라엘 백성들이 가나안 땅의 풍요 속에서도 하나님의 모든 계명과 명령을 지킬 것인가? 먹고 부족함 없이 만족하게 되었을 때 그들은 좋은 땅을 주신 하나님을 높이고 찬양할 수 있을까? 오히려 마음이 교만해지어 하나님을 잊어버리는 것은 아닐까? 하는 불안감입니다. 하나님을 잊고 다른 신들을 섬기게 된다는 근본 원인은 자만의 죄입니다. 실제로 사람이 우상숭배에 빠질 때 거기서 벌어지는 일는 ‘나는 도대체 어떤 신을 믿는 것이 좋을까?’하는 선택의 문제가 아닙니다. 자신의 삶이 하나님에 의해 인도되고 지켜지고 있다는 것을 믿고 있는지, 아니면 자신의 힘으로 살아가고 있다고 생각하고 있는 것인지에 달려 있습니다. 즉 우상이라고 하는 것이 무엇인가 말한다면, 자신의 힘으로 살아가고 있다고 생각하는 사람이 자신이 주인이 되어 만들어낸 신입니다. 우상숭배의 기본적인 부분에는 하나님을 잊어버린 인간의 교만이 있는 것입니다. 이 교만은 인류의 시조인 아담과 하와가 죄를 지은 원인이기도 했습니다. 그들은 선악을 아는 나무 열매를 먹고 하나님처럼 되려고 했던 것입니다. 그래서 모든 죄의 뿌리에 교만이 있다고 해도 과언이 아닐 것입니다. 우리는 이 교만을 잘 경계해야 합니다. 17,18절을 보세요.

17 그러나 네가 마음에 이르기를 내 능력과 내 손의 힘으로 내가 이 재물을 얻었다 말할 것이라

18 네 하나님 여호와를 기억하라 그가 네게 재물 얻을 능력을 주셨음이라 이같이 하심은 네 조상들에게 맹세하신 언약을 오늘과 같이 이루려 하심이니라

따라서 앞으로 들어가게 될 약속의 땅 가나안에서는 광야에서와는 다른 위험이 존재한다는 것을 모세는 경고하고 있는 것입니다. 광야에서의 「고난」이 하나님에 대한 순종적인 시험이었다면 약속의 땅에서의 그 「풍요함」 또한 하나님에 대한 순종적인 시험이라고 할 수 있을 것입니다. 그들이 광야에서 하나님만을 의지하고 기적적으로 살아남을 수 있었다면 부와 풍요 속에서도 마찬가지로 하나님만을 의지하여 계명과 규례와 율법을 지켜야만 합니다.「사람이 떡으로만 사는 것이 아니요 여호와의 입에서 나오는 모든 말씀으로 산다」라는 것을 가나안 땅의 풍족함 속에서도 실천해 나가야 하는 것입니다. 이 세상은 항상 우리에게 “자기 힘으로 떡을 구하라”고 다가옵니다. 그리고 얻은 풍요로움을 자신의 능력으로 착각하게 만드는 것입니다. 점차 하나님을 잊고 자신을 자랑하게 됩니다. 풍요 속에 도사리고 있는 이런 시험 속에서 오직 하나님에게만 의지해야 합니다.

(3) 하늘에서 내려 온 만나

그런데, 계명과 법과 규례를 온전히 지키고 하나님의 입에서 나오는 모든 말씀으로 산 인물은 지상에 예수님 외에는 없습니다. 예수님은 공생애를 시작하시기 전에 성령에 의해 광야로 인도하심을 받고 40일 금식을 하셨습니다. 이후 사탄이 다가와 「네가 만일 하나님의 아들이어든 명하여 이 돌들로 떡덩이가 되게 하라」고 유혹을 했습니다. 예수님은 하나님의 아들이니 물론 돌에 명하시면 빵으로 변했을것입니다. 그러나 예수님은 신명기 8장 3절 말씀을 인용하면서 「사람이 떡으로만 살 것이 아니요 하나님의 입으로 나오는 모든 말씀으로 살 것이라」(마태복음 4장 4절) 고 말씀하셨습니다. 도대체 어떻게 이 말씀으로 사탄을 물리칠 수 있었을까요? 사탄의 노림수라는 것은 예수님께 “당신의 능력을 이용해 보라. 아버지를 의지하지 말고 당신이 가진 힘을 자유롭게 행사해 보라”는 유혹이었습니다. 그러나 예수님께서는 자신의 배고픔을 진정으로 해결해 주시는 것은 자신의 힘이 아니라 아버지 하나님이라고 신명기의 말씀을 인용하신 것입니다. 이 부분에서 우리가 특히 유의해야 할 점은 “우리는 물질적인 떡은 필요하지 않고 영적인 떡이야말로 필요하구나”라는 것이 아니라는 것입니다. 이것을 주의하셔야 합니다. 문제는 물질적인 것이냐, 영적인 것이냐가 아니라 하나님께서 구비해 주시는 것에 신뢰하고 순종하느냐, 아니면 자기 자신에게 믿음을 두고 있느냐가 중요한 것입니다. 예수님은 자신이 하나님이시면서도 완전한 인간으로서 자기를 낮추시고 하나님의 지지와 하나님이 구비해주시는 것에 전적으로 의지하셨습니다. 하나님의 마음에 합한 삶이란 예수님께서 보여주신 것처럼 하나님의 말씀을 의지하며 살아가는 것입니다. 모든 좋은 것의 원천은 하나님이심을 인정하고 그 사실을 고백하고 찬양하며 말씀으로 양육되는 것이야말로 하나님이 우리에게 원하시는 삶의 행보인 것입니다. 그리고 이런 삶을 완전히 완수하신 분은 예수님이셨습니다. 예수님이야말로 진정한 이스라엘이요, 진정한 하나님의 아들입니다. 우리는 계명과 율법과 규례를 완전히 지키지는 못하지만 예수님게서 온전히 지켜주시고 우리에게 믿음과 순종의 모범을 보여주셨으니 그 발자취를 따라 따라십시오. 또한 오늘날 이 예수님 자신이 하늘이 주신 선물로서 우리에게 오셨다는 것도 사실입니다. 왜냐하면 예수님은 자신을 하늘에서 내려온 떡이라고 하셨기 때문입니다. 요한복음 6장 51절을 참조하십시오.

나는 하늘에서 내려온 살아 있는 떡이니 사람이 이 떡을 먹으면 영생하리라 내가 줄 떡은 곧 세상의 생명을 위한 내 살이니라 하시니라

떡은 이스라엘이 먹은 만나를 말합니다. 이스라엘이 광야에서 매일 먹었던 그 하늘에서 내려온 만나 말입니다. 사실 이스라엘 백성들은 믿음에 의한 걸음걸이를 마치 리허설을 하는 것처럼 날마다 만나에 의해서 양육되었습니다. 그 때 경험했듯이 앞으로도 비록 물질적인 풍요에 거하더라도 하나님의 말씀을 날마다 먹으면서 말씀의 보살핌을 받으며 걸어가는 이스라엘이 되기를 모세는 기도하고 바라고 있습니다. 믿음에 의해 살아가는 공동체가 형성되기를 모세는 기도하고 바라고 있는 것입니다.

결론

우리가 지금까지 살아온 과거를 조금 되돌아보십시오. 우리의 삶을 돌아본다면 그것은 고통스럽고 시련과 어려움으로 가득 찬 매우 힘든 걸음이었던 바로 40년의 광야와 같은 길을 걸어왔다고 생각되지 않으십니까? 그러나 자세히 과거를 돌이켜 본다면 그런 광야와 같은 인생길 가운데서도 분명히 하나님의 인도하심과 돌보심과 보호하심 가운데서 오늘에 이를 수 있었다는 것을 알 수 있습니다. 우리는 확실히 하늘에서 내려온 만나로 양육되어지고 인도되어 왔다는 것을 깨닫게 됩니다. 신기하게도 여기까지 올 수 있었던 것은 하나님의 은혜였다는 것을 깨닫게 되는 것입니다. 그 때 하나님께서 얼마나 인자하신 분이며 우리를 사랑해 주시는지 깨닫게 될 것입니다. 오늘까지 은혜의 만나에 의해서 인도되어 걸었듯이 앞으로도 하나님의 말씀으로 양육되어지는 우리가 되었으면 합니다. 믿음의 걸음이야말로 축복과 생명의 걸음이고 믿음의 걸음이야말로 진정으로 의미있는 삶의 발걸음이기 때문입니다.

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