2022年01月16日「あなたも、子も孫も 너도 아이들도 자손도」

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あなたも、子も孫も 너도 아이들도 자손도

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 6章10節~25節

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聖句のアイコン聖書の言葉

6:10あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、
6:11自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、
6:12あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。
6:13あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。
6:14他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。
6:15あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。
6:16あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。
6:17あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、
6:18主の目にかなう正しいことを行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、主があなたの先祖に誓われた良い土地に入って、それを取り、
6:19主が約束されたとおり、あなたの前から敵をことごとく追い払うことができる。
6:20将来、あなたの子が、「我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか」と尋ねるときには、
6:21あなたの子にこう答えなさい。「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。
6:22主は我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、
6:23我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導き入れ、それを我々に与えられた。
6:24主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。
6:25我々が命じられたとおり、我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 6章10節~25節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 神様は、私たちがすぐに物事を忘れやすいという特性を持っていることを良くご存知です。しかし、ただそれが、誰にでもよくある、単なる物忘れ程度であればいいのですが、私たちの創造主である神様を、私たちの救い主である神様をしばしば忘れてしまう、そのことを大変問題視されました。だからこそ神様は、私たちに礼典を与えて下さっていると言えるのではないかと思います。礼典とは神の恵みを実際に、この目で見て、体験するということですね。私たちに与えられている礼典とは、洗礼式と聖餐式がありますが、洗礼式を通して、私たちは古い自分に死んで、聖霊によって新しく生まれ変わったという事を直接目で見て、体験することが出来ます。また、聖餐式を通して、イエス・キリストが神に対する完全で永遠の献げ物となってくださり、私たちの罪を全て赦してくださったこと、そして神の家族に迎え入れられたということを、直接目で見て、体験することが出来ます。このような礼典は、旧約の時代にも割礼や過ぎ越しの祭りとして与えられていました。礼典を与えられている民として、私たちは、神様の永遠の契約によるイエス・キリストの救いを、決して忘れてはならないでしょう。そして、そのことを、物忘れのひどい、次世代にも伝えて行かなければなりません。私たちはともすれば、豊かさの中に溺れてしまい、今の豊かさを、あたかも自分の力で得ることができたと考えてしまいがちだからです。自分の頭で考え、お金と富に仕えた結果、今のステータスを手に入れることができたんだ、と考えてしまいがちだからです。創造主を忘れ、救い主を忘れてしまう、それが私たちの根っからの習性であるということです。

【1】. 必要なものは全て神の御手の中にある

 6:10~11節には、約束の地、カナンに入って行って、受け取ることになる豊かな祝福が書かれています。「あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足する…」これは、本当に目を疑うような約束です。何かの間違いではないかと思われるかもしれません。しかし、聖書の他の箇所でもカナンで受ける恵みについて同じように描写されていますから(例えばヨシュア24:13やネヘミヤ記9:24~25)、間違いではないようです。神は信仰の民を、いつまでも世の中のマイノリティとして、隅っこに、貧しく、抑圧されながら生きるようにさせるのではなく、豊かに、主の栄光を表すかのように、祝福されて、幸いに生きることを許されている、それは実は神の御心であったという事が分かります。しかし、その豊かさには危険が伴っていることも事実です。豊かさによって、神様から与えられている恵みが、恵みであることをすっかり忘れてしまう危険性があるからです。12~15節を見ますと、モーセはすかさずそのことに釘を刺しています。ご覧ください。

“あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。”

つまり、私たちを富むようにするのも、滅ぼすようにするのも、ひたすら主の御手の中にあり、ただ、主だけに依り頼み、主にだけ仕える時にだけ、カナンの地における豊かさと、美しさと、祝福と、幸いとが、いつまでも続くようにされるという事です。イスラエルの民にとって必要なものは、全て神の御手の中にあるため、神様から離れて異教の神々に仕えるのでもなく、また、豊作をもたらすと思われた自然崇拝をするのでもなく、ただ、唯一なる神、ヤハウェに仕えなさいと言うのです。このことは現代に生きる私たちにおいても全く同じように適用することが出来そうです。つまり、神様の与えて下さる良き賜物は、自分の力でゲットするものではなく、専ら、恵みとして与えられるということです。恵みとはただで与えられることですね。決して自分たちの功績を誇ることはできません。豊かさと幸いは、理想的な仕事や高尚な活動に仕えることの報いでもなく、或いは、富の偶像マモンに仕えることでもない、ただ、唯一なる神様だけに依り頼み、仕えていくことです。なぜなら私たちにとって本当に必要なものは全て、この神様の中にあるからです。

【2】. 神様が共におられることを忘れやすい民

 主なる神ご自身が、イスラエルのすべての必要を満たされるということを語った後、モーセはイスラエルが過去、主を試したことを思い起こさせ、再びそのような忘恩の罪を犯すことなく、全ての「戒めと定めと掟」を守りなさいと命じています。荒れ野のマサにおいてイスラエルの民は水がなく、喉が渇いたと不平を言い、「主なる神が、果たして自分たちの中にいるのか、いないのか分からない」と主を試みました。その時、なんと指導者であるモーセを殺そうとまでしたと書かれています。特に見逃してはならない点は、このマサにおける事件が、イスラエルの民が渇いた紅海を渡り、追ってきたエジプトの軍勢が海に飲まれるという不思議と奇跡を体験した後に起きたということでした。もっと言えば、直前に荒れ野において、天からマナを降らせていただいたその奇跡を体験した後に、マサの事件が起こったという事です。この事件はイスラエルの不信仰が半端ではないということを、示しているような事件でもありました。出エジプト記17:3~7をご覧ください。

“しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。”

イスラエルが不平をこぼし、主を試したというのは、「果たして、主が彼らの中におられるのか、どうか」という信仰の問題でありました。確かに神様は、私たちの目には見えませんが、いつも私たちと共におられ、私たちを責任持って守り導いてくださっている、そのことを決して疑ってはなりません。私たちは忘恩の民であり、神様が共におられることを忘れやすい民であるということを、マサの事件を通して徹底的に心に刻み付けましょう。

【3】. 救いのビフォーとアフターで信仰教育

 6:20節の以降で、子どもの教育に関する問題が言及されています。主なる神は今現在、生きている私たちだけの神ではなく、今から後、永遠に信仰の民、イスラエルの神であられます。そして、その契約の子は、代々に渡って神の民なのです。このことは、神の恵みが世襲によって、つまり血統によって与えられるということではなく、あくまでも信仰によって与えられるのですが、それにもかかわらず、神が契約を結ばれたという時に、その契約は単に個人と結ばれたものではなく、その人を通じて彼の子孫とも結んだものであるということです。このことを私たちは特に覚える必要があるのではないでしょうか。神の救いとは私たち、個人個人に適用されるのではなく、実に家族に、そして共同体に、子々孫々と適用されるべきものなのです。このことは一般的に見ても、そのように言えるでしょう。実際に、信仰は敬虔な両親から生まれるというケースが多く、神の恵みは子孫代々に渡って施されています。また、イエス様もイスラエルの民の子供たちを契約の民と見做し、子どもたちをご自分のもとへ抱き寄せ、手を置いて祝福されました。そして「神の国は彼らのものである」と言い、大人たちの模範として紹介しています(マコ10:13以下)。このように神の契約が個人に対するものではなく、共同体に対してであるなら、また、神の救いの約束が個人に対してではなく、共同体に対してであるなら、親が子に、子々孫々に、信仰を教育し、神様の御業を伝えていく義務と責任が生じてくるのであります。歴史の中でイスラエルの民から信仰がなくなり、忘恩の民となってしまい、幸いではなく、呪いを刈り取るようになってしまったのは、まさに、この信仰教育がきちんと機能しなかったからだと言えるでしょう。士師記2:7~12には次のような御言葉が書かれています。ご覧ください。

“ヨシュアの在世中はもとより、ヨシュアの死後も生き永らえて、主がイスラエルに行われた大いなる御業をことごとく見た長老たちの存命中、民は主に仕えた。主の僕、ヌンの子ヨシュアは百十歳の生涯を閉じ、エフライムの山地にある彼の嗣業の土地ティムナト・ヘレスに葬られた。それはガアシュ山の北にある。その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。”

信仰教育が機能しなくなった時、その時こそイスラエルの悲劇の始まりでありました。このことを現代の私たちに適用するなら、私たちキリスト者には神の御業の証人としての使命と責任が負わされているということです。また、教会を神の家族と考えるなら、求道者や信仰に入ったばかりの人々に対して、信仰の先輩たちが聖書を分かりやすく教えてあげるということです。或いは、教会の役員であれば、見えない奉仕を通して、教会員に仕えることを通して、信仰を伝えていくということでもあるでしょう。いずれにせよ、それぞれが聖書を通して頂いた恵みを、そこで留めてしまうのではなく、他の人にも流していくことが大事だと思います。それがキリスト者の使命であり責任なのです。

子どもたちの質問というのは、いつでも、「それは何?」「どうして?」「なぜ私が?」といったようなものですね。イスラエルの、好奇心旺盛な子どもたちも、お父さんやお母さんに対して同じような質問をしたのでしょう。そのような質問は、イスラエルにおいて次世代教育のきっかけとなりました。「そんなこと、どうでもいいの!早く言われたことをしなさい」などとは言いませんでしたよ。6:21~24節をご覧ください。

“あなたの子にこう答えなさい。「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。主は我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導き入れ、それを我々に与えられた。主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。”

この答えを注意深く見ると、神の救いのビフォーとアフターが強調されています。ビフォーから見て行きますと、「我々はエジプトでファラオの奴隷であった」。かつてエジプトの地で、惨めな奴隷状態であったということです。子供たちは衝撃を受けるに違いありません。それから神による救いの御手の介入があります。「主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。主は我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導き入れ、それを我々に与えられた。」神による救いの御手の介入によって、エジプトとファラオに大きな恐ろしいしるしと奇跡がもたらされ、イスラエルをエジプトから掬い出し約束の地に導き入れられたという事です。最後にアフターの所を見て行きましょう。「主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。」今日あるように常に幸いに生きるようにしてくださいました。それは主の賜物であり、ただ主から出て来たものです。そして、主に留まるように、信仰に留まるように、これらの掟をすべて行うよう教えたのです。以前見ました。申命記4:1に、「掟と法に聞き従いなさい。そうすれば命を得る」と書かれている通りです。神の掟と法に従う事、神の戒めに留まること、それは御言葉に堅く立つことであり、そのことこそ知恵であり、信仰であり、主と共に幸いに生きる道なのです。

【結論】

 私たちは三歩、歩いたら、神の恵みを忘れてしまう忘恩の民でございます。そのことをまず心に刻み付けましょう。神の賜物と祝福と幸いは、全て神の御手の中にあることを認めて、自分たちが救われる以前、どのように悲惨な状態であったのか、そして、どのようにして救い出され、今日、主の幸いの中に入れられているのか、日々そのことを黙想しながら、そして、時あるごとに、子どもたちに、或いは共同体の兄弟姉妹に、私たちの救われたビフォーとアフターを教え聞かせて行きましょう。信仰の継承を失敗した士師時代の悲劇を招いたイスラエルの教訓から私たちは学んで行くべきです。神を証しし、その御業を語り継ぐことは、私たちの大切な使命であり責任なのです。まだ救われていない家族がおられるなら、家族の救いの為に、ぜひ、祈ってまいりましょう。「私の主人は絶対無理だ」とか、「私の妻には信仰は必要ない」というふうに考えないでください。真の豊かさ、真の幸いを、神様以外の所から求めても、決して得られないからです。今日から家族の救いの為にお祈りしていく私たちとならせていただきましょう。そして私一人ではなく、家族も一緒に神の子供とされる喜びに与る者となり、一緒にカナンの地に入り、豊かにされ、代々限りなく幸いに生きる者とならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

너도 아이들도 자손도

2022년 1월 16일 센겐다이 교회 주일설교

신명기 6장 10~25절

서론

하나님은 우리가 금방 여러가지 일들을 잊어버리기 쉽다는 특성을 가지고 있다는 것을 잘 알고 계십니다. 그러나 단지 그것이 누구에게나 흔한 단순한 건망증 정도라면 좋겠습니다만 우리들의 창조주이신 하나님을 우리들의 구원자 되신 하나님을 자주 잊어버리는 그 일을 문제시 하셨습니다. 그렇기 때문에 하나님은 우리들에게 성례를 주시지 않았을까 생각합니다. 성례라고 하는 것은 하나님의 은혜를 실제로 이 눈으로 보고 체험하는 것입니다. 우리들에게 주어진 성례라는 것은 세례식과 성찬식이 있습니다만 세례식을 통해서 우리들은 옛 자신이 죽고 성령에 의해서 새롭게 태어났다는 것을 직접 눈으로 보고 체험할 수 있습니다. 또한 성찬식을 통해 예수 그리스도께서 하나님께 우리에 대한 완전한 영원한 속죄물이 되어 주시고 우리들의 죄를 전부 용서해 주신 것, 그리고 하나님의 자녀로 삼아주셨다는 것을 직접 눈으로 보고 체험할 수가 있습니다. 이러한 성례는 구약의 시대에도 할례와 유월절로 주어졌습니다. 성례에 참여할 수 있는 백성으로서 우리들은 하나님의 영원한 언약에 의한 예수 그리스도의 구원을 결코 잊어서는 안되는 것이죠. 그리고 그것을 자주 잊어버리는 다음 세대에도 알려주어야 합니다. 우리는 자칫 풍요 속에 빠져 지금의 풍요로움을 마치 자신의 힘으로 얻을 수 있었다고 생각하기 쉽기 때문입니다. 자신의 머리로 생각하고 돈과 부를 추구한 결과 지금의 지위를 얻을 수 있었구나라고 생각하게 되기 쉽기 때문입니다. 창조주를 잊고 구원자를 잊어버리는 그것이 우리들의 뿌리 깊은 습성이라는 것입니다.

(1) 필요한 것은 전부 하나님의 손 안에 있어

신명기 6장 10,11절에는 약속의 땅, 가나안에 들어가 받게될 풍성한 복이 쓰여져 있습니다. 「...네가 건축하지 아니한 크고 아름다운 성읍을 얻게 하시며 네가 채우지 않은 우물을 차지하게 하시며 네가 심지 아니한 포도원과 감람나무를 차지하게 하사 네게 배불리 먹게 하실 때에 」이것은 정말로 눈을 의심하게 할 만한 약속입니다. 그럴리가 없을 것 같은 생각마저 듭니다. 그러나 성경의 다른 구절에도 가나안에서 받을 은혜에 관해서 똑같이 묘사되어 있습니다. (예를 들면 여호수아 24장 13절과 느헤미야 9장 24절, 25절) 이 약속은 틀림없는 것 같습니다. 하나님은 믿음의 백성을 언제까지나 세상에서 소수자로서 지지리도 가난하고 억압받으며 살게 하는 것이 아니라 풍요롭게 주님의 영광을 나타내듯이 복을 받고 복되게 사는 것도 허락되어진 것이 사실은 하나님의 마음이었다는 것을 알 수 있습니다. 그러나 그 풍요로움에는 위험이 따르는 것도 사실입니다. 풍요로움으로 인해 하나님께서 주시는 은혜가 은혜임을 까많게 잊어버릴 위험이 있기 때문입니다. 신명기 6장 12~15절을 보면 모세는 지체없이 그것에 못을 박고 있습니다. 보시기 바랍니다.

12 너는 조심하여 너를 애굽 땅 종 되었던 집에서 인도하여 내신 여호와를 잊지말고

13 네 하나님 여호와를 경외하며 그를 섬기며 그의 이름으로 맹세할 것이니라

14 너희는 다른 신들 곧 네 사면에 있는 백성의 신들을 따르지 말라

15 너희 중에 계신 너희의 하나님 여호와는 질투하시는 하나님이신즉 너희의 하나님 여호와께서 네게 진노하사 너를 지면에서 멸절시키실까 두려워하노라

즉, 우리들을 부유하게 하는 것도 망하게 하는 것도 오로지 주님의 손안에 있고 오직 주님만을 의지하고 주님만 섬길 때만 가나안 땅의 풍요로움과 아름다움과 하나님으로 부터 받는 복과 행복이 언제까지나 계속되게 된다는 것입니다. 이스라엘 백성들에게 필요한 것은 모두 하나님의 손안에 있기 때문에 하나님을 떠나 이교의 신들을 섬기지 말고, 또 풍년을 몰고 올 것으로 생각되는 자연을 숭배하는 것이 아니고 그저 유일하신 하나님, 야훼만 섬겨야 한다고 말 하는 것입니다. 이 일은 현대에 사는 우리에게도 똑같이 적용될 수 있을 것 같습니다. 즉 하나님이 주시는 좋은 선물은 자신의 힘으로 얻는 것이 아니라 오로지 은혜로 주어진다는 것입니다. 은혜란 공짜로 주어지는 거죠. 결코 자신들의 공적을 자랑할 수 없습니다. 풍요와 행복은 이상적인 일이나 고상한 활동을 한 것에 대한 대가로서 얻는 것이 아니고 그저 유일하신 하나님께만 의지하고 섬길때 얻을 수 있는 것입니다. 우리에게 정말 필요한 것은 모두 이 하나님 안에 있기 때문입니다.

(2) 하나님이 함께 계심을 잊기 쉬운 백성

주되신 하나님 자신이 이스라엘의 모든 필요를 충족시킬 것임을 말한 후에 모세는 이스라엘이 과거 주님을 시험했음을 상기시키며 다시는 그러한 배은망덕한 죄를 짓지 말고 모든 「계명과 규례와 법도」를 지키라고 명하고 있습니다. 광야의 맛사에서 이스라엘 백성은 물이 없어서 목이 마르다고 불평불만을 하고 「여호와께서 우리 중에 계신가 안 계신가 」라고 주님을 시험했습니다. 그 때 무려 지도자인 모세를 죽이려고까지 했다고 적혀 있습니다. 특히 간과해서는 안 될 점은 이 맛사 사건이 이스라엘 백성들이 마른 땅이 된 홍해를 건너고 그 뒤를 추격하던 애굽의 군대가 바다에 휩쓸리는 불가사이한 기적을 기적을 체험한 뒤에 일어났다는 것이었습니다. 더 말하자면 직전에 광야에서 하늘에서 만나가 내려온 기적을 체험한 후에 맛사의 사건이 일어났다는 것입니다. 이 사건은 이스라엘의 불신앙의 정도가 장난이 아니라는 것을 보여주는 사건이기도 했습니다. 출애굽기 17장 3~7절을 참조하십시오.

3 거기서 백성이 목이 말라 물을 찾으매 그들이 모세에게 대하여 원망하여 이르되 당신이 어찌하여 우리를 애굽에서 인도해 내어서 우리와 우리의 자녀와 우리 가축이 목말라 주게 하느냐

4 모세가 여호와께 부르짖어 이르되 내가 이 백성에게 어떻게 하리이까 그들이 조금 있으면 네게 돌을 전지겠나이다

5 여호와께서 모세에게 이르시되 백성 앞을 지나서 이스라엘 장로들을 데리고 나일 강을 치던 네 지팡이를 손에 잡고 가라

6 내가 호렙 산에 있는 그 반석 위 거기서 네 앞에 서리니 너는 그 반석을 치라 그것에서 물이 나오리니 백성이 마시리라 모세가 이스라엘 장로들의 목전에서 그대로 행하니라

7 그가 그 곳 이름을 맛사 또는 므리바라 불렀으니 이는 이스라엘 자손이 다투었음이요 또는 그들이 여호와를 시험하여 이르기를 여호와께서 우리 중에 계신가 안 계신가 하였음이더라

이스라엘이 불평을 하고 주님을 시험했다는 것은 「여호와께서 우리 중에 계신가 안 계신가 」하는 믿음의 문제였습니다. 확실히 하나님은 우리 눈에는 보이지 않지만 항상 우리와 함께 하시며 우리를 책임지고 지켜 주시고 인도해 주신다는 것을 결코 의심해서는 안 됩니다. 우리는 배은망덕한 백성이며 하나님이 함께 하심을 잊지 쉬운 백성임을 맛사의 사건을 통해 배우고 철저히 명심합시다.

(3) 구원의 전후와 믿음 교육

6장 20절 이후로 자녀 교육에 관한 문제가 언급되어 있습니다. 주님은 지금 현재 살아계신 우리만의 하나님이 아니라 지금부터 후에라도 영원히 믿음의 백성인 이스라엘의 하나님이십니

다. 그리고 그 언약의 자녀들은 대대에 걸쳐서 하나님의 백성입니다. 이는 하나님의 은혜가 세습에 의해서 즉 혈통에 의해서 주어지는 것이 아니라 어디까지나 믿음에 의해서 주어지는 것이지만 그럼에도 불구하고 하나님이 언약을 맺으셨을 대 그 언약은 단순히 개인과 맺은 것이 아니라 그 사람을 통해서 그의 후손과도 맺은 것이라는 것입니다. 이것을 우리는 특별히 기억할 필요가 있지 않을까요? 하나님의 구원이란 우리 개인에게만 적용되는 것이 아니라 실로 가족에게 그리고 공동체에게 자손에게 적용되어야 하는 것입니다. 이 일은 일반적으로 봐도 그렇게 말할 수 있겠죠. 실제로 믿음은 경건한 부모에게서 태어나는 경우가 많으며 하나님의 은총은 자손 대대로 이어지고 있습니다. 또한 예수님께서도 이스라엘의 백성의 자녀들을 언약의 백성으로 간주하고 자녀들을 자신의 품으로 끌어안고 손을 올리시고 축복하셨습니다. 그리고 「하나님의 나라가 이런 자의 것이니라」라고 말씀하시고 어른들의 모범으로 소개하고 있습니다. (마가복음 10장 13절 이하) 이처럼 하나님의 언약이 개인에 대한 것이 아니라 공동체에 대한 것이라면 또 하나님의 구원 약속이 개인에 대해서가 아니라 공동체에 대한 것이라면 부모가 자녀에게, 자손들에게 신앙을 교육하고 하나님의 말씀을 전할 의무와 책임이 생기게 되는 것입니다. 역사 속에서 이스라엘 백성들로부터 믿음이 없어지고 배은망덕한 백성이 되어버려서 복이 아니라 저주를 거두게 된 것은 바로 이 신앙교육이 제대로 이루어지지 않았기 때문이라고 할 수 있습니다. 사사기 2장 7~12절에는 다음과 같은 말씀이 적혀 있습니다. 보세요.

7 백성이 여호수아가 사는 날 동안과 여호수아 뒤에 생존한 장로들 곧 여호와께서 이스라엘을 위하여 행하신 모든 큰 일을 본 자들이 사는 날 동안에 여호와를 섬겼더라

8 여호와의 종 눈의 아들 여호수아가 백십 세에 죽으매

9 무리가 그의 기업의 경내 에브라임 산지 가아스 산 북쪽 딤낫 헤레스에 장사하였고

10 그 세대의 사람도 다 그 조상들에게로 돌아갔고 그 후에 일어난 다른 세대는 여호와를 알지 못하며 여호와께서 이스라엘을 위하여 행하신 일도 알지 못하였더라

11 이스라엘 자손이 여호와의 목전에 악을 행하여 바알들을 섬기며

12 애굽 땅에서 그들을 인도하여 내신 그들의 조상들의 하나님 여호와를 버리고 다른 신들 곧 그들의 주위에 있는 백성의 신들을 따라 그들에게 절하여 여호와를 진노하시게 하였으되

신앙교육이 제대로 이루어지지 않을 때, 그 때야말로 이스라엘의 비극의 시작이었습니다. 이를 현대 우리에게 적용한다면 우리 그리스도인에게는 하나님의 역사의 증인으로서의 사명과 책임이 있다는 것입니다. 또 교회를 하나님의 가족으로 생각하고 구도자나 초신자들에게 신앙 선배들이 성경을 알기 쉽게 가르쳐준다는 것입니다. 아니면 교회의 임원이라면 보이지 않는 봉사를 통해서 교회원을 섬김으로써 신앙을 전달해 나가는 것이기도 하겠죠. 어쨌든 각자 성경을 통해 받은 은혜를 자기만 간직할 것이 아니라 다른 사람에게도 흘려 보내는 것이 중요하다고 생각합니다. 그것이 그리스도인의 사명이자 책임입니다.

아이들의 질문이라고 하는 것은 언제든지 “그거 뭐야?”, “왜?”, “내가 왜” 이런 거죠. 이스라엘의 호기심 많은 아이들도 아버지나 어머니에 대해 비슷한 질문을 했을 것입니다. 그러한 질문은 이스라엘에서의 차세대 교육의 계기가 되었습니다. “그런건 아무래도 좋으니까 빨리 시키는대로 해라”이런 말은 안 했어요. 6장 21~24절을 참조하세요.

21 너는 네 아들에게 이르기를 우리가 옛적에 애굽에서 바로의 종이 되었더니 여호와께서 권능의 손으로 우리를 애굽에서 인도하여 내셨나니

22 곧 여호와께서 우리의 목전에서 크고 두려운 이적과 기사를 애굽과 바로와 그의 온 집에 베푸시고

23 우리 조상들에게 맹세하신 땅을 우리에에 주어 들어가게 하시려고 우리를 거기서 인도하여 내시고

24 여호와께서 우리에게 이 모든 규례를 지키라 명령하셨으니 이는 우리가 우리 하나님 여호와를 경외하여 항상 복을 누리게 하기 위하심이며 또 여호와께서 우리를 오늘과 같이 살게 하려 하심이라

이 대답을 유심히 보면 하나님의 구원의 전후가 강조되어 있습니다. 구원 전은 「우리가 옛적에 애굽에서 바로의 종이 되었더니 」입니다. 과거 애굽에서 비참한 노예 상태였다는 것입니다. 아이들은 충격을 받을 것이 틀림이 없습니다. 그리고 하나님에 의한 구원의 손길의 개입이 있었습니다. 「여호와께서 권능의 손으로 우리를 애굽에서 인도하여 내셨나니 곧 여호와께서 우리의 목전에서 크고 두려운 이적과 기사를 애굽과 바로와 그의 온 집에 베푸시고 우리 조상들에게 맹세하신 땅을 우리에게 주어 들어가게 하셨다」하나님에 의한 구원의 손길이 개입함으로써 애굽과 바로에게 크고 두려운 이적과 기사를 통하여 이스라엘을 애굽에서 건져내어 약속의 땅으로 인도하셨다는 것입니다. 마지막으로 구원 후를 살펴보도록 하죠. 「여호와께서 우리에게 이 모든 규례를 지키라 명령하셨으니 이는 우리가 우리 하나님 여호와를 경외하여 항상 복을 누리게 하기 위하심이며 또 여호와께서 우리를 오늘과 같이 살게 하려 하심이라」그것은 주님의 선물이며 오직 주님으로부터 나온 것입니다. 그리고 주 안에 머무르도록 믿음 가운데 머물도록 이 규례들을 모두 행하도록 가르쳤습니다. 앞에서 봤지요. 신명기 4장 1절에 「규례와 법도를 듣고 준행하라 그리하면 너희가 살 것이요」라고 쓰여져 있습니다. 하나님의 규례와 법도를 따르는 것, 하나님의 계명에 머무르는 것, 그것은 말씀에 굳게 서는 것이며, 그것이야말로 지혜요 신앙이요 주님과 함께 복을 누리며 사는 것입니다.

결론

우리는 세 걸음을 걸으면 하나님의 은혜를 금방 잊어 버리는 배은망덕한 백성입니다. 그것을 먼저 마음에 새깁시다. 하나님의 선물과 축복과 행운은 모두 하나님의 손안에 있음을 인정하고 자신들이 구원받기 이전에 어떻게 비참한 상태였는지, 그리고 어떻게 구원받았으며 오늘날 주님의 복 가운데 들어갔는지 날마다 그 일을 묵상하면서 그리고 틈틈이 아이들에게 혹은 공동체의 형제 자매들에게 우리가 구원 받은 전과 후를 나눕시다. 신앙 계승에 실패한 사사시대의 비극을 초래한 이스라엘의 교훈에서 우리는 배워가야 합니다. 하나님을 증명하고 그 말씀을 계승하는 것은 우리의 소중한 사명이자 책임입니다. 아직 구원받지 못한 가족이 있다면 가족의 구원을 위해 꼭 기도해 봅시다. “우리 남편은 절대 무리야” 라거나 “내 아내에게는 신앙이 필요없어”는 식으로 생각하지 마세요. 진정한 풍요로움, 참된 복을 하나님 이외의 곳에서 구해도 결코 얻을 수 없기 때문입니다. 오늘부터 가족의 구원을 위해 기도하는 우리모두가 됩시다. 그리고 나 혼자가 아니라 가족도 함께 하나님의 자녀가 되는 기쁨에 참여하는 사람이 되고 함께 가나안의 땅에 들어가서 풍요롭게 되고 대대로 하나님이 주시는 복으로 살아가는 사람이 됩시다.

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