2022年01月09日「神に礼拝を捧げる者 하나님께 예배를 드리는 자」

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神に礼拝を捧げる者 하나님께 예배를 드리는 자

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
レビ記 1章1節~17節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった。
2イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちのうちのだれかが、家畜の献げ物を主にささげるときは、牛、または羊を献げ物としなさい。
3牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、
4手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。
5奉納者がその牛を主の御前で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を臨在の幕屋の入り口にある祭壇の四つの側面に注ぎかけてささげる。
6奉納者が献げ物とする牛の皮をはぎ、その体を各部に分割すると、
7祭司アロンの子らは祭壇に薪を整えて並べ、火をつけてから、
8分割した各部を、頭と脂肪と共に祭壇の燃えている薪の上に置く。
9奉納者が内臓と四肢を水で洗うと、祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。
10羊または山羊を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。
11奉納者がそれを主の御前にある祭壇の北側で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を祭壇の四つの側面に注ぎかける。
12奉納者がその体を各部に分割すると、祭司は分割した各部を、頭と脂肪と共に、祭壇の燃えている薪の上に置く。
13奉納者が内臓と四肢を水で洗うと、祭司はその全部をささげ、祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。
14鳥を焼き尽くす献げ物として主にささげる場合には、山鳩または家鳩を献げ物とする。
15祭司はそれを祭壇にささげ、祭壇で燃やして煙にする。まずその首をもぎ取って、血を祭壇の側面に絞り出す。
16次に、餌袋とその中のものを取り除き、祭壇の東側の灰捨て場に捨てる。
17それから翼を持って胴を引き裂くが、祭司はこれを裂き切らずに、祭壇の燃えている薪の上で煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
レビ記 1章1節~17節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 出エジプト記の最後の章である40章には、幕屋の建設が完成されたことが書かれています。その瞬間、主の臨在の雲が幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちました。このようにして幕屋が完成したことにより、もはや神が語りかけてくださる場所は、雷鳴が鳴り響き、稲光が走るシナイ山ではなくなりました。幕屋の中から語られるということになった訳です。レビ記の1章1節には「主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった」と書いてある通りです。因みに「臨在の幕屋」という言葉は、新しい翻訳では、「会見の幕屋」と訂正されています。神様と会見する場所という意味です。しかし、場所が変わったからと言って、神様がシナイ山でモーセに語りかけた時とは、すっかり変わってしまったということではありません。主はシナイ山におけるように、変わることなく、きよい神様であられ、シナイ山におけるように、罪に対しては不寛容であられました。例えば、アロンの二人の息子たちは、主の仰せをないがしろにしたために、神の裁きが下り、命を落としています(レビ10章)。しかし同時に、この点が重要ですが、主は信仰によって贖いの血を献げる、砕かれた罪人に対しては、憐れみ深くあられます。レビ記にはまさに、主の御前に出て砕かれた霊をもって礼拝を捧げようとする者が、どのように供え物を捧げ、祭事を行うのかが書かれています。このような旧約の祭事は、私たちが今日、捧げている神様への礼拝とは大きく隔たりがあるように見えるかもしれません。そもそも、私たちは、動物の犠牲を捧げたり、血を注ぎかけたり、祭壇で生贄を焼いたりすることはないからです。私たちの礼拝とは、聖餐に与ったり、聖書を朗読したり、賛美を歌ったり、説教を聞いたり、献金したりすることだからです。それでは、旧約の礼拝と、今日の私たちの礼拝とは、何の関係もないのでしょうか。実は、霊的な所、本質的な所を見るなら、旧約聖書の礼拝も、今日、私たちが献げている礼拝も、全く同じ礼拝を捧げているということが分かってまいります。旧約の礼拝の中にイエス・キリストが隠されているからです。礼拝は、旧約であろうと、新約であろうと、イエス・キリストという完全な献げ物を通して献げることによって、私たちは罪をきよめられ、神に近づき、神と交わることができるのです。

【1】. 祭事をする主体

 レビ記1:2~4節をご覧ください。

“イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちのうちのだれかが、家畜の献げ物を主にささげるときは、牛、または羊を献げ物としなさい。牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。”

2節を見ると、イスラエルの民の中で「あなたたちの誰かが」と始まっています。つまりイスラエルの中で誰であれ、ある人が、主の御前に出て礼拝を献げることが許されている、誰であれ、主の御前に出て礼拝することが許されていると理解することが出来るでしょう。これは私たちの対する「礼拝の招き」と取ることができるのではないでしょうか。とにかく、誰かが、家畜の献げ物を主に捧げる場合、牛、または羊を献げなさいと書かれています。今でさえ、牛は大変貴重な家畜ですが、当時はさらに貴重であったに違いありません。しかも無傷の雄を捧げなさいと書かれています。野生のものではだめだと言うのです。彼が手塩にかけて育ててきた、大切な家畜の中から献げなさいと言うのです。万が一高価な牛を捧げることができない人は、羊や山羊や鳥を捧げても構いませんでした。とにかく捧げる者が、できる精一杯の献げ物を主に捧げるべきでありました。さらに読み進めて行くと、その従順な献げ物が主に受け入れられるために幕屋の入り口に引いて行き、手で家畜の頭に按手しなければならないとあります。家畜の頭に按手するならば、その雄牛は主に受け入れられると言うのです。これは一体、どういう意味でしょうか。聖書の中で按手とは、常に何かの転嫁が含まれています。例えば、それは祝福の転嫁であったり、呪いの転嫁であったり、職分の転嫁であったりです。この祭事のケースでは、奉納者の罪が牛に転嫁されていると書かれています。ある注解書(S.H.ケロッグ)の指摘によりますと、この按手は単に頭の手を上に置くことではなく、犠牲の動物の上に重々しく乗りかかるような、依りかかるようにして手を置くことを意味することだと書かれています。つまり、犠牲の動物に依存したり、依りかかるようにして、按手が行われたということです。したがって、目の前の一頭の家畜の牛は、もはや家畜の牛ではありません。人が依りかかって按手したその瞬間に、それは罪人であるその人の身代わりを現わしているということです。祭事において、自分の家畜の中から、傷の無い牛を献げるということは、即ち、自分自身を神様に捧げるということを意味していたのです。神はそれを喜んで受け入れてくださるのです。「主よ、この犠牲の生贄は私です。この祭事は、この罪人の私を引き裂き、私を焼き尽くし、私の血を注ぎかけたものとして、どうか、受け入れてください」という事なのです。牛に按手する事を通して、自分自身を主に献げる祭事へと変化されるのです。主に献身する祭事へと変えられるのであります。こうして罪に対する神の燃えるような怒りは宥められたのです。

 続いて5節を見ますと、その牛を屠るとあります。屠るとは、牛の大動脈を切ることです。大動脈を切ることによって、血がしぶきのように溢れ出て、牛を殺すことが出来ます。血は物凄い勢いで流れ続けます。その時、恐らく、返り血を浴びることもあったことでしょう。牛は息を吐きながら、次第にその息が果てると、死んで行きます。それがまさに私であるという事です。「このように息が果てて、死ぬべき罪人が、主の御前に出てまいりました。主よ、この血をご覧になられ、どうぞ私の罪をお赦しください」と祈る気持ちで、雄牛を屠るのです。それから頭と尾を切断し、少しずつ皮を剥いでいき、その体を各部に切り分けます。ところで、ここで重要な事実が明らかにされているのですが、このように幕屋の前で祭事を行う時、一体誰が供え物に按手をするのでしょうか。一体誰が供え物の牛を屠るのでしょうか。誰がその供え物の皮を剥ぎ、体を切り分けるのでしょうか。祭司がするのでしょうか。それとも、供え物を持ってきた奉納者がするのでしょうか。私たちはこの点について大概、祭司がするものと理解していますが、レビ記には、そうではないと書かれています。確かに、祭司が奉納者のためにしてくれる儀式の部分もありますが、按手をすること、牛を屠り、皮を剥ぎ、各部に切り分けるのは、全て奉納者自身がすると書かれています。イスラエルの民の中の誰であれ、主に供え物をしようとする奉納者が、自分で行うのです。これは大変な作業であると同時に、残酷な作業であったと言えるでしょう。これらのことから明らかにされることは、祭事をする主体が、誰なのかということです。それは祭司や大祭司ではない、奉納者自身が、彼自身が祭事を行う主体であるという事です。奉納者自身が按手し、奉納者自身が牛を屠り、奉納者自身が皮を剥ぎ、各部に切り分けるのです。それでは、祭司たちは一体何をするのでしょうか。5節を見ますと、アロン子ら、祭司たちは、その血を臨在の幕屋の入り口にある、祭壇の四つの側面に注ぎかけると書かれています。また、続いて1:7~9節を見るなら、次のように書かれています。

 “祭司アロンの子らは祭壇に薪を整えて並べ、火をつけてから、分割した各部を頭と脂肪と共に祭壇の燃えている薪の上に置く。奉納者が内臓と四肢を水で洗うと、祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。”

 つまり、祭司たちは血を祭壇に注ぎ、そこに火をつけて煙にし、その香りをもって神を宥めるお手伝いをするだけであります。祭事において本当に大変な作業は、奉納者自身がするということなのです。このことを今日、私たちが献げている礼拝に適用してみるとどうなるでしょうか。皆さまが日曜日ごとに礼拝を捧げに来られる時に、神様に会見するために来られる訳ですが、この礼拝は一体誰が捧げるのでしょうか。私自身が捧げるのであります。もしかしたら、説教さえきちんと聞けば、礼拝を捧げたと勘違いしている人もいるかもしれません。讃美が上手に歌うことができたら、或いは礼拝出席者をお迎えし、きちんと案内できたら、礼拝を捧げたと勘違いしている人もいるかもしれません。しかし、それらはせいぜい、祭司が血を祭壇に注ぎ、祭壇に火をつける奉仕に過ぎません。本当に礼拝を捧げるとは、奉納者自身が自分の家畜の中から傷の無い、大切な雄牛を引いてきて、それを自ら按手し、自ら屠り、自ら皮を剥ぎ、自ら各部分に切り分けることであります。祭事の主体が、私であるという事です。礼拝を捧げるとは、ただ聴衆の立場で客観的に礼拝に参加することではなく、私が主体的になって礼拝を献げるのです。私が神の御前に立っている、そのことを勘違いしてはならないということです。キリストの生贄が、もたらしてくれる救いの恵みを受けたいと思う者は誰であれ、自らこのキリストを神の御前に携えて来なくてはなりません。そうすることによって初めて民は、キリストの生贄によって成就された有益を、キリストの恵みの賜物を、受け取ることが出来るのです。こればかりは、他人のためにはしてあげることはできません。私自らがしなければならないのです。私自らが主体として礼拝を献げ、私自らがキリストを携えて神の御前に出ていかなければならないのです。

【2】. 完全な供え物

 このように、焼き尽くす献げ物をはじめとする血を流す祭事には、必ず何らかの贖いの意味が含まれていました。しかしその贖いが万能だったかと言うと、実際そうではありませんでした。贖いの献げ物が、決して民の全ての罪を贖うのではなく、ただ特定の、故意ではない、いくつかの罪だけを贖うことが出来たに過ぎなかったという点を、私たちは見逃してはなりません。つまり、何か重い罪を犯した場合には、特別にモーセのとりなしの祈りが必要であったり、或いは緊急事態としてその時に特別神様に指示された方法で、例外的な祭事が執り行われたのであります(民16:45~50、Ⅱサム24:25、Ⅱ歴代29:8~11)。

万が一、わざと犯した罪があるなら、その罪に対しては、贖いは適用されず民の中から絶たれるという刑罰以外にはあり得ませんでした。民数記15:30には次のような御言葉がございます。

 “ただし、土地に生まれた者であれ寄留者であれ、故意に罪を犯した者は、主を冒瀆する者であり、その人は民の中から断たれる。”

 従いまして、献げ物によって無条件にどのような罪も赦されるということではなく、実際に贖いが成立したのは、極限られた罪に限定されていたという事です。日々の犠牲の祭事を通しても、贖うことができない数多くの罪が、依然としてイスラエルの民の中に潜在していました。律法に規定されている、いくつかの祭事が、人生全体の罪と悲惨さを包み込むことはできなかったのです。祭事は不完全であり、絶えず繰り返されました。皆様の中で、もしかしたら犬や猫などペットを飼っている人はいらっしゃるでしょうか。譬えはあまりよくないかもしれませんが、神様の御前に出るために、自分のかわいいペットを主への供え物として献げるということを想像してみてください。かわいいペットが、罪人である自分の分身として献げられるのです。そして自らそのペットを屠り、その皮を剥ぎ、各部分に切り分けるのです。なんと残酷なことでしょうか。その時の、悲しみは一体どれほどでしょうか。犠牲を通して罪が贖われたことの感謝というより、むしろ自分自身の罪の重さ、自分自身の悲惨さを、改めて思わずにはいられないことでしょう。同じようにイスラエルの民も繰り返される祭事を通して、自分たちの罪の大きさを、罪の悲惨さを思い起こされたのです。繰り返される祭事は、他のもっと優れた祭事を指し示す模型に過ぎませんでした。従って旧約聖書の預言者たちは、アロンの系統からではなく、王的祭司であるメルキゼデクの系統から立てられる、他の大祭司が現れて、彼が完全な祭事を献げるだろうと預言したのであります(詩編 110、エレ30:21、ゼカ 6:13)。

 その預言の成就として、神の御子キリストは、この世に来られ、完全で永遠の献げ物となってくださいました。自ら十字架の死に、ご自身をお渡しになられたのです。罪のないお方が、私たち一人一人の為に死んでくださったのです。罪人である私たちが神様に出ていく道を開いて下さるために、主ご自身が、自ら進んで供え物となってくださいました。主イエスの流された血によって、主イエスの全き従順によって、神の怒りは宥められました。私たちの罪が覆い隠されました。神の御子がご自身の身体を通して真の祭事を献げてくださったことを心から感謝し、その血に依りすがり、私たちは砕かれた霊を持って、主の御前に出てまいりたいと思います。

【結論】

 神様は、なぜ私たちの罪をイエス様に按手されたのでしょうか。なぜイエス様は私たちの罪を負われ、ゴルゴタの丘の上で、十字架刑という元も残酷な死を遂げなければならなかったのでしょうか。それは神が私たちを愛され、私たちのいかなる罪をも完全に贖うことのできる、唯一で、永遠の供え物を与えて下さるためでありました。焼き尽くす献げ物を捧げる際、民は自ら手塩に育ててきた家畜の中から、傷の無い高価な生贄を献げました。彼は、自らその生贄に按手し、その生贄に自らの罪を転嫁し、屠り、皮を裂き、各部に切り分けて、そして砕かれた霊を持って、自分の罪深さと悲惨さを心に刻みながら、主の御前に進み出ました。私たちも、同じように十字架の主を携えて神様の御前に出てまいりましょう。主イエスの血潮によって、私たちの罪がきよめられ、主イエスの従順によって、神の怒りが宥められ、私たちは神の民として受け入れられるのです。主イエスによって神に近づき、神と豊かに交わる者とさせていただけるのです。

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하나님께 예배를 드리는 자

2022년 1월 9일 센겐다이교회 주일설교

레위기 1장 1~17절

서론

출애굽기 마지막 장인 40장에는 회막의 건설이 완성되었음이 적혀 있습니다. 그 순간 주님의 임재의 구름이 회막을 뒤덮고 주님의 영광이 회막에 가득 찼습니다. 이렇게 회막이 완성됨으로써 이제 하나님이 말씀해 주시는 곳은 천둥소리가 울리고 번개가 치는 시내 산이 아니고 회막 안에서 말씀을 듣게 되었습니다. 레위기 1장 1절에 「여호와께서 회막에서 모세를 부르시고 그에게 말씀하여 이르시되」라고 적혀 있는 대로입니다. 덧붙여서 「회막」이라는 말은 새로운 번역(일본)에는 「회견의 회막」으로 정정되었습니다. 하나님과 회견하는 장소라는 말입니다. 그러나 장소가 바뀌었다고 해서 하나님이 시내 산에서 모세에게 말을 걸었을 때와는 완전히 달라졌다는 것은 아닙니다. 주님은 시내 산에서처럼 변함없이 거룩한 하나님이시고 시내 산에서처럼 죄에 대해서는 무관용하셨습니다. 예를 들어 아론의 두 아들은 주님의 분부를 경히 여겼기 때문에 하나님의 심판이 내려져 목숨을 잃었습니다(레위기 10장). 그러나 동시에 이점이 중요한데요, 주님은 믿음에 의해서 속죄의 피를 바치는 상한 심령의 죄인에 대해서는 긍휼심이 깊습니다. 레위기에는 바로 , 주님 앞에 나가 상한 심령으로 예배를 드리려는 자가 어떻게 예물을 바치고 제사를 지내는지가 적혀 있습니다. 이러한 구약의 제사는 우리가 오늘날 드리는, 하나님께 드리는 예배와 크게 거리가 있어 보일 수 있습니다. 애초에 우리는 동물의 희생을 바치거나 피를 쏟거나 제단에서 예물을 굽지 않기 때문입니다. 우리 예배란 성찬을 받거나 성경을 낭독하거나 찬송을 부르고 설교를 듣고 헌금을 하는 것이기 때문입니다. 그렇다면 구약의 예배와 오늘날 우리가 드리는 예배는 아무 상관이 없는 것일까요? 사실 영적인 부분 본질적인 부분을 본다면 구약 성경의 예배도, 오늘날 우리가 드리는 예배도 똑같은 예배를 드리고 있다는 것을 알게 됩니다. 구약 예배 속에 예수 그리스도가 숨겨져 있기 때문입니다. 예배는 구약이든 신약이든 예수 그리스도라는 완전한 제물을 통해 드릴 수 있음으로써 죄를 인정받고 하나님께 다가가 하나님과 교제할 수 있기 때문입니다.

(1) 제사를 드리는 주체

레위기 1장 2~4절을 보시기 바랍니다.

2 이스라엘 자손에게 말하여 이르라 너희 중에 누구든지 여호와께 예물을 드리려거든 가축 중에서 소나 양으로 예물을 드릴지니라

3 그 예물이 소의 번제이면 흠 없는 수컷으로 회막 문에서 여호와 앞에 기쁘게 받으시도록 드릴지니라

4 그는 번제물의 머리에 안수할지니 그를 위하여 기쁘게 받으심이 되어 그를 위하여 속죄가 될 것이라

2절을 보면 이스라엘 자손 「너희 중에 누구든지」로 시작하고 있습니다. 즉 이스라엘 안에서 누구든지 어떤 사람이 주님 앞에 나가서 예배를 드리는 것이 허락되어 있다, 누구든지 주님 앞에 나가서 예배하는 것이 허락되어 있다고 이핼 수 있을 것입니다. 이것은 우리에 대한「예배의 초대」로 받아들일 수 있지 않을까요? 어쨌든 누군가 가축의 예물을 주님께 바칠 경우 소나 양으로 예물을 드리라고 쓰여져 있습니다. 지금도 소는 매우 귀중한 가축이지만 당시에는 더욱 귀했을 것이 틀림이 없습니다. 게다가 흠 없는 수컷을 바치라고 적혀 있습니다. 야생의 것으로는 안 된다는 것이죠. 그가 손수 기른 소중한 가축 중에서 드리라는 것입니다. 만일 값비싼 소를 바칠 수 없는 사람은 양이나 염소나 새를 드려도 상관없었습니다. 어쨌든 드리는 자가 할 수 있는 힘껏 드려야 했습니다. 더 읽어나가면 그 순종적인 예물이 주님께 받아들여지기 위해 회막 입구로 끌고 가서 손으로 가축 머리에 안수해야 한다고 합니다. 가축의 머리에 안수를 한다면 그 숫소는 주님께 받아들여진다는 것입니다. 이게 도대체 무슨 뜻일까요? 성경에서 안수란 항상 무언가 전가가 포함되어 있습니다. 예를 들어 그것은 축복의 전가이거나 저주의 전가이거나 직분의 전가이거나 말입니다. 이 제사의 경우에는 예물을 드리는 자의 죄가 소에게 전가되고 있다고 적혀 있습니다. 한 주해서 (S.H.Kellogg)의 지적에 따르면 이 안수는 단순히 머리에 손을 얹는 것이 아니라 희생의 동물의 위에 예물을 드리는 자의 체중을 실어서 무겁게 압력을 가해서 손을 얹는 것을 의미하는 것이라고 적혀 있습니다. 즉 희생 동물에 의존하게 하여 안수가 이루어졌다는 것입니다. 따라서 눈앞의 가축 소 한 마리는 더 이상 가축으로서의 소가 아닙니다. 사람이 의존하여 안수한 그 순간에 그것은 죄인인 그 사람을 대신함을 나타내고 있다는 것입니다. 제사에서 내 가축 중에서 흠 없는 수컷을 바칠 수 있다는 것은 곧 내 자신을 하나님께 바친다는 것을 의미했던 것입니다. 하나님은 그것을 기꺼이 받아 주시는 것입니다. “주여 이 희생의 예물은 저입니다. 이 제사는 이 죄인인 나를 찢고 나를 다 태워 내 피를 쏟은 것으로 부디 받아주십시오”라는 것입니다. 소에게 안수하는 것을 통해서 자기자신을 주에게 드리는 제사로 변화되는 것입니다. 주께 헌신하는 제사에로 바뀔 수 있는 것입니다. 이렇게 해서 죄애 대한 하나님의 불타는 진노는 누구러지는 것입니다.

이어서 5절을 보면 그 소를 잡는다고 하는데 도살이란 소의 대동맥을 자르는 것입니다. 대동맥을 자르면 피가 분수처럼 쏟아져 나와 소를 죽일 수 있습니다. 피는 엄청난 기세로 계속 흘러나옵니다. 그 때 아마 튀어나오는 피를 뒤집어 쓸 수도 있었을 것입니다. 소는 숨을 내쉬면서 점차 그 숨이 다하면서 죽어갑니다. 그게 바로 자기라는 것이죠. “이렇게 숨이 가빠져 죽어야 할 죄인이 주님 앞에 나왔습니다. 주여, 이 피를 보시고 부디 저의 죄를 용서해 주십시오”라고 비는 마음으로 숫소를 잡는 것입니다. 그런데 여기서 중요한 사실을 볼 수 있는데 이렇게 회막 앞에서 제사를 지낼 때 도대체 누가 예물에 안수를 하는 걸까요? 도대체 누가 번제물인 소를 잡는 걸까요? 누가 그 번제물의 가죽을 벗기고 각을 뜰까요? 제사장이 하는 걸까요? 아니면 예물을 가지고 온 제사자가 하는 것일까요? 우리는 이 점에 대해 대개 제사장이 하는 것으로 알고 있지만 레위기에는 그렇지 않다고 적혀 있습니다. 물론 제사장이 제사자를 위해 해주는 의식 부분도 있지만 안수를 하는 것, 소를 잡고 가죽을 벗기고 각을 뜨는 것은 모두 제사자 스스로가 한다고 적혀 있습니다. 이스라엘 백성 중 누구든지 주님께 예물을 드리려는 제사자가 직접 행하는 것입니다. 이것은 힘든 작업인 동시에 잔혹한 작업이었다고 할 수 있습니다. 이런 것들에서 드러나는 것은 제사를 드리는 주체가 누구인가 하는 것입니다. 그것은 제사장이나 대제사장이 아닌 예물을 드리려는 그 자신이 제사를 지내는 주체자라는 것입니다. 제사를 드리는 자신이 안수하고 제사를 드리는 자신이 소를 잡고 제사를 드리는 자신이 가죽을 벗기고 각을 뜨는 것입니다. 그렇다면 제사장들은 도대체 무엇을 하는 것일까요? 5절을 보면 아론의 자손 제사장들은 그 피를 가져다가 회막 문 앞 제단 사방에 뿌릴 것이며라고 적혀 있습니다. 또 이어서 1장 7~9절을 보시면 다음과 같이 적혀 있습니다.

7 제사장 아론의 자손들은 제단 위에 불을 붙이고 불 위에 나무를 벌여 놓고

8 아론의 자손 제사장들은 그 뜬 각과 머리와 기름을 제단 위의 불 위에 있는 나무에 벌여 놓을 것이며

9 그 내장과 정강이를 물로 씻을 것이요 제사장은 그 전부를 제단 위에서 불살라 번제를 드릴지니 이는 화제라 여호와께 향기로운 냄새니라

즉 제사장들은 피를 제단에 붓고 거기에 불을 붙여 연기로 만들고 그 향기로 하나님의 불타는 진노를 가라앉게 하는 것에 도움을 줄 뿐입니다. 제사에 있어서 정말 힘든 작업은 예물을 드리는 자신이 하는 것입니다. 이 일을 오늘 우리가 드리는 예배에 적용해 보면 어떻게 될까요? 여러분이 일요일마다 예배를 드리러 오실 때 하나님을 뵙기 위해 오는 건데 이 예배는 도대체 누가 드리는 것일까요? 우리 자신이 드리는 것입니다. 어쩌면 설교만 제대로 들으면 예배를 드렸다고 착각하는 사람도 있을지도 모릅니다. 찬양을 잘 부를 수 있다면, 아니면 예배 참석자를 환영해서 제대로 안내할 수 있다면 예배를 드렸다고 착각하는 사람도 있을 수 있습니다. 그러나 그것들은 기껏해야 제사장이 피를 제단에 붓고 제단에 불사르는 봉사일 뿐입니다. 정말 예배를 드린다는 것은 예물을 드리는 자 자신이 자신의 가축 중에서 흠 없는 소중한 수컷을 끌고 와서 그것에 스스로 안수하고 스스로 잡고 스스로 각을 뜨는 것입니다. 제사의 주체가 바로 자기라는 것이죠. 예배를 드린다는 것은 단지 청중의 입장에서 객관적으로 예배에 참여하는 것이 아니라 자신이 주체적이 되어 예배를 드릴 수 있는 것입니다. 내가 하나님 앞에 서 있는 그 일을 착각해서는 안 된다는 것입니다. 산제물이신 그리스도께서 주시는 구원의 은혜를 받고자 하는 자는 누구라도 스스로 이 그리스도와 함께 하나님 앞에 서지 않으면 안됩니다. 그렇게 하는 것에 의해 비로소 백성들은 그리스도의 산제물로 성취된 유익을, 그리스도의 은혜의 선물로 받을 수 있는 것입니다. 이것만은 타인이 대신해서 해 줄 수 없습니다. 자기 스스로가 해야 하는 것입니다. 자기 자신 스스로가 주체로서 예배를 드리고 자기 스스로가 그리스도와 함께 하나님 앞에 나가야만 하는 것입니다.

(2) 완전한 예물

이처럼 불사르는 번제를 비롯한 피를 흘리는 제사에는 반드시 어떤 속죄의 의미가 담겨 있습니다. 그러나 그 속죄가 만능이었냐하면 사실 그렇지 않았습니다. 속죄물이 결코 백성의 모든 죄를 속죄하는 것이 아니라 단지 특정한 고의가 아닌 몇 가지 죄만을 속죄할 수 있었던 것에 불과했다는 점을 우리는 간과해서는 안됩니다. 즉 어떤 중범죄를 저질렀을 경우에는 특별히 모세의 중보 기도가 필요했으며 혹은 긴급사태로서 그 때 특별한 하나님께서 지시하신 방법으로 예외적인 제사가 거행된 것입니다(민수기 16장 46~50절, 사무엘하 24장 25절, 역대하 29장 8~11절).

만일 일부러 지은 죄가 있다면 그 죄에 대해서는 속죄가 적용되지 않고 백성 속에서 끊기는 형벌 외에는 있을 수 없었습니다. 민수기 15장 30절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다. 민수기 15장 30절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다.

본토인이든지 타국인이든지 고의로 무엇을 범하면 누구나 여호와를 비방하는 자니 그의 백성 중에서 끊어질 것이라

따라서 번제에 의해 무조건 어떤 죄도 용서받는 것이 아니라 실제로 속죄가 성립된 것은 극히 제한된 죄에 한정되어 있었다는 것입니다. 하루 하루 희생의 제사를 통해서도 속죄할 수 없는 수많은 죄들이 여전히 이스라엘 백성들 속에 잠재되어 있었습니다. 율법에 규정된 몇몇 제사들이 인생 전체의 죄와 비참함을 감싸지는 못했습니다. 제사는 불완전하고 끊임없이 반복되었습니다. 여러분 중에 혹시 강아지나 고양이 등 애완동물을 기르고 계신 분이 계신가요? 비유는 별로 좋지 않을 수 있지만 하나님 앞에 나가기 위해 자신의 귀여운 애완동물을 하나님께 바치는 제물로 드린다는 것을 상상해 보세요. 귀여운 애완동물이 죄인인 자신의 분신으로 바쳐지는 것입니다. 그리고 스스로 그 애완동물을 잡고 가죽을 벗기고 각을 뜨는 것입니다. 얼마나 잔혹한 일인가요? 그때의 슬픔은 도대체 얼마나 크겠습니까? 희생을 통해 죄가 속죄된 것의 감사라기보다 오히려 자기 자신의 죄의 무게, 자기 자신의 비참함을 새삼스럽게 생각해보지 않을 수가 없을 것입니다. 마찬가지로 이스라엘 백성들도 반복되는 제사를 통해 자신들의 죄의 크기를 죄의 비참함을 상기시켰습니다. 반복되는 제사는 다른 더 나은 제사를 가리키는 모형에 불과했습니다. 따라서 구약의 선지자들은 아론 계통에서가 아니라 왕적 제사장인 멜기세덱 계통에서 세워지는 다른 대제사장이 나타나 그가 완전한 제사를 올릴 수 있을 것이라고 예언한 것입니다(시편 110편, 예레미야 30장 21절 스가라 6장 13절).

그 예언의 성취로 하나님의 아들 그리스도는 이 세상에 오셔서 완전하고 영원한 번제물이 되어 주셨습니다. 스스로 십자가의 죽음에 자신을 내주신 것입니다. 무고한 분이 우리 한 사람 한 사람을 위해 죽어주신 것입니다. 죄인인 우리가 하나님께 나갈 길을 열어 주시기 위해 주님 자신이 자진해서 산 제물이 되어 주셨습니다. 주 예수님의 흘린 보혈에 의해 주 예수님의 모든 순종으로 하나님의 분노는 누그러졌습니다. 우리의 죄가 덮어 가리워졌습니다. 하나님의 아들이 자신의 몸을 통해 완전한 제사를 올려주신 것을 진심으로 감사드리며, 그 보혈에 의지하여 우리는 무너진 심령을 가지고 주님 앞에 나서고자 합니다.

결론

하나님은 왜 우리의 죄를 예수님께 안수하셨을까요? 왜 예수님은 우리의 죄를 지셨고 골고다 언덕 위에서 십자가형이라는 극악무도한 처참한 죽음을 겪어야 했을까요? 그것은 하나님께서 우리를 사랑하시고 우리의 어떤 죄도 완전히 속죄할 수 있는 유일하고 영원한 제물을 주시기 위함이었습니다. 불사르는 번제를 바칠 때 백성들은 손수 길러온 가축들 중에서 흠 없는 값비싼 예물을 바쳤습니다. 그는 스스로 그 산 제물에 안수하고 그 산 제물에 자신의 죄를 전가하고 잡고 가죽을 벗기고 각을 뜨고 그리고 무너진 심령을 가지고 자신의 죄심과 비참함을 마음에 새기며 주님 앞에 나아갔습니다. 우리도 마찬가지로 십자가의 주님과 함께 하나님 앞에 나아갑시다. 주 예수님의 보혈로 말미암아 우리의 죄가 정결케 되고 주 예수님의 순종으로 말미암아 하나님의 진노가 가라앉고 우리는 하나님의 백성으로 받아들여지는 것입니다. 주 예수님의 말미암아 하나님께 다가가 하나님과 풍요롭게 교제할 수 있는 자녀로 받아들여지는 것입니다.

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