2022年01月02日「聞け、イスラエルよ 이스라엘아, 들으라!」

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聞け、イスラエルよ 이스라엘아, 들으라!

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 6章1節~9節

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6:1これは、あなたがたの神、主があなたがたに教えられた戒め、掟と法であって、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地で行うべきものである。
6:2あなたも、子も孫も、生きているかぎり、あなたの神、主を畏れ、私が命じるすべての掟と戒めを守って、長く生きるためである。
6:3イスラエルよ、あなたは聞いて、守り行いなさい。そうすれば幸せになり、あなたの先祖の神、主が告げられたとおり、乳と蜜の流れる地であなたがたは大いに増える。
6:4聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。
6:5心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。
6:6今日私が命じるこれらの言葉を心に留めなさい。
6:7そして、あなたの子どもたちに繰り返し告げなさい。家に座っているときも、道を歩いているときも、寝ているときも、起きているときも唱えなさい。
6:8その言葉をしるしとして手に結び、記章として額に付け、
6:9また家の入り口の柱と町の門に書き記しなさい。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 6章1節~9節

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【序】

 申命記5章からモーセの第二の説教が始まり、そして、その第二の説教の冒頭で、十戒が語られました。本日の6章では、特に十戒の第一戒に焦点が当てられており、イスラエルの民が果たすべき義務が書かれています。義務と言った時に、それでは、その義務というのは、イスラエルの民にとって何を意味しているのかが問題となってきます。つまり、神様との人格的な関係である「恵みの契約」に入れられるための条件としての義務なのか、或いは、「恵みの契約」に入れられた者が感謝の応答として守っていくべき善き業なのかという事です。

まず、私たちが抑えたいポイントとして、神様から与えられた十戒、つまり、「十の言葉」とは、4:13に書かれているように、神様からの契約であったということです。その様式は、当時あった宗主国と属国との間に結ばれた契約によく似ております。いずれにせよ「十の言葉」という契約を、神様がイスラエルの民に与えてくださいました。この契約は、モーセを通して与えられたのですが、それは永遠の仲保者であるイエス・キリストを通して与えられたことを意味しています。そして、この契約は、実は、神様からの一方的な恵みの契約であったということが、イスラエルの歴史を通して明らかにされていきました。というのは、思い起こしていただきたいのですが、イスラエルの民は、神と契約を結んだ直後に金の子牛を作ってしまったということです。出エジプト記20章において、民は、直接十戒を神様から聞いています。民は皆、雷鳴の音と、稲妻の光りと、角笛の鳴り響く音と、立ち込める煙に恐れおののき、直接ではなく、モーセを通して神の言葉を語って欲しいとお願いしました。その後、モーセは雄牛の生贄を神に捧げ、血を祭壇とイスラエルの民の代表に振りかけて契約を締結します。出エジプト記24章6~11には、その時の様子が描写されています。

“モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。”

この箇所は、シナイ山契約と呼ばれる箇所であり、出エジプト記の20~24章までのクライマックスを成しています。その後、再びモーセがシナイ山に登り、十戒の書かれた二枚の石板を持って山のふもとに戻って来ました。ここで事件が起こります。何と、民は早速、金の子牛を作り偶像礼拝を行っていたのです。怒ったモーセは、折角、神様から頂いて手に抱えていた十戒の石板を投げ捨てて、砕いてしまいました(32:19)。従って契約の箱に安置されている十戒の石板は、二回目に作成された石板という事になります。兎に角、イスラエルは契約を結んだその瞬間に罪を犯したのです。イスラエルが神との契約を破棄したのは、何もこの時だけではありませんでした。歴史を通して、数え挙げようとするなら、きりがないでしょう。アブラハムでさえ、神の約束を待つことができず、サラ以外の女性から子を設けました。ダビデでさえ、神をないがしろにし、姦淫と殺人の罪を犯したと言うことができるでしょう。イスラエルが繰り返し、更新された神の契約を受け入れたと言っても、その後、民は、律法の道に歩むことはなく、その都度、更新された契約を汚し、破ってしまったのです。そしてイスラエルの背教が進むにつれて、ますます明らかにされていったことは何かと言えば、神とイスラエルとの契約は、神と人間の両者の契約履行における誠実さの上に、公平に置かれているのではなく、専ら神の憐みの上に置かれていたということです。この契約はイスラエルがどんなに背教しても決して揺れることなく、神は、この契約をご自身の名の故に、ご自身の誓いの故に、破棄することができず、破棄してもならなかったのであります。ですから、この恵みの契約の中で、イスラエルの民に与えられた義務とは、契約の中に入れてもらう条件としての義務ではないということが分かります。むしろ、契約の中に受け入れられた者たちが、これから先、どのように歩むべきかに関しての、善き業の指針であると言えるでしょう。大学の受験で譬えるなら、入学するのが滅茶苦茶難しく、卒業するのはそれほど難しくない日本型と、一方で、入学するのはそれほど難しくないが、卒業するのが滅茶苦茶難しいアメリカ型があると思います。神様とイスラエルの関係は、日本型ではなく、アメリカ型だという事です。いや、卒業が難しいというより、一生、死ぬまで卒業することが出来ないと考えた方が良いかもしれません。つまり、契約の中に入れてもらえるのは、神の一方的な選びによるのですが、信仰生活を通して生涯、善き業に励み、生涯、神様と共に歩むようにさせられるのです。その中で、罪を犯せば、契約の民であろうと、裁きを刈り取ることになりますし、親が子に鞭を打つように訓練させられるのです。これが恵みの契約であり、イスラエルが歩むべき道でありました。イスラエルは歴史を通して様々な苦難や困難に遭いますが、見捨てられることなく、契約の恵みの中に入れられていたのです。このような観点から本日の6章を読んでまいりたいと思います。

【1】. 民に与えられた約束

 6:2節、3節には、主が与えた戒めと掟と法を守って生きるなら、どのような祝福が臨むのかが書かれています。2節において「長く生きる」という約束が与えられ、3節において「幸いを得、乳と蜜の流れる土地で大いに増える」という約束が与えられています。長く生きるという約束は、新約聖書には出てまいりません。むしろイエス・キリストの使徒たちは、使徒ヨハネを除き、若い日に殉教しています。これはどういうことでしょうか。旧約聖書の約束は、おぼろげな約束であり、新約聖書において、それらのおぼろげな約束がより鮮明化されました。従って、長く生きるという約束は、新約聖書における、「永遠の命が与えられる」という約束に代えられたと理解するのが良いと思われます。乳と蜜の流れる土地で大いに増えるとは、約束の地カナンを譲り受け、栄光に入れられるという事です。カナンの地は大変肥えた土地で、確かに乾燥してはいますが、一度雨が降ると、豊かな実りをもたらします。また、遊牧にも適した地であり、乳がふんだんに取れました。蜜とはナツメヤシの蜜を指していると、ある人は言います。そのような実り豊かなカナンの地を、約束として譲り受けるのです。これは、私たちがやがて天の嗣業を譲り受けて栄光に入れられることに比べることが出来るのではないでしょうか。契約の中に入れられているという事は、このような恵みを、このような祝福を約束されているのです。だからこそ、イスラエルの民は信仰による応答をしていかなければなりません。続いて6:4~6節をご覧ください。

【2】. 我らの神、主は唯一の主である。

 “聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、”

シェマ―で始まるこの聖句は、大変有名な箇所として知られています。6節で、「今日私が命じるこれらの言葉を心に留め」…とありますが、「これらの言葉」というのがヘブライ語でダバルの複数形の「ハ ディバリーム」となっています。「ディバリーム」どこかで聞いたことがあるでしょうか。そうです。「ディバリーム」とは申命記のヘブライ語のタイトルです。「これらの言葉」という意味です。英語ではDeuteronomyで、「重ねて語られた律法」という意味ですが、ヘブライ語では「これらの言葉」という意味でありました。これらの言葉を心に留めるために、ユダヤ人は現在でもこれを文字通り実行して、腕や額に御言葉の入った黒い小箱を結わえています。また、玄関脇には、御言葉の紙を入れた小さな筒が設置されています。それではこの額の小箱に、どのような御言葉が書かれていたのかと言いますと、4節の「我らの神、主は唯一の主である。」が書かれていたそうです。この4節の言葉には実は動詞がございません。ヘブライ語でたった4文字の名詞で書かれています。4文字とは「ヤハウェ エロヘヌー ヤハウェ エハード」です。エロヘヌーという言葉は、エロヒームの語尾が変化したもので、「私たちの神」という意味です。エハードとは「ただ一人」という意味です。ヤハウェ エロヘヌー(私たちの神ヤハウェ)、ヤハウェ エハード(ただ一人のヤハウェ)という意味です。この言葉はモーセの時代、あり得ない信仰告白でした。なぜなら神は多ければ多いほど、社会は豊かに繁栄するという考え方が一般的だったからです。当時、カナンにおいて、まず、嵐の神バアルがいました。そして、バアルの妻であり、子孫繁栄と豊穣をもたらすアシュトレトがいました。そして、それだけでは飽き足らず、バアルの父であり最高神であるエルや、その妻アシェラまで人間によって作り出されました。唯一神信仰など考えられなかったのです。このような多神論は政治的、社会的生活と深く結びつき、強大な勢力を持つようになります。そのような文化の中において、イスラエルの民は自分たちがエジプトの奴隷生活から解放されたことを強く確信し、全ての神々にまさる唯一の神、主を、彼らの生活を通して告白していくようにと命じられているのです。逆に言えば、今後イスラエルが入植することになるカナンが、どれほど魅力的な農耕文化と大きな誘惑があったのかということを思わされます。これから先、大変祝福された乳と蜜の流れる約束の地カナンへ入植することが許されますが、それは同時に異教世界における信仰の戦いに入れられるということでもありました。わたしたちキリスト者も、多神教が根付いている日本という文脈の中に置かれています。このような中で、救いはただ、主イエスのみ、助けはただ、主イエスのみという信仰告白をしなければなりません。そのことを、生活を通して表していかなければなりません。それが恵みの応答なのです。

【3】. 主を愛せよ

 5節の「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」とあります。この言葉は、申命記の中に繰り返し出てきます。「愛しなさい」という命令は、当時、宗主国が属国に対して使った言葉でありました。愛とは単純に感情を意味するものではなく、愛するという言葉の中に具体的な行動が伴うということを意味します。「属国が宗主国を愛せよ」と言った場合、その愛とは忠誠心や誠実さを意味するのです。同様に「主を愛せよ」とは、恵みに対する忠実さ、恵みに対する応答が要求されている訳です。主なる神がイスラエルをエジプトの奴隷生活から解放してくださったので、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、主を愛し、主に仕えて行きなさいという意味です。現代に適用するなら、神が御子を遣わしてくださり、主イエスの十字架の死と復活によって、私たちの罪を赦し、永遠の命を与えて下さいました。この主イエス・キリストを、全身全霊を持って愛し、仕えていくのです。もし、イスラエルの民がカナンの文化に魅了され、彼らの拝む異教の神々を共に拝むなら、神様はどのように思われるでしょうか。これほどまでにイスラエルを愛し、これほどまでにすべてを投入してきたのに、裏切られたという思いで悲しまれることでしょう。イスラエルの偶像礼拝とは、まさに夫婦間における姦淫の罪に相当します。神様は妬む神であられ、イスラエルの偶像崇拝に対し怒りを燃やされるお方なのです。アッシリア捕囚やバビロン捕囚というのも、イスラエルの姦淫の罪の結果でありました。偶像崇拝に対する刈り取りであり、裁きであったということです。しかし、捕囚の地に連行されて、それで終わりではありませんでした。主が捕囚の地で悔い改めた民と共にいてくださったのです。そして約70年後に再びエルサレムへの帰還が許されました。現代に生きる私たちも、イエス・キリストの救い以外に、私たちを救ってくれるものはないことをはっきり告白しなければなりません。イエス・キリストの助け以外に、私たちを助けてくれるものはないことをはっきりと告白しなければなりません。相対的な価値観が蔓延している現代において、「普段はイエス様を信じるけれど、盆暮れ、正月くらいは、固いこと言わないで日本人らしく、神社参拝し、おみくじを引いて、線香をあげて、先祖供養をやらせてくださいよ」などと言わないようにいたしましょう。神様は妬む神であられます。神様の契約の慈しみに応答するために、私たちは「ヤハウェ エロヘヌー ヤハウェ エハード」「私たちの神主は、唯一の主である」という信仰告白を宣言し、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、全存在をかけて主イエスを愛して行くべきです。

【結論】

荒れ野において、主なる神と豊かに交わり、霊的訓練を受けたイスラエルの民は、いよいよ、約束の地、カナンに入植していきます。信仰によってカナンを征服し、物質的にも豊かにされ、神政国家が樹立され、全地に神の栄光を現すためであります。新約の時代において、神の臨在される場所は、教会へと移されました。教会こそ、エデンの園であり、教会こそ神の栄光を現すところであります。人類の希望は、神が共におられる教会にかかっています。主イエスの十字架と復活によって救われた私たち教会は、イスラエルの民と同じように、日々「私たちの神主は、唯一の主である」と告白し、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、主イエスを愛し、そして聖霊によって律法を心に刻んでいただき、善き業に励む者とさせていただきましょう。そのことが、私たち教会が救われた証しであり、この世に対する宣教であるからです。もし、私たちが弱さの故に罪を犯してしまったとしても、すぐに悔い改めて神様に立ち帰らなければなりません。神は悔い改めた人々を受け入れてくださり、いつまでも教会と共にいて下さり、教会を豊かに祝福してくださるからです。

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이스라엘아, 들으라!

2022년 1월 2일 센겐다이 교회 주일설교

신명기 6장 1-9절

서론

신명기 5장부터 모세의 두 번째 설교가 시작되었고, 그리고 그 두 번째 설교의 첫 머리에서 십계명이 이야기 되었습니다. 오늘의 6장에서는 특히 십계명의 제 1계명에 초점을 맞추고 있으며 이스라엘 백성들이 다해야 할 의무가 적혀 있습니다. 의무라고 했을 때, 그러면 그 의무라는 것은 이스라엘 백성들에게 무엇을 의미하는지가 문제가 됩니다. 즉 하나님과의 인격적 관계인 「은혜의 언약」에 들어가기 위한 조건으로서의 의무인가, 아니면 「은혜의 언약」에 들어간 자로서 감사에 대한 응답으로 지켜나가야 할 자발적인 선한 행실인가 하는 것입니다.

먼저 우리가 놓치고 싶지 않은 포인트로 하나님께서 주신 「십계명」은 4장 13절에도 쓰여 있듯이, 하나님으로부터의 언약이었다는 것입니다. 그 양식은 당시 있었던 종주국과 속국 사이에 맺은 계약과 많이 비슷합니다. 어쨌든 십계명이라는 언약을 하나님이 이스라엘 백성들에게 주셨습니다. 그 언약은 모세를 통해서 주어졌는데 그것은 영원한 중보자이신 예수 그리스도를 통해 주어진 것을 의미합니다. 그리고 이 언약은 사실 하나님의 일방적인 은혜의 언약 이었다는 것이 이스라엘의 역사를 통해서 명확하게 밝혀졌습니다. 그럼에도 불구하고 이스라엘 백성들은 하나님과 계약을 맺은 직후에 금송아지를 만들어 버렸다는 것을 상기해 주셨으면 좋겠습니다. 출애굽기 20장에서 백성들은 직접 십계명을 하나님께 듣고 있었습니다. 백성들은 모두 천둥소리와 번개소리, 뿔피리가 울리는 소리와 자욱한 연기를 보고 두려워하며 직접이 아니라 모세를 통해 하나님의 말씀을 전해 달라고 부탁했습니다. 그 후 모세는 소의 제물을 하나님께 바치고 피를 제단과 이스라엘 백성의 대표에게 뿌리고 언약을 체결합니다. 출애굽기 24장 6~11절에는 그 때의 모습이 묘사되어 있습니다.

6 모세가 피를 가지고 반은 여러 양푼에 담고 반은 제단에 뿌리고

7 언약서를 가져다가 백성에게 낭독하여 듣게 하니 그들이 이르되 여호와의 모든 말씀을 우리가 준행하리이다

8 모세가 그 피를 가지고 백성에게 뿌리며 이르되 이는 여호와께서 이 모든 말씀에 대하여 너희와 세우신 언약의 피니라

9 모세와 아론과 나답과 아비후와 이스라엘 장로 칠십 인이 올라가서

10 이스라엘의 하나님을 보니 그의 발아래에는 청옥을 편 듯하고 하늘 같이 청명하더라

11 하나님이 이스라엘 자손들의 존귀한 자들에게 손을 대지 아니하셨고 그들은 하나님을 뵙고 먹고 마셨더라

이 부분은 시내산 언약이라고 일컬어지는 부분으로 출애굽기의 20~24장까지의 클라이막스를 이루고 있습니다. 그 후 다시 모세가 시내산에 올라 십계명이 적힌 돌판 두 장을 들고 산기슭으로 돌아왔습니다. 여기서 사건이 일어납니다. 세상에, 백성들은 빠르게도 금송아지를 만들어서 우상예배를 하고 있었던 것입니다. 화가 난 모세는 모처럼 하나님으로 부터 받고 손으로 감싸고 있던 십계명의 돌판을 내던지고 부수고 말았습니다. (32장 19절) 따라서 언약궤에 안치되어 있는 십계명의 돌판은 두 번쩨로 작성된 돌판인 셈입니다. 어쨌든 이스라엘은 언약을 맺은 그 바로 후에 죄를 지은 것입니다. 이스라엘이 하나님과의 언약을 파기한 것은 안타깝게도 이때뿐만이 아니었습니다. 역사를 통틀어 열거하자면 끝이 없을 것입니다. 아브라함조차 하나님의 약속을 기다릴 수 없어 사라 이외의 여성에게서 자녀를 두었습니다. 다윗조차 하나님을 등지고 간음과 살인죄를 저질렀다고 말할 수 있을 것입니다. 이스라엘이 다시 갱신된 하나님의 언약을 받아들였다고 해도 그후 백성들은 율법의 길을 걷지 않았고 그때마다 갱신된 언약을 더럽히고 어기고 말았습니다. 그리고 이스라엘의 배교가 진행됨에 따라 점점 더 밝혀진것은 무엇인가 하면 하나님과 이스라엘과의 언약은 하나님과 인간 양자의 언약 이행에 있어서 성실함 위에 공평하게 놓여 있는 것이 아니라 오로지 하나님의 긍휼하심 위에 놓여 있었다는 것입니다. 이 언약은 이스라엘이 아무리 배교해도 결코 흔들리지 않을 것이며, 하나님은 자신의 이름으로 이 언약을 맺으셨기에 파기할 수도 없었고 파기해서도 안 되었던 것이었습니다. 그렇기 때문에 이 은혜의 언약 속에서 이스라엘 백성에게 주어진 의무란 언약에 들어가는 조건으로서의 의무가 아니라는 것을 알 수 있습니다. 오히려 언약 안에 들어간 자들이 앞으로 어떻게 살아야 하는지에 관한 선한 행실의 지침이라고 할 수 있을 것입니다. 대학 입시에서 비유하자면 입학하는 것은 엄청 어렵지만 졸업하는 것은 그다지 어렵지 않은 일본의 케이스와 한편으로 입학하는 것은 그다지 어렵지 않지만 졸업하기가 어려운 미국의 케이스가 있다고 생각합니다. 하나님과 이스라엘의 관계는 일본 대학의 케이스가 아닌 미국 대학의 케이스라는 것입니다. 아니, 졸업이 어렵다기 보다는 평생 죽을 때까지 졸업할 수 없다고 생각하는 것이 좋을지도 모릅니다. 즉, 언약속에 들어가는 것은 하나님의 일방적인 선택에 달려 있는데 신앙생활을 통해 평생 선한 일에 힘쓰고 평생 하나님과 함께 걷는 것입니다. 그 안에서 죄를 지으면 언약 백성이라도 심판을 받게 되고 부모가 자식에게 회초리로 치듯이 훈련을 받는 것입니다. 이것이 은혜의 언약이자 이스라엘이 걸아야 할 길이었습니다. 이스라엘은 역사를 통틀어 여러 고난과 어려움을 겪었지만 버림받지 않고 언약의 은혜 가운데 들어가 있었습니다. 이런 관점에서 오늘의 6장을 읽어보도록 하겠습니다.

(1) 백성에게 주어진 약속

6장 2,3절에는 주께서 주신 계명과 규례와 법도를 지키며 산다면 어떤 축복이 임하는지가 적혀 있습니다. 2절에 「네 날을 장구하게 하기 위한 것」이라는 약속이 주어졌고, 3절에 「복을 받고 네 조상들의 하나님 여호와께서 네게 허락하심 같이 젖과 꿀이 흐르는 땅에서 네가 크게 번성하리라」는 약속이 주어져 있습니다. 오래 산다는 약속은 신약성경에는 나오지 않습니다. 오히려 예수 그리스도의 사도들은 사도 요한을 제외하고 젊은 날 순교했습니다. 이게 무슨 일일까요? 구약성경의 약속은 희미한 약속이었고 신약성경에서 그 희미한 약속들이 더욱 선명해졌습니다. 따라서 오래 산다는 약속은 신약성경에서 「영원한 생명이 주어진다」는 약속으로 대체되었다고 이해하는 것이 좋을 것 같습니다. 젖과 꿀이 흐르는 땅에서 크게 번성한다는 것은 약속의 땅 가나안을 상속받아 영광에 들어간다는 것입니다. 가나안 땅은 매우 기름진 땅으로 확실히 건조하기 하지만 한 번 비가 오면 풍성한 결실을 가져옵니다. 또한 유목하기에도 좋은 땅으로 목축들로 부터 젖을 듬뿍 얻을 수가 있었습니다. 꿀이란 대추야자의 꿀을 가리킨다고 어떤 사람들은 말합니다. 그런 풍족한 결실이 있는 가나안 땅을 약속으로 물려 받는 것입니다. 이는 우리가 곧 하늘의 유업을 물려 받아 영광으로 삼을 수 있는 것에 비할 수 있지 않을까요? 계약 안에 들어가 있다는 것은 이런 은혜를 이런 축복을 약속하시는 것입니다. 그렇기 때문에 이스라엘 백성들은 믿음으로 응답을 하지 않으면 안됩니다. 이어서 6장 4~6절을 보시죠.

(2) 우리 하나님 여호와는 오직 유일한 여호와

4 이스라엘아 들으라 우리 하나님 여호와는 오직 유일한 여호와이시니

5 너는 마음을 다하고 뜻을 다하고 힘을 다하여 네 하나님 여호와를 사랑하라

6 오늘 내가 네게 명하는 이 말씀을 너는 마음에 새기고

쉐마로 시작하는 이 성구는 매우 유명한 구절로 알려져 있습니다. 6절에서 「오늘 내가 명하는 이 말씀을 너는 마음에 새기고」라고 되어 있는데 이 「이 말씀」이라고 하는 것이 히브리어 다바르의 복수형인 「하데바림」이라고 되어 있습니다. 「데바림」어디서 들어봤을까요? 그렇습니다. 「데바림」은 신명기의 히브리어 제목입니다. 「이 말씀」이라는 의미입니다. 영어로는 Deuteronomy로 「거듭해서 말한 율법」이라는 뜻이지만 히브리어에서는 「이 말씀」이라는 뜻입니다. 이 말씀들을 명심하기 위해 유대인들은 현재도 이것을 문자 그대로 실행하여 팔이나 이마에 말씀이 담긴 검은 작은 상자를 묶고 있습니다. 또한 현관 옆에는 말씀을 넣은 작은 통이 설치되어 있습니다. 그러면 이 액자의 작은 상자에 어떤 말씀이 적혀 있냐하면 4절의 「우리 하나님 여호와는 오직 유일한 여호와이시니」가 적혀 있다고 합니다. 이 4절 말씀에는 사실 동사가 없습니다. 히브리어로 단 네 글자의 명사로 쓰여져 있습니다. 네 글자는 「야훼 엘로 헤이누 야훼 에하드」입니다. 엘로 헤이누라고 하는 단어는 엘로힘의 어미가 변화한 것으로「우리들의 하나님」이라고 하는 뜻입니다. 에하드는 「한 분이신」 이라는 의미입니다. 야훼 엘로 헤이누 (우리들의 하나님 여호와), 야훼 에하드 (한 분이신 여호와)라는 의미입니다. 이 말은 모세 시절에 있을 수 없는 신앙고백이었습니다. 왜냐하면 신은 많을수록 사회는 풍요롭게 번영한다는 생각이 일반적이었기 때문입니다. 당시 가나안에 먼저 폭풍의 신 바알이 있었습니다. 그리고 바알의 아내이자 자손번영과 풍요를 가져오는 아쉬타롯이 있었습니다. 그리고 그것뿐만으로도 질리지 않고 바알의 아버지이자 최고의 신인 엘과 그 아내 아세라까지 인간에 의해 만들어졌습니다. 이러한 다신론은 정치적, 사회적 생활과 깊이 연결되어 막강한 세력을 갖게 됩니다. 그런 문화 속에서 이스라엘 백성들은 자신들이 애굽의 노예생활에서 해방되었음을 강력하게 확신하며 인간이 만든 모든 거짓 신들보다 더 위대한 참되시고 유일한 신인 주님을 그들의 생활을 통해 고백해 나가라는 명령을 받고 있습니다. 반대로 말한다면 앞으로 이스라엘이 정착하게 될 가나안이 얼마나 매력적인 농경문화와 큰 유혹이 있는 곳이었는지를 생각하게 됩니다. 앞으로 매우 축복받은 젖과 꿀이 흐르는 약속의 땅 가나안에 정착하는 것이 허용되지만 그것은 동시에 이교 세계에서의 믿음의 싸움에 들어갈 수 있다는 것이기도 했습니다. 우리 그리스도인도 다신교가 뿌리 내리고 있는 일본이라는 맥락 속에 놓여 있습니다. 이런 가운데 구원은 오직 주 예수님만, 도움은 오직 주 예수님뿐이라는 신앙고백을 해야 합니다. 그것을 생활을 통해 나타내야 합니다. 그것이 은혜에 대한 응답인 것입니다.

(3) 네 하나님 여호와를 사랑하라

5절에는 「너는 마음을 다하고 뜻을 다하고 힘을 다하여 네 하나님 여호와를 사랑하라」는

말씀이 있습니다. 이 단어는 신명기 속에서 반복해서 나옵니다. 「사랑하라」라고 하는 명령은 당시 종주국이 속국에 대해 사용했던 말이었습니다. 사랑이란 단순히 감정을 뜻하는 것이 아니라 사랑한다는 말 속에 구체적인 행동이 따른다는 것을 의미합니다. “속국이 종주국을 사랑하라”고 말할 때 그 사랑이란 중성심이나 성실함을 의미하는 것입니다. 마찬가지로 「여호와를 사랑하라」라는 것은 은혜에 대한 충실함, 은혜에 대한 응답이 요구되는 것입니다. 주 하나님께서 이스라엘을 애굽의 노예생활에서 해방시켜 주셨으니 마음을 다해 영혼을 다하고 힘써 주님을 사랑하고 주님을 섬기라는 뜻입니다. 현대에 적용한다면 하나님께서 독생자를 보내 주셔서 주 예수님의 십자가의 죽음과 부활로 우리들의 죄를 용서하시고 영원한 생명을 주셨습니다. 이 주 예수 그리스도를 온 마음과 뜻을 다해 사랑하고 섬기는 것입니다. 만약 이스라엘 백성들이 가나안 문화에 매료되어 그들이 절하는 이교의 신들을 향해 함께 절한다면 하나님은 어떻게 생각하실까요? 이토록 이스라엘을 사랑하고 이렇게 모든 것을 주셨는데 배신감에 슬퍼하실 것입니다. 이스라엘의 우상 숭배란 바로 부부간의 간음죄에 해당합니다. 하나님은 질투하시는 하나님이시며 이스라엘의 우상 숭배에 대해 분노를 불 태우시는 분입니다. 앗시리아 포로나 바벨론 포로라는 것도 이스라엘의 간음죄의 결과였습니다. 우상숭배에 대한 추수이자 심판이었다는 것입니다. 하지만 포로의 땅으로 끌려간 후에 그것으로 끝이 아니었습니다. 하나님께서 포로의 땅에서 회개한 백성들과 함께 해주신 것입니다. 그리고 약 70년 후에 다시 예루살렘으로의 귀환이 허용되었습니다. 현대에 사는 우리도 예수 그리스도의 구원 외에는 우리를 구원해 주는것이 없음을 분명히 고백해야 합니다. 예수 그리스도의 도움외에 우리를 도와주는 것은 없음을 분명히 고백해야 합니다. 상대적 가치관이 만연한 현대에서 “평소에는 예수님을 믿지만 오봉(한국의 추석에 해당)이나 설날 정도에는 딱딱한 소리 하지 말고 일본인답게 신사참배하고 부적정도는 뽑고 향불을 붙이고 조상 공양을 하게 해 주십시오”라고 말하지 않도록 합시다. 하나님은 질투하시는 분이십니다. 하나님의 언약의 인자하심에 응답하기 위해 우리는「야훼 엘로 헤이누 야훼 에하드」「우리 하나님 여호와는 오직 유일한 여호와이시니」라는 믿음의 고백을 선언하고, 마음을 다하고 뜻을 다하여 온 존재를 걸고 주 예수님을 사랑해 나가야 합니다.

결론

광야에서 주 하나님과 풍요한 교제를 나누고 영적훈련을 받은 이스라엘 백성은 드디어 약속의 땅 가나안에 정착해 갑니다. 믿음으로 가나안을 정복하고 물질적으로도 풍요로워지며 신정국가가 수립되어 온 땅에 하나님의 영광을 나타내기 위함입니다. 신약의 시대에 하나님이 임재하시는 장소는 교회로 옮겨졌습니다. 교회야말로 에덴동산이고 교회야말로 하나님의 영광을 나타내는 곳입니다. 인류의 희망은 하나님이 함께 계신 교회에 달려 있습니다. 주 예수님의 십자가와 부활로 구원받은 우리 교회는 이스라엘 백성들과 마찬가지로 날마다 「우리 하나님 여호와는 오직 유일한 여호와이시니」라고 고백하며 마음을 다하고 뜻을 다하여 힘써 주 예수님을 사랑하고 성령에 의해서 율법을 마음에 새김을 받아 선한 행실에 힘쓰는 자가 됩시다. 그것이 우리들 교회가 구원받은 증거이며 이 세상에 대한 선교이기 때문입니다. 만약 우리가 연약함으로 인해 죄를 짓고 말았다하더라도 곧 회개하고 하나님께 돌아가야 합니다. 하나님께서는 회개한 사람들을 받아주시고 언제까지나 교회와 함께 해주시고 교회에 풍성한 복을 주시기 때문입니다.

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