2021年12月26日「ダビデの父 エッサイの父 다윗의 아버지인 이새의 아버지」

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ダビデの父 エッサイの父 다윗의 아버지인 이새의 아버지

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ルツ記 4章1節~22節

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:1ボアズが町の門のところへ上って行って座ると、折よく、ボアズが話していた当の親戚の人が通り過ぎようとした。「引き返してここにお座りください」と言うと、その人は引き返してきて座った。
4:2ボアズは町の長老のうちから十人を選び、ここに座ってくださいと頼んだので、彼らも座った。
4:3ボアズはその親戚の人に言った。「モアブの野から帰って来たナオミが、わたしたちの一族エリメレクの所有する畑地を手放そうとしています。
4:4それでわたしの考えをお耳に入れたいと思ったのです。もしあなたに責任を果たすおつもりがあるのでしたら、この裁きの座にいる人々と民の長老たちの前で買い取ってください。もし責任を果たせないのでしたら、わたしにそう言ってください。それならわたしが考えます。責任を負っている人はあなたのほかになく、わたしはその次の者ですから。」「それではわたしがその責任を果たしましょう」と彼が言うと、
4:5ボアズは続けた。「あなたがナオミの手から畑地を買い取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き取らなければなりません。故人の名をその嗣業の土地に再興するためです。」
4:6すると親戚の人は言った。「そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます。それではわたしの嗣業を損なうことになります。親族としてわたしが果たすべき責任をあなたが果たしてくださいませんか。そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます。」
4:7かつてイスラエルでは、親族としての責任の履行や譲渡にあたって、一切の手続きを認証するためには、当事者が自分の履物を脱いで相手に渡すことになっていた。これが、イスラエルにおける認証の手続きであった。
4:8その親戚の人は、「どうぞあなたがその人をお引き取りください」とボアズに言って、履物を脱いだ。
4:9ボアズはそこで、長老とすべての民に言った。「あなたがたは、今日、わたしがエリメレクとキルヨンとマフロンの遺産をことごとくナオミの手から買い取ったことの証人になったのです。
4:10また、わたしはマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。故人の名をその嗣業の土地に再興するため、また故人の名が一族や郷里の門から絶えてしまわないためです。あなたがたは、今日、このことの証人になったのです。」
4:11門のところにいたすべての民と長老たちは言った。「そうです、わたしたちは証人です。あなたが家に迎え入れる婦人を、どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように。また、あなたがエフラタで富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。
4:12どうか、主がこの若い婦人によってあなたに子宝をお与えになり、タマルがユダのために産んだペレツの家のように、御家庭が恵まれるように。」
4:13ボアズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。
4:14女たちはナオミに言った。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。
4:15その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」
4:16ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。
4:17近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。
4:18ペレツの系図は次のとおりである。ペレツにはヘツロンが生まれた。
4:19ヘツロンにはラムが生まれ、ラムにはアミナダブが生まれた。
4:20アミナダブにはナフションが生まれ、ナフションにはサルマが生まれた。
4:21サルマにはボアズが生まれ、ボアズにはオベドが生まれた。
4:22オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルツ記 4章1節~22節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 歴史は偶発的な出来事の連続ではありません。歴史には目的があり、その目的とは歴史を支配しておられる方のみ旨の成就であります。本日はルツ記4章を通してどのように神のみ旨が成就されていったのかを見ていきたいと思います。

【1】. 買い戻しの手続き

 麦打ち場で夜を過ごしたボアズは、ルツを一旦ナオミのもとに帰し、自分は人々が行き来する町の門の所に行きました。親族の中で自分よりも優先する買い戻しの権利を持つ人がいましたので、その人を探すためでした。当時、町の門があるエリアは、商人たち、使者たち、訪問客たちが往来する場所であり、その一画はちょっとした広場になっていて長椅子が置かれており、裁判などもそこで行われていたようです。門のところに行ってみると、1節に書かれてある通り、ちょうど「折よく」その人が門を通り過ぎようとしていました。ボアズは「引き返してここにお座りください」と言い、また、町の長老たち10人を呼び寄せました。証人として立てるためです。そしてボアズは、その人に用件を告げます。「モアブから帰ってきたナオミが自分たちの親族であるエリメレクの畑地を売ろうとしています。」「そこでですが…」と話しを切り出しました。4~5節をご覧ください。

“それでわたしの考えをお耳に入れたいと思ったのです。もしあなたに責任を果たすおつもりがあるのでしたら、この裁きの座にいる人々と民の長老たちの前で買い取ってください。もし責任を果たせないのでしたら、わたしにそう言ってください。それならわたしが考えます。責任を負っている人はあなたのほかになく、わたしはその次の者ですから。」「それではわたしがその責任を果たしましょう」と彼が言うと、ボアズは続けた。「あなたがナオミの手から畑地を買い取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き取らなければなりません。故人の名をその嗣業の土地に再興するためです。」”

ここに書かれているように、その人は、最初、ボアズに対し、「わたしがその責任を果たしましょう!買い戻しましょう!」と返事をしました。恐らく彼は、ナオミと共に、若いやもめ、ルツも一緒に帰って来たことを知らなかったのでしょう。いずれナオミは死に、その土地はやがては自分の財産になるだろうと考えたと思われます。仮に、エリメレクの畑を買い戻しても、ナオミの生計だけに、責任を持てばいいのだから、良い話だと判断した訳です。彼の返事に対し、ボアズはエリメレクの土地の買い戻しと、ルツの買い戻しがセットであることを告げました。それは律法の教えによるものです。申命記25章5~6節には次のように書かれています。

“兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。”

この、ボアズより買い戻しの優先権があるその人が、若いやもめ、ルツを引き取って結婚しなければならないとなると、ナオミの他にルツの生計も見なければなりません。さらに、もし、ルツが子どもを産んだ場合、その子がエリメレクの土地を引き継ぐことになってしまい、結局、その土地は彼の財産にはなりません。そのことが分かるや否や、その人は尻込みしてしまいます。6節をご覧ください。

“すると親戚の人は言った。「そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます。それではわたしの嗣業を損なうことになります。親族としてわたしが果たすべき責任をあなたが果たしてくださいませんか。そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます。」”

6節を見ますと最初と最後に「そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます。」と、二度繰り返されています。最初は良い話だと思ったのですが、ルツと結婚するということは、自分の嗣業を損なうことになるということが分かり、「わたしにはできかねます」と強く否定したのです。ボアズとしては、そのような答えを当然予想していたのでしょう。買い戻しの役割には、大変な犠牲が伴うということです。よほど気前の良い人でなければ、よほど犠牲的な人でなければ、それを担うことはできません。ボアズは早速、その人から権利を譲り受ける手続きを進めました。それは、昔からの慣わしで、当事者が自分の履物を脱いで、相手に渡すという儀式です。買い戻しの責任を引き受けたボアズは、そこにいる長老たちとすべての民に言いました。9~10節です。「あなたがたは、今日、わたしがエリメレクとキルヨンとマフロンの遺産をことごとくナオミの手から買い取ったことの証人になったのです。また、わたしはマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。故人の名をその嗣業の土地に再興するため、また故人の名が一族や郷里の門から絶えてしまわないためです。あなたがたは、今日、このことの証人になったのです。」

こうして定められた手続きを経て、証人たちの前で、ボアズはエリメレクの土地とルツを、法的に買い戻すことが認められました。長老たちから祝福を受けて、晴れてボアズとルツは夫婦として結ばれたのです。因みに10節から、ルツがエリメレクの長男のマフロンの妻であったということが分かります。オルパは次男のキルヨンの妻でありました。

【2】. ナオミに臨んだ回復

 さて、13節を見ると、ボアズがルツのところに入って、主が身ごもらせたため、ルツは男の子を産んだ、と書かれています。ルツ記には直接的な神の介入がほとんど書かれていませんでしたが、この箇所は、唯一、神の介入として認められる記事です。神の憐みによって、ボアズとルツに子が授かりました。ところで、この子どもの誕生を最も喜んだのは誰だったでしょうか。それは、他でもなくナオミだったに違いありません。ルツを通してエリメレクの土地が買い戻され、子を授かり、その名を残すことが出来たからです。ナオミは、一度は、モアブの地に戻りなさいと強く別れを命じたモアブ人のルツを通して、全く思いがけないような結果へと導かれたのです。著者も、ボアズやルツの喜びではなく、ナオミの喜びに焦点を合わせています。そして、ナオミに授かった子供にオベド(つまり、仕える者)と名づけたのは、ナオミを取り囲んだ婦人たちであったと伝えていますが、これは、あたかも、絶望から神の救いが臨んだ、そのナオミの大きな喜びを、婦人たちが証言しているかのように見えます。14~16節をご覧ください。

“女たちはナオミに言った。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。”

思い返してみれば、ナオミが最初、ベツレヘムに帰って来た時にも、町中の婦人たちがナオミを囲みました。ナオミの、その変わり果てた姿に驚いた婦人たちは「これは、ナオミではありませんか」と言いました。今、物語を閉じようとしているこの場面においても、やはり、ナオミは町中の婦人たちに囲まれています。しかし、彼女たちの反応は、最初の反応と180度異なるものでした。ナオミは、その乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てました。仕える者、オベドは、両親だけでなく、恐らくナオミにも忠実に仕え、ナオミの老後の面倒も見たことでしょう。このように見てくると、ルツ記とは、ナオミについての物語のように見えます。いっそ、この物語のタイトルを「ルツ記」ではなく「ナオミ物語」とした方が良いのではないかと思わされます。著者がこの物語を通して、本当に言わんとしたことは一体何だったのでしょうか。著者が本当に言わんとしたことは、系図をもってこの物語が閉められていることによって明らかにされます。系図によって物語が閉められていることによって、この物語は、ナオミの家の回復の物語でもなく、男女の愛のロマンスでもなく、契約の民イスラエルの、信仰の回復の物語であったということが分かるのです。最後の最後になって、暗黒の士師の時代から、信仰が回復され、ダビデ王を迎えるために、神がどのようにして、み旨を成就されていったのかという点について、私たちの目が開かれるのです。

【3】. ペレツの系図(トーレドート)

 聖書に系図が記される時には決まって、「これは、だれだれの系図(或いは子孫)である」という書き方がなされます。この「系図とか子孫」という言葉をヘブライ語で「トーレドート」と言います。モーセ五書の中にトーレドートは、創世記に10の系図が記述されています。また、出エジプト記と民数記には祭司の系図が出てきます。これらの中で、特に創世記に示されているアダムからユダの子であるペレツの系図が重要でありますが、ペレツの系図以降、ダビデに至るまでの系図が出てきません。ヨシュア記や士師記にも出てきません(申命記やレビ記にも出て来ない)。ルツ記こそ、ペレツからダビデに至るまでのトーレドートをつないでいるのです。その意味でルツ記とは、失われていたダビデまでの系図を証明する非常に貴重な資料であると言えるのではないでしょうか。この系図には10世代の名前が記されています。この間に経過した年数を考えると、恐らく実際にはもっと多くの人がいたと思われますが、省略されていて、代表の人だけが列挙されていると考える方が良いと思われますが、そのことはさて置いて、この系図が示している重要なことがあります。それは、ルツ記の著者によれば、オベドはボアズの息子であるということです。オベドは法的には、ナオミの扶養者として、エリメレクの家門に入れられたかもしれませんが、神学的には、ルツとボアズの子であると系図は主張しています。このことは、同じくレビラート婚によって生まれて来たペレツについても同様のことが言えるでしょう。ペレツは本来、タマルとユダの長男であるエルの子どもとして、生まれてきました。従って法的にはペレツは、エルの子どもであると言えるでしょう。しかし、ルツ記の4:12節を見ると、ペレツはユダの子であると紹介されています。この場合も同じように、ペレツは法的にはエルの子どもですが、神学的には、ペレツはタマルを通して生まれて来た、ユダの子どもであるということです。そして、オベドとは、あのダビデ王の祖父であったという事がこの系図に書かれています。ダビデ王の子孫からイエス・キリストが生まれて来るのです。このルツ記の系図と、ほぼ同じ内容がマタイ福音書1章にも書かれています。少しマタイ福音書とルツ記とを比べてみたいと思います。マタイ1:3~6節をご覧ください。

“ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。…”

マタイの福音書の系図を見ると、ユダの子ペレツからダビデまで、ルツ記の内容とほぼ同じ10世代の名前が挙げられています。異なる点と言えば、マタイの方にはダビデに至るまで女性の名前が3人挙げられているということです。タマルとラハブとルツです。そして、彼女たちに共通して言える事は、全員、異邦人であったという点です。タマルは、カナン人であったと考えられています(創世記38章)し、ラハブはエリコの町の遊女でありました。ルツはモアブ人です。そして、もう一つ、彼女たちに共通している事は、彼女たちは皆、信仰の勇士であったということです。タマルも、ラハブも、ルツも、異邦人でありながら、イスラエルの神である主を畏れ、律法に従い、ただ主にのみ依り頼みました。このようにイスラエルの人々からは蔑視されるような人々でありながらも、神に依り頼んだ信仰の女たちを通して、そして彼女たちの神への献身と祈りを通して、ダビデの系図が紡がれていき、イエス・キリストの系図が紡がれていったのです。ここにおいて私たちは、社会的な立場や地位に関係なく、人種にもよらず、ただ信仰の人を通して、神のみ旨が成就されていく歴史を確認することが出来るのです。

【結論】

 私たちが「折よく」とか「偶然」という言葉で簡単に片づけていることの背後に、神様のご計画と導きが確実に働いていることを決して見逃してはなりません。信仰の女ルツと、有力な人ボアズが畑で出会ったのは、神様の必然でありました。また、ボアズが親族の第一の買い戻しの権利のある人と出会い、10人の長老たちの証人の前でエリメレクの土地を買い取ることが出来たのも神の必然でありました。私たちの人生に偶然などはなく、神の御手の中で、全てが必然であります。歴史には目的があり、その目的とは歴史を支配しておられる方の、み旨の成就であります。モアブ人であり、やもめであるルツは、イスラエルでは歓迎されない存在でした。立場の弱い存在でした。しかし、そんな女性を暗黒の士師時代にあって、イスラエルを回復するために用いられたのであります。本人たちはそうとは気づいていなかったと思われますが、ルツとボアズは神の壮大なみ旨の中で、大変大きな役割を果たしました。私たちも、イエス様の中で召され、時至り信仰が与えられ、救いに導かれました。私たち一人ひとりも壮大な神のご計画の中に存在しています。私たちがこのようにして、せんげん台教会に導かれたことも、愛する兄弟姉妹との交わりに入れられたことも、全て偶然ではなく、神のみ旨の成就だったのです。そのことを信じつつ、今、私たちが置かれている状況が、どんなに困難に思える状況であっても、今、私たちが置かれている時代がどんなに暗黒な時代に感じられても、そこにも神のご計画があり、歴史を通して一つ一つ神のみ旨が成就されていくことを信じて歩ませていただきましょう。そして主と共に神の目的を紡いでいく私たち一人一人とならせていただきたいと思います。私たちのこの地上での歩みの評価は、明らかにされることはありませんが、天に召された時に、きっと「よくやった忠実な僕だ」という評価のお言葉を、神様からいただくことでしょう。

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다윗의 아버지인 이새의 아버지

2021년 12월 26일 센겐다이교회 주일설교

룻기 4장 1~22절

서론

역사는 우발적인 사건의 연속이 아닙니다. 역사에는 목적이 있고, 그 목적이란 역사를 지배하고 계신 하나님의 뜻의 성취입니다. 오늘은 룻기 4장을 통해 어떻게 하나님의 뜻이 성취되어 가는지 알아보겠습니다.

(1) 기업을 무르는 절차

보리타작 마당에서 밤을 보낸 보아스는 룻을 일단 나오미에게 돌려 보내고 자신은 사람들이 오가는 성문으로 올라 갔습니다. 친족 중에 자신보다 가까운 기업을 무를 권리를 가진 사람이 있었기 때문에 그 사람을 찾기 위해서였습니다. 당시 성문이 있는 지역은 상인들, 사신들, 방문객들이 왕래하는 곳이었고 그 광장에 긴 의자가 놓여져 있고 재판 등도 거기서 진행되었던 것 같습니다. 성문 앞에 가보니 1절에 적혀 있는 대로 정확하게 「마침」그 사람이 지나가려고 했습니다. 보아스는 「이리로 와서 앉으라」고 말을 했고 또 그 성읍 장로 열 명을 청하였습니다. 증인으로 세우기 위해서요. 그리고 보아스는 그 사람에게 용건을 말합니다. 「모압 지방에서 돌아온 나오미가 우리 형제 엘리멜렉의 소유지를 팔려 하므로」 “그래서 말입니다..”라고 말문을 열었습니다. 4,5절을 보시겠습니다.

4 내가 여기 앉은 이들과 내 백성의 장로들 앞에서 그것을 사라고 네게 말하여 알게 하려 하였노라 만일 네가 무르려면 무르려니와 만일 네가 무르지 아니하려거든 내게 고하여 알게 하라 네 다음은 나요 그 외에는 무를 자가 없느니라 하니 그가 이르되 내가 무르리라 하는지라

5 보아스가 이르되 네가 나오미의 손에서 그 밭을 사는 날에 곧 죽은 자의 아내 모압 여인 룻에게서 사서 그 죽은 자의 기업을 그의 이름으로 세워야 할지니라 하니

여기 적혀 있듯이 그 사람은 처음 보아스에게 「내가 무르리라」고 대답했습니다. 아마도 그는 나오미와 함께 젊은 과부 룻도 함께 돌아온 것을 몰랐을 것입니다. 머지않아 나오미는 죽고 그 땅은 그 후에 자신의 재산이 될 것이라고 생각했다고 생각됩니다. 가령 엘리멜렉의 밭을 되 사더라도 나오미의 생계만큼 책임을 지면 되니까 좋은 얘기라고 판단한 것입니다. 그의 대답에 보아스는 엘리멜렉의 기업을 무르는 것과 룻과 혼인하는 것이 한 셋트임을 알립니다. 그것은 율법의 가르침에 의한 것입니다. 신명기 25장 5,6절에는 다음과 같이 적혀 있습니다.

5 형제들이 함께 사는데 그 중 하나가 죽고 아들이 없거든 그 죽은 자의 아내는 나가서 타인에게 시집 가지 말 것이요 그의 남편의 형제가 그에게로 들어가서 그를 맞이하여 아내로 삼아 그의 남편의 형제 된 의무를 그에게 다 행할 것이요

6 그 여인이 낳은 첫 아들이 그 죽은 형제의 이름을 잇게 하여 그 이름이 이스라엘 중에서 끊어지지 않게 할 것이니라

이 보아스보다 기업을 무를 우선권이 있는 그 사람이 젊은 과부 룻과 혼인해야 한다면 나오미 외에 룻의 생계도 책임져야 합니다. 게다가 만약 룻이 아이를 낳을 경우 그 아이가 엘리멜렉의 땅을 물려받게 되어 결국 그 땅은 그의 재산이 되지 않습니다. 그 사실을 알게 되자마자 그 사람은 꽁무니를 빼고 맙니다. 6절을 보시기 바랍니다.

그 기업 무를 자가 이르되 나는 내 기업에 손해가 있을까 하여 나를 위하여 무르지 못하노니 내가 무를 것을 네가 무르라 나는 무르지 못하겠노라 하는지라

6절을 보면 처음과 끝에 「무르지 못하노니, 무르지 못하겠노라」라고 두 번 반복이 되고 있습니다. 처음에는 좋은 이야기라고 생각했습니다만 룻과 결혼한다는 것은 자신의 기업에 손해를 끼친다는 것을 알고 「무르지 못하겠노라」라고 강하게 부정한 것입니다. 보아스로서는 그런 대답을 당연히 예상했겠지요. 기업을 무르는 역할에는 엄청난 희생이 따른다는 것입니다. 상당히 인심이 좋은 사람이 아니면 상당히 희생적인 사람이 아니면 그것을 감당할 수 없습니다. 보아스는 즉시 그 사람으로부터 권리를 양도받는 절차를 진행했습니다. 그것을 옛날부터의 관습으로 당사자가 자신의 신발을 벗어 상대방에게 전달하는 의식입니다. 기업 무를 자의 책임을 맡은 보아스는 그곳에 있는 장로들과 모든 백성에게 말했습니다. 9,10절입니다.

9 보아스가 장로들과 모든 백성에게 이르되 내가 엘리멜렉과 기룐과 말론에게 있던 모든 것을 나오미의 손에서 산 일에 너희가 오늘 증인이 되었고

10 또 말론의 아내 모압 여인 룻을 사서 나의 아내로 맞이하고 그 죽은 자의 기업을 그의 이름으로 세워 그의 이름이 그의 형제 중과 그 곳 성문에서 끊어지지 아니하게 함에 너희가 오늘 증인이 되었느니라 하니

이렇게 정해진 절차를 거쳐 증인들 앞에서 보아스는 엘리멜렉의 땅과 룻을 법적으로 되 사는 것이 허용되었습니다. 장로들의 축복을 받아 떳떳하게 보아스와 룻은 부부로 맺어진 것입니다. 덧붙여서 10절에서 룻이 엘리멜렉의 장남 말론의 아내였다는 것을 알 수 있습니다. 오르바는 둘째 아들 기룐의 아내였습니다.

(2) 나오미에게 임한 회복

자 13절을 보면 보아스가 룻에게 들어갔더니 여호와께서 그에게 임신하게 하시므로 룻이 아들을 낳았다고 적혀 있습니다. 룻기에는 직접적인 하나님의 개입이 거의 적혀 있지 않았지만 이 부분은 유일하게 하나님의 개입이 인정받는 대목입니다. 하나님의 긍휼하심으로 보아스와 룻에게 아이가 주어졌습니다. 그런데 이 아이의 탄생을 가장 기뻐한 것은 누구였을까요? 그건 다름이 아니라 나오미였음에 틀림이 없습니다. 룻을 통해 엘리멜렉의 땅을 되 사고 아이를 낳고 이름을 남길 수 있었기 때문입니다. 나오미는 한 번 모압 땅으로 돌아가라며 강하게 이별을 고했던 모압 사람인 룻을 통해 전혀 뜻밖의 결과로 인도하심을 받은 것입니다. 저자도 보아스나 룻의 기쁨이 아니라 나오미의 기쁨에 촛점을 맞추고 있습니다. 그리고 나오미가 주어진 아이에게 오벳(즉 섬기는 자)라고 이름 붙인 것은 나오미를 둘러싼 여인들이었다고 전하는데, 이는 마치 절망에서 하나님의 구원이 임한 그 나오미의 큰 기쁨을 여인들이 증언하는 것처럼 보입니다. 14~16절을 보시기 바랍니다.

14 여인들이 나오미에게 이르되 찬송할지로다 여호와께서 오늘 네게 기업 무를 자가 없게 하지 아니하셨도다

15 이는 네 생명의 회복자이며 네 노년의 봉양자라 곧 너를 사랑하며 일곱 아들보다 귀한 네 며느리가 낳은 자로다 하니라

16 나오미가 아기를 받아 품에 품고 그의 양육자가 되니

돌이켜보면 나오미가 처음 베들레헴으로 돌아왔을 때에도 온 성읍 사람들이 나오미를 에워쌌습니다. 나오미의 달라진 그 모습에 놀란 사람들은 「이이가 나오미냐」라고 말했습니다. 지금 이야기를 닫으려는 이 장면에서도 역시 나오미는 온 동네 여인들에게 둘러싸여 있습니다. 하지만 그녀들의 반응은 첫 번째 반응과 180도 다른 것이었습니다. 나오미는 그 젖먹이를 품에 안아 기르는 양육자가 되었습니다. 섬기는 자 오벳은 부모님뿐만 아니라 아마도 나오미도 충실하게 섬기고 나오미의 노후를 돌봤을 것입니다. 이렇게 보면 룻기란 나오미에 대한 이야기처럼 보입니다. 차라리 이 이야기의 제묵을 「룻기」가 아닌 「나오미기」로 정하는 것이 낫지 않았을까 생각됩니다. 저자가 이 이야기를 통해 정말 말하고 싶었던 것은 도대체 무엇이었을까요? 저자가 진정으로 말하려고 한 것은 족보로 이 이야기가 닫혀 있음으로 밝혀집니다. 족보에 의해 이야기가 닫힘으로써 이 이야기는 나오미 집안의 회복 이야기도 아니고 남녀의 사랑 로맨스도 아니고 언약 백성 이스라엘의 믿음의 회복 이야기였다는 것을 알 수 있는 것입니다. 마지막의 마지막에 이르러 암흑의 사사시대로부터 믿음이 회복되고 다윗 왕을 맞이하기 위해 하나님께서 어떻게 뜻을 성취해 가셨는지에 대해 우리의 눈이 열리는 것입니다.

(3) 베레스의 족보(톨레도트)

성경에 족보가 기록될 때는 으레 「누구누구의 계보라(자손이라)」라고 쓰여집니다. 이 족보나 자손이라는 말을 히브리어로 톨레도트라고 합니다. 모세오경 안에 톨레도트는 창세기에 10개의 족보가 기술되어 있습니다. 또한 출애굽기와 민수기에는 제사의 족보가 나옵니다. 이들 중에서 특히 창세기에 나타난 아담에서 유다의 아들인 베레스의 족보가 중요한데 베레스의 족보 이후 다윗에 이르기까지의 족보가 나오지 않습니다. 여호수아기나 사사기에도 나오지 않습니다(신명기나 레위기에도 나오지 않습니다). 룻기야말로 베레스에서 다윗에 이르기까지의 톨레도트를 연결하고 있는 것입니다. 그런 의미에서 룻기란 잃어버린 다윗까지의 족보를 증명하는 매우 귀중한 자료라고 할 수 있지 않을까요? 이 족보에는 10세대의 이름이 적혀 있습니다. 그 사이에 경과한 연수를 생각하면 아마 실제로는 더 많은 사람이 있었을 것으로 생각됩니다만, 생략되어 있고 대표인 사람만 열거하고 있다고 생각하는 것이 좋을 것 같습니다만, 그것은 차치하고 이 족보가 보여주는 중요한 것이 있습니다. 그것은 룻기의 저자에 따르면 오벳도 보아스의 아들이라는 것입니다. 오벳은 법적으로는 나오미의 봉양자로서 엘리멜렉의 가문에 들어갔을지도 모르지만 신학적으로는 룻과 보아스의 아들이라고 족보는 주장하고 있습니다. 이 일은 마찬가지로 레비라트혼에 의해 태어난 베레스에 대해서도 마찬가지라고 말할 수 있을 것입니다. 베레스는 본래 다말과 유다의 장남 엘의 자녀로 태어났습니다. 따라서 법적으로는 베레스는 엘의 아이라고 할 수 있겠지요. 그러나 룻기 4장 15절을 보면 베레스는 유다의 아들이라고 소개되어 있습니다. 이 경우에도 마찬가지로 베레스는 법적으로는 엘의 자녀이지만 신학적으로는 베레스는 다말을 통해 태어난 유다의 자녀라는 것입니다. 그리고 오벳도 그 다윗 왕의 할아버지였다는 것이 이 족보에 적혀 있습니다. 다윗 왕의 자손에게서 예수 그리스도가 태어나는 것입니다. 이 룻기의 족보와 거의 같은 내용이 마태복음 1장에도 적혀 있습니다. 잠깐 마태복음과 룻기를 비교해보도록 하겠습니다. 마태복음 1장 3~6절을 참조하시기 바랍니다.

3 유다는 다말에게서 베레스와 세라를 낳고 베레스는 헤스론을 낳고 헤스론은 람을 낳고

4 람은 아미나답을 낳고 아미나답은 나손을 낳고 나손은 살몬을 낳고

5 살몬은 라합에게서 보아스를 낳고 보아스는 룻에게서 오벳을 낳고 오벳은 이새를 낳고

6 이새는 다윗 왕을 낳으니라 다윗은 우리야의 아내에게서 솔로몬을 낳고

마태복음의 족보를 보면 유다의 아들 베레스로부터 다윗까지 룻기 내용과 거의 같은 10세대의 이름이 거론되고 있습니다. 다른 점이라면 마태 쪽에는 다윗에 이르기까지 여성의 이름이 세명 거론되고 있다는 것입니다. 다말이랑 라합과 룻입니다. 그리고 그녀들에게 공통적으로 말할 수 있는 것은 모두 이방인이었다는 점입니다. 다말은 가나안 사람이었다고 생각됩니다(창세기 38장). 라합은 여리고 성의 유녀였습니다. 룻은 모압 사람이었습니다. 그리고 또 하나 그녀들에게 공통된 것은 그녀들은 모두 믿음의 용사였다는 것입니다. 다말도 라합도 룻도 이방인이면서 이스라엘의 하나님이신 여호와를 경외하고 율법에 따라 오직 주님께만 의탁했습니다. 이처럼 이스라엘 사람들로부터 멸시를 받을 만한 사람들이면서도 하나님께 의탁한 믿음의 여인들을 통해서 그리고 그녀들의 하나님에 대한 헌신과 기도를 통해서 다윗의 족보가 이어져가고 예수 그리스도의 족보가 이어진 것입니다. 여기서 우리는 사회적 입장이나 지위에 관계없이 인종에 관계없이 오직 믿음의 사람을 통해 하나님의 뜻만이 성취되어 가는 역사를 확인할 수 있습니다.

결론

우리가 「마침」이라든가 「우연히」라는 말로 간단히 정리해버리는 일의 배후에는 하나님의 계획과 인도하심이 확실히 작용하고 있음을 결코 간과해서는 안 됩니다. 믿음의 여인 룻과 유력한 사람 보아스가 밭에서 만난 것은 하나님의 필연이었습니다. 또한 보아스가 친족의 첫 번째로 기업을 무를 권리가 있는 사람과 만나 열 명의 장로들의 증인 앞에서 엘리멜렉의 기업을 무를 수 있었던 것도 하나님의 필연이었습니다. 우리 삶에 우연이란 없고 하나님의 손 안에서 모든 것이 필연입니다. 역사에는 목적이 있고 그 목적은 역사를 통치하고 계신 분의 뜻의 성취입니다. 모압 사람이자 과부인 룻은 이스라엘에서는 환영받지 못하는 존재였습니다. 입지가 약한 존재였습니다. 그러나 그런 여성을 암흑의 사사시대에 이스라엘을 회복시키기 위해 사용하셨던 것입니다. 본인들은 그런 줄 몰랐겠지만 룻과 보아스는 하나님의 웅대한 계획 가운데 매우 큰 역할을 했습니다. 우리도 예수님 안에서 부르심을 받고 때마침 믿음이 주어지고 구원으로 인도되었습니다. 우리 한 사람 한 사람도 장대한 하나님의 계획 속에 존재하고 있습니다. 우리가 이렇게 해서 센겐다이교회에 인도된 것도 사랑하는 형제자매와의 교제 가운데 참여하는 것도 모두 우연이 아니라 하나님의 깊은 뜻의 성취입니다. 그것을 믿으면서 지금 우리가 처한 상황이 아무리 암흑의 시대처럼 느껴지더라도 거기에도 하나님의 계획이 있고 역사를 통해 하나하나 하나님의 뜻만이 성취되어 갈 것임을 믿고 걸어갑시다. 그리고 주님과 함께 하나님의 뜻을 이어가는 우리들 한 사람 한 사람이 되고 싶다고 생각합니다. 우리의 이 지상에서의 삶의 걸음에 대한 평가는 밝혀지지 않았지만 하늘로 올라갔을 때 분명 「잘 하였도다 착하고 충성된 종아」라는 평가의 말씀을 하나님께서 해 주실 것입니다.

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