2021年12月19日「あなたの衣の裾を広げて 네 겉옷을 가져다가 그것을 펴서 잡으라」

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あなたの衣の裾を広げて 네 겉옷을 가져다가 그것을 펴서 잡으라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ルツ記 3章1節~18節

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:1しゅうとめのナオミが言った。「わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探してきました。
3:2あなたが一緒に働いてきた女たちの雇い主ボアズはわたしたちの親戚です。あの人は今晩、麦打ち場で大麦をふるい分けるそうです。
3:3体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行きなさい。ただあの人が食事を済ませ、飲み終わるまでは気づかれないようにしなさい。
3:4あの人が休むとき、その場所を見届けておいて、後でそばへ行き、あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい。その後すべきことは、あの人が教えてくれるでしょう。」
3:5ルツは、「言われるとおりにいたします」と言い、
3:6麦打ち場に下って行き、しゅうとめに命じられたとおりにした。
3:7ボアズは食事をし、飲み終わると心地よくなって、山と積まれた麦束の端に身を横たえた。ルツは忍び寄り、彼の衣の裾で身を覆って横になった。
3:8夜半になってボアズは寒気がし、手探りで覆いを捜した。見ると、一人の女が足もとに寝ていた。
3:9「お前は誰だ」とボアズが言うと、ルツは答えた。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」
3:10ボアズは言った。「わたしの娘よ。どうかあなたに主の祝福があるように。あなたは、若者なら、富のあるなしにかかわらず追いかけるというようなことをしなかった。今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています。
3:11わたしの娘よ、心配しなくていい。きっと、あなたが言うとおりにします。この町のおもだった人は皆、あなたが立派な婦人であることをよく知っている。
3:12確かにわたしも家を絶やさぬ責任のある人間ですが、実はわたし以上にその責任のある人がいる。
3:13今夜はここで過ごしなさい。明日の朝その人が責任を果たすというのならそうさせよう。しかし、それを好まないなら、主は生きておられる。わたしが責任を果たします。さあ、朝まで休みなさい。」
3:14ルツは、夜が明けるまでボアズの足もとで休んだ。ルツはまだ人の見分けのつかない暗いうちに起きた。麦打ち場に彼女の来たことが人に知られてはならない、とボアズが考えたからである。
3:15ボアズは言った。「羽織ってきた肩掛けを出して、しっかりつかんでいなさい。」ルツがしっかりとつかんだ肩掛けの中に大麦を六杯量ってルツに背負わせると、ボアズは町へ戻って行った。
3:16ルツがしゅうとめのところへ帰ると、ナオミは、「娘よ、どうでしたか」と尋ねた。ルツはボアズがしてくれたことをもれなく伝えてから、
3:17「この六杯の大麦は、あなたのしゅうとめのところへ手ぶらで帰すわけにはいかないとおっしゃって、あの方がくださったのです」と言うと、
3:18ナオミは言った。「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルツ記 3章1節~18節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 せんげん台教会では、クリスマスのこの時期、ルツ記を読み進めておりますが、本日はルツ記3章に耳を傾けていきたいと思います。故郷であるベツレヘムに戻ったナオミは、自分の運命が「マラ」、つまり苦しむ者ではなく、「ナオミ」、つまり快い者として扱われ始めていることを感じつつありました。特にルツとボアズの出会いの中にその兆しを見たナオミは、ある日、ルツに対して「あなたが幸せになる落ち着き先を探してきました。」と語りかけます。この3:1の「落ち着き先」という言葉は、他ならぬボアズのことを意味しているのですが、ヘブライ語の聖書では「安らぎの場、憩いの場」という言葉が使われています。ルツはボアズの下に行くことによって初めて、安らぎの場、憩いの場が与えられるというのです。考えてみますと、神様が私たちを最終的に導いてくださる所も、イエス様のみもとであり、安らぎの場、憩いの場でありますね。人は、元来エデンの園で、神様と交わり、神の安息を享受していましたが、人類の始祖であるアダムとエバが罪を犯し、エデンの園から追放され、安息を失ってしまいました。額に汗をして働くようになり、もはや休むことができなくなってしまいました。しかし、イエス様は罪人の私たちに対し「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と言われ、一方で「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」(ヨハネ5:17)とも言われました。つまり、私たちに安息を得させる為に、主イエスは今日も働かれておられるのです。そのことを、本日見ていくルツ記の3章から確認していきたいと思います。

【1】. あなたの衣の裾を広げて

 ナオミはルツに語り続けました。3:2~4をご覧ください。

“あなたが一緒に働いてきた女たちの雇い主ボアズはわたしたちの親戚です。あの人は今晩、麦打ち場で大麦をふるい分けるそうです。体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行きなさい。ただあの人が食事を済ませ、飲み終わるまでは気づかれないようにしなさい。あの人が休むとき、その場所を見届けておいて、後でそばへ行き、あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい。その後すべきことは、あの人が教えてくれるでしょう。”

「麦打ち場」とは麦を脱穀する場所ですが、そこで麦穂の先っちょの麦だけを取り分けて、もみ殻を取り除く脱穀の作業をします。ただ茎から実の部分だけを取り分けるだけでなく、実の中にも中身がないものもありますので、風にさらすように空中に放り投げて、中身がつまっているのはキチンと下に落ちて来ますが、中身が入っていない殻だけのものは外へ飛ばすような仕方で振るい分けました。

この、麦打ち場は公共の場所でしたので、振るい分けた穀物を見張るために、ボアズは今晩そこで眠ることが分かっていました。重要なのはその次のナオミの言葉ですが、

その時にあなたは、“体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行きなさい”、“あの人が休むとき、その場所を見届けておいて、後でそばへ行き、あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい。”とナオミは言うのです。

「え、こんな夜這いのようなことをして大丈夫なのか」と思わるかもしれません。当時このようなことが、法的に買い戻す者として定められている人に対し、一般的に行われていたのか、或いは、ナオミとルツの切実な思いを伝えるために、一か八か、このようなことを敢えてしたのか、それは分かりません。それにしてもこれは一歩間違えば、性的な誤りを犯す危険が十分にあったはずです。ところが、ナオミにはそうはならないと思っている節がありました。4節で「その後すべきことは、あの人が教えてくれるでしょう。」と言っているからです。思い起こせば、異邦人のルツが見ず知らずの外国にまでやって来て、たまたまボアズの畑へ落ち穂を拾いにやって来たのですが、当然、そこで働いている農夫たちにとっては邪魔者である訳です。それにも拘わらず、義理の母親のために、一生懸命に働いて、なんと真実な娘なのかと、ボアズはルツを特別扱いしてくれました。そして大変良い待遇で、落ち穂を拾わせてくれました。そんな彼のことを信頼し、ナオミは性的な間違いは起きないと確信していたと思われます。

ルツは「言われるとおりにいたします」と言って、ナオミに命じられた通りにしました。夜中になりボアズは寒気がしたため、手探りで覆いを探していたところ、一人の女が足もとに寝ているのに気づきました。香油が塗られていたので、とてもいい香りがしたと思います。ボアズは大変驚いて「お前は誰だ」と言うと、ルツはすかさず答えました。“わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。”

ここで注目してほしいのは、「あなたの衣の裾を広げて」という言葉です。この言葉からルツは、ボアズに求婚の願いをしているのが分かりますが、当時の常識で考えるならとても無茶な求婚であったに違いありません。女性が男性に対して求婚しているからです。畑で働いているはしためから、その主人に対して求婚しているからです。国籍も違いますし、身分も違います。しかし、この「衣の裾」という言葉は「翼」とも訳すことができる言葉でありまして、以前、ボアズがルツの為に口にした言葉を、今、そのままルツが引用していることに気づかされます。2:12をご覧ください。

“どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。”

以前、ボアズはイスラエルの主の「御翼(衣の裾)」のもとに逃れ帰ってきたルツとナオミのことを心から喜び、神様の恵みがありますようにと祈ってくれましたが、今回、ルツは、神の翼のもとに帰って来ただけではなく、ボアズの翼のもとに帰ってきたと言っているようでもあります。というのはボアズこそ、ルツとナオミにとって「家を絶やさぬ責任のある方」、ゴエルであるからです。従って、ルツの求婚とはイスラエルの律法にしがみつきながら、律法に従って求婚しているということが分かります。表面的には無茶な求婚に見えますが、実はルツは律法で許されている範囲内において、ボアズにゴエルになってくれるように求めているのです。昔、タマルが必死な思いでユダの子を設けたように、ルツはただ、律法に従って義しいことをしているのです。

【2】. ゴエルの実現の難しさ

 ゴエルになる人とはどのような人かと言いますと、第一に、財産をたくさん持っていなければなりません。第二に、犠牲的な性格の持ち主でなければなりません。というのは自分の土地でもないのに、自分の兄の土地を、或いは自分の親族の土地を、自分のお金を出して買い戻さなければならないからです。たとえば、申命記25章にはレビラート婚について書かれていますが、もし子を一人も設けずに、夫に先立たれた場合、残された妻は、夫の家族以外の他の者へ嫁いではならないと書かれています。夫の家族と結婚し、生まれて来た子に死んだ夫の名を継がせ、その名が絶えないように、という事です。

仮に死んだ兄の代わりに弟がレビラート婚によって実際に土地を買い戻したとします。そして息子が生まれたとします。そうすると、その死んだ兄の財産は、その新しく生まれた子どもと、その母である兄嫁の財産となります。ところが、もし、敢えてレビラート婚をしないで、そのままでいたらどうなるでしょうか。その場合は黙っていても兄の財産は弟の財産となるのです。律法には定められているものの、ゴエルが実際に成就するのは難しいと言われるのは、まさに、この点にあるのです。自分があえて、ゴエルを実行しようとするなら、兄の財産が守られるだけで、自分は一体どうなるのか?自分はただ、種を与えるだけで、一切権利はありません。誰が他人のために自分の財産を捧げ、犠牲になって、その人を買い戻し、名を残してあげるでしょうか。たとえ兄弟だからといっても、難しいことなのです。その難しさは、例えば創世記38章のユダとタマルの物語にも出てきます。創38:6~10をご覧ください。

創38:6-10

“ユダは長男のエルに、タマルという嫁を迎えたが、ユダの長男エルは主の意に反したので、主は彼を殺された。ユダはオナンに言った。「兄嫁のところに入り、兄弟の義務を果たし、兄のために子孫をのこしなさい。」オナンはその子孫が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入る度に子種を地面に流した。彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された。”

ここで、オナンは兄の為に子を設けなければ兄の土地は自分のものになりますから、あえて子どもを設けないようにしたと書かれています。兄弟でさえ、ゴエルを求めることは難しかったのです。嗣業を買い戻す者にとって、自分に残るものは何一つありません。ナオミとルツはそのような犠牲的で困難な役割を、ボアズに求めているのです。ただしそれは、家系を絶やさないために律法に定められている範囲でのことでありました。

【3】. ボアズの誓い

 さて、ルツの求婚の言葉を聞いたボアズは、どのように反応したでしょうか。「なんだ、この女」、「畑であまりにも可哀そうだったから、ちょっとよくしてあげたからといって、なんか勘違いしてるんじゃないか?」「何故、私があなたの嗣業を買い戻さなければならないのですか?」「変なことを言わないでください」と答えたでしょうか。そうではありませんでした。なんとボアズはルツに誓いを立ててくださったのです。10~13節をご覧ください。

“ボアズは言った。「わたしの娘よ。どうかあなたに主の祝福があるように。あなたは、若者なら、富のあるなしにかかわらず追いかけるというようなことをしなかった。今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています。わたしの娘よ、心配しなくていい。きっと、あなたが言うとおりにします。この町のおもだった人は皆、あなたが立派な婦人であることをよく知っている。確かにわたしも家を絶やさぬ責任のある人間ですが、実はわたし以上にその責任のある人がいる。今夜はここで過ごしなさい。明日の朝その人が責任を果たすというのならそうさせよう。しかし、それを好まないなら、主は生きておられる。わたしが責任を果たします。さあ、朝まで休みなさい。」”

「主は生きておられる。」と言いました。この言葉は、誓いの前に枕詞のようにつけられる言葉ですからボアズは「必ず!わたしが責任を果たします。さあ、朝まで休みなさい」と約束してくれたということです。また、10節で「今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています」と言っていますが、「今までの真心」とは何かと言いますと、異邦人でありながら、ナオミに従って「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」と信仰告白をし、イスラエルに帰ってきてくれた、その真心であります。そして「今回の真心」というのは、若い者を追い求めずに、ただ律法にしがみつきながら、ボアズにゴエルになってくれるよう要求し、ボアズの懐に飛び込んで来てくれたということです。恐らくボアズはルツよりかなり年上であったのでしょう。いずれにせよボアズは、ルツがナオミの家が買い戻されることを切に願っているその姿を通して、ルツの律法に従おうとするその誠実さ、そして、イスラエルの主なる神に対する真心を垣間見たのだと思われます。“わたしの娘よ、心配しなくていい。きっと、あなたが言うとおりにします。…さあ、朝まで休みなさい。”と言ってくれました。ボアズはなんと信実な人柄なのでしょうか。

夜が明けるとすぐ、まだ人の見分けのつかない暗いうちに、ボアズは大麦六杯を量ってルツに背負わせて帰らせました。ナオミはルツから一部始終を聞くと共に、その大麦六杯を見て、そこに主が力強い御手をもって、今まさに働いておられるということを確信することができたに違いありません。ナオミは次のように言いました。18節です。

“ナオミは言った。「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう。」”

ここでナオミはルツにじっとしていなさい、「ただ座っていなさい」と命じています。一方で、ボアズは決着がつくまで、落ち着かないでしょう。つまり、「休むまれないことでしょう。」と言っています。ルツのボアズの言葉を信じて「座っていること」と、ボアズの決着がつくまで「休まれないこと」、この二つが対照的になっていることに気づかされます。私たちの信仰とはまさにこのような「座っていること」、「待ち望むこと」であると言えるでしょう。神様は私たちに約束を与えてくださり、それを誠実に果たされるために、休むことなく今日も働かれます。私たちはこの神様に信頼し、神様のもとに憩い、ただ、御言葉を信じて待てばいいのです。

【結論】

 ルツ記とは、ナオミの家の個人ヒストリーでもなければ、男女の愛のロマンスでもありません。ルツ記とは契約の民の回復の物語であり、聖書で繰り返し語られている典型的な救いの物語です。ですから、ルツ記を読むときに、この物語がたまたまルツに成就されたおめでたい話ではなく、私たちの救いに関する話として受け止めなければなりません。少し想像してほしいのですが、もしルツとナオミがボアズに会えなかったらどうだったでしょうか。恐らくマラとしての、苦い人生を歩み続けたことでしょう。もし、ボアズに会えなかったなら、決してルツとナオミに安らぎは訪れることはありませんでした。私たちにとっても同じ事が言えます。もし、イエス様にお会いすることができなかったら、もし、今日、教会でこのように礼拝を捧げることがなかったなら、私たちは依然としてマラとしての人生を送ることになるでしょう。ルツにとって買い戻す者(ゴエル)が、ボアズであったように、私たちにとってイエス・キリストこそ、ゴエルであります。イエス様はご自身のことを「人の子は安息日の主である」(マタイ12:8)と言われましたが、まさにイエス・キリストこそ、安息の主であり、私たちの真の憩いの場、真の安息の場なのです。もっと言えば、私たちがぐっすり寝ている間にも働かれるお方でございます。イエス様のご降誕をお祝いする今日、この主に憩うことが出来る特権を感謝したいと思います。ルツのように恵みによって、主イエスの翼のもとに、主イエスの衣の裾の中に、憩う者とならせていただきましょう。また、私たちの人生を全うした時には、これまでに味わったことのない、完全な安息を享受することができることに感謝を捧げたいと思います。

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네 겉옷을 가져다가 그것을 펴서 잡으라

2021년 12월 19일 센겐다이교회 주일설교

룻기 3장 1~18절

서론

센겐다이교회에서는 크리스마스의 이 시기에 룻기를 읽고 있습니다만 오늘은 룻기 3장에 귀를 기울이고자 합니다. 고향인 베들레헴으로 돌아온 나오미는 자신의 운명이 「마라」즉, 고통받는 자가 아니라 「나오미」즉, 즐거운 자로 취급되기 시작했음을 느끼고 있었습니다. 특히 룻과 보아스의 만남 속에 그 조짐을 본 나오미는 어느 날 룻에게 「내가 너를 위하여 안식할 곳을 구하여 너를 복되게 하여야 하지 않겠느냐」라고 말을 건넵니다. 이 3장 1절의 「안식할 곳」이라는 말은 바로 보아스를 의미하는데 히브리어 성경에서는 「평안한 장소, 휴식처」라는 단어가 사용되고 있습니다. 룻이 보아스에게로 가야 비로소 평안한 장소, 휴식처가 주어진다는 것입니다. 생각해 보면 하나님께서 우리를 최종적으로 인도해 주시는 곳도 예수님이며 그 곳이야 말로 평안한 장소, 휴식처입니다. 사람은 원래 에덴동산에서 하나님과 어울리며 하나님의 안식을 누리다가 인류의 시조 아담과 하와가 죄를 짓고 에덴동산에서 추방되어 안식을 잃고 말았습니다. 이마에 땀을 흘리며 수고하며 일하게 되어 더 이상 쉴 수 없게 되어 버렸습니다. 그러나 예수님은 죄인인 우리에게 「수고하고 무거운 짐 진 자들아 다 내게로 오라 내가 너희를 쉬게 하리라(마태복음 11장 28절)」라고 말씀하셨습니다. 한편으로는 「내 아버지께서 이제까지 일하시니 나도 일한다(요한복음 5장 17절)」라고도 말씀하셨습니다. 즉 우리에게 안식을 얻도록 하기 위해 주 예수님은 오늘도 일하고 계신 것입니다. 그것을 오늘 살펴 볼 룻기 3장에서 확인해 보고자 합니다.

(1) 네 겉옷을 가져다가 그것을 펴서 잡으라

나오미는 룻에게 계속 이야기했습니다. 3장 2~4절을 봐 주세요.

2 네가 함께 하던 하녀들을 둔 보아스는 우리의 친족이 아니냐 보라 그가 오늘 밤에 타작 마당에서 보리를 까불리라

3 그런즉 너는 목욕하고 기름을 바르고 의복을 입고 타작 마당에 내려가서 그 사람이 먹고 마시기를 다 하기까지는 그에게 보이지 말고

4 그가 누울 때에 너는 그가 눕는 곳을 알았다가 들어가서 그의 발치 이불을 들고 거기 누우라 그가 네 할 일을 네게 알게 하리라 하니

「보리타작 마당」은 보리를 까부는 곳인데 그곳에서 보리 이삭 끝의 보리만을 떼어내 껍질을 제거하는 탈곡작업을 합니다. 단지 줄기에서 알맹이 부분만 떼어낼 부분만 아니라 알맹이 중에도 내용물이 없는 것도 있기 때문에 바람을 맞게 하듯이 공중에 던져 내용물이 꽉 찬 것은 툭툭 아래로 떨어지는데 내용물이 들어 있지 않은 껍질만 있는 것은 밖으로 날리는 식으로 털었습니다.

이 보리타작 마당은 공공장소였기 때문에 탈곡한 곡물을 감시하기 위해 보아스는 오늘 밤 거기서 잠든다는 것을 알고 있었습니다. 중요한 것은 그 다음 나오미의 말인데요.

그때 너는 “목욕하고 기름을 바르고 의복을 입고 타작 마장에 내려가라”, “그가 누울 때에 너는 그가 눕는 곳을 알았다가 들어가서 그의 발치 이불을 들고 거기 누우라”라고 나오미는 말합니다.

‘엣? 이런 요바이(옛날에 남자가 연인의 침소에 가만히 잠입하던 일) 같은 걸 해도 괜찮은건가?’라고 생각하실 수도 있습니다. 당시 이런 일들이 법적으로 기업을 무를 자로 정해져 있는 사람들에게 일반적으로 행해졌는지, 아니면 나오미와 룻의 간절한 마음을 전달하기 위해 되든 안되든 이런 일을 굳이 했는지는 알 수 없습니다. 그렇다 치더라도 이것은 잘못하면 성적인 불상사가 발생할 위험이 충분히 있었을 것입니다. 그런데 나오미에게는 그럴 수 없다고 생각하는 구절이 있었습니다. 4절에서 「그가 네 할 일을 네게 알게 하리라」 라고 말하고 있기 때문입니다. 생각해보면 이방인 룻이 생면부지 타국까지 와서 우연히 보아스의 밭에 이삭을 주우러 왔는데 당연히 그곳에서 일하고 있는 일꾼들에게는 방해자인 셈입니다. 그럼에도 불구하고 시어머니를 위해 열심히 일하고 있는 룻이 얼마나 신실한 여자인지 안 보아스는 룻을 특별대우 해주었습니다. 그리고 매우 좋은 환경에서 이삭을 줍게 해 주었습니다. 그런 그를 신뢰하고 나오미는 성적인 불상사는 일어나지 않을 것이라고 확신했다고 생각됩니다.

룻은 「어머니의 말씀대로 내가 다 행하리이다」라고 대답하며 나오미가 시키는 대로 했습니다. 한밤중이 되자 보아스는 한기가 들었기 때문에 더듬어 덮개를 찾던 중 한 여자가 발밑에 누워 있는 것을 깨달았습니다. 기름을 발랐기 때문에 아주 좋은 향이 났던 것 같아요. 보아스는 몹시 놀라서 「네가 누구냐」라고 물으니 룻은 지체 없어 대답했습니다.「나는 당신의 여종 룻이오니 당신의 옷자락을 펴 당신의 여종을 덮으소서 이는 당신이 기업을 무를 자가 됨이니이다」라고 말합니다.

여기서 주목해야 할 것은 「당신의 옷자락을 펴」라는 말입니다. 이 말을 통해 룻은 보아스에게 구혼의 간청을 하고 있다는 것을 알 수 있습니다. 당시의 상식으로 생각한다면 매우 터무니없는 구혼이었음에 틀림없습니다. 여자가 남자에게 구혼하고 있기 때문입니다. 밭에서 일하고 있는 하녀가 그 주인에게 구혼하고 있기 때문입니다. 국적도 다르고 신분도 다릅니다. 그러나 이 「옷자락」이라는 말은 「날개」라고도 번역할 수 있는 말로 이전에 보아스가 룻을 위해 했던 말을 지금 그대로 룻이 인용하고 있다는 것을 알게 됩니다. 2장 12절을 봐주세요.

여호와께서 네가 행한 일에 보답하시기를 원하며 이스라엘의 하나님 여호와께서 그의 날개 아래에 보호를 받으러 온 네게 온전한 상 주시기를 원하노라 하는지라

예전에 보아스는 이스라엘 주님의「날개(옷 자락)」아래로 도망쳐 돌아온 룻과 나오미를 마음으로부터 기뻐하며 여호와의 은혜가 있기를 기도해 주었습니다만 지금 룻은 여호와의 날개 아래로 돌아왔을 뿐만 아니라 보아스의 날개 아래로 돌아왔다고 말하는 것 같기도 합니다. 왜냐하면 보아스야말로 룻과 나오미에게 있어서 「기업을 무를 자」고엘이기 때문입니다. 따라서 룻의 구혼이란 이스라엘의 율법에 매달리면서 율법에 따라 구혼하고 있다는 것을 알 수 있습니다. 표면적으로는 터무니없는 구혼으로 보이지만, 사실 룻은 율법으로 허용되는 범위 내에서 보아스에게 고엘이 되어 줄 것을 요구하고 있는 것입니다. 옛날 다말이 필사적으로 유다로부터 자식을 얻었듯이 룻은 그저 율법에 따라 의로운 일을 하고 있는 것입니다.

(2) 고엘의 실현의 어려움

고엘이 되는 사람은 어떤 사람이냐면 첫째 재산을 많이 가지고 있어야 합니다. 둘째 희생적인 성격의 소유자여야 합니다. 왜냐하면 내 땅도 아닌데 내 형의 땅을, 아니면 내 친척의 땅을 내 돈을 내고 되 사야 하기 때문입니다. 예를 들어 신명기 25장에는 레비라트혼에 대해 적혀 있는데 만약 자녀를 하나도 두지 않고 남편을 먼저 보낸 경우 남겨진 아내는 남편의 가족 이외의 다른 사람에게 시집가지 말아야 한다고 적혀 있습니다. 시댁 식구 가운데서 결혼해서 태어난 아이에게 죽은 남편의 이름을 물려주고 그 이름이 끊이지 않도록 하라는 것입니다.

만일 죽은 형 대신 동생이 레비라트혼에 의해 실제로 땅을 되샀다고 칩시다. 그리고 아들이 태어났다고 합시다. 그러면 그 죽은 형의 재산은 그 새로 태어난 아이와 그 어머니인 형수의 재산이 됩니다. 그런데 만약 굳이 레비라트혼을 하지 않고 그대로 있으면 어떻게 될까요? 그럴 경우에는 가만히 있어도 형의 재산은 동생의 재산이 되는 것입니다. 율법에는 정해져 있지만 고엘이 실제로 성취되기 어렵다는 말을 듣는 것은 바로 이 점에 있습니다. 내가 굳이 고엘을 실행한다면 형의 재산만 지켜질 분이지 나는 도대체 어떻게 되는가? 나는 단지 씨앗을 줄 뿐 일체의 권리는 없습니다. 누가 남을 위해 자신의 재산을 바치고 희생해서 그 사람을 위해서 땅을 되 사고 이름을 남겨 주겠습니까? 비록 형제라고 해도 어려운 일입니다. 그 어려움은 예를 들어 창세기 38장 유다와 다말의 이야기에도 나옵니다. 창세기 38장 6~10절을 참조해 보겠습니다.

6 유다가 장자 앨을 위하여 아내를 데려오니 그의 이름은 다말이더라

7 유다의 장자 엘이 여호와 보시기에 악하므로 여호와께서 그를 죽이신지라

8 유다가 오난에게 이르되 네 형수에게로 들어가서 남편의 아우 된 본분을 행하여 네 형을 위하여 씨가 있게 하라

9 오난이 그 씨가 자기 것이 되지 않을 줄 알므로 형수에게 들어갔을 때에 그의 형에게 씨를 주지 아니하려고 땅에 설정하매

10 그 일이 여호와가 보시기에 악하므로 여호와께서 그도 죽이시니

여기서 오난은 형을 위해 자식을 두지 않으면 형의 땅은 자기 것이 되기 때문에 굳이 아이를 두지 않으려고 했다고 쓰여 있습니다. 형제들조차 고엘을 구하는 것은 어려웠습니다. 기업을 무르는 자에게 자신에게 남는 것은 아무것도 없습니다. 나오미와 룻은 그런 희생적이고 어려운 역할을 보아스에게 요구하고 있는 것입니다. 다만 그것은 기업이 끊어지지 않게 하기 위해 율법에 정해져 있는 범위에서의 일이었습니다.

(3) 보아스의 맹세

그런데 룻의 구혼의 말을 들은 보아스는 어떻게 반응했을까요? ‘뭐야, 이 여자’, ‘밭에서 일하는게 너무 불쌍해서 좀 잘해줬다고 뭔가 착각하고 있는 거 아냐?’ ‘왜 내가 너희의 기업을 무르는 자가 되어야 하는가?’, ‘이상한 소리 하지 마라’라고 대답했을까요? 그렇지 않았습니다. 무려 보아스는 룻에게 맹새를 해 주었습니다. 10~13절을 보시기 바랍니다.

10 그가 이르되 내 딸아 여호와께서 네게 복 주시기를 원하노라 네가 가난하건 부하건 젊은 자를 따르지 아니하였으니 네가 베푼 인애가 처음보다 나중이 더하도다

11 그리고 이제 내 딸아 두려워하지 말라 내가 네 말대로 네게 다 행하리라 네가 현숙한 여자인 줄을 나의 성읍 백성이 다 아느니라

12 참으로 나는 기업을 무를 자이나 기업 무를 자로서 나보다 더 가까운 사람이 있으니

13 이 밤에 여기서 머무르라 아침에 그가 기업을 무를 자의 책임을 네게 이행하려 하면 좋으니 그가 그 기업 무를 자의 책임을 행할 것이니라 만일 그가 기업 무를 자의 책임을 네게 이행하기를 기뻐하지 아니하면 여호와께서 살아 계심을 두고 맹세하오니 내가 기업 무를 자의 책임을 네게 이행하리라 아침까지 누워 있을지니라 하는지라

「여호와께서 살아 계심」이라고 말했습니다. 이 말은 맹세하기 전에 붙는 말이기 때문에 보아스는 “꼭 내가 책임을 질게요. 자 아침까지 쉬어요”라고 약속을 해 주었다는 것이죠. 또 10절에서 「네가 베푼 인애가 처음보다 나중이 더하도다」라고 했는데 「베푼 인애」가 뭐냐면 이방인이면서 나오미를 따러서 「어머니의 백성의 나의 백성이 되고 어머니의 하나님이 나의 하나님이 되시리니」라고 신앙고백을 하고 이스라엘로 돌아와 준 그 인애입니다. 그리고 「나중」이라는 것은 젊은 자를 따르지 아니하고 그저 율법에 매달리면서 보아스에게 고엘이 되어 줄 것을 간청하며 보아스의 품으로 뛰어 들어왔다는 것입니다. 아마 보아스는 룻보다 상당히 연상이었을 것입니다. 어쨌든 보아스는 룻이 나오미의 기업이 물러지기를 간절히 바라는 그 모습을 통해 룻의 율법을 따르려는 그 성실함, 그리고 이스라엘의 주 여호와에 대한 진심을 엿보았을 것으로 생각됩니다. “내 딸아 걱정하지 말거라. 분명 네가 말한대로 행하겠다. … 자 아침까지 쉬거라”라고 말해주었습니다. 보아스는 얼마나 신실한 인품일까요?

새벽에 사람이 서로 알아보기 어려울 때에 일어나 보아스는 보리를 여섯 번 되어 룻에게 지워주고 돌아가게 했습니다. 나오미는 룻에게 자초지종을 듣는 동시에 그 보리 여섯 번을 보고 거기에 주님께서 능력의 손을 가지시고 지금 바야흐로 일하고 계시다는 것을 확신할 수 있었을 것입니다. 나오미는 다음과 같이 말했습니다. 18절입니다.

이에 시어머니가 이르되 내 딸아 이 사건이 어떻게 될지 알기까지 앉아 있으라 그 사람이 오늘 이 일을 성취하기 전에는 쉬지 아니하리라 하니라

여기서 나오미는 룻에게「앉아 있으라」라고 명하고 있어요. 한편 보아스는 이 일을 성취하기 전에는 쉬지 아니할 것입니다. 즉 「쉬지 아니하리라」라고 말하고 있습니다. 룻이 보아스의 말을 믿고 「앉아 있는 것」과 보아스가 「성취하기 전에는 쉬지 아니할 것」이 두가지가 대조를 이루고 있음을 깨닫게 됩니다. 우리의 믿음이란 바로 이런 「앉아 있는 것」, 「기다리며 바라는 것」이라고 할 수 있겠죠. 하나님은 우리에게 약속을 주시고 그것을 신실하게 이루기 위해 쉬지 않고 오늘도 일하십니다. 우리는 이 하나님께 신뢰를 두고 하나님 안에서 안식하며 오직 말씀만 믿고 기다리면 됩니다.

결론

룻기란 나오미의 개인 히스토리도 아니고 남녀의 사랑 로맨스도 아닙니다. 룻기란 언약의 백성들의 회복 이야기이며 성경에서 반복적으로 이야기되고 있는 전형적인 구원 이야기입니다. 그러므로 룻기를 읽을 때 이 이야기가 우연히 룻에게 성취된 경사스러운 이야기가 아니라 우리의 구원에 관한 이야기로 받아들여야 합니다. 조금 상상해 주셨으면 합니다만, 만약 룻과 나오미가 보아스를 만나지 못했다면 어땠을까요? 아마 마라로서의 쓰라린 인생을 계속 걸었을 것입니다. 만약 보아스를 만나지 못했다면 결코 룻과 나오미에게 안식은 찾아오지 않았을 것입니다. 우리에게도 같은 말을 할 수 있습니다. 만약 예수님을 만나지 못했다면, 만약 오늘 교회에서 이렇게 예배를 드리지 못했다면 우리는 여전히 마라로서의 삶을 살게 될 것입니다. 룻에게 기업을 무를 자(고엘)가 보아스였듯이 우리에게 예수 그리스도야말로 고엘입니다. 예수님께서 자신을 「인자는 안식일의 주인이니라(마태복음 12장 8절)」라고 하셨는데 바로 예수 그리스도야말로 안식의 주인이시요, 우리의 진정한 안식처입니다. 더 말씀드리자면 우리가 푹 자는 동안에도 일하시는 분이십니다. 예수님의 탄생을 기념하여 축하하는 오늘, 이 예수님 안에서 쉴 수 있는 특권에 감사드립니다. 룻과 같이 은혜로 주 예수님의 날개 아래 주 예수님의 옷자락 안에서 안식 하는 자가 되게 하소서. 또한 우리의 삶이 다했을 때는 지금까지 맛보지 못한 완전한 안식을 누릴 수 있음에 감사를 드리고 싶습니다.

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