2021年12月12日「私の娘よ 내 딸아」

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私の娘よ 내 딸아

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ルツ記 2章1節~23節

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:1ナオミの夫エリメレクの一族には一人の有力な親戚がいて、その名をボアズといった。
2:2モアブの女ルツがナオミに、「畑に行ってみます。だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」と言うと、ナオミは、「わたしの娘よ、行っておいで」と言った。
2:3ルツは出かけて行き、刈り入れをする農夫たちの後について畑で落ち穂を拾ったが、そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。
2:4ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに、「主があなたたちと共におられますように」と言うと、彼らも、「主があなたを祝福してくださいますように」と言った。
2:5ボアズが農夫を監督している召し使いの一人に、そこの若い女は誰の娘かと聞いた。
2:6召し使いは答えた。「あの人は、モアブの野からナオミと一緒に戻ったモアブの娘です。
2:7『刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください』と願い出て、朝から今までずっと立ち通しで働いておりましたが、今、小屋で一息入れているところです。」
2:8ボアズはルツに言った。「わたしの娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。ここから離れることなく、わたしのところの女たちと一緒にここにいなさい。
2:9刈り入れをする畑を確かめておいて、女たちについて行きなさい。若い者には邪魔をしないように命じておこう。喉が渇いたら、水がめの所へ行って、若い者がくんでおいた水を飲みなさい。」
2:10ルツは、顔を地につけ、ひれ伏して言った。「よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは。厚意を示してくださるのは、なぜですか。」
2:11ボアズは答えた。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。
2:12どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」
2:13ルツは言った。「わたしの主よ。どうぞこれからも厚意を示してくださいますように。あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」
2:14食事のとき、ボアズはルツに声をかけた。「こちらに来て、パンを少し食べなさい、一切れずつ酢に浸して。」ルツが刈り入れをする農夫たちのそばに腰を下ろすと、ボアズは炒り麦をつかんで与えた。ルツは食べ、飽き足りて残すほどであった。
2:15ルツが腰を上げ、再び落ち穂を拾い始めようとすると、ボアズは若者に命じた。「麦束の間でもあの娘には拾わせるがよい。止めてはならぬ。
2:16それだけでなく、刈り取った束から穂を抜いて落としておくのだ。あの娘がそれを拾うのをとがめてはならぬ。」
2:17ルツはこうして日が暮れるまで畑で落ち穂を拾い集めた。集めた穂を打って取れた大麦は一エファほどにもなった。
2:18それを背負って町に帰ると、しゅうとめは嫁が拾い集めてきたものに目をみはった。ルツは飽き足りて残した食べ物も差し出した。
2:19しゅうとめがルツに、「今日は一体どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いてきたのですか。あなたに目をかけてくださった方に祝福がありますように」と言うと、ルツは、誰のところで働いたかをしゅうとめに報告して言った。「今日働かせてくださった方は名をボアズと言っておられました。」
2:20ナオミは嫁に言った。「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。」ナオミは更に続けた。「その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人です。」
2:21モアブの女ルツは言った。「その方はわたしに、『うちの刈り入れが全部済むまで、うちの若者から決して離れないでいなさい』と言ってくださいました。」
2:22ナオミは嫁ルツに答えた。「わたしの娘よ、すばらしいことです。あそこで働く女たちと一緒に畑に行けるとは。よその畑で、だれかからひどい目に遭わされることもないし。」
2:23ルツはこうして、大麦と小麦の刈り入れが終わるまで、ボアズのところで働く女たちから離れることなく落ち穂を拾った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルツ記 2章1節~23節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 アドベントの第三主日を迎えました。せんげん台教会では、イエス様のご降誕をお祝いするこの時期、ルツ記に耳を傾けています。ルツ記とは、親孝行を描いた家族ヒストリーではありません。すべてを失ったナオミが回復される物語でもありません。ルツ記とは何かと言えば、それはイスラエルの民の回復の物語です。ボアズを通して信仰の民イスラエルが回復される物語です。1章では、エリメレクとナオミの家族を襲った絶望が描かれていましたが、2章では冒頭に突然、ボアズが登場します。ボアズという名前の意味は「有力な者、力ある者」という意味ですが、ボアズはその名の通り、力と財産を持った有力な者であり、またエリメレクの親族でもありました。このボアズとルツの運命的な出会いによって2章は始まります。2~4節をご覧ください。

【1】. ボアズとの出会い

 “モアブの女ルツがナオミに、「畑に行ってみます。だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」と言うと、ナオミは、「わたしの娘よ、行っておいで」と言った。ルツは出かけて行き、刈り入れをする農夫たちの後について畑で落ち穂を拾ったが、そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに、「主があなたたちと共におられますように」と言うと、彼らも、「主があなたを祝福してくださいますように」と言った。”

絶望の中、モアブからベツレヘムに帰ってきた姑と嫁に、することは何もありませんでした。当時、女性には生計を立てるための、まともな仕事がなかったため、夫に先立たれたやもめと孤児たちは、社会の中で最も悲惨な状況に置かれました。この、やもめと孤児たちに唯一、できることと言えば、落ち穂拾いです。律法には畑の収穫に関する次のような規定がございます。レビ記19章9~10節です。

“穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。”

このような律法の規定があったおかげで、他人の憐みに依存するしかないナオミやルツのような社会的弱者であっても、彼女たちの心まで他人の物を欲しがろうとする卑しい性格になることなく、彼女たちの状況からは到底、持つことのできないような尊厳を保つことが出来たのであります。ルツは、自発的に、そして前向きに、畑に行ったに違いありません。ルツが出かけて行った先は、3節を見ると、「たまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった」と書かれています。4節の冒頭には、ヘブライ語で「ヒネー」という言葉がありまして、英語の聖書では「behold」と翻訳されています。新共同訳には翻訳されていませんが、「見よ!」「ちょうどその時!」という意味です。つまり、見事なタイミングでボアズがやって来たということです。通常、主人は自分の畑に、しょっちゅう来る訳ではありません。この日は収穫の日でしたので、珍しく主人が視察を兼ねて、畑に来たのだと思われます。ルツがたまたまボアズの畑で落ち穂拾いをしているときに、丁度、タイミング良くボアズがやって来たのです。このルツとボアズの偶然の出会いは、まさに、神様の摂理の御手の中で必然的に起こったと言えるのではないでしょうか。ルツは神様に導かれてボアズに出会ったのであります。ボアズの畑では、ボアズが農夫たちに「主があなたたちと共におられますように」と言うと、農夫たちも、「主があなたを祝福してくださいますように」と答えました。士師の時代には稀に見る光景だと言えるでしょう。主人のボアズと若い農夫たちが、互いに祝福の挨拶を交わしているからです。神様の御言葉に従順で敬虔な主人と、そして敬虔な農夫たちの姿です。なんと麗しい畑でしょうか。さて、主人ボアズの目に最初に飛び込んで来たのは見覚えのない若い女の姿でした。ボアズは農夫を監督している召し使いに、「そこの若い女は誰の娘か」と尋ねます。召し使いは「あの人は、モアブの野からナオミと一緒に戻ったモアブの娘です。」と答えました。

【2】. 有り余るほどのボアズの配慮

 モアブ民族とは、ロトの子孫ですが、ロトがソドムとゴモラから逃れた後に、ロトの娘たちが父親と近親相姦をして生まれてきたのがモアブとアンモンです。律法には「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。」と書かれています(申23:4)。ですから、イスラエルの民にとって、モアブ人と言えば、「淫乱な民」という否定的なイメージがあったことでしょう。しかし、ボアズにはそのような偏見や先入観は一切ありませんでした。ナオミと一緒に帰って来た娘であると聞くと、

「ナオミだって?ナオミは私の親族なんだけど…、事情は大体、聞いていたが、彼女がナオミのために自分の国を捨ててまでして、イスラエルに来てくれた娘だったのか!」と、感心したのでしょう。さらに、召し使いから、彼女が今までずっと立ち通しで働いていたという事実を聞かされました。異邦人でありながら、見ず知らずの外国までやって来て、義理の母親のために、こんなにも一生懸命になり、なんと真実な娘なのかと、ボアズは心を動かされました。ボアズはルツに、次のように語りかけます。8~9節をご覧ください。

“ボアズはルツに言った。「わたしの娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。ここから離れることなく、わたしのところの女たちと一緒にここにいなさい。刈り入れをする畑を確かめておいて、女たちについて行きなさい。若い者には邪魔をしないように命じておこう。喉が渇いたら、水がめの所へ行って、若い者がくんでおいた水を飲みなさい。」”

つまり、ボアズは落ち穂拾いに来たモアブの女に対し、喉が渇いたら水がめの水を飲むことを許し、若い者には女の仕事の邪魔をしないように命じました。このモアブの女を自分の畑で働く農夫たちと同等に見做しています。ルツは有り余るほどの大きな恵みに戸惑いましたが、12節で、ボアズは神に感謝するようにと付け加えました。「どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように」。それでも、ルツはボアズに感謝せずにはいられません。13節で、ルツは「わたしの主よ。どうぞこれからも厚意を示してくださいますように。あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」と感謝の言葉を言いました。ルツは女奴隷の一人にも及ばない異邦人の自分に対して、有り余るほどの大きな恵みが与えられたことに感謝しているのです。さらに読み続けると、もっと驚くような情景が待ち構えています。なんとボアズはルツと昼食を共にすることを許してくれました。イスラエルにとって、これは家族同等の待遇です。ボアズは、ルツに同じ食卓で食事をすることができるようにしてくださり、パンと炒り麦をサービスしてくれました。そしてパンに酢をつけて食べる方法も教えてくれました。また、ルツがより多くの落ち穂を持って帰ることができるように、麦束の間からでも拾うことができるようにしなさいと若い者に命じています。このように神の恵みとは、ルツがボアズから頂いたのと全く同じように、受けるに値しない罪びとに対して、有り余るほどの豊かな恵みを与えてくださり、神を受け入れる者には、ご自身の食卓に与れるように招いてくださるのです。

【3】. 買い戻す者

 さて、集めた落ち穂を脱穀し、ルツがその日ゲットした大麦は、1エファにもなりました。1エファとは約23リットルですが、これを重さに還元すると14キロ~23キロほどだそうです。10キロのお米を二つも背負うような重さです。ルツが姑の待つ家に着いた時、そのあまりにも多い大麦の量にナオミは目を見張りました。19~20節をご覧ください。

“しゅうとめがルツに、「今日は一体どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いてきたのですか。あなたに目をかけてくださった方に祝福がありますように」と言うと、ルツは、誰のところで働いたかをしゅうとめに報告して言った。「今日働かせてくださった方は名をボアズと言っておられました。」ナオミは嫁に言った。「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。」ナオミは更に続けた。「その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人です。」”

ナオミの問いかけに対して、ルツは、名前はボアズだと答えました。ボアズという名を聞いてナオミはすぐにピンと来ました。ボアズと言えば、ナオミの近親の者であり、ナオミにとって、家を絶やさないようにする責任のある人の一人であります。20節後半の「家を絶やさないようにする責任のある人」とは、ヘブライ語では、一言で「ゴエル」と書かれています。このゴエルという言葉に注目してほしいのですが、ボアズという人は、ナオミとルツにとって「近親の者」であり、ゴエルつまり、「買い戻す者」、「贖う者」、「復讐する者」だというのです。20節前半には、「生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない方」とありますが、「生きている人」とは、今生きている自分たちのこと、ナオミとルツのことを指しています。「死んだ人」とは、モアブの地で死んだエリメレクと長男マフロン次男キルヨンのことを指していると思われます。なぜ、死んだ人がここで突然出て来るのかというと、エリメレクの土地が買い戻されることを、ナオミは念頭に置いていたからです。イスラエルにはレビラート婚という制度がありまして、これは、万が一、夫が死んで、子どもいなかった場合、夫の土地を存続させるために夫の兄弟や近親の者が、死んだ夫の妻と結婚をし、子ども生んで、夫の土地を存続させるという制度でした。タマルが遊女のふりをしてユダの子孫をもうけたのも、レビラート婚です。なぜ、律法にこのような制度があったのかと言えば、その理由と考えられるのが、レビ記25:23~25に書かれています。

“土地を売らねばならないときにも、土地を買い戻す権利を放棄してはならない。土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない。あなたたちの所有地においてはどこでも、土地を買い戻す権利を認めねばならない。もし同胞の一人が貧しくなったため、自分の所有地の一部を売ったならば、それを買い戻す義務を負う親戚が来て、売った土地を買い戻さねばならない。”

つまりカナンの地は元来、神様の土地であり、イスラエルの民が所有している土地というのは、神から割り当てられた嗣業であって、貧しいという理由から、この天からの嗣業を失ってはならないということです。イスラエルの民が土地を所要すると言っても実際には借地権のようなものであって、本来の所有者である神様からお借りしている土地なのです。ですからナオミが、「生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない方」と言った時に、この土地の買い戻しと、レビラート婚がナオミの念頭に置かれていたということです。

ところで、2:20節について注解書を見ますと、翻訳について、意見が分かれているようです。新共同訳では、「慈しみ(ヘセッド)」を惜しまれない方は「主」であると翻訳されていますが、ある注解書では主ではなく「ボアズ」であると主張します。文法的にはどちらでも翻訳可能なのですが、ルツ記1:8の表現と並行的な表現が使用されているため、本日は注解書の主張(WBC Ruth)に沿って本文を読んでいきたいと思います。1:8をご覧ください。

“ナオミは二人の嫁に言った。「自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。”

ここでは、二人の嫁が死んだ人にも生きているナオミにも、よく尽くしてくれたと書かれています。この表現が20節の表現と並行的な表現であるため、20節は直訳するとプリントに印刷したように「主の祝福が彼(ボアズ)にありますように。彼(ボアズ)が生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しむことがないように。」となるとのことです。そうであるなら、ナオミとルツにとっては、ボアズこそ、ナオミの家を買い戻す者であり、希望の存在であるということになります。ここまで説明しますと、ボアズの人格がイエス様の人格と被っていることに気づかされますね。ナオミとルツにとってボアズは近親の者でした。同じように、イエス・キリストは、肉を取られ、マリアを通してお生まれになり、私たち罪びとと非常に近い者となってくださいました。また、ナオミとルツにとってボアズこそ嗣業を買い戻してくれる力ある者でありましたが、同じように、私たちにとってイエス・キリストこそ罪の代価を支払い、天の嗣業を買い戻してくださる力ある者なのです。ボアズはイエス・キリストを予表する人物であり、ルツとナオミにとって希望の光だったのです。ルツはこうして、大麦と小麦の刈り入れが終わるまで、つまり4月の下旬から6月の初めまでの間、他の畑にはいかず、ボアズの畑で平安に満たされて、落ち穂拾いをし続けることができたのです。

【結論】

 以上、見てきたことをまとめますと、第一に神の導きによるルツとボアズとの出会いがありました。第二にボアズを通してナオミとルツ与えられた有り余るほどの恵みがありました。第三にボアズがナオミの家を、「買い戻す者(ゴエル)」であったという事を見てまいりました。私たちにとってイエス・キリストこそ、ボアズであります。イエス様との出会いはまさに偶然の出会いであり、神様の摂理の中で一方的に与えられた恵みでありました。イエス様を信じる者には、有り余るほどの恵みを天から注いでくださいます。そしてイエス様こそ力ある方、私たちを罪から解放してくださるゴエルであります。今日、もし、ここに集まっておられる方々の心の内に、罪から来る重荷があるのであれば、その罪の負債をすべて肩代わりして、買い戻してくださったお方であるイエス様を心の中にお迎えしてください。また、キリスト者であっても、日々、犯してしまうその罪を隠してしまい、まだ、重荷がのしかかっておられると感じる方がいらっしゃるならば、今日、悔い改めてイエス様の罪の赦しと平安を受け取っていただければと思います。

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내 딸아

2021년 12월 12일 센겐다이교회 주일설교

룻기 2장 1~23절

서론

어드밴트의 셋째 주일을 맞이했습니다. 센겐다이교회에서는 예수님의 탄생을 축하하는 이 시기에 룻기에 귀를 기울이고 있습니다. 룻기란 효도를 그린 가족 히스토리가 아닙니다. 모든 것을 잃은 나오미가 회복되는 이야기도 아닙니다. 룻기가 무엇인가 하면 그것은 이스라엘 백성들의 회복 이야기입니다. 보아스를 통해 믿음의 백성 이스라엘이 회복되는 이야기입니다. 1장에서는 엘리멜렉과 나오미 가족을 덮친 절망이 그려져 있었는데 2장에서는 첫머리에 갑자기 보아스가 등장합니다. 보아스라는 이름은 「유력한 자, 능력 있는 자」라는 의미인데 보아스는 그 이름 그대로 힘과 재산을 가진 유력한 자여며 또한 엘리멜렉의 친족이기도 했습니다. 이 보아스와 룻의 운명적인 만남에 의해 2장은 시작됩니다. 2~4절을 읽어 보시죠.

(1) 보아스와의 만남

2 모압 여인 룻이 나오미에게 이르되 원하건대 내가 밭으로 가서 내가 누구에게 은혜를 입으면 그를 따라서 이삭을 줍겠나이다 하니 나오미가 그에게 이르되 내 딸아 갈지어다 하매

3 룻이 가서 베는 자를 따라 밭에서 이삭을 줍는데 우연히 엘리멜렉의 친족 보아스에게 속한 밭에 이르렀더러

4 마침 보아스가 베들레헴에서부터 와서 베는 자들에게 이르되 여호와께서 너희와 함께 하시기를 원하노라

절망 속에서 모압에서 베들레헴으로 돌아온 시어머니와 며느리가 할 일은 아무것도 없었습니다. 당시 여성에게는 생계를 유지하기 위한 제대로 된 일이 없었기 때문에 남편을 앞세운 과부와 고아들은 사회에서 가장 비참한 상황에 놓였습니다. 이 과부와 고아들이 유일하게 할 수 있는 일은 이삭 줍기 입니다. 율법에는 밭 수확에 관한 다음과 같은 규정이 있습니다. 레위기 19장 9,10절입니다.

9 너희가 너희의 땅에서 곡식을 거둘 때에 너는 밭 모퉁이까지 다 거두지 말고 네 떨어진 이삭도 줍지 말며

10 네 포도원의 열매를 다 따지 말며 네 포도원에 떨어진 열매도 줍지 말고 가난한 사람과 거류민을 위하여 버려두라 나는 너희의 하나님 여호와이니라

이러한 율법의 규정 덕분에 남의 긍휼함에 의존할 수 밖에 없는 나오미나 룻과 같은 사회적 약자라도 그녀들의 마음까지 타인의 물건을 탐내는 천박한 성격이 되지 않고 그녀들의 상황에서는 도저히 가질 수 없는 존엄성을 유지할 수 있었던 것입니다. 룻은 자발적으로 그리고 긍정적인 마음을 가지고 밭에 간 것이 틀림없습니다. 룻이 간 곳은 3절을 보면 「우연히 엘리멜렉의 친족 보아스에게 속한 밭에 이르렀더라」라고 적혀 있습니다. 4절 첫머리에는 히브리어로 「히네」라는 말이 있는데 영어 성경에는 「behold」라고 번역되어 있습니다. 신공동역(일본어 성경)는 번역되어 있지 않지만 「보라!」「바로 그때!」라는 뜻입니다. 즉 멋진 타이밍에 보아스가 왔다는 것입니다. 보통 주인은 자기 밭에 자주 오는 게 아닙니다. 이날은 수확일이었기 때문에 드물게 주인이 시찰차 밭에 온 것으로 보입니다. 룻이 우연히 보아스 밭에서 이삭 줍기를 하고 있을 때 마침 타이밍 좋게 보아스가 찾아온 것입니다. 이 룻과 보아스의 우연한 만남은 바로 하나님의 섭리의 손안에서 필연적으로 일어났다고 할 수 있지 않을까요? 룻은 하나님의 인도로 보아스를 만난 것입니다. 보아스의 밭에서는 보아스가 베는 자들에게「여호와께서 너희와 함께 하시기를 원하노라」하니 그들도 「여호와께서 당신에게 복 주시기를 원하나이다」라고 대답했습니다. 사사의 시대에는 보기 드문 광경이라고 할 수 있습니다. 주인 보아스와 베는 자들이 서로 축복의 인사를 나누고 있기 때문입니다. 하나님의 말씀에 순종하는 경건한 주인과 그리고 경건한 농부들의 모습입니다. 얼마나 아름다운 밭인가요? 그런데 주인 보아스의 눈에 처음 들어온 것은 본 기억이 없는 젊은 여자의 모습이었습니다. 보아스가 베는 자들을 거느린 사환에게 「이는 누구의 소녀냐」고 묻습니다. 사환은 「이는 나오미와 함게 모압 지방에서 돌아온 모압 소녀인데」라고 대답합니다.

(2) 과분한 보아스의 배려

모압 민족이란 롯의 후손인데 롯이 소돔과 고모라를 떠난 후 롯의 딸들이 아버지와 근친상간을 하여 태어난 것이 모압과 암몬입니다. 율법에는 「암몬 사람과 모압 사람은 여호와의 총회에 들어오지 못하리니」라고 적혀 있습니다(신명기 23장 3절). 그러므로 이스라엘 백성에게 모압 사람이라고 하면 「음란한 백성」이라고 하는 부정적 이미지가 있었을 것입니다. 하지만 보아스에게는 그런 편견이나 선입견이 일절 없었습니다. 나오미와 함께 돌아온 모압 소녀라고 하니 ‘나오미라고? 나오미는 내 친척인데.. 사정은 대충 들었는데 그녀가 나오미를 위해 자기 나라를 버리면서까지 이스라엘에 와 준 며느리었구나!’하고 감탄했을 것입니다. 게다가 사환으로부터 그녀가 지금가지 줄곧 서서 일하고 있었다는 사실을 들었습니다. 이방인이면서도 생면부지의 타국까지 와서 시어머니를 위해 이렇게 열심히 일을 하니 얼마나 진실한 며느리인가 하고 보아스의 마음이 움직였습니다. 보아스는 룻에게 다음과 같이 말합니다. 8,9절을 보세요.

8 보아스가 룻에게 이르되 내 딸아 들으라 이삭을 주우러 다른 밭으로 가지 말며 여기서 떠나지 말고 나의 소녀들과 함께 있으라

9 그들이 베는 밭을 보고 그들을 따르라 내가 그 소년들에게 명령하여 너를 건드리지 말라 하였느니라 목이 마르거든 그룻에 가서 소년들이 길어 온 것을 마실지니라 하는지라

즉 보아스는 이삭을 줍기 위해 온 모압 소녀에게 목이 마르면 그릇에 가서 물 마시는 것을 허락하고 소년들에게는 룻이 이삭 줍는 것을 방해하지 말라고 명령했습니다. 이 모압 소녀를 자기 밭에서 일하는 일꾼들과 동등하게 보고 있습니다. 룻은 분에 넘치는 큰 은혜에 당황했지만 12절에서 보아스는 여호와께 감사하라며「여호와께서 네가 행한 일에 보답하시기를 원하며 이스라엘의 하나님 여호와께서 그의 날개 아래에 보호를 받으러 온 네게 온전한 상 주시기를 원하노라」라고 덧붙여 말했습니다. 그래도 룻은 보아스에게 감사하지 않을 수 없었습니다. 13절에서 룻은 「내 주여 내가 당신께 은혜 입기를 원하나이다 나는 당신의 하녀 중의 하나와도 같지 못하오나 당신이 이 하녀를 위로하시고 마음을 기쁘게 하는 말씀을 하셨나이다」라며 감사의 말을 했습니다. 룻은 하녀 중 한 명에도 미치지 못하는 이방인인 자신에게 주어진 과분한 은혜를 감사하고 있는 것입니다. 무려 보아스는 룻이 점심 식사를 함께 하는 것을 허락해 주었습니다. 이스라엘에서 이것은 가족과 동등한 대우입니다. 보아스는 룻에게 같은 식탁에서 식사를 할 수 있게 해주고 떡과 볶은 곡식을 주었습니다. 그리고 떡을 식초에 찍어 먹는 방법도 알려줬습니다. 또한 룻이 더 많은 이삭을 가지고 돌아갈 수 있도록 곡식 단 사이에서 줍게하라고 사환에게 명령하고 있습니다. 이처럼 하나님의 은혜란 룻이 보아스로부터 받은 것과 똑같이 받을 자격이 없는 죄인들에게 과분할 정도로 풍성한 은혜를 베풀어 주시고 하나님을 받아 들이는 자에게는 자신의 식탁에 앉도록 초대해 주시는 것입니다.

(3) 속량하는 자

자, 주운 이삭을 떨어 룻이 그날 얻은 보리는 한 에바쯤 되었습니다. 한 에바는 약 23리터인데 이것을 무게로 환원하면 14kg~23kg정도라고 합니다. 10 kg짜리 쌀을 두 개나 짊어진 것 같은 무게입니다. 룻이 시어머니가 기다리는 집에 도착했을 때 그 너무나 많은 양의 보리를 보고 나오미는 눈이 휘둥그레졌습니다. 19,20절을 보시기 바랍니다.

19 시어머니가 그에게 이르되 오늘 어디서 주웠느냐 어디서 일을 하였느냐 너를 돌본 자에게 복이 있기를 원하노라 하니 룻이 누구에게서 일했는지를 시어머니에게 알게 하여 이르되 오늘 일하게 한 사람의 이름은 보아스니이다 하는지라

20 나오미가 자기 며느리에게 이르되 그가 여호와로부터 복 받기를 원하노라 그가 살아 있는 자와 죽은 자에게 은혜 베풀기를 그치지 아니하도다 하고 나오미가 또 그에게 이르되 그 사람은 우리와 가까우니 우리 기업을 무를 자 중의 하나이니라 하니라

나오미의 물음에 룻은 이름이 보아스라고 대답했습니다. 보아스라는 이름을 듣고 나오미는 금방 감이 왔습니다. 보아스라고 하면 나오미의 가까운 친척이자 나오미에게 자손이 끊어지지 않도록 할 책임이 있는 사람 중 한 명입니다. 20절 후반에 「우리 기업을 무를 자 중의 하나」란 히브리어로 「고엘」이라고 적혀 있습니다. 이 고엘이라는 말에 주목해 주었으면 하는데 보아스라는 사람은 나오미와 룻에게 「가까운 자」이고 고엘 즉 「되사는 자」 「속죄하는 자」 「복수하는 자」라는 것입니다. 20절 전반에는 「살아 있는 자와 죽은 자에게 은혜 베풀기를 그치지 아니하도다」라고 쓰여 있는데 「살아 있는 자」란 지금 살아있는 자신들인 나오미와 룻을 가리킵니다. 「죽은 자」는 모압 땅에서 죽은 엘리멜렉과 장남 말론과 차남 기룐을 가리키는 것으로 보입니다. 왜 죽은 사람이 여기서 갑자기 나오냐면 엘리멜렉의 땅을 되사는 것을 나오미는 염두에 두고 있었기 때문입니다. 이스라엘에는 레비라트혼이라는 제도가 있는데 이것은 만일 남편이 죽고 자녀가 없을 경우 남편의 땅을 존속시키기 위해 남편의 형제나 가까운 혈족이 죽은 남편의 아내와 결혼을 하여 아이를 낳고 남편의 땅을 존속시키는 제도였습니다. 다말이 유녀인 척하여 유다의 아들을 낳은 것도 레비라트혼입니다. 왜 율법에 이런 제도가 있었냐면 그 이유로 볼 수 있는 것이 레위기 25장 23~25절에 적혀 있습니다.

23 토지를 영구히 팔지 말 것은 토지는 다 내 것임이니라 너희는 거류민이요 동거하는 자로서 나와 함께 있느니라

24 너희 기업의 온 땅에서 그 토지 무르기를 허락할지니

25 만일 네 형제가 가난하여 그의 기업 중에서 얼마를 팔았으면 그에게 가까운 기업 무를 자가 와서 그의 형제가 판 것을 무를 것이요

즉 가나안 땅은 원래 하나님의 땅이고 이스라엘 백성이 소유하고 있는 땅이라는 것은 하나님께서 배정하신 기업이며 가난하다는 이유로 이 하늘의 기업을 잃지 말아야 한다는 것입니다. 이스라엘 백성들이 땅을 소유한다고 해도 실제로는 대지임차권과 같은 것이지 본래 소유자이신 하나님께 빛지고 있는 땅인 것입니다. 그러니까 나오미가 「살아 있는 자와 죽은 자에게 은혜 베풀기를 그치지 아니하도다」라고 했을 때 이 땅을 되 사는 레비라트혼이 나오미의 염두에 놓여 있었다는 것이죠.

그런데 2장 20절에 대해서 주해서를 보니까 번역에 대해서 의견이 분분한 것 같아요. 새 공동번역(일본어 성경)에서는 「긍휼하심(헷세드)」을 아끼지 않는 분은「주님」이시다라고 번역되어 있습니다만, 어떤 주해서에는 「주」가 아니라 「보아스」라고 주장합니다. 문법적으로는 어느 쪽이든 번역이 가능하지만 룻기 1장 8절 표현과 병행적인 표현이 사용되고 있기 때문에 오늘은 주해서 주장(WBC Ruth) 에 따라서 본문을 읽어보도록 하겠습니다. 1장 8절을 보세요.

나오미가 두 며느리에게 이르되 너희는 각기 너희 어머니의 집으로 돌아가라 너희가 죽은 자들과 나를 선대한 것 같이 여호와께서 너희를 선대하시기를 원하며

여기서는 두 며느리가 죽은 자들에게도 살아 있는 나오미에게도 잘해 주었다고 적혀 있습니다. 이 표현이 20절의 표현과 병행적인 표현이기 때문에 20절은 직역하면 프린트에 인쇄한 것처럼 「그(보아스)가 여호와로부터 복 받기를 원하노라 그(보아스)가 살아 있는 자와 죽은 자에게 은혜 베풀기를 그치지 아니하도다」가 된다는 것입니다. 그렇다면 나오미와 룻에게는 보아스야말로 나오미의 집을 되 사는 자이자 희망의 존재인 셈이 됩니다. 여기까지 설명하자면 보아스의 인격이 예수님의 인격과 겹쳐 보이고 있음을 깨닫게 됩니다. 나오미와 룻에게 보아스는 가까운 자였습니다. 마찬가지로 예수 그리스도께서는 육체를 입으시고 마리아를 통해서 태어나시고 우리들 죄인들과 아주 가까운 자가 되어 주셨습니다. 또 나오미와 룻에게 있어 보아스야말로 기업을 되 사줄 유력한 자였습니다만 동시에 우리들에게 있어서 예수 그리스도야 말로 죄의 댓가를 치르고 하늘의 기업을 되 사 주시는 유력한 자이십니다. 보아스는 예수 그리스도를 예표하는 인물이며, 룻과 나오미에게 있어서 희망의 빛이었습니다. 룻은 이렇게 해서 보리와 밀의 추수가 끝날 때까지 즉 4월 하순부터 6월 초까지 다른 밭에는 가지 않고 보아스 밭에서 평안이 넘치는 가운데 이삭 줍기를 계속 할 수 있게 되었습니다.

결론

이상으로 살펴 본 바를 정리하자면 첫째 하나님의 인도에 의한 룻과 보아스의 만남이 있었습니다. 둘째 보아스를 통해 나오미와 룻이 받은 흘러 넘치는 것 같은 과분한 은혜가 있었습니다. 셋째 보아스가 나오미의 「기업을 무를 자(고엘)」라는 것을 살펴 보았습니다. 우리에게 예수 그리스도야말로 보아스입니다. 예수님과의 만남은 바로 우연한 만남이었고 하나님의 섭리 속에서 일방적으로 주어진 은혜였습니다. 예수님을 믿는 자에게는 흘러 넘치는 과분한 은혜를 하늘에서 부어 주십니다. 그리고 예수님이시야말로 유력한 자 우리를 죄에서 해방시켜 주시는 고엘입니다. 오늘 만약 이곳에 모여 계신 분들의 마음 속에 죄로 인한 무거운 짐이 있다면 그 죄의 부채를 모두 대신 갚고 되 사주시는 분인 예수님을 마음속으로 맞이해 주시기 바랍니다. 또한 그리스도인이라도 날마나 저지르는 죄를 감추고 아직도 무거운 짐을 지고 있다고 느끼는 분이 계시다면 오늘 회개하고 예수님의 죄에 대한 용서와 평안을 받으셨으면 좋겠습니다.

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