2019年06月02日「ゲッセマネの祈り」

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聖句のアイコン聖書の言葉

30一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
31そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。
32しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
33するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。
34イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
35ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。
36それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
37ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
38そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
39少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
40それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。
41誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
42更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
43再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。
44そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
45それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
46立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 26章30節~46節

原稿のアイコン日本語メッセージ

キリストの最後の晩餐から十字架までの受難物語やそれを取材した曲や絵画をThe Passionと言います。英語でPassionと言いますと、「受難」という意味もありますが、第一に感情の「熱情」とか、「激情」という意味です。この激しい激情物語の中でも、最も荒れ狂う場面が、このゲッセマで髪を振り乱すイエスさまと言っても過言ではないでしょう。ゲッセマネの園における祈りの戦いと対照に置かれるのが、エデンの園における戦いであるといえます。エデンの園において、人類の始祖アダムはサタンの誘惑に負けてしまい、神の戒めに従順することができず、堕落してしまいました。しかしゲッセマネの園においてイエス様は、神の審きという恐怖の中で、祈りを捧げ、従順を学び、喜んで父の御心の通りに、ご自身を贖いの供え物として明け渡していくことができたのです。ゲッセマネとは、ヘブル語で「油絞り」という意味です。恐らく当時オリーブ山のなだらかな斜面の一画にあるこの場所に、オリーブ油を絞る場所があって、ゲッセマネと呼ばれていたのでしょう。イエス様はここに、たびたび弟子たちと共に、祈るために来られましたが、過ぎ越し祭の夜も、イエス様は最後の時間をこの場所で祈りました。その祈りは、まさに「絞り出すような」祈りだったのです。このゲッセマネの園へ向かう途中、イエス様は、背信するのはユダだけでなく、他の弟子たちも全員、わたしに躓くと預言されました。「躓く」という言葉は、ギリシャ語で「スカンダリゾー」で、英語のスキャンダルの原語です。私たちが普段使っている「躓く」という意味は、「信仰が後退する」とか、「傷を受けた」というような意味ですが、本当はもっと重く深刻な意味で、「離反する」とか、「信仰から離れる」という意味です。その躓きとは、ゼカリヤ書13:7引用して預言の成就であるといいます。ゼカリヤ書の13:7の一部をお読みしますので、そのままお聞きください。

“万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。”

ここでは確かに、万軍の主が「羊の群れは散らされるがよい」と言っています。しかし、イエス様は散らされた羊をそのまま完全に見捨ててしまうのではありません。イエス様が復活した後、弟子たちに先立ってガリラヤに行くと言われました。これは、再び残りの者を召し集めるためでした。弟子たちが最初ガリラヤで人を獲る漁師としてイエス様に召されたように、再度召しを受けることになるのです。しかし、このような神の摂理を理解できなかったペトロは、肉の力によって食らいつきました。いつものようにペトロは成功においても失敗においても弟子たちのリーダーとしての役割をしています。

“たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません”

このペトロの言葉というのは、彼なりにイエス様を愛していて、決して嘘を言ったわけではありませんでした。しかし無意識のうちに自分の能力を過信し、どや顔で、愚かな自己満足に耽っていたのです。ですからイエス様から、頭ごなしに否定されて、ペトロ自身の中にある弱さに目を向けるようよう戒められたのですが、それを受け入れ、反省するどころか、かえって一歩出て、固く宣言するかのように、自分の考えを主張するのです。34~35節をご覧ください。

“イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。”

ペトロが頭ごなしに否定されたのにも関わらず、他の弟子たちもペトロと同じように、イエス様に固く宣言して、自分たちの軽率さと無謀さを見せているのは、彼らもやはり、自分の弱さについて全く認識していなかったということなのでしょう。弟子たちは祈りを疎かにしてしまったため、彼らの内には実際なかった不屈の勇気が、あたかもあるように勘違いしてしまい、自信満々になって無謀なほどに前に出すぎてしまったのです。このことを通して私たちが学ぶことができるのは、第一に、私たちは誰でも弱さを持っている「小さき者」であるということです。自分の弱さには目を向けず、無分別で、弁えのない、分を超えたことを言ったり、行ってはなりません。私たちは常に自分の弱さを覚えて、聖霊の助けにより頼むべきであって、どんな時でも主の御心を求め、祈らなければならないのです。主が約束されたこと以上に、自分の力によって何かしようと思ってはなりません。よく、キリスト者は悪魔の誘惑や試練と戦う時に、最初から勝利を確信し、すべての恐れを無視して、祈る心さえ持たなかったりしますが、それは酒を飲んで酔っ払って戦地に赴くような戦士のようなものなのです。

イエス様はゲッセマネにお着きになると、弟子たちにここに座るようにお命じになり、ただ側近の弟子である、ペトロとヨハネとヤコブの三人だけを連れて、さらに奥に進みました。これは、戦闘が起こった時に、危険な戦場から、まず妻と子を安全な場所へ移動させますが、イエス様もここで、弟子たちを安全なところに移動させて、ペトロとヨハネとヤコブだけは、共に祈ることができるように、祈りを要請するために連れて行きました。すると、ペトロとヨハネとヤコブが見ている前で、イエス様の様子に変化が現れました。37~39節をご覧ください。

“ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」”

イエス様の内側からは突如、感情がよどみなくあふれ出て、見る見るうちに激情さを増していったのです。この時、イエス様は悲しみもだえ始められ、そして“死ぬばかりに悲しい”と言われました。また、マルコによる福音書を見ると、「ひどく恐れてもだえ始め」と書かれています。ルカによると、血の汗を流されたと書かれています。イエス様のこの異常なほどの激しい感情は、弟子たちにとって、驚き怪しむばかりのものでした。恐ろしく、震えと悲しみに完全に捕らえられていたのです。そして、うつ伏せになったというのは、悲しみと悩みがあまりにも大きかったために、その祈りがどれくらい切実なものだったのかを示しています。この箇所に関して、神の御子であられるお方がこのような態度をされるのはおかしい、これは何かの間違いではないかと考える神学者もいるほどです。神の栄光からかけ離れたこのお姿は、一体どういうことでしょうか。もしイエス様が恐れと悲しみを経験されなかったなら、どうなるでしょうか。それは、私たちの贖いも消えてなくなることを意味するでしょう。というのは、もし、イエス様が私たちの感情を担われなかったならば、罪人を贖うことなどできなかったはずだからです。イエス様の悲しみと恐れは、受肉が真似事ではなく、本当に受肉されたということです。苦痛を感じることができないお方ではなく、全身でその苦痛を体験され、勝利なされたのです。もし、「私たちが神の子であるイエス様には、我々、下々の感情なんて持っていないだろう」などと想像するなら、それはイエス様が人となられたことを否定することなのです。イエス様は神の御子として永遠の楽しみを拒まれ、むしろ弱さを持った肉体をお取りになられたのです。そして、イエス様がここで恐れている対象は何かというなら、それは単なる死に対して恐れているということではなくて、彼が世の全ての罪を担われ、神の審判の法廷に立たされて、ご自分の前に置かれている神の怒りをご覧になられ、同時に、死の深い淵をご覧になられて、恐怖に縮こまったと考えられるのです。人類の罪に対する「神の怒りの杯」が一挙にイエス様ご自身に注がれようとしていました。イエス様は“父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。”と祈りました。杯というのは、死の要素を表していて、旧約聖書の中では、「神の怒りの杯」として、かなり頻繁に出て来ます。例えばその内のイザヤ書51:17、エレミヤ書25:15をお読みします。そのままお聞き下さい。

“目覚めよ、目覚めよ/立ち上がれ、エルサレム。主の手から憤りの杯を飲み/よろめかす大杯を飲み干した都よ。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしにこう言われる。「わたしの手から怒りの酒の杯を取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々にそれを飲ませよ。”

この恐ろしい「神の怒りの杯」にこそ、イエス様の異常なパッションの、その恐れおののく秘密があったということです。イエス様は祈りを少し中断されて三人の弟子たちのところに戻ってみると弟子は寝ていました。40~41節をご覧ください。

“それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。”

イエス様は弟子たちに共に祈るよう、祈りを要請しました。それはあまりにも悲しかったからです。しかし弟子たちは一時も目を覚ますことができずに眠っていたのでした。イエス様は苦しみの中で、本当に孤独を体験されたと思います。もし彼らが共に祈ってくれたなら、イエス様の悲しみは少しでも和らげられたでしょう。イエス様はさらに悲しみと苦痛のどん底に突き落とされたのでした。そして弟子たちに“誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。”と命じられました。“心は燃えても、肉体は弱い。”は物質的な身体と私たちの精神の比較ではなく、肉とは弱さを持った私たち自身と神の霊を比較していると思われます。意訳するなら「霊は強い、しかし肉は弱いものである」ということです。ですから、イエス様は弟子たちに対して自分たちの力と忍耐力によって粘り強く祈りなさいと要求されているのではなく、自分自身の弱さを悟り、神に祈るために必要な力と武器を求めなさいとおっしゃっているのです。私たちは聖霊の助けを受けて、聖霊によって祈らなければなりません。自分自身を過信し、肉に頼るなら、弱くなり、すぐにサタンの誘惑や試みにあって、祈り続けることができなくなるのです。ルカによると、弟子たちも「悲しみの果てに眠ってしまった」と書かれています。私たちが危険と悲しみを感じるなら、どんなに緊急事態であって、目を覚まして祈らなければならないのにかかわらず、サタンは神を忘れさせて、私たちの感覚を麻痺させて、イエス様を眺めることを出来なくさせて眠らせるのです。ここから、私たちは、私たちの体というのが、どれほど緊急の祈りの課題に対して無関心で鈍感になりやすいのかを教えられるのです。そして、サタンが祈りをどれほど嫌がり、恐れているのかを悟ることができるのです。一方、イエス様は、弟子たちが共に祈ってくれることはありませんでしたが、ルカによる福音書によれば、天の助けを受けて祈り続けることができたと書かれています。ルカ22:42~44をご覧ください

“「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕”

イエス様はこのようにして、天使の助けをいただき、聖霊に満たされて三度の祈りの格闘を通して、御父の御心を選択することができました。そして、いよいよ裏切者であるユダと律法学者、祭司長たちが近づいてくる足跡の聞こえる中で、「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」と言いながら心を決めて彼らを迎えることができたのです。ヘブル人の手紙5:7をご覧ください。

“キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。”

ここに書かれているのは、ゲッセマネの祈りです。ですからキリストが復活という救いを父なる神から勝ち得たのは、単に神の独り子という身分の故ではなく、祈って信仰的従順を身に付けられたからでありました。私たちの祈りの目的とは、まさにこの点にあるのであって、信仰の従順を身に着けることです。ヘブル人の手紙5:8~10を続いてお読みします。

“キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。”

(メル・ギブソン監督の話)ですからキリスト者にとってはゲッセマネの園とは、イエス様が従順を勝ち取った決定的瞬間であったと言えるのです。それはノルマンディ上陸作戦によって連合軍がドイツ軍に決定的な一打を与えたことにもたとえられるでしょう。したがってゲッセマネの園とはエデンの園を逆転したものだと言えるのです。私たちは弟子たちの姿から、霊によって祈ることの大切さと、そして祈りを何よりもサタンが妨げるということを学びました。また、イエス様の祈りを通して、祈りの目的、それは信仰の従順を身に着けることであるということを学びました。本日も祈り会がありますので、ぜひご参加ください。

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