2021年12月05日「ナオミと呼ばないで 나오미라고 부르지 말고」

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ナオミと呼ばないで 나오미라고 부르지 말고

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ルツ記 1章1節~22節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:1士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。
1:2その人は名をエリメレク、妻はナオミ、二人の息子はマフロンとキルヨンといい、ユダのベツレヘム出身のエフラタ族の者であった。彼らはモアブの野に着き、そこに住んだ。
1:3夫エリメレクは、ナオミと二人の息子を残して死んだ。
1:4息子たちはその後、モアブの女を妻とした。一人はオルパ、もう一人はルツといった。十年ほどそこに暮らしたが、
1:5マフロンとキルヨンの二人も死に、ナオミは夫と二人の息子に先立たれ、一人残された。
1:6ナオミは、モアブの野を去って国に帰ることにし、嫁たちも従った。主がその民を顧み、食べ物をお与えになったということを彼女はモアブの野で聞いたのである。
1:7ナオミは住み慣れた場所を後にし、二人の嫁もついて行った。故国ユダに帰る道すがら、
1:8ナオミは二人の嫁に言った。「自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。
1:9どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように。」ナオミが二人に別れの口づけをすると、二人は声をあげて泣いて、
1:10言った。「いいえ、御一緒にあなたの民のもとへ帰ります。」
1:11ナオミは言った。「わたしの娘たちよ、帰りなさい。どうしてついて来るのですか。あなたたちの夫になるような子供がわたしの胎内にまだいるとでも思っているのですか。
1:12わたしの娘たちよ、帰りなさい。わたしはもう年をとって、再婚などできはしません。たとえ、まだ望みがあると考えて、今夜にでもだれかのもとに嫁ぎ、子供を産んだとしても、
1:13その子たちが大きくなるまであなたたちは待つつもりですか。それまで嫁がずに過ごすつもりですか。わたしの娘たちよ、それはいけません。あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらいのです。主の御手がわたしに下されたのですから。」
1:14二人はまた声をあげて泣いた。オルパはやがて、しゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツはすがりついて離れなかった。
1:15ナオミは言った。「あのとおり、あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。あなたも後を追って行きなさい。」
1:16ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。
1:17あなたの亡くなる所でわたしも死に/そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」
1:18同行の決意が固いのを見て、ナオミはルツを説き伏せることをやめた。
1:19二人は旅を続け、ついにベツレヘムに着いた。ベツレヘムに着いてみると、町中が二人のことでどよめき、女たちが、ナオミさんではありませんかと声をかけてくると、
1:20ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。
1:21出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」
1:22ナオミはこうして、モアブ生まれの嫁ルツを連れてモアブの野を去り、帰って来た。二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まるころであった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルツ記 1章1節~22節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 アドベント第二主日を迎えました。せんげん台教会では、イエス様のご降誕をお祝いするこの時期、ルツ記に耳を傾けて行きたいと思っています。ルツ記には、直接的な神様の介入などは一切書かれていませんが、物語全体を通して、神は全てを支配しておられ、神に信頼し、神に立ち帰る者に、恵みと慈しみを施してくださるということが書かれています。

【1】. 約束地の地を離れるエリメレクとナオミ

 時は士師が世を治めていた頃でありました。士師の時代とは、つまり「イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」時代であります。主なる神は、イスラエルの民を約束の地カナンに導いてくださいましたが、イスラエルは、カナンの原住民を完全に追い出すことが出来ず、逆にカナンの文化に誘惑されて、堕落していったのが士師の時代でありました。そのような中で、国に飢饉が襲ったため、ベツレヘムに住んでいたエリメレクとその妻ナオミは、二人の息子たちを連れてモアブの地に一時的に身を寄せることにしました。エリメレクという名前の意味は、「神は王である」という意味です。ナオミという名前の意味は、「快い、神から愛される者」という意味です。1:21節を見ると「出ていくときは、満たされていた」とありますから、エリメレクはベツレヘムでかなりの財産をもっていたと思われます。そして彼らが移り住もうとしたモアブという土地は、もともとアブラハムの甥であるロトを先祖とする民族がいました。ケモシュの神を崇拝し、聖書の中では常にイスラエルに敵対する民族として描かれています。エリメレクとナオミの家族がモアブに滞在し、間もなくすると、夫、エリメレクが死んでしまいました。二人の息子たちは、モアブの女を妻としますが、やがて、この二人の息子たちも死んでしまい、結局、モアブの地に10年住んで、ナオミは夫と二人の息子に先立たれてしまいました。しかも子どもを授からない内に、であります。女性たちだけが後に残されてしまいました。ナオミの上に畳みかけるように悲劇が起こっています。この絶望的な状況は一体何なのでしょうか。

1:1節の「モアブの地に移り住んだ」という言葉に着目いたしますと、新改訳聖書では、(一時的に)「滞在することにした」とあります。つまり、モアブへ居住するためではなく、滞在するためにモアブに行ったという意味です。私たちは「居住」という言葉と「滞在」という言葉の意味の違いに注意を向けたいと思います。居住とは永遠に住み続ける場所であり、「滞在」とは一時的に留まる場所です。イスラエルの民にとって居住地は、あくまでも約束の地、カナンであって、かつて40年間荒れ野で放浪したのは、居住のためではなく、一時的に滞在するための場所に過ぎませんでした。それにもかかわらず驚くべきことに、エリメレクは神様から居住地として与えられた「約束の地カナン」を捨てて、あたかも、再び放浪の民となるかのように、異教の地モアブへ旅立ったのです。神様は、ご自身の民が、神の御手の中で、神の顧みの中で、居住することを願っておられるのですが、罪深い私たちは、度々、このエリメレクとナオミのように神の御手の中から飛び出して、再び滞在する民、放浪する民になろうとしてしまうのです。神様は私たちに、ご自身の顧みの中に、ご自身の共同体の中に、心を決めて居住することを願っておられます。

そもそも、ベツレヘムを襲った飢饉は、それ自体、何か問題だったのでしょうか。エリメレクは、神様に一切尋ね求めることをせず、自分の判断に従って、モアブに行くことを決行しているように見えます。これはあくまで推測に過ぎませんが、エリメレクは「間もなくベツレヘムは滅びるに違いない、一足先にベツレヘムから逃亡しよう」と思ったのかもしれません。もっと言えば、豊かであったエリメレクとナオミの家に、人々が施しを求めてひっきりなしに、やって来たのかもしれません。「いっそ、見ず知らずの地に行けば、施しを求めて来る者たちもいなくなるだろう」と思い、ベツレヘムを後にしたのかもしれません。

そもそも、キリスト者がこの世を生きていく上で、常に順風満帆とは限りませんね。例えば福音書を見ても、イエス様が共に乗っておられる船がなんと、嵐に見舞われました。主なる神が私たちと共におられるからといって、いつも、良いことばかり起こるわけではなく、苦難や患難にも見舞われるのであります。そのような中にあっても、キリスト者は神様に祈り、尋ね求めるべきです。「神様、この飢饉は一体何なのでしょうか。神様、この飢饉からどうぞ私たち家族と、ベツレヘムの兄弟姉妹をお守りください。」と祈るべきでありました。ダビデは苦難に遭遇した時に、いつでも神様に尋ね求めています。一方、サウルは主に尋ね求めることをせず、自分の考えと自分の判断に従って行動しました。そして、サウルは神に尋ねるのではなく、口寄せに伺いを立てたために死んだと聖書に書かれています(1歴代10:14)。私たちの生活の中で、いかに理解しがたいことが起こったとしても、全てが神の御手の中にあることを信じて、まず神様に尋ね求めるべきであります。

【2】. ルツの信仰告白

 ナオミは、「主がイスラエルの民を顧みてくださり、食べ物をお与えになった」という知らせを、モアブの野で聞きました。英語の聖書( KJV)を見ると6節は、パンをお与えになったと書かれています。神様がベツレヘム(パンの家)にパンを与えてくださったというのです。その知らせを聞いて、全てを失ったナオミは再びベツレヘムに立ち返ることにしました。1:7~10節をご覧ください。

“ナオミは住み慣れた場所を後にし、二人の嫁もついて行った。故国ユダに帰る道すがら、ナオミは二人の嫁に言った。「自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように。」ナオミが二人に別れの口づけをすると、二人は声をあげて泣いて、言った。「いいえ、御一緒にあなたの民のもとへ帰ります。」”

ナオミは二人の嫁、ルツとオルパに対して、自分の里に帰り、新しい嫁ぎ先が与えられるようにと勧めています。ナオミとしては、二人の嫁に再出発をさせてやりたい、これから先、年老いていく自分の世話のために、二人の人生を拘束してしまうのは申し訳ないという思いで、別れの口づけをしたのでしょう。当時、男性社会であった近東地域において、未亡人は、社会的な地位はことごとく奪われ、経済的地位もなく、ほとんどホームレスと同じような扱いでした。ナオミは今後、自分の上に臨むであろう苦難をよく分かっていましたので、なんとか若い二人には自分とは関係のない、新しい人生を歩んでもらいたいと思ったのです。しかし、ルツとオルパは、声をあげて泣きながら「御一緒にあなたの民のもとへ帰ります」と言いました。ルツもオルパも二人とも、大変、姑思いの孝行娘でありました。しかし、ナオミの毅然とした態度の前に、結局、オルパは姑に別れの口づけをして離れて行きました。それを見送りながら、ナオミはルツに言いました。15節です。“あのとおり、あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。あなたも後を追って行きなさい。”このナオミの表現は、オルパが社会的、経済的困難のためにナオミを捨てて里に帰ろうとしているのではなく、オルパは大変、姑思いの孝行娘だけれども、宗教的な理由のために、里に帰ろうとしていると説明しているようです。この言葉を聞いたルツは、ナオミに次のように反応しました。1:16~17節をご覧ください。

“ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に/そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」”

このルツのこの言葉は、もはや、ナオミ個人に対する孝行の言葉ではありませんでした。神様に対する信仰の表現であると言っていいでしょう。ルツの告白の言葉は、聖書の中でよくみられる文学技法が用いられていて、A-B-C-B-Aという構造になっています。これは、真ん中のCにあたる部分に一番言いたいことがあり、Cを軸にして前半と後半に似たような表現が並べられている文学技法です。

まずAにあたる部分を見てみましょう。前半のAにあたる部分は「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。」であります。後半のAにあたる部分は、「死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」であります。次にBにあたる部分を見てみましょう。前半のBにあたる部分は、「わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。」であります。後半のBにあたる部分は、「あなたの亡くなる所でわたしも死に/そこに葬られたいのです。」であります。それでは、真ん中のCにあたる部分はどこかと言えば、「あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神」という言葉です。この言葉こそ、最もルツが強く主張したい内容であると言えます。「あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神」、この言葉は、主なる神と契約関係に入れられている者の告白ではないでしょうか。この信仰がルツに、どのようにして与えられたのかは分かりませんが、とにかくルツはナオミに対する配慮からナオミに従って行くというよりも、神に対する信仰から、神を信じる者として、ナオミに従って行くと言っているのです。神の御手の中でなら、不幸も幸いも甘んじて受け取りますと言っているのです。ルツの堅い信仰に気づいたナオミは、もはや何も言うことはできませんでした。

【3】. ナオミの帰還

 ナオミとルツがベツレヘムに到着すると、町中の人々がどよめき、女たちは「ナオミさんではありませんか」と声をかけてきました。ナオミは10年前、満たされてベツレヘムを出ていきましたが、今では一文無しとなって帰ってきたのです。かつての友人たちは、10年間の苦労を通して、変わり果てたナオミの姿に驚きを隠せなかったのでしょう。この時、本当に低められたナオミの姿がそこにありました。しかし、ナオミには神様に対する恨みなどなく、また、自分の正しさや自分の無実さを主張しようともしませんでした。ただ神の御手を受け入れようとしているのを見て取ることができます。20~22節をご覧ください。

“ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」ナオミはこうして、モアブ生まれの嫁ルツを連れてモアブの野を去り、帰って来た。二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まるころであった。”

ここでナオミは、惨めな自分のことを、ナオミとは呼ばないで、マラと呼んでくださいと言っています。「快い者」、「神から愛される者」と呼ばれることが辛かったのでしょう。皆さまの人生において、最も悲惨だったと思われる時期、人生のどん底を体験したと思われる時期はいつだったしょうか。ナオミにとってはまさにこの時でありました。しかし、ナオミにとって幸いだったのは、この時、神様に立ち帰ったことであります。ナオミはこの後、人々からマラと呼ばれることはありませんでした。なぜなら、神様がナオミに恵みと慈しみを施してくださったからです。22節で、ナオミのベツレヘム帰還について「モアブ」という言葉が繰り返されていて、異邦人の嫁を連れて帰ってきたことを強調しながら報告されていますが、同時にそれは大麦の刈り入れの始まる頃であったと書かれています。ナオミには、いかにも神様の恵みを受けるのに相応しい条件などないように見えますが、神様の目から見る時に、ただベツレヘムに帰って来たこと自体が嬉しかったのではないでしょうか。放蕩娘が神様の下に帰って来てくれたこと、そのことだけで嬉しかったのだと思います。ナオミとルツがベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まる頃であった、ちょうど過ぎ越しの祭りの頃で4月の中旬から下旬にあたる頃です。この時期は、イスラエルにおいて農作物の一番早い収穫が始まる時期であり、これから後、様々な作物の収穫が始まって行きます。つまり、異邦人の女を連れて、一文無しで、手ぶらで帰ってきたナオミではありますが、全能者なる神の御手が現れはじめ、神の恵みによって、自分たちが植えなかったところから、食べることになるであろうことが、この後、十分に予想されるのです。

【結論】

 私たちの信仰生活の歩みは、決して順風満帆とは限りません。様々な苦しみや悩みを経験することもあるでしょう。そのような時に決して自分の判断に任せて行動するのではなく、まず神様に祈り求め、尋ね求めなければなりません。主の導きを待つことが大切です。信仰生活とは、神様を仰ぎつつ、待ち望む生活です。しかし、私たちは、エリメレクとナオミのように、恵みによって神の民とされ、イエス・キリストの御名の内に加えられながらも、神の御手の内から離れ、罪を犯し、悔いてはまた罪を犯すというような、弱さを持っております。神様はそのような私たちをも、決して放棄するとことなく、全てを支配しておられ、神に立ち帰るように導いてくださり、自らの罪を悔い改めた者には、恵みと慈しみを施してくださいます。私たちはこの全能なる神様に全てを委ね、信頼しつつ、神の御手の中で歩ませていただきましょう。

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나오미라고 부르지 말고

2021년 12월 5일 센겐다이교회 주일설교

룻기 1장 1~22절

서론

어드밴트 둘째 주일을 맞이했습니다. 센겐다이교회에서는 예수님의 탄생을 축하하는 이 시기에 룻기에 귀를 기울이고자 합니다. 룻기에는 직접적인 하나님의 개입 등은 일체 적혀 있지 않지만 이야기 전체를 통해 하나님은 모든 것을 지배하고 계시고 하나님을 신뢰하며 하나님께 돌아가는 자에게 은혜와 자비를 베풀어 주신다고 적혀 있습니다.

(1) 약속의 땅을 떠나는 엘리멜렉과 나오미

때는 사사가 세상을 다스리던 시절이었습니다. 사사의 시대는 곧 「이스라엘에 왕이 없으므로 사람이 각기 자기의 소견에 옳은 대로 행하던」 시대입니다. 주 하나님께서는 이스라엘 백성을 약속의 땅 가나안으로 인도해 주셨지만 이스라엘은 가나안 원주민들을 완전히 쫓아내지 못하고 반대로 가나안 문화에 유혹되어 타락해 간 것이 사사의 시대였습니다. 그러던 중 나라에 기근이 닥치자 베들레헴에 살던 엘리멜렉과 그의 아내 나오미는 두 아들을 데리고 모압 땅에 일시적으로 몸을 의탁하기로 합니다. 엘리멜렉이라는 이름의 뜻은 「하나님은 왕이시다」라는 의미입니다. 나오미라고 하는 이름의 의미는 「희락 즐거움 행복, 하나님께 사랑받는 자」입니다. 1장 21절을 보면 「풍족하게 나갔더니」라고 적혀 있기 때문에 에비멜렉은 베들레헴에서 꽤 부유한 자산을 가지고 있었다고 생각됩니다. 그리고 그가 이주해서 살려고 한 모압이라는 토지는 원래 아브라함의 조카인 롯을 선조로하는 민족이 그모스라는 신을 숭배하며 성경 속에서는 항상 이스라엘에 적대하는 민족으로 묘사되어 있습니다. 엘리멜렉과 나오미 가족이 모압에 머물렀고 얼마 지나지 않아 남편 엘리멜렉이 죽고 말았습니다. 두 아들들은 모압 여자를 아내로 삼았는데 이윽고 이 두 아들들도 죽고 결국 모압 땅에 10년 살고 나오미는 남편과 두 아들을 앞세우고 말았습니다. 게다가 자손을 낳기 전에 말입니다. 여자들만 남겨졌어요. 나오미가 받아들일 여유도 없이 비극이 몰아쳤습니다. 이 절망적인 상황은 도대체 무엇일까요?

1장 1절에 「모압 지방에 가서 거류하였더니」라는 말에 착안하면 신개역성경(일본어 성경)에서는 (일시적으로) 「거류하기로 했다」라고 되어 있습니다. 즉 모압에 거주하기 위해서가 아니라 거류하기 위해 모압에 갔다는 뜻입니다. 우리는 「거주」라는 말과 「거류」라고 하는 말의 의미의 차이에 주의를 기울이고 싶습니다. 거주란 영원히 사는 곳이고 거류란 일시적으로 머무는 곳입니다. 이스라엘 백성들에게 거주지는 어디까지나 약속의 땅 가나안이었고 지난 40년간 광야에서 방랑한 것은 거주를 위해서가 아니라 일시적으로 머물기 위한 장소에 불과했습니다. 그럼에도 놀랍게도 엘리멜렉은 하나님께서 거주지로 주신 약속의 땅 가나안을 버리고 마치 다시 방랑의 백성이 되는 것처럼 이교의 땅 모압으로 떠난 것입니다. 하나님은 자신의 백성이 하나님의 손안에서 하나님의 보살핌 속에서 거주하기를 원하시는데 죄 많은 우리는 종종 이 엘리멜렉과 나오미처럼 하나님의 손안에서 뛰쳐나와 다시 거류하는 백성, 방랑하는 백성이 되려고 하는 것입니다. 하나님은 우리가 하나님의 보살핌 가운데, 하나님의 공동체 안에 마음을 정하고 거주하기를 원하고 계십니다.

원래 베들레헴을 강타한 기근은 그 자체로 뭔가 문제였던 것일까요. 엘리멜렉은 하나님께 일절 묻는 것을 하지 않고 자신의 판단에 따라 모압에 갈 것을 결행하고 있는 것처럼 보입니다. 이것은 어디까지나 추측에 불과하지만 엘리멜렉은 ‘곧 베들레헴은 망할 게 틀림이 없어. 그렇게 되기 전에 한 발 먼저 베들레헴에서 도망치자’라고 생각 했을지도 모릅니다. 더 말하면 부유한 엘리멜렉과 나오미의 집에 사람들이 도움을 구하기 위해 끊임없이 찾아왔을지도 모릅니다. 차라리 생면부지의 곳에 가면 도움을 청해서 오는 자들도 없을 것이라는 생각에 배들레헴을 떠났는지도 모릅니다.

애당초 그리스도인이 세상을 살아가는데 항상 순풍만 있는 것은 아닙니다. 예를 들어 복음서를 봐도 무려 예수님이 함께 타고 계신 배가 풍랑을 만났습니다. 주 하나님이 우리와 함께 하신다고 항상 좋은 일만 일어나는 것이 아니라 고난과 환난도 겪는 것입니다. 그런 가운데서도 그리스도인은 하나님께 기도하고 물어야 합니다. “하나님 이 기근은 무엇입니까? 하나님 이 기근으로부터 부디 우리 가족과 베들레헴의 형제자매를 지켜 주십시오’라고 기도했어야 했습니다. 다윗은 고난이 닥쳤을 때 언제든지 하나님께 묻고 있습니다. 반면 사울 왕은 하나님께 묻는 것을 하지 않고 자신의 생각과 자신의 판단에 따라서 행동했습니다. 그리고 사울은 하나님께 묻지 않고 신접한 자에게 가르치기를 청하였기에 죽임을 당했다고 쓰여있습니다(역대상 10장 14,15절). 우리들의 생활 가운데 아무리 이해하기 어려운 일이 벌어졌더라도 모든 것이 하나님의 손안에 있음을 믿고 먼저 하나님께 여쭈어야 합니다.

(2) 룻의 믿음 고백

나오미는 「여호와께서 자기 백성을 돌보시사 그들에게 양식을 주셨다」는 소식을 모압에서 들었습니다. 영어 성경(KJV)을 보면 6절은 빵을 주셨다고 쓰여져 있습니다. 하나님께서 베들레헴(떡집)에 떡을 주셨다는 것입니다. 그 소식을 듣고 모든 것을 잃은 나오미는 다시 베들레헴으로 돌아가기로 했습니다. 1장 7~10절을 참조해 주세요.

7 있던 곳에서 나오고 두 며느리도 그와 함께 하여 유다 땅으로 돌아오려고 길을 가다가

8 나오미가 두 며느리에게 이르되 너희는 각기 너희 어머니의 집으로 돌아가라 너희가 죽은 자들과 나를 선대한 것 같이 여호와께서 너희를 선대하시기를 원하며

9 여호와께서 너희에게 허락하사 각기 남편의 집에서 위로를 받게 하시기를 원하노라 하고 그들에게 입 맞추매 그들이 소리를 높여 울며

10 나오미에게 이르되 아니니이다 우리는 어머니와 함께 어머니의 백성에게로 돌아가겠나이다 하는지라

나오미는 두 며느리 룻과 오르바에게 자신의 친정으로 돌아가 새로운 남편을 만날 것을 권하고 있습니다. 나오미로서는 두사람의 며느리를 새출발을 시키고 싶고 앞으로 늙어가는 자신을 돌보기 위해 두 사람의 삶을 구속해 버리는 것은 미안하다는 생각에 이별의 입을 맞춘거겠지요. 당시 남성사회였던 근동지역에서 과부는 사회적 지위는 전부 빼앗기고 경제적 지위도 없어 거의 노숙자와 같은 대우를 받았습니다. 나오미는 앞으로 자신에게 닥칠 고난을 잘 알고 있었기 때문에 어떻게든 젊은 두 사람이 자신과는 상관없는 새로운 삶을 살았으면 좋겠다고 생각했습니다. 그러나 룻과 오르바는 소리내어 울면서 「우리는 어머니와 함께 어머니의 백성에게로 돌아가겠나이다」라고 말했습니다. 룻과 오르바 둘 다 매우 시어머니를 생각하는 효부였습니다. 하지만 나오미의 의연한 태도 앞에 결국 오르바는 시어머니에게 작별의 입을 맞추고 떠났습니다. 그것을 전송하면서 나오미는 룻에게 말했습니다. 15절입니다. 「보라 네 동서는 그의 백성과 그의 신들에게로 돌아가나니 너도 너의 동서를 따라 돌아가라」이 나오미의 표현은 오르바가 사회적, 경제적 어려움 때문에 나오미를 떠나서 고향으로 돌아가려는 것이 아니라 오르바는 시어머니를 몹시 생각하는 효녀지만 종교적인 이유 때문에 고향으로 돌아가려 한다고 설명하는 것 같습니다. 이 말을 들은 룻은 나오미에게 다음과 같이 반응했습니다. 1장 16,17절을 참조하시기 바랍니다.

16 룻이 이르되 내게 어머니를 떠나며 어머니를 따르지 말고 돌아가라 강권하지 마옵소서 어머니께서 가시는 곳에 나도 가고 어머니께서 머무시는 곳에서 나도 머물겠나이다 어머니의 백성이 나의 백성이 되고 어머니의 하나님이 나의 하나님이 되시려니

17 어머니께서 죽으시는 곳에서 나도 죽어 거기 묻힐 것이라 만일 내가 죽는 일 외에 어머니를 떠나면 여호와께서 내게 벌을 내리시고 더 내리시기를 원하나이다 하는지라

이 룻의 말은 더 이상 나오미 개인에 대한 효도의 말이 아니었습니다. 여호와에 대한 믿음의 표현이라고 해도 좋을 것 같습니다. 룻의 고백말은 성경에서 흔히 불 수 있는 문학기법이 사용되고 있으며 A-B-C-B-A라는 구조로 되어 있습니다. 이것은 가운데 C에 해당하는 부분에 가장 하고 싶은 말이 있는데 C를 축으로 해서 전후반에 비슷한 표현들이 나열되어 있는 문학 기법입니다.

먼저 A에 해당하는 부분을 살펴보도록 하겠습니다. 전반의 A에 해당하는 부분은 「어머니를 떠나며 어머니를 따르지 말고 돌아가라 강권하지 마옵소서」 입니다. 후반의 A에 해당하는 부분은 「내가 죽는 일 외에 어머니를 떠나면 여호와께서 내게 벌을 내리시고 더 내리시기를 원하나이다」입니다. 그 다음 B에 해당하는 부분을 살펴보도록 하겠습니다. 앞부분의 B에 해당하는 부분은 「어머니께서 가시는 곳에 나도 가고/ 머무시는 곳에서 나도 머물겠나이다」입니다. 후반의 B에 해당하는 부분은 「어머니께서 죽으시는 곳에서 나도 죽고/ 거기 묻힐 것이라」입니다. 그러면 가운데 C에 해당하는 부분은 어디냐면 「어머니의 백성이 나의 백성이 되고 어머니의 하나님이 나의 하나님이 되시려니」라는 말입니다. 이 말이야말로 룻이 가장 강하게 주장하고 싶은 내용이라고 할 수 있습니다. 「어머니의 백성이 나의 백성이 되고 어머니의 하나님이 나의 하나님이 되시려니」이 말은 여호와 하나님과 언약관계에 있는 자의 고백이 아닐까요? 이 믿음이 룻에게 어떻게 주어졌는지 모르겠지만 어쨌든 룻은 나오미에 대한 배려에서 나오미를 따라간다기보다는 하나님에 대한 믿음에서 하나님을 믿는 자로서 나오미를 따라 간다고 말하는 것입니다. 하나님의 손안에서라면 불행도 복도 달게 받겠다고 말하고 있는 것입니다. 룻의 굳은 믿음을 깨달은 나오미는 더 이상 아무 말도 할 수 없었습니다.

(3) 나오미의 귀환

나오미와 룻이 베들레헴에 도착하자 온 성읍이 그들로 말미암아 떠들었습니다. 사람들은 「이이가 나오미냐」라고 말을 걸어 왔습니다. 나오미는 10년 전, 풍족하게 나갔지만 이제는 빈털터리가 되어 돌아 온 것입니다. 옛 친구들은 10년간의 고생을 통해 달라진 나오미의 모습에 놀라움을 감추지 못했을 것입니다. 정말 낮아진 나오미의 모습이 거기에 있었습니다. 그러나 나오미에게는 하나님께 대한 원망 같은 것이 없었고 또 자신의 옳음이나 자신의 결백함을 주장하려 하지도 않았습니다. 다만 하나님의 손길을 받아들이려는 것을 간파할 수 있습니다. 20~22절을 읽어 보겠습니다.

20 나오미가 그들에게 이르되 나를 나오미라 부르지 말고 나를 마라라 부르라 이는 전능자가 나를 심히 괴롭게 하셨음이니라

21 내가 풍족하게 나갔더니 여호와께서 내게 비어 돌아오게 하셨느니라 여호와께서 나를 징벌하셨고 전능자가 나를 괴롭게 하셨거늘 너희가 어찌 나를 나오미라 부르느냐 하니라

22 나오미가 모압 지방에서 그의 며느리 모압 여인 룻과 함게 돌아왔는데 그들이 보리 추수 시작할 때에 베들레헴에 이르렀더라

여기서 나오미는 비참한 처지인 자신을 나오미라 부르지 말고 마라라고 불러달라고 합니다. 「즐거운 자」,「여호와께 사랑 받는 자라고 불리워지는 것이 괴로웠을 것입니다. 여러분의 인생에서 가장 비참했다고 생각되는 시기, 인생의 밑바닥을 경험했다고 생각되는 시기는 언제였을까요? 나오미에게는 바로 이때였습니다. 하지만 나오미에게 다행이었던 것은 이때 하나님께 돌아간 것입니다. 나오미는 이후로 사람들로부터 마라라고 불리는 일은 없었습니다. 왜냐하면 하나님께서 나오미에게 은혜와 인자함을 베풀어 주셨기 때문입니다. 22절에서 나오미의 베들레헴 귀환에 대해 「모압」이라는 말이 반복되고 있어 이방인 며느리를 데리고 돌아왔음을 강조하면서 쓰여져 있는데 동시에 보리 추수 수확이 시작될 무렵이었다고 적혀 있습니다. 나오미에게는 아무래도 하나님의 은혜를 받기에 적합한 조건이 없어 보이지만, 하나님의 눈으로 볼 때 그저 베들레헴으로 돌아온 것 자체가 기쁘시지 않았을까요? 방탕한 딸이 하나님께로 돌아와 준 것, 그것만으로도 기쁘셨던 것 같습니다. 나오미와 룻이 베들레헴에 도착한 것은 보리 추수가 시작될 무렵이었던 마침 유월절 축제 무렵으로 4월 중순부터 하순에 해당하는 무렵입니다. 이 시기는 이스라엘에서 농작물의 가장 빠른 수확이 시작되는 시기이며 앞으로 다양한 작물의 수확이 시작됩니다. 즉 이방인 며느리를 데리고 빈털터리로 돌아온 나오미이기는 하지만 전능자이신 하나님의 손길이 나타나기 시작하고 하나님의 은총으로 자신들이 심지 않은 곳에서 먹게 될 것이라는 것이 이후 충분히 예상되는 것입니다.

결론

우리의 믿음생활의 걸음은 결코 순풍에 돛을 단 배와 같다고 할 수 없습니다. 다양한 고통이나 고민을 겪을 수도 있을 것입니다. 그럴 때 결코 자신의 판단에 맡기고 행동할 것이 아니라 먼저 하나님께 기도하고 묻고 구해야 합니다. 주의 인도하심을 기다리는 것이 중요합니다. 믿음생활이란 하나님을 우러러보며 고대하는 생활입니다. 그러나 우리는 엘리멜렉과 나오미처럼 은혜로 하나님의 백성으로 여겨지며 예수 그리스도의 이름 안에 더해지면서도 하나님의 손을 떠나 죄를 짓고 뉘우치고 또 죄를 짓는 약함을 가지고 있습니다. 하나님께서는 그런 우리도 결코 포기하지 않고 모든 것을 통치하고 계시고 하나님께 돌아가도록 인도해 주시고 스스로의 죄를 회개한 자에게는 은혜와 긍휼을 베풀어 주십니다. 우리는 이 전능하신 하나님께 모든 것을 맡기고 신뢰하면서 하나님의 손 안에서 살아갑시다.

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