2021年11月20日「キリストの変貌 그리스도의 변형」

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キリストの変貌 그리스도의 변형

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 17章1節~13節

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聖句のアイコン聖書の言葉

17:1六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
17:2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
17:3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
17:4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
17:5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
17:6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
17:7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
17:8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
17:9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
17:10彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
17:11イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。
17:12言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」
17:13そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 17章1節~13節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 弟子たちはイエス様と生活を共にすればすれほど、この方は一体どのようなお方なのか分からなくなりました。このイエスに対する当時のユダヤ当局者たちの理解とは、ナザレ出身の青年が病の癒しや数々の奇跡を行い、民衆を混乱させ、神の国が到来したと吹聴し、既存の体制を覆そうとしている革命家というようなものでした。しかし、一緒に生活している弟子たちの理解は、ちょうど本日の記事の前のところで、ペトロを代表し、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したばかりであります(マタイ16:16)。ところがこの弟子たちの信仰告白を受けて、イエス様は、ご自身の死と復活に関する受難告知をされたのであります。なぜ、生ける神の子、メシアが、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺されなければならないのか、主イエスの言われる、「苦難の僕としてのメシア像」が、どうしても納得のいかない問題として弟子たちの心に悶々と引っかかっていたように思われます。

【1】. 変貌の目的(エルサレムで遂げようとされるエスソドス)

 ペトロの信仰告白から六日の後、主イエスはペトロとヤコブとヨハネの三人だけを連れて高い山に登り、その山においてご自身の変貌の奇跡を見せられました。イエス様の姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったというのです。そして、なんと、彼らの目前にモーセとエリヤが現れ、イエス様と共に語り合っているではありませんか。

 モーセとは、イエス様の時代から1300~1500年前の人物で、モーセ五書と呼ばれる律法の書を記録したイスラエルの解放者です。彼はシナイ山に登り、主ヤハウェの御言葉をイスラエルの民のために取り次ぎましたが、その度にモーセの顔は光り輝いたと旧約聖書に書かれています。この時のイエス様の顔の輝きとは、モーセのような輝きだったのでしょうか。また、エリヤとはイエス様の時代から900年前の人物で、神の裁きを象徴する預言者であり、終末の日に再び現れると言われていた預言者です。彼らがイエス様のところに来て、一体何を話し合っていたのか、マタイによる福音書には詳しく書かれていません。ただ、ルカによる福音書9:31によれば、イエス様がエルサレムで遂げようとされる「最期(エクソドス)」について話していたとあります。因みにギリシア語のエクソドスἔξοδοςとは、「出て行くこと」ですが、それ以外にも「世を去ること」或いは「最期」とも訳すことができる言葉です。例えば、出エジプト記は、ギリシア語では「エクソドス」というタイトルですが、直訳すると「出て行くこと」、「脱出」、という意味になると思います。イスラエルの民にとって、それはエジプトにおける奴隷生活からの解放、脱出を意味しました。しかし、イエス様がエクソドスという言葉を使う時には、その意味は、「最期」或いは「世を去ること」という意味になります。なぜならイエス様にとってエクソドスとは、ご自分が犠牲の子羊として捧げられることを意味したからです。弟子たちはこの時点でまだ気づいていませんが、イエス様のエクソドスとは、突き詰めて言うなら、ご自身の十字架の死を意味していたということです。この素晴らしい状況は、実は、間もなくエルサレムで成就されるであろう、主イエスの十字架刑を予表し、贖いの死を指し示していたのです。あの恐ろしい十字架の死が、ペトロをはじめ他の弟子たちも一目散に逃げるようにさせた、あの悲しい事件が、素晴らしく栄光のエクソドスとして描かれているのです。そんなことを、つゆ知らず三人の弟子たちは、素晴らしい光景を目撃し、夢心地となり、ペトロは次のように言っています。4節です。

“主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。”

他の福音書をよると、「ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかった(ルカ9:33)」と記されていますから、彼としては、とにかくこの素晴らしい状態が長続きしてほしい!この天国のような状態にいつまでも留まっていたい!と願ったのでしょう。そこで、どうか仮小屋を造りますから、是非ゆっくりして行ってください。そして我々がここに来る度に、このような体験ができるようにしてくださいと、提案したわけです。

【2】. 神の顕現

 そんなペトロの言葉を遮るかのように、光り輝く雲が彼らを覆い、そして「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえてきました。5~7節をご覧ください。

“ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」”

聖書で「雲」とは、神の栄光の臨在が現れる時にしばしば用いられます。弟子たちは、天から聞こえてきた御父の声を聞いてひれ伏し、非常に恐れました。恐らくこの時に、神様の顕現が起こり、神様の顕れを人間がまともに耐え得ることができなかったということだと思われます。もし、神の栄光を人間がそのまま見てしまうなら、汚れている人間には、とても耐えることができず死ぬ他はありません。それほどまでに、神様と罪を犯してしまった人間との間には、大きな断絶が存在しているのです。イスラエルの民にとって、シナイ山の頂上に登ってくれる仲介者モーセがどうしても必要だったように、罪人である人間にとって、仲介者であるイエス・キリストがどうしても必要なのです。恐れおののく弟子たちに、イエス様は近づかれ、彼らに手を触れてくださいました。7節の「起きなさい。恐れることはない」というイエス様の言葉の動詞を見ると、エゲイロ―という動詞が受動態で書かれています。つまり「恐れることはない、起きるようにさせられなさい、蘇らされなさい、復活させられなさい」という意味です。この受動態の主体は誰かと言えば、省略されていますが神様になります。「神様によって」起きるようにさせられる、「神様によって」立ち上がらせていただくという意味です。弟子たちはイエス様に触れていただき、立ち上がらせていただき、顔を上げて見ると、そこにはイエス様の他には誰もいませんでした。

【3】. 両極端のコントラスト

 この不思議なイエス様の変貌事件について、弟子たちは、この時にはまだ十分に悟ることが出来ませんでしたから、この事件の記憶は謎として、彼らの心の中に封印されたままとなりました。続いて9~10節をご覧ください。

“一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。”

イエス様が人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならないと言われたので、恐らくイエス様の十字架の死と復活の後、その時になって初めてすべてのことが明らかにされるという事なのでしょう。ところで、当時、ほとんどのイスラエルの人々は、終わりの日にエリヤが来るという、預言者マラキの預言を知っていました。そのことを持って、律法学者たちは、メシアが来る前にまずエリヤが来るはずだから、あのナザレのイエスという男はメシアではない、メシアのはずがないと、言い分けの論法にしていたわけです。なぜ、エリヤ来ると言っているのですかという弟子たちの質問に対し、イエス様は「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする」と、律法学者たちの言葉をそのまま肯定されました。しかし、さらに踏み込んで付け加えています。17:12~13節をご覧ください。

“言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。”

実は、洗礼者ヨハネこそ、メシアの前触れとして現れるはずのエリヤであるということを、以前、マタイ11:4においてイエス様の口から直接、明らかにされたことがありました。今回、再び、終わりの日に現れるはずのエリヤが、洗礼者ヨハネであることを遠巻きにお示しになられましたので、弟子たちはすぐに感づいて、「あ~、そうだった。確か以前にもおっしゃっていたように、あの牢の中で首を斬首された洗礼者ヨハネこそ、終末に現れるエリヤだったっけ。なるほど、なるほど」と思い、「いや、ちょっと待てよ、それならイエス様の言われる、『人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。』とはどういう意味なのか、まさかヨハネが処刑されたように、イエス様も処刑されることになるということなのか!」弟子たちの間に、不穏な空気が流れ始めました。あの素晴らしいイエス様の変貌を目撃し、モーセとエリヤが我々の主と共にお話しをしておられた、これほど名誉で誇らしいことがあるだろうかと考えていた矢先に、「人の子も、そのように人々から苦しめられることになる」と意味深な言葉をイエス様が発せられたのです。あの素晴らしい光景と、やがて処刑される苦難の僕としてのメシア像が、あまりにも矛盾しているように思われ、あまりにも両極端であり、弟子たちの中ではどうしても、この二つの内容を心の中にストンと落とし込めることが出来なかったのでしょう。弟子たちの中でイエスというお方は、一緒にいればいるほど、益々どのようなお方なのか分からなくなりました。これら一切のことは、キリストの十字架と復活の後に、明らかにされるのです。

 なぜ、あの悲しい十字架の事件が、素晴らしく栄光の光景として描かれたのでしょうか。新約時代に生きる私たちにとっては、もうご存知のように、まさに十字架刑が神と人との恵みの契約の締結だったと言えるからです。古代、契約を締結する際に、動物が裂かれ、契約の当事者がその裂かれた動物の間を通り過ぎました。これは、万一、契約当事者のどちらか一方が、契約を破ってしまうなら、両側に裂かれた動物のような呪いが下るということを象徴的に表す儀式でありました。

神はイスラエルの民に「わたしがあなたの神となり、あなたは私の民となる」という契約を結ばれましたが、その契約は揺れやすい人間の行いに根拠が置かれているのではなく、不信仰で弱い人間の決断に根拠が置かれているのではなく、肉を取られ、マリアを通してお生まれになり、この世に来てくださった神の子であるキリストの行いに根拠が置かれているのです。キリストが十字架にかけられ、肉が裂かれ、血が流された時に、決して破棄されることがない、永遠の契約が締結されたのであります。この契約は、私たちの功労を一切必要とせず、ただ神からの一方的な恵みとして私たちに近づいて来るのです。

イエスが十字架によって処刑された時、ユダヤの当局者たちの反応は「ほーら見ろ、奴は自分の命さえ救えなかった。メシアでも神の子でもなかったではないか」と、結局、自分たちが正しかったと考えましたが、しかし、キリストの変貌を目撃した弟子たちにとっては、この変貌の事件と主イエスの言われた受難告知を思い出しながら、十字架につかれること、まさにそのことが、神の約束の頂点であり、キリストの贖いの働きの頂点であったということを悟ることができたのです。弟子たちの記憶に残り続けたキリストの変貌という、あの素晴らしい光景は、十字架の死という額縁(フォトフレーム)の中に入れられた美しい光景であり、それはキリストのエクソドスを予表し、指し示すものでありました。キリストの十字架の死こそ、罪びとに罪の赦しを与え、死の支配から解放させる、神の救済史の中で最も栄光に満ちた瞬間だったのです。

【結論】

 弟子たちの心に封印されていた高い山におけるキリストの変貌の事件の意味が、主イエスの十字架と復活の後に、堰を切ったように弟子たち明らかにされました。モーセとエリヤが現れて、主イエスとエルサレムで遂げようとされる最期(エクソドス)について語られた、あの事件の意味が、弟子たちに確信をもって説明できるようになったということです。キリストの変貌とは、恵みの契約を成就させた十字架の死を指し示すものであり、キリストの栄光の十字架、そのものであったということです。当時、十字架と言えば、泣く子も黙る呪いの象徴であり、誰もが忌み嫌うものでありましたが、キリストにあって、十字架の象徴する意味は、呪いから、神の栄光へ、そして、死から、赦しと命の希望へと180度転換させられたのです。使徒たちはこの「キリストの十字架」を力強く語り告げる者へと変えられました。私たちも、罪の赦しを得させ、死の支配から解放させる、この十字架の福音に心から感謝しつつ、使徒たちのように、この十字架の福音を大胆に世の人々に宣べ伝えて行く者とさせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

그리스도의 변형

2021년 11월 20일 설교 카와에 토모아키 목사

마태복음 17장 1~13절

서론

제자들은 예수님과 함께 생활할수록, 이분이 대체 어떤 분인지 알 수 없게 되었습니다. 당시 유대 지도자들이 예수님을 이해한 방식은, 나사렛 출신의 청년이 병을 고치고 수많은 기적을 행하며, 백성을 혼란에 빠뜨리고, 하나님의 나라가 왔다고 선전하며, 기존 체제를 뒤엎으려는 혁명가라는 것이었습니다. 그러나 함께 생활하는 제자들의 이해는, 바로 오늘 본문 앞부분에서 베드로를 대표하여「주는 그리스도시요 살아 계신 하나님의 아들이시니이다」라고 고백한 지 얼마 되지 않았습니다(마16:16). 그런데 이 제자들의 신앙 고백을 받으시고, 예수님께서는 자신의 죽음과 부활에 관한 수난 예고를 하셨습니다. 왜 살아 계신 하나님의 아들, 메시아가 장로들과 대제사장들과 서기관들에게 많은 고난을 받고 죽임을 당해야 하는가? 주 예수님께서 말씀하신 「고난받는 종으로서의 메시아상」이 도저히 납득할 수 없는 문제로 제자들의 마음에 계속 걸려 있었던 것 같습니다.

(1) 변형의 목적(예루살렘에서 이루어지려는 엑소더스)

베드로의 신앙 고백 후 엿새가 지나자, 주 예수께서는 베드로와 야고보와 요한 세 사람만을 데리고 높은 산에 오르셨습니다. 그 산에서 그분은 자신의 변형의 기적을 보여주셨습니다. 예수님의 모습이 그들의 눈앞에서 변하여 얼굴은 해처럼 빛나고 옷은 빛처럼 희어졌다고 합니다. 그리고 놀랍게도, 그들의 눈앞에 모세와 엘리야가 나타나 예수님과 함께 이야기하고 있지 않습니까?

모세는 예수님 시대보다 1300~1500년 전에 살았던 인물로, 모세 오경이라 불리는 율법서를 기록한 이스라엘의 해방자입니다. 그는 시내 산에 올라 주 여호와의 말씀을 이스라엘 백성을 위해 전했는데, 그때마다 모세의 얼굴이 빛났다고 구약성경에 기록되어 있습니다. 이때 예수님의 얼굴 빛은 모세와 같은 빛이었을까요? 또한 엘리야는 예수님 시대보다 900년 전에 살았던 인물로, 하나님의 심판을 상징하는 예언자이며, 종말의 날에 다시 나타날 것이라고 예언된 인물입니다. 그들이 예수님께 와서 대체 무슨 이야기를 나누었는지, 마태복음에는 자세히 기록되어 있지 않습니다. 다만, 눅 9:31에 따르면, 예수님께서 예루살렘에서 이루려 하시는 「마지막(엑소더스)」에 대해 이야기하고 있었다고 합니다. 참고로 헬라어 엑소도스(ἔξοδος)는 「나가다」라는 뜻이지만, 그 외에도 「세상을 떠나다(별세)」 혹은 「마지막」으로 번역될 수 있는 단어입니다. 예를 들어 출애굽기는 헬라어로는 「엑소더스」라는 제목이지만, 직역하면 「나가다」, 「탈출」이라는 의미가 될 것입니다. 이스라엘 백성에게 그것은 이집트에서의 노예 생활로부터의 해방, 탈출을 의미했습니다. 그러나 예수님께서 엑소더스라는 단어를 사용하실 때는 그 의미가 「마지막」 혹은「이 세상을 떠나는 것」이 됩니다. 왜냐하면 예수님께 엑소더스란 자신이 희생의 어린 양으로 바쳐지는 것을 의미했기 때문입니다. 제자들은 이 시점에서 아직 깨닫지 못했지만, 예수님의 엑소더스는 궁극적으로 자신의 십자가 죽음을 의미했던 것입니다. 이 놀라운 상황은, 사실 곧 예루살렘에서 이루어질 주 예수님의 십자가 형벌을 예표하며, 구속의 죽음을 가리키고 있었던 것입니다. 그 끔찍한 십자가의 죽음이, 베드로를 비롯한 다른 제자들도 한순간에 도망치게 만든 그 슬픈 사건이, 놀랍고 영광스러운 출애굽으로 묘사되고 있는 것입니다. 그런 사실을 전혀 모른 채 세 제자는 놀라운 광경을 목격하고 꿈결처럼 취해 있었으며, 베드로는 이렇게 말하고 있습니다. 4절입니다.

4 베드로가 예수께 여쭈어 이르되 주여 우리가 여기 있는 것이 좋사오니 만일 주께서 원하시면 내가 여기서 초막 셋을 짓되 하나는 주님을 위하여, 하나는 모세를 위하여, 하나는 엘리야를 위하여 하리이다

다른 복음서에 따르면, 베드로는,「자기가 하는 말을 자기도 알지 못하더라 (눅 9:33) 」라고 기록되어 있습니다. 그러므로 그는 이 놀라운 상태가 오래 지속되기를, 이 천국 같은 상태에 영원히 머물고 싶다고 간절히 바랐을 것입니다. 그래서 제발, 임시 장막을 지어 드리겠으니 꼭 편히 쉬어가시라고, 그리고 우리가 이곳에 올 때마다 이런 체험을 할 수 있게 해 달라고 제안한 것입니다.

(2) 하나님의 현현

그런 베드로의 말을 막는 듯이, 빛나는 구름이 그들을 덮었고, 구름 속에서 「이는 내 사랑하는 아들이요 내 기뻐하는 자니 너희는 그의 말을 들으라」는 음성이 들려왔습니다. 5~7절을 보십시오.

5 말할 때에 홀연히 빛난 구름이 그들을 덮으며 구름 속에서 소리가 나서 이르시되 이는 내 사랑하는 아들이요 내 기뻐하는 자니 너희는 그의 말을 들으라 하시는지라

6 제자들이 듣고 엎드려 심히 두려워하니

7 예수께서 나아와 그들에게 손을 대시며 이르시되 일어나라 두려워하지 말라 하시니

성경에서「구름」은 하나님의 영광의 임재가 나타날 때 종종 사용됩니다. 제자들은 하늘에서 들려온 아버지의 음성을 듣고 엎드려 매우 두려워했습니다. 아마도 이때 하나님의 현현이 일어나, 하나님의 모습을 인간이 제대로 견딜 수 없었던 것 같습니다. 만약 하나님의 영광을 인간이 그대로 본다면, 더러운 인간은, 견딜 수 없어 죽을 수밖에 없습니다. 그만큼 하나님과 죄를 지은 인간 사이에는 큰 단절이 존재하는 것입니다. 이스라엘 백성에게 시내 산 정상에 올라가 줄, 중재자 모세가 반드시 필요했던 것처럼, 죄인인 인간에게 중재자이신 예수 그리스도가 반드시 필요한 것입니다. 두려움에 떨고 있는 제자들에게 예수님께서 다가오셔서 그들에게 손을 대 주셨습니다. 7절의「일어나라. 두려워하지 말라」는 예수님의 말씀의 동사를 보면, 「에게이로」라는 동사가 수동태로 기록되어 있습니다. 즉 「두려워하지 말라, 일으키다, 깨우다, 부활시키다」는 의미입니다. 이 수동태의 주체가 누구냐 하면, 생략되어 있지만 하나님이십니다. 「하나님에 의해」 일어나게 되는 것, 「하나님에 의해」 일으켜지는 의미입니다. 제자들이, 예수님께서 만져 주시고 일으켜 주셔서 얼굴을 들어 올려 보니, 거기에는 예수님 외에는 아무도 없었습니다.

(3) 양극단의 대비

이 신비로운 예수님의 변형 사건에 대해 제자들은 이때에는 아직 충분히 깨닫지 못했기 때문에, 이 사건의 기억은 수수께끼로 그들의 마음속에 봉인된 채로 남게 되었습니다. 이어서 9~10절을 보십시오.

9 그들이 산에서 내려올 때에 예수께서 명하여 이르시되 인자가 죽은 자 가운데서 살아나기 전에는 본 것을 아무에게도 이르지 말라 하시니

10 제자들이 물어 이르되 그러면 어찌하여 서기관들이 엘리야가 먼저 와야 하리라 하나이까

예수님께서 인자가 죽은 자 가운데서 살아나기 전까지는 지금 본 것을 아무에게도 말하지 말라고 하셨으니, 아마도 예수님의 십자가 죽음과 부활 이후, 그때가 되어서야 비로소 모든 것이 밝혀질 것이라는 뜻일 것입니다. 그런데 당시 대부분의 이스라엘 사람들은 말라기 선지자의 예언, 즉 마지막 날에 엘리야가 올 것이라는 예언을 알고 있었습니다. 서기관들은 이를 근거로 메시아가 오기 전에 먼저 엘리야가 와야 하므로, 그 나사렛 사람 예수는 메시아가 아니며, 메시아일 리가 없다고 변명하는 논리를 펼쳤던 것입니다. 제자들이「어찌하여 서기관들이 엘리야가 먼저 와야 하리라 하나이까」라고 묻자, 예수님께서는 「엘리야가 과연 먼저 와서 모든 일을 회복하리라」라고 서기관들의 말을 그대로 인정하셨습니다. 그러나 더 나아가 덧붙이셨습니다. 17:12-13절을 보십시오.

12 내가 너희에게 말하노니 엘리야가 이미 왔으되 사람들이 알지 못하고 임의로 대우하였도다 인자도 이와 같이 그들에게 고난을 받으리라 하시니

13 그제사야 제자들이 예수께서 말씀하신 것이 세례 요한인 줄을 깨달으니라

사실 세례 요한이 바로 메시아의 선구자로 나타나야 할 엘리야라는 사실을, 이전에 마11:4절에서 예수님의 입을 통해 직접 밝혀진 바 있었습니다. 이번에 다시, 마지막 날에 나타나야 할 엘리야가 세례 요한임을 암시하여 주셨기에, 제자들은 곧 깨닫고, 「아, 그렇구나. 분명 예전에도 말씀하셨듯이, 그 감옥에서 목이 참수당한 세례 요한이 바로 종말에 나타날 엘리야였지. 그렇구나, 그렇구나」라고 생각하며, 「아니, 잠깐만, 그렇다면 예수님께서 말씀하신 “인자도 그와 같이 사람들에게 고난을 받게 될 것이다.”라는 말은 무슨 뜻일까? 설마 요한이 처형당한 것처럼 예수님도 처형당하게 된다는 뜻인가!」 제자들 사이에 불안한 분위기가 흐르기 시작했습니다. 그 놀라운 예수님의 변형를 목격하고, 모세와 엘리야가 우리 주님과 함께 이야기하고 계셨던, 이보다 더 영광스럽고 자랑스러운 일이 있을까 생각하던 바로 그때, 「인자도 이와 같이 그들에게 고난을 받으리라」라는 의미심장한 말씀을 예수님께서 하신 것입니다. 그 놀라운 광경과, 곧 처형당할 고난의 종으로서의 메시아상이 너무나 모순되어 보이고, 너무나 양극단이어서 제자들 마음속에는 이 두 내용을 도저히 납득할 수 없었던 모양입니다. 제자들 사이에서 예수라는 분은, 함께 있을수록 오히려 어떤 분인지 더 알 수 없게 되었습니다. 이 모든 일은 그리스도의 십자가와 부활 후에야 비로소 밝혀지게 됩니다.

왜 그 슬픈 십자가 사건이 놀랍고 영광스러운 광경으로 묘사되었을까요? 신약 시대에 사는 우리에게는 이미 잘 알려진 바와 같이, 바로 십자가 형벌이, 하나님과 사람 사이의 은혜로운 계약 체결이었다고 말할 수 있기 때문입니다. 고대에는 계약을 체결할 때 동물을 갈라놓고 계약 당사자들이 그 갈라진 동물 사이를 지나갔습니다. 이는 만일 계약 당사자 중 한 쪽이 계약을 어기면 양쪽 모두 갈라진 동물과 같은 저주가 내릴 것임을 상징적으로 나타내는 의식이었습니다.

하나님은 이스라엘 백성에게 「내가 너희의 하나님이 되고 너희는 나의 백성이 되리라」는 언약을 맺으셨는데, 그 언약은 흔들리기 쉬운 인간의 행위에 근거를 둔 것이 아니며, 불신앙하고 연약한 인간의 결정에 근거를 둔 것이 아니라, 육신을 취하시고 마리아를 통해 태어나 이 세상에 오신, 하나님의 아들 그리스도의 행위에 근거를 둔 것입니다. 그리스도께서 십자가에 달리시고, 육신이 찢기시고, 피가 흘러내리셨을 때, 결코 파기될 수 없는 영원한 언약이 체결된 것입니다. 이 언약은 우리의 공로를 전혀 필요로 하지 않고, 오직 하나님으로부터의 일방적인 은혜로서 우리에게 다가오는 것입니다.

예수께서 십자가에 처형되셨을 때, 유대인 지도자들의 반응은 「자, 보라. 저 자는 자기 목숨조차 구하지 못했구나. 메시아도 하나님의 아들도 아니지 않느냐」며 결국 자신들이 옳았다고 생각했습니다. 그러나 그리스도의 변형를 목격한 제자들에게는 이 변형 사건과 주 예수께서 말씀하신 수난 예고를 떠올리며, 십자가에 못 박히심, 바로 그 일이 하나님의 약속의 정점이며 그리스도의 구속 사역의 정점이었다는 것을 깨달을 수 있었습니다. 제자들의 기억 속에 계속 남아 있던 그리스도의 변형이라는 그 놀라운 광경은, 십자가의 죽음이라는 액자(포토프레임) 안에 담긴 아름다운 광경이었으며, 그것은 그리스도의 부활을 예표하고 가리키는 것이었습니다. 그리스도의 십자가 죽음이야말로 죄인에게 죄 사함을 주시고 죽음의 지배로부터 해방시키는, 하나님의 구원 역사 속에서 가장 영광스러운 순간이었습니다.

적용

제자들의 마음에 봉인되어 있던 높은 산에서의 그리스도의 변형 사건의 의미가, 주 예수님의 십자가와 부활 이후에 둑이 터지듯 제자들에게 분명히 드러났습니다. 모세와 엘리야가 나타나 주 예수님과 예루살렘에서 이루려 하시는 마지막(엑소도스)에 대해 이야기했던 그 사건의 의미가, 제자들에게 확신을 가지고 설명할 수 있게 되었다는 것입니다. 그리스도의 변형은, 은혜의 언약을 성취하신 십자가의 죽음을 가리키는 것이며, 그리스도의 영광스러운 십자가 그 자체였습니다. 당시 십자가는 울던 아이도 잠잠해질, 저주의 상징으로, 누구도 꺼리는 것이었지만, 그리스도 안에서 십자가가 상징하는 의미는 저주에서 하나님의 영광으로, 죽음에서 용서와 생명의 소망으로 180도 전환되었습니다. 사도들은 이 「그리스도의 십자가」를 힘차게 전하는 자들로 변화되었습니다. 우리도 죄 사함을 얻게 하고 죽음의 지배에서 해방시키는 이 십자가의 복음에 진심으로 감사하며, 사도들처럼 이 십자가의 복음을, 담대히 세상에 선포해 나가는 자가 되도록 합시다.

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