2021年11月20日「キリストの変貌」

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17:1六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
17:2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
17:3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
17:4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
17:5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
17:6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
17:7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
17:8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
17:9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
17:10彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
17:11イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。
17:12言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」
17:13そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 17章1節~13節

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【序】

 弟子たちはイエス様と生活を共にすればすれほど、この方は一体どのようなお方なのか分からなくなりました。このイエスに対する当時のユダヤ当局者たちの理解とは、ナザレ出身の青年が病の癒しや数々の奇跡を行い、民衆を混乱させ、神の国が到来したと吹聴し、既存の体制を覆そうとしている革命家というようなものでした。しかし、一緒に生活している弟子たちの理解は、ちょうど本日の記事の前のところで、ペトロを代表し、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したばかりであります(マタイ16:16)。ところがこの弟子たちの信仰告白を受けて、イエス様は、ご自身の死と復活に関する受難告知をされたのであります。なぜ、生ける神の子、メシアが、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺されなければならないのか、主イエスの言われる、「苦難の僕としてのメシア像」が、どうしても納得のいかない問題として弟子たちの心に悶々と引っかかっていたように思われます。

【1】. 変貌の目的(エルサレムで遂げようとされるエスソドス)

 ペトロの信仰告白から六日の後、主イエスはペトロとヤコブとヨハネの三人だけを連れて高い山に登り、その山においてご自身の変貌の奇跡を見せられました。イエス様の姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったというのです。そして、なんと、彼らの目前にモーセとエリヤが現れ、イエス様と共に語り合っているではありませんか。

 モーセとは、イエス様の時代から1300~1500年前の人物で、モーセ五書と呼ばれる律法の書を記録したイスラエルの解放者です。彼はシナイ山に登り、主ヤハウェの御言葉をイスラエルの民のために取り次ぎましたが、その度にモーセの顔は光り輝いたと旧約聖書に書かれています。この時のイエス様の顔の輝きとは、モーセのような輝きだったのでしょうか。また、エリヤとはイエス様の時代から900年前の人物で、神の裁きを象徴する預言者であり、終末の日に再び現れると言われていた預言者です。彼らがイエス様のところに来て、一体何を話し合っていたのか、マタイによる福音書には詳しく書かれていません。ただ、ルカによる福音書9:31によれば、イエス様がエルサレムで遂げようとされる「最期(エクソドス)」について話していたとあります。因みにギリシア語のエクソドスἔξοδοςとは、「出て行くこと」ですが、それ以外にも「世を去ること」或いは「最期」とも訳すことができる言葉です。例えば、出エジプト記は、ギリシア語では「エクソドス」というタイトルですが、直訳すると「出て行くこと」、「脱出」、という意味になると思います。イスラエルの民にとって、それはエジプトにおける奴隷生活からの解放、脱出を意味しました。しかし、イエス様がエクソドスという言葉を使う時には、その意味は、「最期」或いは「世を去ること」という意味になります。なぜならイエス様にとってエクソドスとは、ご自分が犠牲の子羊として捧げられることを意味したからです。弟子たちはこの時点でまだ気づいていませんが、イエス様のエクソドスとは、突き詰めて言うなら、ご自身の十字架の死を意味していたということです。この素晴らしい状況は、実は、間もなくエルサレムで成就されるであろう、主イエスの十字架刑を予表し、贖いの死を指し示していたのです。あの恐ろしい十字架の死が、ペトロをはじめ他の弟子たちも一目散に逃げるようにさせた、あの悲しい事件が、素晴らしく栄光のエクソドスとして描かれているのです。そんなことを、つゆ知らず三人の弟子たちは、素晴らしい光景を目撃し、夢心地となり、ペトロは次のように言っています。4節です。

“主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。”

他の福音書をよると、「ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかった(ルカ9:33)」と記されていますから、彼としては、とにかくこの素晴らしい状態が長続きしてほしい!この天国のような状態にいつまでも留まっていたい!と願ったのでしょう。そこで、どうか仮小屋を造りますから、是非ゆっくりして行ってください。そして我々がここに来る度に、このような体験ができるようにしてくださいと、提案したわけです。

【2】. 神の顕現

 そんなペトロの言葉を遮るかのように、光り輝く雲が彼らを覆い、そして「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえてきました。5~7節をご覧ください。

“ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」”

聖書で「雲」とは、神の栄光の臨在が現れる時にしばしば用いられます。弟子たちは、天から聞こえてきた御父の声を聞いてひれ伏し、非常に恐れました。恐らくこの時に、神様の顕現が起こり、神様の顕れを人間がまともに耐え得ることができなかったということだと思われます。もし、神の栄光を人間がそのまま見てしまうなら、汚れている人間には、とても耐えることができず死ぬ他はありません。それほどまでに、神様と罪を犯してしまった人間との間には、大きな断絶が存在しているのです。イスラエルの民にとって、シナイ山の頂上に登ってくれる仲介者モーセがどうしても必要だったように、罪人である人間にとって、仲介者であるイエス・キリストがどうしても必要なのです。恐れおののく弟子たちに、イエス様は近づかれ、彼らに手を触れてくださいました。7節の「起きなさい。恐れることはない」というイエス様の言葉の動詞を見ると、エゲイロ―という動詞が受動態で書かれています。つまり「恐れることはない、起きるようにさせられなさい、蘇らされなさい、復活させられなさい」という意味です。この受動態の主体は誰かと言えば、省略されていますが神様になります。「神様によって」起きるようにさせられる、「神様によって」立ち上がらせていただくという意味です。弟子たちはイエス様に触れていただき、立ち上がらせていただき、顔を上げて見ると、そこにはイエス様の他には誰もいませんでした。

【3】. 両極端のコントラスト

 この不思議なイエス様の変貌事件について、弟子たちは、この時にはまだ十分に悟ることが出来ませんでしたから、この事件の記憶は謎として、彼らの心の中に封印されたままとなりました。続いて9~10節をご覧ください。

“一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。”

イエス様が人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならないと言われたので、恐らくイエス様の十字架の死と復活の後、その時になって初めてすべてのことが明らかにされるという事なのでしょう。ところで、当時、ほとんどのイスラエルの人々は、終わりの日にエリヤが来るという、預言者マラキの預言を知っていました。そのことを持って、律法学者たちは、メシアが来る前にまずエリヤが来るはずだから、あのナザレのイエスという男はメシアではない、メシアのはずがないと、言い分けの論法にしていたわけです。なぜ、エリヤ来ると言っているのですかという弟子たちの質問に対し、イエス様は「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする」と、律法学者たちの言葉をそのまま肯定されました。しかし、さらに踏み込んで付け加えています。17:12~13節をご覧ください。

“言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。”

実は、洗礼者ヨハネこそ、メシアの前触れとして現れるはずのエリヤであるということを、以前、マタイ11:4においてイエス様の口から直接、明らかにされたことがありました。今回、再び、終わりの日に現れるはずのエリヤが、洗礼者ヨハネであることを遠巻きにお示しになられましたので、弟子たちはすぐに感づいて、「あ~、そうだった。確か以前にもおっしゃっていたように、あの牢の中で首を斬首された洗礼者ヨハネこそ、終末に現れるエリヤだったっけ。なるほど、なるほど」と思い、「いや、ちょっと待てよ、それならイエス様の言われる、『人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。』とはどういう意味なのか、まさかヨハネが処刑されたように、イエス様も処刑されることになるということなのか!」弟子たちの間に、不穏な空気が流れ始めました。あの素晴らしいイエス様の変貌を目撃し、モーセとエリヤが我々の主と共にお話しをしておられた、これほど名誉で誇らしいことがあるだろうかと考えていた矢先に、「人の子も、そのように人々から苦しめられることになる」と意味深な言葉をイエス様が発せられたのです。あの素晴らしい光景と、やがて処刑される苦難の僕としてのメシア像が、あまりにも矛盾しているように思われ、あまりにも両極端であり、弟子たちの中ではどうしても、この二つの内容を心の中にストンと落とし込めることが出来なかったのでしょう。弟子たちの中でイエスというお方は、一緒にいればいるほど、益々どのようなお方なのか分からなくなりました。これら一切のことは、キリストの十字架と復活の後に、明らかにされるのです。

 なぜ、あの悲しい十字架の事件が、素晴らしく栄光の光景として描かれたのでしょうか。新約時代に生きる私たちにとっては、もうご存知のように、まさに十字架刑が神と人との恵みの契約の締結だったと言えるからです。古代、契約を締結する際に、動物が裂かれ、契約の当事者がその裂かれた動物の間を通り過ぎました。これは、万一、契約当事者のどちらか一方が、契約を破ってしまうなら、両側に裂かれた動物のような呪いが下るということを象徴的に表す儀式でありました。

神はイスラエルの民に「わたしがあなたの神となり、あなたは私の民となる」という契約を結ばれましたが、その契約は揺れやすい人間の行いに根拠が置かれているのではなく、不信仰で弱い人間の決断に根拠が置かれているのではなく、肉を取られ、マリアを通してお生まれになり、この世に来てくださった神の子であるキリストの行いに根拠が置かれているのです。キリストが十字架にかけられ、肉が裂かれ、血が流された時に、決して破棄されることがない、永遠の契約が締結されたのであります。この契約は、私たちの功労を一切必要とせず、ただ神からの一方的な恵みとして私たちに近づいて来るのです。

イエスが十字架によって処刑された時、ユダヤの当局者たちの反応は「ほーら見ろ、奴は自分の命さえ救えなかった。メシアでも神の子でもなかったではないか」と、結局、自分たちが正しかったと考えましたが、しかし、キリストの変貌を目撃した弟子たちにとっては、この変貌の事件と主イエスの言われた受難告知を思い出しながら、十字架につかれること、まさにそのことが、神の約束の頂点であり、キリストの贖いの働きの頂点であったということを悟ることができたのです。弟子たちの記憶に残り続けたキリストの変貌という、あの素晴らしい光景は、十字架の死という額縁(フォトフレーム)の中に入れられた美しい光景であり、それはキリストのエクソドスを予表し、指し示すものでありました。キリストの十字架の死こそ、罪びとに罪の赦しを与え、死の支配から解放させる、神の救済史の中で最も栄光に満ちた瞬間だったのです。

【結論】

 弟子たちの心に封印されていた高い山におけるキリストの変貌の事件の意味が、主イエスの十字架と復活の後に、堰を切ったように弟子たち明らかにされました。モーセとエリヤが現れて、主イエスとエルサレムで遂げようとされる最期(エクソドス)について語られた、あの事件の意味が、弟子たちに確信をもって説明できるようになったということです。キリストの変貌とは、恵みの契約を成就させた十字架の死を指し示すものであり、キリストの栄光の十字架、そのものであったということです。当時、十字架と言えば、泣く子も黙る呪いの象徴であり、誰もが忌み嫌うものでありましたが、キリストにあって、十字架の象徴する意味は、呪いから、神の栄光へ、そして、死から、赦しと命の希望へと180度転換させられたのです。使徒たちはこの「キリストの十字架」を力強く語り告げる者へと変えられました。私たちも、罪の赦しを得させ、死の支配から解放させる、この十字架の福音に心から感謝しつつ、使徒たちのように、この十字架の福音を大胆に世の人々に宣べ伝えて行く者とさせていただきましょう。

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