2021年11月14日「安息日の成就 안식일의 성취」

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安息日の成就 안식일의 성취

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 1章29節~34節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:29すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
1:30シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。
1:31イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
1:32夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。
1:33町中の人が、戸口に集まった。
1:34イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 1章29節~34節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 私は、25歳の時に洗礼を受けたのですが、洗礼を受けて間もないころ、教会の牧師が私の家まで家庭訪問をしてくれました。そして、まだ信仰を持っていない私の両親とお茶を飲みながら、しばしの時間、交わってくださったのを覚えています。その時に交わされた話の内容は全く覚えていませんが、その時の状況が私自身にとって、大変、違和感のあるものであり、自分の常識を覆されたかのような出来事として、印象深く、覚えております。というのは、恐らく自分の心の中で、家と教会というのは全く別物であって、教会は「聖なるところ」だけれども、家はまだ、イエス様を受け入れていない「世俗的なところ」という認識があり、その全く馴染みのない二つの世界が、牧師が訪問してくださったことによって、教会の延長線上に自分の家があるということを改めて認識させられ、自分の家に新しい息吹が吹き込められたように感じたからでした。最初は、「牧師の家庭訪問なんか、なくてもいいのに」、と思っていましたが、年を重ねるごとに、あの時、自分の家までわざわざ牧師が来てくださったことが、本当に有難く感じるようになりました。本日の箇所は、イエス様がシモンと兄弟アンデレの家に家庭訪問する話でございます。シモンとはペトロのことですが、彼は漁師であり、彼の家は、ガリラヤ湖に面した漁師の町カファルナウムにありました。1:29~30をご覧ください。

【1】. イエス様の家庭訪問

 “すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。”

29節に「一行は会堂を出るとすぐ」とあります。イエス様はなぜ会堂にいたのかというと、その日は安息日でしたので、会堂で御言葉を語り、礼拝を捧げていました。当時、会堂は安息日に人々が礼拝を捧げる場所でありまして、そのような聖なる場所に、1:23に書かれているように、こともあろうに汚れた霊につかれた人がそこにいたのです。イエス様は圧倒的な権威によって、その人から悪霊を追い出されました。その後、会堂を出られると、直ちにシモンとアンデレの家に向かいました。この時、果たして、シモンかアンデレのどちらかが、「先生、私の家に来てください」と申し出たのでしょうか。ある牧師は、この点について次のように推測しています。そのまま読みます。

「彼ら(シモンとアンデレ)は自分の奥さんにも断らず、まして姑にも断らず、家族を捨てた。網を捨てたのです。家族の生活のことなど放り出した。まことに乱暴なことをやったのです。そういう乱暴なことをした人間が、そんなにおめおめと、家に帰って行くわけにはいかない。もともと主イエスが『ついて来い』とおっしゃったのだからこそ、捨てた家なのです。自分たちには関係がなくなったのです。自分は出家した。家とは無縁になった。そのように、自分は主イエスに従ったのです。」(引用:加藤常昭著 マルコによる福音書Ⅰ)

つまり、出家した者として、家とは無縁になった者として、「どうぞ私の家に来てください」などと言えるはずはなく、イエス様の方から「シモン、これからお前の家に行こう」と言われたに違いないと言うのです。イエス様の訪問は、シモンにとっても思いがけないものだったに違いありません。彼らが家に到着すると、シモンの姑が熱を出して寝ていました。「人々は早速、彼女のことをイエスに話した」とあります。恐らく姑の状況がとてもひどかったのでしょう。他の福音書の並行箇所を見ると、医者のルカは「姑が高い熱に苦しんでいた」と報告しています。ペトロの姑がなぜ高い熱に苦しんでいたのか、その理由ははっきりとは分かりませんが、この状況から推測できるのは、娘婿のせいだった可能性が十分に考えられるのではないでしょうか。漁師であったシモンがある日、一人の宗教家の青年に会った途端、「あの方が来られました」と家族に一言残し、すべてを放り投げて従っていったのです。残された姑とシモンの妻にとってはどんなに理不尽なことが起こったことでしょうか。「家族のことはどうするのか?」「私の老後のことはどうするのか?」不安、怒り、不平・不満などの感情が、次から次に込み上げてきたと思います。まだ、信仰に導かれていない姑にとっては、当然な反応だったと考えられます。娘婿、シモンの献身によって、家族の中にこれほどの大きな禍根を残したのです。そのような女性にイエス様は訪問してくださいました。31節をご覧ください。

“イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。”

「手を取って起こされると」とありますが、この「起こされた」という言葉に注目しますと、これはギリシャ語で「エゲイロー」という言葉です。よく「蘇らせる」と翻訳されて使用される言葉であります。イエス様は、単に熱病の姑を治療しただけではありませんでした。霊の目を開いてくださり、霊的に死んでいる状態から蘇らせて下さった。エゲイローして下さったのです。新しく生まれ変わったシモンの姑は、何をしたと書いてありますか。イエス様に向かって「うちの婿に漁師の仕事に戻って来るように、言い聞かせてください」とは言いませんでしたね。「一同をもてなし始めた」と書いてあります。英語の聖書ではシモンの姑が、一同にサービスする人に、つまり、兄弟姉妹に仕える人に変えられたとあります。この光景を見て、一番うれしかったのは間違いなく、ペトロだったでしょう。自分が信じ、自分の全てをかけて仕えてきたイエス様を、姑も受け入れてくれた、共に神の御言葉に仕え、共にイエス・キリストの父なる神に礼拝を捧げることができるということは、なんという喜びでしょうか。恐らくこの時、ペトロの心の中で、会堂とペトロの自宅との間にあった、聖と俗の壁が崩された瞬間だったのではないかと思います。昔、東西ドイツを分ける、あのベルリン壁が崩されたかのように、隔ての壁が崩され、歓喜して躍り上がったのではないでしょうか。この出来事は、今日の私たちにも、容易に想像できるのではないかと思います。例えば、日曜日の朝、せんげん台教会の礼拝堂に家族ぐるみで来ることが出来るご家庭は、指で数えるほどしかありません。ほとんどの兄弟姉妹が、家族に対して、教会に一緒に行こうと言っても断られてしまい、しょうがなく家族を置いて、一人で礼拝を捧げているんだと思います。礼拝を家族と一緒に捧げられない寂しさ、お一人お一人のそんな思いを、イエス様は決して忘れることなく覚えておられ、ペトロの姑を蘇らせる奇跡を、行ってくださったのだと思います。このような奇跡が今日も行われるよう、私たちもイエス様に期待し、また、互いに熱心に家庭訪問をしてまいりましょう。

【2】. 安息日の意味

 ところで、イエス様は安息日に会堂において悪霊を追い出し、安息日にシモンの家で病気の治療をしていますが、当時、「これは律法違反ではないのか」、と考える律法の専門家がもしかしたらいたかもしれません。ただ、一般的な解釈では、命を救う義務が、安息日規定より優先すると考えられていたため、安息日に病気を治療することは、律法違反にはならなかったようです(ルカ14:5-6)。安息日が規定されている第四戒をもう一度確かめてみましょう。出エジプト記20:8~11をご覧ください。

“安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。”

神様が天と地と海とそこにあるすべてのものを造られたため、あなたも、息子も、娘も男女の奴隷も、家畜も、町の門の中に寄留する人々も、七日目は、いかなる仕事もしてはならないとあります。つまり、当時、安息日とは、「神様が私たちの創造主であるということを覚え、感謝する日であった」、と言い換えることができるでしょう。神様は万物をただ創造されただけではなく、それらを神の摂理に従って保ち、守っていてくださっています。ですから、神の創造を覚え、感謝するという事は、延いては私たちを、幸せに生きて行くことが出来るように守り、顧みてくださっていることを覚え、感謝することまで含まれています。安息日を守るということは、私たちが自分の力で生きているのではなく、神様が私たちを日々食べさせてくださっていることを、告白し、感謝することなのです。万一、安息日に仕事をするのなら、その人は、あたかも、この世を自分の力によって生きていると、主張しているかのようであります。あたかも、神によって生かされているということを否定し、神の良き創造を無視するかのようであります。

それでは、律法違反ではないとしても、イエス様はなぜこの安息日に、あえて仕事をなされたのでしょうか。結論から言いますと、その理由は、罪によって安息を享受できなくなった人々に、安息を味わうことができるようにするためでありました。罪の故に安息日を味わうことができない人々にあって、安息日を成就させるために仕事をなされたということです。

神様を信じない人は、自分は食べるものがあり、衣服があり、住む家があるなら、つまりお金さえ十分にあるなら、この世で安息を享受することができると言うかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。人間は決してそのような単純なものではありませんね。たとえ豊かな生活の中に置かれていても、私たちの中の罪の問題が解決されない限り、決して平安は訪れることなく、安息を得ることが出来ません。聖書には罪の代価は死であると書かれています。私たち罪びとは常に、死の影である、病や、老化、体力の衰え、不安と心配、恐怖に脅かされて生き、やがては死を迎えるのです。従いまして、人間は、死の問題、罪の問題が解決されない限り、決して真の安息を享受することはできないのです。罪が解決されていない人、霊的に死の中にある人は、この世で全てのものを手に入れたとしても、安息を得ることはできないのです。

ですから、イエス様は安息日に悪霊を追い出し、病気の治療をなされ、罪と死の力に捕らわれていた者を解放し、蘇らせる奇跡をされたのです。それは、神の創造の御業を回復する、まさに安息日に相応しい奇跡でありました。イエス様が安息日になされた仕事とは、人間が罪を犯してしまった後に、サタンによって支配されたこの世にあって、サタンから再びこの世を奪い返し、創造の秩序を回復させ、安息日が成就されたことを象徴するものであったのです。ですから、私たちが真の安息を享受しようとするなら、イエス様によって手を取って起こされて、新しく生まれ変わらなければなりません。イエス・キリストを信じることによって、この新しい創造が私たちの上に臨まなければなりません。パウロは「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」(Ⅱコリント5:17)と言っています。新しく生まれ変わった人は、安息日を本来の意味の安息として味わうことができ、神と教会に仕え、その日を聖別することができるのです。

【3】. 安息日の翌日

 さて、夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエス様のもとに連れてきました。ユダヤの一日は、夕方になって日が沈んでから始まります。つまり安息日が明けて、日付が変わった瞬間に、噂を聞いた人々は、一斉に夜道を押してイエス様の下に病人や悪霊に取りつかれた者を運んできた訳です。するとイエス様は、もう安息日は終わったので、しかも夜ですから、創造の御業を回復する仕事を拒否されたのでしょうか。そうではありませんでした。昼間と全く同じように彼らを癒し、多くの悪霊を追い出し、死の影に抑圧されている人々を解放し、安息を味わうことができるようにしてくださいました。イエス様が安息日を成就してくださいましたが、それは安息日だけのことではなく、次の日も、また、その次の日も、安息を味わうことができるようにしてくださったのです。現代に生きる私たちキリスト者は、主日に公同の礼拝を捧げ、神と教会に仕え、聖別するようにしていますね。そうしますと、次の月曜日は、会社の日だから、神と教会に仕えなくても良い、その次の火曜日は、近所の人々とのサークルの日、或いはクラブ活動の日だから神と教会に仕えなくても良い、ということなのでしょうか、そういう事ではないようです。月曜日も、火曜日も、水曜日も、同じように神と教会に仕え、聖別して過ごさなければならない、主の日であります。イエス様が、安息日も、そしてその次の日も、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、癒し、神の国の到来と神の安息が成就されたことを宣言してくださったように、私たちも主日だけを厳守して聖別するのではなく、月曜日も火曜日も水曜日も主の日として、神様と教会に仕え、安息を味わわなければなりません。そしてまだ、イエス様のことを知らず、病と、不安と、心配と、恐怖に怯えている方々に神様の福音を宣べ伝えて行きましょう。

【結論】

 イエス様は、まだ救われていなかった、ペトロの姑のことを覚えられ、安息日に救いに導いてくださいました。そしてペトロの家にも神の国が到来しました。ペトロは後に、妻を連れて福音を伝道する使徒として立てられています(Ⅰコリント9:5)。神様は、私たちのまだ救われていない家族のことも覚えてくださり、神様の時に、きっと救いに導いてくださることでしょう。そのことを信じ、神と教会にいよいよ熱心に仕えてまいりたいと思います。また、イエス様は安息日を成就させる仕事を、安息日の日も、またその次の日も、休まずになされました。私たちも神様と教会に仕え続け、休まずに礼拝を捧げて参りましょう。神様の創造を覚え、神様が私たちを愛してくださっていることを覚えること、これこそ真の安息だからです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

안식일의 성취

2021년 11월 14일 센겐다이교회 주일설교

마가복음1장 29~34절

서론

저는 25살 때 세례를 받았는데 세례를 받은 지 얼마 안됐을 때 교회 목사님께서 저희 집까지 가정방문을 해주셨습니다. 그리고 아직 믿음이 없는 저희 부모님과 차를 마시며 잠시 교제했던 기억이 납니다. 그때 오간 이야기의 내용은 전혀 기억이 나지 않지만, 그 때의 상황이 저 자신에게 매우 위화감 있고, 제 상식을 뒤집은 것 같은 사건으로 깊은 인상을 받은 것으로 기억합니다. 그 이유는 아마도 제 마음 속에서 집과 교회라는 것은 전혀 다른 곳이고, 교회는 「성스러운 곳」이지만 집은 아직 예수님을 받아들이지 않는 「세속적인 곳」이라는 인식이 있었고 그 전혀 생소한 두 세계가 목사님께서 방문해 주심으로서 교회의 연장선이 우리 집에 있다는 것을 다시 한 번 깨닫게 되면서 우리 집에 새로운 숨결이 불어닥친 것처럼 느껴졌기 때문이었습니다. 처음에는 “목사님의 가정방문 같은 거 없어도 되는데..”라고 생각했는데 해가 거듭될수록 그때 우리 집까지 일부러 목사님이 와 주신게 정말 감사하게 느껴졌습니다. 오늘의 대목은 예수님께서 시몬과 그 형제 안드레의 집에 가정방문 하시는 이야기입니다. 시몬이란 베드로를 말하는데, 그는 어부였고, 그의 집은 갈릴리 호수에 접한 가버나움에 있었습니다. 1장 29,30절을 참조해 주십시오.

(1) 예수님의 가정방문

29 회당에서 나와 곧 야고보와 요한과 함께 시몬과 안드레의 집에 들어가시니

30 시몬의 장모가 열병으로 누워 있는지라 사람들이 곧 그 여자에 대하여 예수께 여짜온대

29절에 「회당에서 나와 곧」이라고 되어 있습니다. 예수님이 왜 회당에 계셨느냐면 그날이 안식일이었기 때문에 회당에서 말씀을 전하고 예배를 드리고 있었습니다. 당시 회당은 안식일에 예배를 드리는 곳이었고, 그런 거룩한 곳에 1장 23절에 쓰여져 있듯이 하필 더러운 귀신들린 사람이 있었던 것입니다. 예수님의 압도적인 권위에 의해 그 사람으로 부터 더러운 귀신은 쫓겨났습니다. 그 후 회당을 나오자마자 시몬과 안드레의 집으로 향했습니다. 이때 과연 시몬이나 안드레 중 한 명이 “선생님, 우리 집에 와 주세요”라고 요청했을까요? 한 목사님이 이 점에 대해 다음과 같이 추측하고 있습니다. 그냥 읽어 드리겠습니다.

“그들(시몬과 안드레)은 자신의 부인에게도 양해를 구하지 않고 심지어 장모에게도 양해를 구하지 않고 가족을 버렸습니다. 그물을 버려 버린 것입니다. 가족의 생활 따위는 내평개쳤습니다. 정말 몹쓸 짓을 한 것이죠. 그런 몹쓸 짓을 한 인간이 뻔뻔스럽게 집에 갈 수는 없었습니다. 원래 주 예수님께서 『따라오너라』라고 하셨기 때문에 버린 집입니다. 자신들과는 관계가 없어진 것입니다. 자기는 출가했고 집과는 무관해졌습다. 그렇게 자신은 주 예수님을 따른 겁니다. (인용: 加藤常昭(카토 츠네아키) 지음 마가복음 1)”

즉 출가한 사람으로서 집과는 무관해진 사람으로서 “제발 저희 집에 와 주세요”라고 말할 수 있을 리 없고, 예수님께서 「시몬아, 이제 너희 집으로 가자」고 하셨을 것임이 틀림없다는 것입니다. 예수님의 방문은 시몬에게도 뜻밖의 것이었음에 틀림이 없습니다. 그들이 집에 도착하자 시몬의 장모가 열병이 나서 누워 있었어요. 「사람들이 곧 그 여자에 대하여 예수께 여짜온대」라고 되어 있습니다. 아마 장모의 상황이 상당히 안 좋았을 것입니다. 다른 복음서의 병행 부분을 보면 의사 누가는 “장모가 높은 열에 시달리고 있었다”고 보고 하고 있습니다. 베드로의 장모가 왜 높은 열에 시달리고 있었는지 그 이유는 명확하게 알 수 없지만, 이 상황으로 미루어 짐작할 수 있는 것은 사위 때문이었을 가능성이 충분히 생각되지 않을까요? 어부였던 시몬이 어느 날 한 종교가의 청년을 만나자마자 바로, “그분이 오셨어요”라고 가족들에게 한마디 남기고 모든 것을 내던지고 따라간 것입니다. 남겨진 장모와 시몬의 아내에게는 얼마나 불합리한 일이 벌어졌을까요? “가족은 어떻게 할 작정인가?” “내 노후는 어떻게 될 것인가?” 불안, 분노, 불평・불만 같은 감정들이 줄줄이 복받친 것 같아요. 아직 신앙이 없는 장모에게는 당연한 반응이었다고 생각됩니다. 사위 시몬의 헌신때문에 가족 안에 이렇게 큰 화근을 남긴 것입니다. 그런 상황의 여성에게 예수님은 방문해 주셨습니다. 31절을 보십시오.

나아가서 그 손을 잡아 일으키시니 열병이 떠나고 여자가 그들에게 수종드니라

「손을 잡아 일으키시니」라고 되어 있는데, 이 「일으키시니」라고 하는 단어에 주목해보자면, 이것은 그리스어로 「에게이로」라는 말입니다. 흔히 「소생시키다」라고 번역되어 사용되는 말입니다. 예수님은 단순히 열병에 걸린 장모를 치료한 것만은 아니었습니다. 영의 눈을 열어주시고 영적으로 죽은 상태에서 되살려 주셨다, 에게이로 해주신 것이죠. 새로 태어난 시몬의 장모는 무엇을 했다고 쓰여 있습니까? 예수님을 향해 “우리 사위에게 어부 일로 돌아가라고 타이르세요.”라고 말하지 않았습니다. 「그들에게 수종드니라」라고 기록되어 있습니다. 영어 성경에서는 시몬의 장모가 그들을 섬기는 사람으로 즉 형제자매를 섬기는 사람으로 바뀌었다고 합니다. 이 광경을 보고 가장 기뻤던 사람은 틀림없이 베드로였을 것입니다. 자신이 믿고 자신의 모든 것을 걸고 섬겨온 예수님을 장모도 믿게 되었고 함께 하나님의 말씀을 섬기고 함께 예수 그리스도의 아버지이신 하나님께 예배를 드릴 수 있다는 것은 얼마나 기쁜 일인가요. 아마도 이때 베드로의 마음속에서 회당과 집 사이에 있던 성스러운 것과 세속적인 것의 벽이 허물어지는 순간이 아니었나 싶습니다. 옛날 동서독을 가르는 그 베를린 장벽이 허물어진 것처럼 칸막이 벽이 허물어 진 것에 환희하며 벌떡 일어서지 않았까요? 이 사건이 오늘날 우리도 쉽게 상상할 수 있지 않을까 생각합니다. 예를 들어 일요일 아침 센겐다이교회 예배당에 온 가족이 올 수 있는 가정은 손가락으로 꼽을 정도밖에 없습니다. 대부분의 형제자매가 가족들에게 교회에 같이 가자고 해도 거절당해서 어쩔 수 없이 가족과 함께 예배를 드리지 못하는 외로움, 한 분 한 분의 그런 생각을 예수님은 결코 잊지 않고 기억하시고 베드로의 장모를 되살리는 기적을 행해주셨던 것 같습니다. 이러한 기적이 오늘도 이루어지길 우리도 예수님께 기대하고 또 서로 열심히 가정방문을 해나갑시다.

(2) 안식일의 의미

그런데 예수님은 안식일에 회당에서 더러운 귀신을 몰아내고 안식일에 시몬의 집에서 병 치료를 하고 있는데, 당시 “이게 율법 위반이 아닌가?”라고 생각하는 율법 전문가가 어쩌면 있었을지도 모릅니다. 다만 일반적인 해석으로는 생명을 구할 의무가 안식일 규정보다 우선한다고 여겨졌기 때문에 안식일에 질병을 치료하는 것은 율법 위반이 되지는 않은 것으로 보입니다. (누가복음 14장 5,6절) 안식일이 규정되어 있는 제 4계명을 다시 한번 확인해 봅시다. 출애굽기 20장 8~11절을 참조하시기 바랍니다.

8 안식일을 기억하여 거룩하게 지키라

9 엿새 동안은 힘써 네 모든 일을 행할 것이나

10 일곱째 날은 네 하나님 여호와의 안식일인즉 너나 네 아들이나 네 딸이나 네 남종이나 네 여종이나 네 가축이나 네 문안에 머무는 객이라도 아무 일도 하지 말라

11 이는 엿새 동안에 나 여호와가 하늘과 땅과 바다와 그 가운데 모든 것을 만들고 일곱째 날에 쉬었음이라 그러므로 나 여호와가 안식일을 복되게 하여 그 날을 거룩하게 하였느니라

하나님이 하늘과 땅과 바다와 그곳에 있는 모든 것을 만드셨기 때문에 너도, 아들도, 딸도 남종이나, 여종이나, 가축도 문안에 기류하는 사람들도 일곱째 날에는 어떤 일도 해서는 안된다고 합니다. 즉, 당시 안식일이란 「하나님이 우리들의 창조주임을 기억하고 감사하는 날이었다」라고 바꿔 말할 수 있을 것입니다. 하나님은 만물을 단지 창조하신 것만이 아니라 그것들을 하나님의 섭리에 따라 유지하고 지켜주고 계십니다. 그래서 하나님의 창조를 기억하고 감사한다는 것은 나아가 우리를 행복하게 살아갈 수 있도록 지켜주시고 보살펴주신다는 것을 기억하고 감사하는 것까지 포함되어 있습니다. 안식일을 지킨다는 것은 우리가 스스로의 힘으로 사는 것이 아니라 하나님께서 우리를 날마다 돌봐 주시고 있음을 고백하고 감사하는 것입니다. 만일 안식일에 일을 한다면 그 사람은 마치 이 세상을 자신의 힘으로 살아가고 있다고 주장하는 것 같습니다. 마치 하나님으로 인해 살고 있다는 것을 부정하고 하나님의 선한 창조를 무시하는 것과 같은 것입니다. 그러면 율법 위반이 아니라 하더라도 예수님은 왜 이 안식일에 굳이 사역을 하셨을까요? 결론부터 말하자면 그 이유는 죄로 인해 안식을 누릴 수 없게 된 사람들에게 안식을 누릴 수 있도록 하기 위해서였습니다. 죄 때문에 안식일을 누릴 수 없는 사람들을 만나 안식일을 성취시키기 위해 사역을 하셨습니다.

하나님을 믿지 않는 사람은 자신은 먹을 것이 있고 옷이 있으며 살 집이 있다면, 즉 돈만 넉넉하다면 이 세상에서 안식을 누릴 수 있다고 말할지도 모릅니다. 하지만 정말 그럴까요? 인간은 결코 그런 단순한 존재가 아닙니다. 비록 풍요로운 삶 속에 놓여 있더라도 우리 안의 죄 문제가 해결되지 않는 한 결코 진정한 평안은 찾아오지 않고 안식을 얻을 수 없습니다. 성경은 죄의 댓가는 죽음이라고 말하고 있습니다. 우리 죄들은 항상 죽음의 그림자인 병과 노화, 체력의 쇠약, 불안과 걱정, 두려움에 위협받고 살다가 마침내 죽음을 맞이하게 됩니다. 따라서 인간은 죽음의 문제, 죄의 문제가 해결되지 않는 한 결코 진정한 안식을 누릴 수 없습니다. 죄가 해결되지 않은 사람, 영적으로 죽음 속에 있는 사람은 이 세상에서 모든 것을 얻었다고 해도 안식을 얻을 수 없는 것입니다.

그러므로 예수님은 안식일에 더러운 귀신을 몰아내고 병을 치료하시고 죄와 죽음의 힘에 사로잡혀 있던 자를 해방시키고 되살리는 기적을 일으키신 것입니다. 그것은 하나님의 창조적 업적을 회복하는 바로 안식일에 어울리는 기적이었습니다. 예수님께서 안식일에 하신 일이란 인간이 죄를 지은 후에 사탄에 의해 지배된 이 세상에서 사탄으로부터 다시 이 세상을 빼앗아 창조의 질서를 회복시키고 안식일이 성취되었음을 상징하는 것이었습니다. 그렇기 때문에 우리들이 진정한 안식을 누리려면 예수님에 의해 일으킴을 받아 거듭나야 합니다. 예수 그리스도를 믿음으로써 이 새로운 창조가 우리 위에 임해야 합니다. 바울은 「그런즉 누구든지 그리스도 안에 있으면 새로운 피조물이라 이전 것은 지나갔으니 보라 새 것이 되었도다」(고린도후서 5장 17절) 라고 말합니다. 거듭난 사람은 안식일을 본래 의미의 안식으로 누릴 수 있고 하나님과 교회를 섬기고 그날을 성별할 수 있는 것입니다.

(3) 안식일 다음날

자, 저녁이 되어 해자 지면 사람들은 병자와 악령에 사로잡힌 자들을 모두 예수님께 데려왔습니다. 유대의 하루는 저녁이 되어 해가 지고 나서야 시작됩니다. 즉 안식일이 지나고 날짜가 바뀌는 순간에 소문을 들은 사람들은 일제히 밤길을 헤치고 예수님께로 병자나 악령에 사로잡힌 자를 실어온 셈입니다. 그러자 예수님께서는 이제 안식일은 끝났고 더구나 밤이기 때문에 창조의 역사를 회복하는 일을 거부하셨을까요? 그렇지 않았습니다. 낮과 똑같이 그들을 치유하고 많은 악령을 몰아내고 죽음의 그림자에 억압받는 사람들을 해방시켜 안식을 누릴 수 있게 해주셨습니다. 예수님께서 안식일을 성취해 주셨는데, 그것은 안식일만의 일이 아니라 다음날도, 또 그 다음날도 안식을 누릴 수 있게 해 주신 것입니다. 현대에 사는 우리 그리스도인들은 주일에 공동 예배를 드리고 하나님과 교회를 섬기며 성별하고 있습니다. 그렇게 하면 그 다음날인 월요일은 회사가는 날이라서 하나님과 교회를 섬기지 않아도 되고, 그 다음날인 화요일은 근처의 사람들과 서클활동 아니면 클럽 활동의 날이니까 하나님과 교회를 섬기지 않아도 된다는 말인가요? 그런 건 아닌 것 같습니다. 월요일도 화요일도 수요일도 똑같이 하나님과 교회를 섬기고 성별하여 지내야 하는 주님의 날입니다. 예수님께서 안식일도, 그리고 그 다음날도 병자와 악령에 사로잡힌 자들을 모두 치유하시고 하나님 나라의 도래와 하나님의 안식이 성취되었음을 선언해 주셨듯이 우리도 주일만 엄수하고 성별할 것이 아니라 월요일이나 화요일이나 수요일이나 주의 날로 하나님과 교회를 섬기며 안식을 누려야 합니다. 그리고 아직도 예수님을 모르고 병과 불안과 걱정과 두려움에 떨고 있는 분들께 하나님의 복음을 전하며 살아 갑시다.

결론

예수님은 아직 구원받지 못한 베드로의 장모를 기억하시고 안식일에 구원으로 인도해주셨습니다. 그리고 베드로의 집에도 하나님의 나라가 도래했습니다. 베드로는 나중에 아내를 데리고 복음을 전하는 사도로 세워졌습니다 (고린도전서 9장 5절). 하나님께서는 우리의 아직 구원받지 못한 가족들도 기억하시고 하나님 때 반드시 구원으로 인도하실 것입니다. 그것을 믿고 하나님과 교회를 더욱더 열심히 섬기고 싶습니다. 또한 예수님은 안식일을 성취시키는 일을 안식일에도 또 그 다음날에도 쉬지 않고 하셨습니다. 우리도 하나님과 교회를 계속 섬기며 주일에 결석하지 말고 예배를 드립시다. 하나님의 창조를 기억하고 하나님이 우리를 사랑하고 계시는 것을 기억하는 것, 이것이야말로 진정한 안식이기 때문입니다.

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