2021年11月07日「今ここで生きている私たちすべてと 오늘 여기에 살아 있는 우리들 모두와」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千間台教会のホームページへ戻る

今ここで生きている私たちすべてと 오늘 여기에 살아 있는 우리들 모두와

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 5章1節~22節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

5:1モーセは、全イスラエルを呼び集めて言った。イスラエルよ、聞け。今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい。
5:2我々の神、主は、ホレブで我々と契約を結ばれた。
5:3主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた。
5:4主は山で、火の中からあなたたちと顔と顔を合わせて語られた。
5:5わたしはそのとき、主とあなたたちの間に立って主の言葉を告げた。あなたたちが火を恐れて山に登らなかったからである。主は言われた。
5:6「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
5:7あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
5:8あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
5:9あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
5:10わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
5:11あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
5:12安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。
5:13六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
5:14七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。
5:15あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。
5:16あなたの父母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。
5:17殺してはならない。
5:18姦淫してはならない。
5:19盗んではならない。
5:20隣人に関して偽証してはならない。
5:21あなたの隣人の妻を欲してはならない。隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲しがってはならない。」
5:22主は、山で、火と雲と密雲の中から、力強い声をもってこれらの言葉を集まったあなたたちすべてに向かって告げ、それに何も加えられなかった。更に、それを二枚の石の板の上に書いてわたしに授けられた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 5章1節~22節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 申命記はモーセの三つの説教で構成されています。本日の申命記5章から二つ目の説教に入ります。1~4章までの最初の説教は、主に過去のことを回想する説教でありました。二つ目の説教は、5章から26章までは、申命記の中の中心部分となります。具体的に何が書かれているのかと言うと、掟と法について、つまり律法について語られています。そして、この二つ目の説教の冒頭部分に十戒が語られているのですが、それによって、これからモーセが語ろうとしている律法の内容の大前提であり、原点となる基準を設定しています。神様がシナイ山に顕現され、直接語られた十戒こそが律法の大前提であり、律法の原点であるということですね。この十戒から全てが始まるのです。

ところで、モーセは4章13節で十戒が与えられたことを、神とイスラエルの民との間の「契約(ベリート)」であると言い換えています。そもそも、ヘブライ語を見ると、「十の戒め」とは書かれておらず、「十の言葉」と書かれています。日本語で「十戒」と訳されてしまったのは、英語で先行して、Ten Commandmentsと訳されたその影響を受けているのだろうと思います。この、神様から与えられた「十の言葉」は、モーセによれば神様からの契約であるというのです。神様がこのような恵みの契約を与えてくださったのだから、その恵みに応答するために、あなた方は、これから5章から26章まで続いて語られる律法を、恵みの応答として行いなさいと言っているのです。それでは5:1~3節をご覧ください。

【1】. 契約の現在性

 “モーセは、全イスラエルを呼び集めて言った。イスラエルよ、聞け。今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい。我々の神、主は、ホレブで我々と契約を結ばれた。主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた。”

ここでモーセは、39年前にホレブ山において神が顕現され、契約(ベリート)を結んでくださった、あの出来事のことを、それは、過ぎ去った過去のものではなく、我々と、今ここに生きているすべての者と契約を結ばれたものだと語っています。これは一体どういう意味でしょうか。実は、ここには大変深い意味が隠されています。まず5:2節、3節を注目してみますと、ヘブライ語では、「私たち」という言葉が何度も使用されて強調されています。聖書協会共同訳聖書の翻訳がよりヘブライ語聖書に近かったので、週報に抜粋いたしました。抜粋のプリントの5:3をご覧ください。

“私たちの神、主は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。私たちの先祖とではなく、まさに私たちと、今ここで生きている私たちすべてと、主はこの契約を結ばれた。”

「私たち」が五回もでてきますね。「私たち」と、「今ここに生きている私たち」と、契約を結んでくださいました。つまり、神様が過去にイスラエルの先祖と結んでくださった契約は、過ぎ去った過去のものではなく、今日、この場においても語り直され、現在の契約としてイスラエルの民に適用されているのです。その契約は、全く同じように永遠の契約として、現代に生きている私たちにも適用されることでしょう。なぜならば、その契約とは、神様と第二のアダムであるキリストと結ばれた契約であるからです。即ち、父なる神と御子の間で結ばれた契約が、恵みの契約として、私たちの上に一方的に臨んでいるからです。しかし、突然そんなことを言われても、キリストが実際に生まれてくるのは、キリストが実際に十字架に架かられるのは、モーセの時代の1,300~1,500年も後の時代ですね。一体どのようにして、父なる神とキリストが結ばれた契約が、モーセの時代にまで遡って適用されると言うのでしょうか。恐らく、この点に疑問を持たれるのではないでしょうか。

実は、イエス・キリストは旧約の時代から既におられ、否、天地創造の前から既におられました。そして、十字架によってご自身の民を贖い、神と人との間の永遠の仲保者になられることを、天地創造の前に、御父と御子の間で同意しておられたのです。恵みの契約が天地創造の前から青写真として既に計画されていました。ですからアダムとエバが罪を犯し、堕落してしまったその瞬間に、直ちに福音が示されたのはそのためであったのです。創世記3:15をご覧ください。

“お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。”

この箇所は先週も見ましたように、「女の子孫」という言葉がキリストを指しており、蛇はサタンを指しています。罪を犯したアダムとエバに対して、裁きの言葉が語られている文脈ですが、その中で回復の余地が与えられています。堕落後、アダムとエバは完全に、そして永久的にサタンの支配下に移されたのではなく、女の子孫がサタンの頭を砕き、サタンの支配から、罪の支配から解放され、神との交わりが再び回復されることが福音として3:15で語られているのです。旧約の時代においても、神様は信仰の民を起こしてくださり、そして信仰の民を通して、神が賛美され、神が崇められ、神の御国が臨在されるように恵みの契約を執行してくださるという事です。ですから旧約の歴史の中で神と人との間で契約が締結される際には、必ず神様の側から交わりを回復されようと罪びとに近づいて来られ、神がご自身を啓示してくださり、そして、決まって「私はあなたたちの神となり、あなたたちは私の民となる」という定型句が出て来るのです。「私はあなたたちの神となり、あなたたちは私の民となる」この言葉こそ、恵みの契約の定型句です。また、この言葉は、神様とイスラエルとの結婚宣言のようなものだと言えるでしょう。神様が結び合わせた結婚関係を、何人も引き離してはなりません。十戒の場合は、序文と呼ばれる申命記の5章6節がその定型句にあたります。ご覧ください。5:6をご覧ください。

“わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。”

この言葉には、湧き出てくる神の愛が表わされていて、神様のイスラエルに対する熱い思いが込められているのではないかと思われます。神様はイスラエルの民を愛しておられるので、イスラエルの民の悲痛な叫びがご自身の耳に届いてくるのです。神様はイスラエルの民を愛しておられるので、エジプトの国で奴隷として働いている民をご覧になられ、腸がちぎれるような痛みを覚えられるのです。

【2】. カラトゥ ベリート

 次に、5章2節、3節にある「契約を結ぶ」という言葉に着目してみましょう。ヘブライ語の表現では、「カラトゥ ベリート」となります。直訳するなら「契約を裂く」「契約を切る」という言葉になります。この言葉の背景には、古代、契約を締結する際に、動物を引き裂き、引き裂かれた動物の間を契約の当事者たちが通り過ぎたことに由来すると考えられています。つまり、万一、契約当事者のどちらか一方が、契約を破ってしまうなら、両側に裂かれた動物のような呪いが下るということを象徴的に表す儀式でありました。従って古代における契約(ベリート)とは、当事者双方において、命がけの覚悟が必要だったわけです。現代のように手付金などはありませんでしたし、弁護士や公証人役場がない時代です。そんな時代ですから契約の際に動物を引き裂いたのです。創世記15:17~18には、そのような契約の慣習が現れています。ご覧ください。創世記15:17~18は神がアブラハムと契約を結ばれた場面です。

日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、

火は神様を表しています。本来なら契約の両当事者がこの裂かれた動物の間を通り過ぎるのですが、この時は、なぜか燃える火だけが通りすぎただけでした。つまりこの契約は、神様から与えられる一方的な契約であるということを意味しています。

因みに、当時、契約というのはご覧の通り厳粛な宗教儀式であり、さらに、契約の後に引き裂いた動物を食べて、互いにお祝いする儀式でもありました。契約後に必ず飲み食いする場面が出てきます。例えば創世記26:28、30節をご覧ください。アビメレクがイサクに対しあなたと契約を結びたいと言ってくる場面ですが、契約が結ばれた後、飲み食いをしています。

“彼らは答えた。「主があなたと共におられることがよく分かったからです。そこで考えたのですが、我々はお互いに、つまり、我々とあなたとの間で誓約を交わし、あなたと契約を結びたいのです。”

“そこで、イサクは彼らのために祝宴を催し、共に飲み食いした。”

話を元に戻しまして、契約とは、いずれにしても、神様と人間の契約というより、正確に言えば、神と契約の民の代表であり、仲保者であるイエス・キリストとの契約であって、そして、キリストに結ばれている者たちが、第二世代であろうと第三世代であろうと、時を超えて恵みの契約に与ることが出来るのです。

ですから、この契約は、罪を犯しやすい人間の肉の上に置かれているのではなく、人となって来てくださった救い主イエス・キリストの上に堅く揺れることなく置かれていることになります。イエス・キリストはサタンに誘惑されても決して罪を犯されない方であり、律法を完全に成就してくださった方でありました。イエス様の信実の上に恵みの契約が堅く立てられているのです。それだけではありません。私たちの過去の罪さえ、全て清算してくださり、無罪潔白にしてくださいました。イエス様が十字架によって裂かれ、呪いと刑罰をその身に引き受けてくださったからです。本来なら、罪を犯した私たちが両側に裂かれた動物のように死ななければならなかったのですが、罪のないイエス様が私たちの代わりに呪いと刑罰を引き受けてくださったのです。これが恵みの契約です。この契約の中に私たち人間の功績は一切ございません。言い換えれば、父なる神様も、御子イエス様も、両方とも神様ですから、神様の一方的な契約の中に、イスラエルの民を、そして現代に生きる私たちを、取り込んで下ったと言うことができるのです。イエス・キリストの一方的な功によって、イスラエルの民を、そして現代生きている信仰の民を神の所有としてくださり、聖なる民としてくださり、天の嗣業に与る者としてくださったのです。これは、なんという恵みでしょうか。この恵みの応答するためにイスラエルは聖なる民とならなければなりません。そのために十戒が与えられたのです。私たちは、本日聖餐式を持ちますが、イエス・キリストの体が鞭うたれ、裂かれたのは、契約を犯してしまった私たちの罪を贖うためであったという事を覚えましょう。また、キリストの肉を食べ、キリストの血を飲むのは、神様とイスラエルの民との契約が、仲保者であるイエス様の上に揺れることなく堅く置かれていて、私たちがキリストの内にあるならば、この契約は永遠に破棄されることがないということを併せて覚えたいと思います。申命記に戻りまして、4~10節をご覧ください。

【3】. 妬む神

 “主は山で、火の中からあなたたちと顔と顔を合わせて語られた。わたしはそのとき、主とあなたたちの間に立って主の言葉を告げた。あなたたちが火を恐れて山に登らなかったからである。主は言われた。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。”

ここには、十戒の第一と第二の戒めが語られています。ある人は十戒の第一戒と第二戒が、特に第一戒が全ての戒めを集約する最も大切なものであると言います。残りの戒めは第一戒の注釈に過ぎないと言います。神様は最初に「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」と語られました。この言葉は、今日、私たちにとって脅威となる信仰の混合主義のことを警戒する御言葉です。

混合主義というのは、「イエス様を信じるのもいいし、神様を信じるのもいいけど、実家に帰ったら線香ぐらいあげなさいと」とか、正月やお盆には日本人らしく初詣に行き、お墓参りをして先祖供養くらいしないという考え方です。つまり、キリスト教を勝手に信じるのはいいけど、この世の常識を踏まえながら、折り合いをつけて生きなさいという事です。「そうすればキリスト者としての生きづらさに悩む理由がなくなるでしょう」、という誘惑です。しかし、このような混合主義は神様の側から見るなら、神の所有とされた民が不倫しているのと同じことです。芸能人でもスキャンダルで不倫が報じられると、その夫婦の結婚生活は一気に不幸になってしまいますね。せっかく神様が私たちにオールインしてくださり結婚を宣言してくださったのに、私たちが神様にオールインしないで、神様だけを信じないで、神様だけに依り頼むことをしなければ、結婚生活はうまくいかないものです。神様は妬む神であられ、私たちの混合主義的な信仰に怒りを燃やされるお方です。

昔、江戸時代においては日本においても、キリスト教が迫害されていました。「耶蘇教を信じてはならない。」と掲げられた立札は、信仰生活を続けるのに大変な障害になるように感じたことでしょう。しかし、むしろ、そのような逆境が、キリスト者を奮い立たせて、信仰に堅く立たせたと言えるかもしれません。むしろ教会が迫害され、「教会に行くな」と言われる方が、教会がどんどん健康になり、成長していくものです。ところが、現代のように教会が生ぬるい環境に置かれて、神さまを信じなさい、でも「我々、世の中のことも認めてくださいよ。」「我々と一緒にイエス様を信じようではないか。」などと言われると、私たちの信仰は揺さぶられ、神様だけに依り頼むことが出来なくなるのです。

「その通りだね。神様も信じるけど、お金も儲けないと。」「神様も信じるけど、職場での出世も大切だし、マイホームの夢を手放すこともできない。」「神様も信じるけど、子どもは将来のために一流大学にいかせないと。」このようにして教会の中に混合主義が入ってくるのです。

【結論】

 神様は、イスラエルと契約を結んでくださいましたが、この契約は神の側から一方的に締結された契約であり、永遠に続く契約です。そこに私たちの側の功労は一切必要ありません。私たちを神の所有としてくださり、聖なる国民、天の嗣業に与る者たちとしてくださいました。この驚くほどの恵みに感謝し、キリスト者はキリストの花嫁として神様だけを愛し、神様だけに依り頼み、神様だけを崇め、礼拝していくことを神様は強く望まれるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

오늘 여기에 살아 있는 우리들 모두와

2021년 11월 7일 센겐다이 교회 주일설교

신명기 5장 1-22절

서론

신명기는 모세의 세 개의 설교로 구성되어 있습니다. 오늘 신명기 5장부터 두 번째 설교에 들어갑니다. 1~4 장까지의 첫 설교는 주로 과거의 일을 회상하는 설교였습니다. 두 번째 설교인 5장에서 26장까지는 신명기 속의 중심 부분이 됩니다. 구체적으로 무엇이 쓰여져 있냐면 규례와 법도에 대해서 즉 율법에 대해서 이야기를 하고 있습니다. 그리고 이 두 번째 설교의 서두 부분에 십계명을 말하고 있는데 그로 인해 이제부터 모세가 말하고자 하는 율법 내용의 큰 전제이며 원점이 되는 기준을 설정하고 있습니다. 하나님이 시내산에 현현하시고 직접 말씀하신 십계명이야말로 율법의 큰 전제요 율법의 원점이라는 말이네요. 이 십계명에서 모든 것이 시작되는 것입니다.

그런데 모세는 4장 13절에서 십계명이 주어진 것을 하나님과 이스라엘 백성들간의 「언약(베리트)」이라고 바꾸어 말하고 있습니다. 원래 히브리어를 보면 「열개의 계명」이라고 쓰여있지 않고 「열개의 말」이라고 쓰여져 있습니다. 일본어로 「십계명」이라고 번역된 것은 영어의 Ten Commandments로 번역된 그 영향을 받고 있는 것이라고 생각합니다. 이 하나님께서 주신 「열개의 계명」은 모세에 따르면 하나님의 언약이라는 것입니다. 하나님께서 이러한 은혜의 언약을 주셨으니 그 은혜에 응답하기 위해 너희들은 앞으로 5장 에서 26장까지 계속해서 말씀하시는 율법을 은혜에 대한 응답으로서 행하라고 하는 것입니다. 그럼 5장 1~3절을 보시기 바랍니다.

(1) 언약의 현재성

1 모세가 온 이스라엘을 불러 그들에게 이르되 이스라엘아 오늘 내가 너희의 귀에 말하는 규례와 법도를 듣고 그것을 배우며 지켜 행하라

2 우리 하나님 여호와께서 호렙 산에서 우리와 언약을 세우셨나니

3 이 언약은 여호와께서 우리 조상들과 세우신 것이 아니요 오늘 여기 살아 있는 우리 곧 우리와 세우신 것이라

여기서 모세는 39년 전 호렙산에서 하나님이 현현하셔서 언약 (베리트) 을 맺어주신 그 사건이 지나간 과거의 것이 아니라 우리와 지금 여기에 살고 있는 모든 사람과 언약을 맺으신 것이라고 말합니다. 이게 도대체 무슨 뜻일까요? 사실 여기에는 매우 깊은 의미가 숨겨져 있습니다. 먼저 5장 2절, 3절을 주목해 보면 히브리어에서는 「우리」라고 하는 단어가 몇번이나 사용되어 강조되고 있습니다.

「우리」가 다섯 번이나 나옵니다. 「우리」랑 「오늘 여기 살아 있는 우리」와 언약을 맺어 주셨어요. 즉 하나님께서 과거에 이스라엘 조상과 맺어주신 언약은 지나간 과거의 것이 아니라 오늘날 이 자리에서도 다시 말씀하셔서 현재의 맺어진 언약처럼 이스라엘 백성들에게 적용되고 있는 것입니다. 그 언약은 똑같이 영원한 계약으로 현대에 살고 있는 우리에게도 적용될 것입니다. 왜냐하면 그 언약이라는 것은 하나님과 두 번째 아담이신 그리스도와 맺어진 계약이기 때문입니다. 즉, 아버지 하나님과 자녀 사이에 맺어진 언약이 은혜의 언약으로 우리 위에 일방적으로 임하고 있기 때문입니다. 그런데 갑자기 그런 말을 들어도 그리스도가 실제로 태어나는 것은, 예수가 실제로 십자가에 못 박히는 것은 모세 시대로 부터 1300~1500년이나 지난 시대입니다. 도대체 어떻게 아버지 하나님과 그리스도가 맺으신 언약이 모세의 시대로까지 거슬러 올라간다는 것일까요? 아마 이 점에 의문이 들지 않으십니까?

사실 예수 그리스도는 구약 시대부터 이미 계셨고 이미 천지창조 전에 이미 계셨습니다. 그리고 십자가로 말미암아 자신의 백성을 속죄하고 하나님과 사람 사이의 영원한 중보자가 되시기를 천지창조 하시기 전에 이미 아버지와 아들께서 동의 하신 것입니다. 은혜의 언약이 천지창조 전부터 청사진으로 이미 계획되어 있었습니다. 그래서 아담과 하와가 죄를 짓고 타락해 버린 그 순간에 곧 바로 복음이 나타난 것은 그 때문이었습니다. 창세기 3장 15절을 참조하시기 바랍니다.

15 내가 너로 여자와 원수가 되게 하고 네 후손도 여자의 후손과 원수가 되게 하리니 여자의 후손은 네 머리를 상하게 할 것이요 너는 그의 발꿈치를 상하게 할 것이니라 하시고

이 부분은 지난 주에도 살펴 봤듯이 이 「여자의 후손」이라고 하는 단어가 그리스도를 가리키고 있으며 뱀은 사단을 가리키고 있습니다. 죄를 지은 아담과 하와에 대해 심판의 말이 회자되고 있는 맥락인데 그 안에 회복의 여지가 주어져 있습니다. 타락 후 아담과 하와는 완전히 그리고 영구적으로 사탄의 지배하에 옮겨진 것이 아니라 여자 자손이 사탄의 머리를 부수고 사탄의 지배로부터 죄의 지배로부터 해방되고 하나님과의 교제가 다시 회복되는 복음을 3장 15절에서 말씀하고 계시는 것입니다. 구약의 시대에도 하나님은 믿음의 백성을 일으켜 주시고 그리고 믿음의 백성을 통해서 하나님이 찬양 받으시고 하나님이 섬김을 받고 하나님 나라가 임재하도록 은혜의 언약을 집행해 주신다는 것입니다. 그렇기 때문에 구약의 역사 가운데 하나님과 인간사이의 언약이 맺어질 때에는 반드시 하나님 쪽에서 교제를 회복하시려고 죄인에게 다가와 주시고 하나님이 자기 자신을 계시해 주시고 그리고 어김없이 「나는 너희의 하나님이 되고 너희는 나의 백성이 된다」라고 말씀하시는 것입니다. 이 말씀이야 말로 은혜의 언약의 정해진 문구인 것입니다. 또한 이 말은 하나님과 이스라엘과의 결혼 선언과 같다고 할 수 있습니다. 하나님이 맺어주신 결혼관계를 누구도 떼어 놓아서는 안 됩니다. 십계명의 경우는 서문이라고 불리는 신명기 5장 6절이 그 정해진 문구에 해당합니다. 5장 6절을 보시기 바랍니다.

6 나는 너를 애굽 땅, 종 되었던 집에서 인도하여 낸 네 하나님 여호와라

이 말씀에는 샘솟는 하나님의 사랑이 드러나 있어 하나님의 이스라엘에 대한 뜨거운 마음이 담겨 있지 않을까 생각됩니다. 하나님은 이스라엘 백성을 사랑하시니 이스라엘 백성들의 비통한 외침이 자신의 귀에 와 닿는 것입니다. 하나님은 이스라엘 백성을 사랑하시니 애굽 땅에서 노예로 일하고 있는 백성을 보시고 내장이 끊어 지시는 듯한 아픔을 느끼시는 것입니다.

(2) 카라트 베리트

다음으로 5장 2,3절에 있는 「언약을 맺다」라는 말에 주목해 보겠습니다. 히브리어의 표현으로는 「카라트 베리트」가 됩니다. 직역하면 「언약을 깨다」「언약을 끊다」라는 말이 됩니다. 이 단어의 배경에는 고대 계약을 체결할 때 동물을 찢고 찢겨진 동물들 사이를 계약 당사자들이 지나간 데서 유래한 것으로 보입니다. 즉 만일 계약 당사자 중 어느 한쪽이 계약을 어겨 버린다면 양쪽으로 찢어진 동물과 같은 저주가 내린다는 것을 상징적으로 나타내는 의식이었습니다. 따라서 고대의 언약 (베리트) 이란 당사자 쌍방에게 목숨을 건 각오가 필요했던 것입니다. 현대처럼 선수금 같은 것은 없었고, 변호사나 공증인, 동사무소가 없는 시대입니다. 그런 시대이기 때문에 계약할 때 동물을 찢은 것입니다. 창세기 15장 17,18절에는 그러한 계약의 관습이 나타나 있습니다. 창세기 15장 17,18절은 하나님이 아브라함과 언약을 맺으신 장면입니다.

17 해가 져서 어두울 때에 연기 나는 화로가 보이며 타는 횃불이 쪼갠 고기 사이로 지나더라

18 그 날에 여호와께서 아브람과 더불어 언약을 세워 이르시되 내가 이 땅을 애굽 강에서부터 그 큰 강 유브라데까지 네 자손에게 주노니

횃불은 하나님을 나타내고 있습니다. 원래대로라면 계약의 양 당사자가 쪼갠 고기 사이로 지나가는데 이 때는 왜인지 횃불만 지나갔을 뿐입니다. 즉 이 언약은 하나님께서 주시는 일방적인 계약이라는 것을 의미합니다.

덧붙여서, 당시 계약이라는 것은 보시는 바와 같이 엄숙한 종교의식이었으며 게다가 계약 후 꼭 먹고 마시는 장면이 나옵니다. 예를 들어 창세기 26장 28절, 30절을 참조하십시오. 아비멜렉이 이삭에게 당신과 계약을 맺고 싶다고 말하는 장면인데 계약이 체결된 후 먹고 마시고 있습니다.

28 그들이 이르되 여호와께서 너와 함께 계심을 우리가 분명히 보았으므로 우리의 사이 곧 우리와 너 사이에 맹세하여 너와 계약을 맺으리라 말하였노라

30 이삭이 그들을 위하여 잔치를 베풀매 그들이 먹고 마시고

이야기가 돌아가서 언약이란 어쨌든 하나님과 인간의 언약이라기 보다는 정확하게 말하면 하나님과 언약 백성의 대표이자 중보자인 예수 그리스도와의 계약이고 그리스도에게 연합된 자들이 2세대든 3세대든 시간을 초월하여 은혜의 언약에 들어갈 수 있는 것입니다.

그러므로 이 언약은 죄를 짓기 쉬운 인간의 육신 위에 있는 것이 아니고 인간이 되어 이 땅에 오셔 주신 예수 그리스도 위에 견고하게 흔들림 없이 놓여져 있는 것입니다. 예수 그리스도는 사단에게 유혹 당하셔도 결코 죄를 짓지 않으시는 분이었고 율법을 완전히 성취해 주신 분이었습니다. 예수님의 신실하심 위에 은혜의 언약이 굳게 세워져 있는 것입니다. 그 뿐만이 아닙니다. 우리 과거의 죄조차 완전히 청산해 주시고 무죄결백하게 해 주셨습니다. 예수님이 십자가 위에서 찢겨짐을 당하시고 저주와 형벌을 그 몸으로 다 받아 주셨기 때문입니다. 원래대로라면 죄를 지은 우리가 양쪽으로 찢겨진 동물처럼 죽어야 했는데 무고한 예수님께서 우리 대신 저주와 형벌을 맡아주신 것입니다. 이것이 은혜의 언약입니다. 이 언약 안에 우리 인간의 공적은 일절 없습니다. 다시 말해 아버지 되신 하나님도 아들되신 예수님도 양쪽 모두 하나님이시기 때문에 하나님의 일방적인 계약 가운데 이스라엘 백성들을, 그리고 현대에 살고 있는 우리들을 언약 백성으로 받아 들여 주셨다는 것 입니다. 예수 그리스도의 일방적인 공적에 의해서 이스라엘 백성을 그리고 현대에 살아가고 있는 믿음의 백성을 하나님의 소유로 삼아 주시고 거룩한 백성으로 삼아주시고 하늘의 유업에 참여하는 자로서 삼아주신 것입니다. 이것은 무슨 은혜 일까요? 이 은혜에 응답하기 위해서 이스라엘은 거룩한 백성이 되어야 합니다. 그래서 십계명이 주어진 것입니다. 우리는 오늘 성찬식을 가지는데 예수 그리스도의 몸이 채찍질 당하고 찢어진 것은 언약을 어기고만 우리의 죄를 속죄하기 위함이었다는 것을 기억합시다. 또한 그리스도의 살을 먹고 그리스도의 피를 마시는 것은 하나님과 이스라엘 백성과의 계약이 중보자이신 예수님 위에 흔들림 없이 견고하게 놓여 있고 우리가 그리스도 안에 있기만 한다면 이 언약은 영원히 파기될 수 없음을 아울러 기억하고자 합니다. 신명기로 다시 돌아가서 신명기 5장 4~10절을 보시기 바랍니다.

(3) 질투하시는 하나님

4 여호와께서 산 위 불 가운데에서 너희와 대면하여 말씀하시매

5 그 때에 너희가 불을 두려워하여 산에 오르지 못하므로 내가 여호와와 너희 중간에 서서 여호와의 말씀을 너희에게 전하였노라 여호와께서 이르시되

6 나는 너를 애굽 땅, 종 되었던 집에서 인도하여 낸 네 하나님 여호와라

7 나 외에는 다른 신들을 네게 두지 말지니라

8 너는 자기를 위하여 새긴 우상을 만들지 말고 위로 하늘에 있는 것이나 아래로 땅에 있는 것이나 땅 밑 물 속에 있는 것의 어떤 형상도 만들지 말며

9 그것들에 절하지 말며 그것들을 섬기지 말라 나 네 하나님 여호와는 질투하는 하나님인즉 나를 미워하는 자의 죄를 갚되 아버지로부터 아들에게로 삼사 대까지 이르게 하거니와

10 나를 사랑하고 내 계명을 지키는 자에게는 천 대까지 은혜를 베푸느니라

여기에는 십계명의 첫 번째와 두 번째 계명이 이야기 되어 있습니다. 어떤 사람은 십계명의 제 1계명과 제 2계명이 특히 제 1계명이 모든 계명을 집약하는 가장 중요한 게명이라고 말합니다. 나머지 계명은 제 1계명의 주석에 불과하다고 합니다. 하나님은 처음에 「나 외에는 다른 신들을 네게 두지 말지니라」라고 말씀하십니다. 이 단어는 오늘 우리들에게 있어서 위협이 되는 신앙혼합주의를 경계하라는 말씀입니다.

혼합주의라고 하는 것은 “예수님을 믿는 것도 좋고 하나님을 믿는 것도 좋지만 친정에 가거나 시댁에 가면 조상을 공양하는 불단에 향 정도는 올려라”라든지 “설날이나 오봉(추석)에는 일본인답게 참배를 가서 성묘를 하고 조상 공양 정도는 해야지”라는 생각입니다. 즉 기독교를 믿는 것은 좋지만, 이 세상 상식을 바탕으로 타협하며 적당히 살라는 것입니다. 그러면 그리스도인으로서의 삶의 어려움을 고민할 이유가 없어질 것이다라는 유혹입니다. 그러나 이러한 혼합주의는 하나님 편에서 본다면 하나님의 소유로 여겨진 백성들이 불륜하고 있는 것과 같습니다. 연예인이라도 스캔들로 불륜이 보도되면 그 부부의 결혼 생활은 단번에 불행해져 버리지 않습니까? 모처럼 하나님께서 우리에게 올인해주시고 결혼을 선언해 주셨는데 우리가 하나님께 올인하지 않고 하나님만 믿지 않고 하나님께만 의지하지 않는다면 그 결혼생활은 평탄할 수가 없는 법입니다. 하나님은 질투하시는 하나님이시며 우리의 혼합주의적 신앙에 분노를 불태우시는 분입니다.

옛날 에도시대에는 일본에서도 기독교가 박해 받고 있었습니다. “야소교를 믿어서는 안된다”라고 내건 팻말은 신앙생활을 계속하는 데 큰 장애물이 되는 것처럼 느꼈을 것입니다. 그러나 오히려 그런 역경이 그리스도인들을 분발하고 신앙에 굳게 세웠다고 할 수 있을지도 모릅니다. 오히려 교회가 박해를 받고 “교회에 가지말라”라는 말을 듣는 편이 교회가 점점 건강해지고 성장해 나가는 것입니다. 그런데 현대처럼 교회가 미지근한 환경에 놓여있어 “하나님을 믿어도 좋지만 우리 세상 일도 인정해 주세요. 세상과 함께 하며 예수님을 믿어도 되지 않아요?” 이런 말을 들으면 우리의 믿음은 흔들리고 하나님께만 의지할 수 없게 되는 것입니다.

“맞는 말이야. 하나님도 믿지만, 돈도 벌어야죠.” “하나님도 믿지만 직장에서의 출세도 중요하고 내 집 마련의 꿈을 놓을수는 없지요.” “하나님을 믿지만 아이의 장래를 위해서 일류 대학에 보내야지” 이렇게 해서 교회 안에 혼합주의가 들어오는 것입니다.

결론

하나님께서는 이스라엘과 언약을 맺어 주셨는데 이 언약은 하나님 쪽에서 일방적으로 맺으신 언약이며 영원히 지속되는 언약입니다. 거기에 우리 쪽의 공로는 일절 들어 있지 않습니다. 우리를 하나님의 소유로 삼아주시고 거룩한 백성, 하늘의 유업에 참여하는 자들로 삼아 주셨습니다. 이 놀라운 은혜에 감사드리며 그리스도인은 예수님의 신부로서 하나님만을 사랑하고 하나님만을 의지하며 하나님만을 섬기고 예배해 나가기를 하나님께서는 강력히 원하십니다.

関連する説教を探す関連する説教を探す