2021年10月31日「このような神が他にあろうか 이런 하나님이 또 어디에 계실까」

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このような神が他にあろうか 이런 하나님이 또 어디에 계실까

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 4章11節~40節

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:11あなたたちが近づいて山のふもとに立つと、山は燃え上がり、火は中天に達し、黒雲と密雲が垂れこめていた。
4:12主は火の中からあなたたちに語りかけられた。あなたたちは語りかけられる声を聞いたが、声のほかには何の形も見なかった。
4:13主は契約を告げ示し、あなたたちが行うべきことを命じられた。それが十戒である。主はそれを二枚の石の板に書き記された。
4:14主はそのとき、あなたたちが渡って行って得ようとしている土地で行うべき掟と法をあなたたちに教えるようにわたしに命じられた。
4:15あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった。
4:16堕落して、自分のためにいかなる形の像も造ってはならない。男や女の形も、
4:17地上のいかなる獣の形も、空を飛ぶ翼のあるいかなる鳥の形も、
4:18地上を這ういかなる動物の形も、地下の海に住むいかなる魚の形も。
4:19また目を上げて天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない。それらは、あなたの神、主が天の下にいるすべての民に分け与えられたものである。
4:20しかし主はあなたたちを選び出し、鉄の炉であるエジプトから導き出し、今日のように御自分の嗣業の民とされた。
4:21主はあなたたちのゆえにわたしに対して怒り、わたしがヨルダン川を渡ることも、あなたの神、主からあなたに嗣業として与えられる良い土地に入ることも決してない、と誓われた。
4:22従って、わたしはヨルダン川を渡ることなくここで死ぬ。しかし、あなたたちは渡って行って、その良い土地を得る。
4:23あなたたちは注意して、あなたたちの神、主があなたたちと結ばれた契約を忘れず、あなたの神、主が禁じられたいかなる形の像も造らぬようにしなさい。
4:24あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである。
4:25あなたが子や孫をもうけ、その土地に慣れて堕落し、さまざまの形の像を造り、あなたの神、主が悪と見なされることを行い、御怒りを招くならば、
4:26わたしは今日、あなたたちに対して天と地を呼び出して証言させる。あなたたちは、ヨルダン川を渡って得るその土地から離されて速やかに滅び去り、そこに長く住むことは決してできない。必ず滅ぼされる。
4:27主はあなたたちを諸国の民の間に散らされ、主に追いやられて、国々で生き残る者はわずかにすぎないであろう。
4:28あなたたちはそこで、人間の手の業である、見ることも、聞くことも、食べることも、嗅ぐこともできない木や石の神々に仕えるであろう。
4:29しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。
4:30これらすべてのことがあなたに臨む終わりの日、苦しみの時に、あなたはあなたの神、主のもとに立ち帰り、その声に聞き従う。
4:31あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れられることもないからである。
4:32あなたに先立つ遠い昔、神が地上に人間を創造された最初の時代にさかのぼり、また天の果てから果てまで尋ねてみるがよい。これほど大いなることがかつて起こったであろうか。あるいは、そのようなことを聞いたことがあろうか。
4:33火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きている、あなたと同じような民があったであろうか。
4:34あるいは、あなたたちの神、主がエジプトにおいてあなたの目の前でなさったように、さまざまな試みとしるしと奇跡を行い、戦いと力ある御手と伸ばした御腕と大いなる恐るべき行為をもって、あえて一つの国民を他の国民の中から選び出し、御自身のものとされた神があったであろうか。
4:35あなたは、主こそ神であり、ほかに神はいないということを示され、知るに至った。
4:36主はあなたを訓練するために、天から御声を聞かせ、地上に大いなる御自分の火を示された。あなたは火の中からその言葉を聞いた。
4:37主はあなたの先祖を愛されたがゆえに、その後の子孫を選び、御自ら大いなる力をもって、あなたをエジプトから導き出された。
4:38神はあなたよりも強大な国々をあなたの前から追い払い、あなたを導いて、今日のように彼らの土地をあなたの嗣業の土地としてくださった。
4:39あなたは、今日、上の天においても下の地においても主こそ神であり、ほかに神のいないことをわきまえ、心に留め、
4:40今日、わたしが命じる主の掟と戒めを守りなさい。そうすれば、あなたもあなたに続く子孫も幸いを得、あなたの神、主がとこしえに与えられる土地で長く生きる。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 4章11節~40節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 本日は、宗教改革記念礼拝です。1517年の10/31にルターがヴィッテンベルク教会の正門に「95か条の提題」を貼り付けたことをきっかけに宗教改革が起こりました。宗教改革の背景に、文芸復興(ルネサンス)と呼ばれる運動がありました。この運動はキリスト教とは敵対関係にある人文主義者(ヒューマニスト)たちから起こり、古き良き文化に立ち返り、それらを復興させようとする運動です。そのような流れの中で聖書を、(当時の読まれていたラテン語聖書だけではなく)ギリシア語やヘブライ語で直接、読んでみたいという要求が強まり、研究が進みました。すると、聖書を直接、読んでみた時に、当時のローマ・カトリック教会では教えられていない、聖書に対する新しい視点が与えられることに気づかされました。今まで感じたことのない、とても新鮮な思いを体験したのだと思います。そのように聖書を原典から読んで感動した人々が宗教改革者として起こされたのです。宗教改革の第二世代のカルヴァンも元々は人文主義者です。宗教改革のスローガンは、五つのソラに要約することが出来ますが、そのスローガンとは、ただ聖書のみ(ソラ・スクリプトゥラ)、ただ信仰のみ(ソラ・フィデ)、ただ恵みのみ(ソラ・グラティア)、ただキリストのみ(ソルス・クリストゥス)、ただ神に栄光のみ(ソリ・デオ・グロリア)です。ローマ・カトリック教会によって覆いがかけられた聖書を原典から読むことで、その輝きを再発見し、五つのソラを旗印にして改革を進めたのです。また、ルターは、恐らく世界で初めてのラテン語聖書以外で、ギリシア語、ヘブライ語聖書から直接翻訳した邦訳聖書(新約:1522年、旧約:1534年)を発刊しました。発刊すると爆発的に売れるようなり、宗教改革が加速化されました。このことから分かるのは、なんといっても聖書の御言葉自体に力があるということです。「聖書が語っている通り御言葉をそのまま説き証し、聖書が語っていることをそのまま聞くこと」これが、いかに大切なのかを思い知らされます。私たちも宗教改革をルーツに持つ教会として、聖書の御言葉に真っすぐに向き合っていきたいと思います。

さて、本日は、衆議院選挙の日ですね。皆様はもう選挙を済まされたでしょうか。日本では、選挙によって選ばれた国会議員が国の法律を制定しますね。ですから私たちは、私たちの声をよく聞いてくれる人に投票して、私たちの願いを政治に反映させようと致します。これが民主主義ですね。モーセの時代は、国々の王たちが、自分たちの国の法律を制定するのが常識でした。しかし、そんな中にあって、イスラエルでは、そういった常識は通用しませんでした。イスラエルは神によって選ばれた民であったからです。イスラエルの中で法律を制定するのは、神ご自身です。ホレブ山(シナイ山)においてイスラエルの民に与えられた「十戒」が、まさに神様から直接与えられた法でありました。想像して見てください。神様から直接法律が制定されるとは、なんと光栄なことでしょうか。どれほど祝福された民でありましょうか。そして、この十戒は、契約という形を通して与えられました。「主なる神がイスラエルの神となり、イスラエルは主なる神の民となる」という恵みの契約の中で、十戒が与えられたのです。そのことを念頭におきながら、私たちは日々十戒を大切にし、これを守っていかなければなりません。ところで、この十戒が与えられた状況を思い起こしていただきたいのですが、シナイ山は燃え上がり、火は中天に達し、黒雲と密雲が垂れこめていました。大変恐ろしい状況です。4:11~14節をご覧ください。

【1】. 堕落後における人間の位置

 “あなたたちが近づいて山のふもとに立つと、山は燃え上がり、火は中天に達し、黒雲と密雲が垂れこめていた。主は火の中からあなたたちに語りかけられた。あなたたちは語りかけられる声を聞いたが、声のほかには何の形も見なかった。主は契約を告げ示し、あなたたちが行うべきことを命じられた。それが十戒である。主はそれを二枚の石の板に書き記された。主はそのとき、あなたたちが渡って行って得ようとしている土地で行うべき掟と法をあなたたちに教えるようにわたしに命じられた。”

イスラエルの民は、雷鳴が響き渡るシナイ山において、震えあがりながら主の御声を聞きました。私はここを読むときにいつも疑問に思っていたのですが、「神様はシナイ山で顕現されて、イスラエルの民に十戒を制定された時、なぜ、もっと、のどかな状況で、優しく、麗らかな声で語って下さらなかったのか。その方が神様にとっても、人間にとってもお互いにとって、いいでしょうに」と思っていました。明らかに神の顕現と、それに伴う状況がマッチングしていないと思うのです。皆様はどのようにお感じになられますでしょうか。

4章では「火」という言葉が強調されていますが、聖書の中で度々、神の「怒り」とか「憤り」が火によって表現されています。荒れ野において、主が規定された方法に従わなかった、アロンの息子たちであるナダブとアビフは、火によって焼き尽くされました(レビ10:1~2)。反逆するコラの仲間たち250人も、やはり火によって焼き尽くされました(民16:35)。神はやがての日に、この地にご自身の公義を貫徹させ、火の裁きをもたらされることでしょう。ですからシナイ山において「山は燃え上がり、火は中天に達し、黒雲と密雲が垂れこめていた」という描写は、明らかに神の怒りが表現されていると考えられるのです。神が自らイスラエルの民と喜ばしい契約を締結される際に、矛盾しているかのように神の怒りが表現されているのです。「火の中から、神の恵みの契約の言葉を聞く」この矛盾していると思える両極端のコントラストは、一体何を意味しているのでしょうか。それは、私たち罪びとの現在地点を教えているのだと思います。しかし、それはあくまでも私たちの現在地であって、私たちがやがての日に引き上げられる完成地点ではないという事も併せて覚える必要があるかと思います。

神は、罪のある者を決して罪がないとは言いません。神は人を容貌で見ることもなく、わいろを受け取ることもなく、偏見を持って見ることもありません。神は義であられ、そして神の審判はいつも義しいからです。決して「あなたは、お気に入りだから、今回の罪は大目に見てあげる」などとは言わないということです。神が罪びとの前に臨在される時に、火は中天に達し、黒雲と密雲が垂れこめたのですが、この神の激しい怒りには、神の公義が裏打ちされています。一方で、主なる神は、イスラエルの民に、この恐ろしい火の中から語りかけてくださいました。十戒を制定してくださったという点において、つまりご自身からへりくだり民に語りかけてくださったという点において、神の恵みと憐みを見て取ることができるのです。従って、神の激しい怒りと恵み、或いは神の公義と憐みという両極端なコントラストが浮かび上がってきます。この神の怒りと恵みという二重のコントラストは、エデンの園でアダムとエバが罪を犯してしまった後、神がアダムを探し求め、そして、その時に下された裁きと共に、原福音を語ってくださったあの状況に重なってくるのであります。創世記3:8~19をご覧ください。(旧約p.4)

“その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」”

アダムとエバが罪を犯し、人類は堕落してしまい、行いの契約は破棄され、神様は裁きの言葉を語られますが、実はこの裁きの中にあって、3:15節において直ちに恵みの契約が制定されたのです。人間が神の言葉を信じないでサタンの言葉を信じ、神との契約を破り、サタンと契約を結んでしまいましたが、「その関係に敵対関係を置く」、さらに「女の子孫はサタンの頭を砕く」と約束してくださいました。

この神の怒りと恵みの二重のコントラストは罪びとが贖われるプロセスを指し示しているとも言えます。それは、つまりキリストがこの世で模範を見せてくださったプロセスでもありますが、苦難を通して栄光へ、十字架を通して勝利の冠へ、戦いを通して勝利へと至る道です。狭い道を通って、茨の道を通って天国に入ることができる。このプロセスです。神はこの地上に生きる私たちに、贖いのプロセスを示す、二重のコントラストを持って接してくださるのです。

【2】. 契約「イスラエルを主の嗣業の民とされ、約束の地を民の嗣業の地とされた」

 4:20節をご覧ください。

“しかし主はあなたたちを選び出し、鉄の炉であるエジプトから導き出し、今日のように御自分の嗣業の民とされた。”

主はイスラエルの民をご自身の嗣業の民、つまり、ご自身の所有の民であると表現しています。実は嗣業という言葉が後で、38節にも出てきますが、そこでは、イスラエルが約束の地を嗣業として与えられるとあります。つまり、主なる神はイスラエルの民をご自身の嗣業としてみなし、一方、その後でカナンの地を嗣業としてイスラエルに与えると宣言してくださっているのです。「嗣業」という言葉を通して、もう一度神とイスラエルの民が契約の関係にあることを思いめぐらすことが出来ます。

さて、15~19節までは、自分たちのために何らかの像を造り、それを拝む偶像礼拝の戒めが挿入されています。神様は霊であられ、いかなる形にも収まることのないお方ですから、神の像を造ってはなりません。これは十戒の中の第二戒にあたります。神の民は、神の戒めを守り、自分たちのために像を造らないように気を付けなければなりません。ところがモーセは、民がいつか、この戒めを破るであろうと預言しています。4:23~28節をご覧ください。

“あなたたちは注意して、あなたたちの神、主があなたたちと結ばれた契約を忘れず、あなたの神、主が禁じられたいかなる形の像も造らぬようにしなさい。あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである。あなたが子や孫をもうけ、その土地に慣れて堕落し、さまざまの形の像を造り、あなたの神、主が悪と見なされることを行い、御怒りを招くならば、わたしは今日、あなたたちに対して天と地を呼び出して証言させる。あなたたちは、ヨルダン川を渡って得るその土地から離されて速やかに滅び去り、そこに長く住むことは決してできない。必ず滅ぼされる。主はあなたたちを諸国の民の間に散らされ、主に追いやられて、国々で生き残る者はわずかにすぎないであろう。あなたたちはそこで、人間の手の業である、見ることも、聞くことも、食べることも、嗅ぐこともできない木や石の神々に仕えるであろう。”

モーセはまるで、彼らの後の子孫が偶像礼拝をし、その結果、招いたしまったアッシリア捕囚とバビロン捕囚を知っているかのように的確に預言しています。イスラエルの子孫は再び堕落し、律法を破り、国々に散らされることになるでしょう。

【3】. この契約は主の憐みの上に堅く保たれている

 それではイスラエルの罪の故に、イスラエルが契約を汚し、破ってしまったことによって、主と民との間の契約は完全に破棄されてしまうのでしょうか。この質問の答えるためには、イスラエルのその後の歴史と預言者たちの啓示に目を向けなければなりませんが、その歴史を知っている私たちから見るなら、イスラエルの背教がひどくなるにつれて、ますます強く断言するかのように、「この恵みの契約は決して揺れることなく、たとえ人間が契約に誠実ではなかったとしても、神はご自身の契約を忘れず、契約は専ら神の憐みの上に確固たる姿を留めている」ということを確認することができます。4:31節にもそのように書かれています。

“あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れられることもないからである。”

神様は罪に対し断固として審判を下されますが、神の裁きが決して最後の言葉として終わっていません。イスラエルを再び悔い改めに導き、神の憐みが裁きに勝っていく歴史を私たちは目にすることになるのです。従って、一時的に下される神の裁きは、恵みの契約という大きな枠から見るなら、一つの祝福であると私たちは理解することができます。人はアダムとエバが罪を犯したために、土地が呪われ、額に汗を流すことにより初めて土地の産物を得られるようになりました。しかし考えようによっては、道徳的に堕落してしまった人間にとっては、むしろ労働は怠惰な生活に陥らないようにさせ、人間を生き生きとさせて、人間の能力を刺激し、活動を上昇させ、人生を崇高にさせるものであります。さらに言えば、人間はいつか死ななければなりませんが、この死さえ、単純に刑罰ではなく、祝福であると理解することができるのです。なぜなら、人間の中にある罪が永遠不滅なものとならないように、一時的な死が制定されたと言えるからです。キリスト者にとって、死は罪からの解放を意味するのです。

従って、神の怒りと恵み、神の正義と憐み、この神の二重のコントラストにあって、神の恵みこそが、神の憐みこそが、その根底に敷かれていることに気づかされるのです。4:32~35節をご覧ください。モーセは民にいくつかの質問をしています。

“あなたに先立つ遠い昔、神が地上に人間を創造された最初の時代にさかのぼり、また天の果てから果てまで尋ねてみるがよい。これほど大いなることがかつて起こったであろうか。あるいは、そのようなことを聞いたことがあろうか?火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きている、あなたと同じような民があったであろうか?あるいは、あなたたちの神、主がエジプトにおいてあなたの目の前でなさったように、さまざまな試みとしるしと奇跡を行い、戦いと力ある御手と伸ばした御腕と大いなる恐るべき行為をもって、あえて一つの国民を他の国民の中から選び出し、御自身のものとされた神があったであろうか?あなたは、主こそ神であり、ほかに神はいないということを示され、知るに至った。”

モーセの質問に対する答えは全て「NO!」ですね。34節の「力ある御手と伸ばした御腕」という言葉は、出エジプトの解放について語る時に、よくセットで使われる言葉です。人類の歴史を神が目的をもって導いておられ、力ある御手による神の介入が今なお、なされていることを表しています。

遠い昔に遡り、創造の御業の時にまで遡っても、これほど大いなることは、かつて起こりませんでした。火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きているイスラエルのような民はいません。エジプトに対してさまざまな試みとしるしと奇跡を行って一つの国民を選び出し、ご自身のものとされた神など見たこともありません。後にバビロン捕囚の中に置かれた、ユダヤ人のシャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人が火の炉の中に入れられたのに、神の子が共におられたために、火の中から無事に守られて出て来たという事件が起こりますが、それはずっと未来の出来事でありました。ダニエル書3:23~25をご覧ください。

“シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った。間もなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねた。「あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。」彼らは答えた。「王様、そのとおりでございます。」王は言った。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」”

実に神様は、まさにイスラエルに対して火の中から、契約の言葉を語りかけてくださったのです。この主こそ神であり、他に神はないということがはっきりと示されました。

【結論】

 神は私たち罪びとに対し怒りと恵み、公義と憐みの二重のコントラストによって接してくださいますが、これは恵みと憐みがその根底に敷かれていて、イスラエルがどんなに、汚れと背教の道を進んでも、主は決してイスラエルを捨てることなく、愛してくださり、悔い改めと命へ導いてくださるのです。神の民とされた私たちも、日々罪を犯し、不誠実をもって神の御名を汚してしまいますが、私たちに対する恵みの契約は、キリストの信実の故に決して揺れるものではなく、堅く据えられています。そのことを覚え感謝して喜んで、神の御言葉に聞き従いながら歩んで行く者とさせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

이런 하나님이 또 어디에 계실까

2021년 10월 31일 센겐다이 교회 주일설교

신명기 4장 11-40절

서론

오늘은 종교개혁 기념 예배입니다. 1517년 10월 31일 루터가 비텐베르크 교회 정문에 95개 조항의 반박문을 붙인 것을 계기로 종교개혁이 일어났습니다. 종교개혁의 배경에는 문예부흥(르네상스)라고 불리우는 운동이 있었습니다. 이 운동은 기독교와는 적대관계에 있는 인문주의자(휴머니스트)들에게서 일어나 과거 화려했던 그리스와 로마 시대의 예술을 부흥시키고 새로운 문화를 창출해 내어 그것들을 부흥시키려는 운동입니다. 그런 흐름 속에서 성경을 (당시 읽히던 라틴어 성경뿐만 아니라) 그리스어나 히브리어로 직접 읽어보고 싶다는 요구가 커지면서 연구가 진행되었습니다. 그러나 성경을 직접 읽어 봤을 때 당시 로마 카톨릭교회에서는 가르치지 않았던 성경에 대한 새로운 시각이 주어진다는 것을 깨닫게 되었습니다. 지금까지 느껴본 적이 없는 매우 신선한 느낌을 체험했던 것 같습니다. 그렇게 성경을 原典으로 읽고 감동한 사람들이 종교개혁자로 일어서게 된 것입니다. 종교개혁의 2세대인 칼빈도 원래 인문주의자입니다. 종교개혁의 구호는 다섯 가지 솔라로 요약할수 있는데, 그 슬로건은 오직 성경 (솔라 스크립투라) 오직 믿음 (솔라 피데) 오직 은혜 (솔라 그라티아) 오직 그리스도 (솔루스 크리스트투스) 오직 하나님께 영광을 (소리 데오 글로리아) 입니다. 로마 카톨릭교회가 덮은 성경을 原典으로 읽음으로 그 빛을 재발견하고 다섯 개의 솔라를 기치로 삼아 개혁을 추진한 것입니다. 또한 루터는 아마도 세계최초의 라틴어 성경 이외에 그리스어, 히브리어 성경에서 직접 번역한 국역성경 (신약 1522년, 구약 1534년)을 발간했습니다. 발간 하자 폭발적으로 팔리면서 종교개혁이 가속화되었습니다. 이 점에서 알 수 있는 것은 뭐니뭐니해도 성경 말씀 자체에 힘이 있다는 것입니다. “성경이 말하는 대로 말씀을 그대로 풀어서 말하고 성경이 말하는 것을 그대로 듣는 것” 이것이 얼마나 중요한지 깨닫게 됩니다. 저희도 종교개혁에 뿌리를 둔 교회로서 성경 말씀을 바르게 마주하고 싶습니다.

자, 오늘은 중의원 선거의 날이네요. 여러분은 이미 투표를 하셨습니까? 일본에서는 선거에 의해서 선출된 국회의원이 나라의 법률을 제정 하지요. 그래서 우리는 우리의 목소리에 귀를 기울여주는 사람에게 투표하여 우리의 바람을 정치에 반영하려고 합니다. 이게 민주주의죠. 모세 시대에는 나라들의 왕들이 자기 나라의 법을 제정하는 것이 상식이었습니다. 그러나 그 와중에 이스라엘에서는 그런 상식이 통하지 않았습니다. 이스라엘은 하나님에 의해 선택된 백성이었기 때문입니다. 이스라엘 안에서 법률을 제정하는 것은 하나님 자신입니다. 호렙산(시내산) 에서 이스라엘 백성에게 주어진 「십계명」이 바로 하나님께서 직접 주신 법이었습니다. 상상해 보세요. 하나님께서 직접 법률을 제정해 주신다는 것은 얼마나 영광스러운 일인가요? 얼마나 축복받은 백성일까요? 그리고 이 십계명은 언약이라는 형태를 통해 주어졌습니다.「주 하나님이 이스라엘의 신이 되고 이스라엘은 주 하나님의 백성이 된다」라고 하는 은혜의 언약 가운데 십계명이 주어진 것입니다. 그것을 염두에 두고 우리는 날마다 십계명을 소중히 여기고 이를 지켜나가야 합니다. 그런데 이 십계명이 주어진 상황을 상기시켜 보시길 바랍니다만 시내산은 불타오르고 불길이 충천하고 어둠과 구름과 흑암이 덮어져 있었습니다. 매우 무서운 광경이었습니다. 4장 11-14절을 참조하세요.

(1) 타락 후 인간의 위치

11 너희가 가까이 나아와서 산 아래에 서니 그 산에 불이 붙어 불길이 충천하고 어둠과 구름과 흑암이 덮었는데

12 여호와께서 불길 중에서 너희에게 말씀하시되 음성뿐이므로 너희가 그 말소리만 듣고 형상은 보지 못하였느니라

13 여호와께서 그의 언약을 너희에게 반포하시고 너희에게 지키라 명령하셨으니 곧 십계명이며 두 돌판에 친히 쓰신 것이라

14 그 때에 여호와께서 내게 명령하사 너희에게 규례와 법도를 교훈하게 하셨나니 이는 너희가 거기로 건너가 받을 땅에서 행하게 하려 하심이니라

이스라엘 백성들은 천둥소리가 울려 퍼지는 시내산에서 벌벌 떨며 주님의 말씀을 들었습니다. 저는 이 부분을 읽을 때 항상 의문을 느꼈는데 ‘하나님은 시내산에 나타나셔서 이스라엘 백성들에게 십계명을 제정하실 때 왜 더 밝고 평화스러운 느낌 가운데서 따뜻하고 아름다운 목소리로 말씀해 주시지 않았을까? 그 편이 하나님께도 인간에게도 서로에게 좋았을텐데’ 라고 생각했습니다. 분명히 하나님의 현현과 그에 따른 상황이 매칭이 되지 않는다고 여겨지는 것입니다. 여러분은 어떻게 느끼실까요?

4장에서는 「불」이라고 하는 단어가 강조 되어져 있습니다만 성경 가운데 종종 하나님의 「화를 내실 때」라든가 「분노 하실 때」가 불에 의해 표현되고 있습니다. 광야에서 주께서 규정하신 방법을 따르지 않았던 아론의 아들들인 나답과 아비후는 불에 탔습니다. (레위기 10장 12절) 반역하는 코라의 동료들 250명 역시 불에 탔습니다. (민수기 16장 35절) 하나님은 머지않아 이 땅에 자신의 공의를 관철시켜 불의 심판을 내리실 것입니다. 그래서 시내산에서 「불이 붙어 불길이 충천하고 어둠과 구름과 흑암이 덮었는데」는 묘사는 분명히 하나님의 분노가 표현된 것으로 생각됩니다. 하나님께서 스스로 이스라엘 백성들과 기쁜 언약을 맺고 계시는 가운데 모순되는 것처럼 하나님의 분노가 표현되어 있는 것입니다. “불 속에서 하나님의 은혜의 언약 말씀을 듣는다”는 이 모순적이라고 생각되는 양극단의 대비는 도대체 무엇을 의미하는 것일까요. 그것은 우리 죄들의 현재 지점을 가르치고 있는 것이라고 생각합니다. 그러나 그것은 어디까지나 우리의 현재 위치이지 우리가 머지않아 그 날에 끌어 올리움을 받을 완성지점이 아니라는 것도 함께 기억할 필요가 있다고 생각합니다.

하나님은 죄가 있는 자를 결코 죄가 없다고 말하지 않습니다. 하나님은 사람을 용모로 보지도 않으시고 뇌물도 받지 않으시며 편견을 가지고 보시지도 않습니다. 하나님은 의로우시고, 그리고 하나님의 심판은 항상 의롭기 때문입니다. 결코 “너는 마음에 드니까 이번 죄는 너그럽게 봐주겠다”는 등의 말씀을 하지 않으신다는 것입니다. 하나님이 죄인들 앞에 임재하실 때 불길이 충전하고 어둠과 구름과 흑암이 덮었는데 이 하나님의 격렬한 분노에는 하나님의 공의가 뒷받침되고 있습니다. 한편, 주 하나님은 이스라엘 백성들에게 이 무서운 불 속에서 말씀해 주셨습니다. 십계명을 제정해 주셨다는 점에서 즉, 하나님 스스로 자신을 낯추시고 백성들에게 말씀해 주셨다는 점에서 하나님의 은혜와 긍휼하심을 엿볼 수 있는 것입니다. 따라서 하나님의 격렬한 분노와 은혜 혹은 하나님의 공의와 긍휼하심이라는 양극단적인 대비가 떠오릅니다. 이 하나님의 분노와 은혜라는 이중적인 대비는 에덴동산에서 아담과 하와가 죄를 지은 후에 하나님께서 아담을 찾아오시고 그리고 그 때 내려진 심판과 함께 원복음을 말씀해 주신 그 상황이 겹쳐 보이는 것입니다. 창세기 3장 8-19절을 참조하십시오.

8 그들이 그 날 바람이 불 때 동산에 거니시는 여호와 하나님의 소리를 듣고 아담과 그의 아내가 여호와 하나님의 낯을 피하여 동산 나무 사이에 숨은지라

9 여호와 하나님이 아담을 부르시며 그에게 이르시되 네가 어디 있느냐

10 이르되 내가 동산에서 하나님의 소리를 듣고 내가 벗었으므로 두려워하여 숨었나이다

11 이르시되 누가 너의 벗었음을 네게 알렸느냐 내가 네게 먹지 말라 명한 그 나무 열매를 네가 먹었느냐

12 아담이 이르되 하나님이 주셔서 나와 함께 있게 하신 여자 그가 그 나무 열매를 내게 주므로 내가 먹었나이다

13 여호와 하나님이 여자에게 이르시되 네가 어찌하여 이렇게 하였느냐 여자가 이르되 뱀이 나를 꾀므로 내가 먹었나이다

14 여호와 하나님이 뱀에게 이르시되 내가 이렇게 하였으니 네가 모든 가축과 들의 모든 짐승보다 더욱 저주를 받아 배로 다니고 살아있는 동안 흙을 먹을지니라

15 내가 너로 여자와 원수가 되게 하고 네 후손도 여자의 후손과 원수가 되게 하리니 여자의 후손은 네 머리를 상하게 할 것이요 너는 그의 발꿈치를 상하게 할 것이니라

16 또 여자에게 이르시되 내가 네게 임신하는 고통을 크게 더하리니 네가 수고하고 자식을 낳을 것이며 너는 남편을 원하고 남편은 너를 다스릴 것이니라 하시고

17 아담에게 이르시되 네가 네 아내의 말을 듣고 내가 네게 먹지 말라 한 나무의 열매를 먹었은즉 땅은 너로 말미암아 저주를 받고 너는 네 평생에 수고하여야 그 소산을 먹으리라

18 땅이 네게 가시덤불과 엉겅퀴를 낼 것이라 네가 먹을 것은 밭의 채소인즉

19 네가 흙으로 돌아갈 때까지 얼굴에 땀을 흘려야 먹을 것을 먹으리니 네가 그것에서 취함을 입었음이라 너는 흙이니 흙으로 돌아갈 것이니라 하시니라

아담과 하와가 죄를 짓고 인류는 타락해 버리고 행함으로 인한 언약은 파기되고 하나님은 심판의 말씀을 말하시지만 실은 이 심판 가운데 3장 15절의 말씀으로 은혜의 언약이 제정된 것입니다. 인간이 하나님의 말씀을 믿지 않고 사탄의 말을 믿고 하나님과의 언약을 깨고 사탄과 계약을 맺어 버렸는데 「너로 여자와 원수가 되게 하고」더 나아가 「네 후손도 여자의 후손과 원수가 되게 하리니 여자의 후손은 네 머리를 상하게 할 것이요」라고 약속을 해 주셨습니다.

이 하나님의 분노와 은혜의 이중의 콘트라스트는 죄가 속죄되는 과정을 가리킨다고도 할 수 있습니다. 그것은 곧 그리스도께서 이 세상에서 모범을 보이신 과정이기도 하지만 고난을 통해 영광으로, 십자가를 통해 승리의 관을, 싸움을 통해 승리에 이르는 길입니다. 좁은 길을 지나 가시밭길을 통해 천국으로 들어갈 수 있는 과정인 것입니다. 하나님은 이 땅위에 사는 우리에게 속죄의 과정을 보여 주시는 이중의 콘트라스트를 가지고 다가오시는 것입니다.

(2) 언약 「이스라엘을 주의 기업 백성으로 삼으시고 약속의 땅을 백성의 기업의 땅으로 삼으셨다」

4장 20절을 참조하십시오.

20 여호와께서 너희를 택하시고 너희를 쇠 풀무불 곧 애굽에서 인도하여 내사 자기 기업의 백성을 삼으신 것이 오늘과 같아도

주님은 이스라엘 백성을 자기 기업의 백성, 즉 자신이 소유한 백성이라고 표현하고 있습니다. 사실 기업이라는 말이 나중에 38절에도 나오는데 그 부분에서는 이스라엘에게 약속의 땅을 기업으로 주신다고 합니다. 즉 주 하나님은 이스라엘 백성을 자기의 기업으로 간주하고 그후 가나안 땅을 기업으로 이스라엘에게 주시겠다고 선언해 주시는 것입니다. 「기업」이라고 하는 말을 통해 다시 한 번 하나님과 이스라엘 백성이 언약 관계에 있음을 상기할 수 있습니다.

자, 15-19절까지는 자신들을 위해 어떤 상을 만들고 그것을 섬기는 우상예배의 계명이 삽입되어 있습니다. 하나님은 영이시며 어떤 형태에도 들어가 계시지 않는 분이시기 때문에 하나님의 형상을 만들어서는 안 됩니다. 이것은 십계명 중의 제 2계명에 해당합니다. 하나님의 백성들은 하나님의 계명을 지키고 자신들을 위해 상을 만들지 않도록 조심해야 합니다. 그런데 모세는 백성들이 언젠가 이 계명을 어길 것이라고 예언하고 있습니다. 4장 23-28절을 참조하십시오.

23 너희는 스스로 삼가 너희의 하나님 여호와께서 너희와 세우신 언약을 잊지말고 네 하나님 여호와께서 금하신 어떤 형상의 우상도 조각하지 말라

24 네 하나님 여호와는 소멸하는 불이시요 질투하시는 하나님이시라

25 네가 그 땅에서 아들을 낳고 손자를 얻으며 오래 살 때에 만일 스스로 부패하여 무슨 형상의 우상이든지 조각하여 네 하나님 여호와 앞에 악을 행함으로 그의 노를 일으키면

26 내가 오늘 천지를 불러 증거를 삼노니 너희가 요단을 건너가서 얻는 땅에서 속히 망할 것이라 너희가 거기서 너희의 날이 길지 못하고 전멸될 것이라

27 여호와께서 너희를 여러 민족 중에 흩으실 것이요 여호와께서 너희를 쫓아 보내실 그 여러 민족 중에 너희의 남은 수가 많지 못할 것이며

28 너희는 거기서 사람의 손으로 만든 바 보지도 못하며 듣지도 못하며 먹지도 못하며 냄새도 맡지 못하는 목석의 신들을 섬기리라

모세는 마치 그들의 후손들이 우상 예배를 드리고 초래한 그 결과로서 앗시리아 포로 생활과 바벨론의 포로 생활을 할 것을 알고 있는 것처럼 정확하게 예언하고 있습니다. 이스라엘 자손은 다시 타락하여 율법을 어기고 여러 나라들로 흩어지게 될 것입니다.

(3) 주님의 긍휼하심 위에 굳건히 유지되고 있는 언약

그렇다면 이스라엘의 죄로 인해 이스라엘이 언약을 더럽히고 어김으로써 하나님과 백성 사이의 계약은 완전히 파기되고 마는 것 입니까? 이 질문에 답하기 위해서는 이스라엘의 이후의 역사와 예언자들의 계시에 눈을 돌려야 합니다만 그 역사를 알고 있는 우리들이 볼 때 이스라엘의 배교가 심해짐에 따라 점점 더 강하게, 단언하듯이 이 은혜의 언약은 결코 흔들리지 않을 것이며 설령 인간이 언약에 성실하지 못하더라도 하나님은 자신의 언약을 잊지 않으며 언약은 전적으로 하나님의 연민 위에 확고한 모습을 간직하고 있다는 것을 확인 할 수 있습니다. 4장 31절에도 그렇게 적혀 있습니다.

31 네 하나님 여호와는 자비하신 하나님이심이라 그가 너를 버리지 아니하시며 너를 멸하지 아니하시며 네 조상들에게 맹세하신 언약을 잊지 아니하시리라

하나님은 죄에 대해 단호하게 심판을 내리시지만 하나님의 심판이 결코 마지막의 말씀으로 끝나지 않았습니다. 이스라엘을 다시 회개로 인도하고 하나님의 긍휼하심이 심판을 이겨나가는 역사를 우리는 보게 되는 것입니다. 따라서 일시적으로 내려지는 하나님의 심판은 은혜의 언약이라는 큰 틀에서 본다면 하나의 복이라고 우리는 이해할 수 있습니다. 사람은 아담과 하와가 죄를 범했기 때문에 땅이 저주를 받고 이마에 땀을 흘림으로써 비로소 땅의 산물을 얻을 수 있게 되었습니다. 그러나 생각하기에 따라서는 도덕적으로 타락해 버린 인간에게 오히려 노동은 나태한 생활에 빠지지 않게 하고, 인간을 생기 있게 하며 인간의 능력을 자극하고 활동을 상승시켜 인생을 숭고하게 하는 것입니다. 더 나아가 인간은 언젠가 죽어야 하지만 이 죽음조차도 단순히 형벌이 아니라 축복으로 이해할 수 있습니다. 왜냐하면 인간 속에 있는 죄가 영원불멸하지 않도록 일시적인 죽음이 제정되었다고 할 수 있기 때문입니다. 그리스도인에게 죽음은 죄로부터의 해방을 의미합니다.

따라서 하나님의 분노와 은혜, 하나님의 정의와 긍휼하심 이 하나님의 이중적인 대비에 있어서 하나님의 은혜야말로 하나님의 긍휼하심이야말로 그 뿌리에 깔려 있음을 깨닫게 되는 것입니다. 4장 32-35절을 참조하십시오. 모세는 백성들에게 몇 가지 질문을 하고 있습니다.

32 네가 있기 전 하나님이 사람을 세상에 창조하신 날부터 지금까지 지나간 날을 상고하여 보라 하늘 이 끝에서 저 끝까지 이런 큰 일이 있었느냐 이런 일을 들은 적이 있었느냐

33 어떤 국민이 불 가운데에서 말씀하시는 하나님의 음성을 너처럼 듣고 생존하였느냐

34 어떤 신이 와서 시험과 이적과 기사와 전쟁과 강한 손과 편 팔과 크게 두려운 일로 한 민족을 다른 민족에게서 인도하여 낸 일이 있느냐 이는 다 너희의 하나님 여호와께서 애굽에서 너희를 위하여 너희의 목전에서 행하신 일이라

35 이것을 네게 나타내심은 여호와는 하나님이시요 그 외에는 다른 신이 없음을 네게 알게 하려 하심이니라

모세의 질문에 대한 대답은 전부 “NO” 네요. 34절의 「강한 손과 편 팔」이라는 말은 출애굽으로부터의 해방에 대해서 이야기 할 때 흔히 세트로 쓰이는 말입니다. 인류의 역사를 하나님이 목적을 가지고 인도하고 계시며, 힘 있는 강한 손에 의한 하나님의 개입이 아직도 이루어지고 있음을 나타내고 있습니다.

먼 옛날로 거슬러 올라가 창조의 역사의 때까지 거슬러 올라가 봐도 이렇게 큰 일은 일찍이 일어나지 않았습니다. 불 가운데 말씀하시는 하나님의 음성을 듣고도 살아남은 이스라엘 같은 백성은 없습니다. 애굽에 대해 다양한 재앙과 표적과 기적을 행하여 하나의 국민을 선택하여 꺼내시고 자기 것으로 삼으신 신은 본 적도 없습니다. 나중에 바벨론 포로 신세가 된 유대인 사드락, 메삭 아벳느고 세 사람이 불 화로 안에 들어 갔는데 주께서 함께 계셨기 때문에 불 속에서 무사히 지켜지고 멀쩡히 나온 사건이 벌어지는데 그것은 훨씬 미래의 일이었습니다. 다니엘 서 3장 23-25절을 참조하십시오.

23 이 세 사람 사드락과 메삭과 아벳느고는 결박된 채 맹렬히 타는 풀무불 가운데에 떨어졌더라

24 그 때에 느부갓네살 왕이 놀라 급히 일어나서 모사들에게 들어 이르되 우리가 결박하여 불 가운데에 던진 자는 세 사람이 아니었느냐 하니 그들이 왕에게 대답하여 이르되 왕이여 옳소이다 하더라

25 왕이 또 말하여 이르되 내가 보니 결박되지 아니한 네 사람이 불 가운데로 다니는데 상하지도 아니하였고 그 넷째의 모양은 신들의 아들과 같도다 하고

실로 하나님은 바로 이스라엘에 대해 불 가운데서 언약의 말씀을 주신 것입니다. 이 주님이야말로 신이시며 다른 신은 없다는 것이 분명하게 드러났습니다.

결론

하나님은 우리들 죄인에 대해 분노와 은혜, 공의와 긍휼의 이중적인 콘트라스트로 대해 주시는데 이는 은혜와 긍휼이 그 근저에 깔려 있어서 이스라엘이 아무리 더러워지고 배교의 길을 가더라도 주께서는 결코 이스라엘을 버리지 않고 사랑해 주시고 회개와 생명으로 인도 해 주시는 것입니다. 하나님의 백성으로 삼아주신 우리도 날마다 죄를 짓고 불성실함으로써 하나님의 이름을 더럽히고 말지만, 우리에 대한 은혜의 언약은 그리스도의 신실함으로 인해서 결코 흔들리지 않고 굳게 고정되어 있습니다. 그것을 기억하고 감사하고 기뻐하며, 하나님의 말씀에 순종하며 걸어가는 자가 됩시다.

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