2021年10月24日「掟と法を聞いて生きる 규례와 법도를 따르며 사는 삶」

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掟と法を聞いて生きる 규례와 법도를 따르며 사는 삶

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 4章1節~10節

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4:1イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。
4:2あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。
4:3あなたたちは、主がバアル・ペオルでなさったことをその目で見たではないか。あなたの神、主はペオルのバアルに従った者をすべてあなたの間から滅ぼされたが、
4:4あなたたちの神、主につき従ったあなたたちは皆、今日も生きている。
4:5見よ、わたしがわたしの神、主から命じられたとおり、あなたたちに掟と法を教えたのは、あなたたちがこれから入って行って得る土地でそれを行うためである。
4:6あなたたちはそれを忠実に守りなさい。そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、彼らがこれらすべての掟を聞くとき、「この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である」と言うであろう。
4:7いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。
4:8またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。
4:9ただひたすら注意してあなた自身に十分気をつけ、目で見たことを忘れず、生涯心から離すことなく、子や孫たちにも語り伝えなさい。
4:10あなたがホレブであなたの神、主の御前に立った日、主はわたしに言われた。「民をわたしのもとに集めなさい。わたしの言葉を彼らに聞かせ、彼らが地上に生きる限り、わたしを畏れることを学び、またそれを子らに教えることができるようにしよう。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 4章1節~10節

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【序】

 本日は知恵について考えてみたいと思います。突然ですが、知識と知恵の違いとは何でしょうか?と質問されたら、皆さんはどのようにお答えになるでしょうか。インターネットで調べてみると、ある人は、「『知識』とはただ、情報を知っていることを指すのに対して、『知恵』とは知っているだけではなく、それを活かす能力である。いくら『知識』が豊富であっても、『知恵』がなければ宝の持ち腐れで意味がなく、従って、しばしば平凡な人が学識の豊かな人より賢いということも起こり得る」と言います。またある人は、「『知識』とは理論的である反面、『知恵』とは実践的であり、生活に根差している。『知識』はたびたび人生と全く関係ないこともあるかもしれないが、『知恵』は私たちが生きていく上で自分の意志を貫徹させ、支えてくれるものである」と言います。また、ある人は、「『知識』は人間の推論や推測を通して得られるけれども、『知恵』は人間の直観を通して得られるもの」だと言います。どれも大変、的を得ていると思いました。

聖書の中にも、知識と知恵という言葉が出てきます。聖書が語る知識と知恵というのは、人間の推論や直観によって得られるものではなく、両方とも神様から来るものだと断言しています。確かに知恵というものは、実践的で、生活に根差しているものでありますが、それは人間の知性の実ではないと、聖書ははっきり言うのです。真の知恵とは、決して人の能力に依存するのではなく、主なる神様を恐れる所に根を置いていて、本日の申命記の記事によると、知恵とは、ずばり、「主の掟と法を聞いて生きる」ことだと言います。「主の掟と法を聞いて生きる」というのが本日の説教のタイトルですが、それでは「主の掟と法を聞いて生きる」とは、一体どういう意味なのでしょうか、聖書から聞いていきたいと思います。申命記4:1~2をご覧ください。

【1】. 「掟と法を聞いて生きる」とは、「主につき従うこと」

 “イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。”

モーセは、これまでイスラエルの民に過去の回想に集中させてきましたが、自分自身がもうこれ以上、イスラエルの民と一緒に約束の地に入っていくことが出来ないことを明らかにした上で、次のように語りかけています。

「これからは、あなた方が依存しなければならないのは、私ではなく、神の御言葉ですよ。」「つまり、神の掟と法こそが、あなた方を生かし、あなた方を知恵深い民とするので、この掟と法を、つまり、神の聖なる律法を、大事にして、守って行きなさい。」と告別説教を語っているわけです。

これまでイスラエルの民は荒れ野において、マナを食べながら、昼は雲の柱、夜は火の柱によって、毎日、イスラエルに先立っていかれる神様の臨在を、直接、目にしながら歩んできました。このことを言い換えるなら、仲介者であるモーセがいたお陰で、イスラエルの民はモーセを通して神様を体験しながら生きてきました。ところが、いざ、カナンの地に入ることになれば、モーセはもういません。マナも天から降って来ません。今からは、自分たちが荒れ野で体験した神と神の御言葉を子孫に語り継ぎながら、神の掟と法を、具体的に実践していく歩みへと招かれているのです。

1節の最初の言葉は、新共同訳には反映されていませんが「今や、イスラエルよ、聞け」という命令文で始まっています。「聞け」という言葉はヘブライ語で「シェマ」という言葉です。神によって与えられる掟と法を、つまり聖なる律法を、守り行うことがどれだけ大切なことなのかが説明されていきます。

3~4節に書かれているバアル・ペオルでの事件とは、民数記25章に書かれている記事ですが、神殿娼婦のようなモアブの娘たちに誘惑されて背教の罪を犯し、豊穣の神バアル・ペオルを拝んだ事件であります。申命記4:3~4節をご覧ください。

“あなたたちは、主がバアル・ペオルでなさったことをその目で見たではないか。あなたの神、主はペオルのバアルに従った者をすべてあなたの間から滅ぼされたが、あなたたちの神、主につき従ったあなたたちは皆、今日も生きている。”

この豊穣の神バアル・ペオルを拝む偶像崇拝によって、イスラエルの民の2万4千人が疫病によって打たれました。民数記25:1~2節と25:9には次のように書かれています。ご覧ください。

民25:1~2

“イスラエルがシティムに滞在していたとき、民はモアブの娘たちに従って背信の行為をし始めた。娘たちは自分たちの神々に犠牲をささげるときに民を招き、民はその食事に加わって娘たちの神々を拝んだ。”

民25:9

“この災害で死んだ者は二万四千人であった。”

このように2万4千人の民が打たれた一方で、主につき従ったあなたたちは、今日、生きているというのです。申命記4:1では、「掟と法に聞き従いなさい。そうすれば命を得る」とありましたが、4:4では「主につき従ったあなたたちは、命を得ている」とモーセは言うのです。ここで、律法に聴き従うことと、主につき従うことが、同一のこととして語られていることに気づかされます。主を信じるということは、律法に聞き従うこと、神の御言葉に聴き従うことがイコールであるということが分かります。たとえ、掟と法に聞き従うことが難しかったとしても、イスラエルの民にとっては、それは生死を分ける境界線であり、掟と法にしがみついて、そして、主にしがみつくことが、生きて行く上で必須のことであるということです。つまり、神の御言葉は、あってもなくても生活する上でどちらでもいいものではなく、イスラエルが日々を生きるための欠かせない糧であるというのです。

このことは、新約の時代に生きる私たちにも同じことが言えるでしょう。聖書は、時間に余裕がある人だけ読む本ではありません。聖書とは、何か大学を卒業して、教養があって、生活にゆとりのある人が勉強する本でもありません。聖書の御言葉に養われなければ、信仰生活それ自体が、成り立たないということです。「神様の御言葉が分からないのに、神様をどのように信じるというのか!」という事です。信仰生活というのは、一旦救いの切符を頂いたので、あとは時間に余裕があったら礼拝に出席しようかとか、時間に余裕があったら聖書でも開いてみようかということではありません。これはとんでもない誤解です。御言葉に聞き従うこと、礼拝を捧げることは、自分の都合によって、してもしなくてもいいようなものではなく生きて行く上で必須なものなのです。

ですから、私たちの信仰生活の中で特に気を付けるべきことは、神様の祝福だけを信じて、掟や法を無視したり、罪の赦しだけを信じて、道徳的な戒めや勧めを無視してしまうことです。これでは神様の御言葉を半分だけしか信じていないことになりますね。つまり、神の御言葉を減らしていることになるのです。また、反対に聖書の御言葉に自分たちの伝統を付け加えたりすることは、聖書に何かを加えることになりますので、やはり罪に当たります。例えば、日本では戦時中に教会の神礼拝の中で、神社崇拝(宮城遥拝)が付け加えられました。もっと身近な例をあげるなら、教会の中の律法主義というものがあります。自分がしたいこと、人々に負担になるようなことなどを、他人に対しても、「これ位はしなくちゃと、この程度は常識でしょ」と言って強制させることです。イエス様の時代にいた、ファリサイ人は、イエス様から「蝮の子らよ」と呼ばれ、厳しく非難されました。人々に、御言葉以外のたくさんの戒めを背負わせていたからです。このように、御言葉に何かを加えることも、減らすことも罪なのです。神の御言葉をそのまま受け入れなければなりません。ヨハネの黙示録にもこの申命記と似たような御言葉が出てきます。黙示22:18~19です。そのままお聞きください。

“この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。”

掟と法を聞いて、そのまま聞き従うということは、神様を正しく信じること、主につき従うということです。神の御言葉は私たちの日々の糧であり、私たちの生命線であるため、それを自分勝手に加えたり減らしたりしないで、そのまま受け入れ、そこにしがみつかなければならないのです。続いて申命記に戻りまして、4:5~8をご覧ください。

【2】. 「掟と法を聞いて生きる」とは、知恵と分別である

 “見よ、わたしがわたしの神、主から命じられたとおり、あなたたちに掟と法を教えたのは、あなたたちがこれから入って行って得る土地でそれを行うためである。あなたたちはそれを忠実に守りなさい。そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、彼らがこれらすべての掟を聞くとき、「この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である」と言うであろう。いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。”

7,8節では「~大いなる国民がどこにいるだろうか」という並行節が現れています。そしてここでも先ほど見て来たのと同じように、イスラエルの神、主が、正しい掟と法であると言い換えられています。7節をご覧ください。「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民」とあります。8節では「このすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民」と置き換えられています。つまり、神の掟と法は、即ち、神の御言葉とは、いつ呼び求めても、近くにおられる私たちの神、主であるというのです。この掟と法を聞いて生きることこそ、つまり、主にすがりついて生きることこそ、知恵と分別をもって生きることだと書かれています。このことは、何もモーセの時代だけに当てはまることではありません。現代においてもこの御言葉は同じく当てはまることでしょう。

私たちが日々の実生活の中で知恵を得ようとするなら、それなりの苦労があるかもしれません。例えば、「健康を維持し、病を患わないために…」ですとか、「老後のために財産を蓄えるために…」ですとか、或いは「蓄えた財産をよりよく運用するために…」これらのことの為に当然、知恵が必要となります。本を買ったり、インターネットで色々と調べたりしますが、中々知恵を得て、人生を幸いに生きて行くことは難しいことです。それどころか、思わぬところから突然、失敗や挫折や困難が私たちを襲ってきます。そんな中で、聖書は「掟と法に聞き従うこと」が知恵であるというのです。「いつも近くにおられる我々の神、主にすがりつくこと」こそ知恵であるというのです。

この申命記の言葉は、旧約聖書と、そして、新約聖書にも読み親しんでいる私たちの目には、まさにイエス・キリストのことを描写しているように映ってきます。義なるお方、インマヌエルなる主イエスは、聖霊を通して私たちの心の中に住んでくださいますが、この神の御言葉であるイエス様を糧とし、神の御言葉であるイエス様を生命線として、私たちは日々生かされているということです。神の御言葉であるイエス様に依り頼むことこそ、何よりも優る私たちの人生の知恵なのです。ヨハネによる福音書15:4をご覧ください。

“わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。”

聖書では真の知恵は、決して人の能力に依存するのではない、人間の知性の実ではない、そうではなくて、主なる神様を恐れる所に根を置いていて、それは上から与えられるもの、神様から賜物として与えられるものだと主張しています。この主イエスの下に、私たちは全ての荷を下ろして休むことが出来るのです。すべての思い煩い、悩み、心配から解放されて、平安が与えられるのです。その根拠は、イスラエルに与えられている神様との契約の為でありました。シナイ山において、「私はあなたたちの神となり、あなたたちは私の民となる」(出19:5~6,レビ26:11~12)とおっしゃってくださったあの契約です。申命記4:10節と13節をご覧ください。

“あなたがホレブであなたの神、主の御前に立った日、主はわたしに言われた。「民をわたしのもとに集めなさい。わたしの言葉を彼らに聞かせ、彼らが地上に生きる限り、わたしを畏れることを学び、またそれを子らに教えることができるようにしよう。」”

13節

“主は契約を告げ示し、あなたたちが行うべきことを命じられた。それが十戒である。主はそれを二枚の石の板に書き記された。”

神はイスラエルの民と契約を結んでくださり、主がイスラエルの民の神となられ、イスラエルが主の民となるようにしてくださいました。平たく言えば、イスラエルの民をロイヤルファミリーに招き入れてくださったのです。ですからこの主にすがり着くなら、主の掟と法を聞いて生きるなら、豊かな知恵の実が結ばれるのです。

【結論】

 神と契約を結んだイスラエルの民は、神の聖なる民とされたため、主の掟と法を聞いて生きる民とさせられました。掟と法を聞いて生きるとは、主の御言葉に勝手に加えることも、減らすこともしてはならず、ただ主にしがみついて生きて行くという事です。何か自由を奪われたように見えますが、実は、掟と法を聞いて生きることこそ、地上の何よりも優る知恵であり、命へ生かされる道であり、約束の地を相続する道でありました。掟と法を聞いて生きることこそ、インマヌエルなる主イエスと共に生きる道であり、すべての思い煩い、悩み、心配から解放されて、平安が与えられ、恵みに生かされる道であったのです。私たちはそのことを、畏れを持って学び、私たちたちが子々孫々にこの福音を伝えていくことができるように祈り求めて参りましょう。

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규례와 법도를 따르며 사는 삶

2021년 10월 24일 센겐다이 교회 주일 설교

신명기 4장 1-10절

서론

오늘은 지혜에 대해서 생각해보도록 하겠습니다. 갑작스럽지만 “지식과 지혜의 차이는 무엇입니까?”라는 질문을 받으면 여러분은 어떻게 대답하시겠습니까? 인터넷에서 찾아보니 어떤 사람은 “『지식』이란 단지 정보를 아는 것을 가리키는 데 반해 『지혜』란 알고 있을 뿐 아니라 그것을 활용하는 능력이다. 아무리 『지식』이 풍부해도 『지혜』가 없으면 보물을 가지고 있을 뿐 의미가 없으며 따라서 종종 평범한 사람이 학식이 풍부한 사람보다 똑똑한 경우가 있다”라고 말합니다. 또 어떤 사람은 “『지식』이란 논리적인 반면, 『지혜』라는 것은 실천적이며 생활에 뿌리를 두고 있다. 『지식』은 종종 삶과 전혀 관련이 없을 수도 있지만 『지혜』는 우리가 살아가는 데 자신의 의지를 관철시키고 지탱해 주는 것이다”라고 말합니다. 또 어떤 사람은 “『지식』은 인간의 추론이나 추측을 통해서 얻을 수 있지만 『지혜』는 인간의 직관을 통해서 얻어지는 것이다”라고 말합니다. 다들 상당히 정곡을 찌르고 있다고 생각했습니다.

성경 속에도 지식과 지혜라는 단어가 나옵니다. 성경이 말하는 지식과 지혜라고 하는 것은 인간의 추론이나 직관에 의해서 얻어지는 것이 아니라 둘 다 하나님으로부터 오는 것이라고 단언하고 있습니다. 지혜란 실천적이고 삶에 뿌리를 두고 있는 것이지만, 그것은 인간의 지성의 열매가 아니라고 성경은 분명히 말합니다. 참된 지혜라는 것은 결코 사람의 능력에 의존하는 것이 아니고 주 하나님을 두려워하는 부분에 뿌리를 두고 있으며, 오늘 신명기 기사에 따르면 지혜란 바로 「하나님의 계명과 율법을 들으면서 사는 삶」이라는 것입니다.

「하나님의 계명과 율법을 들으면서 사는 삶」이 오늘의 설교의 타이틀입니다만, 그러면 「하나님의 계명과 율법을 들으면서 사는 삶」이란 도대체 어떤 의미일까요? 성경말씀부터 살펴 보겠습니다. 신명기 4장 1,2절을 보십시오.

1 이스라엘아 이제 내가 너희에게 가르치는 규례와 법도를 듣고 준행하라 그리하면 너희가 살 것이요 너희 조상의 하나님 여호와께서 너희에게 주시는 땅에 들어가서 그것을 얻게 되리라

2 내가 너희에게 명령하는 말을 너희는 가감하지 말고 내가 너희에게 내리는 너희 하나님 여호와의 명령을 지키라

(1) 「계명과 율법을 들으면서 사는 삶」이란 「여호와께 붙어 떠나지 않는 것」

“이스라엘이여, 이제 내가 가르치는 규칙과 법을 충실히 행하라. 그러면 너희는 목숨을 얻고 너희 조상의 하나님, 주께서 주시는 땅에 들어가서 그것을 얻을 수 있을 것이다. 너희들은 내가 명령하는 말에 무엇 하나 덧붙이지도 줄이지도 말아야 한다. 내가 명하는 대로 너희 하나님 주님의 계명을 지키라”

모세는 그동안 이스라엘 백성들에게 과거의 회상에 집중시켜 왔지만 자기자신이 이제 더이상 이스라엘 백성들과 함께 약속의 땅으로 들어갈 수 없음을 밝히면서 다음과 같이 말하고 있습니다.

“이제부터는 너희들이 의존해야 할 것은 내가 아니라 하나님의 말씀이다.” “즉, 하나님의 계명과 율법이야말로 너희를 살리고 너희들을 지혜로운 백성으로 살게 하니 이 계명과 율법을 즉, 하나님의 거룩한 율법을 소중히 여기고 지켜나가라.”고 고별 설교를 말하고 있는 것입니다.

그동안 이스라엘의 백성은 광야에서 만나를 먹으면서 낮에는 구름기둥, 밤에는 불기둥으로 매일 이스라엘을 앞서가는 하나님의 임재를 직접 보면서 걸어왔습니다. 이 말을 다시 하자면 중재자인 모세가 있었던 덕분에 이스라엘 백성들은 모세를 통해 하나님을 체험하며 살아왔습니다. 그런데 막상 가나안 땅에 들어가게 되면 모세는 이제 없습니다. 만나도 하늘에서 내려오지 않습니다. 이제는 자신들이 광야에서 겪은 하나님과 하나님의 말씀을 후손들에게 물려주면서 하나님의 규칙과 법을 구체적으로 실천해 나가는 발걸음으로 초대받고 있는 것입니다.

1절의 첫 번째 말은 일본어 성경의 새 공동역에는 반영되어 있지 않지만 「이제 이스라엘아 들어라」라는 명령문으로 시작합니다. 「들어라」라는 말은 히브리어로 「쉐마」라는 말입니다. 하나님으로부터 받은 계명과 율법을 즉, 거룩한 율법을 지키고 행하는 것이 얼마나 중요한지 설명되어가고 있습니다.

3,4절에 쓰여져 있는 바알브올에서의 사건이란 민수기 25장에 쓰여져 있는 기사입니다만, 신전 창녀와 같은 모압의 딸들에게 유혹되어 배교의 죄를 범하고 풍요의 신 바알브올을 경배한 사건입니다. 민수기 25장 3,4절을 참고하세요.

3 여호와께서 바알브올의 일로 말미암아 행하신 바를 너희가 눈으로 보았거니와 바알브올을

따른 모든 사람을 너희의 하나님 여호와께서 너희 가운데에서 멸망시키셨으되

4 오직 너희의 하나님 여호와께 붙어 떠나지 않은 너희는 오늘까지 다 생존하였느니라

이 풍요의 신 바알브올을 섬기는 우상숭배에 의해서 이스라엘 백성 2만 4천명이 염병에 걸렸습니다. 민수기 25장 1,2절과 25장 9절에는 다음과 같이 적혀 있습니다. 보십시오.

민수기 25장 1,2절

1 이스라엘이 싯딤에 머물러 있더니 그 백성이 모압 여자들과 음행하기를 시작하니라

2 그 여자들이 자기 신들에게 제사할 때에 이스라엘 백성을 청하매 백성이 먹고 그들의 신들에게 절하므로

민수기 25장 9절

9 그 염병으로 죽은 자가 이만 사천명이었더라

이렇게 2만 4천명이 죽은 반면에 여호와께 붙어 따랐던 너희들은, 오늘날 살아있다는 것입니다. 신명기 4장 1절에서는 「규례와 법도를 듣고 준행하라 그리하면 너희가 살 것이요 」고 되어 있습니다만 4장 4절에서는 「여호와께 붙어 떠나지 않은 너희는 오늘까지 다 생존하였느니라」라고 모세는 말하고 있는 것입니다. 여기에서 율법을 따르는 것과 여호와께 붙어 떠나지 않는 것이 동일한 일임을 말하고 있다는 것을 알아차리게 됩니다. 주님을 믿는 다는 것은 율법을 따르는 것, 하나님의 말씀을 듣고 따르는 것이 동일한 것임을 알게 됩니다. 비록 계명과 율법을 따르기가 어렵더라도 이스라엘 백성들에게 그것은 생사를 가르는 경계선이며 계명과 율법에 바짝 붙어서 그리고 주님께 붙어 있는 것이 살아가는데 필수적인 일이라는 것입니다. 즉 하나님의 말씀은 있든 없든 생활하는데 있어서 있어도 그만 없어도 그만이 아니라 이스라엘이 하루하루를 살아 가기 위한 없어서는 안되는 양식이라는 것입니다.

이 일은 신약 시대에 사는 우리에게도 마찬가지일 것입니다. 성경은 시간의 여유가 있는 사람만 읽는 책이 아닙니다. 성경이란 대학을 졸업하고 교양이 있고 생활에 여유가 있는 사람이 공부하는 책도 아닙니다. 성경 말씀에 의해 양육되지 않으면 믿음생활 그 자체가 이루어질 수 없다는 것입니다. “하나님의 말씀을 모르면서 하나님을 어떻게 믿는단 말인가!”라는 것입니다. 믿음생활이라고 하는 것은 일단 구원의 승차권을 받아 놓았기 때문에 나머지는 시간 여유가 있으면 예배에 참석할까라든가, 시간 여유가 있으면 성경이라도 펼쳐볼까 하는 것이 아닙니다. 이건 말도 안되는 오해입니다. 말씀에 순종하는 것, 예배를 드리는 것은 자신의 형편에 따라서 해도 되고 안해도 되는 것이 아니라 살아가는 데 필수적인 것입니다.

그렇기 때문에 우리 신앙생활에서 특히 조심해야 할 것은 하나님의 축복만을 믿고, 계명이나 율법을 무시하거나 죄의 용서만 믿고 도덕적 훈계나 권면을 무시해버리는 것입니다. 이러한 태도는 하나님의 말씀을 절반밖에 믿지 않는 것입니다. 즉 하나님의 말씀을 가볍게 여기는 태도인 것입니다. 또 반대로 성경 말씀에 자신들의 전통을 덧붙이거나 하는 것은 성경에 무언가를 더하는 것이므로 역시 죄에 해당합니다. 예를 들자면 일본에서는 전시중에 교회의 하나님께 드리는 예배 중에 신사숭배(미야기 하루카베)가 덧붙여졌습니다. 더 가까운 예를 들자면 교회 안에 율법주의라는 것이 있습니다. 내가 하고 싶은 것, 사람들에게 부담이 될 만한 것들을 다른 사람에게도 “이 정도는 해야지, 이 정도는 상식이잖아”라고 말하며 강요하는 것입니다. 예수님 시대에 있던 바리새인들은 예수님으로부터 「뱀의 자식들」이라고 호된 비난을 받았습니다. 사람들에게 말씀 이외의 많은 훈계를 짊어지게 했기 때문입니다. 이처럼 말씀에 뭔가를 덧붙이는 것도 줄이는 것도 죄입니다. 하나님의 말씀을 그대로 받아들여야 합니다. 요한계시록에도 이 신명기와 비슷한 말이 나옵니다. 요한계시록 22장 18,19절을 참조하세요.

18 내가 이 두루마리의 예언의 말씀을 듣는 모든 사람에게 증언하노니 만일 누구든지 이것들 외에 더하면 하나님이 이 두루마리에 기록된 재앙들을 그에게 더하실 것이요

19 만일 누구든지 이 두루마리의 예언의 말씀에서 제하여 버리면 하나님이 이 두루마리에 기록된 생명나무와 및 거룩한 성에 참여함을 제하여 버리시리라

규례와 법도를 듣고 그대로 따른다는 것은 하나님을 바르게 믿는 것, 주께 붙어 떠나지 않는 것 입니다. 하나님의 말씀은 우리의 매일 매일의 양식이요, 우리의 생명선이니 그것을 제멋대로 더하거나 줄이지 말고 그대로 받아들이고 거기에 매달려야 하는 것입니다. 계속해서 신명기로 돌아가서 4장 5-8절을 읽어보시겠습니다.

(2) 「규례와 법도를 들으면서 사는 삶」이란 지혜와 분별을 가지는 것

5 내가 나의 하나님 여호와께서 명령하신대로 규례와 법도를 너희에게 가르쳤나니 이는 너희가 들어가서 기업으로 차지할 땅에서 그대로 행하게 하려 함인즉

6 너희는 지켜 행하라 이것이 여러 민족 앞에서 너희의 지혜요 너희의 지식이라 그들이 이 모든 규례를 듣고 이르기를 이 큰 나라 사람은 과연 지혜와 지식이 있는 백성이로다 하리라

7 우리 하나님 여호와께서 우리가 그에게 기도할 때마다 우리에게 가까이 함을 얻는 큰 나라가 어디 있느냐

8 오늘 내가 너희에게 선포하는 이 율법과 같이 그 규례와 법도가 공의로운 큰 나라가 어디 있느냐

7,8절에서는 「~큰 나라가 어디 있느냐」라고 하는 병행절이 나타나 있습니다. 그리고 여기서도 앞서 살펴 본 것처럼 이스라엘의 하나님, 주가 바른 규례와 법도라고 바꾸어 말하고 있습니다. 7절을 보세요. 「기도할 때마다 우리에게 가까이 함을 얻는 큰 나라」라고 쓰여있습니다. 8절에서는 「이 율법과 같이 그 규례와 법도가 공의로운 큰 나라」로 바꾸어 표현되고 있습니다. 즉 주의 규례와 법도는 곧 하나님의 말씀이란, 기도할 때마다 가까이 계시는 우리의 하나님 주님이시라는 것입니다. 이 규례와 법도를 들으며 살아가는 것이야말로 즉 주께 붙어서 살아가는 것이야말로 지혜와 분별을 가지고 사는 것이라고 쓰여져 있습니다. 이 일은 모세 시대에만 해당되는 것이 아닙니다. 현대에 있어서도 이 말씀은 마찬가지일 것입니다.

우리들이 매일의 생활 가운데 지혜를 얻고자 한다면 나름대로의 고생이 있을 수 있습니다. 예를 들면, “건강을 유지하고 병에 걸리지 않기 위해서…”라든가, “노후를 위해 재산을 모으기 위해서…”라든가 아니면 “저축한 재산을 더 잘 운용하기 위해서…”이런 것들 때문에 당연히 지혜가 필요합니다. 책을 사기도 하고 인터넷으로 여러 가지를 조사하기도 하지만 좀처럼 지혜을 얻어 인생을 행복하게 산다는 것은 참 어려운 일입니다. 오히려 생각지도 못한 곳에서 갑자기 실패와 좌절과 어려움이 우리를 덮칩니다. 그런 가운데 성경은 「규례와 법도를 따르는 것」이 지혜라고 말하고 있는 것입니다. 「언제나 가까운 곳에 계시는 우리의 하나님, 주께 붙어 있는 것」이야말로 지혜라고 말하고 있습니다.

이 신명기의 말씀은 구약성경과 그리고 신약성경에도 친숙한 우리의 눈에는 바로 예수 그리스도를 묘사하는 것처럼 비춰집니다. 의로운 분, 임마누엘 예수님은 성령을통해서 우리들의 마음 가운데 살고 계십니다만 이 하나님의 말씀인 예수님을 양식으로 삼고 하나님의 말씀이신 예수님을 생명선으로 삼아 우리들은 매일 매일 살아가야 한다는 것입니다. 하나님의 말씀이신 예수님께 의존하는 것이야말로, 무엇보다도 나은 우리 삶의 지혜입니다. 요한복음 15장 4절을 참조하십시오.

4 내 안에 거하라 나도 너희 안에 거하리라 가지가 포도나무에 붙어 있지 아니하면 스스로 열매를 맺을 수 없음 같이 너희도 내 안에 있지 아니하면 그러하리라

성경에서는 참된 지혜는 결코 사람의 능력에 의존하지 않고 인간의 지성의 결실이 아니라 주님을 두려워 하는 것에 뿌리를 두고 있으며, 그것은 위에서 주는 것, 하나님께서 주시는 것이라고 주장하고 있습니다. 이 주 예수 밑에 우리들은 모든 짐을 내려놓고 쉴 수 있는 것입니다. 모든 근심과 고민, 걱정에서 해방되어 평안이 주어지는 것입니다. 그 근거는 이스라엘에게 주어진 하나님과의 언약이 있기 때문입니다. 시내산에서 「나는 너희의 하나님이 되고 너희는 내 백성이 될 것이니라」(출애굽기 19장 5,6절 레위기 26장 11,12절)라고 말씀하신 언약입니다. 신명기 4장 10절과 13절을 보십시오.

10 내가 호렙 산에서 네 하나님 여호와 앞에 섰던 날에 여호와께서 내게 이르시기를 나에게 백성을 모으라 내가 그들에게 내 말을 들려주어 그들이 세상에 사는 날 동안 나를 경외함을 배우게 하며 그 자녀에게 가르치게 하리라 하시매

13 여호와께서 그의 언약을 너희에게 반포하시고 너희에게 지키라 명령하셨으니 곧 십계명이며 두 돌판에 친히 쓰신 것이라

하나님은 이스라엘 백성과 언약을 맺으시고 주께서 이스라엘 백성의 하나님이 되어 주시고 이스라엘이 하나님의 백성이 되게 해 주셨습니다. 쉽게 말해서 이스라엘 백성들을 로열 패밀리로 불러 주신 것입니다. 그래서 이 주님께 매달려 있다면 주의 규례와 법도를 듣고 산다면 풍부한 지혜의 열매가 맺어지는 것입니다.

결론

하나님과 언약을 맺은 이스라엘의 백성은 하나님의 거룩한 백성이 되었기 때문에 주의 규례와 법도를 듣고 사는 백성이 되었습니다. 규례와 법도를 듣고 산다는 것은 주님의 말씀에 함부로 더하지도 줄이지도 말아야 하며 오직 주님께 붙어 살아가는 것입니다. 뭔가 자유를 빼앗긴 것 처럼 보이지만 사실 규례와 법을 듣고 따르는 삶이야말로 지상의 무엇보다 나은 지혜요 생명을 보존하는 길이며 약속의 땅을 상속하는 길입니다. 규례와 법도를 듣고 따르는 것이야말로 임마누엘이신 주 예수와 함께 사는 길이고 모든 근심과 염려에서 해방되어 평안을 얻어 은혜로 살아가는 길인 것입니다. 우리는 그것을 경외를 가지고 배우며 우리들이 자손들에게 이 복음을 전할 수 있도록 기도하고 구하며 나아갑시다.

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