2021年10月17日「苦難の僕モーセ 고난의 종 모세」

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苦難の僕モーセ 고난의 종 모세

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 3章23節~29節

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:23わたしは、そのとき主に祈り求めた。
3:24「わが主なる神よ、あなたは僕であるわたしにあなたの大いなること、力強い働きを示し始められました。あなたのように力ある業をなしうる神が、この天と地のどこにありましょうか。
3:25どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください。」
3:26しかし主は、あなたたちのゆえにわたしに向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった。主はわたしに言われた。「もうよい。この事を二度と口にしてはならない。
3:27ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくがよい。
3:28ヨシュアを任務に就け、彼を力づけ、励ましなさい。彼はこの民の先頭に立って、お前が今見ている土地を、彼らに受け継がせるであろう。」
3:29我々はこうして、ベト・ペオルの前にある谷に滞在していた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 3章23節~29節

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【序】

 本日はお読みしませんでしたが、3章の12~22節まではヨルダン川の東側、つまりトランスヨルダンの土地の分配について書かれています。牧畜に適したこの土地はルベンとガドとマナセの半部族に与えられることになりました。そして、これからはいよいよヨルダン川の西側へ渡っていくという場面ですが、ここでモーセは25節に書かれているように、次のような切実な祈りを主なる神様に捧げています。

“どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください。”

これまで、モーセは神様とイスラエルの間に立って多くのとりなしの祈りを捧げてきました。イスラエルの民の上に神の怒りが降ろうとしている状況にあって、モーセは民を愛する気持ちから、切実なとりなしの祈りを捧げてきました。ところが、本日お読みした箇所においては、モーセは自分自身のために祈っています。もしかしたら最初で最後の「自分自身のための祈り」だったかもしれません。モーセが自分のためにこれほど切実な祈りを捧げている、これは一体どんな事態が起こっているのでしょうか。

一言でいうなら、「モーセが約束の地に入ることができない」ということです。注解書を見ますと、本日の箇所について色々な解釈がございますが、その中の一つを紹介させていただきます。恐らくモーセが約束の地に入ることが許されなかったという事の背景には、私たちには理解できない神の深い御心とメッセージが隠されているものと考えられます。私たちは、歴史を通して、その時に実際に現れた現象しか見ることができませんが、神様だけが歴史の全体を通した全体像を見ることが出来ます。従って私たちが見る時に、それが最善だと考えられることが、神様がご覧になられるに、最善ではないことがあるということです。私たちの判断では、私たちの見解では、間違いなく、モーセが約束の地に入ることが神の愛なる御性質を証しするためにも最善と思われますが、神がご覧になられる時に、そうでないこともあるのです。本日は、その神様の御心について、背後に隠されたメッセージについて、考えて行きたいと思います。3:26節をご覧ください。

【1】. モーセの罪

 “しかし主は、あなたたちのゆえにわたしに向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった。主はわたしに言われた。『もうよい。この事を二度と口にしてはならない。』”

モーセの切なる願いに対し、26節で、神様は断固としてその願いを拒絶されています。実際、モーセにとっては、まさにこのために荒れ野で40年間も苦労しながら、民を導き、そして、今や最後の段階を迎えようとしていました。川むこうに広がる土地は、どれほど慕わしい土地だったでしょうか。全ての苦労を、この瞬間の為にこらえてきたのに、まさに、約束の地を目の前にして、「入ることはできない!」「あなたの使命はここまでだ!」と、神様から宣告されたのであります。これは、大変悲しく、残念なこととして私たちの目に映ります。「人生の終わりに、約束の地をほんのちょっとでも享受させてやってはいかがですか?」「モーセには当然その権利があるのではないでょうか?」と考えてしまいます。なぜ神様は無慈悲で冷淡とも思えるような、そのような宣告をなさったのでしょうか。26節には、モーセが約束の地に入ることができなかった理由として、民の罪の故に、神の憤りが下ったからとありますが、民数記20章にそのようになったいきさつが詳しく書かれています。イスラエルの民が出エジプトをしてから、ツィンの荒れ野を通過した時、民は、モーセとアロンに、水がないことについて不平を並べ始めました。そして、いつものように、「これなら、まだエジプトで奴隷生活をしていた方が、ましであった」と言い始めたのです。すると神様は、モーセとアロンに、杖を取り、岩に向かって水を出すように命じなさい。と言われます。民数記20:8をご覧ください(聖書を開ける方は、旧p.247をお開きください)。

“あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。”

神様は、岩に向かって水を出せと命じなさい、と言われました。言葉で命じなさいと書いてありますね。打ちなさいとは書かれていません。ところが、モーセは岩を打って水を出すようにしてしまいました。民数記20:10~11をご覧ください。

“そして、モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。」モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。”

モーセとアロンは反逆する民に疲れていたのでしょうか。「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。」と言っています。これは、あたかも自分たちの力で民に水を供給するような言い回しです。そもそも水を与えてくださる方は誰でしょうか。モーセではなく、神様です。そのことを考えるなら、モーセのこの言葉は、何か、モーセが自分自身で水を出すことが出来るかのように錯覚しているではないかと感じてしまいます。

モーセは岩に命じたのではなく、岩を二回打ちましたが、問題は、それにも拘わらず岩から水が出たという事です。モーセの罪に拘わらず、民を憐れまれた神様は、とりあえず水を出してくださり、民と家畜の渇きを癒してくださったという事です。モーセはここで大きな問題を二つ犯していると言えるでしょう。

一つ目は、モーセ自身が、水を供給できるかのように、振舞っていること。

二つ目は、神様は、民に水を飲ませてやりたいという憐みの心、愛の心を持っているのにも拘わらず、モーセは、感情を顕わにし、民に怒っているという事です。神様自身は憐みの心、愛の心をもっておられるのに、モーセは怒っています。モーセを通してイスラエルの民に神様の誤ったイメージを植え付けかねないような態度をとっているという事です。

神様から言われた通り、ただ、岩に命じて喉が渇いている民に、水を飲ませれば良かったのですが、自分の感情、自分の怒りを前面に出し、自分自身が神になったように振舞い、神の聖さを傷つけたということです。

【2】. モーセに与えられた新しい働き

 このような、モーセに対し神様は次のように言われました。民数記20:12をご覧ください。

“主はモーセとアロンに向かって言われた。「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。」”

結局、モーセは自分自身が犯した罪のために、約束の地に入る希望が絶たれてしまいました。モーセも私たちと同じように罪びとの一人に過ぎなかったということです。

ところで、ちょっと想像していただきたいのですが、万が一、モーセが約束の地に入ることができたなら、どのようなことが起こったと考えられるでしょうか。モーセはこの時、イスラエルの民たちから、岩から水を出すことのできる魔法使いのような存在として受け入れられつつありました。また、これまでも数々の奇跡をもってイスラエルを守り導いてくれたのは事実ですし、モーセは民の必要を満たしてくれる、人気者になりつつあったのでは、と想像することができます。そのモーセに対する人気と信頼は、場合によっては、神様に対する信頼よりも上回っていたかもしれません。モーセが死んだ時には、イスラエルの民は一か月の間、泣いたほどです(34:8)。民は神様ではなく、モーセに完全に心を掴まれていました。万が一、モーセが約束の地に入ったなら、先祖崇拝の風習が強いこの地域にあって、神様よりモーセの方が偉大な者となり、モーセの死後、神格化され、崇拝の対象となる危険性が十分にあったのです。

モーセがヨルダン川を渡ることを許されなかった神様は、その代わりにモーセに対して新しい働きを与えられました。それは、ピスガの頂から東西南北を見渡し、そしてヨシュアに任務を引き継いで、彼を力づけ励ましなさいという働きです。申命記3:27~28節をご覧ください。

“ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくがよい。ヨシュアを任務に就け、彼を力づけ、励ましなさい。彼はこの民の先頭に立って、お前が今見ている土地を、彼らに受け継がせるであろう。」”

どうせ、モーセは入ることもできないのに、そんなの見て、どうするの?などと考えてはなりません。神様がモーセに東西南北を見渡すようにされたのは、勿論、モーセを慰めるためであったと考えられますが、もっと言えば、これから約束の地に入っていく次世代の民のことを、モーセがとりなすことが出来るように、そして彼らのことを、ビジョンを持って祝福することができるようにするために、モーセに東西南北を見渡すようにさせたのだと思います。

「口が重たく、同胞から無視されるような自分のような人間さえも、神様はご自身の僕として用いてくださり、神の大いなること、力強い働きを示すことができた」と告白することが出来たモーセは、ヨシュアを通しても全く同じように、神の僕として用いてくださり、カナン入植の御業を成し遂げることができる、と信じることができたでしょう。モーセは自分が、人より優れているために、神様に用いられ、民を出エジプトさせて、ここまで導くことができたなどとは決して考えてはいません。自分のようなものでも、神様が豊かにお用い下さったのですから、今後、ヨシュアを通してでも、同じく神様が御業を示してくださるに違いないと信じ、彼を力づけ、執り成すことができたのです。こうして「老兵は去りゆくのみ」という諺ではないですが、ただ、神様の栄光と神様の偉大さだけが前面に現れるのです。モーセが約束の地に入ることができなかったために、神の働きを次世代につなげることができました。モーセはイスラエルの有能で偉大な指導者としてではなく、神の栄光だけを表す、良い牧者として、その生涯を全うするのであります。

【3】. 偉大な指導者より、良い羊飼い

 それでは、モーセが約束の地に入ることが許されなかった、神様の御心について、その出来事の背後に隠されたメッセージについて考えてみましょう。これまで、民数記20章を見てきましたように、モーセは確かに自分自身の罪によって、約束の地に入る希望が閉ざされてしまいました。ところが、申命記には、民数記の描写とは少し違って、3:26節にありますように、「主は、あなたたちのゆえに、モーセに向かって憤られた」と、書かれています。このような描写は、1:37にも4:21にも見られ、申命記全体に一貫された見方であります。民数記の記事と申命記の記事とどっちが正しいのでしょうか。これはどちらかが間違っていて、どちらかが正しいということではありません。「民のゆえに、神の怒りがモーセに下された」ということもやはり真理なのです。

モーセは民の上に下る刑罰において、民と一つに結ばれているのです。そのようなモーセの姿は、新約の時代を生きる私たちの目に、神殿の外で十字架刑に処せられたイエス・キリストのお姿と重なってくるのではないでしょうか。つまり神様は、モーセの罪さえも、ご自身の栄光のために用いられ、モーセの苦難を通して、「苦難の僕イエス・キリスト」を予表されたのです。因みに聖書の中で「仲介者(仲保者)」という称号が与えられているのは、イエス様(1テモ2:5、ヘブ8:6、9:15、12:24)とモーセ(ガラ3:18-19)だけであります。モーセはまさに神様と民の間に入って一生涯、とりなしの働きをしました。その働きは、神と人との真の仲介者であるイエス・キリストを予表し指し示していたのです。イスラエルの民がモーセを通して神の御言葉を聞くことができ、モーセを通して神と契約を結ぶことが出来たように、それと全く同じように私たちも、キリストを通して神の御言葉を聞き、キリストの十字架の御業を通して、神と契約が結ばれているのです。

また、イエス様は公生涯の中で弟子たちにご自身のことを、「良い牧者」であると紹介されました。ヨハネの福音書10:11をご覧ください。

“わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。”

イエス様がご自分のことを良い牧者であると言われた理由は、羊のために命を捨てるからであります。モーセもイエス・キリストと同じように、イスラエルの良い牧者であり、神様がモーセに約束の地に入ることが許されなかった理由は、モーセの生涯が、有能で偉大な指導者として記憶されることを望まれず、民のゆえに、神の憤りが下った「良い牧者」として記憶されることを望まれたためだと思われます。イスラエルの民の良い牧者であるモーセを通して、イエス・キリストが豊かに証しされ、キリストを指し示すこと、これこそ、神様の御心であり、背後に隠されたメッセージだったのす。こうして、ただただ、神様の栄光だけが前面に現れるようにしてくださったのです。

【適用】

 このことを、私たちに適用するなら、第一に、私たちの奉仕をもう一度見直してみましょう。自分に栄光を帰するのではなく、ただ神の栄光だけが前面に現れるようにしなければならないということです。私たちは、自分中心で、自分のことしか考えられない弱い存在です。とりなしの祈りどころか、自分の為の祈りしか捧げることができません。そのような私たちですが、どうか自分の栄光ではなく、神様の栄光を表すことができるようにと祈ってまいりましょう。有能で偉大な指導者としてではなく、良き牧者として人々に記憶されるような、ただ神様の栄光だけを証しする人生となりますようにと祈っていきたいと思います。

そして、第二に、自分が、この世において、たとえ人より試練と苦難の多い生涯を送ることになったとしても、決して、そのことに失望・落胆する必要はないということです。なぜなら、そのことの背後に神様の深い御心が隠されていて、神様は全てのことを御名の栄光のために善としてくださるからです。私の滅茶苦茶な人生であっても、私が見るには失望・落胆するほどの人生であっても、歴史の全体像を見ることが出来る神様は、きっと私たちお一人お一人を、ご自身の御名の栄光の為に用いてくださり、そのことによって私たちは深い慰めが与えられるのです。

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고난의 종 모세

2021년 10월 17일 센겐다이 교회 주일설교

신명기 3장 22절-29절

서론

오늘은 읽지 않았지만 3장의 12-22절까지는 요단강 동쪽, 즉 트란스요단 땅의 분배에 대해 적혀 있습니다. 목축에 적합한 이 땅은 르우벤지파와 갓지파와 므낫세 반 지파에게 주어지게 되었습니다. 그리고 이제 드디어 요단강 서쪽으로 건너가는 장면인데, 여기서 모세는 25절에 쓰여져 있듯이 다음과 같은 간절한 기도를 주님께 드리고 있습니다.

25 구하옵나니 나를 건너가게 하사 요단 저쪽에 있는 아름다운 땅, 아름다운 산과 레바논을 보게 하옵소서

지금까지 모세는 하나님과 이스라엘 사이에 서서 많은 중보기도를 드렸습니다. 이스라엘의 백성 위에 하나님의 노여움이 쏟아지려는 상황에서 모세는 백성을 사랑하는 마음에서 간절한 중보기도를 드렸습니다. 그런데 오늘 읽은 곳에서 모세는 자기 자신을 위해 기도하고 있습니다. 어쩌면 처음이자 마지막으로 자기자신을 위한 기도였을지도 모릅니다. 모세가 자신을 위해 이토록 간절한 기도를 하고 있다니 이것은 도대체 어떤 사태가 벌어지고 있는 걸까요.

한마디로 모세가 약속의 땅에 들어갈 수 없다는 것입니다. 주해서를 보면 오늘의 부분에 대해서 여러 가지 해석이 있는데 그 중 하나를 소개해 드리겠습니다. 아마도 모세가 약속의 땅에 들어가는 것이 허락되지 않았다는 것의 배경에는 우리가 이해할 수 없는 하나님의 깊은 마음과 메시지가 숨겨져 있을 것으로 생각 됩니다. 우리는 역사를 통해 그때 실제로 나타난 현상 밖에 볼 수 없지만 오직 하나님만이 역사 전체를 통한 전체상을 볼 수 있습니다. 따라서 우리가 볼 때 그것이 최선이라고 생각되는 것이 하나님께서 보시기에 최선이 아닐 수 있다는 것입니다. 우리 판단으로는 우리 견해로는 틀림없이 모세가 약속의 땅에 들어가는 것이 사랑이신 하나님의 성품을 나타내는 것이라고 생각합니다만 하나님이 보시기에 그렇지 않을 수도 있는 것입니다. 오늘은 그 하나님의 마음에 대해 배후에 숨겨진 메시지에 대해 생각해보도록 하겠습니다. 3장 26절을 참조하십시오.

(1) 모세의 죄

26 여호와께서 너희 때문에 네게 진노하사 내 말을 듣지 아니하시고 내게 이르시기를 그만해도 족하니 이 일로 다시 내게 말하지 말라

모세의 간절한 소원에 대해 26절에서 하나님은 단호하게 그 소원을 거절하십니다. 사실 모세에게는 바로 이 소원 때문에 광야에서 40년동안 고생하면서 백성들을 인도했고 이제 마지막 단계를 맞이하려고 했습니다. 강 건너 펼쳐진 땅은 얼마나 그리운 땅이었을까요? 모든 수고를 이 순간을 위해 참아왔는데, 바로 약속의 땅을 눈앞에 두고 “들어갈 수 없다!” “너의 사명은 여기까지이다!”라고 하나님께서 선고하신 것입니다. 이것은 매우 슬프고 유감스럽게도 우리 눈에는 비춰집니다. “인생의 끝에 약속의 땅을 아주 잠깐이라도 누리게 해 주면 좋지 않을까요?” “모세에게는 당연히 그럴 권리가 있지 않습니까? ”라고 생각 할 수 있습니다. 왜 하나님은 무자비하고 냉담하게 보이는 그런 선고를 하셨을까요? 26절에는 모세가 약속의 땅에 들어가지 못하는 이유로 백성들의 죄 때문에 하나님의 분노가 내려졌기 때문인데, 민수기 20장에 그렇게 된 경위가 자세히 적혀 있습니다. 이스라엘 백성들이 출애굽을 하고 나서 신 광야(민수기 33장 36절)를 통과했을 때 백성들은 모세와 아론에게 물이 없는 것에 대해 불평을 늘어놓기 시작했습니다. 그리고 평소처럼 “이럴 거면 아직 애굽에서 종살이 했던 때가 차라리 더 나았다”라고 말하기 시작했습니다. 그러자 하나님은 모세와 아론에게 지팡이를 잡고 바위를 향해서 물을 내라고 명령하라고 말씀하십니다. 민수기 20장 8절을 참조하십시오.

8 지팡이를 가지고 네 형 아론과 함께 회중을 모으고 그들의 목전에서 너희는 반석에게 명령하여 물을 내라 하라 네가 그 반석이 물을 내게 하여 회중과 그들의 짐승에게 마시게 할지니라

하나님은 바위를 향해 물을 내라고 명령하라고 하셨어요. 치라고 적혀있지 않아요. 그런데 모세는 바위를 쳐서 물을 내게 해버렸어요. 민수기 20장 10,11절을 참조하시기 바랍니다.

10 모세와 아론이 회중을 그 반석 앞에 모으고 모세가 그들에게 이르되 반역한 너희여 들으라 우리가 너희를 위하여 이 반석에서 물을 내랴 하고

11 모세가 그의 손을 들어 그의 지팡이로 반석을 두 번 치니 물이 많이 솟아나오므로 회중과 그들의 짐승이 마시니라

모세와 아론은 반역하는 백성에게 지쳐있었을까요? 「반역한 너희여 들으라 우리가 너희를 위하여 이 반석에서 물을 내랴」하고 말합니다. 이것은 마치 자신들의 힘으로 백성들에게 물을 공급하는듯한 표현입니다. 애초에 물을 주시는 분은 누구일까요? 모세가 아니라 하나님입니다. 그것을 생각한다면 모세의 이 말은 뭔가 모세가 자기 스스로의 능력으로 물을 낼 수 있는 것처럼 착각하고 있는 것이 아닌가 하고 느껴집니다.

모세는 바위에 명령한 것이 아니라 바위를 두 번 쳤는데 문제는, 그럼에도 불구하고 바위에서 물이 나왔다는 것입니다. 모세의 죄에 구애받지 않으시고 백성을 불쌍히 여기신 하나님께서는 일단 물을 내어 주시고 백성과 가축의 갈등을 풀어 주신 것입니다. 모세는 여기서 큰 잘못을 두가지 저지르고 말았다고 말할 수 있을 것입니다.

첫 번째는 모세 자신이 물을 공급할 수 있는 것처럼 행동한 것, 두 번째는 하나님은 백성에게 물을 마시게 하시고 싶은 긍휼의 마음, 사랑의 마음을 가지고 있음에도 불구하고 모세는 감정을 드러내고 백성들에게 분노하고 있다는 것입니다. 하나님 자신은 긍휼한 마음, 사랑의 마음을 갖고 계심에도 불고하고 모세는 화가 나 있습니다. 모세를 통해 이스라엘 백성들에게 하나님의 잘못된 이미지를 심어줄 수 있는 태도를 취하고 있다는 것입니다.

하나님께서 말씀하신 대로 그저 바위에 명령하여 목마른 백성들에게 물을 마시게 했다면 좋았을 것을 자신의 감정, 자신의 분노를 앞세워 자기 자신이 하나님이 된 것처럼 행동하여 하나님의 거룩함을 해쳤다는 것입니다.

(2) 모세에게 주어진 새로운 사역

이러한 모세에 대해서 하나님은 다음과 같이 말씀하셨습니다. 민수기 20장 12절을 보세요.

12 여호와께서 모세와 아론에게 이르시되 너희가 나를 믿지 아니하고 이스라엘 자손의 목전에서 내 거룩함을 나타내지 아니한 고로 너희는 이 회중을 내가 그들에게 준 땅으로 인도하여 들이지 못하리라 하시니라

결국 모세는 자기자신이 저지른 죄 때문에 약속의 땅에 들어갈 희망이 끊어지고 말았습니다. 모세도 우리와 마찬가지로 죄인들 중 한 명에 불과하다는 것입니다.

그런데 좀 상상해 보셨으면 합니다만 만일 모세가 약속의 땅에 들어갈 수 있었다면 어떤 일이 일어났다고 생각할 수 있을까요? 모세는 이 때, 이스라엘의 백성들로부터 바위에서 물을 낼 수 있는 마법사 같은 존재로 받아들여지고 있었습니다. 또한 지금까지도 수많은 기적으로 이스라엘을 지키고 이끌어 준 것은 사실이며 모세는 백성들의 필요를 충족시켜 주는 인기인이 되어 가고 있지 않았나 상상할 수 있습니다. 그 모세에 대한 인기와 신뢰는 경우에 따라서는 하나님에 대한 믿음보다 앞섰을지도 모릅니다. 모세가 죽었을 때 이스라엘 백성들은 한 달 동안 울었을 정도입니다. (신명기 34장 8절) 백성들은 하나님이 아니라 모세에게 완전히 마음이 사로잡혀 있었습니다. 만일 모세가 약속의 땅에 들어갔다면 조상숭배 풍습이 강한 이 지역에 있어서 하나님보다 모세가 위대한 자가 되고 모세 사후 신격화되고 숭배의 대상이 될 위험성이 충분히 있었던 것입니다.

모세가 요단강을 건너는 것을 허락하지 않으신 하나님은 그 대신 모세에게 새로운 사역을 주셨습니다. 그것은 비스가 산 꼭대기에서 동서남북을 바라보고 그리고 여호수아에게 임무를 인계하고 그를 격려하라는 사역입니다. 신명기 3장 27,28절을 참고하세요.

27 너는 비스가 산 꼭대기에 올라가서 눈을 들어 동서남북을 바라고 네 눈으로 그 땅을 바라보라 너는 이 요단을 건너지 못할 것임이니라

28 너는 여호수아에게 명령하고 그를 담대하게 하며 그를 강하게 하라 그는 이 백성을 거느리고 건너가서 네가 볼 땅을 그들이 기업으로 얻게 하리라 하셨느니라

“어차피 모세는 들어가지도 못하는데 그런 거 보면 뭐해?” 라고 생각해서는 안됩니다. 하나님께서 모세에게 동서남북을 바라보게 하신 것은 물론 모세를 위로하기 위함이었다고 생각됩다만, 더 말하자면 앞으로 약속의 땅에 들어가는 차세대의 백성의 일을 모세가 중보할 수 있도록 그리고 그들의 일을 비젼을 가지고 축복 할 수 있도록 하기 위해서 모세에게 동서남북을 바라보게 하신 것 같습니다.

“언변이 부족하고 동포들에게 무시당하는 나 같은 인간조차도 하나님은 자신의 종으로 사용하여 주시고 하나님의 크신 일, 크신 능력의 사역을 나를 통해 보여 주셨다”라고 고백할 수 있었던 모세는 여호수아를 통해서도 똑같이 하나님의 종으로 사용해 주실 것이며 가나안 땅을 정복해 나갈 수 있다라고 믿었을 것입니다. 모세는 자신이 남들보다 뛰어나기 때문에 하나님께 쓰임받고 백성들의 출애굽을 이끌어 여기까지 인도할 수 있었다는 것은 결코 생각하지 않았습니다. 자신과 같은 사람조차도 하나님이 크게 써주셨으니 앞으로 여호수아를 통해서도 마찬가지로 하나님께서 역사를 보여 주실 것이 틀림이 없다라고 그에게 힘을 실어주고 굳게 세워줄 수 있었던 것입니다. 이렇게 해서 “노병은 떠날 뿐”이라는 속담은 아니지만 오직 하나님의 영광과 하나님의 위대함만이 전면에 나타나는 것입니다. 모세가 약속의 땅에 들어가지 못했기 때문에 하나님의 역사를 다음세대에 연결할 수 있었습니다. 모세는 이스라엘의 유능하고 위대한 지도자로서가 아니라 하나님의 영광만을 나타내는 좋은 목자로서 그 생애를 완수한 것입니다.

(3) 위대한 지도자 보다 선한 목자

그러면 모세가 약속의 땅에 들어가는 것을 허락하시지 않았던 하나님의 마음에 대해 그 일 뒤에 숨겨진 메시지에 대해서 생각해 보고 싶습니다. 지금까지 민수기 20장을 살펴보았듯이 모세는 분명히 자기 자신의 죄로 인해 약속의 땅에 들어갈 희망이 사라졌습니다. 그런데 신명기에는 민수기의 묘사와는 조금 다르게 3장 26절에 나와 있듯이 「여호와께서 너희 때문에 내게 진노하사」라고 적혀 있습니다. 이러한 묘사는 1장 37절에도 4장 21절에도 나타나 있고 신명기 전체에 있는 일관된 시각입니다. 민수기 기사와 신명기 기사 중 어느 쪽이 맞을까요? 이것은 어느 쪽이 틀렸고 어느 쪽이 옳다는 것은 아닙니다. “백성 때문에 하나님의 노여움이 모세에게 내려 졌다”는 것 역시 진리인 것입니다.

모세는 백성들 위로 내려오는 형벌에 있어서 백성들과 하나로 묶여 있는 것입니다. 그런 모세의 모습은 신약의 시대를 사는 우리 눈에는 신전 밖에서 십자가형에 처해진 예수 그리스도의 모습과 겹쳐 보이지 않을까요? 즉 하나님은 모세의 죄조차도 자신의 영광을 위해 쓰셨고 모세의 고난을 통해 고난의 주 예수 그리스도를 예표하신 것입니다. 참고로 성경에서 「중개자(중보자)」라는 칭호가 부여된 것은 예수님 (디모데 전서 2장 5절, 히브리서 8장 6절과 9장 15절, 12장 24절)과 모세 (갈라디아서 3장 18,19절)뿐입니다. 모세는 그야말로 하나님과 이스라엘 백성들 사이에 들어가 일평생 중보사역을 하였습니다. 그 사역은 하나님과 인간의 진정한 중개자이신 예수 그리스도를 예표하고 가리키고 있었던 것입니다. 이스라엘 백성들이 모세를 통해 하나님의 말씀을 들을 수 있었고, 모세를 통해 하나님과 언약을 맺을 수 있었듯이 그와 똑 같이 우리도 예수님을 통해서 하나님의 말씀을 듣고 그리스도의 십자가의 역사를 통해 하나님과 언약이 체결되어 있는 것입니다.

또 예수님은 공생애 동안 제자들에게 자신을 「선한 목자」라고 소개하셨습니다. 요한복음 10장 11절을 참조하십시오.

11 나는 선한 목자라 선한 목자는 양들을 위하여 목숨을 버리거니와

예수님께서 자신을 선한 목자라고 하신 이유는 양을 위해 목숨을 버리기 때문입니다. 모세도 예수 그리스도와 마찬가지로 이스라엘의 선한 목자이며, 하나님께서 모세에게 약속의 땅에 들어가는 것을 허락하시지 않았던 이유는 모세의 생애가 유능하고 위대한 지도자로 기억되기를 원치 않으며 백성들 때문에 하나님의 분노가 내려진 [선한 목자]로서 기억 되기를 원하셨기 때문으로 보입니다. 이스라엘 백성의 선한 목자 모세를 통해서 예수 그리스도가 풍성하게 증명되고 그리스도를 가리키는 것, 이것이야말로 하나님의 마음이요 배후에 숨겨진 메시지였던 것입니다. 이렇게 오직 하나님의 영광만이 전면에 나타나게 해 주신 것입니다.

적용

이것을 우리에게 적용한다면, 첫째, 우리의 봉사를 다시 한 번 생각해 보시기 바랍니다. 자신에게 영광을 돌릴 것이 아니라 오직 하나님의 영광만이 전면에 나타나도록 해야 한다는 것입니다. 우리는 오직 자기중심적이고 자기자신만을 생각하는 약한 존재입니다. 중보기도는 고사하고 자신을 위한 기도밖에 드릴 수 없습니다. 그런 우리지만 부디 자신의 영광이 아니라 하나님의 영광을 나타낼 수 있기를 기도합시다. 유능하고 위대한 지도자로서가 아니라 선한 목자로 사람들에게 기억될 수 있는 오직 하나님의 영광만을 간증하는 삶이 되기를 기도하며 나가기를 원합니다.

그리고 두 번째로 자신이 이 세상에서 설령 다른 사람보다 시련과 고난이 많은 삶을 살게 된다고 해도 결코 그 일에 실망하거나 낙담할 필요는 없다는 것입니다. 왜냐하면 그 일 뒤에 하나님의 깊은 마음이 숨겨져 있고, 하나님은 모든 것을 자신의 이름의 영광을 위하여 선하게 인도하시기 때문입니다. 자신의 엉망진창인 삶이든, 자신이 보기에는 실망스럽고 낙담할 정도의 삶이든 역사의 전체상을 보실 능력이 잇으신 하나님께서는 분명 우리 한 사람 한 사람을 자기 이름의 영광을 위해 써 주시고 그로 인해 우리에게는 깊은 위로가 임하는 것입니다.

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