2019年06月09日「内に宿っている神の御霊」

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1従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
2キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
3肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
4それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
5肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
6肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
7なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。
8肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
9神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
10キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。
11もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ローマの信徒への手紙 8章1節~11節

原稿のアイコン日本語メッセージ

本日はペンテコステ礼拝です。ペンテコステにおける出来事とは、聖霊が降臨し、信者一人ひとりの内に内住するようになったという出来事です。聖霊が降臨されたことによって一体、何が起こったのかと言えば、神の救いが人間に適用されたということです。神学的には、御子が獲得されたすべてのものを聖霊によって私たちに適用されたということです。ですから聖霊に満たされて、初めて弟子たちは、イエス様の十字架の意味について、イエス様の教えを思い出し理解することができるようになりました。そして、イエス様が自分たちのために成就されたことについて、それによって自分たちがどのような恵みを受け取ったのかについて聖霊によって初めて悟り、理解することになりました。言ってみればペンテコステの日の、聖霊の満たしによって、初めて信仰の告白が生まれ、新約の教会が誕生したと言っても過言ではないということです。本日のローマ書8章が私たちに語っていることは、内住の聖霊によって、私たちの日々の信仰生活を支えられ、励まされ、律法にかなう者とされ、ついには命に至るようにされるということです。さらに言うと、やがて、救いが完成されることが確かであることの保証として聖霊が与えられているということです。1節をご覧ください。

“従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。”

パウロは7章まで、キリスト者が絶え間なく、自分自身の肉に立ち向かい、肉の思いと、心に記された律法の間において繰り広げられている戦闘についてさんざん語った後に、信者を慰めるために再び戻ってくる箇所です。ところで、7章には、「私はなんと惨めな人間なのでしょう」という言葉がありますが、これは決してパウロの過去の、まだ、聖霊を頂いていない頃の話ではありません。ある神学者は、これは以前、まだパウロがイエス様と出会う前の頃の回想であり、ここでパウロの懺悔の告白として、挿入されているだけだと説明しますが、そうではなく、依然として肉の弱さに置かれているということもパウロの現実なのです。そのことを踏まえながら、結論的に8章から、「従って」と始まっているのです。ですから、ローマ書8章で語られている「救い」というのは、救いの完成についてではなく、救いの始まりについてであって、依然として肉における弱さを持ちつつも、一方で聖霊の導きに従って行きたいと希望する、私たちの置かれている緊張状態が表されていて、依然として信仰にある戦闘状態は続いているということです。2~3節をご覧下さい。

“キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。”

本来、私たちの上に下されるはずだった神の怒りの審判は、罪はないですが、人となられたイエス様に対して、死の刑罰が下されたために、死はもはや、私たちを罪の奴隷として束縛することが出来なくなりました。私たちは死の支配から解放され、命をもたらす霊の支配へと移されたのです。

少しここで補足説明ですが、3節で「霊の法則」とか、「罪と死の法則」とかがありますが、これはギリシャ語を見ると、全て「ノモス」つまり律法という意味の言葉です。英語では、the lawです。ギリシャ語において「律法」と「法則」を区別するしるしは何もありません(ex: 大文字にするなど)。ですから、翻訳する人が、あるところでは「律法」とし、あるところでは「法則」とし、文脈によって訳し分けているのです。しかし7章においてさんざん律法について書かれていますので、ここでも同じく「法則」ではなく「律法」と訳すのが無難だと思われます。因みにこのような、翻訳の難しさは霊という言葉にも表れて来ます。霊の前に「聖なる(プニューマ・ハギオン)」などの修飾語がついていれば、間違いなく聖霊を指しますが、ただ「霊、プニューマ」と書かれているだけなら、御霊なのか、人間の霊なのか、文字そのものからは確定するのが難しいのです。例えば10節を見ると霊という言葉がコンマでくくられていますが、このコンマの意味は何かといいますと、これは、翻訳者が聖霊に間違いないと思われる箇所にだけ、コンマでくくっているのです。翻訳者の主観的判断であって、何ら客観的な記しはありません。ですから新しく翻訳された聖書協会共同訳には、このコンマは削除されています。

本文の2節に戻りますが、すると、「命をもたらす霊の律法」が、「罪と死との律法」からあなたを解放したということで、律法における二つの側面が説明されているということになります。そしてこの二つの側面は互いにぶつかり合い、命をもたらす霊の律法が、罪と死との律法に勝利したということであります。ペンテコステの出来事とは、実は律法の意味が以前の「罪と死との律法」から「命をもたらす霊の律法」替えられたということなのです。それでは、なぜ律法にこのような2つの側面が出てくるのでしょうか。その理由は、3節にありますように、私たちの肉の弱さのために、律法がなしえなかったことを、神がしてくださったからです。本来、律法自体は、聖なるものであり、義の基準であり人に命を与えることを目標としていました。しかし、アダムが堕落してしまった以降、人間の肉によっては、律法を守り行うことができなくなってしまってからは、律法は、ひたすら人間の罪を糾弾するものとなってしまいました。「お前はこの時、有罪である!」「お前はあの時も罪を犯したじゃないか!」と宣告するのです。こうして結局、律法の当初の目的である所の、「義とする」ことは、人間の肉の弱さの故に成就することができなくなりました。むしろ律法は、人間を罪の虜にして、そして究極的には死に至らせるものとなりました。律法が死に至らせる呪いになってしまったのです。しかし神は、律法のもう一つの側面を約束されます。エレミヤ31:31~33をご覧ください。

“見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。”

エレミヤ書によれば律法を彼らの胸の中に授け、心にそれを記すと書かれています。それは、死に至らせる以前の律法とは異なるものでした。人間の努力ではとうてい達成できない義の外的基準としてではなく、聖霊によって私たちの心に記し、命を与える目的として与えられるというのです。また、同じような御言葉としてエゼキエル書36:26~27をご覧ください。

“わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。”

肉の心というのは、頑なな心ではなく、肉のような柔らかい心という意味です。聖霊が降り、私たちに新しい心が与えられ、新しい霊が内住されて、掟に従って歩ませると書かれているのです。それでは聖霊の降臨とは旧約にはなかったのでしょうか。旧約の時代においても個人的な聖霊の臨在はありました。サムソンは聖霊に満たされ怪力が与えられました。ダビデは聖霊に満たされて礼拝と讃美を回復しました。聖霊に満たされた預言者の口を通して、神の啓示を語られました。しかし、終わりの日にはキリスト者すべてにキリストの霊が与えられ、キリストの霊を持たない者は、キリストに結ばれていないとパウロは言います。またイザヤ書44:3には次のように書かれています。※或いはヨエル3:1

“わたしは乾いている地に水を注ぎ/乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ/あなたの末にわたしの祝福を与える。”

終わりの日、神の救いの啓示が指し示す本体であられるイエス・キリストが世に遣わされ、十字架上で、その肉において罪を罪として処罰されました。救いの御業が完全に成就されました。ですから五旬節に注がれた聖霊は、私たちに救いについての新しい啓示を与えるというより、むしろ十字架上で示された神の愛を思い起こさせてくださるのです。神が私たちをこのように愛してくださったということを悟らせ、聖霊を通してキリスト者を愛の人へと変え、律法の要求を全うさせるという、律法の新しい側面が現れることになったのです。キリスト者はこれをただ、信仰によって受け入れるだけです。これこそペンテコステの出来事だったのです。聖霊によって以前、成しえなかった律法の要求を満たすことです。ロマ書に戻り8章4~7節をご覧ください。

“それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。」肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。”

ここにおいて、イエス・キリストの恵みと、律法とが、どれほど密接に関わっているのかを見せてくれるのです。つまり4節によれば恵みが与えられるのは、まさに律法が満たされるためでした。ですから、私たちが一生懸命努力して律法を全うするのではなく、神の力により頼みながら、聖霊の導きに従って歩むことによって、外部の力によって、無償で、律法の要求が満たされるです。したがって信仰を持つとか信仰によって歩むというのは、別の言葉で言うなら、聖霊の導きに従順に従っていくことです。もし聖霊によって歩むなら、それは自然と律法にかなった歩みとなるのです。もし聖霊によって歩むなら、私たちを通して神さまが御霊の実を結んでくださるのです。万が一、聖霊の御声をどのように聞くのか、聖霊の導きをどのように確認するのかと反論する人がいるなら、このように答えるだけです。「聖霊は人格を持った神さまですから、ただ聖霊様を迎え入れればいいのです。」私たちキリスト者は、依然として肉の弱さを持ち合わせていますが、同時に、聖霊の内住によって聖霊の導きにも従うことができる存在とされました。しかし、問題は、肉の欲することと、御霊の欲することとは、180度正反対なので、私たちの内に常に、霊と肉の葛藤が、霊と肉の戦いが繰り広げられるのです。私たちは信仰生活において、パウロが告白したような悩みにいつもさいなまれるのです。7章22~23をお読みします。

“「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。”

ですから油断することはできません。しかし、このような事実があるからと言って私たちは決して絶望することはありません。なぜなら、この戦いは既に勝利が約束されているからです。パウロは8章9節で次のように言います。ご覧ください。

“神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。”

このように私たちに内住している聖霊は、肉に支配に勝利し、確実に私たちに律法の要求を満たすように導いて下さり、命へと至らせるのです。それを妨げる死と悪魔の力は、既にイエス・キリストの十字架において、原理上、破壊されました。ですから、結局は、聖霊の内住があるのなら、言い換えれば、聖霊が私たちの心の中に迎え入れられているのであるなら、「罪と死との律法」に対し「命をもたらす霊の律法」が勝利することになるのです。最後に11節をご覧ください。

“もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。”

私たちが御霊を確かに宿している、ということであるなら、命をもたらす霊の律法が必ず、死の体から救い出されるのです。御霊の肉と霊の支配のはざまに置かれた私たちの体は、やがて一時的な死に服従し、私たちの体は塵に帰ります。しかし一方において、聖霊の支配の中で、キリストが死者の中から甦らされたように、私たちの死ぬべき罪の体をも、赦され、義とされ、甦らされるのです。聖霊は私たちの救いの完成の担保として与えられているのです。ですから、私たちの自己啓発とか、生活改善、努力というところに目を向けるのではなく、手のつけようのない弱く、脆い私という人間を舞台にして、「神さまが」、「キリストが」、「聖霊が」何をなさるのか、或いは、今までにどういうことをなさってくださったのか、またこれから先、私をどういうふうにしていってくださるのか、聖霊の導きを讃美と感謝を持って見つめていきたいと願うのであります。

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