2021年10月03日「御言葉への従順 말씀에 대한 순종」

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御言葉への従順 말씀에 대한 순종

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 2章26節~3章11節

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:26わたしは、まずケデモトの荒れ野からヘシュボンの王シホンのもとに友好使節を送って、こう述べさせた。
2:27「領内を通過させてください。右にも左にもそれることなく、公道だけを通ります。
2:28食物は金を払いますから、売って食べさせ、水も金を払いますから、飲ませてください。徒歩で通過させてくださればよいのです。
2:29セイルに住むエサウの子孫やアルに住むモアブ人が許可してくれたように、ヨルダン川を渡って、わたしたちの神、主が与えてくださる土地に行かせてください。」
2:30しかし、ヘシュボンの王シホンは我々が通過することを許さなかった。あなたの神、主が彼の心をかたくなにし、強情にしたからである。それは今日、彼をあなたの手に渡すためであった。
2:31主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたにシホンとその国を与える。それを取るために占領を開始せよ。」
2:32シホンは全軍を率いて出撃し、ヤハツで我々を迎え撃とうとしたが、
2:33我々の神、主が彼を我々に渡されたので、我々はシホンとその子らを含む全軍を撃ち破った。
2:34我々は町を一つ残らず占領し、町全体、男も女も子供も滅ぼし尽くして一人も残さず、
2:35家畜だけを略奪した。それだけが、我々の占領した町々の戦利品であった。
2:36川沿いの町、すなわちアルノン河畔のアロエルからギレアドに至るまで、我々の手に陥らなかった町は一つもなかった。そのすべてを我々の神、主は我々に与えられた。
2:37ただし我々の神、主が禁じられたアンモンの人々の領地、すなわちヤボク川沿いの全域と山地の町々に、あなたは近づかなかった。
3:1我々は転じてバシャンに至る道を上って行くと、バシャンの王オグは全軍を率いて出撃し、エドレイで我々を迎え撃とうとした。
3:2主はわたしに言われた。「彼を恐れてはならない。わたしは彼とその全軍、その国をあなたの手に渡した。ヘシュボンに住むアモリ人の王シホンにしたように、彼にも行いなさい。」
3:3我々の神、主はバシャンの王オグをはじめ、その全軍を我々の手に渡されたので、我々はオグを撃ち殺し、ついに一人も残さなかった。
3:4そのとき、彼のすべての町を占領し、我々が奪わなかった町は一つもなかった。奪ったのはバシャンにあるオグの王国、アルゴブ全域の六十の町であった。
3:5これらはすべて高い城壁で囲まれ、かんぬきで門を固めた要害の町であるが、このほかに城壁のない村落がたくさんあった。
3:6我々はヘシュボンの王シホンにしたように、彼らを滅ぼし尽くし、町全体、男も女も子供も滅ぼし尽くしたが、
3:7家畜と町から分捕った物はすべて自分たちの略奪品とした。
3:8我々はそのとき、アルノン川からヘルモン山に至るヨルダン川東岸の二人のアモリ人の王の領土を手中に収めた。――
3:9ヘルモン山のことをシドンの住民はシルヨンと呼び、アモリ人はセニルと呼んでいる。――
3:10それは台地にあるすべての町、ギレアド全域、バシャンの王オグが治める町々、サルカからエドレイに至るバシャン全域を含んでいる。――
3:11バシャンの王オグは、レファイム人の唯一の生き残りであった。彼の棺は鉄で作られており、アンモンの人々のラバに保存されているが、基準のアンマで長さ九アンマ、幅四アンマもあった。――日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 2章26節~3章11節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 私たちは今、申命記を読み進めています。本日の箇所は、イスラエルの民が、ヨルダン川の向こう、つまり東のトランスヨルダンを征服する内容が書かれています。このトランスヨルダンの地は、後にルベン族とガド族とマナセの半部族が嗣業の地として相続する地です。従ってアルノン川を越えた時に、既にカナンの地の入植が始まったと考えることが出来るでしょう。カナンの地の征服という観点から見る時に、申命記とヨシュア記の違いとは、モーセが生きているか、死んだのかの違いであると言えます。モーセの生前か、死んだ後か、です。そしてトランスヨルダンの征服とは、イスラエルの民に対し、約束の地をどのように征圧するのか、モーセがその手本を見せていると見ることもできます。「これから、自分はいなくなるけれど、残されたお前たちはこのようにするんだぞ!」とお手本を示している訳です。それはまるで、イエス様が生前、弟子たちに御名による悪霊追放の手本を示されたり、安息日に会堂に立って福音を宣べ伝える手本を示された、あのお姿に重なってくるのであります。

本日のテキストは前半と後半の二つの部分に分けられますが、前半は、小見出しにもありますように、「ヘシュボンの王シホンとの戦い」、後半は「バシャンの王オグとの戦い」です。この二つの王国は、イスラエルにとって決して超えることのできないような、大きな、大きな壁でありました。ところが御言葉の従順を通して、言葉では表現できないような奇跡的な勝利を体験することができました。その勝利の体験を通して、イスラエルの民は、神の御言葉が常に自分たちと共にあるという教訓を与えられます。ただ、御言葉に従順すると言っても、本日の箇所で、モーセが主の言葉として語っている箇所は、2:31と3:2の二か所だけです。この二つの御言葉に民が従順した時に、物凄い勝利を体験し、この体験を通して、神の御言葉は必ず成就するということ、そして、御言葉は自分たちと共にあるということを、少しずつ学んでいったのです。それがイスラエルの共同体の信仰として形成されていき、その信仰を今日私たちも継承しているのです。

【1】. 主がシオンの王国をイスラエルの手に渡し始める

 アルノン川を越えた後、モーセはヘシュボンの王に対し平和の使節を送り、いかなる被害も与えないので、主なる神が自分たちに与えてくださった約束の地に入ることができるように、そのまま通過させてほしいと、丁重に要請します。そして、28節にありますように、食物や水をお金で購入させてほしいと申し出ていますが、これは民数記には書かれてはいない内容です。金で食料や水を購入するというのは、2章6節で、エサウの地を通過する時にも提案されました。ところがヘシュボンの王シホンは、このモーセの申し出を拒絶します。2章30節をご覧ください。

“しかし、ヘシュボンの王シホンは我々が通過することを許さなかった。あなたの神、主が彼の心をかたくなにし、強情にしたからである。それは今日、彼をあなたの手に渡すためであった。”

ヘシュボンの王シホンが申し出を拒絶した、その原因は、主なる神がシホンの心をかたくなにし、強情にしたからであると書かれています。この箇所も民数記には書かれておらず、従ってモーセ自身の解釈と言える箇所です。この場面は何か私たちに、見覚えがありますね。そうです。エジプトのファラオがモーセの嘆願を拒否した場面です。モーセはファラオに、「主なる神に礼拝を捧げるため、民が荒れ野に三日の道のりを行かせてほしい」と申し出ました(出5:3)。ファラオがそれを頑なに拒否したために、主の御業が起こされ、エジプトに壊滅的な被害が及び、イスラエルがエジプトから解放されたという、あの事件であります。つまり、主がシホンの王の心をかたくなにし、強情にした時、既に主はシオンの王国をイスラエルの手に渡し始めていたのであります。

ここで、一つ確認したいことは、エジプトのファラオのケースでも、ヘシュボンのシホンのケースでも、彼らに自由意志がなかったという事ではありません。決して彼らが何かに操られて、自分の意志とは関係なく、申し出を断ったという事ではありません。彼らは申し出を受け入れる自由もあり、かたくなに断る自由もありましたが、主が、ご自身の民に救いをもたらすというご自身の御業を、ご自身の名前の栄光のために、みずから主権を持って成就させるために、彼らの頑なさを利用したということです。従って、人間に自由意志が認められているにも拘わらず、全ての歴史を治め、導いておられる方は、主なる神であるということを、私たちは認めなければならないのです。31節で、主はモーセに言われました。

“見よ、わたしはあなたにシホンとその国を与える。それを取るために占領を開始せよ。”

既に主は、先立ってイスラエルの手にヘシュボンを渡し始めています。民はそれに応答し、占領を開始しなければなりません。この語りかけは、38年前の回想で、申1:21において、第一世代に対して語られた言葉と少し似ているなと思います。主の語りかけと、その時の民の応答について見てみましょう。1:21~22をご覧ください。

“見よ、あなたの神、主はこの土地をあなたに与えられた。あなたの先祖の神、主が仰せになったとおり、上って行って取りなさい。恐れてはならない。おののいてはならない」と言うと、あなたたちはそろってわたしのもとに来て、「まず人を派遣し、その土地を探らせ、我々がどの道を上り、どの町に行くべきか報告させましょう」と言った。”

これが主の御言葉と、それに対する第一世代の民の反応でした。彼らは、主の御言葉に信頼しないで、偵察隊がもってくる報告の言葉に信頼しようとしました。一方、本日の箇所の、第二世代の民は、これとは対照的に速やかに御言葉に従順し、シホンの王国を滅ぼし尽くします。そして、2:36節には総括のような形で、主の御言葉に従った戦いの結果を供述していますが、この言葉も第一世代の言葉と大変、対照的です。比較してみましょう。まず、第二世代です。36節をご覧ください。

“川沿いの町、すなわちアルノン河畔のアロエルからギレアドに至るまで、我々の手に陥らなかった町は一つもなかった(私たちの力の及ばない町は一つもなかった)。そのすべてを我々の神、主は我々に与えられた。”

つまり、「主が我々に手渡してくださったので、我々の力の及ばない町は一つもなかった」と供述しています。それとは対照的に第一世代の供述は次の通りです。1:27(鍵かっこから)~28をご覧ください。

“…「主は我々を憎んで、エジプトの国から導き出し、アモリ人の手に渡し、我々を滅ぼそうとしておられるのだ。どうして、そんな所に行かねばならないのだ。我々の仲間も、そこの住民は我々よりも強くて背が高く、町々は大きく、城壁は天に届くほどで、しかもアナク人の子孫さえも見たと言って、我々の心を挫いたではないか。」”

つまり、「主が我々をアモリ人の手に渡そうとしておられ、そこの原住民は我々より強く、町々はあまりにも大きく城壁は髙かった」と言っています。この二つの供述を比べてみて、分かるように、御言葉に従順する時に、先立って進まれる主が、ご自身の民に全く異なる結果を、180度違う結果をもたらしてくだるということを見て取ることができるのです。御言葉に従順にすることがいかに大切なのかが分かります。

【2】. ヘシュボンに住むアモリ人の王シホンにしたように、バシャンにも行え。

 ヘシュボンを滅ぼし尽くした後、イスラエルの民はバシャンに至る道を上っていきました。バシャンの王オグは全軍を率いて出撃し、エドレイでイスラエルを迎え撃とうとします。このバシャンという地域は、肥沃な高原であり、家畜を、特に牛を飼うのに大変適していました。ですから聖書の中で「バシャンの牛」という言葉はとても太っていて、横柄な態度を意味する時に用いられています。たとえば、詩編22編13節(聖書協会共同訳)です。「多くの雄牛が私を取り囲み/バシャンの強い牛が私を取り巻いた。」

つまり、横柄な敵をバシャンの牛に譬えられています。或いは、アモス書4章1節(聖書協会共同訳)では、金持ちの女性たちに対する痛烈な皮肉としてバシャンの牛に譬えられています。

“この言葉を聞け/サマリアの山にいるバシャンの雌牛どもよ。/弱い者を圧迫し、貧しい者を虐げ/夫に向かって「酒を持って来なさい。/飲みましょう」と言う女たちよ。”

バシャンの地が、それぐらい肥沃な土地であったということです。地図をご覧ください。ガリラヤ湖の右にバシャンがありますね。ヘシュボンは、アンモンの地域の左側になります。バシャンの上には地図にはありませんがヘルモン山があります。バシャンの町にアルゴブという地域があり、その近くにエドレイという町が確認できますでしょうか。この辺りでバシャンの軍隊がイスラエルを迎え撃ちました。すると主はモーセに言われました。申命記3:2をご覧ください。

“主はわたしに言われた。「彼を恐れてはならない。わたしは彼とその全軍、その国をあなたの手に渡した。ヘシュボンに住むアモリ人の王シホンにしたように、彼にも行いなさい。」”

二回目の主の言葉です。ここで「彼を恐れてはならない」と命じられていますが、とても、バシャンのオグ王を恐れないではいられない、多くの理由がありました。第一に、オグとは、巨人、レファイムの生き残りでした。彼の棺(直訳すると寝台ですが)は、3:11節によると長さが9アンマで幅が4アンマです。新共同訳聖書の後ろの付録の度量衡を見ますと1アンマが約45センチとありますので、寝台の長さが4メートル5センチ、幅が1メートル80センチもあったということです。現代、家具屋さんにいけば、キングサイズのベッドが売られていますが、そのキングサイズのベッドでも、長さが1メートル95センチ、幅が1メートル80センチですから、キングサイズのベッドをちょうど縦に二つ並べたら、オグの寝台にようやく近づくことができるほどです。巨人がどれだけ大きかったかが分かります。因みにサムエル記に出て来た巨人ゴリアトも、身長が3メートル近くありました。オグの身長もやはり3メートル前後だったのではないかと思われます。さらに、アルゴブ全域に町々は、髙い城壁で囲まれていて、かんぬきで門を固めた要害の町であったということも第二、第三の恐るべき理由として挙げられます。40年間、ただ、荒れ野を彷徨ってきただけのイスラエルの民にとって、バシャンの王国は恐れないではいられない相手でした。「恐れてはならない」という命令は、論理的には到底理解できませんが、主は、2節の後半で、「ヘシュボンに住むアモリ人の王シホンにしたように、彼にも行いなさい。」と命令されています。ここから、イスラエルの民が、御言葉に従順することができたのは、ヘシュボンの王シホンに、奇跡的に勝利した記憶があったからだ、とも言えるでしょう。ヘシュボンの王シオンに勝利した時、イスラエルの民に実力があったから勝てたのか?イスラエルの民の戦略が優れていたから勝てたのか?…そんなことはありませんでした。主が共にいてくださり、民が御言葉に信頼したために、勝利することが出来たのです。今回も同じように、主が共にいてくださるので、主が敵をイスラエルの手に渡し始めておられるので、その御言葉に信頼した時に勝利することができるのです。3:3~7節をご覧ください。

“我々の神、主はバシャンの王オグをはじめ、その全軍を我々の手に渡されたので、我々はオグを撃ち殺し、ついに一人も残さなかった。そのとき、彼のすべての町を占領し、我々が奪わなかった町は一つもなかった。奪ったのはバシャンにあるオグの王国、アルゴブ全域の六十の町であった。これらはすべて高い城壁で囲まれ、かんぬきで門を固めた要害の町であるが、このほかに城壁のない村落がたくさんあった。我々はヘシュボンの王シホンにしたように、彼らを滅ぼし尽くし、町全体、男も女も子供も滅ぼし尽くしたが、家畜と町から分捕った物はすべて自分たちの略奪品とした。”

アルゴブ全域の町々の数は60であったと書かれています。実に甚だしい数の要害の町を手に入れることが出来ました。考えて見てください。エリコの町もやはり城壁に囲まれた要害の町でした。あのエリコの町を一つ攻略するのに、大変な苦労をしましたが、ここではそのような城壁で囲まれた町々が60あり、さらに、それ以外にも城壁のない村落を征服したというのです。これはイスラエルの民にとって決して忘れることのできない勝利であったことでしょう。この勝利の噂をエリコの遊女ラハブは耳にし、そしてイスラエルの神を信じました。彼女はイスラエルがエリコの町を攻略する際、派遣された斥候を匿ってくれたのです。このことから、どれだけヘシュボンの王国とバシャンの王国に勝ったということが衝撃的だったのかが伺えるのです。聖書には、「ヘシュボンの王シオン」と「バシャンの王オグ」という言葉がこの後、繰り返し出てきますが、それは、この時の戦いをイスラエルの民は決して忘れてはならないということなのでしょう。主の御言葉は全てに勝って卓越しており、この世をも支配しておられ、その御言葉が常にイスラエルと共にいてくださるのです。イスラエルの民は、ただ、この御言葉に信頼し、聞き従って行かなければなりません。3:8をご覧ください。

“我々はそのとき、アルノン川からヘルモン山に至るヨルダン川東岸の二人のアモリ人の王の領土を手中に収めた。――”

アルノン川というのは、トランスヨルダンの一番南側の境界線です。ヘルモン山というのは、トランスヨルダンの一番北側の地域です。つまりこの時、トランスヨルダン全域を奇跡的に征服することができたということです。

【結論】

 私たちが信仰生活をしていく中で、経済的な困難、健康的な困難、最近ではコロナウイルスの蔓延、人間関係における困難、結婚や、進路など、様々な形で、人生の苦難や壁にぶち当たります。そのような時、私たちが記憶しなければならないことは、ヘシュボンとバシャンに対する勝利であり、イエス・キリストが生前に弟子たちと歩まれた中で見せてくださった、数々の栄光の御業です。モーセの死後も御言葉がイスラエルを統治したように、イエス・キリストは、現在もなお、聖書を通して私たちに語りかけて下さいます。そして御言葉は私たち人生の全てを支配し、導き、私たちと共にいてくださいます。私たちは弱い存在ですが、御言葉である主が共にいてくださる。私たちは罪深い存在ですが、既に世に打ち勝ったお方が、共にいてくださる。このことを覚えなければなりません。現代を生きる私たちにとって、未来は大変不確実であり、私たちは依然として恐れと不安の中に置かれており、時には孤独を感じることもあります。しかし、既に、ヘシュボンの王シホンよりも、バシャンの王オグよりも、強大な敵、人生の問題の根本である、死に打ち勝たれたお方が、私たちと共におられ、私たちに先立って進み、私たちを導いてくださり、ご自身の名前の栄光の為に、私たちを救いに導いてくださっています。この信仰に堅く立ち、御言葉に心から信頼し、従順に歩んでいく私たちとならせていただきましょう。

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말씀에 대한 순종

2021년 10월 3일 센겐다이 교회 주일설교

신명기 2장 26-3장 11절

서론

저희는 지금 신명기를 읽어 나가고 있습니다. 오늘날 이곳은 이스라엘 백성들이 요단강 넘어, 즉 동쪽의 트란스요단을 정복하는 내용이 적혀 있습니다. 이 트란스요단 땅은 나중에 르우벤 지파와 갓 지파와 므낫세 반 지파가 기업으로 상속받는 땅입니다. 따라서 아르논 강을 넘었을 때 이미 가나안 땅의 정착이 시작되었다고 생각할 수 있을 것입니다. 가나안 땅 정복이라는 관점에서 볼 때 신명기와 여호수아서의 차이는 모세가 살아 있느냐 죽었는가의 차이라고 할 수 있습니다. 모세의 생전인지 죽은 후인지 말입니다. 그리고 트란스요단 정복이란 이스라엘 백성들에게 약속된 땅을 어떻게 제압하는지 모세가 그 본보기를 보여준다고 볼 수도 있습니다. “이제 나는 죽지만 남은 너희들은 이렇게 하는거야!”라고 시범을 보이고 있는 것입니다. 그것은 마치 예수님께서 생전에 제자들에게 예수님의 이름으로 악령을 쫓아내는 것의 본보기를 보이시거나 안식일에 회당에 서서 복음을 전하는 본보기를 보이시던 그 모습과 겹쳐지는 것입니다.

오늘의 텍스트는 전반 후반 두 부분으로 나뉘는데, 전반에는 소제목에도 나와 있듯이 “헤스본 왕 시혼과의 싸움” 후반부에는 “바산의 왕 옥과의 전쟁”입니다. 이 두 왕국은 이스라엘에게는 결코 넘을 수 없는 크고 큰 벽이었습니다. 그런데 말씀에 순종함으로 믿기 어려운 기적적인 승리를 체험할 수 있었습니다. 그 승리의 체험을 통해 이스라엘 백성들은 하나님의 말씀이 항상 자신들과 함께 있다는 교훈을 얻을 수 있었습니다. 다만 말씀에 순종한다고 해도 오늘의 구절에서 모세가 주의 말씀으로서 말하고 있는 구절은 2장 31절과 3장 2절의 두곳 뿐입니다. 이 두 말씀에 백성들이 순종했을 때 엄청난 승리를 체험하고, 이 체험을 통해 하나님의 말씀은 반드시 성취된다는 것, 그리고 말씀은 자신들과 함께 있다는 것을 조금씩 배워 나갔습니다. 그것이 이스라엘 공동체의 신앙으로 형성되어 갔고 그 믿음을 오늘날 우리도 계승하고 있는 것입니다.

(1) 주께서 시혼의 왕국을 이스라엘의 손에 넘기기 시작하시다

아르논 강을 넘은 후 모세는 헤스본 왕 시혼에게 평화의 사절을 보내어 어떠한 피해도 주지 않을 것이니 주 하나님께서 자신들에게 주신 약속의 땅에 들어갈 수 있도록 그대로 통과 시켜 달라고 정중히 요청합니다. 그리고 28절에 나와 있듯이 음식과 물을 돈으로 구입하게 해달라고 요청하고 있는데 이것은 민수기에는 적혀 있지 않는 내용입니다. 돈으로 식량이나 물을 구입하는 것은 2장 6절에서 에돔 족속의 땅을 통과할 때도 요청했었습니다. 그런데 헤스본의 왕 시혼은 이런 모세의 요청을 거절합니다. 2장 30절을 참조하십시오.

30 헤스본 왕 시혼이 우리가 통과하기를 허락하지 아니하였으니 이는 네 하나님 여호와께서 그를 네 손에 넘기시려고 그의 성품을 완강하게 하셨고 그의 마음을 완고하게 하셨음이 오늘날과 같으니라

헤스본의 왕 시혼이 제안을 거절한 원인은 주 하나님이 시혼의 성품을 완강하게 하셨고 그의 마음을 완고하게 하셨기 때문이라고 적혀 있습니다. 이 부분도 민수기에는 적혀 있지 않고 따라서 모세 자신의 해석이라고 할 수 있는 부분입니다. 이 장면은 뭔가 저희가 본 기억이 나네요. 맞습니다. 애굽의 바로가 모세의 요청을 거부한 장면입니다. 모세는 바로에게「우리가 광야로 사흘길쯤 가서 우리 하나님 여호와께 제사를 드리려 하오니 가도록 허락하소서」 (출애굽기 5장 3절)라고 부탁했습니다. 그러나 바로가 그것을 완강히 거부했기 때문에 주님의 역사가 일어나 애굽에 괴멸적인 피해를 입히고 이스라엘을 애굽으로부터 해방시키신 사건입니다. 즉 주께서 시혼 왕의 마음을 완강하게 하고 완고하게 하실 때 이미 주님은 시혼의 왕국을 이스라엘 손에 넘기기 시작하신 것입니다.

여기서 한 가지 확인하고 싶은 것은 애굽의 바로의 경우에서도 헤스본 왕 시혼의 경우에서도 그들에게 자유의지가 없었다는 것은 아닙니다. 결코 그들이 무언가에 조종당해서 자신의 의지와 상관없이 요청을 거절한 것은 아닙니다. 그들은 요청을 받아들일 자유도 있고 완강히 거절할 자유도 있었지만 주께서 자신의 백성에게 구원을 가져다 주시려는 자신의 역사를 자신의 이름의 영광을 위하여 스스로 주권을 가지고 성취시키기 위해 그들의 완고함을 이용하셨다는 것입니다. 그러므로 인간에게 자유의지가 인정되고 있음에도 불구하고 모든 역사를 다스리고 인도하시는 분은 주 하나님이라는 것을 우리는 인정해야 합니다. 31절에서 주님은 모세에게 말씀하셨습니다.

31 그 때에 여호와께서 내게 이르시되 내가 이제 시혼과 그의 땅을 네게 넘기노니 너는 이제부터 그의 땅을 차지하여 기업으로 삼으라 하시더니

이미 주님은 앞서 이스라엘의 손에 헤스본을 넘기기 시작하셨습니다. 백성들은 그것에 응답하고 정복을 시작해야 합니다. 이 말은 38년 전의 회상에서 신명기 1장 21절에 1세대에게 하셨던 말과 조금 비슷하다고 생각합니다. 주의 말씀과 그 때 백성들의 응답에 대해 알아보겠습니다. 1장 21,22절을 참조하시기 바랍니다.

21 너희의 하나님 여호와께서 이 땅을 너희 앞에 두셨은즉 너희 조상의 하나님 여호와께서 너희에게 이르신대로 올라가서 차지하라 두려워하지 말라 주저하지 말라 한즉

22 너희가 다 내 앞으로 나아와 말하기를 우리가 사람을 우리보다 먼저 보내어 우리를 위하여 그 땅을 정탐하고 어느 길로 올라가야 할 것과 어느 성읍으로 들어가야 할 것을 우리에게 알리게 하자 하기에

이것이 주의 말씀에 대한 1세대 백성들의 반응이었습니다. 그들은 주의 말씀을 신뢰하지 않고 정탐꾼이 가져오는 보고에 신뢰하려고 했습니다. 한편 오늘날 이곳에 있는 2세대 백성들은 이와는 대조적으로 신속하게 말씀에 순종하여 시혼의 왕국을 멸망시킵니다. 그리고 2장 36절에는 총괄적으로 주님의 말씀에 따른 싸움의 결과를 진술하고 있는데, 이 말씀도 1세대의 말과 매우 대조적입니다. 비교해보죠. 일단 2세대 입니다. 36절을 보시기 바랍니다.

36 우리 하나님 여호와께서 그 모든 땅을 우리에게 넘겨주심으로 아르논 골짜기 가장자리에 있는 아로엘과 골짜기 가운데에 있는 성읍으로 부터 길르앗까지 우리가 모든 높은 성읍을 점령하지 못한 것이 하나도 없었으나

즉, “주께서 우리에게 넘겨 주셨기 때문에 우리가 점령하지 못한 것이 하나도 없었다”라고 진술하고 있습니다. 그와 대조적으로 1세대의 진술은 다음과 같습니다. 1장 27절 후반에서 28절을 보세요.

27..여호와께서 우리를 미워하시므로 아모리 족속의 손에 넘겨 멸하시려고 우리를 애굽 땅에서 인도하여 내셨도다

28 우리가 어디로 가랴 우리의 형제들이 우리를 낙심하게 하여 말하기를 그 백성은 우리보다 장대하며 그 성읍들은 크고 성곽은 하늘에 닿았으며 우리가 또 거기서 아낙 자손을 보았노라 하는도다 하기로

즉“주께서 우리를 아모리 사람들의 손에 넘기려고 하셨고 그곳의 원주민들은 우리보다 장대하며 성읍들은 너무 크고 셩곽은 높았다”라고 말합니다. 이 두 진술을 비교해 보면 알 수 있듯이 말씀에 순종할 때 앞서 가시는 주께서 자신의 백성에게 180도 전혀 다른 결과를 가져 오신다는 것을 알 수 있는 것입니다. 말씀에 순종하는 것이 얼마나 중요한지 알 수 있습니다.

(2) 헤스본에 사는 아모리인의 왕 시혼에게 했던 것처럼 바산에게 가라

헤스본을 멸망시킨 후 이스라엘 백성들은 바산에 이르는 길을 올라갔습니다. 바산 왕 옥은 전군을 이끌고 출격하여 에드레이에서 이스라엘을 맞이해서 공격하려고 합니다. 이 바산이라는 지역은 비옥한 고원으로 가축을 특히 소를 키우기에 매우 적합했습니다. 그래서 성경에서 ‘바산의 소’라는 말은 매우 살찌고 거만한 태도를 의미할 때 사용되고 있습니다. 예를 들어 시편 22편 12절을 보십시오. 「많은 황소가 나를 에워싸며 바산의 힘센 소들이 나를 둘러 쌌으며」

즉, 거만한 적을 바산의 소에 비유하고 있습니다. 혹은 아모스서 4장 1절에서는 부잣집 여인들에 대한 통렬한 비아냥으로 바산의 암소에 비유하고 있습니다.

1 사마리아의 산에 있는 바산의 암소들아 이 말을 들으라 너희는 힘 없는 자를 학대하며 가난한 자를 압제하며 가장에게 이르기를 술을 가져다가 우리로 마시게 하라 하는도다

바산 땅이 그만큼 비옥한 땅이었다는 거죠. 지도를 보세요. 갈릴리 호수 오른쪽에 바산이 있네요. 헤스본은 암몬 지역 왼쪽입니다. 바산 위에는 지도에는 없지만 헤르몬 산이 있습니다. 바산 마을에 아르곱이라는 지역이 있는데 그 근처에 에드레이라는 마을을 확인할 수 있을까요? 이 근처에서 바산의 군대가 이스라엘을 맞아서 싸운 곳이에요. 그러자 주님은 모세에게 말씀하셨습니다. 신명기 3장 2절을 참조하십시오.

2 여호와께서 내게 이르시되 그를 두려워하지 말라 내가 그와 그의 모든 백성과 그의 땅을 네 손에 넘겼으니 네가 헤스본에 거주하던 아모리 족속의 왕 시혼에게 행한 것과 같이 그에게도 행할 것이니라 하시고

두 번째의 주님의 말씀입니다. 여기서 「그를 두려워하지 말라」라는 명령을 내렸는데, 바산 왕 옥을 두려워할 수 밖에 없는 많은 이유가 있습니다. 첫째, 옥은 르바임 족속의 남은 자였습니다. 그의 침상은 아홉 규빗이요 너비가 네 규빗이었습니다. 한 규빗이 약 45센티이기 때문에 침대 길이가 4미터 5센티미터, 폭이 1미터 80센티미터나 되었다고 합니다. 현대 가구점에 가면 킹사이즈 침대를 팔고 있는데, 그 킹사이즈 침대에서도 길이가 1미터 95센티미터, 폭이 1미터

80센티미터이기 때문에 킹사이즈 침대를 딱 세로로 두 개 늘어 놓으면 옥의 침대에 겨우 접근할 수 있을 정도입니다. 거인이 얼마나 컸는지 알 수 있어요. 덧붙여서 사무엘기에 나온 거인 골리앗도 신장이 3미터 가까이 되었습니다. 옥의 신장 역시 3미터 전후였던 것이 아닐까 생각됩니다. 게다가 아르곱 전역의 마을은 높은 성벽으로 둘려 있고 문과 빗장이 있어 견고한 요새같은 마을이었다는 것도 두 번째, 세 번째로 두려움을 느낄 만한 이유로 꼽을 수 있습니다. 40년 동안 그저 광야를 헤매던 이스라엘 백성들에게 바산의 왕국은 두려워할 수 밖에 없는 존재였습니다. 두려워하지 말라는 명령은 논리적으로는 도저히 이해할 수 없지만, 주님은 2절 후반부에 「헤스본에 거주하던 아모리 족속의 왕 시혼에게 행한 것과 같이 그에게도 행할 것이니라」 고 명령하셨습니다. 여기서부터 이스라엘 백성들이 말씀에 순종할 수 있었던 것은 헤스본의 왕 시혼에게 기적적으로 승리한 기억이 있었기 때문이라고도 할 수 있습니다. 헤스본의 왕 시혼에게 승리 했을 때 이스라엘 백성들에게 실력이 있었기 때문에 이길 수 있었습니까? 그런 일은 없습니다. 주께서 함께 해 주시고 백성들이 말씀을 믿었기 때문에 승리할 수 있었던 것입니다. 이번에도 마찬가지로 주께서 함께 해 주시니 주께서 적을 이스라엘 손에 넘기기 시작하셨으니 그 말씀을 신뢰할 때 승리할 수 있는 것입니다. 3장 3-7절을 참조하십시오.

3 우리 하나님 여호와께서 바산 왕 옥과 그의 모든 백성을 우리 손에 넘기시매 우리가 그들을 쳐서 한 사람도 남기지 아니하였느니라

4 그 때에 우리가 그들에게서 빼앗지 아니한 성읍이 하나도 없이 다 빼앗았는데 그 성읍이 육십이니 곧 아르곱 온 지방이요 바산에 있는 옥의 나라니라

5 그 모든 성읍이 높은 성벽으로 둘려 있고 문과 빗장이 있어 견고하며 그 외에 성벽 없는 고을이 심히 많았느니라

6 우리가 헤스본 왕 시혼에게 행한 것과 같이 그 성읍들을 멸망시키되 각 성읍의 남녀와 유아를 멸망시켰으나

7 다만 모든 가축과 그 성읍들에서 탈취한 것은 우리의 소유로 삼았으며

아르곱 전역의 마을들의 수는 육십이었다고 쓰여져 있습니다. 실로 엄청난 수의 요새 마을을 손에 넣을 수 있었습니다. 생각해 보세요. 여리고 마을 역시 성벽으로 둘러싸인 요새의 마을이었습니다. 그 여리고 마을을 하나 공략하느라 고생을 많이 했는데 이곳에는 그런 성벽으로 둘러싸인 마을들이 육십여개 있고, 게다가 그 외에도 성벽이 없는 촌락들을 정복했다는 것입니다. 이것은 이스라엘 백성들에게 결코 잊을 수 없는 승리였을 겁니다. 이 승리의 소문을 여리고의 기생 라합은 들었고, 그리고 이스라엘 신을 믿었습니다. 그녀는 이스라엘이 여리고를 공략하기전에 그 땅을 엿보러 온 정탐꾼 2명을 숨겨준 것입니다. 이를 통해 헤스본 왕국과 바산 왕국을 이겼다는 것이 얼마나 충격적인 일이었는지 알 수 있습니다. 성경에는 헤스본의 왕 시혼과 바산의 왕 옥이라는 말이 반복적으로 나오는데, 그것은 이 때의 싸움을 이스라엘 백성들은 결코 잊어서는 안된다는 것입니다. 주님의 말씀은 모든 것을 이기고 탁월하며 이 세상도 지배하고 계시며 그 말씀이 항상 이스라엘과 함께 해 주시는 것입니다. 이스라엘 백성들은 다만 이 말씀을 믿고 따라야 합니다. 3장 8절을 보세요.

8 그 때에 우리가 요단 강 이쪽 땅을 아르논 골짜기에서부터 헤르몬 산에까지 아모리 족속의 두 왕에게서 빼앗았으니

아르논 강이라고 하는 것은 트란스요단의 가장 남쪽 경계선입니다. 헤르몬 산이라는 것은 트란스 요단의 가장 북쪽 지역입니다. 즉 이때 트란스요단 전역을 기적적으로 정복할 수 있었다는 뜻입니다.

결론

우리가 신앙생활을 하면서 경제적 어려움, 건강적 어려움, 최근에는 코로나바이러스의 만연, 인간관계에서의 어려움, 결혼과 진로 등 다양한 형태로 삶의 고난과 벽에 부딪힙니다. 그럴 때 우리가 기억해야 할 것은 헤스본과 바산에 대한 승리이며 예수 그리스도께서 생전에 제자들과 걸으신 가운데 보여주신 수많은 영광스러운 기적과 역사입니다. 모세의 죽음 이후에도 말씀이 이스라엘을 통치했듯이 예수 그리스도는 현재에도 여전히 성경을 통해 우리에게 말씀해 주십니다. 그리고 말씀은 우리 삶의 모든 것을 지배하고 인도하며 우리와 함께해 주십니다. 우리는 약한 존재이지만 말씀이신 주님이 함께 해 주십니다. 우리는 죄 많은 존재이지만 이미 세상을 이겨낸 분이 함께해 주신다는 사실을 기억해야 합니다. 현대를 사는 우리에게 미래는 매우 불확실하며, 우리는 여전히 두려움과 불안 속에 놓여 있으며 때로는 고독을 느끼기도 합니다. 그러나 이미 헤스본의 왕 시혼보다도 바산의 왕 옥보다도 강대한 적, 삶의 문제의 근본인 죽음을 이겨내신 분이 우리와 함께 계시며 우리보다 앞서 나가셔서 우리를 인도해 주시고 자기 이름의 영광을 위해 우리를 구원으로 인도해 주고 계십니다. 이 믿음에 굳게 서서 말씀을 진심으로 신뢰하며 순종하는 우리가 되도록 합시다.

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