2021年09月26日「神の嗣業の地 하나님께서 주시는 기업」

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神の嗣業の地 하나님께서 주시는 기업

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 2章2節~25節

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:2主はわたしに言われた。
2:3「あなたたちは既に久しくこの山地を巡った。北に向かって行きなさい。
2:4あなたは民にこう命じなさい。あなたたちはこれから、セイルに住む親族エサウの子孫の領内を通る。彼らはあなたたちに恐れを抱いているから、よく気をつけなさい。
2:5彼らに戦いを挑んではならない。彼らの土地は、足の裏で踏めるほどのものでもあなたたちには与えない。セイルの山地は既にエサウの領地として与えた。
2:6食物は彼らから金を払って買って食べ、水も彼らから金を払って買い、飲むようにしなさい。」
2:7あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。
2:8我々はセイルに住む親族エサウの子孫を離れ、エイラトとエツヨン・ゲベルからアラバを走る道を避けて向きを変え、モアブの荒れ野に通ずる道を通った。
2:9主はわたしに言われた。「モアブを敵とし、彼らに戦いを挑んではならない。わたしはその土地を領地としてあなたには与えない。アルの町は既にロトの子孫に領地として与えた。――
2:10かつて、そこにはエミム人が住んでいた。強力で数も多く、アナク人のように背の高い民であった。
2:11彼らもアナク人と同様に、レファイム人であると見なされているが、モアブの人々は彼らをエミム人と呼んでいた。
2:12セイルには、かつてフリ人が住んでいたが、エサウの子孫は彼らを追い払って滅ぼし、代わってそこに住んだ。これは、イスラエルが主から与えられた領地を手に入れたのと同様であった。――
2:13さあ、立ち上がって、ゼレド川を渡りなさい。」我々はゼレド川を渡ったが、
2:14カデシュ・バルネアを出発してからゼレド川を渡るまで、三十八年かかった。その間に、主が彼らに誓われたとおり、前の世代の戦闘員は陣営に一人もいなくなった。
2:15主の御手が彼らに向けられ、陣営に混乱が引き起こされ、彼らは死に絶えたのである。
2:16戦闘員がこうして皆、民の中から死に絶えた後、
2:17主はわたしに仰せになった。
2:18「あなたは、今日、モアブ領アルを通り、
2:19アンモンの人々のいる所に近づくが、彼らを敵とし、彼らに戦いを挑んではならない。わたしはアンモンの人々の土地を領地としてあなたには与えない。それは既にロトの子孫に領地として与えた。」――
2:20ここも、レファイム人の土地と見なされている。レファイム人はかつてここに住んでいた。アンモン人は彼らをザムズミム人と呼んでいた。
2:21彼らは強力で数も多く、アナク人のように背が高い民であったが、主が彼らを滅ぼされたので、アンモン人は彼らを追い払い、代わってそこに住んだ。
2:22それは、セイルに住んでいるエサウの子孫のために主がなさったことと同様である。主は彼らの前からフリ人を滅ぼされたので、エサウの子孫は彼らを追い払い、代わってそこに住み、今日に至っている。
2:23また、カフトル島から来たカフトル人はガザとその近くの村落に住んでいたアビム人を滅ぼし、代わってそこに住んだ。――
2:24「立ち上がって進み、アルノン川を渡りなさい。見よ、わたしはヘシュボンの王アモリ人シホンとその国をあなたの手に渡した。シホンに戦いを挑み、占領を開始せよ。
2:25今日わたしは天下の諸国民があなたに脅威と恐れを抱くようにする。彼らはあなたのうわさを聞いて、震えおののくであろう。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 2章2節~25節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 「重ねて律法を語る」というのが、申命記の意味ですが、かつて神様が直接モーセに語られた内容について、モーセがそれを解釈し、再びイスラエルの民に告げた説教が申命記だということです。本日の箇所も、モーセは過去を回想しながら語っています。イスラエルの民は、カデシュ・バルネア事件によってカナンへ入植する道が阻まれてから、荒れ野で放浪することになり38年間という時が流れました。そして、前の世代の戦闘員たちが、皆死に絶えた時、主はカナンに向かって、移動せよと命じられます。興味深い点として、14節と16節において「戦闘員がいなくなった時」、「戦闘員が死に絶えた時」と、「戦闘員」という言葉を強調していますが、普通、戦闘員が揃ってから戦いに出陣するものです。ところが、主のやり方は、戦闘員が死に絶えた時、「カナンに向かえ」と命じられ、いざ、出陣をするのであります。本日の全体の箇所を要約しますと、アモリ人が住んでいるヘシュボンの地域と、そして3章以降の内容ですが、アモリ人のバシャンの地域に対しては、「戦え」と命じられますが、イスラエルの古い親族に当たるエサウと、モアブと、アンモンに対しては、戦うことを許されませんでした。ある時には戦えと命じられ、ある時には戦うなと命じられるのです。地図をご覧ください。最初にアラバの海を確認できますでしょうか。これは死海です。上にあるキネレト湖というのがガリラヤ湖です。死海の南にはアラバの低地がありまして、その右にセイルの山々がありますが、このセイルの山々がエサウの居住地になります。エサウとエドムは同じ意味ですね。

セイルから上に移動しまして、ゼレド川がありますが、ゼレド川を境にしてアルノン川までが、モアブの居住地になります。

さらに上に移動してアルノン川を越えて、ヨルダン川から東にかなり離れた地域がアンモンの居住地となり、アンモンの左側とその上のバシャンの地域とヨルダン川の西側に、アモリ人が住んでいました。

ですからアルノン川を越えた時点で、実質的にはアモリ人の地、即ちカナンの地に入ったということが言える訳です。

【1】. 親族に対しては戦いを許されず、アモリ人に対しては戦いを許される神

 それでは、アモリ人とは、一体どのような民族なのでしょうか。アモリ人とは、カナンに住んでいる一民族であり、その先祖は、ノアの子、ハムにまで至ります。ハムの子がカナンであり、カナンの子の一人がアモリ人です(創10:16)。ですから、カナン地方に住む主だった民族がアモリ人だったと考えてください。カデシュ・バルネアからイスラエルが偵察した地も、27節に書いてありますように、やはりアモリ人が住む地でした。この、アモリ人ですが、倫理的にも、性的にも大変乱れていたと考えられています(レビ18:24)。また、創世記15:16では、次のような預言の御言葉がアブラハムに語られました。創世記15:16をご覧ください。

“ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」”

アブラハムに語られたこの御言葉によると、イスラエルのカナン入植とは何かと言えば、モーセの時代に至って、ついにアモリ人の罪が極みに達したため、そのことに対する神様の裁きであったと読み取ることが出来ます。アモリ人に対しては戦いを許され、イスラエルの親族に対しては戦いを許されませんでしたが、しかし、結果的には、神様に属さない者たちは、イスラエルの親族であろうと、なかろうと、皆、神の審判を受けることになるでしょう。なぜなら民数記24:17に、バラムに対して与えられた次のような預言があるからです。民数記24:17節の途中からお読みします。

“…ひとつの星がヤコブから進み出る。ひとつの笏がイスラエルから立ち上がり/モアブのこめかみを打ち砕き/シェトのすべての子らの頭の頂を砕く。”

この箇所には、モアブやエドムが滅ぼされると預言されています。神様は怒るのに遅い方であり、神を信じない人々にも、すぐに裁きを下すのではなく、そのまま置いておき、恵みを与えてくださり、いつの日か悔い改めるまで待っていてくださるということを、見て取ることが出来るのです。本日の聖書箇所を調べていきましょう。申2:2~6をお読みします。

“主はわたしに言われた。「あなたたちは既に久しくこの山地を巡った。北に向かって行きなさい。あなたは民にこう命じなさい。あなたたちはこれから、セイルに住む親族エサウの子孫の領内を通る。彼らはあなたたちに恐れを抱いているから、よく気をつけなさい。彼らに戦いを挑んではならない。彼らの土地は、足の裏で踏めるほどのものでもあなたたちには与えない。セイルの山地は既にエサウの領地として与えた。食物は彼らから金を払って買って食べ、水も彼らから金を払って買い、飲むようにしなさい。」”

そもそもエサウとヤコブは双子であり、イサクの子供でした。兄のエサウは狩りが得意で活動的であり、弟のヤコブはいつも天幕の中にいました。エサウとかエドムという言葉は「赤い」という意味ですが、これは、彼が空腹だった時に、(レンズ豆のような)赤いものを欲しがったことに由来します。創世記25:30~32をご覧ください。

“エサウはヤコブに言った。「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。ヤコブは言った。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、ヤコブは言った。「では、今すぐ誓ってください。」エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。”

エサウは、その赤いものと引き換えに自らの長子権をヤコブに売り払ってしまいました。長子権とは、父から与えられる良き賜物のことを意味しますが、エサウは、上からの良き賜物を何とも思っていなかったということです。屁のようなものと考えていました。そのような不信仰なエサウに対して、神様は、セイルの山地をエサウの領地として与えているので、彼らと戦ってはならないとイスラエルに命じられたのです。イスラエルはエサウの地を避けるように、遠回りしながら北上し、エサウの地を通過すると、今度はモアブの地に近づきました。2:9をご覧ください。

“主はわたしに言われた。「モアブを敵とし、彼らに戦いを挑んではならない。わたしはその土地を領地としてあなたには与えない。アルの町は既にロトの子孫に領地として与えた。――”

神様はモアブに対しても戦いを挑んではならないと命じられます。その理由は、モアブ人はアブラハムの甥であるロトの子孫だからです。神様はアルの町をモアブの領地として与えられました。イスラエルは、モアブの地を通過し、今度はアンモンの地に近づきました。2:19をご覧ください。

“アンモンの人々のいる所に近づくが、彼らを敵とし、彼らに戦いを挑んではならない。わたしはアンモンの人々の土地を領地としてあなたには与えない。それは既にロトの子孫に領地として与えた。」――”

神様はアンモンに対しても戦いを挑んではならないと命じられます。その理由は、アンモン人もやはり、モアブ人と同じようにロトの子孫であるため、神様から、その場所をアンモンの領土として与えられているからです。このようにして、そのまま置いておいたエサウと、モアブと、アンモンは、イスラエルがカナンに入植した後に、イスラエルの民を苦しめるような存在になっていきました。

【2】. 適用

 本日の箇所から、私たちは一体何を学ぶことが出来るでしょうか。第一に、むさぼってはならないということです。神様はかつて、アブラハムに対し、東西南北、あなたの見渡す地は全てあなたとあなたの子孫の土地になると、確かに約束されましたが(創13:14)、エドムとモアブとアンモンの地は、神がイスラエルに与えると約束した土地ではなかったということです。つまり、自分のものではない、他人が享受しているものを、それをうらやましがったり、それを自分のものにしようと欲してはならないよ!ということを、教えているのだと思います。人は誰でも隣の芝が青く見えるものですね。しかし、隣の芝ばかり関心が行って、自分を他人と比較しながら、ないものねだりで不平をこぼしてばかりいるのではなく、ただ、神様から自分に許されたものに満足し、感謝する心を持つようにと、本日の箇所は私たちに語っているのではないでしょうか。神様の恵みは私たちに一人一人に十分であります。申命記2:7節をご覧ください。

“あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。”

病気と貧しさと不安とに苛まれて、もう駄目だと思われる状況の中で、神様が私たちと共におられたので、私たちは不思議に今日まで守られてきました。これが神様に対する、私たちの人生の告白ではないでしょうか。本当にギリギリではありましたが、考えてみれば、何一つ不足なく、絶妙に守られてきたのです。ですから、私たちは、この神様に絶対的に依り頼み、互いに信仰を励まし合い、神様が最後の最後まで守ってくださるので、今許されている恵みに満足し、むさぼることなく、感謝して歩んでいく私たちとならせていただきましょう。

第二に、この世でキリスト者たちが、神様を知らない人たち、不敬虔な人たち、罪深い人たちと共に住むようにと、実は神様が願われているということです。私たちはともすると、神を信じず、キリスト者を苦しめたり、迫害したり、いじめたりする人たちが、いっぺんにいなくなれば、どんなにいいだろうかと考えてしまったりします。異教の習慣にどっぷり浸かった、罪深いカナンのようなこの世に、私たちを置くのではなく、むしろ、世界中に異教の民が一掃されて、全人類がクリスチャンとなり、完全な平和が訪れた、そのような所に、なぜ、キリスト者を置いてくれないのだろうかと、考えたことはないでしょうか。しかし、そのような時は、主の再臨の日、最後の審判が来ない限り、決して実現することはございません。神様は、どんな時にもご自身の民を守られますが、キリスト者が、この世界の、まだ神様を知らない人々のただ中に、未信者のただ中に、共に住むようにと願われているのです。

私たちはカナンのアモリ人に対する戦いの記事を、間違っても次のように理解してはなりません。つまり、神に受け入れられ、神の民である、神に祝福されたキリスト者には、戦争が許されていて、そうではない異教の民は、滅びることも致し方ない。神の御心であるという考えです。もし、今の時代においても聖なる戦争(聖戦)があると考えてしまうなら、それは全く教養もなく、常識もなく、単純で、原理主義的であると言わざるを得ないでしょう。キリスト者がマイノリティである現代の日本では、あまり見られないかもしれませんが、歴史を見ますと、キリスト教国家によるイスラム圏への十字軍遠征などいうものがありました。これはまさにそのような考え方の典型的な例であります。

イエス様を心に受け入れた私たちキリスト者は、確かに、この世の人々とは、生きる目的が異なり、価値観が異なり、動機が異なり、すべての面において、この世と反対になります。しかし、それにも拘わらず、神様は、キリスト者が、そのただ中で生きて行くことを願われるのです。なぜでしょうか。

神様は堕落したこの世を一度捨て去って、再び白紙の状態から新しい世界を描くということは、なされませんでした。神様の方法は、十字架の贖いという方法によって、最初の良き創造をそのまま巻き返しながら、再創造を成していかれました。つまり、再創造というのは、堕落したアダムとエバを殺して、第二の創造を始めたということではないということです。アダムとエバによって堕落したとしても、最初の創造をそのままに置いたまま、最初の創造の秩序の中で、最初の創造の自然と環境の中で、それがいくら乱れていたり、汚れていたりしても、そこから再創造の御業を成していかれたのです。巻き返していくように、ひっくり返していくように、であります。

再創造とは、最初の良き創造の聖めであり、神の創造の美しさの回復であるということですね。再創造の御業の為に、神様はご自身の民を通して、まだ信じていない人々にご自身の御名を証しするようにさせて、ご自身の民を通して、十字架の福音を宣教して行かれます。ですから、キリスト者にとってカナンの地とは、神の国には違いありませんが、そこはまだ、完全な安息の場所ではなく、宣教という名の、「信仰の戦い」が待っている場所なのです。イスラエルの民がカナンに入植されたように、私たち教会も、この世のただ中にあって、まさにこの「信仰の戦い」に召されているということです。そして、私たちの戦いとは、剣による戦いではなく、霊的な戦いであり、敵を愛し、主の御名を証しするという戦いですね。エフェソ4:24~29をご覧ください。

“神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。”

私たちはイエス・キリストによって贖われ、罪赦され、新しい人を身に着けるようにされました。それはこの世の光として、この世に恵みの福音を宣べ伝えるためなのです。主が私たちと共にいてくださいますから、お一人お一人の信仰の戦いを守り導いてくださるのです。

【結論】

 信仰の戦いに召されているキリスト者の道は、決して平たんな道ではないでしょう。苦しみと忍耐を伴う道であります。しかし、神の御言葉が常に私たちと共にあって導いてくださり、わたしたちを世の光として用いられ、この世に救いと平和をもたらす大切な働きのために用いてくださるのです。私たちが御言葉のご支配に幼子のように依存し、そこに堅く留まり続けるなら、神様の宣教の業に、私たちを豊かに用いてくださり、私たちを平和の使者、救いの使者として、神様の尊い御業に参与させて下さるでしょう。今週も、世のただ中にあって、御言葉と共に歩んで行かれる皆様お一人お一人の上に神の豊かな祝福がありますようにお祈りいたします。

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하나님께서 주시는 기업

2021년 9월 26일 센겐다이 교회 주일설교

서론

거듭 율법을 말한다는 것이 신명기의 뜻인데, 일찍이 하나님께서 직접 모세에게 말씀하신 내용에 대해 모세가 그것을 해석하여 다시 이스라엘 백성들에게 고한 설교가 신명기라는 것입니다. 오늘의 말씀도 모세는 과거를 회상하면서 말하고 있습니다. 이스라엘 백성은 가데스 바네아 사건으로 가나안에 정착하는 길이 막히고 나서 광야에서 방랑하게 되어 38년이라는 시간이 흘렀습니다. 그리고 이전 세대의 군인들이 모두 죽었을 때 주님은 가나안을 향해서 이동하라고 명령하십니다. 흥미로운 점으로 14절과 16절에서 군인이 멸망했을때, 군인이 사망하여 멸망한 후에라고 군인이라고 하는 단어를 강조하고 있습니다만 보통 군인은 모여서 싸우러 나가는 것입니다. 그런데 하나님의 방법은 군인이 죽었을 때 가나안으로 향하라고 명령하시고 그 출정명령을 받은 이스라엘은 줄정하는 것입니다. 오늘의 말씀의 전체적인 부분을 요약하자면 아모리인이 살고 있는 헤스본 지역과 그리고 3장 이후의 내용입니다만 아모리인 바산 지역에 대해서는 싸우라고 명령받았지만 이스라엘의 오랜 친족에 해당하는 에돔족과 모압과 암몬족에 대해서는 싸우지말라는 명령을 받습니다. 어떤 경우에는 싸우라는 명령을 받고 어떤 경우에는 싸우지 말라는 명령을 받는 것입니다. 지도를 참고 하시면 좋겠습니다. 먼저 아라바 바다를 확인하실 수 있으면 좋겠습니다. 이것은 사해입니다. 위에 있는 키네레토 호수라고 하는 것이 갈릴리 호수입니다. 사해의 남쪽에는 아라바 저지대가 있고 그 오른쪽에 세일 산들이 있는데, 이 세일 산들이 에서의 자손의 거주지가 됩니다. 에서와 에돔은 같은 뜻입니다.

세일에서 위로 이동하여 세렛 시내가 있습니다만 세렛 시내를 경계로 아르논 강까지가 모압의 거주지가 됩니다.

더 위로 이동해서 아르논 골짜기를 넘어서 요르단 강에서 동쪽으로 상당히 떨어진 지역이 암몬의 거주지가 되고 암몬 왼쪽과 그 위 바산 지역과 요르단강 서쪽에 아모리인들이 살았습니다.

그러니까 아르논 골짜기를 넘은 지점에서 실제적으로는 아모리 사람들의 땅, 즉 가나안 땅으로 들어갔다는 것을 말할 수 있는 거죠.

(1) 친족에 대해서는 싸움을 허락하지 않으시고, 아모리인에 대해서는 싸움을 허락하시는 하나님

그렇다면 아모리인은 도대체 어떤 민족일까요? 아모리인은 가나안에 살고 있는 한 민족으로 그 조상은 노아의 아들 함에게까지 이릅니다. 함의 자녀가 가나안이고 가나안의 자녀 중 한 명이 아모리인입니다. (창세기 10장 16절) 그러므로 가나안 지방에 대부분 살았던 사람이 아모리인이었다고 생각하시면 됩니다. 가데스 바네아에서 이스라엘이 정탐한 땅도 27절에 나와 있듯이 역시 아모리인이 살았던 곳이었습니다. 이 아모리인은 윤리적으로나 성적으로 매우 문란했던 것으로 생각됩니다. (레위기 18장 24절) 또한 창세기 15장 16절에서는 다음과 같은 예언의 말씀이 아브라함에게 전해졌습니다. 창세기 15장 16절을 참조하십시오.

16 네 자손은 사대 만에 이 땅으로 돌아오리니 이는 아모리 족속의 죄악이 아직 가득 차지 아니함이니라 하시더니

아브라함에게 하신 이 말씀에 따르면 이스라엘의 가나안 정착이란 무엇인가 하면 모세의 시대에 이르러 마침내 아모리인들의 죄가 극에 달했으므로 그 일에 대한 하나님의 심판이라고 생각할 수 있습니다. 아모리인에 대한 전투는 허락되고 이스라엘의 친족에 대한 싸움은 허락되지 않았지만 그러나 결과적으로는 하나님께 속하지 않은 자들은 이스라엘 친족이든 아니든 모두 하나님의 심판을 받게 될 것입니다. 왜냐하면 민수기 24장 17절 에 발람에게 주어진 다음과 같은 예언이 있기 때문입니다. 중간부터 읽겠습니다

… 한 별이 야곱에게서 나오며 한 규가 이스라엘에서 저쪽까지 쳐서 무찌르고 또 셋의 자식들을 다 멸하리로다

이 구절에서는 모압이나 에돔이 멸망당할 것이라고 예언 되어 있습니다. 하나님은 화를 내시기는 더디 하시며 하나님을 믿지 않는 자들에게도 바로 심판을 내리시는 것이 아니라 그대로 두시며 은혜를 내리시며 언젠가 회개할 때까지 기다려 주신다는 것을 알 수가 있습니다. 오늘의 성경 본문을 알아보겠습니다. 신명기 2장 2-6절을 보시겠습니다.

2 여호와께서 내게 말씀하여 이르시되

3 너희가 이 산을 두루 다니 지 오래니 돌이켜 북으로 나아가라

4 너는 또 백성에게 명령하여 이르기를 너희는 세일에 거주하는 너희 동족 에서의 자손이 사는 지역으로 지날진대 그들이 너희를 두려워하리니 너희는 스스로 깊이 삼가고

5 그들과 다투지 말라 그들의 땅은 한발자국도 너희에게 주지 아니하리니 이는 내가 세일 산을 에서에게 기업으로 주었음이라

6 너희는 돈으로 그들에게서 양식을 사서 먹고 돈으로 그들에게서 물을 사서 마시라

원래 에서와 야곱은 쌍둥이이자 이삭의 아들들이었습니다. 형 에서는 사냥에 능하고 활동적이었으며 동생 야곱은 항상 천막안에 있었습니다. 에서라든가 에돔은 빨갛다라는 뜻인데 이는 그가 배고플 때 (렌즈콩 같은) 빨간 것을 원했던 데서 유래했습니다. 창세기 25장 30-32절을 참조하세요.

30 야곱에게 이르되 내가 피곤하니 그 붉은 것을 내가 먹게 하라 한지라 그러므로 에서의 별명은 에돔이더라

31 야곱이 이르되 형의 장자의 명분을 오늘 내게 팔라

32 야곱이 이르되 오늘 내게 맹세하라 에서가 맹세하고 장자의 명분을 야곱에게 판지라

에서는 그 붉은 것을 대가로 자신의 장자권을 야곱에게 팔아 버렸습니다. 장자권이란 아버지가 주시는 좋은 선물을 뜻하지만 에서는 위로부터의 좋은 선물을 아무렇지도 않게 생각했다는 것입니다. 하찮은 것으로 여긴 것이지요. 그러한 불신앙적인 에서에 대해서 하나님은 세일산지를 에서의 영지로서 주셨기 때문에 그들과는 싸워서는 안된다고 이스라엘에게 명령을 내리신 것입니다. 이스라엘은 에서의 땅을 피하듯 우회하며 북상해 에서의 땅을 통과하자 이번에는 모압 땅에 가까워졌습니다. 2장 9절을 보십시오.

9 여호와께서 내게 이르시되 모압을 괴롭히지 말라 그와 싸우지도 말라 그 땅을 내가 네게 기업으로 주지 아니하리니 이는 내가 롯 자손에게 아르를 기업으로 주었음이라

하나님은 모압에 대해서도 싸움을 하지 말라고 명령하십니다. 그 이유는 모압인은 아브라함의 조카인 롯의 후손이기 때문입니다. 하나님은 아르 마을을 모압의 영지로서 주셨습니다. 이스라엘은 모압 땅을 통과하여 이번에는 암몬 땅에 가까워졌습니다. 2장 19절을 보세요.

19 암몬 족속에게 가까이 이르거든 그들을 괴롭히지 말고 그들과 다투지도 말라 암몬 족속의 땅은 내가 네게 기업으로 주지 아니하리니 이는 내가 그것을 롯 자손에게 기업으로 주었음이라

하나님은 암몬에 대해서도 싸움을 하지 말라고 명령하십니다. 그 이유는 암몬인 역시 모압인과 마찬가지로 롯의 후손이기 때문에 하나님께서 그 자리를 암몬의 영토로 주셨기 때문입니다. 이렇게 해서 그대로 놓아둔 에돔과 모압과 암몬은 이스라엘이 가나안에 정착한 후에 이스라엘 백성들을 괴롭히는 존재가 되어갔습니다. 이러한 에돔과 모압과 암몬을 이스라엘 백성들에게 남겨두신 두신 하나님의 뜻은 무엇일까요?

(2) 적용

오늘의 구절에서 우리들은 도대체 무엇을 배울 수 있을까요? 첫째, 취하면 안되는 것이 있다는 것입니다. 하나님께서는 일찍이 아브라함에게 동서남북, 아브라함이 바라보는 땅은 아브라함과 그 자손의 땅이 되리라 분명히 약속하셨지만 (창 13장 14절) 에돔과 모압과 암몬의 땅은 하나님께서 이스라엘에게 주시겠다고 약속하신 땅이 아니었다는 것입니다. 즉 자신의 것이 아닌 다른 사람이 누리는 것을 부러워 하거나 그것을 자신의 것으로 만들려고 해서는 안 된다라는 것을 가르치고 있다고 생각합니다. 사람은 누구나 옆집 잔디가 푸르게 보이는 법이죠. 그러나 옆집의 잔디에만 관심이 가고 자신을 남들과 비교하면서 없는 것에 대한 투정으로 불평만 늘어놓을 게 아니라 그저 하나님께서 내게 허락하신 것에 만족하고 감사하는 마음을 가지라고 오늘 본문은 우리에게 말하고 있지 않을까요? 하나님의 은혜는 우리 한 사람 한 사람에게 충분한 것입니다. 신명기 2장 7절을 참조하십시오.

7 네 하나님 여호와께서 네가 하는 모든 일에 네게 복을 주시고 네가 이 큰 광야에 두루 다님을 알고 네 하나님 여호와께서 이 사십 년 동안을 너와 함께 하셨음으로 네게 부족함이 없었느니라 하시기로

질병과 가난과 불안에 시달리고 이제는 더 이상 안된다고 생각되는 상황 속에서 하나님이 우리와 함께 계셨기에 우리는 신기하게도 오늘까지 하나님의 보호하심 가운데 살아 왔습니다. 이것이 하나님에 대한 우리 삶의 고백이 아닐까요? 정말 아슬아슬한 상황도 있었지만 돌이켜 생각해보면 우리의 삶이 절묘하게 지켜져 온 것입니다. 그러므로 우리는 이 하나님께 절대적으로 의존하고 서로 믿음을 격려하며 하나님께서 끝까지 지켜 주시니까 지금 허락하시는 은혜에 만족하고 탐욕을 부리지 말고 감사하게 걸어가는 우리가 되도록 합시다.

둘째, 이 세상에서 그리스도인들이 하나님을 모르는 사람들, 불경건한 사람들, 죄 많은 사람들과 함께 사는 것을 사실은 하나님이 원하고 계신다는 것입니다. 우리들은 걸핏하면 하나님을 믿지 않고 그리스도인을 괴롭히거나 박해 하거나 괴롭히는 사람들이 한꺼번에 사라지면 얼마나 좋을까 생각하게 됩니다. 이교의 습관에 흠뻑 젖은 죄 많은 가나안 같은 이 세상에 우리를 두는 것이 아니라 오히려 온 세상에서 이교 백성들이 다 망하고 온 인류가 다 크리스천이 되고 완전한 평화가 찾아온 그런 곳에 왜 그리스도인들이 살게 해 주지 않을까 생각해 본 적은 없으십니까? 그러나 그런 때는 주님의 재림날 최후의 심판이 오지않는 한 결코 실현되지 않습니다. 하나님은 어느 때나 자신의 백성을 지키시지만 그리스도인이 이 세상의, 아직 하나님을 모르는 사람들 가운데 미신자들 가운데 함께 살기를 원하십니다.

우리들은 가나안의 아모리인에 대한 싸움에 대해서 혹시라도 다음과 같이 이해해서는 안됩니다. 즉 하나님께 받아들여지고 하나님의 백성인 하나님에게 복받은 그리스도인에게는 전쟁이 허락되고 그렇지 않은 이교의 백성은 멸망하는 것은 어쩔 수 없다. 그것이 하나님의 마음이라는 생각입니다. 만약 지금 시대에도 성스러운 전쟁(성전)이 있다고 생각한다면 그것은 전혀 교양도 없고 상식도 없고 단순하며 원리주의적이라고 말하지 않을 수 없을 것입니다. 그리스도인이 소수인 현대의 일본에서는 별로 볼 수 없을지도 모르지만 역사를 보면 기독교 국가에 의한 이슬람권 십자군 원정들이 있었습니다. 이것은 바로 그러한 사고방식의 전형적인 예입니다.

예수님을 마음으로 받아들인 우리들 그리스도인들은 확실히 이세상 사람들과는 삶의 목적이 다르고 가치관이 다르고 동기가 다르며 모든 면에서 이 세상과 반대가 됩니다. 그러나 그럼에도 불구하고 하나님은 그리스도인이 그 안에서 살아가는 것을 원하고 계십니다. 왜 그럴까요?

하나님은 타락한 이 세상을 일단 버리시고 다시 백지상태에서 새로운 세계를 창조하시는 것은 하시지 않았습니다. 하나님의 방법은 십자가의 속죄라는 방법에 의해서 최초의 좋은 창조를 그대로 운행해가시며 재창조를 이루어 가십니다. 즉 재창조라는 것은 타락한 아담과 하와를 죽이고 제 2의 창조를 시작하셨다는 것이 아니라는 것입니다. 아담과 하와에 의해 타락했다 하더라도 최초의 창조를 그대로 둔 채 최초의 창조 질서 안에서 최초의 창조의 자연과 환경 안에서 그것이 아무리 문란하거나 더럽혀져 있다고 하더라도 거기에서부터 재창조의 역사를 이루어 나가시는 것입니다. 되감아가듯이 뒤집어가듯이 말입니다.

재창조란 최초의 좋은 창조의 거룩함이며 하나님의 창조의 아름다움의 회복이라는 것입니다. 재창조의 역사를 위해 하나님께서는 자신의 백성을 통해 아직 믿지 않는 사람들에게 자신의 이름을 증명하도록 하시고 자신의 백성을 통해 십자가 복음을 선교해 가십니다. 그렇기 때문에 그리스도인들에게 가나안 땅은 하나님의 나라임에는 틀림이 없지만 그곳은 아직 완전한 안식처가 아니라 선교라는 이름의 믿음의 싸움이 기다리고 있는 곳입니다. 이스라엘 백성들이 가나안에 정착되었듯이 우리 교회도 이 세상 한가운데 있고 바로 이 믿음의 싸움에 동참하고 있다는 것입니다. 그리고 우리의 싸움은 검에 의한 싸움이 아니라 영적인 싸움이며 적을 사랑하고 주님의 이름을 증명하는 싸움이지요. 에베소 4장 24절에서 29절을 참조하시기 바랍니다.

24 하나님을 따라 의와 진리의 거룩함으로 지으심을 받은 새 사람을 입으라

25 그런즉 거짓을 버리고 각각 그 이웃과 더불어 참된 것을 말하라 이는 우리가 서로 지체가 됨이라

26 분을 내어도 죄를 짓지 말며 해가 지도록 분을 품지 말고

27 마귀에게 틈을 주지 말라

28 도둑질하는 자는 다시 도둑질하지 말고 돌이켜 가난한 자에게 구제할 수 있도록 자기 손으로 수고하여 선한 일을 하라

29 무릇 더러운 말은 너희 입 밖에도 내지 말고 오직 덕을 세우는 데 소용되는 대로 선한 말을 하여 듣는 자들에게 은혜를 끼치게 하라

우리는 예수 그리스도에 의해 속죄함을 받고 죄사함을 받아서 새로운 사람을 몸에 입게 되었습니다. 그것은 이 세상의 빛으로서 이 세상에 은혜의 복음을 전하기 위한 것입니다. 주께서 우리와 함께해 주시니 한 사람 한 사람의 신앙 싸움을 지키고 이끌어 주시는 것입니다.

결론

믿음의 싸움에 부르심을 받은 그리스도인의 길은 결코 평탄한 길은 아닐 것입니다. 괴로움과 인내를 수반하는 길입니다. 그러나 하나님의 말씀이 항상 우리와 함께 있어 인도해 주시고 우리를 세상의 빛으로 사용하셔서 세상에 구원과 평화를 가져다 주는 소중한 일을 위해 불러 주신 것입니다. 우리가 말씀의 지배에 어린아이처럼 의존하여 거기에 굳건히 머무른다면 하나님의 선교사역에 우리를 크게 사용하시고 우리를 평화의 사자, 구원의 사자로서 하나님의 고귀한 사역에 참여시켜 주실 것입니다. 이번주도 세상 한 가운데서 말씀과 함께 걸어가시는 여러분 한 분 한 분 위에 하나님의 풍성한 복이 임하시기를 기원합니다.

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