2021年09月12日「権威ある新しい教え 권위있는 새 교훈」

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権威ある新しい教え 권위있는 새 교훈

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 1章21節~28節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:21一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。
1:22人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
1:23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
1:24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
1:25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
1:26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
1:27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
1:28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 1章21節~28節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

本日は、イエス様の教えと、イエス様の悪霊追い出しを通して、イエス様の権威について考えてみたいと思います。

現代に生きる私たちは、社会が便利になればなるほど、経済が豊かになればなるほど、幸福になるのかと言えば、単純にそう言い切れるものではなく、社会がより一層複雑になり、核家族化が進み、私たちは過去にはなかったような大きな「孤独」と「ストレス」にさらされて生活しているのかもしれません。過剰な「孤独」や「ストレス」は、様々な病を誘発させたり、中毒症状などの悪癖を誘発させたりし、自分で自分のことを、どうにも制御できないようにさせてしまいます。従いまして、社会がいくら便利になっても、経済がいくら豊かになっても、文化がいくら発展しても、私たちの「孤独」や「ストレス」の問題が解決されなければ、もっと言えば、私たちの罪の問題が解決されなければ、私たちは幸いになることができないのではないでしょうか。

西洋医学が発達した現代において、悪霊の活動という概念そのものが、極端に無視されるようになりましたが、それでは悪霊なんか存在しないのかと言うと、そうとも言い切れません。悪霊の活動に対して、私たちは次のような二つの極端な態度を警戒しなければなりません。

一つは、現在の病などは、全て科学によって説明することができるために、霊的な影響力を一切、考えないとする態度です。文化や科学や医学の発展に伴って、病は次第に撲滅されて行き、人々は幸いな人生を享受できるだろうというような考え方では、実際に今、私たちが置かれている複雑な現状を、到底、理解することはできないからであります。

一方で、もう一つは、悪霊は確かに存在していて、すべての事柄を悪霊の仕業にしてしまう考え方です。ただ風邪をひいただけなのに、悪霊の仕業にしてしまったり、或いは自分の犯した罪を悪霊の仕業に責任転嫁したりする態度です。さらに人生のすべての問題を、悪霊を追い出すことによって解決しようとする態度です。これでは、過去の失敗を通して、何かを学ぶことはできませんし、未来に、全く同じ失敗を繰り返してしまうことでしょう。

サタンや諸々の悪霊は確かに存在しますが、それらの支配と権威に打ち勝ったお方が、私たちの救い主イエス様であられます。私たちはイエス様を信じ、心の中に迎え入れる時に、これら両極端な態度に陥ることから守られるのです。マルコ1:21~22節をご覧ください。

【1】. 神の御言葉であるイエス様の権威

“一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。”

最初に「会堂」という言葉が出てきますが、簡単に説明いたします。ギリシャ語では「シュナゴゲー」英語では「シナゴーグ」と言いまして、元来「集い」という意味です。私たちの礼拝堂も言ってみれば、集いの場ですから、会堂(即ち、シナゴーグ)と言えるかもしれません。会堂というのは、当時、子供たちに律法を教えるための学校のような場所でした。そして、安息日には、そこに人々が集まって律法の朗読と、解き明かしがなされ、礼拝が捧げられました。この会堂が出来たきっかけは、紀元前586年のバビロン捕囚に遡ります。イスラエルの民が国を失い、主だった人々がバビロンに連行されてしまいました。その時になって初めて、イスラエルの民は気づきました。自分たちが神の御言葉に逆らって偶像礼拝に走ったために、神様の裁きが下されたということを、です。イスラエルの民は、自分たちが神と契約を結んだ民である、神様に愛されている聖なる民であるということを、ようやく自覚するようになり、異国の地バビロンにおいて宗教的共同体を形成するようになりました。そして律法の書が重んじられ、律法を通して神の教訓を受けるために、安息日に人々は会堂に集まって、礼拝を捧げるようになったのです。律法学者と呼ばれる職業が生じたのも、この頃であります。その後、民はエルサレムへの帰還が許されますが、カナンの地に戻っても至るところにも会堂は建設され、ガリラヤ地方の最大の漁村であるカファルナウムにも、やはり会堂は建設されました。この会堂にイエス様は、ある安息日に、訪れたのでありました。通常、会堂の管理人たちは、先生(ヘブライ語でラビといいますが)が、訪れて来た場合には、彼らに安息日に講義してもらうようにしたため、イエス様は訪問した町々の会堂で御言葉を語ることができたのであります。

ところで、21~22節を見ますと、イエス様は会堂で一体何を教えたのか、その内容については何も語られていませんが、とにかく語られた「教え」に人々は非常に驚いたというのです。その理由は、律法学者のようではなかったから。恐らく律法学者たちも権威をもって聖書の解き明かしていたに違いありませんが、その権威の質が全く異なるものであったということでしょう。同じ聖書を開いて語ったのにも拘わらず、律法学者の権威とイエス様の権威は全く異なっていた…、これは、一体どういうことでしょうか。マルコ福音書7:6~7に、そのヒントになる御言葉がございます。ご覧ください。

“イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』”

律法学者やファリサイ派の全員が全員、そうであったとは言いませんが、少なくともある人々は、聖書の御言葉を引用しながら、人間の戒めを教えとして教え、旧約聖書が指し示していたメシア、キリストのことを虚しく崇めていたということでしょう。一方で、イエス様の語られた御言葉には、それ自体に権威がありました。なぜならイエス・キリストこそ権威の源泉であり、イエス・キリストこそ神の御言葉だからです。神の御言葉であるイエス様ご自身に、権威があるということを今日はぜひ、覚えていただければと思います。神の御言葉であるイエス様ご自身に、権威があるということです。

今日も、なお、イエス様は聖書を通して、そして聖書の解き明かしである説教を通して、私たちに語ってくださいます。ですから私たちは聖書の御言葉を通して、イエス・キリストの御言葉を直接、聞かなければなりません。そのために御言葉を日々黙想し、日々御言葉を蓄えながら、牛がむしゃむしゃと草を反芻するように、聖書の御言葉を反芻いたしましょう。リジョイスを用いるのも一つの方法です。御言葉を黙想し、御言葉を反芻し、イエス様から直接聞くことが重要だということです。書かれた聖書というのは、それ自体、確かに神様の御言葉ですが、それは文字に過ぎません。例えば聖書が神の御言葉だからといって、その書物がお守りになるわけではありませんね。聖書を車に積んでおけば交通事故に遭わないということではありません。或いは、聖書を礼拝堂の建築現場の基礎の部分に埋めたとしても、何の効果も期待できない訳です。文書として保存された文字に権威にあるわけではなく、イエス様ご自身に権威があり、聖書を通してイエス様が直接私たちに語って下さる、その御言葉を、私たちは聞き続けなければならないのです。イエス様は、今日も聖書を通して私たちに語ってくださるのです。続いて、23~26節をご覧ください。

【2】. 悪霊を追い出す権威

“そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。”

この汚れた悪霊に注目しますと、悪霊は二つの事を知っていたということが分かります。一つは、ナザレのイエスが悪霊たちを滅ぼしに来たということ、悪霊たちが持っている権勢を滅ぼしに来たということです。このことは、1ヨハネ3:8に「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」と書いてある通りです。

そして、もう一つはナザレのイエスが神の聖者であるということです。ここで補足ですが、この悪霊は神様を知っていたので、信仰を持っていたのかと言えばそういうことではありません。なぜなら悪霊は「かまわないでくれ!」直訳すると「俺たちと何の関係があるのだ!」と言っているからです。私たちが普通「イエス様を信じる」、「神を知る」というのは、イエス様を心に迎え入れて人格的な関係を結ぶことであります。イエス様につながれる、花婿と花嫁の関係になる、神の家族に入れられるという意味ですね。悪霊が神を知っているのとは正反対のことなのです。悪霊が神を知るというのは、信仰を持っているわけではないということです。

イエス様は、悪霊たちのイエス様に対する証しを一切受け付けません。「黙れ、この人から出ていけ」と一言、命令すると汚れた霊は、その人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行きました。これはどういうことかというと悪霊の持っている権威より、イエス様の権威が圧倒的に強かったということを意味してします。

悪霊祓いという業は、旧約聖書において、唯一、ダビデがサウル王に悪霊祓いをしたという記事を見つけることが出来ますが、イエス様の時代には、普通に悪霊を追い出す祈祷師がいたようです。そして弱い霊を取り除くために、さらに強い霊の名前を呼び出すことが必要であると考えられていました。参考までにマルコ9章38節と使徒言行録19章13節には次のような記事があります。調べてみましょう。

マルコ9章38節(聖書協会共同訳)

“ヨハネがイエスに言った。「先生、あなたのお名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせました。」”

使徒言行録19章13節

“ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。”

このように悪霊祓いをする祈祷師がいたということです。このような考え方がありましたので、イエス様が悪霊に一言、命じるだけで悪魔が出て行くのを見た時に、「なんと、強大な権威なのだろうか」と人々は非常に驚いた訳です。そういえば、イエス様は、公生涯を始めるにあたって、真っ先に荒れ野で、悪霊たちの頭であるサタンに勝利されましたが、今、カファルナウムにおいても同じように、悪霊たちに圧勝している姿を見せてくれます。暗闇の勢力との戦闘は、激しく繰り広げられるのではなく、実に、なんとも、あっけなく、ただ一言命じるだけで悪霊たちは退散していくのです。そのイエス様の姿は、あたかも「強い者の家に入って、この世を激しく略奪する」略奪者のようにイエス様が描写されています。つまり、神の国は、現実に圧倒的な権威を持って、これまでサタンが支配していたこの世に、この場所に、臨んでいるということです。このイエス様が私たちと共にいてくださるので、私たちは暗闇の支配と勢力から解放され、自由になるのです。

もう一つ、この事件が安息日に起こったということにも深い意味が込められていました。本来、安息日とは、神の恵みを味わう日だからです。つまり、安息日とは創世記に書かれている神様の六日の、善き創造の業を覚える日でありました。と同時に、神様がエジプトの奴隷であったイスラエルを解放してくださったという神の救いの業、即ち、神の再創造の業を覚える日でありました。そのような安息日の日に、悪霊に取りつかれた男がイエス様の一言で解放されました。このイエス様の御業に、神の国がまさに到来していることを、象徴的に見ることができるのです。最後に1:27~28節をご覧ください。

【3】. これは一体どういうことなのだ

“人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。”

カファルナウムの人々は、イエス様の教えの権威、そしてイエス様の悪霊を追い出す権威を、目の当たりにし、非常に驚きました。イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まって行きました。人々は「これは一体どういうことなのだ!」と論じ合いました。一体どういうことなのでしょうか。

以前、マルコ福音書の1章1節の説教で、この福音書の全体を貫く主題が二つあるとお話しさせていただきました。一つは「イエスよ、あなたは一体誰なのですか?」という問いであります。もう一つは「神は本当に生きておられるのですか?」という問いであります。この福音書は、この二つの主題を握りしめて、この福音書は読者が読み進めて行くようにと書かれています。この二つの問いは、今日の読者である私たちにも同じように突きつけられているのです。「イエスよ、あなたは一体誰なのですか?」「神は本当に生きておられるのですか?」という主題に、私たちは悩み、考えてみなければなりません。ナザレのイエスは、神の聖者であり、彼の教えと、彼が語る言葉には悪霊を追い出す圧倒的な権威があるということを認めるのか、認めないのか、私たちの信仰の決断と応答が突きつけられているのです。

【結論】

本日、教会に来られた皆様がぜひ、救い主イエス・キリストを心に迎え入れることによって、暗闇の支配から解放され、自由になり、神の深い平安が訪れるようにお祈りいたします。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

권위있는 새 교훈

2021년 9월 12일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 1장 21~28절

서론

오늘은 예수님의 가르침과 예수님의 악령축출을 통해서 예수님의 권위에 대해 생각해보도록 하겠습니다.

현대에 사는 우리들은 사회가 편리해지면 편리해질수록 경제가 풍요해지면 풍요해질수록 행복해지느냐고 한다면 단순히 그렇게 단언할 수 없을 것 같습니다. 사회가 더욱 복잡해지고 핵가족화가 진행되면서 우리는 과거에는 없었던「고독」과 「스트레스」에 노출되어 생활하고 있는지도 모르겠습니다. 고독과 과도한 스트레스는 여러 가지 병을 유발시키거나 중독 증상 등의 나쁜 중독에 사로잡혀 스스로 자신을 어떻게 제어할 수 없게 만들어 버립니다. 따라서 문명사회가 아무리 편해져도 우리의 고독이나 스트레스에 대한 문제가 해결되지 않는다면 더 말해보자면 우리의 죄 문제가 해결되지 않으면 우리는 행복해 질수 없는 것이 아닐까요?

서양의학이 발달한 현대에 있어서 악령의 활동이라는 개념 자체가 극단적으로 무시되게 되었지만, 그러면 악령 같은 것은 존재하지 않느냐 하면 그렇다고 단언 할 수 없습니다. 악령의 활동에 대해 우리는 다음과 같은 두 극단적인 태도를 경계해야 합니다.

하나는 현재의 병 등은 모두 과학에 의해서 설명할 수 있기 때문에 영적인 영향력을 일절 생각하지 않는다는 태도입니다. 문화와 과학과 의학이 발전함에 따라 병은 점차 박멸되어 가고 사람들은 행복한 삶을 누릴 수 있을 것이라는 생각으로는 실제로 지금 우리가 처한 복잡한 상황을 도저히 이해할 수 없기 때문입니다.

한편, 또 하나는 악령은 분명히 존재하고 있고, 모든 일을 악령의 소행으로 만들어 버리는 사고방식입니다. 그저 감기에 걸렸을 뿐인데 악령의 짓으로 만들어 버리거나 아니면 자신이 저지른 죄를 악령의 짓으로 책임을 전가하는 태도입니다. 나아가 인생의 모든 문제를 악령을 몰아냄으로써 해결하려는 태도입니다. 이래서는 과거의 실패를 통해서 뭔가를 배울 수 없고 미래에 똑같은 실수를 반복하게 될 것입니다.

사탄과 여러 악령은 확실히 존재하지만 그 지배와 권위를 박살내고 승리를 쟁취하신 분이 우리 구원자이신 예수님이십니다. 우리는 예수님을 믿고 마음속으로 맞아들일 때 이들 극단적인 태도에 빠지는 것으로부터 지켜지는 것입니다. 마가복음 1장 21,22절을 참조하십시오.

(1) 하나님의 말씀이신 예수님의 권위

21 그들이 가버나움에 들어가니라 예수께서 곧 안식일에 회당에 들어가 가르치시매

22 뭇 사람이 그의 교훈에 놀라니 이는 그가 가르치시는 것이 권위 있는 자와 같고 서기관들과 같지 아니함일러라

처음에 「회당」이라는 단어가 나옵니다만, 간단히 설명드리겠습니다. 그리스어로는 「쉬나고게」 영어로는 「시너고그」라고 해서 원래 「모임」이라는 뜻입니다. 우리 예배당도 말하자면 모임의 장이기 때문에 회당 (즉, 시너고그) 이라고 할 수 있을지도 모릅니다. 회당이라는 곳은 당시 아이들에게 율법을 가르치기 위한 학교 같은 곳이었습니다. 그리고 안식일에는 그곳에 사람들이 모여 율법 낭독과 해설을 하고 예배를 드렸습니다. 이 회당이 생긴 계기는 기원전 586년 바빌론 포로로 거슬러 올라갑니다. 이스라엘 백성들이 나라를 잃고 중요한 인사들이 바빌론으로 끌려가고 말았습니다. 그제서야 이스라엘 백성들은 깨달았습니다. 자신들이 하나님의 말씀에 불순종하고 우상숭배를 하러 달려갔기 때문에 하나님의 심판이 내려졌다는 것을 말입니다. 이스라엘 백성들은 자신들이 하나님과 언약을 맺은 백성인, 하나님의 사랑을 받는 거룩한 백성이라는 것을 비로서 깨닫게 되었고 이국땅 바빌론에서 종교적 공동체를 형성하게 되었습니다. 그리고 율법의 서가 중시되고 율법을 통해 하나님의 교훈을 받기 위해 안식일에 사람들은 회당에 모여 예배를 드리게 된 것입니다. 서기관이라고 불리는 직업이 생긴것도 이 무렵입니다. 그 후 백성들은 예루살렘으로의 귀환이 허용되지만 가나안 땅으로 돌아간 후에도 곳곳에 회당을 건설하였습니다. 이런 회당에 예수님은 어느 안식일에 방문하셨습니다. 보통 회당의 관리인들은 선생 (히브리어로 랍비입니다) 이 찾아왔을 경우에는 그들에게 안식일에 강의하도록 했기 때문에 예수님은 방문하신 동네의 회당에서 말씀을 전하실 수가 있었습니다.

그런데 21,22절을 보면 예수님은 회당에서 도대체 무엇을 가르치셨는지 그 내용에 대해서는 아무것도 기록되어 있지 않지만, 어쨌든 말씀하신 「교훈」에 사람들은 매우 놀랐다고 합니다. 그 이유는 율법학자 같지 않았기 때문이었습니다. 아마도 서기관들도 권위를 가지고 성경을 풀어냈을 것이지만 그 권위의 질이 전혀 달랐을 것입니다. 같은 성경을 펴놓고 말했음에도 불구하고 서기관의 권위와 예수님의 권위는 전혀 달랐다… 이게 도대체 어떻게 된 일일까요? 마가복음 7장 6,7절에 그 힌트가 되는 말씀이 있습니다. 보십시오.

6 이르시되 이사야가 너희 외식하는 자에 대하여 잘 예언하였도다 기록하였으되 이 백성이 입술로는 나를 공경하되 마음은 내게서 멀도다

7 사람의 계명으로 교훈을 삼아 가르치니 나를 헛되이 경배하는 도다 하였느니라

서기관이나 바리새파 모두가 그렇다고는 할 수 없지만 적어도 어떤 사람들은 성경의 말씀을 인용하면서 인간의 계명을 교훈으로 가르쳤고 구약성경이 가리키던 메시아 그리스도를 허무하게 숭상했다고 할 수 있겠습니다. 반면에 예수님이 하신 말씀에는 그 자체로 권위가 있었습니다. 왜냐하면 예수 그리스도야말로 권위의 원천이며 예수 그리스도야말로 하나님의 말씀 그 자체이기 때문입니다. 하나님의 말씀이신 예수님 그 자신에게 권위가 있다는 것을 오늘 꼭 기억해 주셨으면 합니다.

오늘도 또한 예수님은 성경을 통해서 그리고 성경의 풀이인 설교를 통해서 우리에게 말씀해 주십니다. 그러므로 우리는 성경 말씀을 통해 예수 그리스도의 말씀을 직접 들어야 합니다. 그러기 위해 말씀을 날마다 묵상하고 날마다 말씀을 모아가며 소가 우물우물 풀을 되새김질 하듯이 성경 말씀을 되새겨 봅시다. 리조이스(일본 그리스도 개혁파에서 발행하는 큐티 묵상 월간지)를 이용하는 것도 하나의 방법입니다. 말씀을 묵상하고 말씀을 되새기며 예수님께 직접 듣는 것이 중요하다는 것입니다. 쓰여진 성경이라는 것은 그 자체로 분명 하나님의 말씀이지만 그것은 글자일 뿐입니다. 예를 들어 성역이 하나님의 말씀이라고 해서 그 책이 우리를 보호해주는 것이 아닙니다. 성경책을 차에 놓아 두면 교통사고를 당하지 않는 것이 아닙니다. 아니면 성경을 예배당 건축 현장의 기초 부분에 묻는다 하더라도 아무런 효과를 기대할 수 없는 것입니다. 문서로 저장된 글자에 권위가 있는 것이 아니라 예수님 자신에게 권위가 있고 성경을 통해 예수님께서 직접 우리에게 말씀 해 주시는 그 말씀에 우리는 매일 귀를 귀울여야 하는 것입니다. 예수님은 오늘도 성경 말씀을 통해 우리에게 말씀하고 계시는 것입니다. 이어서 23~26절을 보겠습니다.

(2) 더러운 귀신을 몰아내는 권세

23 마침 그들의 회당에 더러운 귀신 들린 사람이 있어 소리 질러 이르되

24 나사렛 예수여 우리가 당신과 무슨 상관이 있나이까 우리를 멸하러 왔나이까 나는 당신이 누구인 줄 아노니 하나님의 거룩한 자니이다

25 예수께서 꾸짖어 이르시되 잠잠하고 그 사람에게서 나오라 하시니

26 더러운 귀신이 그 사람에게 경련을 일으키고 큰 소리를 지르며 나오는지라

이 더러운 귀신에 주목하면 귀신은 두 가지를 알고 있었다는 것을 알 수 있습니다. 하나는 나사렛 예수가 더러운 귀신들을 멸하러 오셨다는 것, 악령들이 가진 권세를 멸하러 오셨다는 것입니다. 이것은 요한일서 3장 8절에 「죄를 짓는 자는 마귀에게 속하나니 마귀는 처음부터 범죄함이라 하나님의 아들이 나타나신 것은 마귀의 일을 멸하려 하심이라」고 기록되어 있는 바와 같습니다.

그리고 또 하나는 나사렛 예수가 하나님의 성자라는 것입니다. 여기서 보충하자면, 이 더러운 귀신은 하나님을 알고 있었기 때문에 신앙을 가지고 있었느냐 하면 그런 것이 아닙니다. 왜냐하면 귀신은 「우리가 당신과 무슨 상관이 있나이까! 」라고 말하고 있기 때문입니다. 우리가 보통 “예수님을 믿는다” “하나님을 안다” 라고 하는 것은 예수님을 마음에 맞아들여 인격적인 관계를 맺는 것입니다. 예수님께 연합된다, 신랑과 신부의 관계가 된다, 하나님의 가족에 들어갈 수 있다라는 뜻이죠. 더러운 귀신이 하나님을 아는 것과는 정반대의 일입니다. 악령이 하나님을 안다는 것이 신앙이 있다는 것이 아니라는 것입니다.

예수님은 더러운 귀신의 예수님에 대한 증언을 일절 받아들이지 않습니다. 「잠잠하고 그 사람에게서 나오라」고 한마디 명령하시자 더러운 귀신은 그 사람에게 경련을 일으키게 하고 소리를 지르며 나갔습니다. 이것이 무슨 말이냐면 귀신이 가지고 있는 권위보다 예수님의 권위가 압도적으로 강했다는 것을 의미합니다.

악령축출라는 역사는 구약성경에서 유일하게 다윗이 사울왕에게 악령축출을 했다는 기사를 찾을 수 있는데 예수님 시대에는 보통 악귀를 몰아내는 마술사가 있었던 것 같습니다. 그리고 약한 영을 제거하기 위해 더 강한 영혼의 이름을 부르는 것이 필요하다고 생각되었습니다. 참고로 마가복음 9장 38절과 사도행전 19장 3절에는 다음과 같은 기록이 있습니다. 알아보겠습니다.

마가복음 9장

38 요한이 에수께 여짜오되 선생님 우리를 따르지 않는 어떤 자가 주의 이름으로 귀신을 내쫓는 것을 우리가 보고 우리를 따르지 아니하므로 금하였나이다

사도행전 19장

13 이에 돌아다니며 마술하는 어떤 유대인들이 시험삼아 악귀 들린 자들에게 주 예수의 이름을 불러 말하되 내가 바울이 전파하는 예수를 의지하여 너희에게 명하노라 하더라

이렇게 악령을 축출하는 마술사가 있었다는 것이죠. 이런 생각이 있었기 때문에 예수님이 악령에게 한마디만 명해도 악마가 나가는 것을 보았을 때 “세상에, 이 무슨 막강한 권위인가?”하고 사람들은 매우 놀랐던 것입니다. 그러고 보니 예수님은 공생애를 시작함에 있어 가정 먼저 광야에서 악령들의 우두머리인 사탄에게 승리하셨는데 지금 가버나움에서도 마찬가지로 악령들에게 압승하고 있는 모습을 보여주고 계십니다. 어둠 속의 세력과의 전투는 격렬하게 벌어지는 것이 아니라 참으로 어이가 없고 그저 한마디만 명령해도 악령들은 항복하는 것입니다. 그 예수님의 모습은 마치 「강한 자의 집에 들어가 그 세간을 강탈하는」 강탈자처럼 예수님이 묘사되어 있습니다. 즉 하나님의 나라는 현실에 압도적인 권위를 가지고 지금까지 사탄이 지배하던 이 세상에, 이 자리에 임하고 있다는 것입니다. 이 예수님이 우리와 함께 해주시니 우리는 어둠의 지배와 세력으로부터 해방되고 자유로워지는 것입니다.

또 하나, 이 사건이 안식일에 일어났다는 데에도 깊은 의미가 담겨 있었습니다. 원래 안식일이란 하나님의 은총을 맛보는 날이기 때문입니다. 즉 안식일이란 창세기에 적혀 있는 하나님의 6일간의 좋은 창조의 역사를 기억하는 날이었습니다. 동시에 하나님께서 애굽의 노예였던 이스라엘을 해방시켜 주셨다는 하나님의 구원의 역사, 즉 하나님의 재창조의 역사를 기억하는 날이었습니다. 그런 안식일 날 더러운 귀신에 사로잡힌 남자가 예수님의 말씀 한마디로 풀려났습니다. 이 예수님의 역사에 하나님의 나라가 바로 도래하고 있음을 상징적으로 볼 수 있는 것입니다. 마지막으로 1장 27,28절을 보시기 바랍니다.

(3) 이는 어찜이냐

27 다 놀라 서로 물어 이르되 이는 어찜이냐 권위 있는 새 교훈이로다 더러운 귀신들에게 명한즉 순종하는도다 하더라

28 예수의 소문이 곧 온 갈릴리 사방에 퍼지더라

가버나움의 사람들은 예수님의 교훈의 권위, 그리고 예수님의 더러운 귀신을 몰아내는 권위를 눈앞에서 보고 매우 놀랐습니다. 예수님의 평판은 금세 갈릴리 지방 구석구석까지 퍼져 나갔습니다. 사람들은 「이는 어찜이냐」라고 서로 논쟁을 벌였습니다. 도대체 어떻게 된 일일까요?

앞서 마가복음 1장 1절 설교에서 이 복음서 전체를 관통하는 주제가 두 가지 있다고 말씀드렸습니다. 하나는 “예수여, 당신은 도대체 누구십니까?”라는 물음입니다. 또 하나는 “하나님은 정말 살아계신가요?”라는 물음입니다. 이 복음서는 이 두 가지 주제를 붙들고 독자들이 읽어 나가도록 쓰여 있습니다. 이 두가지 물음은 오늘날 독자인 우리도 똑같이 붙들어야 하는 주제인 것입니다. “예수여, 당신은 도대체 누구십니까?” “하나님은 정말 살아계신가요?”라는 주제로 우리는 고민하고 생각해봐야 합니다. 나사렛 예수님은 하나님의 성자이시며, 그의 가르침과 그가 하는 말씀에는 악령을 몰아내는 압도적인 권위가 있다는 것을 인정할지 인정하지 않을지 우리 신앙의 결단과 응답이 요구되고 있는 것입니다.

결론

오늘 교회에 오신 여러분 모두가 부디 예수 그리스도를 마음에 영접함으로써 어둠의 지배에서 해방되고 자유로워지며 하나님의 깊은 평안이 찾아오길 기도합니다.

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