2021年09月05日「あなたたちに先立って進まれる神 너희보다 먼저 가시는 하나님」

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あなたたちに先立って進まれる神 너희보다 먼저 가시는 하나님

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 1章9節~33節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:9そのころ、わたしはあなたたちに言った。「わたしは、ひとりであなたたちの重荷を負うことはできない。
1:10あなたたちの神、主が人数を増やされたので、今やあなたたちは空の星のように数多くなった。
1:11あなたたちの先祖の神、主が約束されたとおり、更に、あなたたちを千倍にも増やして祝福されるように。
1:12しかし、どうしてひとりであなたたちの重荷、もめ事、争いを負えるだろうか。
1:13部族ごとに、賢明で思慮深く、経験に富む人々を選び出しなさい。わたしはその人たちをあなたたちの長としよう。」
1:14あなたたちがわたしに答えて、「提案されたことは結構なことです」と言ったので、
1:15わたしは、あなたたちの部族の長で、賢明な経験に富む人たちを選んで、彼らをあなたたちの長、すなわち千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とし、また、あなたたちの部族の役人とした。
1:16わたしはそのとき、あなたたちの裁判人に命じた。「同胞の間に立って言い分をよく聞き、同胞間の問題であれ、寄留者との間の問題であれ、正しく裁きなさい。
1:17裁判に当たって、偏り見ることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである。人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである。事件があなたたちの手に負えない場合は、わたしのところに持って来なさい。わたしが聞くであろう。」
1:18わたしはそのとき、これらすべてのことをあなたたちのなすべきこととして命じた。
1:19我々は神、主が命じられたとおり、ホレブをたち、あなたたちが見たあの広くて恐ろしい荒れ野を通り、アモリ人の山地に至る道を、カデシュ・バルネアまで来た。
1:20わたしが、「あなたたちは、我々の神、主が与えられたアモリ人の山地まで来た。
1:21見よ、あなたの神、主はこの土地をあなたに与えられた。あなたの先祖の神、主が仰せになったとおり、上って行って取りなさい。恐れてはならない。おののいてはならない」と言うと、
1:22あなたたちはそろってわたしのもとに来て、「まず人を派遣し、その土地を探らせ、我々がどの道を上り、どの町に行くべきか報告させましょう」と言った。
1:23それは名案だと思われたので、わたしは各部族から一人ずつ、合わせて十二人を選び出した。
1:24彼らは出発し、山地に上り、エシュコルの谷に着きそこを偵察し、
1:25その土地の果実を取って持ち帰り、「我々の神、主が与えてくださる土地は良い土地です」と報告した。
1:26しかし、あなたたちは上って行こうとはせず、あなたたちの神、主の命令に逆らって、
1:27天幕にとどまって不平を言い合った。「主は我々を憎んで、エジプトの国から導き出し、アモリ人の手に渡し、我々を滅ぼそうとしておられるのだ。
1:28どうして、そんな所に行かねばならないのだ。我々の仲間も、そこの住民は我々よりも強くて背が高く、町々は大きく、城壁は天に届くほどで、しかもアナク人の子孫さえも見たと言って、我々の心を挫いたではないか。」
1:29わたしはあなたたちに言った。「うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。
1:30あなたたちに先立って進まれる神、主御自身が、エジプトで、あなたたちの目の前でなさったと同じように、あなたたちのために戦われる。
1:31また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た。」
1:32こう言っても、あなたたちの神、主をあなたたちは信じなかったが、
1:33この方こそ、あなたたちの先頭に道を進み、あなたたちのために宿営の場所を探し、夜は火、昼は雲によって行く手を示された方である。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 1章9節~33節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 本日の箇所は、40年前の回想となります。大きく段落分けをしますと、裁判官の選出と、カデシュ・バルネア事件の前兆、カデシュ・バルネア事件の三つに分けられます。9~18節までは「裁判官の選出」があり、19~25節までは、カデシュ・バルネア事件の前兆として「偵察隊を送ることのアイディア」、26~33節までは「民が不信仰に陥る」カデシュ・バルネア事件という内容です。本日の箇所から、不信仰とは何かと言えば、それはおそらく、御言葉を軽んじること、御言葉を侮ることだと結論づけられるかもしれません。御言葉を軽んじること、御言葉を侮ることは、現代に生きる私たちの信仰生活の中でもしばしば起こることです。時々私たちは次のように考えてしまうかもしれません。

「御言葉は、そう言っているが、実際はこうかもしれない」

「聖書にはそう書いているが、誰もそれを、本気で信じていないではないか」といったような考え方です。つまり、神様の御言葉もより、私たちの見識、私たちの知恵、私たちの判断に重きを置いてしまうということです。御言葉を軽んじる考え方、御言葉を侮る考え方を不信仰と言います。私たちは、生まれながら御言葉に反逆するDNAが組み込まれていて、生まれながら罪に傾きやすく、イエス様を受け入れた後でも、信仰生活の中で度々このような「不信仰」が、にょこっと顔を出してくるのです。しかし、私たちが御言葉を信仰によって受け入れようが、不信仰によって御言葉を軽んじようが、神様の御言葉は必ず成就されます。なぜなら神は御言葉によって万物を創造なされ、御言葉によって被造物を治めているからです。私たちは、御言葉を大切にし、日々、この御言葉によって養われ、言葉と行いの全てが信仰によってなしてゆくことができるように祈り求めてまいりましょう。

こういう訳で申命記では、不信仰に傾きやすいイスラエルに対し、特に神の御言葉に従順することの大切さが強調されています。なぜ、そこまで御言葉の従順を強調するのかと言えば、それは、私たちは元来罪に傾きやすく、御言葉を軽んじる性質があるからです。これは消極的な理由といえるでしょう。もうひとつ積極的な理由として、御言葉の従順を強調されるその理由とは、天地万物の神が、イスラエルを全ての民族の中からお選びになり、ご自身の所有とされ、彼らと契約を締結してくださったからであります。つまり、神の所有とされたことの、その計り知れない祝福の意味をイスラエルは少しずつ学んでいく必要がありました。そのような意味合いから、本日お読みした1:31節ですとか、或いは申命記14:1において、イスラエルの民に「神の子」という呼称が使われています。「神の子」という言葉は、しばしば王に対して、或いは裁判官に対して使われ、メシアに対しても使われます。新約聖書では、霊によって新しく生まれた私たち教会に対して使われています。神の所有とされたイスラエル、神の子とされたイスラエル、神はこのイスラエルを宝の民として大事に守って下さり、慈しまれるのです。そしてイスラエルも、神の子に相応しく、全き者として、罪から離れ、世の光、地の塩として歩んで行かなければなりません。そのような理由から御言葉の従順が強調されるのです。

【1】. 御言葉の執行人としての裁判官

 1章12節を見ると、モーセが「どうしてひとりであなたたちの重荷、もめごと、争いを負えるだろうか」と嘆いています。これは言ってみれば、嬉しい悲鳴であると言えるでしょう。民の数が空の星のように多くなるというのは、アブラハムに約束された御言葉の成就であるからです。神はかつて、アブラハムに対して、 “「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」…「あなたの子孫はこのようになる。」”と創世記15:5で約束してくださいました。ヨセフがエジプトの総理大臣の時に、エジプトに寄留した70人のヤコブの家族が、出エジプトをした時には、成人男子だけで60万人に膨れ上がりました。家族所帯、全員(女子供)を含めるなら、およそ200万人程度と考えられるでしょう。そういった中で、部族ごとに賢明で思慮深く、経験に富む人々を選び出し、その人たちを裁判官に立てることにした訳です。ここで「裁判人」とは、一言で言えば神の御言葉の執行人である、と言えるでしょう。裁判人が立てられることによって、神の御言葉がイスラエル全体を支配するようにさせるためでした。1:16~17節をご覧ください。

“わたしはそのとき、あなたたちの裁判人に命じた。「同胞の間に立って言い分をよく聞き、同胞間の問題であれ、寄留者との間の問題であれ、正しく裁きなさい。裁判に当たって、偏り見ることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである。人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである。事件があなたたちの手に負えない場合は、わたしのところに持って来なさい。わたしが聞くであろう。」”

この箇所で、裁判は、イスラエル人同士の裁判であれ、イスラエル人と寄留者との裁判であれ、その人の容貌に一切関係なく、公正に裁かなければならないと書かれています。ここで気づかされるのは、出エジプトをした民の中にイスラエル民族だけではなく、寄留者とよばれる異邦人もいたと言うことです。出エジプト記12:37~38には次のような御言葉があります。

“イスラエルの人々はラメセスからスコトに向けて出発した。一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった。羊、牛など、家畜もおびただしい数であった。”

ここに、「種々雑多な人々」とありますね。つまり出エジプトをした群れの中には、異邦人も混じっていたということです。彼らは全員、イスラエルの男と同じように割礼を受けて神の子、神の民とされ、自由な身分にされました。

裁判は神に属するものですから、裁判を通して公義と正義が現わされなければなりません。貧しい者の訴えが無視されず、わいろによって裁判が曲げられてはならず、寄留者、未亡人、孤児が抑圧されることのないようにしなければなりません。つまり裁判官とは神に代わってその役割を担っているのです。民の中で長として立てられた裁判人は、神の御言葉の執行人であるということです。

【2】. 我々のための偵察隊

 さて、場面は変わり、いよいよカナンの南の玄関であるカデシュ・バルネアに到着しました。モーセは、イスラエルに号令を掛けます。申命記に戻りまして、1:21~25節をご覧ください。

“見よ、あなたの神、主はこの土地をあなたに与えられた。あなたの先祖の神、主が仰せになったとおり、上って行って取りなさい。恐れてはならない。おののいてはならない」と言うと、あなたたちはそろってわたしのもとに来て、「まず人を派遣し、その土地を探らせ、我々がどの道を上り、どの町に行くべきか報告させましょう」と言った。それは名案だと思われたので、わたしは各部族から一人ずつ、合わせて十二人を選び出した。彼らは出発し、山地に上り、エシュコルの谷に着きそこを偵察し、その土地の果実を取って持ち帰り、「我々の神、主が与えてくださる土地は良い土地です」と報告した。”

24節にエシュコルの谷とあります。エシュコルとは「ぶどうの房」という意味です。偵察隊の持ち帰って来た一房ぶどうの房があまりにも大きかったために、一房のぶどうを竿につるして二人で抱えながら戻ってきました(民13:23)。この偵察隊の姿を見てびっくり驚嘆した民は、この場所にエシュコルという名を付けました。ところで、この箇所の並行記事が民数記13章にございます。読み比べてみると民数記とはどこか少し違うようです。民数記13:1~3をご覧ください。

“主はモーセに言われた。「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい。父祖以来の部族ごとに一人ずつ、それぞれ、指導者を遣わさねばならない。」モーセは主の命令に従い、パランの荒れ野から彼らを遣わした。彼らは皆、イスラエルの人々の長である人々であった。”

二つの記事において決定的に異なる点は、偵察隊を遣わそうとしたのが、果たして神の提案であったのか、民の提案であったのかということです。民数記では神によって指示されていますが、申命記ではまず、民がモーセに提案し、モーセが受け入れたとなっています。選び出された者たちは十分に訓練されていて、賢明で、思慮深く、経験に富む者たちであったのでしょう。申命記の1:22節の民の言葉は、岩波書店の翻訳が直訳に近いので、抜粋させていただきました。ご覧ください。

“…「われわれの前に男たちを遣わし、われわれのために彼らにその地を探らせ、われわれが上るべき道とわれわれが行くべき町について、復命させて下さい。」”

これを見ると「我々」という単語が何度も出てくるのに気づかされます。我々が、我々が、我々が、私が、私が、私がと、自分ファーストになっているということです。そして極めつけとして、最後の「復命させてください。」という言葉に注目しますと、これは偵察隊によって私たちに「言葉、即ち、ダバルを持ち帰らせてください。」となっています。つまり、イスラエルの民は神の御言葉により頼むのではなく、偵察隊の言葉により頼もうとしているのです。

ホレブ山を出発した後、カデシュ・バルネアに至るまで、短い間にイスラエルの民が御言葉に信頼しなかったのは、このカデシュ・バルネア事件が初めてではありませんでした。それ以前から継続して反逆し続けていました。例えば、荒れ野において肉を食べたいと不平をこぼしたり(民11:4~5)、ミリアムとアロンまでもモーセの預言職を否定し(民12:1~2)、自分たちも神の御言葉を取り次ぐことができると反抗し、モーセを通して語られた神の御言葉を軽んじました。そして今回も、案の定、偵察隊の報告は、「約束の地は確かに良い土地です。」と認めながらも、民を不信仰へ導く報告をして、神の御言葉を軽んじました。1:26~28節をご覧ください。

“しかし、あなたたちは上って行こうとはせず、あなたたちの神、主の命令に逆らって、天幕にとどまって不平を言い合った。「主は我々を憎んで、エジプトの国から導き出し、アモリ人の手に渡し、我々を滅ぼそうとしておられるのだ。どうして、そんな所に行かねばならないのだ。我々の仲間も、そこの住民は我々よりも強くて背が高く、町々は大きく、城壁は天に届くほどで、しかもアナク人の子孫さえも見たと言って、我々の心を挫いたではないか。」”

一体どのようにしたら、このような不信仰な言葉が出てくるのだろうかと思われますが、実際、このような不信仰に傾きやすい姿こそ、私たちの本当の姿であるということでしょう。また、本来、賢明で思慮深く経験に富む者たちとして選ばれた、長としての偵察隊は、神の御言葉の執行人として、立てられたはずですが、ここでは反対に機能しているのです。

【3】. 不信仰に陥る民

 28節の御言葉に、カナンの地に「アナク人の子孫がいた」とありますが、アナク人とはネフィリム、巨人の子孫とみなされていて、彼らは背が高く、また城壁で囲まれた強大な町を擁していました。イスラエルの民は、神の御言葉よりも偵察隊の言葉を信じ、不平をこぼし始めました。モーセは何とか、動揺した民が信仰に踏みとどまることができるように説得しますが、もはや民は聞く耳を持ちません。29~33節をご覧ください。

“わたしはあなたたちに言った。「うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたたちに先立って進まれる神、主御自身が、エジプトで、あなたたちの目の前でなさったと同じように、あなたたちのために戦われる。また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た。」こう言っても、あなたたちの神、主をあなたたちは信じなかったが、この方こそ、あなたたちの先頭に道を進み、あなたたちのために宿営の場所を探し、夜は火、昼は雲によって行く手を示された方である。”

ここで、「あなたたちに先立って進まれる神」という言葉が30節と33節に二回繰り返されていることに注目してください。神様は荒れ野において、昼は直射日光を避けるために雲の柱となられ、夜は寒さをしのぐために火の柱となられ、民に先立って導いてくださいました。そして今、神様は、イスラエルの民が自分たちの偵察隊を派遣するよりも、先だって、約束の地をすみずみまで調べられておられるのです。ですからイスラエルの民にとって真の偵察隊は、主ご自身であられるのです。そもそも、カナンの原住民よりイスラエルの民が、文化的に優れていたからだとか、或いはイスラエルの民が、より強靭な民族であったから約束の地を得られるのでありません。神の一方的な恵みによって、ただ神のご計画によって与えられるのです。

イスラエルと契約を結ばれた神は、これまでも、イスラエルの目に強大に見えたあのエジプトから、神ご自身が先だって進んでくださり、救い出してくださいました。今回も、たとえ、イスラエルの民の目に敵が強大に見えても、主は民の前を先立って、父が子を背負うようにイスラエルの民を背負ってくださるに違いありません。天地万物の神が、イスラエルを、全ての民族の中からお選びになり、ご自身の所有とされ、神の子として守り導いてくださるからです。イスラエルは不信仰の失敗を通して、40年の代償を払いながらそのことの意味を少しずつ学んで行きました。新約時代に生きる私たちも、同じく契約の民として、神の愛の中に生かされています。私たちをご自身の所有としてくださり、神の子としてくださる、その契約の中に入れられていること、そのこと自体に、私たちは何よりも感謝を捧げてまいりましょう。

【結論】

 私たちの信仰とは、「私たちに先立って進まれる神様」であり、愛なる神様こそ私たちの偵察隊であるということです。ですから神様の御言葉に全面的に信頼し、依り頼みつつ、歩んでいく者とさせていただきましょう。神の御言葉は必ず成就されます。私たちは、御言葉を軽んじることなく、大切にし、日々、この御言葉に養われ、私たちの言葉と行いの全てが信仰によってなしてゆくことができるように祈り求めてまいりましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

너희보다 먼저 가시는 하나님

2021년 9월 5일 센겐다이 교회 주일설교

서론

오늘의 구절은 40년 전의 회상입니다. 크게 단락을 나누면 재판장의 선출과 가데스 바네아 사건의 전조, 가데스 바네아 사건, 이렇게 세 가지로 나눌 수 있습니다. 9-18절까지는 「재판장의 선출」이 있었고 19-25절까지는 가데스 바네아 사건의 전조로 「정탐대를 보내는 아이디어」, 26-33절까지는 「백성이 불신앙을 저지르는」가데스 바네아 사건이라는 내용입니다. 오늘 시점에서 불신앙이란 무엇인가 하면, 그것은 아마도 말씀을 가볍게 여기는 것, 말씀을 얕보는 것이라고 결론 지을지도 모릅니다. 말씀을 가볍게 여기는 것, 말씀을 얕보는 것은 현대에 사는 우리의 믿음 생활 가운데서도 종종 일어나는 일입니다. 때때로 우리는 다음과 같이 생각하게 될지도 모릅니다.

“말씀은 그렇게 말하지만 실제는 다를지도 몰라”

“성경에는 그렇게 쓰여 있지만 아무도 그것을 진심으로 믿지 않는 것이 아닌가?”라고 하는 생각입니다. 즉 하나님의 말씀보다도 우리들의 식견, 우리들의 지혜, 우리들의 판단에 무게를 둔다는 것입니다. 말씀을 가볍게 여기는 사고방식, 말씀을 얕보는 사고방식을 불신앙이라고 합니다. 우리는 태어날 때부터 말씀에 반역하는 DNA가 들어 있어 선천적으로 죄에 기울기 쉽고 예수님을 믿고 난 뒤에도 믿음생활 속에서 종종 이런 불신앙이 불쑥 불쑥 얼굴을 내밀게 됩니다. 그러나 우리가 말씀을 믿음으로 받아들이든 불신앙으로 말미암아 말씀을 가벼이 여기든 하나님의 말씀은 반드시 성취됩니다. 왜냐하면 하나님은 말씀으로 만물을 창조하시고 말씀으로 피조물을 다스리시기 때문입니다. 우리는 말씀을 소중히 여기고 날마다 이 말씀으로 양육되고 말과 행실 모두가 신앙으로 이루어 갈 수 있도록 기도하면서 나아갑시다.

이런 이유로 신명기에서는 불신앙에 빠지기 쉬운 이스라엘에 대해 특히 하나님의 말씀에 순종하는 것의 중요성이 강조되고 있습니다. 왜 그렇게까지 말씀에의 순종을 강조하느냐 하면, 그것은 우리가 원래 죄에 기울기 쉽고 말씀을 가볍게 여기는 성질이 있기 때문입니다. 이것은 소극적인 이유라고 할 수 있습니다. 또 한 가지 적극적인 이유로 말씀에의 순종을 강조하시는 그 이유는 천지 만물을 지으신 하나님께서 이스라엘을 모든 민족 가운데 선택하셔서 자신의 소유로 삼으시고 그들과 언약을 맺으셨기 때문입니다. 즉, 하나님의 소유가 된 것의 그 측량할 수 없는 축복의 의미를 이스라엘은 조금씩 배워야 할 필요가 있었기 때문입니다. 그런 의미에서 오늘 읽은 1장 31절에서「자기의 아들」이라든가 아니면 신명기 14장 1절에서 이스라엘 백성들에게 「여호와의 자녀」라는 호칭이 사용되고 있습니다. 「자기의 아들」,「여호와의 자녀」라는 말은 종종 왕에 대해서 혹은 재판장에 대해서 쓰여지고 메시아에 대해서도 사용되어 집니다. 신약성경에서는 영에 의해서 새롭게 탄생한 우리들 교회에 대해서 사용되고 있습니다. 하나님의 소유가 된 이스라엘, 여호와의 자녀가 된 이스라엘, 하나님은 이 이스라엘을 보화 같은 백성으로 소중히 지켜 주시고 그 백성에게 자비로우십니다. 그리고 이스라엘도 여호와의 자녀 답게 완전한 자로서 죄로부터 멀어지고 세상의 빛과 소금으로서 살아야 하는 것입니다. 그런 이유로 말씀에 대한 순종이 강조되는 것입니다.

(1) 말씀의 집행인으로서의 재판장

1장 12절을 보면 모세가 「나 홀로 어찌 능히 너희의 괴로운 일과 너희의 힘겨운 일과 너희의 다투는 일을 담당할 수 있으랴」고 한탄하고 있습니다. 이것은 말하자면 기쁜 비명이라고 할 수 있습니다. 백성의 수가 하늘의 별처럼 많아졌다는 것은 아브라함에게 약속하신 말씀의 성취이기 때문입니다. 하나님은 일찍이 아브라함에게 「하늘을 우러러 뭇별을 셀 수 있나 보라」,「네 자손이 이와 같으리라」라고 창세기 15장 5절에 약속해 주셨습니다. 요셉이 애굽에서 총리대신이었을 때 애굽에 기류한 70명의 야곱의 가족이 출애굽을 했을 때에는 성인 남자만 60만명으로 불었습니다. 가족 세대, 전원(여자와 아이)를 포함한다면 약 200만명 정도라고 생각할 수 있을 것입니다. 그런 가운데 부족마다 현명하고 사려 깊고 경험이 풍부한 사람을 선출해서 그 사람들을 재판장으로 세우기로 한 것입니다. 여기서「재판장」이란 한 마디로 하나님의 말씀의 집행인이라고 할 수 있습니다. 재판장이 세워짐으로써 하나님의 말씀이 이스라엘 전체를 다스리게 하기 위함이었습니다. 1장 16-17절을 참조하십시오.

16 내가 그 때에 너희의 재판장들에게 명하여 이르기를 너희가 너희의 형제 중에서 송사를 들을 때에 쌍방간에 공정히 판결할 것이며 그들 중에 있는 타국인에게도 그리 할 것이라

17 재판은 하나님께 속한 것인즉 너희는 재판할 때에 외모를 보지 말고 귀천을 차별 없이 듣고 사람의 낯을 두려워하지 말 것이며 스스로 결단하기 어려운 일이 있거든 내게로 돌리라 내가 들으리라 하였고

이 구절에서 재판은 이스라엘인끼리의 재판이든 이스라엘인과 타국인들과의 재판이든 그 사람의 외모에 일절 관계없이 공정하게 판결해야 한다고 적혀 있습니다. 여기서 깨닫게 되는 것은 출애굽을 한 백성 중에 이스라엘 민족 뿐만 아니라 타국인이라고 불이는 이방인도 있었다는 것입니다. 출애굽기 12장 37-38절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다.

37 이스라엘 자손이 라암셋을 떠나서 숙곳에 이르니 유아 외에 보행하는 장정이 육십만 가량이요

38 수많은 잡족과 양과 소와 심히 많은 가출이 그들과 함께 하였으며

여기에 「수많은 잡족」이라고 쓰여 있네요. 즉 출애굽을 한 무리 중에는 이방인도 섞여 있었다는 것입니다. 그들은 모두 이스라엘 남자와 마찬가지로 할례를 받고 하나님의 아들, 하나님의 백성으로 여겨져 자유로운 신분이 되었습니다.

재판은 하나님께 속한 것이므로 재판을 통해서 공의와 정의가 드러나지 않으면 안됩니다. 가난한 자의 호소가 무시되지 않고 뇌물에 의해서 재판이 왜곡되어서도 안 되며 타국인 과부, 고아가 억압받는 일이 없도록 해야 합니다. 즉 재판장이라고 하는 것은 하나님을 대신하여 그 역할을 담당하고 있는 것입니다. 백성 가운데 장으로서 새워진 재판인은 하나님 말씀의 집행인이라는 것입니다.

(2) 우리를 위한 정탐대

그런데 장면이 바뀌어 드디어 가나안 남쪽 현관인 가데스 바네아에 도착했습니다. 모세는 이스라엘에게 구령을 내립니다. 신명기로 돌아가서 1장 21-25절을 보시겠습니다.

21 너희의 하나님 여호와께서 이 땅을 너희 앞에 두셨은즉 너희 조상의 하나님 여호와께서 너희에게 이르신 대로 올라가서 차지하라 두려워하지 말라 주저하지 말라 한즉

22 너희가 다 내 앞으로 나아와 말하기를 우리가 사람을 우리보다 먼저 보내어 우리를 위하여 그 땅을 정탐하고 어느 길로 올라가야 할 것과 어느 성읍으로 들어가야 할 것을 우리에게 알리게 하자 하기에

23 내가 그 말을 좋게 여겨 너희 중 각 지파에서 한 사람씩 열둘을 택하매

24 그들이 돌이켜 산지에 올라 에스골 골짜기에 이르러 그 곳을 정탐하고

25 그 땅의 열매를 손에 가지고 우리에게로 돌아와서 우리에게 말하여 이르되 우리의 하나님 여호와께서 우리에게 주시는 땅이 좋더라 하였느니라

24절에 에스골 골짜기라고 쓰여져 있습니다. 에스골은 “포도송이”라는 뜻입니다. 정찰대가 가져온 한 개의 포도송이가 워낙 커서 두 명이서 포도 한 송이를 막대기에 꿰어 메고 돌아왔습니다. (민수기 13장 23절) 이 정탐대의 모습을 보고 깜짝 놀란 백성들은 이곳에 에스골이라는 이름을 붙였습니다. 그런데 이 부분의 병행 기사가 민수기 13장에 있습니다. 비교해보니 민수기와는 어딘가 조금 다른 것 같아요. 민수기 13장 1-3절을 참조하세요.

1 여호와께서 모세에게 말씀하여 이르시되

2 사람을 보내어 내가 이스라엘 자손에게 주는 가나안 땅을 정탐하게 하되 그들의 조상의 가문 각 지파 중에서 지휘관 된 자 한 사람씩 보내라

3 모세가 여호와의 명령을 따라 바란 광야에서 그들을 보냈으니 그들은 다 이스라엘 자손의 수령 된 사람이라

두 기사에서 결정적으로 다른 점은 정찰대를 보내려고 한 것이 과연 하나님의 제안이었는가, 백성의 제안이었는가 입니다. 민수기에서는 하나님에 의해서 지시되었지만 신명기에서는 먼저 백성들이 모세에게 제안해서 모세가 그 제안을 좋게 여겼다고 기록 되어있습니다. 선발된 자들은 충분히 훈련되어 있고 현명하며 사려 깊고 경험이 풍부한 자들이었을 것입니다. 신명기 1장 22절의 백성들의 말에는 「우리」 라는 단어가 자꾸 나오는 것을 보게 됩니다. 우리가, 우리보다, 우리를, 우리에게 즉, 자신을 우선시 하고 있다는 것입니다. 그리고 궁극적으로 마지막에 「알리게 하자」라는 말에 주목해 보면 이것은 정탐대가 우리들에게 「말 즉, 다바르 (“말하다”라는 뜻의 히브리어)를 가지고 돌아가게 해주십오」라고 되어 있습니다. 즉, 이스라엘 백성은 하나님의 말씀에 의지하는 것이 아니라 정탐대의 말에 의지하려고 하는 것입니다.

호렙산을 출발한 뒤 가데스 바네아에 이르기까지 짧은 시간 동안 이스라엘 백성들이 말씀을 신뢰하지 않은 것은 이 가데스 바네아 사건이 처음은 아니었습니다. 그 이전부터 계속 반역하고 있었습니다. 예를 들어 광야에서 고기를 먹고 싶다고 불평하거나 (민수기 11장 4-5절) 미리암과 아론까지도 모세의 예언직을 부정하고 (민수기 12장 1-2절) 자신들도 하나님의 말씀을 직접 들을 수 있다고 반항하며 모세를 통해서 선포되어진 하나님의 말씀을 가볍게 여겼습니다. 그리고 이번에도 아니나 다를까 정탐대의 보고는「우리에게 주시는 땅이 좋더라」라고 인정하면서도 백성들을 불신앙으로 인도하는 보고를 하여 하나님의 말씀을 가볍게 여겼습니다. 1장 26-28절을 참조하십시오.

26 그러나 너희가 올라가기를 원하지 아니하고 너희의 하나님 여호와의 명령을 거역하여

27 장막 중에서 원망하여 이르기를 여화와께서 우리를 미워하시므로 아모리 족속의 손에 넘겨 멸하시려고 우리를 애굽 땅에서 인도하여 내셨도다

28 우리가 어디로 가랴 우리의 형제들이 우리를 낙심하게 하여 말하기를 그 백성은 우리보다 창대하며 그 성읍들은 크고 성곽은 하늘에 닿았으며 우리가 또 거기서 아낙 자손을 보았노라 하는도다 하기로

도대체 어떻게 하면 이런 불신의 말들이 나올 수 있을까 싶은데 사실 이런 불신으로 기울기 쉬운 모습이야말로 우리의 진짜 모습이라는 겁니다. 또 본래 현명하고 사려 깊고 경험이 많은 사람들로 선발된 정탐대는 하나님의 말씀의 집행인으로 세워졌을 텐데 여기서는 반대로 기능하고 있는 것입니다.

(3) 불신앙에 빠지는 백성

28절 말씀에 가나안 땅에 「아낙 자손이 있었다」라고 되어 있는데 아낙 자손이란 네피림, 거인의 자손으로 간주되어서 그들은 키가 크고 성벽으로 둘러싸인 강대한 마을을 가지고 있었습니다. 이스라엘 백성은 하나님의 말씀보다도 정탐대의 말을 믿고 불평하기 시작했습니다. 모세는 어떻게든 동요한 백성이 믿음을 지킬 수 있도록 설득하지만 더 이상 백성들은 들을 귀를 가지고 있지 않았습니다. 29-33절을 보십시오.

29 내가 너희에게 말하기를 그들을 무서워하지 말라 두려워하지 말라

30 너희보다 먼저 가시는 너희의 하나님 여호와께서 애굽에서 너희를 위하여 너희 목전에서 모든 일을 행하신 것 같이 이제도 너희를 위하여 싸우실 것이며

31 광야에서도 너희가 당하였거니와 사람이 자기의 아들을 안는 것 같이 너희의 하나님 여호와께서 너희가 걸어온 길에서 너희를 안으사 이 곳까지 이르게 하셨느니라 하니

32 이 일에 너희가 너희의 하나님 여호와를 믿지 아니하였도다

33 그는 너희보다 먼저 그 길을 가시며 장막 칠 곳을 찾으시고 밤에는 불로 낮에는 구름으로 너희가 갈 길을 지시하신 자이시니라

여기서 「너희보다 먼저 가시는 너희의 하나님」이라는 말이 30절과 33절에 두 번이나 반복되고 있음을 주목해 보시기 바랍니다. 하나님은 광야에서 낮에는 직사광선을 피하기 위해 구름 기둥으로 그들의 길을 인도하셨고 밤에는 추위를 이겨내게 하기 위해 불 기둥을 그들에게 비추사 백성들 보다 먼저 가셨습니다. 그리고 지금 하나님께서는 이스라엘 백성들이 자신들의 정탐대를 파견하는 것 보다 먼저 가셔서 약속한 땅을 샅샅이 뒤지고 계십니다. 그래서 이스라엘 백성들에게 진정한 정탐대는 주님 자신인 것입니다. 애초에 가나안 원주민 보다 이스라엘 백성이 문화적으로 우월했기 때문이라든가 아니면 이스라엘 백성이 더 강인한 민족이었기 때문에 약속의 땅을 얻을 수 있는 것이 아닙니다. 하나님의 일방적인 은혜에 의해서 오직 하나님의 계획에 의해서 주어지는 것입니다.

이스라엘과 언약을 맺은 하나님은 그동안 이스라엘의 눈에 강대해 보였던 그 애굽에서도 하나님이 먼저 가셔서 행하셨고 구출해 주셨습니다. 이번에도 비록 이스라엘 백성들의 눈에는 적이 강대해 보이더라도 주께서는 백성들 보다 먼저 가셔서 아버지가 자식을 업듯이 이스라엘 백성을 업어 주실 것이 틀림없습니다. 천지만물을 지으신 하나님께서 이스라엘을 모든 민족 중에서 선택하시어 자신의 소유로 삼으시고 하나님의 아들로 지켜 주시고 인도해 주시기 때문입니다. 이스라엘은 불신앙의 실패를 통해 40년의 대가를 치르면서 그 의미를 조금씩 배워갔습니다. 신약 시대에 사는 우리 역시 언약 백성으로서 하나님의 사랑 속에서 살아가고 있습니다. 하나님의 자녀로 삼아주시는 그 언약 가운데 속해 있는 것, 그 자체에 우리는 무엇보다도 감사를 드리십시다.

결론

우리의 믿음이란 「우리보다 먼저 가시는 하나님」을 믿는 것이고, 사랑이신 하나님이야말로 「우리들의 정탐대」라는 것을 믿는 것입니다. 그러므로 하나님의 말씀을 전적으로 신뢰하고 의지하며 걸어가는 자가 됩시다. 하나님의 말씀은 반드시 성취됩니다. 우리는 말씀을 가볍게 여기지 말고 소중히 여기며 날마다 이 말씀으로 양육을 받고 우리의 말과 행실 모두가 믿음에 의해서 이루어질 수 있도록 기도해 나갑시다.

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