2021年08月29日「重ねて律法を説き明かすモーセ 거듭해서 율법을 설명하는 모세」

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重ねて律法を説き明かすモーセ 거듭해서 율법을 설명하는 모세

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 1章1節~8節

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1:1モーセはイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた。それは、ヨルダン川の東側にある荒れ野で、一方にパラン、他方にトフェル、ラバン、ハツェロト、ディ・ザハブがあるスフに近いアラバにおいてであった。
1:2ホレブからセイルの山地を通って、カデシュ・バルネアまでは十一日の道のりである。
1:3第四十年の第十一の月の一日に、モーセは主が命じられたとおり、すべてのことをイスラエルの人々に告げた。
1:4モーセがヘシュボンに住むアモリ人の王シホンを撃ち、アシュタロトに住むバシャンの王オグをエドレイで撃った後のことであった。
1:5モーセは、ヨルダン川の東側にあるモアブ地方で、この律法の説き明かしに当たった。
1:6我々の神、主はホレブで仰せになった。「あなたたちは既に久しくこの山にとどまっている。
1:7向きを変えて出発し、アモリ人の山地に行き、更にその近隣地方、すなわちアラバ、山地、シェフェラ、ネゲブ、沿岸地方に行きなさい。更にカナン人の土地、レバノン山、大河ユーフラテスにまで行きなさい。
1:8見よ、わたしはあなたたちにこの土地を与える。」あなたたちは行って、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに、彼らとその子孫に与えると誓われた土地を取りなさい。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 1章1節~8節

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【序】

 本日から、新しく旧約聖書の申命記に入ります。新約聖書で旧約聖句がたくさん引用されていますが、最も引用が多い書物がこの申命記になります。もしかしたら意外に思われるかもしれません。例えばイザヤ書や、詩編や、創世記の方がもっと多いのでは、と思われるかもしれませんが、申命記が最も多く、80回以上も引用されています。イエス様が荒れ野でサタンに誘惑された時も、全て申命記の御言葉によって対抗し勝利されました。このモーセ五書の五番目の書物である申命記とは、一体どんな書物なのかというと、「申命記」というタイトルにその意味が如実に表れていると思います。申という言葉は、申し上げるという言葉ですが、「重ねて」とか「繰り返し」という意味が含まれています。つまり「重ねて戒めが語られた書」というのが申命記の意味です。英語では「Deuteronomy」というタイトルで、70人訳聖書のタイトルから付けられています。Deuterが「二番目の」という意味で、nomosが「律法」という意味ですから、「二番目の律法」という意味になります。しかし、実際、「二番目の律法」というのは誤ったタイトルでしょう。モーセは新しい律法を語っているわけではないからです。ですから、英語のタイトルより、漢字の「申命記」の方が、タイトルとしては相応しいと思われます。ちなみにヘブライ語の聖書では、1:1からの言葉を取って、「エレ ハ デバリーム(これが、御言葉である)」というタイトルが付けられています。

【1】. 申命記は契約の書物

 申命記とは、どんな書物なのかといえば、第一に、それは契約について書かれている書物であると言うことができるでしょう。イスラエルの民は、契約という思想をほとんど持ち合わせていませんでした。彼らは神様が天地万物の神として、イスラエルを全ての民族の中からお選びになり、ご自身の所有とされ、彼らと契約を締結してくださったというその意味を、ほとんど理解することができませんでした。その莫大な価値を理解することが出来ませんでした。

正直、イスラエルにとってヤハウェなる神とは、エジプト人の「ラー」、モアブ人の「ケモシュ」、ペリシテ人の「ダゴン」と似たような存在であったのです。そのような無知な民に、「契約に対する神様の信実さ」を教えてくれるのが、申命記であります。たとえ、イスラエルの民が不信実であったとしても、神は信実なお方であるということです。イスラエルの民がカナンの原住民と比較して、能力があるために、優れていたために、カナンの地に入植することができるということではありません。また、イスラエルの第二世代が、第一世代と比較して何か優れているから、カナンの地に入ることが出来るということでもありません。確かに第一世代は大きな罪を犯しましたが、悔い改め、神様との関係を回復し、ヨルダン川の東の地域をガド族とルベン族とマナセの半部族に、嗣業の地として与えられました。依然として、ヨルダン川を越えて約束の地へ入っていくことはかないませんが、東側の領土を与えられたことによって、神様はきっとカナンの地も与えてくださる、約束を成就してくださる、という信仰を持ちながら、第一世代は死んでいったに違いありません。たとえ罪を犯したとしても、神様との関係を回復した者たちは、天国に入ることが許されるのです。土地が与えられるかどうかより、御言葉を信じて受け入れることが、より大切であるということです。

申命記を読み進んでいきますと(これからの内容ですが)、不思議な書物であり、預言的な内容が多く書かれています。そのため、ヨシュア記や、士師記、サムエル記、列王記の序論としての性格を持っていることに気づかされます。それだけでなく、ホセア書、アモス書、エレミヤ書など、後期の預言書とも、相通じる内容がたくさん出てきます。このように申命記は預言的な性格をもっているため、この後に書かれた歴史書物を理解する鍵を提供してくれます。そして、しばしばモーセは「預言者の中の原型」、「預言者のひな型」であると言われます。とにかく現在の出来事を紐解くカギが、申命記に隠されているということです。これは神様が以前、語られた、その契約の信実さの現れであると言えるでしょう。ヤハウェなる神を信じる民は、神の契約の中に入れられているその恵みを少しずつ知るようになり、神様の信実さをその都度思い知らされて、他の神々を信じる諸国民の民とは倫理的な面で、少しずつでありますが、違いを見せるようになっていったのであります。

【2】. 申命記はモーセの告別説教であるモアブの地に至るまでの経緯

 申命記とは、どんな書物かといえば、第二に、それはモーセの告別説教であると言うことができるでしょう。申命記の1:5をご覧ください。

“モーセは、ヨルダン川の東側にあるモアブ地方で、この律法の説き明かしに当たった。”

ここで、モーセはモアブ地方において「説き明かしに当たった」ということですが、つまり40年前に宣言した律法を再び、ここで解説しているということです。ですから、これまでの出エジプト記から、レビ記、民数記までに書かれている事柄を思い起こしながら、特にモーセの視点から、民に御言葉をもう一度念押しをしているということです。モーセは間もなく死ぬことになり、指導者をヨシュアに託して、モーセ自身はカナンの地に入ることはできません。ですから、申命記とは、モーセの長い告別説教だと言えるでしょう。申命記には、場所的な移動は一切ありません。前のページの民数記の一番の最後の箇所である、36章13節を見ると、

“以上は、エリコに近いヨルダン川の対岸にあるモアブの平野で、主がモーセを通してイスラエルの人々に命じられた命令と法である。”

「モアブの平野で」と書かれていますね。このモアブの場所とは、カナンの地に入る東の玄関だと考えてください。つまり、もうちょっとでカナンに入ることができますが、カナンに入る直前に、モアブの地において語られた、モーセの告別説教であるということです。続いて、1:1~4節までご覧ください。

“モーセはイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた。それは、ヨルダン川の東側にある荒れ野で、一方にパラン、他方にトフェル、ラバン、ハツェロト、ディ・ザハブがあるスフに近いアラバにおいてであった。ホレブからセイルの山地を通って、カデシュ・バルネアまでは十一日の道のりである。第四十年の第十一の月の一日に、モーセは主が命じられたとおり、すべてのことをイスラエルの人々に告げた。モーセがヘシュボンに住むアモリ人の王シホンを撃ち、アシュタロトに住むバシャンの王オグをエドレイで撃った後のことであった。”

地図をご覧ください。カデシュ・バルネアという場所を確認できますでしょうか。ネゲブの荒れ野の下にございます。カデシュ・バルネアとはカナンの地の南の玄関です。ホレブの山からカデシュ・バルネアまでが11日の道のりであると書かれていますね。ホレブ山とはシナイ山の別名です。このカデシュ・バルネアで一体、何が起こったのでしょうか。それはこの時から38年前にさかのぼります。カデシュ・バルネアからカナンの地へ偵察隊を送った後に、約束の地カナンに一気に攻め上ろうとしましたが、偵察隊が帰ってきて、カナンの原住民に比べたら自分たちはイナゴのように見えたと報告しました。そして神の御言葉を拒絶し、不信仰によってカナンに攻め上ることを躊躇した事件であります。カデシュ・バルネア事件です。ここで、カデシュ・バルネア事件を脇に置いておいて、イスラエルがそこへ到着した経緯を振り返ってみましょう。イスラエルの民はエジプトのゴシェンの地から出エジプトをしました。この出エジプトを記念し、出エジプトをしたその月を第一年の正月と定めました。実際に出エジプトをしたのは、その月の15日の夜であると書かれています。出エジプト記12:2、12:6-7の御言葉をご覧ください。

“「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。”

“それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。”

日が暮れて、日付が15日に変わってから、イスラエルの民は準備していた子羊をほふり、その血を柱と鴨居に塗り、夕食を取ってから、出エジプトをしました。彼らは、シナイ半島を南下し、第三の月の1日にシナイ山に到着したということが出エジプト記19:1に書かれています。ご覧ください。

“イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した。”

ですからエジプトからシナイ山まで、かかった日数は正確に言うなら、45日かかったという計算になります。エジプトを出発したのが、1月の15日ですね。3月1日にシナイ山に到着したので、かかった日数は60日マイナス15日で45日、出エジプトからシナイ山への道のりは45日かかったということです。その後、しばらくの間、シナイ山、つまりホレブ山に滞在します。十戒を頂き、神様とイスラエルの民は契約を結びました。ホレブという言葉の意味は「荒廃した」という意味ですが、その意味とは反対にイスラエルの民は、この場所で神様と深く交わり、礼拝を捧げ、素晴らしい時間を過ごしました。たとえ環境は荒廃していても、主が臨在されるなら、喜びと感謝の場所になるのです。モーセは当時のことを回想しています。申命記の1:6~8をご覧ください。

“我々の神、主はホレブで仰せになった。「あなたたちは既に久しくこの山にとどまっている。向きを変えて出発し、アモリ人の山地に行き、更にその近隣地方、すなわちアラバ、山地、シェフェラ、ネゲブ、沿岸地方に行きなさい。更にカナン人の土地、レバノン山、大河ユーフラテスにまで行きなさい。見よ、わたしはあなたたちにこの土地を与える。」あなたたちは行って、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに、彼らとその子孫に与えると誓われた土地を取りなさい。”

アモリ人とはカナンの地の原住民です。神様は、カナンの地に向けて「いざ出発せよ」とお命じになられました。いよいよ、イスラエルの民が北上し始めました。この時が出エジプトをして二年目であったということが、民数記10:11-12に書かれています。ご覧ください。

“第二年の第二の月の二十日のことであった。雲は掟の幕屋を離れて昇り、イスラエルの人々はシナイの荒れ野を旅立った。”

シナイ山で二年ほど滞在しそれから、命令を受けて北上を始めたのです。ここから11日の道のりを経て、カデシュ・バルネアに到着したのですが、ところが、民の不従順によってカデシュ・バルネア事件が起こり、カナンに入植する道が閉ざされてしまいました。それ以来、四十年と十一か月の時を迎えて、現在に至っているとモーセは言っているのです。

【3】. 重ねて律法を説き明かした理由

 この時のモーセの気持ちはどんな気持ちだったでしょうか。恐らく、決して忘れることのできない、苦々しい過去だと思ったことでしょう。悔しい思いで一杯だったに違いありません。モーセがイスラエルの民に重ねて律法を説き聞かせるその理由というのも、まさに過去の失敗に目を向けさせるためであったと言えるのではないでしょうか。過去から目を背けるのではなく、過去を正しく記憶し、二度と同じ失敗をしないようにということです。

例えば高速道路で、事故や工事などによって渋滞にはまったといたします。普段であれば車で一時間ほどの距離が、渋滞によって10時間も車の中で過ごすことになったといたします。そんな時、皆さんはどんな思いを持つでしょうか。とても絶望的になりますね。その道を選んでしまったことを深く後悔しますね。モーセも同じように新しく、世代交代した若い人々に、過去にどれほど大きな過ちをしてしまったのかを教えているのです。もしかしたら、第二世代の人にとって荒れ野の意味が分からなかったかもしれません。荒れ野で生まれた第二世代ですから、それが当たり前のようになっていて、荒れ野生活が第一世代の不信仰の故の、苦々しい刈り取りであったということを自覚していなかった可能性もあります。

しかし、モーセとヨシュアとカレブにとっては、カデシュ・バルネア事件がどれほど苦々しい失敗であったのか、はっきりとわかっていました。本来11日の道のりを、その後38年も、荒れ野にて、彷徨うことになってしまったからです。

私たちの過去を振り返った時、11日の道のりを40年間もさまよってしまったというカデシュ・バルネア事件は、ございますか。私もたくさんの失敗を犯してきました。カデシュ・バルネア事件を個人的に体験してきています。信仰生活というのは、まさにイスラエルのように、過去に自分が犯した罪に向き合い、日々悔い改める生活であると言えるでしょう。恵み深い神様は、私たちの罪をイエス・キリストの故に全て赦してくださいますが、神様はご自身の民が深く悔い改めて、二度と同じ罪を犯すことがないようにと願われているのです。そして罪から離れ、聖くされ、これからは神様に応答する歩み、隣人を愛する歩み、倫理的な歩みをすることを願われているのです。従って、神の祝福というのは、後からついて来るものだと思います。まず、神様との関係があって、以前神様を拒絶し、罪を犯した頃の記憶と向き合いながら、悔い改めること、自分の失敗を受け入れて、それを十分に悲しむこと、これこそ神様がお喜びになる歩みなのです。神様の祝福、神様の癒し、神様の回復は、自然とその後に付いてくることでしょう。

【結論】

 第二世代がカナンの地に入ることが許されるのは、ただ一方的な神の恵みによってであります。ただ、神の御言葉が成就するため、契約に対する神の信実さによって、カナンの地に入ることが許されるのです。何よりも大切なことは、土地が与えられることより、私たちが神の契約に入れられていることに感謝し、神様が天地万物の神として、私たちをお選びになり、ご自身の所有としてくださったことに感謝しなければなりません。神様は信実なお方でありますから、この神に信頼し、どんなことがあっても自分により頼むことをせず、御言葉に聴き従うことが大切であります。そして、私たちが以前、御言葉に背き、神に反逆した苦々しい過去があるなら、その悲惨な過去をしっかり記憶し、それを十分に悲しみ、日々悔い改めていきましょう。神はそのような歩みをお喜びになられます。神の祝福はそのような歩みに、後付けで付いてくることでしょう。

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거듭해서 율법을 설명하는 모세

2021년 8월 29일 센겐다이 교회 주일설교

신명기 1장 1~8절

서론

 오늘부터 새롭게 구약성경의 신명기로 들어갑니다. 신약성경에서 구약성경 구절이 많이 인용되고 있는데 가장 인용이 많은 책이 바로 이 신명기입니다. 어쩌면 의아하게 생각하실지도 모르겠습니다. 예를 들면 이사야서나 시편이나 창세기가 더 많지 않을까라고 생각하실 수도 있지만 신명기가 가장 많고 80번 이상 인용되었습니다. 예수님께서 광야에서 사탄에게 유혹 받으셨을 때도 모두 신명기의 말씀으로 맞서 승리하셨습니다. 이 모세 오경의 다섯 번째 책인 신명기란 도대체 어떤 책인가 하면 「신명기」라는 제목에 그 의미가 여실히 드러나 있다고 생각합니다. 「신」이라는 말은 말씀드린다는 말인데 「거듭해서」「반복해서」라는 뜻을 담고 있습니다. 즉 「거듭해서 계명이 언급된 책」이라는 것이 신명기의 의미입니다. 영어로는 「Deuteronomy」라는 제목으로 70인역 성경 제목을 따왔습니다. Deuter가「두 번째」라는 뜻이고 nomos가 「율법」이라는 뜻이기 때문에 「두 번째 율법」이라는 뜻이 됩니다. 그런데 사실 「두 번째 율법」이라고 하는 것은 잘못된 제목이겠죠. 모세는 새로운 율법을 말하고 있는 것이 아니기 때문입니다. 그래서 영어 제목보다 한자로 된 「신명기」가 제목으로는 적합하다고 생각됩니다. 참고로 히브리어 성경에서는 1장 1절부터의 말을 따서 「앨레 하데바림」(이는말씀이니라)이라는 제목이 붙어 있습니다.

(1) 신명기는 언약의 서적

 신명기란 어떤 책이냐 하면 첫째, 그것은 언약에 대해 쓰여져 있는 책이라고 할 수 있을 것입니다. 이스라엘 백성들은 언약이라는 사상을 거의 가지고 있지 않았습니다. 그들은 하나님께서 천지 만물의 창조주로서 이스라엘을 모든 민족 중에서 선택하시고 자신의 소유로 삼으셨으며 그들과 언약을 체결해주셨다는 그 의미를 거의 이해하지 못했습니다. 그 엄청난 가치를 이해하지 못했습니다.

솔직히 이스라엘에게 여호와 하나님이란 애굽인의 「라」나 모압인의 「케모슈」그리고 페르시아인의 「다곤」과 비슷한 존재였습니다. 그런 무지한 백성들에게「언약을 신실히 이행하시는 하나님」에 대해서 알려주는 것이 신명기인 것입니다. 비록 이스라엘 백성들이 불성실하다고 해도 하나님은 신실하신 분이라는 것입니다. 이스라엘 백성들이 가나안 주민들에 비해 능력이 뛰어나서 가나안 땅에 정착할 수 있다는 것은 아닙니다. 또 이스라엘의 2세대가 1세대와 비교해 뭔가 뛰어나기 때문에 가나안 땅에 들어갈 수 있다는 것도 아닙니다. 확실히 1세대는 큰 죄를 지었지만 회개하고 하나님과의 관계를 회복하여 요단강 동쪽 지역을 갓족속과 므낫세 반부족에게 기업으로 주셨습니다. 여전히 요단강을 넘어 약속의 땅으로 들어가지는 못하지만 동쪽 영토를 부여 받음으로써 하나님은 반드시 가나안 땅도 주실 것이며 약속을 성취해 주실 것이다라고 하는 믿음을 가지고 제 1세대는 죽어갔을 것입니다. 비록 죄를 지었다고 해도 하나님과의 관계를 회복한 자들은 천국에 들어가는 것이 허락되는 것입니다. 땅을 받느냐 못 받느냐가 중요한 것이 아니라 말씀을 믿고 받아들이는 것이 더 중요하다는 것입니다.

앞으로의 내용입니다만 신명기를 읽어나가다 보면 놀라운 책이며 예언적인 내용이 많이 쓰여져 있습니다. 그렇기 때문에 여호수아서나 사사기 사무엘기 열왕기의 서론으로서의 성격을 지니고 있음을 알게 됩니다. 뿐만 아니라 호세아서, 아모스서, 예레미야서 등 후기 예언서와도 상통하는 내용들이 많이 나옵니다. 이처럼 신명기는 예언적인 성격을 지니고 있기 때문에 이후에 쓰여진 역사서를 이해하는 열쇠를 제공해 줍니다. 그리고 종종 모세는 「선지자의 원형」, 「선지자의 모형」이라고 합니다. 어쨌든 현재의 일을 풀어내는 열쇠가 신명기에 숨겨져 있다는 것입니다. 이것은 하나님이 이전에 말씀하신 그 언약의 신실함의 표현이라고 할 수 있습니다. 여호와 하나님을 믿는 백성은 하나님의 언약 속에 담겨 있는 그 은혜를 조금씩 알게 되고 하나님의 신실함을 그 때 그때 깨닫게 되고 다른 우상들을 믿는 나라의 백성들과는 윤리적인 면에서 조금씩 이지만 차이를 보이게 되었습니다.

(2) 신명기는 모세의 고별 설교인 모압 땅에 이르기까지의 경위

 두 번째로 신명기란 어떤 책이냐 하면 모세의 고별 설교라고 할 수 있을 것입니다. 신명기의 1장 5절을 참조하십시오.

모세가 요단 저쪽 모압 땅에서 이 율법을 설명하기 시작하였더라 일렀으되

여기서 모세는 모압 지방에서 「설명하기 시작하였더라」고 했는데 즉 40년 전에 선언한 율법을 다시 여기서 해설하고 있다는 것입니다. 그래서 지금까지의 출애굽기부터 레위기, 민수기까지 쓰여져 있는 사항들을 상기시키면서 특히 모세의 시점에서 백성들에게 말씀을 다시 한번 다짐하고 있다는 것입니다. 모세는 곧 죽게 되고 지도자의 자리를 여호수아에게 맡기고 모세 자신은 가나안 땅에 들어갈 수 없습니다. 그래서 신명기란 모세의 긴 고별 설교라고 할 수 있겠습니다. 신명기에는 장소적인 이동은 일절 없습니다. 앞 페이지 민수기의 맨 마지막 부분인 36장 13절을 보시면

이는 여리고 맞은편 요단 가 모압 평지에서 여호와께서 모세를 통하여 이스라엘 자손에게 명령하신 계명과 규례니라

「모압 평지에서」라고 쓰여져 있네요. 이 모압이라는 장소는 가나안 땅에 들어가는 동쪽 현관이라고 생각하시면 됩니다. 즉 조금 있으면 가나안에 들어갈 수 있지만 가나안에 들어가기 직전 모압 땅에서 했던 모세의 고별 설교라는 것입니다. 이어서 1장 1-4절까지 보시죠.

1 이는 모세가 요단 저쪽 숩 맞은편의 아라바 광야 곧 바란과 도벨과 라반과 하세롯과 디사 합 사이에서 이스라엘 무리에게 선포한 말씀이니라

2 호렙 산에서 세일 산을 지나 가데스 바네아까지 열 하룻길이었더라

3 마흔째 해 열한째 달 그 달 첫째 날에 모세가 이스라엘 자손에게 여호와께서 그들을 위하여 자기에게 주신 명령을 다 알렸으나

4 그 때는 모세가 헤스본에 거주하는 아모리 왕 시혼을 쳐 죽이고 에드레이에서 아스다롯에 거주하는 바산 왕 옥을 쳐죽인 후라

지도를 보십시요. 가데스 바네아라는 곳을 확인할 수 있으실까요? 네게브 광야 아래에 있습니다. 가데스 바네아는 가나안 땅의 남쪽 현관입니다. 호렙 산에서 가데스 바네아까지가 열 하룻길이라고 쓰여 있네요. 호렙산은 시내산의 또 다른 이름입니다. 이 가데스 바네아에서 도대체 무슨 일이 일어난 것일까요. 그것은 이때부터 38년 전으로 거슬러 올라갑니다. 가데스 바네아에서 가나안 땅으로 정찰대를 보낸 뒤 약속한 땅 가나안으로 단숨에 쳐 올라가라 하셨지만 정찰대가 돌아와 가나안 원주민에 비하면 자신들은 메뚜기처럼 보였다고 보고했습니다. 그리고 하나님의 말씀을 거절하고 불신으로 가나안으로 공격해서 들어가기를 주저했던 사건이 가데스 바네아 사건입니다. 여기서 가데스 바네아 사건을 옆에 놓아두고 이스라엘이 그곳에 도착한 경위를 되볼아 보십시다. 이스라엘 백성들은 애굽의 고센 땅에서 출애굽합니다. 이 출애굽을 기념하여 출애굽을 한 그 달을 첫 달로 정했습니다. 실제로 출애굽을 한 것은 그 달 15일 밤이라고 쓰여져 있습니다. 출애굽기 12장 2절 12장 6-7절 말씀을 참조하십시오.

2 이 달을 너희에게 달의 시작 곧 해의 첫 달이 되게 하고

6 이 달 열나흗날까지 간직하였다가 해 질 때에 이스라엘 회중이 그 양을 잡고

7 그 피를 양을 먹을 집 좌우 문설주와 안방에 바르고

날이 저물고 날짜가 15일로 바귀면서 이스라엘 백성들은 준비한 어린 양을 잡아 그 피를 문설주와 안방에 바르고 저녁식사를 한 뒤 출애굽 했습니다. 그들은 시내 반도를 남하하여 삼개월 되던 첫날에 시내산에 도착했다는 것이 출애굽기 19장 1절에 쓰여져 있습니다.

이스라엘 자손이 애굽 땅을 떠난 지 삼개월이 되던 날 그들이 시내 광야에 이르니라

그래서 애굽에서 시내산까지 걸린 일수는 정확히 말하자면 45일 걸렸다는 계산이 됩니다. 애굽을 출발한 게 1월 15일이네요. 3월 1일에 시내산에 도착했기 때문에 걸린 일수는 60일 마이너스 15일로 45일, 출애굽에서 시내산까지 가는 길은 45일 걸렸다고 합니다. 그 후 잠시 시내산 즉 호렙산에 머물게 됩니다. 십계명을 받고 하나님과 이스라엘 백성들은 언약을 맺습니다. 호렙이라는 말의 뜻은 「황폐해 졌다」라는 뜻인데 그 의미와는 반대로 이스라엘 백성들은 이 자리에서 하나님과 깊이 교제하며 예배를 드리며 멋진 시간을 보냈습니다. 비록 환경은 황폐해도 주님이 임재하신다면 기쁨과 감사의 장소가 되는 것입니다. 모세는 당시의 일을 회상하고 있습니다. 신명기 1장 6-8절을 참조하십시오.

6 우리 하나님 여호와께서 호렙에서 우리에게 말씀하여 이르시기를 너희가 이 산에 거주한 지 오래니

7 방향을 돌려 행진하여 아모리 족속의 산지로 가고 그 근방 곳곳으로 가고 아라바와 산지와 평지와 네겝과 해변과 가나안 족속의 땅과 레바논과 큰 강 유브라데까지 가라

8 내가 너희의 조상 아브라함과 이삭과 야곱에게 맹세하여 그들과 그들의 후손에게 주리라 한 땅이 너희 앞에 있으니 들어가서 그 땅을 차지할지니라

아모리 사람이란 가나안 땅의 원주민입니다. 하나님께서는 가나안 땅을 향해 「행진하라」고 명령하셨습니다. 드디어 이스라엘 백성들이 북상하기 시작했습니다. 이때가 출애굽을 한지 2년째였다는 것이 민수기 10장 11-12절에 적혀 있습니다. 보시겠습니다.

11둘째 해 둘째 달 스무날에 구름이 증거의 성막에서 떠오르매

12 이스라엘 자손이 시내 광야에서 출발하여 자기 길을 가더니 바란 광야에 구름이 머무니라

시내산에서 2년 정도 머물다가 명령을 받고 북상을 시작한 것입니다. 이곳에서 11일의 길을 거쳐 가데스 바네아에 도착했는데 백성들의 불순종으로 가데스 바네아 사건이 일어나 가나안에 들어갈 길이 막혀버렸습니다. 그 이후 40년 11개월의 시간이 흘러 현재에 이르고 있다고 모세는 말하고 있습니다.

(3) 거듭해서 율법을 설명한 이유

 이때 모세의 마음은 어떤 마음이었을까요? 아마 결코 잊을 수 없는 쓰라린 과거라고 생각했을 것입니다. 억울한 마음으로 가득 찼을 것입니다. 모세가 이스라엘 백성들에게 거듭 율법을 설명하는 그 이유는 바로 과거의 실패로 눈을 돌리게 하기 위해서였다고 할 수 있지 않을까요? 과거를 외면하지 말고 과거를 올바르게 기억하고 다시는 같은 실수를 하지 말라는 것 입니다.

예를 들어 고속도로에서 사고나 공사 등으로 인해 정체에 빠졌다고 가정합시다. 평소 같으면 차로 한 시간 정도 거리가 정체로 인해 10시간이나 차 안에서 보내게 되었다고 합시다. 그럴 때 여러분은 어떤 생각을 하게 될까요? 아주 절망적인 기분이 드실 겁니다. 그 길을 선택해버린 것을 깊이 후회하실 것입니다. 모세도 마찬가지로 새롭게 세대교체된 젊은 사람들에게 과거에 얼마나 잘못된 선택을 했는지를 가르치고 있는 것입니다. 어쩌면 2세대 사람들은 광야의 의미를 잘 몰랐을지도 모릅니다. 태어나보니 광야였던 2세대이기 때문에 광야는 당연하게 여겨졌고 광야 생활을 하고 있는 것이 1세대의 불신앙 때문에 거두어 들인 씁쓸한 추수였다는 것을 자각하지 못했을 가능성도 있었습니다.

하지만 모세와 여호수아와 갈렙에게 있어서는 가데스 바네아 사건이 얼마나 쓰라린 실패였는지 분명히 알고 있었습니다. 본래라면 11일이면 갈 길을 그후 38년이나 광야에서 방황하게 되어 버렸기 때문입니다.

우리의 과거를 돌아 봤을 때, 11일이면 갈 길을 40년 동안이나 헤매어 버리고 만 가데스 바네아 사건이 있습니까? 저도 많은 실수를 저질러 왔습니다. 가데스 바네아 사건을 개인적으로 체험해 왔습니다. 믿음생활이란 바로 이스라엘처럼 과거에 자신이 저지른 죄를 마주하고 날마다 회개하는 생활이라고 할 수 있습니다. 은혜로우신 하나님께서는 우리의 죄를 예수 그리스도 때문에 모두 용서해 주시지만 하나님은 자신의 백성들이 깊이 뉘우치고 다시는 같은 죄를 짓는 일이 없기를 바랍니다. 그리고 죄에서 벗어나 거룩하고 이제는 하나님께 응답하는 삶, 이웃을 사랑하는 삶, 윤리적인 삶을 살기를 바라고 계십니다. 따라서 하나님이 주시는 복이라는 것은 그런 삶 뒤에 따라오는 것이라고 생각합니다. 먼저 하나님과의 관계에 있어서 예전에 하나님께 불순종하고 죄를 지었을 때의 기억과 마주하며 회개하는 것, 자신의 실패를 받아들이고 그것을 충분히 슬퍼하는 것, 이것이야말로 하나님이 기뻐하시는 삶입니다. 하나님이 주시는 복, 하나님의 치유, 하나님의 회복은 자연스럽게 그 뒤를 따라올 것입니다.

결론

 제 2세대가 가나안 땅에 들어가는 것이 허용되는 것은 오직 일방적인 하나님의 은총에 의해서입니다. 그저 하나님의 말씀이 성취되기 때문에 언약에 대한 하나님의 신실하심에 의해서 가나안 땅에 들어가는 것이 허락되는 것입니다. 무엇보다도 중요한것은 땅을 받는 것 보다 우리들이 하나님의 언약에 들어가 있다는 것에 감사하고 천지만물을 지으신 하나님이 우리를 선택하시고 자신의 소유로 삼으신 것에 감사해야 합니다. 하나님은 신실하신 분이시니 하나님을 신뢰하고 어떤 일이 있어도 자신을 의지하지 말고 말씀에 순종하는 것이 중요합니다. 그리고 우리가 예전에 말씀을 어기고 하나님께 반역했던 쓰라린 과거가 있다면 그 비참한 과거를 잘 기억하고 그것을 충분히 슬퍼하며 날마다 회개해 나갑시다. 하나님은 그런 삶을 기뻐하십니다. 하나님이 주시는 복은 그런 삶에 뒤따라올 것입니다.

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