2021年08月22日「神の国の拡大のために」

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:2目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。
4:3同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています。
4:4わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください。
4:5時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。
4:6いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。
4:7わたしの様子については、ティキコがすべてを話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕です。
4:8彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼によって心が励まされるためなのです。
4:9また、あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモを一緒に行かせます。彼らは、こちらの事情をすべて知らせるでしょう。
4:10わたしと一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコが、そしてバルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もしそちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなたがたは受けているはずです。
4:11ユストと呼ばれるイエスも、よろしくと言っています。割礼を受けた者では、この三人だけが神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です。
4:12あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。
4:13わたしは証言しますが、彼はあなたがたのため、またラオディキアとヒエラポリスの人々のために、非常に労苦しています。
4:14愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています。
4:15ラオディキアの兄弟たち、および、ニンファと彼女の家にある教会の人々によろしく伝えてください。
4:16この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください。
4:17アルキポに、「主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように」と伝えてください。
4:18わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。わたしが捕らわれの身であることを、心に留めてください。恵みがあなたがたと共にあるように。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コロサイの信徒への手紙 4章2節~18節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

コロサイ書もいよいよ本日で最後となります。パウロはこの手紙を締めようとしていますが、そこで改めて思わされることは、パウロが何より福音宣教を、神の国の拡大を切に願っていたということです。終わりの時代に生かされている私たちも、このパウロのスピリットに見習って神の国の拡大、福音宣教の為に、自らを捧げる者とならせていただきたいと思わされます。

東京オリンピックの野球では、日本が37年ぶりに金メダルを取りました。メジャーリーグでパワーヒッターのホームラン打者が脚光を浴びる中で、再び日本のスモールベースボールにスポットが当てられました。スモールベースボールとは、つなぐ野球、全員野球のことです。例えば攻撃であれば、しぶとくヒットを打って次の打者につないだり、バントでランナーを進めて相手にプレッシャーをかけることです。守りであれば、先発、中継ぎ、抑えのピッチャーがそれぞれの持ち場で責任を果たすことです。パウロも福音宣教において、自分が満塁ホームランを狙うのではなく、このスモールベースボールを、全員野球を常に考えていたと思われます。本日の箇所を段落ごとに分けますと、週報のガイドラインに書いておきましたが、2~6までの「とりなしの祈りの要請」、7~9節までが「この手紙を携え持っていくティキコとオネシモについて」、そして10~14節までが「パウロの協力者からの挨拶」、15~18節が「パウロ自身の挨拶と簡単な教訓」となります。それでは4:2~4節をご覧ください。

【1】. パウロの宣教スピリット

“目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています。わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください。”

パウロは、手紙を締めるにあたってコロサイ人にとりなしの祈りの要請をしています。祈りによって全ての神様の働きがなされるということを考えれば、何よりも、目を覚まして、教会が一つになって祈ることが重要だと考えたのでしょう。そして、この祈りは、まさにパウロ自身がコロサイの人々のために絶えず祈ってきたことに対する、その応答を求めていたのかもしれません。コロサイ書1:9には、エパフラスを通してコロサイ教会の実状を聞いて以来「わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。」と語っています。教会とは互いに祈り合う共同体であります。

ところで、パウロが祈りを要請している、その「祈りの課題」に着目すると、それは、自分が監獄から解放されることではありませんでした。また、パウロ自身の健康のために祈りを要請しているのでもありません。その祈りの課題とは「門が開かれる」こと、「神の秘められた計画、つまり、神の秘義をパウロがきちんと語ることができるように」ということです。「門が開かれる」とは、新約聖書において、宣教の文脈でよく使用されます。例えば宣教師に働きの場所が与えられる時に「門が開かれる」という言葉が使われたり(1コリ16:9、2コリ2:12)、或いは、異邦人が信仰に入れられた時に、門が開かれたという言葉が使われています(使徒14:27)。従ってパウロは宣教のために、祈りを要請しているということです。また、神の秘義が語られるように祈っています。神の秘義(ミュステリオン)とは、旧約聖書が指し示し、新約の時代に明らかにされた、救い主イエス・キリストそのものでございます。パウロは自分自身を通してイエス・キリストがあぶりだされるようにと、祈っているのです。もっと言えば、神の秘義が語られるために、「そのために自分は今、牢につながれている」とまで言い切っています。これには大変驚かされます。つまり、現在、自分自身が投獄されているという事実は、それ自体、深刻な福音宣教の妨害とは考えていなかったということです。パウロの、この霊性に私たちは大変驚かされるのです。まさに生きているのは、肉のパウロではなく、復活のキリストがパウロの中に生きていると、言えるのではないでしょうか。ここから、見えてくることは、パウロは自分の使徒職を大変客観視していて、その使徒職というものは、自分一人で担っているのではなく、パウロの周りの同労者と共に担っていて、そしてコロサイの人々を、共に働く祭司と見做し、神の国が拡大するように働きを共に担ってほしいと呼びかけているようです。宣教とは使徒個人の働きではなく、教会全体が関わっていく働きです。私たちキリスト者は、この世にあって、誰でも例外なく、神の国の聖なる祭司であるという自覚を強く持たなければなりません。続いて5~6節をご覧ください。

【2】. 塩味のきいた言葉

“時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。”

「時をよく用いなさい」とは、機会を最大限、用いなさいという意味です。また塩とは保存料でもあり、スパイスでもありますから、外部の人、つまりノンクリスチャンの方々と交わりをするときには伝道のチャンスだと考え、彼らに快く、穏やかな言葉をかけるように努めなさいということです。しかし、人によって塩加減が若干異なりますね。私はしょっぱい食べ物が好きですが、妻は薄味が好きだというように、人それぞれ、丁度良い塩加減というのがあります。ノンクリスチャンの方々にかける言葉も、それぞれの人に理解されるように、言葉のまろみ加減を調整しなければなりません。子供に対しては子供の目線で語るべきです。熱心に求道している方には、毎週礼拝に来られるように励ましてあげましょう。傷ついている方には、その人にただ寄り添ってあげるような言葉が伝えられたらどんなに素晴らしいでしょうか。

しかし、もしかしたら、「今、この時が機会なのかどうかわからないではないか?」、「もしかしたら今は機会ではないかもしれない、また次の機会に伝道しよう!」と思われる方もいるかもしれません。しかし5節の、「時をよく用いる」、機会を最大限用いるというのは、まさに「今でしょ」「今しなさい」という意味なのです。

例えば、ある日、自分が突然大きな病にかかったといたします。すると、何か月も、病院のベッドに横たわらなければならなくなるでしょう。体が自由に動きません。一日中、ただベッドの上に横になるだけで、何もすることができません。ところが、恵みによって病気が癒され、退院し、家に戻ってくることができたとします。恐らくその時、以前、持っていた価値観とは全く異なる価値観を持った、新しい人として生まれ代わっていることでしょう。今、自分に与えられている時間が、どれほど貴重な時間なのか、今では、もうはっきりと分かっているからです。そのような人は、今がまさに機会であり、今、この時を何とか有効に用いたいと考えるのではないでしょうか。同じように私たちも、イエス様を知り、新しい人に生まれ変わりました。私たちの時間に対する価値観も、以前の価値観とは180度、変えられました。機会を最大限用いて、常に福音宣教を念頭におきながら、ノンクリスチャンの方々に対し、賢く振る舞い、相手にとって理解され、快く、穏やかな言葉をかけるように努めていきましょう。私たち、せんげん台教会にも毎週求道者が訪れてくださいます。またそれぞれの近所づきあいなどがあります。そういった方々との交わりを、もう一度、振りかえってみましょう。

【3】. コロサイ書とフィレモン書の関係

4:7節から手紙を終わらせるための最後の挨拶に入ります。4:7~9節、そして16節をご覧ください。

“わたしの様子については、ティキコがすべてを話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕です。彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼によって心が励まされるためなのです。また、あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモを一緒に行かせます。彼らは、こちらの事情をすべて知らせるでしょう。”

16節

“この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください。”

手紙を届ける仕事は、パウロの腹心のティキコに委ねられています。彼は、「愛する兄弟、忠実に仕える者、主にあって奴隷仲間の一人である」という褒め言葉によってパウロから保証されています。ティキコは異邦人教会から集めた献金をエルサレム教会に届ける際にもパウロと共に同行しました。日頃の忠実な働きによって、パウロから絶大の信頼を得ていたと思われます。私たちが主の御前で褒められることは、それぞれの与えられた持ち場での忠実さだけであります。何をしたとか、どのような実績を上げたというのは、問われません。御言葉に忠実であったのかどうか、そのことだけを神様はご覧になられます。16節で「この手紙があなた方のところで読まれたら」、とありますが、これは「大きな声で朗読されたなら」、という意味です。当時、パウロの書簡は、ティキコのような人物を通して、公の場で大きな声で朗読されました。多くの人が字を読めなかったからです。それから、その書簡を書き写し、原本をさらに、隣町であるラオディキアにある家の教会に回覧するようにしました。このように書簡を人々に朗読し、筆写したという行為は、ユダヤ人がシナゴーグにおいて旧約聖書を朗読したり、巻物を筆写したことを思い起こさせます。つまり使徒パウロの書簡というのは、旧約聖書と同じような配慮をもって、扱われていたということです。9節で、ティキコと同伴することになった、オネシモは、「あなた方の一人」と書かれているため、彼はコロサイ地方出身であることが分かります。このオネシモが果たしてフィレモン書に出てくるオネシモと同一人物であるのか、どうかが一つの焦点となりますが、オネシモという名前は「有益な」「役に立つ」という意味で、当時、奴隷の名前としてはよく見かけられたものでした。従ってコロサイ出身のオネシモだからと言って、フィレモンの奴隷であるオネシモであると、言い切ることはできません。しかし、7節以下に挙げられたパウロの同労者の名前に注目する時に、それらは、フィレモンの手紙で挙げられている名前とほぼ一致しているということに気づかされます。従って、一部の神学者は、オネシモは同一人物であり、コロサイ人への手紙をティキコとオネシモに託した時に、同時にフィレモンへの個人的な手紙も一緒に携えて行ったに違いないと考えています。コロサイ書の中で、オネシモの逃亡について触れられておらず、フィレモン書にだけオネシモの逃亡のことが書かれているのは、コロサイ書が公同の書簡である一方、フィレモン書が個人的な書簡のゆえに、そういった配慮の違いが出ていると主張します。私もその意見に賛成です。それでは実際に聖書を確認してみましょう。フィレモン1~2節をご覧ください。

“キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。”

ここでは、フィレモンへの手紙の差出人が、「パウロとテモテから」と書かれています。コロサイ書の差出人もやはり、1:1に「パウロとテモテから」と書かれています。そして、フィレモンの家の教会には姉妹「アフィア」と「アルキポ」がいるということが分かります。「アルキポ」が名前が早速出てきました。続いてフィレモン23~24節をご覧下さい。

“キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。”

ここに出てくる「エパフラス」、「マルコ」、「アリスタルコ」、「デマス」、「ルカ」もやはり、コロサイ書の7節以降に出てきます。このような理由から、フィレモン書のオネシモとコロサイ書のオネシモは同一人物であり、逃亡奴隷のオネシモは、恐らくこの時、主人であるフィレモンのもとに戻ってフィレモンと和解するために、コロサイ地方に遣わされたのだろうと考えられるのです。もしそうであるなら、コロサイ地方の教会を開拓したエパフラスが、今回、なぜ遣わされなかったのかという疑問も解決します。なぜなら、フィレモン書23節に、エパフラスはこの時、パウロと共に牢に捕らえられているとあるからです。従って、コロサイ書とフィレモン書の時代的な背景は全く同じであり、この二つの書簡は共にティキコとオネシモによってコロサイ人に届けられたのだろうということになります。恐らくコロサイ人は、なぜ、コロサイ教会の設立者であるエパフラスがパウロと共に牢に捕らえられてしまったのか、興味津々だったのではないでしょうか、そういった事情もすべてティキコとオネシモによって、明るみにされたことでありましょう。

4:12-13節では、特にコロサイ人であるエパフラスを取り上げて、エパフラスの状況を細かく伝えています。ご覧ください。

“あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。わたしは証言しますが、彼はあなたがたのため、またラオディキアとヒエラポリスの人々のために、非常に労苦しています。”

ここで、注目したいことは、パウロがエパフラスを「キリスト・イエスの僕」と呼んでいることです。この呼び名は、パウロが自分自身に対して(ロマ1:1)、またテモテに対して(ピリ1:1)のみ、付けた呼称です。パウロは自分の働きとエパフラスの働きが全く同じであることをコロサイ人に伝えているのだと思います。コロサイ人がエパフラスから聞いた福音とは、パウロ自身が語った福音と同じであり、その語られた御言葉に留まりなさいと励ましているのです。

最後にパウロは、18節において自ら筆を執り、恵みの祝祷を捧げています。当時の書簡は口述筆記で書かれていて、語る人と筆記する人がそれぞれ分かれていました。また、当時パウロが書いていない、偽のパウロ書簡も出回っていたため、パウロは必ず最後に直筆で署名をしていました。そして、直筆で自分が捕らわれの身であることを覚えてほしいと要求し、コロサイ人に、とりなしの祈りによってパウロの苦難に、共に参与するようにと促しています。共同体において、喜びも、悲しみも、苦しみも、このように共有されるのです。

【結論】

以上を持ちまして、コロサイ書が終わりました。パウロが獄中にあっても感謝とともに、絶えずコロサイ人のためにとりなしの祈りを捧げることができたこと、そして自分が捕らわれの身であるにも拘わらず、自身の働きが妨げられていると失望することがなかったこと、それは神様が同労者一人一人を用いながら、神の国を拡大させてくださり、神様が教会を確かに堅固にしてくださっていることを信仰の目によって確認することが出来たからだと思います。私たちの教会も初代教会のように、一つになって、神の国の拡大のために、福音宣教の為に、献身していく群れとなっていくように祈ってまいりましょう。

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