2021年08月22日「神の国の拡大のために 하나님 나라의 확장을 위하여」

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神の国の拡大のために 하나님 나라의 확장을 위하여

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
コロサイの信徒への手紙 4章2節~18節

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:2目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。
4:3同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています。
4:4わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください。
4:5時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。
4:6いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。
4:7わたしの様子については、ティキコがすべてを話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕です。
4:8彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼によって心が励まされるためなのです。
4:9また、あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモを一緒に行かせます。彼らは、こちらの事情をすべて知らせるでしょう。
4:10わたしと一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコが、そしてバルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もしそちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなたがたは受けているはずです。
4:11ユストと呼ばれるイエスも、よろしくと言っています。割礼を受けた者では、この三人だけが神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です。
4:12あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。
4:13わたしは証言しますが、彼はあなたがたのため、またラオディキアとヒエラポリスの人々のために、非常に労苦しています。
4:14愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています。
4:15ラオディキアの兄弟たち、および、ニンファと彼女の家にある教会の人々によろしく伝えてください。
4:16この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください。
4:17アルキポに、「主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように」と伝えてください。
4:18わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。わたしが捕らわれの身であることを、心に留めてください。恵みがあなたがたと共にあるように。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コロサイの信徒への手紙 4章2節~18節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

コロサイ書もいよいよ本日で最後となります。パウロはこの手紙を締めようとしていますが、そこで改めて思わされることは、パウロが何より福音宣教を、神の国の拡大を切に願っていたということです。終わりの時代に生かされている私たちも、このパウロのスピリットに見習って神の国の拡大、福音宣教の為に、自らを捧げる者とならせていただきたいと思わされます。

東京オリンピックの野球では、日本が37年ぶりに金メダルを取りました。メジャーリーグでパワーヒッターのホームラン打者が脚光を浴びる中で、再び日本のスモールベースボールにスポットが当てられました。スモールベースボールとは、つなぐ野球、全員野球のことです。例えば攻撃であれば、しぶとくヒットを打って次の打者につないだり、バントでランナーを進めて相手にプレッシャーをかけることです。守りであれば、先発、中継ぎ、抑えのピッチャーがそれぞれの持ち場で責任を果たすことです。パウロも福音宣教において、自分が満塁ホームランを狙うのではなく、このスモールベースボールを、全員野球を常に考えていたと思われます。本日の箇所を段落ごとに分けますと、週報のガイドラインに書いておきましたが、2~6までの「とりなしの祈りの要請」、7~9節までが「この手紙を携え持っていくティキコとオネシモについて」、そして10~14節までが「パウロの協力者からの挨拶」、15~18節が「パウロ自身の挨拶と簡単な教訓」となります。それでは4:2~4節をご覧ください。

【1】. パウロの宣教スピリット

“目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています。わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください。”

パウロは、手紙を締めるにあたってコロサイ人にとりなしの祈りの要請をしています。祈りによって全ての神様の働きがなされるということを考えれば、何よりも、目を覚まして、教会が一つになって祈ることが重要だと考えたのでしょう。そして、この祈りは、まさにパウロ自身がコロサイの人々のために絶えず祈ってきたことに対する、その応答を求めていたのかもしれません。コロサイ書1:9には、エパフラスを通してコロサイ教会の実状を聞いて以来「わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。」と語っています。教会とは互いに祈り合う共同体であります。

ところで、パウロが祈りを要請している、その「祈りの課題」に着目すると、それは、自分が監獄から解放されることではありませんでした。また、パウロ自身の健康のために祈りを要請しているのでもありません。その祈りの課題とは「門が開かれる」こと、「神の秘められた計画、つまり、神の秘義をパウロがきちんと語ることができるように」ということです。「門が開かれる」とは、新約聖書において、宣教の文脈でよく使用されます。例えば宣教師に働きの場所が与えられる時に「門が開かれる」という言葉が使われたり(1コリ16:9、2コリ2:12)、或いは、異邦人が信仰に入れられた時に、門が開かれたという言葉が使われています(使徒14:27)。従ってパウロは宣教のために、祈りを要請しているということです。また、神の秘義が語られるように祈っています。神の秘義(ミュステリオン)とは、旧約聖書が指し示し、新約の時代に明らかにされた、救い主イエス・キリストそのものでございます。パウロは自分自身を通してイエス・キリストがあぶりだされるようにと、祈っているのです。もっと言えば、神の秘義が語られるために、「そのために自分は今、牢につながれている」とまで言い切っています。これには大変驚かされます。つまり、現在、自分自身が投獄されているという事実は、それ自体、深刻な福音宣教の妨害とは考えていなかったということです。パウロの、この霊性に私たちは大変驚かされるのです。まさに生きているのは、肉のパウロではなく、復活のキリストがパウロの中に生きていると、言えるのではないでしょうか。ここから、見えてくることは、パウロは自分の使徒職を大変客観視していて、その使徒職というものは、自分一人で担っているのではなく、パウロの周りの同労者と共に担っていて、そしてコロサイの人々を、共に働く祭司と見做し、神の国が拡大するように働きを共に担ってほしいと呼びかけているようです。宣教とは使徒個人の働きではなく、教会全体が関わっていく働きです。私たちキリスト者は、この世にあって、誰でも例外なく、神の国の聖なる祭司であるという自覚を強く持たなければなりません。続いて5~6節をご覧ください。

【2】. 塩味のきいた言葉

“時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。”

「時をよく用いなさい」とは、機会を最大限、用いなさいという意味です。また塩とは保存料でもあり、スパイスでもありますから、外部の人、つまりノンクリスチャンの方々と交わりをするときには伝道のチャンスだと考え、彼らに快く、穏やかな言葉をかけるように努めなさいということです。しかし、人によって塩加減が若干異なりますね。私はしょっぱい食べ物が好きですが、妻は薄味が好きだというように、人それぞれ、丁度良い塩加減というのがあります。ノンクリスチャンの方々にかける言葉も、それぞれの人に理解されるように、言葉のまろみ加減を調整しなければなりません。子供に対しては子供の目線で語るべきです。熱心に求道している方には、毎週礼拝に来られるように励ましてあげましょう。傷ついている方には、その人にただ寄り添ってあげるような言葉が伝えられたらどんなに素晴らしいでしょうか。

しかし、もしかしたら、「今、この時が機会なのかどうかわからないではないか?」、「もしかしたら今は機会ではないかもしれない、また次の機会に伝道しよう!」と思われる方もいるかもしれません。しかし5節の、「時をよく用いる」、機会を最大限用いるというのは、まさに「今でしょ」「今しなさい」という意味なのです。

例えば、ある日、自分が突然大きな病にかかったといたします。すると、何か月も、病院のベッドに横たわらなければならなくなるでしょう。体が自由に動きません。一日中、ただベッドの上に横になるだけで、何もすることができません。ところが、恵みによって病気が癒され、退院し、家に戻ってくることができたとします。恐らくその時、以前、持っていた価値観とは全く異なる価値観を持った、新しい人として生まれ代わっていることでしょう。今、自分に与えられている時間が、どれほど貴重な時間なのか、今では、もうはっきりと分かっているからです。そのような人は、今がまさに機会であり、今、この時を何とか有効に用いたいと考えるのではないでしょうか。同じように私たちも、イエス様を知り、新しい人に生まれ変わりました。私たちの時間に対する価値観も、以前の価値観とは180度、変えられました。機会を最大限用いて、常に福音宣教を念頭におきながら、ノンクリスチャンの方々に対し、賢く振る舞い、相手にとって理解され、快く、穏やかな言葉をかけるように努めていきましょう。私たち、せんげん台教会にも毎週求道者が訪れてくださいます。またそれぞれの近所づきあいなどがあります。そういった方々との交わりを、もう一度、振りかえってみましょう。

【3】. コロサイ書とフィレモン書の関係

4:7節から手紙を終わらせるための最後の挨拶に入ります。4:7~9節、そして16節をご覧ください。

“わたしの様子については、ティキコがすべてを話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕です。彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼によって心が励まされるためなのです。また、あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモを一緒に行かせます。彼らは、こちらの事情をすべて知らせるでしょう。”

16節

“この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください。”

手紙を届ける仕事は、パウロの腹心のティキコに委ねられています。彼は、「愛する兄弟、忠実に仕える者、主にあって奴隷仲間の一人である」という褒め言葉によってパウロから保証されています。ティキコは異邦人教会から集めた献金をエルサレム教会に届ける際にもパウロと共に同行しました。日頃の忠実な働きによって、パウロから絶大の信頼を得ていたと思われます。私たちが主の御前で褒められることは、それぞれの与えられた持ち場での忠実さだけであります。何をしたとか、どのような実績を上げたというのは、問われません。御言葉に忠実であったのかどうか、そのことだけを神様はご覧になられます。16節で「この手紙があなた方のところで読まれたら」、とありますが、これは「大きな声で朗読されたなら」、という意味です。当時、パウロの書簡は、ティキコのような人物を通して、公の場で大きな声で朗読されました。多くの人が字を読めなかったからです。それから、その書簡を書き写し、原本をさらに、隣町であるラオディキアにある家の教会に回覧するようにしました。このように書簡を人々に朗読し、筆写したという行為は、ユダヤ人がシナゴーグにおいて旧約聖書を朗読したり、巻物を筆写したことを思い起こさせます。つまり使徒パウロの書簡というのは、旧約聖書と同じような配慮をもって、扱われていたということです。9節で、ティキコと同伴することになった、オネシモは、「あなた方の一人」と書かれているため、彼はコロサイ地方出身であることが分かります。このオネシモが果たしてフィレモン書に出てくるオネシモと同一人物であるのか、どうかが一つの焦点となりますが、オネシモという名前は「有益な」「役に立つ」という意味で、当時、奴隷の名前としてはよく見かけられたものでした。従ってコロサイ出身のオネシモだからと言って、フィレモンの奴隷であるオネシモであると、言い切ることはできません。しかし、7節以下に挙げられたパウロの同労者の名前に注目する時に、それらは、フィレモンの手紙で挙げられている名前とほぼ一致しているということに気づかされます。従って、一部の神学者は、オネシモは同一人物であり、コロサイ人への手紙をティキコとオネシモに託した時に、同時にフィレモンへの個人的な手紙も一緒に携えて行ったに違いないと考えています。コロサイ書の中で、オネシモの逃亡について触れられておらず、フィレモン書にだけオネシモの逃亡のことが書かれているのは、コロサイ書が公同の書簡である一方、フィレモン書が個人的な書簡のゆえに、そういった配慮の違いが出ていると主張します。私もその意見に賛成です。それでは実際に聖書を確認してみましょう。フィレモン1~2節をご覧ください。

“キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。”

ここでは、フィレモンへの手紙の差出人が、「パウロとテモテから」と書かれています。コロサイ書の差出人もやはり、1:1に「パウロとテモテから」と書かれています。そして、フィレモンの家の教会には姉妹「アフィア」と「アルキポ」がいるということが分かります。「アルキポ」が名前が早速出てきました。続いてフィレモン23~24節をご覧下さい。

“キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。”

ここに出てくる「エパフラス」、「マルコ」、「アリスタルコ」、「デマス」、「ルカ」もやはり、コロサイ書の7節以降に出てきます。このような理由から、フィレモン書のオネシモとコロサイ書のオネシモは同一人物であり、逃亡奴隷のオネシモは、恐らくこの時、主人であるフィレモンのもとに戻ってフィレモンと和解するために、コロサイ地方に遣わされたのだろうと考えられるのです。もしそうであるなら、コロサイ地方の教会を開拓したエパフラスが、今回、なぜ遣わされなかったのかという疑問も解決します。なぜなら、フィレモン書23節に、エパフラスはこの時、パウロと共に牢に捕らえられているとあるからです。従って、コロサイ書とフィレモン書の時代的な背景は全く同じであり、この二つの書簡は共にティキコとオネシモによってコロサイ人に届けられたのだろうということになります。恐らくコロサイ人は、なぜ、コロサイ教会の設立者であるエパフラスがパウロと共に牢に捕らえられてしまったのか、興味津々だったのではないでしょうか、そういった事情もすべてティキコとオネシモによって、明るみにされたことでありましょう。

4:12-13節では、特にコロサイ人であるエパフラスを取り上げて、エパフラスの状況を細かく伝えています。ご覧ください。

“あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。わたしは証言しますが、彼はあなたがたのため、またラオディキアとヒエラポリスの人々のために、非常に労苦しています。”

ここで、注目したいことは、パウロがエパフラスを「キリスト・イエスの僕」と呼んでいることです。この呼び名は、パウロが自分自身に対して(ロマ1:1)、またテモテに対して(ピリ1:1)のみ、付けた呼称です。パウロは自分の働きとエパフラスの働きが全く同じであることをコロサイ人に伝えているのだと思います。コロサイ人がエパフラスから聞いた福音とは、パウロ自身が語った福音と同じであり、その語られた御言葉に留まりなさいと励ましているのです。

最後にパウロは、18節において自ら筆を執り、恵みの祝祷を捧げています。当時の書簡は口述筆記で書かれていて、語る人と筆記する人がそれぞれ分かれていました。また、当時パウロが書いていない、偽のパウロ書簡も出回っていたため、パウロは必ず最後に直筆で署名をしていました。そして、直筆で自分が捕らわれの身であることを覚えてほしいと要求し、コロサイ人に、とりなしの祈りによってパウロの苦難に、共に参与するようにと促しています。共同体において、喜びも、悲しみも、苦しみも、このように共有されるのです。

【結論】

以上を持ちまして、コロサイ書が終わりました。パウロが獄中にあっても感謝とともに、絶えずコロサイ人のためにとりなしの祈りを捧げることができたこと、そして自分が捕らわれの身であるにも拘わらず、自身の働きが妨げられていると失望することがなかったこと、それは神様が同労者一人一人を用いながら、神の国を拡大させてくださり、神様が教会を確かに堅固にしてくださっていることを信仰の目によって確認することが出来たからだと思います。私たちの教会も初代教会のように、一つになって、神の国の拡大のために、福音宣教の為に、献身していく群れとなっていくように祈ってまいりましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

하나님 나라의 확장을 위하여

2021년 8월22일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

골로새서 4장 2~4장 18절

서론

골로새서도 드디어 오늘이 마지막입니다. 바울은 이 편지를 마무리하려고 하는데, 여기서 다시 한 번 생각하게 되는 것은 바울이 무엇보다도 복음 선교를, 하나님 나라의 확장을 간절히 바랐다는 것입니다. 마지막 시대를 살아가고 있는 우리도 이 바울의 정신을 본받아 하나님 나라의 확장, 복음 선교를 위해 자신을 헌신하는 자기 되기를 소망하게 됩니다.

토쿄 올림픽 야구에서 일본이 37년 만에 금메달을 땄습니다. 메이저리그의 파워 히터 홈런 타자들이 각광을 받는 가운데, 일본의 스몰 볼이 다시 한 번 주목을 받았습니다. 스몰 볼 야구는, 개인 플레이들을 최대한 자제하고 팀 플레이를 극대화시키며 세밀하게 경기를 풀어나가는 것, 화려하고 재미있는 야구보다는 이기는 야구에 중점을 두는 방식의 야구를 뜻합니다. 예를 들어 공격에서는 끈질기게 안타를 쳐서 다음 타자에게 연결하거나, 번트로 주자를 진루시켜 상대에게 압박을 가하는 것입니다. 수비라면 선발 투수, 릴리프 투수, 마무리 투수가 각자의 위치에서 책임을 다하는 것입니다. 바울도 복음 선교에 있어서 자신이 만루 홈런을 노리는 것이 아니라, 이 스몰 볼을, 팀 플레이 야구를 항상 염두에 두고 있었던 것 같습니다. 오늘 본문을 단락별로 나누면, 주보 가이드라인에 적어 두었지만, 2~6절까지는「간절한 기도의 요청」, 7~9절까지는「이 편지를 가지고 가는 두기고와 오네시모에 대하여」그리고 10~14절까지는 「바울의 동역자들의 인사」, 15~18절까지는「바울 자신의 인사와 간단한 교훈」으로 되어 있습니다. 이제 4:2~4절을 보시겠습니다.

(1) 바울의 선교 정신

2 기도를 계속하고 기도에 감사함으로 깨어 있으라

3 또한 우리를 위하여 기도하되 하나님이 전도할 문을 우리에게 열어 주사 그리스도의 비밀을 말하게 하시기를 구하라 내가 이 일 때문에 매임을 당하였노라

4 그리하면 내가 마땅히 할 말로써 이 비밀을 나타내리라

바울은 서신을 마무리하면서 골로새 교인들에게 간절한 기도를 요청하고 있습니다. 기도를 통해 모든 하나님의 사업이 이루어진다는 것을 생각할 때, 무엇보다도 교회가 깨어 하나가 되어 기도하는 것이 중요하다고 생각했을 것입니다. 그리고 이 기도는 바로 바울 자신이 골로새 교인들을 위해 끊임없이 기도해 온 것에 대한 응답을 구한 것일 수도 있습니다. 골로새서 1:9절에는 에바브로디도를 통해 골로새 교회의 실상을 들은 이후「너희를 위하여 기도하기를 그치지 아니하고 구하노니」라고 말합니다. 교회는 서로 기도하는 공동체입니다.

그런데 바울이 기도를 요청하는 「기도 제목」에 주목해보면, 그것은 자신이 감옥에서 풀려나는 것이 아니었습니다. 또한 바울 자신의 건강을 위해 기도해 달라는 것도 아닙니다. 그 기도의 제목은 「전도할 문을 우리에게 열어 주사」, 「그리스도의 비밀」, 즉 「하나님의 비밀을 바울이 제대로 말할 수 있게 해달라」는 것입니다. 「전도의 문이 열리게 하소서」는 신약성경에서 선교의 맥락에서 자주 사용됩니다. 예를 들어 선교사에게 사역지가 주어질 때 「전도의 문이 열린다」는 표현이 사용되기도 하고(고전 16:9, 고후 2:12), 또는 이방인이 믿음을 갖게 될 때 문이 열렸다는 표현이 사용되기도 합니다(행 14:27). 따라서 바울은 선교를 위해 기도를 요청하고 있는 것입니다. 또한 하나님의 비밀이 드러나도록 기도하고 있습니다. 하나님의 비밀(뮤스테리온)은 구약성경이 가리키고 신약 시대에 계시된 구주 예수 그리스도 그 자체입니다. 바울은 자신을 통해 예수 그리스도가 드러나게 해달라고 기도하고 있는 것입니다. 더 나아가 하나님의 비밀이 알려지기 위해 「그 때문에 나는 지금 감옥에 갇혀 있다」고 단언하고 있습니다. 이것은 매우 놀랍습니다. 즉, 현재 자신이 투옥되어 있다는 사실 자체가 심각한 복음 선교의 방해라고 생각하지 않는다는 뜻입니다. 바울의 이 영성에 우리는 놀라움을 금치 못합니다. 살아 있는 것은 육신의 바울이 아니라 부활의 그리스도가 바로 바울 안에 살아 있다고 말할 수 있지 않을까요? 여기서 보이는 것은, 바울은 자신의 사도직을 매우 객관적으로 바라보고 있고, 그 사도직이라는 것은 자신 혼자 감당하는 것이 아니라, 바울 주변의 동역자들과 함께 감당하고 있으며, 그리고 골로새 사람들을 함께 사역하는 제사장으로 여기고, 하나님 나라가 확장되도록 함께 사역을 감당해 달라고 요청하고 있는 것 같습니다. 선교는 사도 개인의 사역이 아니라 교회 전체가 참여하는 사역입니다. 우리 그리스도인은 이 세상에서 누구나 예외 없이 하나님 나라의 거룩한 제사장이라는 의식을 강하게 가져야 합니다. 이어서 5~6절을 보시겠습니다.

(2) 소금으로 맛을 낸 말

5 외인에게 대해서는 지혜로 행하여 세월을 아끼라

6 너희 말을 항상 은혜 가운데서 소금으로 맛을 냄과 같이 하라 그리하면 각 사람에게 마땅히 대답할 것을 알리라

「세월을 아끼라」는 말은 기회를 최대한 활용하라는 뜻입니다. 또한 소금은 방부제이자 향신료이기 때문에 외인, 즉 비기독교인들과 교제할 때를 전도의 기회로 생각하고 그들에게 유쾌하고 부드러운 말을 건네라는 뜻입니다. 하지만 사람마다 소금의 농도가 조금씩 다르지않습니까. 저는 짠 음식을 좋아하지만 아내는 싱거운 음식을 좋아하듯이 사람마다 적당한 소금의 농도가 있습니다. 비기독교인들에게 하는 말도 각자가 이해할 수 있도록 말의 농도를 조절해야 합니다. 아이들에게는 아이의 눈높이에서 이야기해야 합니다. 열심히 구도하는 사람에게는 매주 예배에 나올 수 있도록 격려해 주어야 합니다. 상처받은 사람에게는 그저 위로가 되는 말을 전할 수 있다면 얼마나 좋을까요?

하지만 혹시 “지금이 때가 아닌지 모르겠다”, “지금이 기회인지 아닌지 모르겠다”는 생각이 들 수도 있습니다. “지금이 때가 아닐 수 있어, 다음 기회에 전도하자!”라고 생각하시는 분들도 있을 것입니다. 그러나 5절의「세월을 아끼라」는 말은 바로 「지금이 바로 때이다」, 「지금 하라」라는 뜻입니다.

예를 들어, 어느 날 갑자기 큰 병에 걸렸다고 가정해 봅시다. 그러면 몇 달 동안 병원 침대에 누워 있어야 할 것입니다. 몸이 자유롭게 움직일 수 업고, 하루 종일 침대에 누워만 있을 뿐 아무것도 할 수 없습니다. 그런데 은혜로 병이 낫고 퇴원하여 집으로 돌아갈 수 있게 되었다고 가정해 봅시다. 아마도 그때는 이전에 가졌던 가치관과는 전혀 다른 가치관을 가진 새로운 사람으로 다시 태어났을 것입니다. 지금 자신에게 주어진 시간이 얼마나 소중한 시간인지, 이제야 비로소 명확하게 알게 되었기 때문입니다. 그런 사람은 지금이 바로 기회이며, 지금 이 시간을 어떻게든 유효하게 활용하고 싶어 하지 않을까요? 마찬가지로 우리도 예수님을 알고 새로운 사람으로 거듭났습니다. 우리의 시간에 대한 가치관도 이전의 가치관과는 180도 달라졌습니다. 기회를 최대한 활용하고, 항상 복음전파를 염두에 두면서 비기독교인들을 향해 지혜롭게 행동하고, 상대방이 이해할 수 있는, 기분 좋게, 부드럽게 말을 건네도록 노력합시다. 우리 센겐다이교회에도 매주 구도자들이 찾아오고 있습니다. 또한 각각의 이웃관계 등이 있습니다. 그런 분들과의 교제를 다시 한 번 되돌아봅시다.

(3) 골로새서와 빌레몬서와의 관계

4:7절부터는 편지를 마무리하는 마지막 인사로 들어가는데, 4:7~9, 그리고 16절을 보시기 바랍니다.

7 두기고가 내 사정을 다 너희에게 알려 주리니 그는 사랑 받는 형제요 신실한 일꾼이요 주 안에서 함께 종이 된 자니라

8 내가 그를 특별히 너희에게 보내는 것은 너희로 우리 사정을 알게 하고 너희 마음을 위로하게 하려 함이라

9 신실하고 사랑을 받는 형제 오네시모를 함께 보내노니 그는 너희에게서 온 사람이라 그들이 여기 일을 다 너희에게 알려 주리라

16이 편지를 너희에게서 읽은 후에 라오디게아인의 교회에서도 읽게 하고 또 라오디게아로부터 오는 편지를 너희도 읽으라

편지를 전달하는 일은 바울의 심복 두기고에게 맡겨졌습니다. 그는 「사랑받는 형제요 신실한 일꾼이요 주 안에서 함께 종이 된 자니라」라는 칭찬으로 바울의 보증을 받고 있습니다. 두기고는 이방인 교회에서 모은 헌금을 예루살렘 교회에 전달할 때에도 바울과 함께 동행했습니다. 평소 충실한 사역으로 바울의 절대적인 신뢰를 얻었던 것으로 보입니다. 우리가 주님 앞에서 칭찬받을 수 있는 것은 각자 주어진 자리에서 충성하는 것뿐입니다. 무슨 일을 했는지, 어떤 실적을 올렸는지 묻지 않습니다. 오직 말씀에 충실했는지 여부만 보십니다. 16절에 「이 편지를 너희에게서 읽은 후에」라고 쓰여져 있는데, 이는 「큰 소리로 낭독하면」이라는 뜻입니다. 당시 바울의 편지는 두기고와 같은 인물을 통해 공적인 자리에서 큰 소리로 낭독되었습니다. 많은 사람들이 글을 읽을 수 없었기 때문입니다. 그런 다음 그 서신을 필사하고, 원본을, 더 나아가 이웃 마을인 라오디게아에 있는 가정 교회에서 읽게 하도록 했습니다. 이렇게 서신을 사람들에게 낭독하고 필사하는 행위는 유대인들이 회당에서 구약성경을 낭독하거나 두루마리를 필사했던 것을 떠올리게 합니다. 즉 사도 바울의 서신이라는 것은 구약성경과 같은 배려로 다루어졌다는 뜻입니다. 9절에서 두기고와 동행하게 된 오네시모는 「너희에게서 온 사람」이라고 기록되어 있기 때문에 그는 골로새 지방 출신임을 알 수 있습니다. 이 오네시모가 과연 빌레몬서에 나오는 오네시모와 동일 인물인지의 여부가 하나의 관건인데, 오네시모라는 이름은 「유익하다」,「도움이 된다」는 뜻으로 당시 노예의 이름으로 흔히 볼 수 있는 이름이었습니다. 따라서 골로새 출신 오네시모라고 해서 빌레몬의 노예인 오네시모라고 단정 지을 수는 없습니다. 그러나 7절이하에 열거된 바울의 동역자들의 이름에 주목할 때, 그 이름들이 빌레몬서에서 열거된 이름과 거의 일치한다는 것을 알 수 있습니다. 따라서 일부 신학자들은 오네시모가 동일 인물이며, 골로새서를 두기고와 오네시모에게 맡길 때, 동시에 빌레몬에게 보내는 개인적인 편지도 함께 가지고 갔을 것으로 생각합니다. 골로새서에서는 오네시모의 도망에 대한 언급이 없고, 빌레몬서에만 오네시모의 도망에 대한 내용이 있는 것은 골로새서가 공적인 서신인 반면 빌레몬서는 개인적인 편지이기 때문에 그런 배려의 차이가 나타난 것이라고 주장합니다. 저도 그 의견에 동의합니다. 그럼 실제로 성경을 확인해 봅시다. 빌레몬서 1:1~2절을 보시기 바랍니다.

1 그리스도 예수를 위하여 갇힌 자 된 바울과 및 형제 디모데는 우리의 사랑을 받는 자요 동역자인 빌레몬과

2 자매 압비아와 우리와 함께 병사 된 아킵보와 네 집에 있는 교회에 편지하노니

여기서 빌레몬서의 발신자가「바울과 및 형제 디모데는」이라고 적혀 있습니다. 골로새서의 발신자도 역시 1:1에 「바울과 형제 디모데는」라고 기록되어 있습니다. 그리고 빌레몬의 집에 있는 교회에는 「압비아」와「아킵보」라는 자매가 있다는 것을 알 수 있습니다. 「아킵보」라는 이름이 바로 나옵니다. 이어서 빌레몬서 1:23~24절을 보시기 바랍니다.

23 그리스도 예수 안에서 나와 함께 갇힌 자 에바브라와

24 또한 나의 동역자 마가, 아리스다고, 데마, 누가가 문안 하느니라

여기에 나오는「에바브라」「마가」「아리스다고」「데마」「누가」도 역시 골로새서 7절 이후에 나옵니다. 이런 이유로 빌레몬서의 오네시모와 골로새서의 오네시모는 동일 인물이며, 도망한 노예 오네시모는 아마도 이때 주인인 빌레몬에게 돌아가 빌레몬과 화해하기 위해 골로새 지방으로 보내졌을 것을 생각되어집니다. 그렇다면 골로새 지방의 교회를 개척한 에바브라가 왜 이번에는 파송되지 않았는지에 대한 의문도 풀립니다. 왜냐하면 빌레몬서 23절에 에바브라는 이때 바울과 함께 감옥에 갇혀 있다고 기록되어 있기 때문입니다. 따라서 골로새서와 빌레몬서의 시대적 배경은 완전히 동일하며, 이 두 서신은 함께 두기고와 오네시모를 통해 골로새 교인들에게 전달되었을 것입니다. 아마도 골로새 교인들은 골로새 교회의 설립자인 에바브라가 왜 바울과 함께 감옥에 갇히게 되었는지 궁금했을 것이고, 그런 사정도 두기고와 오네시모에 의해 모두 밝혀졌을 것입니다.

4:12~13절에서는 특히 골로새 사람인 에바브라를 언급하며 에바브라의 상황을 자세히 전하고 있습니다. 보시기 바랍니다.

12 그리스도 예수의 종인 너희에게서 온 에바브라가 너희에게 문안하느니라 그가 항상 너희를 위하여 애써 기도하여 너희로 하나님의 모든 뜻 가운데서 완전하고 확신 있게 서기를 구하노니

13 그가 너희와 라오디게아에 있는 자들과 히에라볼리에 있는 자들을 위하여 많이 수고하는 것을 내가 증언하노라

여기서 주목해야 할 것은 바울이 에바브라를「그리스도 예수의 종」이라고 부르고 있다는 점입니다. 이 호칭은 바울이 자신에 대해서만(롬1:1), 그리고 디모데에 대해서만(빌1:1) 붙인 호칭입니다. 바울은 자신의 사역과 에바브라의 사역이 완전히 동일한다는 것을 골로새 교인들에게 전하고 있는 것 같습니다. 골로새 교인들이 에바브라에게서 들은 복음은 바울 자신이 전한 복음과 동일하며, 그 말씀에 머물러 있으라고 권면하고 있는 것입니다.

마지막으로 바울은 18절에서 직접 붓을 들고 은혜의 축도를 쓰고 있습니다. 당시 서신은 구술 필체로 쓰여졌고, 말하는 사람과 쓰는 사람이 각각 따로 있었습니다. 또한 당시에는 바울이 쓰지 않은 가짜 바울서신도 유통되고 있었기 때문에 바울은 반드시 마지막에 친필로 서명을 했습니다. 그리고 친필로 자신이 사로잡힌 몸임을 기억해 달라고 요구하며, 골로새 교인들에게 중보기도로 바울의 고난에 함께 동참해 달라고 당부하고 있습니다. 공동체 안에서 기쁨도, 슬픔고, 고통도 이렇게 공유되는 것입니다.

결론

이상으로 골로새서를 마칩니다. 바울이 감옥에 갇혀 있으면서도 감사와 함게 끊임없이 골로새 교인들을 위해 기도를 할 수 있었던 것, 그리고 자신이 갇혀 있음에도 불구하고 자신의 사역이 방해받는다고 실망하지 않았던 것, 그것은 하나님께서 동역자 한 사람 한 사람을 사용하시면서 하나님 나라를 확장시켜 주시고, 교회를 확실히 견고하게 만들어 주시는 것을 믿음의 눈으로 확인할 수 있었기 때문이라고 생각합니다. 우리 교회도 초대교회처럼 하나가 되어 하나님 나라의 확장을 위해, 복음 선교를 위해 헌신하는 무리가 되기를 기도합시다.

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