2021年08月15日「あなた方は主キリストに仕えなさい」

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:18妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。
3:19夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。
3:20子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。
3:21父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。
3:22奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。
3:23何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
3:24あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。
3:25不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。
4:1主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コロサイの信徒への手紙 3章18節~4章1節

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【序】

 コロサイ書もいよいよ終わりに近づいてまいりました。このコロサイ書とは、イエス・キリストをはっきりと提示し、コロサイの地方に入ってきた偽りの教師たちの教えを警戒するようにという手紙でした。3章から4章にかけて、パウロは新しい人を着たあなた方は、どのように歩めばよいのか、具体的に脱ぎ捨てるべきものと、そして身に着けるべき徳目をリストアップしてきました。本日の箇所では、さらに具体的な内容に進み、所謂「家庭訓」とか、「身分律」と呼ばれているものを教えています。この「家庭訓」とか「身分律」と呼ばれるものは、教会が初めて新しい律法のようなものとして唱えた訳ではありませんでした。当時のヘレニズム社会において一般的に見られたものでありました。しかし、偽りの教師たちは家庭を顧みることにあまり関心がなく、このような家庭訓を教えるケースはほとんどありませんでした。パウロは、伝統的な家庭訓を教えています。それでは、パウロの教える家庭訓とは、当時、一般的に見られた家庭訓と変わらないものだったのかと言えば、答えは「ノー」と言えるでしょう。なぜなら、形式的には非常に似ていますが、動機の部分において全く異なるからです。当時、ヘレニズム社会に見られた家庭訓は、凡そ、主人がどのようにして妻を治め、子供を治め、奴隷を治め、社会を平定するのか、主人の目線から、支配の仕方としての「ハウツー本」として、その秘訣が書かれていました。ところが、パウロは3章17節に書かれてありますように、すべての動機を、主イエスの名によって行うようにということです。同じ行為を教えていても、その動機が異なるのなら、もたらされる結果も変わってくることでしょう。皆さんはイソップ物語の「三人のレンガ職人」というお話を聞いたことがあるでしょうか。簡単に紹介しますと、

ある旅人が、ある町外れの一本道を歩いていると、一人の男が難しい顔をしてレンガを積んでいました。旅人はその男のそばに立ち止まって、「ここで何をしているのですか?」と尋ねました。「何って、見ればわかるだろう。レンガ積みに決まっているだろ。朝から晩まで、俺はここでレンガを積まなきゃいけないのさ。あんた方にはわからないだろうけど、暑い日も寒い日も、風の強い日も、レンガを積まなければならないのさ。腰は痛くなるし、手はこのとおり」と言って、男は自分のひび割れた手を見せてくれました。「大変ですね」といたわりの言葉をかけて、旅人は、さらに歩き続けました。

しばらく行くと、一生懸命レンガ積みをしている別の男に出会いました。彼は先ほどの男のように、辛そうには見えませんでした。旅人は同じ質問をします。「ここで何をしているのですか?」「俺はね、ここで大きな壁を作っているんだよ。これが俺の仕事でね。」「大変ですね」といたわると、「なんてことはないよ。この仕事のおかげで俺は家族を養っていけるんだ。ここでは、家族を養っていく仕事を見つけるのに一苦労する。大変だなんていっていたら、バチがあたるよ」と笑いながら話してくれました。旅人は、さらに歩き続けました。

しばらく行くと、男が活き活きと目を輝かせて、レンガ積みをしているのに出くわしました。「ここで何をしているのですか?」「ああ、俺達のことかい?俺達は、歴史に残る大聖堂を造っているんだ!」「大変ですね」といたわると、「とんでもない。ここで多くの人が祝福を受けることになるんだ、なんと素晴らしいことだろう!」旅人は、その男にかえってお礼の言葉を残して、また元気いっぱいに歩き続けた、という内容です。

このように、①仕事の動機が全くないのか、②或いは動機が家族を養うためなのか、③或いは動機が大聖堂を建築し多くの人々に貢献するためなのか、その動機をどこに置くかによって感謝の度合いと、目の輝きが変わってくるということであります。これと同じように、パウロは家庭訓の最も大切な動機の部分に、主キリストを据えているのであります。それでは、キリストを据えることによって、結果として何がもたらされると言うのでしょうか。それは家族を養うための「食いぶち」どころではありません。それは多くの人に資するという「達成感や」、「やりがい」どころではありません。それは、天の嗣業に与るという報いを受けるのです。神の相続に与るという報いを受けるのです。それが、どれほど栄光に満ちたものか言葉で言い表すことはできません。これこそキリスト者がロイヤルファミリーとされた特権であると言えるのではないでしょう。

【1】. 主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。

 本日の聖書箇所の3:18~19節をご覧ください。

“妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。”

最初に夫婦の関係です。「夫に仕えなさい」という言葉が出てきます。24節にも「仕えなさい」と翻訳された言葉がありますが、実は、これは違う言葉が使われていて、24節は、「神に対するサービス」のことで、「礼拝しなさい」という意味です。ところがこの18節は、「夫に服しなさい、夫の下につきなさい」というニュアンスです。当時、女性の従属というのは、社会的慣習のようなものでありまして、女性が男性に服従するのは当然のことと考えられていました。時代が時代だけに、男性と比べて、女性の権利は、現在とは比べものにならないほど制限されていました。従って妻たちの置かれていた立場、身分はどうしても低くなります。パウロはここで、妻たちに対し、強い命令形ではなく、何が何でも、ということではなくて、主を信じる者に相応しく、自発的に、自由意志によって服しなさいと、表現を和らげています。この「服しなさい」という言葉は、決して男女の平等を否定しているというのではありません。パウロはコロサイ3:11において、主にあって、ギリシア人も、ユダヤ人も、奴隷も、自由人も差別はないと明言していました。また、ガラテヤ書3:28には、主にあって、男女が平等であることをはっきり教えていました。ガラテヤ書3:28をご覧ください。

“そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。”

このように男女平等がはっきりと教えられています。それでは、「夫に服する、夫の下につく」とはどういう意味でしょうか。この言葉はイエス様が父なる神に服されたという時にも使われています。1コリント15:28をご覧下さい。

“すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。”

15:28において、服従という言葉で三回出てきますが、この言葉は、妻が夫に仕えるという言葉と同じ言葉であります。御子は御父に服従されると書かれています。本質において同等であられる御父と御子の関係においても、秩序というものは存在するように、夫と妻の間にも神の創造の秩序が存在するということです。女は男の助け手として創造されました。

妻が夫に自発的に服する時、それは神の秩序に従うことになります。そして、その妻の服従は聖なる神の働きと見做されることでしょう。妻が自発的に夫の下につく時、それは、御子が御父にしたように聖職を全うしていると見做されることでしょう。このように妻が夫に服すること、これは御心に適っているということです。ヘレニズムの家庭訓では、普通、妻に服従するように命じた後に、「夫たちよ」と呼びかけて、妻をどのようにして、治めるのか、支配するのかということが語られます。しかしパウロは、驚くべきことに、どのように妻を愛するのかについて語っています。夫は、男性より、力の弱い女性に対して、つらく当たったり、冷たい言葉をかけてはなりません。イエスの名によって、夫は妻の失敗を自分が担う覚悟で、妻を愛していかなければなりません。この点が、聖書の教える家庭訓の美しさだと言えるのではないでしょうか。続いて3:20~21節をご覧ください。

【2】. どんなことについても両親に従いなさい。

 “子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。”

第二に親子の関係です。子供は、「両親に従いなさい」と強い命令口調になっています。どんな場合でも、絶対的に、無条件的に、従順しなければならないということです。そして、それが主に喜ばれることだと言います。この強い命令形の背後には、信者の子供たちは、既に契約の子供たちであるということが暗に込められているのだと思います。信者の子供たちは決して信仰を持つか、信仰を持たないかは本人の自由であって、彼らは中立の立場の人物として扱われるということではありません。つまり、信者の子供たちは信仰告白するまでは異邦人ということではないということです。彼らは大人たちと全く同じように、約束を所有した契約の子供たちでありました。子供たちは既に契約の中に含まれていて、聖い者たちであるということです。それは子供たちが、よその子供たちと比べて本性的に聖いという意味ではなく、契約の特権によって聖いという意味です。たとえ、どのような親であっても、子供たちは無条件的に両親に従順することによって、主に喜ばれ、子供たちは神の働きに参与し、子供として聖職を全うしているということになるのです。

そして両親は、特に父親たちは、子供たちを力によって服従させたり、子供たちを殴ったりするのではなく、子供たちを神様からの賜物として受け入れ、信仰の養育を任された者として、子供たちをいらだたせることなく、また、落胆させることがないようにしなければなりません。子供は誰でも、どのような形であれ、親を喜ばせたいという気持ちを持っています。子供のそのような気持ちを親が自分のために都合よく利用するのではなく、子供のために常に祈りつつ、子供の信仰が育まれるように、信仰が自立していくように最善を尽くしていきましょう。続いて3:22~25節をご覧ください。

【3】. どんなことについても肉による主人に従いなさい。

 “奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。”

パウロはここで、特に奴隷たちに対して、言葉を多く用いながら、熱く語っています。奴隷たちは、子供たちと同じように「どんなことについても」という言葉を添えながら、絶対的に主人に従順するように勧められています。

当時の社会というのは、奴隷たちの、その数の力によって支えられていました。奴隷の所有者、主人たちは少数階級であり、奴隷は社会になくてはならない階層として存在していました。つまり奴隷制とは、社会で当たり前の現象として受け止められていたのです。ですからコロサイの家の教会も、恐らく、奴隷たちが、主人たちより人数的に多かったと思われます。当然ですが、奴隷には相続財産などありません。奴隷の子はやはり奴隷として生きていきます。奴隷は主人の家財道具のように扱われ、結婚の権利もなかっただろうと言われます。そんな奴隷であっても主に仕えるのなら、主から相続に与ることができると言うのです。このパウロの書簡の3章22節から4章1節まで読んだ時、読者である奴隷たちは、もしかしたら、果たして自分が今、主人に仕えているのか、主に仕えているのか、分からなくなってきた、混同してきたという思いを持ったのではないでしょうか。ギリアシア語で、「主人」と「主」という言葉は全く同じ言葉で、キューリオスです。この言葉が複数形:キューリオイであれば人間の主人たちを指しており、単数形:キューリオスであれば主イエスを指しているということです。そして、22節では「主人に絶対的に従順しなさい」と命令しておきながら、その後には「人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。」とあり、また、さらに、23節では、人間に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさいと勧めています。主人に対して仕えていた働きが、いつの間にか主に置き換えられているような錯覚を覚えたのではないでしょうか。

24節では結論のように、主キリストに「仕えなさい」、「礼拝しなさい」と言っています。この24節の、「仕える」という言葉ですが、先ほども触れましたが、神にサービスする、神を礼拝するという意味です。また、訳としては「仕えているのです」という翻訳も「仕えなさい」という翻訳も可能ですが、新しい聖書協会共同訳では「仕えなさい」と翻訳されていました。いずれにせよ、イエス様ご自身がこの世に人々の僕として、奴隷として仕えるために来られたので、奴隷たちはまさにイエス様の手本に倣って自分たちの主人に真心から仕えなさいということです。万が一、「主人はいつも我々を怠け者と見做して、ガミガミ怒鳴るだけだ。どうせ我々は主人から報われることがないのだから」などと言って、主人の顔色を伺いながら、うわべだけで仕え、見えないところで不義を働くのなら、その不義の報いを受けることになるでしょう。反対に、奴隷が、自分たちの主人に誠実に心から仕えるならば、その働きは神を礼拝することであり、その働きは神の御心に適い、神の働き、聖職となるとパウロは言うのです。

まだ、この世に罪が入って来る前、アダムは「この世界を治めよ」(創1:28)という使命を神様から頂きました。アダムがその働きを従事する時に、それは神の働きとして、聖職としてどれほど神を喜ばせる働きであったことでしょうか。今、私たちは、恵みによって贖われ、神の愛される、聖なる民とされました。それぞれが担っている働きもアダムが担っていた働きと同じように、神の働きであり、御心に適った、聖なる働きであるとパウロは言うのであります。それぞれが、それぞれの現場において神の働きに与り、聖職を全うする時に、天においてどれほど大きな報いが備えられることでしょうか。

【結論】

 それぞれ、置かれている立場は異なりますが、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてのことを主イエスの名によって行い、主イエスをその動機に据える時に、それは神の御心に適った働きとなり、日常の全ての仕事が神の働き、聖職、神礼拝になるということです。私たちのその日々の小さな働きは天に積まれていて、やがての日に、相続に与るという報いを受けるのです。

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