2021年07月18日「影ではなく実体を仰いで生きよう 그림자가 아닌 실체를 바라보며 사는 인생」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千間台教会のホームページへ戻る

影ではなく実体を仰いで生きよう 그림자가 아닌 실체를 바라보며 사는 인생

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
コロサイの信徒への手紙 2章16節~23節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

2:16だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。
2:17これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。
2:18偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、
2:19頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。
2:20あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、
2:21「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。
2:22これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。
2:23これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コロサイの信徒への手紙 2章16節~23節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 本日の箇所は、聖化について書かれています。信仰によって歩んでいる私たち教会は、日々聖化の過程にありますね。つまり私たちは成長の過程にあって、やがて聖霊によってキリストの身丈にまで成長できるように、希望を持ちながら歩ませていただいております。ところで私たちが聖化されることは、一次的要因として、神様による御業です。罪びとの私たちが一生懸命努力して、日々聖化していくということではありません。聖化されるということは、義とされることと同じように、一方的な神様の恵みの賜物でございます。ですから、その際、大切なことは、私たちが、イエス様にしっかり継ぎ合わされていることが、肝心かなめの必須条件であると言えるでしょう。羊飼いであるイエス様から決して離れず、いかなる時もくっついていなければなりません。それなら、キリストに結びあわされて、キリストの中にある私たちは、ただ、日々を、ボーとしているだけかというと、そうでもなくて、それはそれで忙しい訳です。なぜなら、聖霊は一人の一人の心の中に神の願いと思いを置いて、私たちをして、御心を行うようにさせるからです。ですから最初に言ったことと、ちょっと矛盾するようにも見えますが、私たちは誰もが皆、敬虔な生活を送るために、最善を尽くし、まるでオリンピックの出場選手のように、自分自身の救いのために、恐れと共におののきながら、主の業に励みつつ、日々努力していると言うこともできるのです。神様100%、私たち100%ということです。いずれにしても大切なことは、イエス様の中に留まり、イエス様にあって歩ませていただき、イエス様にくっついているということであります。コロサイ地方に現れた偽の教師たちは、イエス様に留まることができませんでした。16節をご覧ください。

【1】. 実体はキリストにある

 “だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。”

パウロの教える福音は、基本的に禁欲主義に反対していました。恵みは、自然を破棄するものではなく、神様が私たちに与えてくださったものは、基本的に全て善いからです。しかし、パウロの語る、「イエス・キリストの信仰によって義とされる」という、その福音は、当時、多くの人々に誤解されていました。パウロの語る福音が「放縦主義」とか、「反律法主義」などと言われて非難されていたようです。例えばローマ書3:8、6:1~2などを見ると、次のような記事がございます。

ローマ3:8

“それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。”

ローマ6:1-2

“では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。”

私たちの罪を無条件に赦されるその恵みの大きさのために、パウロの語っているのは放縦主義、反律法主義ではないかというような批判があったということです。パウロの語る福音は、あまりにも都合良すぎる、そんなはずがないだろうと感じたのです。このように、中々、イエス様の十字架と復活の恵みを理解してもらうことができませんでした。こういった脈絡から、当時、ユダヤ教の一派と考えられていた原始キリスト教会は、ユダヤ教から抜け出すのに、大変な困難がありました。また同様に原始キリスト教会は、異教のギリシア文化の影響から抜け出すのにも、やはり大変な困難があったようです。

コロサイの兄弟姉妹たちの所にも、信仰生活を惑わす、偽りの教師たちがやってきました。彼らは断食を奨励したり、祭りや安息日を守るなど、所謂、節気の順守を奨励しました。こういったことは、大変ユダヤ的ではありますけれども、ユダヤ教には飲み物に関する規定まではありませんでした。つまり、汚れたものと汚れていないものの、食物規定はありましたが、飲み物までは言及されていなかったので、そのような教えは、ユダヤ的なものとギリシア的なものが混ぜ合わさって、チャンポンになっていると言えるでしょう。例えば普通、ユダヤ人は安息日に断食はしませんが、ある資料によると当時のコロサイの人々は安息日に、断食まで奨励されたとあります。偽りの教師が、なぜそのように断食にこだわったのかと言うと、神秘主義の影響で、断食をすると恍惚状態となり、幻を見ることが出来ると言われていたようです。そして、あたかも旧約聖書の預言者エゼキエルが幻を見たような、まさにそのような体験が得られ、パウロの福音が提供するものより、はるかに優れたことを体験することができると考えられていたようです。しかし、パウロはそのような偽りの教えによって、教会が惑わされてはならない、教会が評価されてもならないとし、きっぱり関係を断ち切ろうとします。パウロがそのように言う理由は、「知恵」も「知識」も「実体」もキリストにあるからです。17節をご覧ください。

“これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。”

17節に書かれているように、初等教育である旧約の律法などは影に過ぎないということです。実体が現れるなら影はなくなるのです。先週、南浦和教会の献堂式に出席させていただきましたが、建築現場を思い浮かべてみてください。足場で隠された現場は、工事が完成して新築の建物が出てくると、ベールをはがされるように、足場が解体されますね。実体が出てきたら、影は消え去るのです。或いは、私はピーナツが好きなんですが、ピーナツを思い浮かべてみてください。殻はピーナツを中に身ごもっていますが、殻自体は本質ではなく、ピーナツが本質であると言えるでしょう。同じようなことを旧約聖書と新約聖書にもあてはまります。新約聖書が建物でありピーナツの中身であり本質であります。旧約聖書は本質を包みこんだ足場であり、殻であるということです。ですから「旧約聖書とは新約聖書において、初めてその意味が明らかにされて、新約聖書は旧約聖書の中に隠されている」ということになります。教会とイスラエルの関係もこれと同じです。教会が本質であり、イスラエルは教会を体内に身ごもった足場であり、殻であるということですね。教会が外に生まれ出れば殻は消え去るのです。真のアブラハムの子孫とは、イスラエルの血統を引く子孫だったでしょうか?それとも聖霊によって生まれた教会だったでしょうか?ガラテヤ書を見るなら、聖霊によって生まれた教会こそ、真のアブラハムの子孫でしたね。このようにイスラエルは影であり、あとから生まれた教会が体であるということです。割礼と洗礼の関係も同じです。割礼とは自分の力に死ぬことを意味しましたが、これは男性にしか与えられませんでした。ところが新約時代になって洗礼は、同じように自分の力に死ぬことを意味しておりますけれども、洗礼は心の割礼であり、男と女の差別なく、ユダヤ人と異邦人の差別なく、イエス・キリストを信じる者、全てに与えられるものなのです。

ところで、17節の御言葉をもう少し丁寧に読んでみますと、実体と訳されている言葉はギリシア語で、ソーマつまり、「体」という文字が使用されています。そして、キリストにあるという言葉が属格になっていますから、17節を直訳すると「体はキリストに属しています」或いは「体はキリストにあります」となります。どういうことかと言うと、つまり、キリストの中に実体があるということです。パウロに言わせれば、キリストの中に、体もあり、本質もあり、知恵もあり、知識もあり、充満もある。全てがキリストの中にあると言っています。ですから体が出てきた以上、いつまでも影の部分にこだわっていてはならない、影の部分をもってノンクリスチャンから批評されてもならない、堂々としていなさいと言うのです。ただ、ここで一つ注意したいことは、新約時代に生きる私たちも、神様とそして霊的な事柄と、天上の事柄については、ただ、この地上の感覚的な形態によってでしか語ることができないということです。つまり、旧約の時代が神の国とメシアを待望する時代であったように、新約の時代もやはり再臨の主イエスと、神の国の完成を待望する時代であって、未来における天の事柄については、依然として私たちに隠されているということです。依然として旧約聖書で用いられた言葉、「神殿と祭壇」、「預言者と祭司」、「シオンとエルサレム」という地上的なイメージを通して天上のことが説明され、私たちはこの天上の事柄を信仰の目で見る他はないということです。まだ神の国は完全には完成されていないということです。旧約の民がメシアを待望して、待ち望んだように、新約に生かされている私たちも再臨のイエス様を待望し、待ち望みつつ、信仰によって歩ませていただいているのです。続いて18節をご覧ください。

【2】. 頭であるキリストにつながりなさい

 “偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、”

偽りの謙遜というのは何かと申しますと、「自分など神様の御前に立って、直接祈りを捧げられる者ではありませんから、天使を通して、他の仲介者を通して、祈りを捧げさせてください」ということだと思われます。このようにして、天使礼拝が蔓延していったのでしょう。カトリック教会においてマリア崇拝が起こったのも、これと似たような動機であると言われています。つまりイエス様が最も祈りを聞いてくださるのは、おそらくお母さまのマリアの祈りではないだろうか?ならば、イエス様のお母さまに祈りを捧げて、マリアを通して、神さまに願いを聞いていただこう!ということです。このようにしてマリア礼拝が生まれ、聖人礼拝が熱心に行われていったと言われています。私たちの唯一の仲保者はイエス様であり、イエス様以外によって、神に近づこうとする行為は、すべて偶像礼拝となります。天使やマリヤや聖人を直接拝んではいませんが、彼らの仲介を通して神を拝もうとするなら、それは偶像礼拝になるということです。この点は特に私たちが注意すべき点だと思います。なぜなら、旧約聖書で出エジプトをしたイスラエルの民が金の子牛を作って偶像礼拝をしてしまいましたが、彼らは決して、金の子牛そのものを神として崇めたのではなかったからです。それは契約の箱のような、神の座られる台座であって、神さまをそこにお迎えしようとしたに過ぎないからです。つまり金の子牛を通して天に近づこうとしたことが罪なのです。また、私たちが未信者の葬儀に参列したときのことを思い浮かべてみてください。ご遺体が祭壇の中心に置かれ、ご遺影がその上に飾られているわけです。そうすると、いくらクリスチャンでも皆がしているようにそのご遺影に会釈をしたり、礼をしたりしそうになります。参列している人々もご遺体がまさか神として、礼をしているわけではありませんが、心のどこかにご遺体や遺影を通して天に近づこうとする思いがそこにあるんだと思います。偶像礼拝とは、神様を決して否定しないけれども、イエス様を決して否定しないけれども、イエス様以外に仲介者の働きを認めることが偶像礼拝なのです。

パウロは、天使礼拝をする人々から結ばれ出る実に目を向けて、「根拠もなく思いあがっている」と指摘しています。天使礼拝をする者、聖人礼拝をする者は皆、なぜか、本人としては自己卑下しながら、謙遜にふるまっているつもりですが、実はそうすることで満足し、思い上がり、甚だしくはエリート意識を持つこともあるのです。さらに言えば他人を裁いたりして、高慢になることが特徴であります。その理由は、頭なるキリストにしっかりつながれていないからです。結ばれて来る実を見れば、偶像礼拝にくっついているのか、イエス様にくっついているのか、それが分かるということです。19節をご覧ください。

“頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。”

神秘体験に依り頼み、肉の思いによって思いあがる理由とは、ずばり、頭であるキリストにしっかりと付いていないからであります。頭の働きによって、体全体は関節と靭帯によって支えられ、堅く結び合わされ、成長し、聖化していくのです。注目すべきことは、ここでは再び「体」つまり「ソーマ」が出てきますが、ここでは、教会を指しています。この御言葉によって改めて、体全体、つまり、教会全体はイエス様によって成長させられ、聖化させられるということを確認することが出来ます。これは何という恵みでしょうか。そして、さらに目を留めたいことは、細胞が成長するのではなく、体全体が、共同体が成長するということです。教会全体が成長し、愛が実として結ばれるのです。聖化とは共同体の業であるということですね。決して人里離れて、単身で神秘体験したり、修行するような歩みではなく、共同体の中で、交わりを通して聖化されていくのです。そして、もう一点指摘させていただきますと、19節からも聖書が禁欲主義を否定していることが分かります。なぜなら頭であるイエス様が、ご自身の体である教会を顧み、大切にし、養ってくださるのです。イエス様がご自分の身体を大切にされているように、私たちも自分の身体を大切にすべきです。結婚を禁じたり、食べ物を禁じたり、自分の体を憎んだりして、禁欲的な生活をするのでは神の御心ではありません。全て神様から与えられたものとして感謝することが重要なのです。エフェソ5:29をご覧ください。

“わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。”

イエス様がご自身の体である教会を養いいたわってくれるように、私たちも決して禁欲主義に魅了されたり、律法主義に惑わされることなく、イエス様にあって自分の体を大切にし、健康管理にも気を配って行きたいと思わされるのです。

【結論】

 本日の箇所から私たちの聖化がイエス様にあって、イエス様の中で、神の恵みによってなされるということを見てまいりました。私たちに想いの中に、さらに上を目指し、さらに充満を体験し、さらに成長したいという渇きが出てくるのも理解できなくもありませんが、その時、人間の戒めを作り、肉の欲望を満足させる宗教を勝手に作ってはなりません。それこそ偶像礼拝だからです。イエス・キリストの内に、実体も、知識も、知恵も、神の満ち満ちた姿も、全てが含まれていて、この方にあって私たちは、天に上げられ、神の家族とされているのです。この方の中で教会は成長し、そして愛の実が豊かに結ばれるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

그림자가 아닌 실체를 바라보며 사는 인생

2021년 7월 18일 센겐다이교회 주일 설교

골로새서 2장 16~23절

서론

 오늘의 구절은 성화에 관해서 쓰여져 있습니다. 믿음으로 사는 우리 교회는 매일 성화의 과정에 있습니다. 즉 우리들은 성장의 과정에 있고, 이윽고 성령님에 의해서 그리스도의 장성한 분량까지 성장할 수 있도록 소망을 가지고 인도하심을 받고 있습니다. 그런데 우리가 성화되는 것은 1차적 요인으로서 하나님께서 하시는 일입니다. 죄인인 우리들이 열심히 노력한다고 해서 매일 성화해 나가는 것이 아닙니다. 성화 된다는 것은 의로운 것과 마찬가지로 일방적인 하나님의 은혜의 선물입니다. 그렇기 때문에 그 때 중요한 것은 우리들이 예수님께 확실히 붙어 있는 것이 가장 중요한 필수 조건이라고 말할 수 있을 것입니다. 목자이신 예수님으로부터 결코 떠나지 않고 어떠한 때에도 붙어 있어야 합니다. 그렇다면 그리스도와 결합되어 그리스도 안에 있는 우리는 그저 매일 매일을 멍하게 있어도 되냐고 묻는다면 그렇지 않습니다. 우리는 예수님 안에 거하는 것 만으로도 바쁩니다. 왜냐하면 성령은 한 사람 한 사람의 마음 가운데 하나님의 뜻과 생각을 두고 우리로 하여금 하나님의 뜻을 행하게 하시기 때문입니다. 그러니까 처음 말한 것과 조금 모순 되는 것처럼 보이지만, 우리는 누구라도 모두 경건한 삶을 살기 위해서 최선을 다하고 마치 올림픽에 출전한 선수처럼 자신의 구원을 위하여 두려움과 떨림으로 주님의 격려 가운데 매일 노력하고 있다고 말할 수도 있습니다. 하나님께서 100% 이시고 우리들도 100%인 것입니다. 어쨌든 중요한 것은 예수님 안에 거하고 예수님과 함께 걷고 예수님께 붙어 있어야 한다는 것입니다. 골로새 지방에 출현한 거짓교사들은 예수님 안에 거할 수가 없었습니다. 16절을 보십시오.

(1) 실체는 예수 그리스도

그러므로 먹고 마시는 것과 절기나 초하루나 안식일을 이유로 누구든지 너희를 비판하지 못하게 하라

바울이 가르치는 복음은 기본적인 금욕주의에 반대했습니다. 은혜는 자연을 파기하는 것이 아니라 하나님이 우리에게 주신 것은 기본적으로 모두 좋은 것이기 때문입니다. 그러나 바울이 말하는 「예수 그리스도를 믿는 믿음으로 의로 여기심을 받다」라는 복음은 당시 많은 사람들에게 오해되었습니다. 바울이 말하는 복음이 「방종주의」라든가 「반율법주의」등으로 불려서 비난당한 것 같습니다. 예를 들어 로마서 3장 8절, 16장 1,2절등을 보면 다음과 같이 되어 있습니다.

로마서 3장 8절

또는 그러면 선을 이루기 위하여 악을 행하자 하지 않겠느냐 어떤 이들이 이렇게 비방하여 우리가 이런 말을 한다고 하니 그들은 정죄 받는 것이 마땅하니라

로마서 6장

1 내가 겐그레아 교회의 일꾼으로 있는 우리 자매 뵈뵈를 너희에게 추천하노니

2 너희는 주 안에서 성도들의 합당한 예절로 그를 영접하고 무엇이든지 그에게 소용되는 바를 도와 줄지니 이는 그가 여러 사람과 나의 보호자가 되었음이라

우리들의 죄를 무조건 용서받는 그 은혜가 크기 때문에 바울이 말하는 것은 「방종주의」「반율법주의」가 아닌가 하는 비판이 있었다는 것입니다. 바울이 말하는 복음은 너무나도 간단해서 그럴리가 없을 것이라고 느꼈을 것입니다. 이와 같이 좀처럼 예수님의 십자가와 부활의 은혜를 이해받지 못했던 것입니다. 이러한 맥락에서 당시 유대교의 일파로 여겨졌던 원시 그리스도 교회는 유대교에서 벗어나는 데 어려움이 있었습니다. 또 동시에 원시 그리스도 교회는 이교의 그리스 문화의 영향으로부터 벗어나는데도 역시 상당한 어려움이 있었던 것 같습니다.

골로새의 형제 자매들에게도 신앙생활을 어지럽게 하는 거짓교사들이 왔습니다. 그들은 금식을 장려 하거나, 축제와 안식일을 지키게 하는 등 소위 절기의 준수를 장려했습니다. 이런 것은 매우 유대적이지만 유대교에는 음료에 관한 규정까지는 없었습니다. 즉 부정한 것과 부정하지 않은 것의 음식에 대한 규정은 있었지만 음료에 대한 것 까지는 언급되지 않았기 때문입니다. 그러한 가르침은 유대적인 것과 그리스 적인 것이 혼합되어 짬뽕 된 것이라고 말할 수 있겠지요. 예를 들어 보통 유대인은 안식일에 금식은 하지 않지만 한 자료에 따르면 당시 골로새 사람들은 안식일에 금식까지 장려되었다고 합니다. 거짓 교사가 왜 그렇게 금식을 고집했는가 하면 신비주의 영향으로 금식을 하면 황홀한 상태가 되어 환상을 볼 수 있다고 들은 것 같습니다. 그리고 마치 구약성경의 예언자 에스겔이 환상을 본 것처럼 바로 그러한 체험을 하고 바울의 복음이 제시하는 것 보다 훨씬 뛰어난 것을 경험할 수 있다고 생각되어진 것 같습니다. 그러나 바울은 그러한 거짓 가르침에 의해서 교회가 미혹되면 안되며 교회가 평가되어서는 안된다고 생각해서 단호히 관계를 끊으려고 했습니다. 바울이 그렇게 말하는 이유는 「지혜」도 「지식」도 「실체」도 그리스도 안에 있기 때문입니다. 17절을 보십시오.

이것들은 장래 일의 그림자이나 몸은 그리스도의 것이니라

17절에 쓰여져 있는 것처럼 초등교육인 구약의 율법 등은 그림자에 불과하다는 것입니다. 실체가 나타나면 그림자는 사라집니다. 저번 주 미나미우라와 교회의 헌당식에 참석했습니다만 건축현장을 떠올려 보십시오. 비계(건설, 건축 등 산업현장에서 쓰이는 가설 발판이나 시설물 유지 관리를 위해 사람이나 장비, 자재등을 올려 작업할 수 있도록 임시로 설치한 가시설물 등을 뜻한다)로 가려진 현장은 공사가 완성되어 신축건물이 드러나면 베일이 벗겨지도록 비계는 해체 됩니다. 실체가 드러났기 때문에 그림자는 사라지는 것입니다. 아니면, 저는 땅콩을 좋아하는데 땅콩을 생각해 보십시오. 껍질은 땅콩을 안에 품고 있지만 껍질 자체는 본질이 아니고 땅콩이 본질이라고 말할 수 있습니다. 이 비유는 구약성경과 신약성경에도 적용 시킬 수가 있겠습니다. 신약성경은 신축건물이며 땅콩껍질에 담겨진 땅콩 그 본질이며 구약성경은 본 건물을 감싸고 있는 비계이며 껍질이라는 것입니다. 그러므로 「구약성경이라는 것은 신약성경에서 처음으로 그 의미가 밝혀지고 신약성경은 구약성경 안에 감춰져 있다」는 것이 됩니다. 교회와 이스라엘의 관계도 이와 같습니다. 교회가 본질이고 이스라엘은 교회를 품은 비계이며 껍질이라는 것입니다. 교회가 탄생하여 밖으로 드러나면 껍질은 사라집니다. 진정한 아브라함의 후손이란 이스라엘의 혈통을 이은 자손입니까? 아니면 성령에 의해 태어난 교회입니까? 갈라디아서를 보면 성령으로 태어난 교회야말로 진정한 아브라함의 후손인 것입니다. 이처럼 이스라엘은 그림자이며, 나중에 태어난 교회가 본질인 몸이라는 것입니다. 할례와 세례의 관계도 같습니다. 할례는 자신의 힘을 죽이는 것을 의미했지만 이것은 남성에게만 베풀어졌습니다. 그런데 신약시대가 되어 세례도 똑같이 자신의 힘을 죽이는 것을 의미하고 있습니다만 세례는 마음의 할례이며 남자와 여자의 차별없이, 유태인과 이방인의 차별 없이, 예수 그리스도를 믿는 사람 모두에게 주신 것입니다.

그런데 17절의 말씀을 좀더 정성스럽게 읽어보면 실체라고 번역되고 있는 말은 그리스어로 소마 즉 「몸」이라고 하는 문자가 사용되어 있습니다. 그리고 그리스도에 있다는 말이 속격이 되어 있기 때문에 17절을 직역하면 「몸은 그리스도에 속해 있습니다」또는「몸은 그리스도에 있습니다 」가 됩니다. 무슨 말인가 하면 즉 그리스도 안에 실체가 있다는 말입니다. 바울에 의하면 그리스도 안에 몸도 있고, 본질도 있고 지혜도 있고 지식도 있고 충만도 있다는 것입니다. 모든 것이 그리스도 안에 있다고 말하는 것입니다. 그렇기 때문에 몸이 나온 이상 언제까지나 그림자의 부분에 구애받아서는 안되고 그림자의 부분을 가지고 넌크리스챤으로부터 비평받아서도 안되며, 당당하라는 말입니다. 다만, 여기서 한 가지 주의하고 싶은 것은 신약시대에 살고 있는 우리들도 하나님과 그리고 영적인 일과 천상의 일에 관해서는 그저 이 지상의 감각적인 형태에 의해서만 말할 수 밖에 없다는 것입니다. 즉, 구약의 시대가 하나님의 나라와 메시아를 기다리던 시대였던 것처럼 신약시대도 역시 재림하실 주 예수를 기다리는 시대이며 종말에 있어서 하늘의 일에 관해서는 여전히 우리들에게 감춰져 있다는 것입니다. 여전히 구약성경에서 사용된 단어 「성전과 제단」, 「예언자와 제사장」, 「시온과 예루살렘」이라고 하는 지상적인 이미지를 통해서 천상의 것을 설명하며, 우리는 이 천상의 일을 믿음의 눈으로 보는 것 외에는 없다는 것입니다. 아직 하나님의 나라는 완전히는 완성되어져 있지 않다는 것입니다. 구약의 백성이 메시아를 소망하며 기다린 것처럼 신약에 살고 있는 우리들도 재림하실 예수를 소망하며 기다리며 믿음에 의해서 살아가고 있는 것입니다. 계속해서 18절을 보시기 바랍니다.

(2) 머리 되신 그리스도에 연결되라

아무도 꾸며낸 겸손과 천사 숭배를 이유로 너희를 정죄하지 못하게 하라 그가 그 본 것에 의지하여 그 육신의 생각을 따라 헛되이 과장하고

꾸며낸 겸손이라고 하는 것이 무엇인가 말하면 “저는 하나님 앞에 서서 직접 기도를 드릴 수 있는 사람이 아니기 때문에 천사를 통해서, 다른 중개자를 통해서 기도하게 해 주십시오”라고 하는 것이라고 생각합니다. 이런 식으로 천사를 숭배하는 일이 만연해 갔을 겁니다. 카톨릭 교회에서 마리아 숭배가 일어난 것도 이와 비슷한 동기로 알려져 있습니다. 즉 “예수님이 가장 기도를 들어 주시는 것은 아마 어머니인 마리아의 기도가 아닐까? 그렇다면 예수님의 어머니에게 기도를 바치고 마리아를 통해서 하나님께 소원을 말해보자!”라는 것입니다. 이렇게 하여 마리아 숭배가 태어나고 성인 숭배가 열심히 행해져 갔다고 하는 것입니다. 우리의 유일한 중보자는 예수님이며 예수님 이외의 것으로 하나님께 다가가려는 행위는 모두 우상 숭배가 됩니다. 천사나 마리아나 성인을 직접 숭배하지는 않지만 그들의 중개를 통해서 하나님을 섬기려 한다면 우상 숭배가 된다는 것입니다. 이 점은 특히 우리가 주의해야 할 점이라고 생각합니다. 왜냐하면 구약 성경에서 출애굽한 이스라엘 백성이 황금 송아지를 만들어 우상 숭배를 해 버렸지만 그들은 결코 금 송아지 자체를 하나님으로 숭배한 것이 아니었기 때문입니다. 그것은 언약궤처럼 하나님이 앉으실 수 있는 받침대이며 하나님을 거기에 모셔 오려고 한 것에 지나지 않기 때문입니다. 즉 금송아지를 통해서 하늘에 다가가려고 한 것이 죄인 것입니다. 또한 우리가 미신자의 장례식에 참석했을 때를 떠올리십시오. 시체가 제단의 중심에 놓여져 유영(고인의 사진이나 초상화)이 그 위에 장식되어 있습니다. 그렇게 하면 아무리 그리스도인이라 하더라도 모두가 하고 있는 것처럼 그 유영에 가볍게 인사를 하거나 예를 올리거나 하게 됩니다. 참렬하는 사람들도 시신을 설마 하나님처럼 여기고 예를 하고 있는 것은 아닙니다만 마음의 어딘가에 시신이나 유영을 통해 하늘에 가까워지려는 생각이 거기에 있다고 생각합니다. 우상 숭배란 결코 하나님을 부정하지도 예수님을 부정하지도 않지만 예수님 이외의 중재자의 역사를 인정하는 것이 우상 숭배입니다.

바울은 천사 숭배를 하는 사람들로부터 맺어지는 열매에 눈을 돌려서 「근거도 없이 우쭐하고 있다」라고 지적하고 있습니다. 천사 숭배를 하는 자, 성인 숭배를 하는 자는 왠지 자신을 비하하면서 겸손하게 행하고 있다고 생각하고 있을테지만 맺어지는 열매는 그러한 꾸민 겸손에 만족해하며 우쭐해 하고 심각하게는 엘리트 의식을 가지는 일도 있습니다. 한층 더 말하면 타인을 심판하기도 하고 교만하게 되는 것이 특징입니다. 그 이유는 머리 되신 그리스도께 단단히 연결되어 있지 않기 때문입니다. 맺어지는 열매를 보면 우상 숭배에 붙어 있는지 예수님께 붙어 있는지 그것을 알 수 있다는 것입니다. 19절 참조하세요.

머리를 붙들지 아니하는지라 온 몸이 머리로 말미암아 마디와 힘줄로 공급함을 받고 연합하여 하나님이 자라게 하시므로 자라니라

신비체험에 의지하고 육의 생각에 의해서 우쭐해 하는 이유란 단도직입적으로 말해서 머리되신 그리스도에게 확실하게 붙어있지 않기 때문입니다. 머리의 활동에 의해서 몸전체는 관절과 인대에 의해서 지지되며 단단히 결합되어 성장하며 성화되어 가는 것입니다. 주목해야만 하는 것은 여기에서 다시 「몸」 즉, 「소마」가 나옵니다만 여기에서는 교회를 가르키고 있습니다. 이 말씀으로 다시한번 몸 전체 즉, 교회 전체는 예수님에 의해서 성장되고 성화된다는 것을 확인할 수 있습니다. 이것이 어떤 은혜입니까? 그리고 더 눈여겨 보고 싶은 것은 세포가 성장하는 것이 아니라 몸 전체가 공동체가 성장한다는 것입니다. 교회 전체가 성장하고 사랑이 열매로 맺어지는 것입니다. 성화라는 것은 공동체의 일이라는 것을 알 수 있는 것입니다. 결코 동떨어져 자기 혼자 신비적 체험을 한다거나 수행하는 행보가 아니라 공동체 안에서 교제를 통해서 성화되어 가는 것입니다. 그리고 또 한가지 지적하자면 19절부터도 성경이 금욕주의를 부정하고 있다는 것을 알 수 있습니다. 왜냐하면 머리되신 예수님께서 자신의 몸인 교회를 돌보고 소중히 여기고 양육하고 계시기 때문입니다. 예수님이 자신의 몸을 소중히 여기시는 것처럼 우리들도 자신의 몸을 소중히 여겨야만 합니다. 결혼을 금하거나 음식을 금하거나 자신의 몸을 미워하고 금욕적인 생활을 하는 것은 하나님의 뜻이 아닙니다. 모두 하나님으로부터 받은 것으로 감사해야 합니다. 에베소서 5장 29절 참조하십시오.

누구든지 언제든지 제 육체를 미워하지 않고 오직 양육하여 보호하기를 그리스도께서 교회를 보양함과 같이 하나니

예수님께서 자신의 몸인 교회를 양육하여 기르시는 것처럼 우리들도 결코 금욕주의에 매료되거나 미혹되는 일이 없도록 예슈님 안에서 자신의 몸을 소중히 여기고 건강관리에도 신경써야 겠습니다.

결론

 오늘의 구절에서 우리들의 성화가 예수님께 있고 예수님 안에서 하나님의 은혜에 의해서 이루어진다는 것을 살펴보았습니다. 우리의 생각 가운데 더욱더 위를 향하고 더욱더 충만을 체험하고 더욱더 성장하고 싶다는 갈증이 나오는 것을 이해할 수 없는 것은 아니지만 그 때 인간의 계명을 만들어 육의 욕망을 만족시키는 종교를 멋대로 만들어서는 안됩니다. 그것 이야말로 우상 숭배이기 때문입니다. 예수 그리스도 안에 실체도, 지식도, 지혜도, 하나님의 충만한 모습도 전체가 포함되어 있습니다. 이 분에 의해서 우리는 하늘로 올리워져 하나님의 가족이 된 것입니다. 이 가운데 교회는 성장하고 그리고 사랑의 열매가 풍성하게 맺어지는 것입니다.

関連する説教を探す関連する説教を探す