2021年07月04日「キリストの割礼である洗礼を受けて」

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2:8人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。
2:9キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、
2:10あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。
2:11あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、
2:12洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。
2:13肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、
2:14規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。
2:15そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コロサイの信徒への手紙 2章8節~15節

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【序】

 教会は羊飼いであるイエス様に養われる羊の群れであります。狼であるサタンは羊飼いがいる限り、美味しそうな羊をさらって行くことはできません。サタンがそこで思いついた作戦というのは、とにかく羊を羊飼いから分離させる作戦です。もし羊が一人でさまようなら、簡単に羊を虜にして料理することが出来るからです。昔、カレーのCMで「おせちもいいけどカレーもね」というキャッチフレーズがありました。私は今でもそのキャッチフレーズを覚えています。「おせちもいいけどカレーもね」という言い方は、決しておせち料理を否定していませんが、したたかにカレーを挟み込んでくる手法だと思います。サタンの手口もこれと大変似ていて、「キリストもいいけども、○○もね」例えば「キリストもいいけども、割礼もね」という具合に、決してキリストを否定しませんが、キリストを相対化させたり、キリストに何かプラスαを加えることによって、実質的にキリストから離れさせようとするのです。8~10節をご覧ください。

【1】. 仲保者の意味

“人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。”

パウロはコロサイ地方で流行していた思想のことを、「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事」であると表現しています。ここで注意したいことは、パウロは決して哲学という学問そのものを否定しているわけではないということです。なぜなら哲学というのも一つの学問であって、学問それ自体、善でも悪でもないからです。それでは何が問題なのかと言うと、その哲学を持って宗教を作り出そうとする試みです。或いは人間の伝統や風習によって、人間が神を頭の中で想像し、ある宗教を勝手に作り出そうとすることが問題だというのです。究極的に言えば、私たちには、次の二つの内一つしかありません。それは、世を支配する霊に従ってその列に並ぶのか、或いは、キリストに従ってその列に並ぶのか、どちらかです。この世の全ての宗教は、人間によって考え出された宗教であり、偶像やサタンを拝む宗教であります。キリスト教が唯一、真の宗教である所以は、それが、人から出たものでなく、神の啓示によって与えられた宗教であり、神様が人間に、ご自身を啓示してくださったからであります。人間は、神様がご自身を現わしてくださった限りにおいて神知識をもつことが許されるのです。そして、人間は、神様がおっしゃられた礼拝の仕方を通して、神様に礼拝を捧げなければなりません。旧約の時代、神様はご自身の民に律法を与えてくださったので、律法の規定に従って神様に礼拝を捧げることが出来ました。もし、律法の規定に従わないで自分勝手に礼拝を捧げるなら、それは罪に定められました。新約の時代には、神様はご自身の民にイエス・キリストを与えてくださいました。私たちはイエス・キリストを通して神様に礼拝を捧げることが出来るのです。イエス様を通してでなければ私たちは神様に近づくこともできませんし、神様に礼拝を捧げることもできません。このような意味においてイエス様は私たちの唯一の仲保者であると言うことができるのです。

それでは、仲保者とは何かと申しますと、文字的には仲介人、仲人という意味です。そもそも人間はアダムが罪を犯してしまったことによって堕落してしまい、人は誰でも例外なく、生まれつき罪ある者として生まれてくるようになりました。従って、罪人である人間には、アダムとエバが罪を犯す前に、自由に享受することができた神様とのあの交わりが、断絶されてしまいました。人間と神様の間には、深い、底知れない深淵が横たわっていて、誰もそれを飛び越えて、超越された神様と自由に交わることが出来なくなりました。ところが神様が、みずから進んで罪人の所に訪ねてきて下さり、キリストという梯子、キリストという階段を掛けてくださり、もう一度、人間との交わりを回復されようとされました。その約束が、エデンの園において堕落した直後に与えられています。所謂、原福音と呼ばれている創世記3章15節の御言葉です。

“お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」”

お前というのが蛇のことです。女はエバです。この約束は、イエス・キリストの十字架によって成就されました。十字架はまさに創世記の堕落直後から預言されていた「時の中心」であり、旧約時代の歴史は、この十字架に向かって収斂されていくのであります。

それでは、コロサイ地方において流行していた教えとは、どのような教えかと言いますと、彼らもやはり、イエス・キリストを、神と人間の間の仲介者として認めていました。しかし仲介者は仲介者でも、キリストは唯一の仲介者ではなく、他の天使たちや、ある霊的は存在も、やはり神と人との仲介者として考えられていました。あくまで、キリストはそのような霊的存在の中の一つに過ぎないということです。それでは、偽りの教師たちの教える仲介者と、パウロの教える唯一の仲保者とでは、一体何が違うのでしょうか。決定的な違いは、パウロの教える仲保者とは、人となって、私たち罪人の罪を代わりに償ってくださったという点でございます。つまりキリストの十字架の出来事をどのように捉えるかという点において、その違いが明瞭に出てくるのです。御子が、父の御許にいたあの栄光を全て放棄し、人となられ、低く僕としてこの世に来られたその理由は、罪は別として、あらゆる点で罪人と等しくなるためでありました。そして、私たち罪びとの目線に立たれ、私たちの罪を償うために、罪のないお方が、代わりに十字架に掛けられ、呪いを受けられたのです。

一方、偽りの教師たちは、十字架をそのような代理贖罪の死として捉えません。第一に、キリストが私たちの罪を贖うために、人となられたということを決して認めることができません。霊と肉を別々に考えようとします。もっと言えば、キリストの霊は十字架の瞬間に、青年ナザレのイエスから出て行ったに違いないと空想を広げるのです。第二に、キリストが神ご自身であることも認めません。キリストは天使の一人であったり、ある霊的存在の一人として考えます。ですからナザレのイエスのその十字架の死とは、たまたま偶然に起こった出来事であると考えて、決して「神の時の中心」、「歴史の転換点」などとは考えません。しかしパウロは、十字架に死なれたキリストにこそ、神の満ち溢れる充満が宿っておられ、そして、すべての支配や権威の頭であると大胆に主張するのです。

【2】. 神の民の特権

 コロサイ書に戻って続いて11~14節をご覧ください。ここでは、洗礼を受けたコロサイ人が、イエス様から頂いた特権について書かれています。

“あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。”

ここで、「割礼」と「洗礼」という言葉が出てまいりますね。そもそも割礼とは何かと言えば、男性の包皮を切り取ることですが、これは生殖機能の死を意味していました。割礼の意味について少し考えてみたいと思いますが、聖書の中で割礼はアブラハムにまでさかのぼります。アブラハムは神様から創世記15章5節において、あなたの子孫は星のように増し加えられるだろうという約束されていました。ところがその約束を待ちきれず16章において女奴隷のハガルを通してイシュマエルをもうけてしまいました。創世記16章2節をご覧ください。

“サライはアブラムに言った。「主は私に子どもを授けてくださいません。どうか私の女奴隷のところに入ってください。そうすれば私は彼女によって子どもを持つことができるかもしれません。」アブラムはサライの願いを聞き入れた。”

16章の最後に、イシュマエルを生んだ時のアブラハム年齢が86歳であったと書かれています。次に17章に移りまして、アブラハムが99歳になった時に、神様は再びアブラハムに、語り掛けますが、この間の13年間、神様はアブラハムに対して沈黙し続けたと考えられます。この沈黙は「なぜ私の力に信頼しないのか!」とアブラハムに懲らしめを与えるための沈黙期間のようでした。神様はアブラハムに対し「自分の力で生きるのか?それとも、自分に死んで、恵みの力によって生きるのか?」と問い質しているのです。この質問は現代に生きる私たちにも、そのまま適用できるでしょう。信仰とは、自分の力で生きるのか、それとも、自分に死んで、イエス様によって、恵みの力によって生きるのか、という闘いであるということです。アブラハムが99歳になった時に、神様はアブラハムに割礼を命じられました。17章12~13節をご覧ください。

“あなたがたのうちの男子は皆、代々にわたって、生後八日目に割礼を受ける。家で生まれた者、また、あなたの子孫ではないが、外国人から銀で買い取ったすべての者がそうである。あなたの家で生まれた者、またあなたが銀で買い取った者は必ず割礼を受けなければならない。私の契約は、あなたがたの体に記された永遠の契約となる。”

神様は、このようにして割礼を命じられ、その一年後にイサクが生まれました。アブラハムが100歳、サラが90歳の時の出来事です。もはや死んだも同然のような体であるアブラハムとサラから、イサクが与えられたのです。まさにイサクは神様の恵みによって生まれた約束の子であり、イシュマエルが肉の力によって生まれてきたのに対して、イサクは奇跡によって生まれてきた子でありました。従って割礼というのは、自分の力に死ぬということを象徴していたのです。コロサイ書の表現を借りるなら、肉の体を脱ぎ捨てるということを象徴していたのです。

これと同じように洗礼も、古い自分に死ぬこと、肉の体を脱ぎ捨てることを意味しています。洗礼は、川の中にジャボン!と沈められた時に、キリストと共に十字架上で死んだという意味です。そして川から起こされる時にキリストの復活と共に蘇らされたことを象徴しています。異邦人であるコロサイ人は、当然、その身に割礼を受けていませんでしたが、「実はあなた方が受けたあの洗礼は、旧約において割礼を受けたことと同じですよ!」と、パウロは説明しているのです。コロサイ人の受けた洗礼とは、キリストの十字架の死を意味しているということです。罪のないイエス様が十字架につけられたのは、私たちの罪を代わりに償うためでありましたが、十字架上においてまさに私たちを日々責め立てている債務証書が全てくぎ打ちされて、イエス様によって処罰されました。すると、どういうことになるでしょうか。刑罰は執行されて、罪人である私たちの罪が完全に贖われ、自由にされたということです。イエス様を通して神と和解され、交わりが再び回復されたということです。それだけではなく、キリストにおいて神の充満が、満ち溢れているように、キリストに結ばれているコロサイ人においても、やはり神の充満が満ち溢れているのです。コロサイ書に戻りまして2:15節をご覧ください。

“そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。”

ローマ皇帝が勝利の凱旋の為にローマに帰ってくるときに、武装解除された敵兵が皇帝の後を鎖につながれてみじめな姿で歩かされました。彼らはローマ帝国の奴隷としての身分になり下がる訳ですが、この時、敵兵は公然と見世物にされて辱めを受けるのです。このことがイエス・キリストの十字架においても起こったというのであります。キリストの十字架上で起こったことは、イエス様が裸にされ、辱められ、あたかもサタンの王国の勝利であるかのように映りました。ところがその後に大逆転が起こったのです。キリストが息を引き取られた瞬間に、神殿の幕が上から下に真っ二つに引き裂かれ、新しい契約がキリストの血潮に基づいて立てられ、私たちを訴え、私たちを不利に陥れていたすべての債務証書が完全に破り捨てられました。キリストにおいて律法が完全に成就され、隠されていた神の秘義が公然とされたのです。イエス様は十字架と復活によって死に勝利され、悪魔の働きを滅ぼし、悪魔と悪霊どもは凱旋において辱められ、見世物とされ、そのまま獄に縛り付けられました。ヘブライ人の手紙2:14-15をご覧ください。

“ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。”

キリストの十字架の死とは、このように栄光に満ちた神の御業であるということです。そして忘れてはならないのは、コロサイ人が受けた洗礼は、まさにこのキリストの十字架の死を振り返って指し示しているということ、つまり、コロサイ人もキリストと共に十字架に葬られ、復活のキリストがコロサイ人の一人一人の内に生きておられるということです。もう一つ注目したいこととして、文法的なことですが、12~13節に共に葬られ、共に復活させられ、共に生かしてくださったという、三つの「共に」が出てまいります。この後の動詞に注目しますと、全て過去形になっています。つまり、葬られたこと、復活させられたこと、生かしてくださったことがすべて既成事実として過去の出来事であり、コロサイ人においてもう既に復活は起こったということが強調されています。

【結論】

 ですから、たとえこの世が、神秘的で、強烈で、刺激的で、新しく魅力的な誘惑をもって、私たちに近づき、「キリストもいいけど○○したら」どうか、などと迫ってくる時に、私たちには唯一の仲保者であるイエス・キリストがいることを決して忘れてはなりません。パウロの強調していることは、すでに共に葬られたこと、すでに共に復活させられたこと、すでに共に生かしてくださったことであります。たとえ、キリスト者のこの世における信仰の歩みが、待ち望む歩みとなりますが、御言葉によって或いは礼典によって日々養われながら、この既成事実の上に堅く立ちつつ、そこに目を留めつつ、信仰が強固にされるように歩ませていただきましょう。

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