2021年06月20日「神の秘義、キリスト」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:21あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。
1:22しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。
1:23ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。
1:24今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。
1:25神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。
1:26世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。
1:27この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。
1:28このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。
1:29このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コロサイの信徒への手紙 1章21節~29節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

先週は、キリスト賛歌の箇所から、イエス・キリストが創造において長子であられ、源であられ、根源であることと、そして再創造においてもやはり、長子であられ、源であられ、根源であることを学びました。実に万物の創造主であり、神であられるお方が、十字架に掛けられたのは、罪によって神様と敵対してしまったこの世と、神様との関係を和解させ、神の燃えるような怒りを宥めるための犠牲の生贄であったということを見てまいりました。パウロは、イエス・キリストというお方がどれだけ素晴らしく、どれだけ有り難く、どれだけ偉大なお方なのかを説明した後に、このお方を救い主として受け入れた、コロサイにある家の教会のお一人お一人に対して、実際にあなた方の中で起こった経験に目を向けさせています。彼らに起こった変化とは、一言で言えば、信仰が与えられたことです。このことが大変重要なことであり、本日のテーマです。彼らは、信仰が与えられたために、過去において自分がどれほど罪深く、神様に敵対していたのか、むしろサタンの手先のような歩みをしていたのか、その、目を覆いたくなるような自分の黒歴史について、気づきが与えられたということを指摘しています。また、信仰が与えられたために、罪の赦しの確信と、深い平安が与えられ、今や目が開かれて、物の見方と価値観と完全に変えられ、生きる目的が完全に変えられたことについて指摘しています。このような変化は、自分がいくら勉強しても、いくら賢くなっても気づかないものです。信仰が与えられて初めて理解することが出来る事柄です。従って信仰とは、自分自身で獲得するものではなく、神様から与えられるものであるということが分かるのです。信仰とは神様から「フウ」と、息を吹き込まれるようなものです。私たちキリスト者は、どのようなタイミングでなのかは、分かりませんが、福音を聞き、キリストにある希望について聞かされて、ある時、信仰が与えられ、聖霊が吹き込まれて新しく生まれ変わり、信仰によって歩み出すようにされたのです。それは、言ってみれば、奇跡的な誕生のようであり、まさに「再創造」と呼ぶにふさわしい瞬間であり、コロサイの人々の上にも、(いつか、はっきり分かりませんが)、そのことが起こったのであります。ですから、信仰とは、例えて言うなら、神の子どもの自然な呼吸のようなものであります。肉から生まれた者は、息を止めると死んでしまいますね。同じように霊から、上から新しく生まれた者は、信じることを止める時に死んでしまうのであります。従ってキリスト者はこの世の人生の旅路において、天のエルサレムへのその巡礼の中で、一時も信じることを止めることが出来ませんし、一旦神様から信仰が与えられたなら、そこに堅く踏みとどまらなければなりません。本日、パウロが語っているのは、私たちが一時も手離してはならない、この、信仰についてです。私たちは見えるものに従って歩むのではなく、信仰によって歩むからです。しかし、偽りの教師たちは、「あなたも今、秘密の儀式を通して手に入れることが出来ます。聖書には書かれていない隠された事を教えてあげましょう」などと吹聴しました。神の約束が今、この世において完全に成就すると教えるために、もはや神の約束に対する希望を持つ必要はなくなってしまいます。信仰を持って歩む必要がなくなってしまいます。

確かに私たちキリスト者は、やがて信仰や希望が必要なくなる時が来るでしょう。その時は、いつなのかと言いますと、それは、ズバリ、キリストの再臨の時であり、神の国が完成される時です。その時になれば信仰と希望はなくなって、愛だけが永遠に残ることになります。その時、私たちが信じていたことが、ことごとく成就されるからです。しかしこの世においては完全に成就される訳ではありません。この世においては、私たちは信仰によって歩む者、信仰によって生かされる者なのです。21~23節をご覧ください。

【1】. 完全な者

“あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。”

22節に着目しますと、「神の前に、聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」とあります。これは、イエス・キリストのような完全さを意味しています。私たちはキリストの似姿に変えられるという意味です。しかし、そうは言っても、たとえ私たちは信仰によって歩み始めたからと言って、罪が全て消えるわけではありませんね。私たちは救われたのにも拘わらず、相変わらず日々罪を犯してしまう、弱く惨めな者であります。するとこの22節は、嘘・偽りを言っているのでしょうか。そうではありません。新しく生まれ変わったキリスト者の命の源である、イエス・キリストが天の御父の右におられる限り、キリスト者の命も、やはりキリストと共に神の中に隠されていて、この世で生きる間は、信者たちには本当の自分の姿とでも言ったらいいでしょうか、真の姿は依然として天に隠されているのです。しかし、やがて私たちが天に引き上げられる時に、イエス様と顔と顔を合わせるようになり、栄化され、その時には完全にされるという事です。1コリント13章12節をご覧ください。

“わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。”

キリストの体である教会はこの世にあっては不完全であっても、天に引き上げられてキリストと顔と顔を見合わせて、完全にキリストを知るようになり、聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として立たせてくださるのです。続いて24節をご覧ください。

【2】. 信仰者の歩み

“今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。”

パウロは現在、獄中にいるわけですね。もしかしたら、偽りの教えを説く者たちは、パウロのその無様な姿をもって、彼のリーダーシップと教えが、疑わしい証拠だと言ったのかもしれません。ところが、パウロはそのことを逆手にとり、むしろ「今、自分が、福音のために苦しむことを喜びとしている」、さらには、「教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」と言っています。これは一体どういうことでしょうか。まさか、キリストの十字架によって捧げられた生贄の犠牲では、その流された尊い血では、贖罪の代価として十分ではなく、まだ不足していると言っている訳ではありません。なぜなら、もしそうなら、今までパウロが自分で主張してきたことと完全に矛盾してしまうからです。ここでパウロが言わんとしていることは、キリスト者はキリストと密接に結合されているために、自然にキリスト者の人生は、キリストを証しするような人生を歩むことになるということだと思います。イエス様の生涯が苦難を通して栄光に入れられたように、キリストの体である教会も、この世においては、なぜかキリストの姿がだんだんとあぶり出されていくように、苦難を経験することになるのです。使徒言行録14:22には次のような御言葉がございます。

弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。

ここにもやはり「苦しみ」という単語が出てきますが、コロサイ書1:24節と「苦しみ」と同じ単語が使用されています。私たちキリスト者は、誰であれ、この地上において苦難を経験するようになり、そして天に召され時には、高く引き上げられるということです。キリスト者は、キリストと共に十字架に掛けられ、葬られ、復活し、神の右に座り、栄光を受けるのです。キリスト者は、キリストの服を着て、キリストのかたちを自分たちの中であぶり出されていき、キリストの苦難と命を自分たちの肉体の中で表し、キリストの中で完全とされていきます。そのことを知っていたパウロは、神様が自分の人生に与えてくださった苦しみや患難から、決して逃げ出すことはせず、苦しみを全てそのまま甘んじ、享受しました。垂直飛びでより高くジャンプするためには小さく屈まなければならないのです。自分が今まさに、苦しんでいるのは、自分が神様の福音を正しく宣べ伝えている証拠であると、偽りの教師たちに論証しているかのように聞こえてくるのです。続いて26~28節をご覧ください。

【3】. 神の秘義、キリスト

“世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。”

ここでは、偽りの教師たちが好んで使う言葉である「秘められた計画」と、「代々にわたって」という言葉があえて使用されています。そのため、パウロが言っているのは、偽りの教師が語る教えに対する弁証だと思われます。この「秘められた計画」とは、新しく出た、聖書協会共同訳では「秘義」と訳されていまして、ギリシア語ではミュステリオンです。因みにこの言葉はイエス様も用いられています。マタイによる福音書13:11をご覧ください。

“イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。”

マタイ福音書では「秘密」という言葉で翻訳されています。この秘密という言葉を偽りの教師たちは好んで使ったわけです。「自分たちの秘密の神の教えを教えて差し上げましょう」ということです。そしてもう一つ気になる言葉があります。それは、「代々にわたって」とは、新しい聖書では「幾世代にもわたって」と訳されています。ギリシア語ではアイオーンの複数形です。つまり、「幾世代」とか「永遠」という意味です。ラテン語ですとイオンモールの「イオン」です。このような言葉が少しずつ独り歩きして行き、異端の思想が形成されたと考えられています。というのは、ギリシア神話を見ますと、例えば時間、(ギリシア語で「クロノス」と言いますが)ギリシア神話では、この時間という言葉が神格化され、神々の一人として考えられたり、或いは、世代、つまり「アイオーン」という言葉も、神格化され何か霊的な存在として考えられています。こういった影響を受けて、偽りの教師たちは自分たちの教えの中で、秘密の儀式を通して、神格化されたアイオーンを語りながら、聖書の教えを、完全に似て非なるものへとすり替えて行ったと思われます。

このような異端の教えの問題点は、つまるところ、イエス・キリストを格下げして、あたかもアイオーンの一人であるかのように相対化させることと、そして、もう一つ重要なことは秘密の儀式を通して、この地上で、完全に至ることができる、この現世において充満にいたることができる、完成することができると教えることです。そうしますと信者の命綱であった信仰が、もはや不要なものと勘違いされてしまうのです。偽りの教えとは、信者の呼吸である信仰を不要なものとさせ、命を枯渇させ、死に至らせようとするのです。この点が聖書の語る秘義と全く異なる点でございます。それでは、パウロの言う聖書的な秘義とは、一体何でしょうか。イエス様も言及されたように、秘義という言葉は、啓示された神の国に関するものです。私たちが神の国へ入るための門であるキリストは、旧約の時代、律法や儀式の中に隠されていました。ですからイザヤ書などに将来、異邦人が救われることが約束されていますが、それはあくまで割礼を受けて、ユダヤ人になって救いに入れられると理解されていました。しかし、現在、キリストの十字架と復活によって隠されていた神のご計画が、公に完全に啓示され、コロサイ人のような異邦人であっても、イエス・キリストを信じるなら誰もが救われて、神の国に入れられるという福音が、今、世界中に伝えられたのです。つまり、聖書の中で「秘義」という時、最初に律法や儀式の中にかくされていた内容が、後の世代になり、福音の中で知らされて、世界中、至るところに宣べ伝えられ、今や信者たちであれば、皆が知っているイエス・キリストのことを指し示しているのです。しかし、だからと言って、それは誰にでも理解できる自明の事柄ではありません。なぜなら、福音の中にはイエス様の受肉や、イエス様の復活、イエス様との神秘的結合などが語られるからです。こういうことは科学によって説明することはできず、理性によって理解することはできない事柄であり、罪びとである人間にとって、その恵みは信仰によってでしか受け入れることができないからです。聖書の言う秘義とは、信者であれば誰でも知っているイエス・キリストであり、私たちの信仰を下から支える栄光の希望なのです。ですからキリスト者は、その秘義であるイエス様のことを学問的な意味から理解して、悟っているのではないという事ですね。キリスト者も、イエス様のことを「部分的に知っているのであり」、「鏡におぼろげに映っている」イエス様のお姿を見ているのであって、日々のイエス様との交わりを通して、イエス様のことをもっともっと、知って行く者とされ、成長していく者とされているのです。従って、聖書の言う秘義とは、信仰に進ませるものであり、やがて受けることになるイエス・キリストを仰がせるものなのです。

【結論】

神様から信仰が与えられ、暗闇から光へと移され、神の国へ入れられたキリスト者の歩みとは、天に約束されている栄光へ向かう歩みであります。一方で偽りの教えとは、秘密の儀式や秘密の教えに目を向けさせて、キリスト者の信仰やキリストの内にある希望を不要にさせる教えです。ですからキリスト者はそのような異端の教えに用心して、生涯この信仰に踏みとどまらなければなりません。信仰とはキリスト者にとって呼吸のようなものであり、キリスト者は信仰の歩みを通して、少しずつキリストのお姿が形成されていきますが、そのことは何よりも苦難を通して確認することが出来るのです。信仰によって歩む者は、イエス様がそうであったように、この世にあって必ず苦難の道を通るようにされます。信仰の苦難を受けているという事はキリストが形作られていることの証拠なのです。私たちはまだ信仰によってキリストのおぼろげな姿しか見ることは許されておりませんが、やがて顔と顔を合わせ、神の前に、聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として造りかえられるのです。

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