2021年06月13日「御子は見えない神のかたち」

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1:15御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。
1:16天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。
1:17御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。
1:18また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。
1:19神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、
1:20その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コロサイの信徒への手紙 1章15節~20節

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【序】

 本日は伝道礼拝となります。このように普段来られない方と共に礼拝を捧げられる恵みを心より感謝いたします。本日の箇所はキリスト賛歌とよばれておりまして、時々クリスマス礼拝などで取り上げられる聖書箇所でもあります。1:15~20節まで、詩のように整えられていますから、おそらく、パウロは、当時、実際にキリストを称えるために使用されていた、そして、コロサイの人々にも馴染みのある賛美歌の中から、若干の補足的な加筆を加え、それを引用したものと考えられています。パウロがなぜこの賛美歌を引用したのかというと、この賛美には、創造においてキリストがナンバーワンであり、根源であり、源であることと、再創造においても、やはりキリストがナンバーワンであり、根源であり、源であることが、はっきり歌われているからだと思われます。コロサイの人々の信仰生活において、イエス様がだんだん、ぼやけて行く中で、普段自分たちが歌っていた賛美の解説を改めて聞かされて、目が覚めるような思いをしたに違いありません。今、「創造」と「再創造」と言いましたが、何だ?と思われる方もおそらくいらっしゃるのではないでしょうか。創造はいいとしても、「再創造とは、何ぞや」と言いますと、これは神学用語で、キリストの贖いの御業を指しています。つまり、私たちがイエス様を信じて、新しく生まれ変わることを意味します。聖書全体に一貫して書かれていることは、創造が、神様の働きの完了ではなくて、次に再創造が準備されており、最終的に神の安息に入るという流れがあり、これが神の摂理によって導かれているということです。自然のものが最初にあって、それから霊のものがあります。最初の人アダムは、「創造」を象徴し、第二のアダムであるキリストは、「再創造」を象徴しています。少しわかりづらいかもしれませんが、自然現象から例をあげますと、最初は小さく、醜い種で蒔かれ、種が土の中に落ちて死ぬと、芽が出て、葉が茂り、美しい花を咲かせますね。或いは、最初は醜い青虫として生まれ、やがて死んだように蛹となり、それから復活するかのように孵化して、蝶となり自由に飛び回るのです。これと同じように人間も、最初の人は土から造られ、地に属する者であり、第二の人は霊によって造られ天に属する者であるということです。神様は創造を終えて、ご自身の働きをパタッと止められたのではなく、神様の摂理の中で創造は再創造に向かうようになっていて、そして最後に神の国が完成されるのです。ですから神様は、万物を創造してから悠久の時を経て、今も休まずに再創造のために万物を統治し、保持し、働いておられ、最終的な安息に向かっているのです。

【1】. 創造の源泉であるキリスト

 それでは、コロサイの教会に、異端の教えを吹き込んでいたと思われる、その偽りの教えとは、一体どのような教えだったのでしょうか。はっきりとしたことは分からず、推測の域を出ないものですけれども、コロサイの地域にもディアスポラのユダヤ人が一定数いたようで、特にギリシア語しか話せないユダヤ人も多くいました。そして、コロサイを訪問する偽りの教師たちによって、ギリシア哲学を通して聖書が解釈され、ギリシア哲学を通して、信仰の歩みに充満が与えられると教えられていたと思われます。キリスト者であれば誰であれ、聖霊の満たしを求め、早く成長したいと願うものと思いますが、そういった願望に漬け込んできて、偽りの教師は「いい方法がありますよ!」などと触れ回っていたのではないでしょうか。当時のギリシア哲学が無条件に悪いということではありませんが、キリスト教とチャンポンになって、聖書に書かれている内容を超えて、いろいろと新しい事柄を付け加えるという所に、この教えの問題点がありました。具体的に例をあげるなら、第一に、神様が悪を創造されるはずがないので、悪に満ちているこの世は、神様の創造ではなく、ある霊的存在によって創造されたと考えたり、或いは天使によって創造されたと考えた点です。これは所謂、霊肉二元論的と言われるものです。霊の世界は神様が創造されたけれども、肉の部分は天使によって創造されたと考える見方です。第二に、イエス・キリストを神の独り子ではなく、神と人間の間にいる数多くの媒介者である天使の一人であると考えた点です。これは三位一体の教理をどうしても受け入れられず、仲保者であるキリストが神ではなく、神様の道具に過ぎなかったというふうにイエス様を格下げしてしまいました。このような教えに対して、パウロはどのように弁証していったのでしょうか。賛美の前半部分であるコロサイ書1章15~17節をご覧ください。

“御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。”

15節は少し注意しなければなりませんが、イエス様は全てのものが造られる前に「造られた」被造物ではなく、父なる神様から「生まれた」お方であるということです。「造られた」という言葉と「生まれた」という言葉の使い分けに注意を払わなければなりません。ヨハネの福音書の中で、フィリポは、イエス様に「どうか私たちに、御父をお示しください。そうすれば満足できます」と質問しましたら、イエス様は、「わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示しください』と言うのか」と言われましたね。イエス様は神の本質の現れであるということです。続いて、「すべてのものが造られる前に生まれた者」という言葉は、ギリシア語で「プロトトコス」という言葉で「長子」とか、「初子」という意味です。この長子という言葉は、時間的なナンバーワンではなく、時間とは関係のない、名誉や栄誉としての、ナンバーワンとか、根源とか、源という意味です。というのは、旧約聖書でこの言葉が、何度か使われていますけれども、神様は末っ子のダビデを指して“わたしは彼を長子とし/地の諸王の中で最も高い位に就ける。(詩編89:28)”と言われたからです。つまり、プロトトコス(長子)とは、ナンバーワンであり、源泉であり、源であるという意味です。イエス様は創造において、プロトトコスとなられました。ギリシア哲学の言うように、創造とは天使の業ではなく、イエス様ご自身の御業であるということです。

16節は、15節を補足説明しています。天にあるものも、地にあるものも、見えるものも、見えないものも、王座も、主権も、支配も、権威も、全て御子によって創造されたと書かれていますから、御子は天使たちよりも、諸々の王座や主権や支配よりも優れているということです。当時、ギリシア哲学の影響で天使たちがほとんど神様と同等であるかのように考えられていましたが、ここで、天使とはただの造られた被造物に過ぎず、創造主である御子が、何者にもまさって優れていることが強調されているのです。

また、16節から17節にかけて「御子において、御子によって、御子のために」という言葉が続いていますが、ここで言われているのは、天地万物の創造は、御父だけの御業ではないということです。御父の考えられた青写真に従って、御子の中で、御子を通して、御子のために、そして聖霊と共に万物が創造されたということです。創造とは、御父だけの働きではなく、三位一体なる神様の働きであるということですが、特に御言葉であられるイエス様が創造に関与していることに強調点が置かれています。これは創世記1章1~3節に書かれていることと符合しています。創世記をご覧ください。

創世記1:1~3

“初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。”

ここでは、三位一体の神様の創造の御業が、はっきりと書かれておりまして、パウロの主張と符合するわけです。イエス様が受肉されてこの世に来られる前にも、イエス様は御言葉として存在しておられ、しかも神の創造の御業に参与されたということです。また、1:17節を見ますと、神は、御子にあって、万物を今も支えていると書かれています。宇宙を見ると星々の距離にバランスが与えられ、規則正しく周回する星がありますね。或いは顕微鏡をのぞくと原子があり、その周りに電子があるのを確認できます。これらすべての均衡が絶妙なバランスで崩れずに保たれているのは、御子が万物を支え、保持してくださっているからだというのです。この手紙を読んでいる時から、わずか30年ほど前に十字架で処刑されたイエス・キリストという方とは、どれだけ偉大なお方だったのかと、驚きを隠せなかったでしょう。

このような創造の御業が起こされ、そして、その後も神様の摂理によって万物は統治され、保持され、支えられているわけですが、このすべての神の働きにイエス様は、長子として参与しておられるのを見てきました。ところが、アダムが罪を犯したために人類は堕落し、アダムによって管理されていた被造物も(神の許しの中ではありますが)、虚無に服するようにされてしまいました。従って万物の造り主がこの世に来られた時、何と、この世が造り主に対して敵対するということが起こったのです。ヨハネの福音書1:10~11をご覧ください。

“言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。”

万物はイエス様のために創造されたのに、万物はイエス様に仕えるため、礼拝を捧げるために創造されたのに、創造主であり、産みの親であるイエス様のことを、世は認めることも、受け入れることもしませんでした。世は堕落してしまい、罪と死の力が支配するところとなってしまい、被造物が創造主と断絶されてしまったことを示しています。このような中でイエス様が十字架につかれ、復活され、贖いの御業を成し遂げてくださいました。賛美の後半部分である1:18~20節をご覧ください。

【2】. 再創造の源泉であるキリスト

 “また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。”

18節は、「御子は教会の頭である」という言葉から始まっています。御子はアダムの時のように、全人類の頭ではなく、教会の頭となられました。イエス様は全人類の預言者、王、祭司ではなく、教会の頭であり、シオンの王として油注がれたことに注意しましょう。つまり十字架によって全人類を贖われるのではなく、ご自身の花嫁である教会を贖われるということです。

また、18節の後半を見ますと、死者の中から最初に生まれた方とありますが、この「最初に生まれた方」というのは、先ほども出て来た「プロトトコス(長子)」という言葉が使われています。イエス様は、最初に死者の中から生まれた方でありますけれども、ここも創造の時と同じように、時間的に一番早く復活したというより、名誉や栄誉としての、ナンバーワンとか、根源とか、源となられたという意味です。イエス様は、罪と死の力に勝利されて、ご自身に属する者たちを復活させる、生かす霊となられました。1コリント15:45には次のような御言葉がございます。

“最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。”

人類の肉体の祖先はアダムですが、信仰によって新しく生まれ変わった者たちにとっては、祖先はアダムではなく、第二のアダムであるイエス様に入れ替えられました。なぜなら、旧い人はキリストと共に十字架に死んで、霊によって新しく生かされるようになったからです。キリスト者は、地に属する者ではなく、天に属する者として、生まれ変わったのです。1コリント15:46~47をご覧ください。

“最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。”

イエス様の贖いの恵みとは、古い人に死んで、新しい人に再創造することです。このようにして、創造の際にプロトトコスであったイエス様は、再創造の際にも、やはりプロトトコスになられたということです。

20節には、御子の十字架の贖いによって、その尊い血が生贄として流されたことによって、贖いの代価が完全に支払われ、敵対関係から神との和解に入れられて、平和がもたらされたと書かれています。罪に対する神の怒りを完全に宥めるような、罪の贖いの代価という、途方もない大きな代償を支払うようにできたのは、生贄として献げられた命がまさに神の子の命だったからです。その流された血潮は、それほどの絶大の力を持っていたからです。この点の解釈をめぐって、偽りの教えと、パウロの説く福音とでは、根本的な違いがありました。ギリシア哲学の影響を受けた偽りの教えでは、キリストを、神と人の間の媒介者として認めるものの、それは神の使い捨ての道具としてしか認めず、キリストの十字架において、罪の贖いがなされ、再創造が起こされたという事はどうしても受け入れられませんでした。それに対してパウロは、神の子、受難の僕であるメシアの死を通して、贖いの代価が完全に支払われたと主張したのです。神の子が低められ、神の子が試みにあわれ、打ち砕かれ、辱められ、嘲られたのは、キリスト者が神と和解され、平和が与えられるためであり、キリスト者の罪が赦され、癒されるためであり、キリスト者を神の子として受け入れ、再創造するためであったと主張したのです。

【結論】

 私たちの愛する主イエス・キリストは、万物の創造において長子として参与され、再創造においても長子として参与されました。そのことが意味していることは、神様は、アダムが罪を犯すことを、永遠において既にご存じであられ、創造の時点で既に再創造を見通していたということであり、そして、今も変わらずに万物を統治し、保持しながら、神の安息に向かって贖われた教会である私たちを導いてくださっているということです。

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