2021年06月06日「御子の支配下に移されて」

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1:9こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、
1:10すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。
1:11そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、
1:12光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。
1:13御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。
1:14わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コロサイの信徒への手紙 1章9節~14節

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【序】

 私たちキリスト者の信仰生活における幸いの根拠とは、私たちの信じている神様の、その完全さにあると言うことができるでしょう。神の完全さは、ご自身の栄光を外に表すことによって知らされます。ソビエトのガガーリンは、1961年人類初の、宇宙への人が乗り込んでの有人飛行という快挙を成し遂げました。彼は、宇宙船から見た地球の、あまりにも美しい姿を見て「地球は青かった」と言い残しました。このように私たちが、神様の創造された被造世界に目を向ける時に、自然の美しさ、自然の輝きと彩り、そのスケールの大きさと崇高さに、神様の栄光と威厳を知らされるのであります。しかし、それにもまして、神の栄光は、特に恵みの領域において、さらにはっきりと現されました。神の栄光はイスラエルの民に昼は雲の柱、夜は火の柱として臨在され、イスラエルの荒野での40年間の旅路を、着物は古びず、足に履いた靴もすり減ることなく導いてくださいました。この栄光は幕屋と神殿を満たし、特にこの栄光は、御子イエス・キリストの中に満ち現れました。イエス・キリストを通して、目の見えない者が見えるようになり、耳の聞こえない者が聞こえるようになり、足の不自由な者が躍り上がって立ち上がるようにされました。このような神の自己啓示によって、私たちは神の栄光を目撃し、神の完全さを知り、幸いが心の奥深いところから満ち溢れてくるのであります。聖書の中で、主イエスはご自身について、「わたしは、世の光である。(ヨハネ8:12)」と言われました。自然界の光そのものが神様ではありませんが、光のイメージを通して、神様がどのような方なのかを教えてくださっているのです。つまり、自然界の光が、知識と純潔と喜びを象徴しているように、神様は、霊的な世界における光なのです。神は敬虔な者たちの光であり、神の御顔と神の御言葉は、私たちの人生を照らしてくださいます。キリストの内に暗さは全くなく、キリストの中で充満な光として神の栄光が現わされました。このような神の栄光が燦々と輝いているのを悟る時に、私たちは、心からの平安と幸いを感じることができるのであります。私たちの信仰生活の目標とは、まさにこの点にあるのではないでしょうか。即ち、私たちの霊的な目が開かれて、御言葉を通して悟りが与えられて、神様のことをもっと深く知り、感謝と喜びに満ちた歩みへと成長することです。本日の箇所は、パウロが、まだ一度も会ったことのないコロサイの聖徒のために、とりなしの祈りをしている場面ですが、パウロは、世が与える知識によってではなく、神様によって与えられる知識によって、霊の目が開かれるようにと、とりなしています。1:9節をご覧ください。

【1】. 何によって充満されるのか

 “こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、”

パウロはまだ顔を一度も見たことがないコロサイの聖徒のためにお祈りしていますよ。「どうか、霊による」という言葉から具体的なパウロのとりなしの祈りが始まっています。「霊によるあらゆる知恵と理解によって」というのは、聖霊によって知恵と理解が与えられるようにという意味です。「神の御心を十分悟り」という言葉は、直訳しますと「神の御心の知識で充満されるように」となります。共同訳聖書は、少し意訳され過ぎているように思います。最近、若い人の言葉で、「リア充」という言葉がありますが、聞いたことがありますでしょうか。充満されるようにとは、まさにリアルに充実できるようにという意味です。しかし、パウロが言うには充満は充満でも人間の力によって充満されるのではありません。自らの努力によってですとか、哲学を学ぶことによってですとか、禁欲的でストイックな節制をすることによって、充満されるのではありません。ギリシア語をよく見ますと「神の御心の知識で充満されるように」と受け身になっています。つまりパウロは神様によって、聖霊によって、充満されなさいと言っているのが分かります。ここが本日の大切なポイントになります。コロサイ書の2:8に「哲学」という言葉が出てまいります。余談になりますが、ギリシア語で哲学は「フィロソフィア」と言います。この語源を調べてみると、フィリアが「愛する」で、ソフィアが「知恵」ですから、「知恵を愛する」という意味なんですね。恐らく当時のインテリ層の間で流行していたことの一つとして、哲学を学んで、どのようにしたら、人生がリア充になれるのか、追い求めていたのではと思われます。そして、偽りの教師たちが、それをコロサイの聖徒たちに吹き込んでいたのでしょう。これは、ガラテヤ書に書かれているのと少し似たような状況だったと思われます。私の想像ですが、彼らにとって、罪の赦しというのは、キリストの十字架によって与えられたということを確かに信じていましたが、それでは、その次に、どのようにして、人生に解放が与えられるのか、どのように進化していき、成長していき、実際にリアルな充満が得られるのかという設問に進んで行ったのでないかと思われます。そして、コロサイ地方に後から来た、偽りの教師が、ちょっと、ちょっと、「充満の秘訣について」、「贖いの秘訣について」、「神の知識の秘訣について」、教えて差し上げましょう。などとひそひそ話で触れ回るために、人々はだんだん、そのような教えに引きずられて行き、エパフラスが伝えた福音が色褪せて行ったのではないでしょうか。コロサイの聖徒たちにとって、罪の赦しとは、信仰生活の一番初歩的な教えに過ぎないものであって、それは陳腐なワンステップにしか見えなかったということです。この点においてパウロの考え方とは、大きな違いがありました。パウロによれば、キリスト者は回心した瞬間から、天の全てのものを有している、持ち合わせていると教えました。ただ、それは見えないだけに過ぎないのであって、もう既にすべてのものを持ち合わせていると、言っているのです。そのことを、聖霊による「知恵」、「理解」、「神の知識の充満」を受けて、悟りなさいと、とりなしています。偽りの教師たちの「充満になりますよ」という信徒たちをたぶらかした詐欺的な言葉の響きが、パウロによって正当に取り扱われ、無害化されているのです。それでは神を知るとは何か?神の御心の知識の充満とは、一体何か?という質問が出てまいります。一つの参考聖句として、ヨハネによる福音書17:3をご覧ください。

“永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。”

ここには、永遠の命とは、哲学を通して充満を知る事、哲学を通して神を知ることとは書いてありませんね。ところで、イエス・キリストを知らない人は中々いないでしょう。だからと言ってすべての人がイエス様を信じている訳ではありません。ヨハネの福音書に書いてある神を「知る」という言葉は、知識的に知っていることを意味するのではありません。そのような薄っぺらなものではなく、交わりを通して知る、聖霊によって知るという意味です。簡単に言うと、もっと濃く知るという意味です。「神を知る」とは、哲学によって表面的に知ることではありません。神を知ることは聖霊の臨在によって照らされることであり、もっと言えば、聖霊によってキリストと結合されることを意味するのです。引き続いて10~12節をご覧ください。

【2】. 主に相応しく歩むことができるのか

 “すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。”

この長い文章の中に、動詞は、実は一つしかありません。それは「主に従って歩みなさい!」という言葉です。新しく出た聖書協会共同訳では、翻訳が訂正されていますが「主に相応しく歩みなさい」という意味になっています。そしてこの動詞に残りの4つの分詞がかかっている訳です。即ち「実を結び」、「深く知るように」「強められ」「感謝するように」は、全て、「相応しく歩みなさい」という一つの動詞にかかっています。ですから、たとえば、最初の「実を結び」に着目すると「あらゆる善い業を行って実を結びつつ」、主に相応しく歩みなさいと言っています。落としどころは「主に相応しく歩みなさい」ということです。パウロは聖霊による知恵と知識が、必ず善き業という行いに結実することを知っていました。ですから、もしコロサイの人たちが得た知恵と知識が、哲学によったものであるなら、そのような人々は必ず高慢になります。少数のエリートだけに許されている神の秘密について知ることができたということで、特権意識を持つようになり、一方で知ることが出来ない人々は神の国の教会の中で、二流市民にでもなったような差別と屈辱を感じることになるでしょう。反対に、もしコロサイの人たちが得た知恵と知識が、聖霊によったものであるなら、神さまがまず、罪びとである自分のことを愛してくださったということを深く悟り、涙を流して感動し、感謝と喜びによって自分も兄弟姉妹を愛するように変えられるのです。そして、愛の業を通して聖霊の実が豊かに結ばれるのです。主に相応しく歩みなさい!この一つの動詞に4つの分詞が落とし込められている訳です。このことは何を意味するのかというと、パウロはコロサイの人々に対して「あなた方は、主イエスに相応しく歩むことができる!」という前提から、これらの勧めを語っているということになります。なぜここまで強気で語ることが出来るのでしょうか。コロサイの人々は、この言葉を聞いて、戸惑ったかもしれません。「いや、私は罪の赦しは受けましたけど、それ以外はまだ、何も頂いておりません…」しかし、パウロは、そうではないと言います。もしイエス・キリストを信じ受け入れたなら、どんなに自分は未熟なキリスト者だと考えたとしても、既にキリストを頭とする体に組み込まれているのです。キリストの体に組み込まれているなら、キリストに相応しく歩んでいくことができるのです。

 大リーグのエンゼルスの大谷選手が2018年に、肘を痛めてしまいました。思うようにボールが投げられなくなりました。その後、トミー・ジョン手術を受けましたが、これは、肘の傷ついた腱を、補強する手術です。手術後、時間の経過と共に、動かなかった神経が次第に回復していき、血液が良く循環し、肘の筋肉が頭の命令の通りに動くようになっていきました。そして今シーズンは、打者としても、投手としても大活躍しています。完全復活を果たしました。このように、たとえ今は、肘の腱が傷ついて、思うように動かなかったとしても、もう既に体の一部として取り込まれているのです。たとえ半身不随であったとしても、からだの一部として取り込まれているのであります。頭であるキリストに結合されているのです。このことが大事です。ですから、血液が循環し、神経が少しずつ回復され、故障した部分が頭との交わりを通して、徐々にではありますが、主イエスに相応しく歩むようにされるということです。

従って、キリスト者の信仰生活というのは、次のようなものではありません。誤解しないでくださいね。それは、神様が最初に私たちの過去の罪だけを赦してくださり、これからどのように生きるのかは、私たちの意志に従って勝手に生きるようにと、放置することではないということです。そうではなくて、キリスト者の信仰生活とは、信者個人の戦いではなくて、神様が頭としてその現場に介入してくださり、聖徒一人ひとりが必ず愛の実を結ぶことができるように、神様が最後まで責任を持って、導いてくださるのです。神さまは私たちが、どれほど罪に傾きやすい存在であり、私たちの意志がどれほど弱いのかを、よくよくご存じで、父親として最後まで責任を持って私たちを導いてくださるのです。続いて13~14節をご覧ください。

【3】. 贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

 “御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。”

御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に、つまりキリストの王国に移してくださいました。罪に支配された僕から、神に支配された僕へと移されました。何と素晴らしいことでしょうか。しかし、神の統治がこの地上に生きるキリスト者たちの中で、直ちに、完全に実現されるわけではありません。依然として神の王国は未来的であり、キリスト者はその王国にある所有物である、永遠の命を完全に受け取ることはできません。それだけでなく、神様と、顔と顔を合わせて対面することも、天に積まれている報いを分配されることも、私たち自身が栄化されることも、一言で言えば、救いが完成されることをこの地上において完全に享受することはできません。しかし、コロサイの聖徒たちには気づいていない点でありますが、目に見えないことは、即ち、存在しないこととイコールではないということです。キリストの働きを通じて、この王国は既に、ここ地上にも確かに樹立されていて、キリスト者にとって王国は既に到来しており、王国は現在的であり、キリスト者は既に、この地において天国の市民であり、天国の参加者である、天国の前味を味わっているのであります。また、キリストは王の王、主の主であり、ご自分に属する者たちを王として、聖なる祭司として見做してくださっているのです。このことは、信仰の目によってでしか見ることができず、聖霊の照明によってでしか悟ることができない内容ですが、パウロはむしろ、キリストの中に隠されている真の存在について強調しているのです。私たちはイエス・キリストによって法的に罪の赦しを宣言されましたけれども、実際においても、既に贖い金が支払われ、罪の支配から解放され、神の子、光の子として天に受け入れられ、頭であるキリストと結合されているのです。その点に目を留めなければなりません。そこに目が開かれる時に、私たちは幸いを感じ、礼拝を中心とした、感謝と喜びの信仰生活へ歩み出すことができ、兄弟姉妹の交わりを通して愛の実を結んでいくことができるのです。

【結論】

 福音とは、キリストの十字架による完全な罪の贖いの成就でございます。私たちが救われるために、これ以上、何も付け加える必要はありませんし、付け加えてもなりません。イエス様の十字架により、神の国は既に到来し、私たちは既に天国の市民であり、天国の参加者であり、目には見えませんがイエス・キリストに結ばれていて、この世にあって、預言者として、王として、祭司として遣わされているのです。私たちは聖霊によって日々、霊の目が開かれ、キリストの中に隠されている私たちの真の存在について知ることができるよう祈ってまいりましょう。

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