2021年05月30日「神の恵みによって」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千間台教会のホームページへ戻る

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

1:1神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、
1:2コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
1:3わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。
1:4あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。
1:5それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。
1:6あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。
1:7あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、
1:8また、“霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コロサイの信徒への手紙 1章1節~8節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 小アジアにあるコロサイという町は、港湾都市エフェソの東に170キロほど内陸に入ったところに位置する町でありました。このコロサイの教会の成り立ちとして手がかりとなる記事がパウロの第三次宣教旅行の中に出てまいります。使徒言行録12:9~10をご覧ください。

“しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。”

この時パウロはエフェソにあるティラノの講堂で毎日福音を宣言し、そこで二年も語り続けました。アジア州に住む者は、誰でも主の御言葉を聞くことになったと書かれています。ギリシア人であれ、ディアスポラとして散らされたユダヤ人であれ、誰でもです。そして恐らくその中にエパフラスもいたと思われます。エパフラスはパウロの言葉を聞いて信仰を持つようになり、自分の故郷に帰って、パウロから聞いた福音をそのまま伝え、コロサイの教会を開拓したと思われます。そして裕福であったフィレモンの家を解放してもらい、コロサイ教会は家の教会から交わりが始まっていきました。コロサイの教会の中には、フィレモンの奴隷である、オネシモもいました。ですから私たちはコロサイの信徒への手紙とフィレモンへの手紙を、同じ背景から読むことができるのです。

さて、コロサイの町ですが位置的には、リュコス川の渓谷にあり羊毛の産地として比較的裕福な町でした。リュコス川沿いには温泉で有名なヒエラポリスという町と、目薬で有名なラオディキアという大きな都市がありまして、この二つの都市はコロサイより、さらに大きな都市でありました。このような豊かな文化的な要素が、コロサイの人々に福音から少しずつ離れるようにさせる誘惑を与えました。彼らは、最初キリストに堅く結ばれていたのですが、次第に、当時流行していた哲学や、伝統的な価値観に依存するようになっていきました。このような世俗化の誘惑と、伝統という価値感の中で、コロサイの人々にとって、イエス・キリストがだんだんとぼやけて行ってしまったのです。暗雲立ち込めるように、雲行きが怪しくなった教会の、その「異様な雰囲気」を感じ取ったエパフラスは、獄中のパウロを訪ね、コロサイの教会の現在の消息について報告しました。するとパウロは、エパフラスの報告に感謝し、感動し、そして、まだ一度も会ったことのないコロサイの信徒たちに、この手紙を書いてくれたのでした。書き出しには、「キリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから」という言葉で始まっています。つまり、この書簡は個人的な書簡ではなくて、公的な書簡であり、権威ある書簡として、コロサイの人々に何か勧告しようとしていることが読み取れます。そして、同労者であるテモテの名を連ねることで、手紙の権威はさらに強調されています。それではこの書簡の主題は何かと言いますと、コロサイの聖徒たちが結ばれているイエス・キリストというお方が、どのようなお方なのかについてです。ですから、コロサイ書とは、暗雲立ち込める中にあって、或いは濃い霧が立ち込める中にあって、イエス・キリストをはっきりと指し示す「灯台のような書簡」であると言うことができるでしょう。本日の箇所にはパウロの感謝しか出てきませんが、もう少し読み進んで行きますと、彼らの信仰を脅かすものが何だったのか、次第に判明していくことになります。現代に生きる私たちがこの書簡を学ぶときに、私たちも同じように、無意識の内に刷り込まれていくような世の流行、世の趨勢、或いは伝統という価値観の、その厚い霧の中で、どのような信仰の闘いをしていくべきか、コロサイの手紙から適用して行く事ができるわけです。

ところで、この地域にはAD.61年頃、大きな地震が起こりました。歴史家のエウセビオスによれば、この大きな地震によって、コロサイもラオディキアもヒエラポリスも崩壊したとのことです。その後、ラオディキアとヒエラポリスは町を復興することができましたが、コロサイは復興することができず、町は完全に消滅してしまいます。つまりこの手紙を受け取って何年か後に、この町はなくなってしまいます。

この手紙の著者は、使徒パウロであり、そして獄中の中で書いたと4章に書かれていますが、それでは一体いつ頃、書かれたのでしょうか。時期については二つの学説がありまして、はっきりしません。一つは、パウロの晩年(ネロ皇帝の統治下でローマにおいて殉教しますが)、そのローマにおいて軟禁されている期間に書かれたという学説です。もしローマの獄中で書かれたなら、おそらくAD.60年から、コロサイの町が消滅する61年の間に書かれたものと考えられます。もう一つの学説は、聖書に書かれていませんが、パウロはおそらくローマ以外でも、エフェソにおいて投獄されたことがあって、エフェソの獄中からこの書簡を書いたのでは、という説です。もしエフェソの獄中で書かれたなら、おそらくAD.52~56年頃に書かれたものと考えられます。はっきり結論を出すことはできませんが、いずれにせよ、大地震が起こりコロサイの町が消滅する前に、つまりAD.61年以前にパウロによって書かれたということになります。

【1】. パウロの感謝

 それでは本文に入りまして3~6節をご覧ください。

“わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。”

3節には、「いつもあなたがたのために祈り」と訳されていますが、ここは「あなた方のことを祈る時にいつも、感謝している」というふうに訳すこともできます。パウロはエパフラスの報告を聞いて、それほど迄に、感謝・感激に満ち溢れていたということです。

「パウロ先生、私がエフェソで聞いた福音をそのまま故郷のコロサイに行って語りましたら、多くの人々が信じ、救いに入れられました。今では家に集まって礼拝を捧げ、キリストの身体なる教会を形成するようになっています。」何よりも、パウロの感謝とは、会ったこともないコロサイの人々の内に「愛と信仰」が結実されているということを聞いたからでありました。このように、もし、御言葉がきちんと語られているなら、教会は不思議と愛が満ち溢れるようになり、そして、生き生きとした信仰に満ち溢れるようになるものです。これは、語る者が、雄弁な語り口だからとか、カリスマにあふれているからとか、魅力的な容貌を兼ね備えているから、そうなったということではありません。或いは、御言葉を語る者によって、強制的に命令されたから、そうなるのでもありません。教会が喜んで、自主的に愛の業に励むようになり、信仰の生き生きとした雰囲気が自然と醸成されていくのです。なぜでしょうか。それは、彼らが受け入れた御言葉の種が生きていて、種そのものの中に、御言葉そのものの中に、命と躍動力が含まれているからです。5節を見ると、パウロは、コロサイの聖徒の愛と信仰は、「あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものだ」と説明しています。天に蓄えられている希望が、彼らの「愛と信仰」を下から支えていると言っているのです。そしてその希望とは、何かはかない希望ではなく、将来、確実に成就されるように神の御言葉によって保障され、担保されている希望なのです。また、コロサイの人々に伝えられた福音というのは、実はコロサイだけに伝えられているのではなく、世界中の至るところで、同じように伝えられ、畑に種が蒔かれるように、御言葉が心の畑に蒔かれるなら、自然と種は実を結び、そして成長していくのであります。ですから、この御言葉の種を蒔くという働きが、どれほど尊い働きであるのか、さらに言えば、その種まきの働きを忠実に実践している同労者エパフラスのことを、パウロがどれほど誇りに思っているのか、そのことを言わんとしているのです。私たち、せんげん台教会も、教会パンフレットを作りましたね。私たちがこのパンフレットを地域に配ることによって神の宣教の業に参与することができるのです。そうすることによって神様が、忠実な私たちをきっと誇りに思ってくださるに違いありません。

【2】. 福音の性格

 ところで、ローマ書10:14~15には次のような御言葉がございます。少しご覧なっていただけますでしょうか。

“ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。”

ローマ書のこの御言葉は一見すると、伝道について語られているように見えますけれども、この御言葉は実は、伝道に焦点が当てられているのではなく、福音の性格について焦点が当てられています。私たちが福音を信じるようにされて、聖書の御言葉に目が開かれるということは、まず誰かによって、私たちに福音が伝えられなければならないという事です。つまり、コロサイの町に福音を宣べ伝えたエパフラスのような人がいなければならないということです。この点において福音とは、仏教ですとか、創価学会や、立正佼成会や、幸福の科学のような一般的の宗教とは対照的な位置に置かれています。このような一般的な宗教は、ある人の悟りによって、教祖の開眼と瞑想の産物として、生成し、体系づけられるのが普通であり、その教えは誰にでも共感できるような教えになっています。しかし、私たちが信じている十字架の福音は、決して人間の瞑想からは生まれてきません。ある人の内側で試行錯誤を繰り返しながら、「あー、これだ!」ということで、造られた教えではないということです。福音は、神の啓示によって外から入って来たものです。頭のいい人よって、IQの高い人間によって、内側で作られるものではない。ですから、福音とは伝えてくれる人がいて、初めて聞くことができ、「あー、イエス・キリストが十字架で私の罪のために死なれたんだ」と信じることができるのです。ですからローマ10:14節の「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」という御言葉は、実は、福音の重要な性格であると言えるのです。私たちが聞いて、私たちが信じた福音とは、私たちの内側から生成されたのではない、修行して、悟りの境地に至ったのではないという事ですね。外から、入って来たという事です。教会が福音を宣教する理由が、まさにここにあるのです。誰かが伝えなければ、誰かが出て行かなければ、誰もこの福音を聞くことができません。そのような意味において、エパフラスからコロサイ教会の消息を聞いた時、パウロは、感動し、一度もあったことのないコロサイの人々のことを祈る度ごとに、父なる神に感謝を捧げているのです。続いてコロサイ書1:7~8節をご覧ください。

【3】. 神の僕を通して

 “あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、また、“霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。”

7節前半の「共に仕えている仲間」という言葉は、ギリシア語では一つの単語で、σύνδουλοςシュンドロス(僕仲間・奴隷仲間)という言葉です。パウロは聖書の他の箇所において、自分自身を「キリストの僕」つまり、「キリストの奴隷」と紹介していますが、ここではエパフラスを自身の同労者として認め、「奴隷仲間」という言葉を使用しているのでしょう。また、7節後半の「彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり」とありますが、新しく出た聖書協会共同訳では、「彼は、私たちのためにキリストに忠実に仕える者であり」となっていて、「あなたがたのために」ではなく「私たちのために」へと翻訳が変更されています。これは、より信頼できる写本が「私たちのために」と書いてあるからです。

ということは、どういうことかと言いますと、エパフラスは、獄中のパウロとテモテのためにキリストに忠実に仕える者だということです。つまり使徒パウロの代理人であると言っているのです。従って僕のように低くへりくだっているエパフラスの言葉を、使徒パウロの言葉としてしっかり心に留めなさい!彼を軽んじてはならない!という意味です。パウロのこれらの表現から見えてくるのは、神様に用いられる器というのは、主人ではなく、僕であり、奴隷であるということです。神に用いられる器は、その人が他の人と比べ、抜きん出ていて、才能があるから用いられるのではありません。他の人と比べ、弁が達者だから、容貌が美しいからでもありません。ただ僕のように、奴隷のように、自分には何の功も功績もないということをはっきりと自覚し、他人を自分より優れていると認める人、完全に神様に依り頼む者を用いるのです。宣教の働きとは、誰がこのようなパンフレットを信じてくれるだろうか、誰がこんな説教を聞いて信じるだろうか、と人間的な基準で心配したり、判断する必要は全くないということです。なぜなら、宣教は神の働きであり、ただ神の忠実の僕、神の奴隷を通して、福音が宣べ伝えられ、神の御心が成就していくからです。ですから、例えば、の話ですが、私たちの教会が神様に用いられて、祝福されて、多くの人々に伝道することが万一できたとしても、それは決して、私たちの功績によって伝道が成功したと考えるべきではありませんし、そのことを人に自慢することもできません。ただ、神さまは全世界に出て行き、十字架の福音を宣べ伝えるように願われ、私たちに低くへりくだって人々に仕えるように願われるのです。なぜなら、この世で低くへりくだった者は、この世で兄弟姉妹に仕え、奴隷のように忠実だった者は、天において高く上げられるからあります。天において、神の宣教に参与させていただいた働きの報いは、大変大きいのです。

【結論】

 神さまの御言葉は生きており、この福音をエパフラスのように聞いたことを忠実に他の人に伝えるのなら、神様が救われる民を起こしてくださることでしょう。神様は、僕パウロと共に働く僕仲間、奴隷仲間を探しておられ、低く人々に仕える者を通して、宣教の御業を起こしてくださるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

ハングル語によるメッセージはありません。

関連する説教を探す関連する説教を探す