2021年05月23日「私たちの弁護者 우리의 보혜사」

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私たちの弁護者 우리의 보혜사

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 14章12節~17節

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聖句のアイコン聖書の言葉

14:12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
14:13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14:14わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
14:15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14:16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 14章12節~17節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 ペンテコステおめでとうございます。使徒言行録を見ますとイエス様が天に昇られた後、使徒たちは、女たちと、主イエスの母マリアと、そして主イエスの兄弟たちと、そして120人ほどの多くの信者たちと共に、マルコの家の二階部屋に集まって、心一つになり祈りを捧げていたと書かれています。それは次のようなイエス様の命令があったからです。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」イエス様が昇天されてから、十日後のペンテコステの日に、突然、強い激しい風の音があり、炎のような舌が分かれて現れ、そこにいたすべての人々に聖霊の満たしが与えられ、彼らは外国語で語り始めました。これを「聖霊降臨の事件」と呼んでいます。弟子たちは、その瞬間、宣教と世界のための教会として新しく誕生したのであります。本日のヨハネによる福音書14章は、イエス様の最期の晩餐の中で語られた告別説教の一部でありますが、この告別説教の中で、「もう一人の弁護者を遣わす」という言葉によって、イエス様は聖霊降臨事件について、前もって語っておられたのでありました。

イエス様が天に挙げられて最初に行った働きが、聖霊を注ぐことでありました。この五旬節に起こった聖霊降臨の事件とは、創造と、受肉に続く、神様の三番目の偉大な働きであると言うことができるでしょう。つまり、神の創造の働きと、御子の受肉に匹敵するのが、本日、調べます聖霊降臨の事件であるということです。というのは、御父よる統治と保持が、これを摂理とも言いますが「創造」によって始められ、御子による贖いの働きが「受肉」によって、始められました。そして聖霊による教会の聖化の働きが、「聖霊降臨」によって始められたからです。従いまして、聖書には書かれていませんが、神学的には、神が万物を創造されてからイエス様の受肉までの間を「父の働きの時代」と呼んでいます。この時、聖霊は主に幕屋や神殿に留まられました。そしてキリストが受肉されてから天に昇られるまでの間を「子の働きの時代」と呼んでいます。この時、聖霊はイエス様を宮とされて、イエス様の上に留まられました。そして、聖霊が降臨されてから、神の国の完成までの間を「聖霊の働きの時代」と呼んでいます。この時、聖霊は教会をご自身の宮とされました。

現在、私たちが生きている時代は、まさに、聖霊の働きの時代であるということですね。本日は、この聖霊降臨の意味について、考えてみたいと思います。

【1】. キリストが父のもとへ行かれた

 第一に聖霊降臨とは、キリストが父のもとへ行かれ、全能の神の右に着座されてから起こったという点に注目したいと思います。14:12節をご覧ください。

“はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。”

イエス様は、私を信じる者は、イエス様の行う業より、もっと大きなことを行うようになると言われました。ここで、「もっと大きなこと」とは、イエス様が去られた後、弟子たちの伝道を通して結ばれた、その実について語っておられます。生前のイエス様は、言ってみれば、せいぜいユダヤの中だけで伝道されたに過ぎませんが、弟子たちは地の果てにまで行き、たくさんの実を結ぶようにされたのです。そのようなことが起こされる理由として、イエス様は「わたしが父のもとへ行くからである」とおっしゃっています。父のもとへ行くというのは、どういう意味でしょうか。それは全能なる神の右に着座されるということです。しかし、実際に神の右に椅子があるということではなく、象徴的な意味であると思われますが、それでは一体何を象徴しているのかと言いますと、イエス様は、神であられながら、全き人として十字架に死なれ、復活され、人性を持って昇天された後に、初めて天と地のすべの名に優る名を受け、すべての被造物の上に優れた権力と栄誉を受けられ、神の子として立てられ、王の王、主の主として栄光に入れられたということです。本日の信仰告白で、私たちが告白したウェストミンスター信仰告白8章1節に書かれていますように、イエス様は私たちの永遠の王であり、永遠の昔から王として、そして仲保者として父から任命されていたことには違いありませんが、人性を持ってイエス様が天に挙げられて、初めて実質的に天と地のすべての権力を受けられたというふうに理解してください。これは、例えばサムエル記の少年ダビデが預言者サムエルから油を注がれた瞬間に、神の目には既に、イスラエルの王はサウル王ではなく、少年ダビデでありましたけれども、実質的には、それから長い年月を経て、ヘブロンでダビデが南ユダ王国の王となり、その7年後に、北イスラエルと統合されて全イスラエルの王となった時に、初めてダビデが権力を有するようになったのと同じであります。少し御言葉を調べてみましょう。フィリピ2:9と、ヘブライ2:7~8をご覧ください。

フィリピ2:9

“このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。”

ヘブライ2:7~8

“あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました。」”

このようにして、イエス様は十字架と復活によって、死に勝利され、悪魔の働きを滅ぼし、父の御前で、サタンのすべての訴えに対抗しながら、私たちの側に立って下さり、父なる神が、私たちの祈りと私たちの感謝を喜んで受け入れるようにしてくださり、そして、私たちが恵みの御座へ大胆に進み出ることができるようにしてくださったのであります。引き続いて14:13~14節をご覧ください。

“わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」”

人としてイエス様が天の栄光に入れられたために、私たちが主イエスの名によって願うなら、何でもかなえられると言います。しかし、ここは少し注意しなければなりませんが、どうやら、イエス様のお名前さえ唱えれば、どんな願いでも叶えられるということではないようです。というのは、イスラエルにおいて名前とは、その人の人格と大変、密接に関連があるからです。名前はその人自身を現しています。旧約聖書に「御名が、とこしえにあがめられますように」という表現が出てきますが、神様ご自身があがめられますようにという意味です。名前とはその人自身であるということですね。ですからイエス様の名によって祈るということは、イエス様のご人格と、イエス様の目的に、完全に一致した祈りを捧げるということになります。従って、13~14節の御言葉の意味するところは、第一ヨハネ5:14~15の御言葉と同じ意味であると思われます。第一ヨハネ5:14~15をご覧ください。

“何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。”

「イエス様の名」によって祈るということは、勝手気ままな祈りをして、最期に決まり文句一つを付けるということではないということです。そんなふうに神の御前に進み出る特権を軽々しく考えてはなりません。「イエス様の名」によって祈るということは、イエス様のことを思い、イエス様の御心に適う祈りを私たちが捧げる時に、その祈りは、私たちの願いではなく、イエス・キリストの願いとして必ず叶えられるということなのです。このようにイエス様が天と地のすべの名に優る名を受け、すべての被造物の上に優れた権力と栄誉を受けられ、栄光に入れられたが故に、私たちに注がれている聖霊を通して、このような素晴らしいイエス様の御業が起こされるようになったのです。

【2】. もう一人の弁護者が遣わされた

 第二に、聖霊降臨の事件とは、もう一人の弁護者である聖霊が遣わされたという点に注目したいと思います。14:15~17節をご覧ください。

“「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。”

弁護者とは、ギリシア語でパラクレートスという言葉ですが、パラが「そばに」という意味で、クレートスが「呼ばれた者」という意味です。直訳すると「そばに呼ばれた者」となります。この翻訳としていろいろな名称が使われておりますが、「代弁者」ですとか、「助け主」ですとか、「慰め主」などがございます。これらの名称から分かりますように、たとえイエス様がこの世を去られても、弟子たちは、寂しく放っておかれるのではなく、そばで励まして下さり、助けて下さり、支えて下さる方がいるということです。そして「別の」、「もう一人の」という表現から分かるように、この弁護者とは、まずイエス様ご自身であるということです。1ヨハネの手紙2:1には、イエス様に対して、弁護者という言葉が使われています。

“わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。”

イエス様がもうこれ以上、肉体的に弟子たちと一緒には、いることができなくなる時、もう一人の弁護者である聖霊が、これまでイエス様が弟子たちを守り導いてくださったように、その働きをそのまま継承してくださるのです。そして、この聖霊は私たちから決して取り去られることなく、永遠にまで、共にいてくださいます。このことはよくよく考えてみると、ものすごい約束だと思います。

私たちの身体には一つの霊が宿っていますね。同じように神様も一つの霊、聖霊を持っておられます。神様はこの霊を通して、この世を創造され、そして統治し保持されています。また、この霊を通して旧約の時代にあらゆる賜物と能力を注いでくださいました。この霊はギデオンやサムソンなどの士師たちに注がれ、イザヤや、エゼキエルなどの預言者たちに注がれ、そして、ご自身の民を悔い改めに導き、新しく聖め分かたれました。

イエス・キリストはこの霊によってみごもられ、この霊の満たしを受け、この霊によってご自身のすべての働きを成就なさいました。この霊は、「御父の霊」とか、「御子の霊」とか、「キリストの霊」とか、「真理の霊」とか、「生かす霊」とも呼ばれ、五旬節の日にキリストの教会に注がれたのです。しかし、この世は、この霊を受けることができません。神の選びの民にのみ、聖霊は注がれるのです。この一つの霊がお一人、お一人に注がれて、私たちは新しく生まれ変わり、生きるものとされたのです。命の源であるキリストの霊が、私たちの心の中に内住してくださるので、内側から泉がこんこんと湧き出るように、日々新しくされ、永遠の命に与る者とされたのであります。また、真理の霊であるキリストの霊が、私たちの心に内住してくださるので、物事の見方が、価値観が、人生の目的がすっかり変えられました。神を知り、イエスを主として告白するようになり、暗闇の業を捨てて、光を愛し、聖霊の武具を身にまとい、愛の実を結ぶ者として作り替えられたのであります。また、子とする御父の霊が、私たちの心の中に内住してくださるので、私たちはもはや孤児ではなく、みなし子ではないという、深い喜びと平安が与えられました。神の愛が日々、心の中に刻まれ、神との平和を確信し、「アバ父よ」と、大胆に祈りを捧げることができる者とされ、そして天で受けることになる、未来の栄光を確信することができるようにされたのです。

信者たちが、このような聖霊を受けたために、彼らは全く異なる、新しい、霊的な人々として生まれ変わりました。信者は聖霊の中で生きて、聖霊の事柄を考え、聖霊の中で祈り、聖霊の中で喜んで、聖霊の法の下で生き、聖霊の導きを受けて、聖霊を通じて神の愛を確信するのです。信者がこの聖霊の中にあるということは、キリストの中にあるということと同一のことであり、聖霊が、お一人のお一人の中に留まるということは、キリストがその人の中に留まられることとして表現されるのです。そして、この霊が一つの霊であるために、教会はこの世にいくつもあるのではなく、普遍的な教会が一つだけあると言えるのです。あちらの教会にはタイプAの霊が注がれていて、こちらの教会にはタイプCの霊が注がれているというのではないのですね。一つの霊が注がれているので、教会は一つであり、有機体であり、キリストの身体として建て上げられるのです。

私たちの普段の信仰生活において、私たちは自ら進んで聖書を開き、神の御声に耳を傾けようとしていますが、実は私たちの霊の中に内住しておられる聖霊が、ご自身の御言葉を通じて私たちに語りかけてくださっているのです。

私たちの普段の信仰生活において、平安の中で、キリストの再臨を祈って待ち望んでしますが、実は、誰よりも、私たちの霊の中に内住しておられる聖霊が、キリストの花嫁と共にキリストの再臨を祈り待ち望んでおられるのです(黙22:17)。私たちにはこのような弁護者である聖霊が永遠に私たちの内に留まるようにされたのです。ですから聖霊は私たちの救いの保証であり、救いの担保であり、もはや、私たちはさまようことはないのです。

【結論】

 日々の信仰生活を通して与えられる、喜びと平安によって、私たちの内に聖霊が内住されているということが強い確信へと変えられていくことでしょう。この聖霊降臨の恵みは、しつこいようですけれども、イエス様が天に挙げられて、天と地のすべの名に優る名を受け、すべての被造物の上に優れた権力と栄誉を受けられ、神の子として立てられ、王の王、主の主として栄光に入れられたが故に、一言で言えば、全能の神の右に着座されたが故に、聖霊の降臨が神の民に与えられたのであります。私たちはこの神の御業を心から褒め称え、賛美してまいりましょう。

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우리의 보혜사

2021년5월 23일 주일설교 카와에 토모아키 목사

요한복음 14장 12~17절

서론

오순절을 축하드립니다. 사도행전을 보면 예수님께서 승천하신 후, 사도들은 여인들과 예수의 어머니 마리아와 예수의 형제들, 그리고 120여 명의 많은 신자들과 함께 마가의 집 다락방에 모여 한마음으로 기도하고 있었다고 기록되어 있습니다. 그것은「예루살렘을 떠나지 말고 내게서 들은 바 아버지께서 약속하신 것을 기다리라 요한은 물로 세례를 베풀었으나 너희는 몇 날이 못되어 성령으로 세례를 받으리라」라는 예수님의 명령이 있었기 때문입니다. 예수님이 승천하신 후인, 오순절 날, 홀연히 하늘로부터 급하고 강한 바람 같은 소리와 함께 마치 불의 혀처럼 갈라지는 것들이 각 사람 위에 하나씩 임하여 있더니 그들이 다 성령의 충만함을 받고 성령이 말하게 하심을 따라 다른 언어들로 말하기 시작했습니다. 이를「성령 강림 사건」이라고 부릅니다. 제자들은, 그 순간, 선교와 세상을 위한 교회로 새롭게 탄생한 것입니다. 오늘 요한복음 14장은 예수님의 최후의 만찬에서 말씀하신 고별설교의 일부인데, 이 고별설교에서 「또 다른 보혜사를 너희에게 주사」라는 말씀으로 예수님은 성령 강림 사건에 대해 미리 말씀하고 계셨습니다.

예수님께서 승천하신 후 가장 먼저 행하신 사역이, 성령을 부어주시는 것이었습니다. 이 오순절에 일어난 성령 강림 사건이란, 창조와 성육신에 이은, 하나님의 세 번째 위대한 사역이라고 할 수 있습니다. 즉, 하나님의 창조사역과 독생자의 성육신에 버금가는 것이, 오늘 살펴볼 성령 강림 사건이라는 것입니다. 즉, 아버지의 통치와 유지가, 이것을 섭리라고도 말하는「창조」로 시작되었고, 아들의 구속 사역이 「성육신」으로 시작되었다는 것입니다. 그리고 성령에 의한 교회의 성화 사역이 「성령 강림」으로 시작되었기 때문입니다. 따라서 성경에는 기록되어 있지 않지만, 신학적으로는 하나님이 만물을 창조하신 후부터 예수님의 성육신까지를 「아버지의 사역의 시대」라고 부릅니다. 이 때, 성령은 주로 성막이니 성전에 머물러 계셨습니다. 그리고 그리스도가 성육신 하시고 나서 하늘로 승천하시기까지를 「아들의 사역의 시대」라고 부릅니다. 이 때 성령은 예수님을 성전으로 삼으시고 예수님 위에 머물러 계셨습니다. 그리고 성령이 강림하신 후부터, 하나님 나라가 완성될 때까지의 기간을 「성령의 사역의 시대」라고 부릅니다. 이 때 성령께서는 교회를 자신의 성전으로 삼으셨습니다.

현재 우리가 살고 있는 시대는, 바로 성령의 사역의 시대라는 것입니다. 오늘은 이 성령강림의 의미에 대해 생각해보고자 합니다.

(1) 내가 아버지께로 감이라

첫째, 성령 강림이란, 그리스도께서 아버지께로 가셔서, 전능하신 하나님 우편에 앉으신 후에 일어났다는 점에 주목하고 싶습니다. 14:12절을 보시기 바랍니다.

12 내가 진실로 진실로 너희에게 이르노니 나를 믿는 자는 내가 하는 일을 그도 할 것이요 또한 그보다 큰 일도 하리니 이는 내가 아버지께로 감이라

예수님은 나를 믿는 자는, 그보다 큰 일을 하게 될 것이라고 말씀하셨습니다. 여기서「그보다 큰 일」이란, 예수님이 떠나신 후, 제자들의 전도를 통해 맺어진 열매를 말씀하신 것입니다. 생전의 예수님은, 말해보자면, 기껏해야 유대 안에서만 전도를 하신 것에 지나지 않지만, 제자들은 땅 끝까지 가서 많은 열매를 맺었습니다. 그런 일이 일어나는 이유에 대해 예수님께서는 「내가 아버지께로 감이라」라고 말씀하십니다. 아버지께로 간다는 것은 어떤 의미일까요? 그것은 전능하신 하나님 오른편에 앉으신다는 뜻입니다. 그러나 실제로 하나님의 오른편에 의자가 있다는 것이 아니라 상징적인 의미인 것 같습니다. 그렇다면 도대체 무엇을 상징하는가 하면, 예수님은 하나님이시면서 온전한 사람으로 십자가에서 죽으시고 부활하시고 인성을 가지고 승천하신 후에 처음으로 하늘과 땅의 모든 이름 위에 뛰어난 이름을 받으셨습니다. 모든 피조물 위에 뛰어난 권세와 영광을 받으시고, 하나님의 아들로 세우심을 입고, 왕 주의 왕, 주의 주로 영광을 받으셨다는 것입니다. 오늘 신앙고백에서 우리가 고백한 웨스트민스터 신앙고백서 8장 1절에 기록되어 있듯이, 예수님은 우리의 영원한 왕이시며, 영원 전부터 왕으로, 그리고 중보자로 아버지께서 세우셨음에 틀림없지만, 인성을 가지신 예수님이 하늘에 오르셔서, 비로서 실질적으로 천지의 모든 권세를 받으셨다는 것으로 이해하시기 바랍니다. 이것은 예를 들어 사무엘기의 소년 다윗이 사무엘 선지자로부터 기름부음을 받은 순간, 하나님 보시기에 이미 이스라엘의 왕은, 사울 왕이 아니라 소년 다윗이었지만, 실질적으로 그 후 오랜 세월이 지나서 헤브론에서 다윗이 남유다 왕국의 왕이 되고, 그 7년 후에 북이스라엘과 통합되어 온 이스라엘의 왕이 되었을 때 처음으로 다윗이 권력을 가지게 된 것과 같습니다. 말씀을 조금 살펴보겠습니다. 빌립보서 2:9절과 히브리서 2:7~8절을 보시기 바랍니다.

빌립보서 2장

9 이러므로 하나님이 그를 지극히 높여 모든 이름 위에 뛰어난 이름을 주사

히브리서 2장

7 그를 잠시 동안 천사보다 못하게 하시며 영광과 존귀로 관을 쒸우시며

8 만물을 그 발 아래에 복종하게 하셨느니라 하였으니 만물로 그에게 복종하게 하셨은즉 복종하지 않은 것이 하나도 없어야 하겠으나 지금 우리가 만물이 아직 그에게 복종하고 있는 것을 보지 못하고

이렇게 예수님은 십자가와 부활로 죽음에서 승리하시고, 마귀의 역사를 멸하시고, 아버지 앞에서, 사탄의 모든 항소를 대적하시며 우리 편에 서서, 아버지 하나님께서, 우리의 기도와 감사를 기꺼이 받으시도록 해주시고, 우리가 은혜의 보좌로 담대히 나아갈 수 있도록 해주셨습니다. 이어서 14:13~14절을 보겠습니다.

13 너히가 내 이름으로 무엇을 구하든지 내가 행하리니 이는 아버지로 하여금 아들로 말미암아 영광을 받으시게 하려 함이라

14 내 이름으로 무엇이든지 내게 구하면 내가 행하리리

사람으로서 예수님이 하늘의 영광에 들어가셨기 때문에, 우리가 주님의 이름으로 구하면 무엇이든 이루어 주신다고 말씀하십니다. 그런데 여기서 조금 주의해야 할 것은, 예수님의 이름만 부르면 어떤 소원이든 다 이루어진다는 뜻은 아닌 것 같습니다. 왜냐하면 이스라엘에서 이름은 그 사람의 인격과 매우 밀접한 관련이 있기 때문입니다. 이름은 그 사람 자신을 나타내고 있습니다. 구약성경에 「이름이 영원히 존귀히 여김을 받으시오며」라는 표현이 나오는데, 이는 하나님께서 존귀히 여김을 받으시라는 뜻입니다. 이름이란 그 사람 자신이라는 뜻이네요. 그러므로 예수님의 이름으로 기도한다는 것은 예수님의 인격과 예수님의 뜻에 온전히 일치된 기도를 드리는 것입니다. 따라서 13~14절의 말씀의 의미는 요한일서 5:14~15절의 말씀과 같은 의미라고 볼 수 있습니다. 요한일서 5:14~15절을 보시기 바랍니다.

요한일서 5장

14 그를 향하여 우리가 가진 바 담대함이 이것이니 그의 뜻대로 무엇을 구하면 들으심이라

15 우리가 무엇이든지 구하는 바를 들으시는 줄을 안즉 우리가 그에게 구한 그것을 얻는 줄을 또한 아느니라

「예수님의 이름으로」기도한다는 것은 제멋대로 기도하고 마지막에, 상투적인 말 한 마디를 붙이는 것이 아니라는 뜻입니다. 그렇게 하나님 앞에 나아갈 수 있는 특권을 가볍게 여겨서는 안 됩니다. 「예수님의 이름으로」기도한다는 것은 예수님을 생각하며, 예수님의 뜻에 합당한 기도를 드릴 때, 그 기도는 우리의 소원이 아니라 예수 그리스도의 소원으로 반드시 이루어질 수 있다는 뜻입니다. 이처럼 예수님께서 하늘과 땅의 모든 이름위에 뛰어난 이름을 받으시고, 모든 피조물 위에 뛰어난 권세와 영광을 받으셨기 때문에 우리안에 내주하고 계시는 성령을 통해, 이런 놀라운 예수님의 역사가 일어나게 된 것입니다.

(2) 또 다른 보혜사를 너희에게 주사

둘째, 성령 강림 사건이란, 또 다른 보혜사인 성령을 보내주셨다는 점에 주목하고 싶습니다. 14:15~17절을 보시기 바랍니다.

15 너희가 나를 사랑하면 나의 계명을 지키리라

16 내가 아버지께 구하겠으니 그가 또 다른 보혜사를 너희에게 주사 영원토록 너희와 함께 있게 하리니

17 그는 진리의 영이라 세상은 능히 그를 받지 못하나니 이는 그를 보지도 못하고 알지도 못함이라 그러나 너희는 그를 아나니 그는 너희와 함께 거하심이요 또 너희 속에 계시겠음이라

보혜사는 헬라어로 파라클레토스라는 말인데, 파라가 「곁에」라는 뜻이고, 클레토스는「부름 받은 자」라는 뜻입니다. 직역하면「곁에 부름 받은 자」가 됩니다. 이 번역으로 여러 가지 명칭이 사용되고 있는데, 「대언자」라든지, 「상담자」라든지, 「위로자」라는 명칭이 있습니다. 이 명칭에서 알 수 있듯이, 예수님께서 이 세상을 떠나시더라도 제자들을 외롭게 내버려두지 않으시고, 곁에서 격려해 주시고, 도와주시고, 지지해 주시는 분이 있다는 것을 알 수 있습니다. 그리고 「또 다른」이라는 표현에서 알 수 있듯이 이 보혜사는 우선 예수님 자신이라는 것입니다. 요한일서 2:1절에는 예수님에 대해 「대언자」라는 단어가 쓰였습니다.

요한일서 2장

1 나의 자녀들아 내가 이것을 너희에게 씀은 너희로 죄를 범하지 않게 하려 함이라 만일 누가 죄를 범하여도 아버지 앞에서 우리에게 대언자가 있으니 곧 의로우신 예수 그리스도시라

예수님께서 더 이상 육체적으로 제자들과 함께 할 수 없게 되실 때, 또 다른 보혜사인 성령께서, 지금까지 예수님께서 제자들을 지키고 인도하셨던 것처럼, 그 사역을 그대로 이어받으실 것입니다. 그리고 이 성령은 우리에게서 결코 떠나지 않고 영원토록 함께 하실 것입니다. 이것은 잘 생각해보면 엄청난 약속이라고 생각합니다.

우리 몸에는 하나의 영이 내주하고 계십니다. 마찬가지로 하나님도 하나의 영, 성령을 가지고 계십니다. 하나님은 이 영을 통해 이 세상을 창조하셨고, 또 통치하시고 지키고 계십니다. 또한 이 영을 통해 구약 시대에 모든 은사와 능력을 부어 주셨습니다. 이 영을 기드온과 삼손과 같은 사사들에게 부어주셨고, 이사야와 에스겔과 같은 선지자들에게 부어주셨으며, 그리고 자기 백성을 회개하게 하시고 새롭게 거룩하게 하셨습니다.

예수 그리스도께서도 이 영으로 인해 잉태되셨고, 이 영으로 충만함을 받으셨으며, 이 영으로 자신의 모든 사역을 이루셨습니다. 이 영은「아버지의 영」, 「아들의 영」, 「그리스도의 영」, 「진리의 영」, 「살리는 영」이라고도 불리며, 오순절에 그리스도의 교회에 부어주셨습니다. 그러나 이 세상은 이 영을 받을 수 없습니다. 성령은 하나님이 택하신 백성에게만 부어주시는 것입니다. 이 한 영이, 한 사람, 한 사람에게 부어져서 우리는 새롭게 거듭나서 살게 된 것입니다. 생명의 근원이신 그리스도의 영이, 우리 마음속에 내주하시므로 샘물이 솟아나듯, 날마다 새롭게 되어 영생을 얻는 자가 되게 하셨습니다. 또한 진리의 영이신 그리스도의 영이, 우리 마음에 내주하시므로 사물을 보는 시각이, 가치관이, 삶의 목적이 완전히 바뀌었습니다. 하나님을 알고 예수님을 주로 고백하게 되었고, 어둠의 일을 버리고 빛을 사랑하고 성령의 갑옷을 입고 사랑의 열매를 맺는 자로 거듭나게 된 것입니다. 또한 아버지의 영이, 자녀된 우리 마음속에 내주하시므로 우리는 더 이상 고아가 아니며, 사생아가 아니라는 깊은 기쁨과 평안을 얻게 되었습니다. 하나님의 사랑이 날마다 마음속에 새겨져 하나님과의 평화를 확신하고,「아바 아버지」라고 담대히 기도할 수 있는 자가 되어, 그리고 하늘에서 받게 될 미래의 영광을 확신할 수 있게 된 것입니다.

신자들이 이런 성령을 받았기 때문에, 그들은 전혀 다른, 새로운 영적인 사람으로 다시 태어났습니다. 믿는 자는 성령 안에서 살고, 성령의 일을 생각하고, 성령 안에서 기도하고, 성령 안에서 기뻐하고, 성령의 법 아래 살며, 성령의 인도하심을 받아 성령을 통해 하나님의 사랑을 확신하는 것입니다. 신자가 이 성령 안에 있다는 것은, 그리스도 안에 있다는 것과 동일하며, 성령께서 한 사람 한 사람 안에 머무신다는 것은, 그리스도께서 그 사람 안에 머무시는 것으로 표현됩니다. 그리고 이 영이 하나의 영이기 때문에, 교회는 이 세상에 여러 개가 아니라 보편적인 교회가 하나밖에 없다고 할 수 있습니다. 저쪽 교회에는 A형이라는 영이 부어지고, 이쪽 교회에는 C형이라는 영이 부어지는 것이 아니라는 말이지요. 하나의 영이 부어졌기 때문에 교회는 하나이고, 유기체이며, 그리스도의 몸으로 세워지는 것입니다.

우리의 평상시 신앙생활 가운데, 우리는 스스로 성경을 펴고, 하나님의 음성에 귀를 기울인다고 생각하지만, 사실은 우리 영 안에 내주하시는 성령께서, 자신의 말씀을 통해 우리에게 말씀하고 계시는 것입니다.

우리는 평상시 신앙생활에 있어서, 평안 가운데, 그리스도의 재림을 기도하며 기다리지만, 사실은, 누구보다 우리 영 안에 내주하시는 성령께서, 그리스도의 신부와 함께 그리스도의 재림을 기도하며 기다리고 계십니다(요한계시록 22:17절). 우리에게는 이러한 보혜사이신 성령께서 영원히 우리 안에 머물러 계시계 된 것입니다. 그러므로 성령은 우리의 구원의 보증이며, 구원의 담보이며, 더 이상 우리는 방황하지 않을 것입니다.

결론

매일의 믿음생활을 통해 주어지는, 기쁨과 평안으로 우리 안에 성령이 내주하고 계신다는 것이 강한 확신으로 바뀌어 갈 것입니다. 이 성령 강림의 은혜는, 거듭해서 몇번이나 말씀드리지만, 예수님께서 하늘에 오르시어, 하늘과 땅의 모든 이름 위에 뛰어난 이름을 받으시고, 모든 피조물 위에 뛰어난 권세와 영광을 받으시고, 하나님의 아들로 세움을 받으시고, 왕 중의 왕, 주의 주로 영광을 받으셨기 때문에, 한 마디로 말해서 전능하신 하나님의 우편에 앉으셨기 때문입니다. 그러므로 성령 강림이 하나님의 백성에게 주어진 것입니다. 우리는 이 하나님의 역사를 진심으로 찬양합시다.

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