2019年09月29日「サムエルがイスラエルで裁きを行う 이스라엘 자손을 다스리는 사무엘」

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サムエルがイスラエルで裁きを行う 이스라엘 자손을 다스리는 사무엘

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 7章2節~17節

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聖句のアイコン聖書の言葉

2主の箱がキルヤト・エアリムに安置された日から時が過ぎ、二十年を経た。イスラエルの家はこぞって主を慕い求めていた。
3サムエルはイスラエルの家の全体に対して言った。「あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、あなたたちの中から異教の神々やアシュトレトを取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたたちをペリシテ人の手から救い出してくださる。」
4イスラエルの人々はバアルとアシュトレトを取り除き、ただ主にのみ仕えた。
5サムエルは命じた。「イスラエルを全員、ミツパに集めなさい。あなたたちのために主に祈ろう。」
6人々はミツパに集まると、水をくみ上げて主の御前に注ぎ、その日は断食し、その所で、「わたしたちは主に罪を犯しました」と言った。サムエルはミツパでイスラエルの人々に裁きを行った。
7イスラエルの人々がミツパに集まっていると聞いて、ペリシテの領主たちはイスラエルに攻め上って来た。イスラエルの人々はそのことを聞き、ペリシテ軍を恐れて、
8サムエルに乞うた。「どうか黙っていないでください。主が我々をペリシテ人の手から救ってくださるように、我々の神、主に助けを求めて叫んでください。」
9サムエルはまだ乳離れしない小羊一匹を取り、焼き尽くす献げ物として主にささげ、イスラエルのため主に助けを求めて叫んだ。主は彼に答えられた。
10サムエルが焼き尽くす献げ物をささげている間に、ペリシテ軍はイスラエルに戦いを挑んで来たが、主がこの日、ペリシテ軍の上に激しい雷鳴をとどろかせ、彼らを混乱に陥れられたので、彼らはイスラエルに打ち負かされた。
11イスラエルの兵はミツパを出てペリシテ人を追い、彼らを討ってベト・カルの下まで行った。
12サムエルは石を一つ取ってミツパとシェンの間に置き、「今まで、主は我々を助けてくださった」と言って、それをエベン・エゼル(助けの石)と名付けた。
13ペリシテ人は鎮められ、二度とイスラエルの国境を侵すことはなかった。サムエルの時代を通して、主の手はペリシテ人を抑えていた。
14ペリシテ人がイスラエルから奪い取っていた町々は、エクロンからガトまで再びイスラエルのものとなった。イスラエルはその周辺の村々をもペリシテ人の手から救った。イスラエルとアモリ人との間は平和であった。
15サムエルは生涯、イスラエルのために裁きを行った。
16毎年、ベテル、ギルガル、ミツパを巡り歩き、それらの地でイスラエルのために裁きを行い、
17ラマに戻った。そこには彼の家があった。彼はそこでもイスラエルのために裁きを行い、主のために祭壇を築いた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 7章2節~17節

原稿のアイコン日本語メッセージ

主の箱がキルヤト・エアリムに放置された日から、なんと20年という長い歳月が流れました。契約の箱が純粋なイスラエルの領土にはとどまらないで、ペリシテと隣接した場所であるキルヤト・エアリムという山の町に留まることになったという事件は、何か象徴的な意味を表しているのではないかと思われます。その象徴的意味とは、ペリシテ人に契約の箱を奪われた後、イスラエルとヤハウェなる神さまとの関係が、まだ完全には、回復されていなかったということです。2節にあります「慕い求める」という動詞は、聖書の他の箇所(ミカ2:4、エゼ32:18)を見ると、「嘆いていた」と訳されています。イスラエルの民は主との関係が断絶されて、霊的な渇きを覚え、嘆きながら主を求めるようになったのかもしれません。イスラエルの聖所であったシロは、ペリシテ人によって破壊され、契約の箱はキルヤト・エアリムという山奥に放置されたままで、今や、神の民であることを忘れるほどに自分たちのアイデンティティが失われてしまいました。日々の生活はあまりにもカナンの人々の文化と風習に溶け込み、馴染んでしまい、そのような自分たちのみじめな姿を省みた時に、神の御前に恥ずかしさと悲しみを感じたのかもしれません。これは、今日において私たちキリスト者が、日々、世の世俗化の波にもまれている状況と大変似たような状況だと思われます。以前は、神さまに熱い気持ちを持っていたのに、いつの間にかすっかり心が冷めてしまった。もう一度、神さまを讃美するために寝る時間さえ惜しみ、神さまを心から讃美したい、たとえ、世が与えてくれるような富や快楽はないけれど、神さまお一人だけがいらっしゃれば満足していたような、そのような幸いな時に、もう一度戻りたい。気が付いたらみじめな状況に置かれていた私たちの心は、御言葉の光に照らされて、再び主への飢え渇きを持つようになるのです。主なる神を切実に慕い求めるイスラエルの民に対し、サムエルは主との関係回復のために2つの方法を提案します。第一に異教の神々を取り除くことであり、第二に主に心を尽くして仕え献身することです。本日の聖書箇所の3~4節を御覧ください。

“サムエルはイスラエルの家の全体に対して言った。「あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、あなたたちの中から異教の神々やアシュトレトを取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたたちをペリシテ人の手から救い出してくださる。」イスラエルの人々はバアルとアシュトレトを取り除き、ただ主にのみ仕えた。”

神との関係を回復するためには、まず異邦の神々、特にバアルとバアルの妻であるアシュトレトを取り除かなければなりません。バアルは嵐の神で、片手に雷をもっていて、雨を降らせ、カナンの地に豊作をもたらす神として崇められていました。アシュトレトは豊かさと戦争の神で、性的な不品行をもたらしました。イスラエルの民はカナンに入植する以前は遊牧民族でしたが、入植後、農耕民族としてライフスタイルの劇的な変化を経験しましたが、その際、カナンの原住民が信じていた風習や文化を受け入れ、結果的に異教の神々を受け入れるようになっていったのです。これは決して主なる神に対する信仰を捨てるということではありません。異教の神々は決して、イスラエルの民に、唯一神信仰によって迫ってくるのではなく、イスラエルの信仰そのものを認めてくれた上で、彼らの価値観や考え方の深いところに異教的なものを刷り込んでくるのです。これを混合宗教といいますが、イスラエルの民はサムエルに指摘されるまで、自分たちが現在どこにいるのか、なぜ主なる神は自分たちから遠く離れてしまったのか盲目になり分からなくなってしまったのです。主なる神との関係回復のためには、ただ、異教の神々を取り除くだけでは十分ではありません。心からの悔い改めと、心をヤハウェなる神に向けて、神にのみ仕えるということが要求されます。サムエルは民をミツパに集めて、断食をもって民を罪の告白へと導きました。水を主の御前に注ぎだす儀式をしています。この儀式の意味は、浄めと、涙による悔い改めの儀式であると思われます。哀歌2:18~19を御覧ください。

“おとめシオンの城壁よ/主に向かって心から叫べ。昼も夜も、川のように涙を流せ。休むことなくその瞳から涙を流せ。立て、宵の初めに。夜を徹して嘆きの声をあげるために。主の御前に出て/水のようにあなたの心を注ぎ出せ。両手を上げて命乞いをせよ/あなたの幼子らのために。彼らはどの街角でも飢えに衰えてゆく。”

イスラエルが、心からの告白と、悔い改めをしている真っ最中に、ペリシテ人が攻め上ってきました。これは、おそらく、ミツパにイスラエルが召集されて戦いの準備をしているという情報がペリシテ人に入ったからでしょう。ミツパという土地の名前の意味は、「物見やぐら」とか「物見の塔」という意味です。「イスラエルがペリシテに今にも攻めようと作戦を練っているのだ」と考えたのでしょう。「ならば、こちらから逆に先制攻撃を仕掛けてやる!」ということで、ペリシテの方からミツパへと攻め上ってきたのです。以前、20年と7ヵ月前に、アフェクの近くのエベンエゼルにおいて、イスラエルはペリシテ人に大敗を喫し契約の箱を奪われました。その時の苦々しい記憶がまだイスラエル民の頭の片隅にはっきりと残っていたことでしょう。この絶対絶命の危機において、サムエルとイスラエルの民の取った行動に注目しなければなりません。7~8節を御覧ください。

“イスラエルの人々がミツパに集まっていると聞いて、ペリシテの領主たちはイスラエルに攻め上って来た。イスラエルの人々はそのことを聞き、ペリシテ軍を恐れて、サムエルに乞うた。「どうか黙っていないでください。主が我々をペリシテ人の手から救ってくださるように、我々の神、主に助けを求めて叫んでください。」”

彼らは、この危機的状況において、もはや、契約の箱により頼むことはしませんでした。ただ神とイスラエルの間に立っているサムエルに叫んだのであり、サムエルを通して神に叫んでいるのです。この「叫び」とは、まさに私たちの祈りと同じようなものです。神はイスラエルの民の叫びに耳を傾けられ、応答されるお方だからです。聖書には民の「叫び」に応えられる神が何度も何度も描写されていて、数えることができないほどです。例えば出エジプト14:10です。p116を御覧ください。

“ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、”

同じ場面をヨシュアが説教の中で振り返っています。ヨシュア24:7です。そのままお聞きください。

“彼らが主に助けを求めて叫ぶと、主はエジプト軍との間を暗闇で隔て、海を彼らに襲いかからせて彼らを覆われた。わたしがエジプトに対して行ったことは、あなたたちがその目で見たとおりである。”

また士師3:9を御覧ください。p383の下の段の最後です。

“イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主はイスラエルの人々のために一人の救助者を立て、彼らを救われた。これがカレブの弟ケナズの子オトニエルである。”

同じく士師3:15です。

“イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主は彼らのために一人の救助者を立てられた。これがベニヤミン族のゲラの子、左利きのエフドである。”

同じく士師4:3-4です。

“イスラエルの人々は、主に助けを求めて叫んだ。ヤビンは鉄の戦車九百両を有し、二十年にわたってイスラエルの人々を、力ずくで押さえつけたからである。ラピドトの妻、女預言者デボラが、士師としてイスラエルを裁くようになったのはそのころである。”

これはほんの一部にすぎません。とにかく前回、敗北し契約の箱を奪われた時の戦略とは、明らかに異なる態度が見られるのです。前回は、長老たちが作戦を練り、「契約の箱をシロから担いできて戦いに出よう。そうすれば勝つに違いないだろう」と結論を出しましたが、今回は神に委ね、祈り心でサムエルに叫んでいるのです。そして、その後に、さらに決定的なことが行われました。それは焼き尽くす献げ物を捧げて礼拝を捧げたということです。9~11節を御覧ください。

“サムエルはまだ乳離れしない小羊一匹を取り、焼き尽くす献げ物として主にささげ、イスラエルのため主に助けを求めて叫んだ。主は彼に答えられた。サムエルが焼き尽くす献げ物をささげている間に、ペリシテ軍はイスラエルに戦いを挑んで来たが、主がこの日、ペリシテ軍の上に激しい雷鳴をとどろかせ、彼らを混乱に陥れられたので、彼らはイスラエルに打ち負かされた。イスラエルの兵はミツパを出てペリシテ人を追い、彼らを討ってベト・カルの下まで行った。”

主へのなだめの香りとして献げられる「焼き尽くす献げ物」とは、礼拝者が食べ物として残す部分が全くない、全焼の生贄でありまして、これは、主への、「全き献身」と「忠誠」を意味しています。つまり、このような極限の状態の中で、神に礼拝を捧げているのです。それは、神さまに信頼し、神さまに全てを委ね、神さまに全き献身をしたということです。この戦いは、「ヤハウェの戦い」、「聖なる戦い」となりました。聖なる戦いの特徴は、すべての戦いをヤハウェが実行され、イスラエルの民は何もしないということです。通常、自然現象である雷や、地震、ひょう、闇を用いられ、戦いの結末に、イスラエルが敗走する敵を分捕ったり、或いは、一人の生存者もなかったという記述で終わります。今回も例外ではありませんでした。イスラエルのしたことといえば、雷によって混乱させられ、おそらく味方同士で相討ちをした結果、敗走していくペリシテ軍の残党を、掃討することだけが残されていました。しかも高所にあるミツパから、低地のペリシテの陣営へ追いかけていくにあたり、追うにしても、矢を射るにしても二重に有利であったということです。これが、万軍の主・ヤハウェの戦いなのです。私たちの礼拝も、まさに叫ぶような祈りと共に、全焼の生贄を捧げるような献身的な礼拝となるなら、主が私たちの人生に劇的に介入してくださり、私たちを浄め、失われていた神の子としてのアイデンティティを回復してくださるでしょう。

13節以下は、ペリシテとの戦いの後に与えられた祝福について紹介されています。三点あげられていますが、第一に主なる神の守りが与えられたということです。サムエルの時代を通して、主の手はペリシテ人を抑えてくださいました。第二に、領土の回復です。エクロンからガトまでペリシテに奪われていた領土を取り戻すことになりました。第三に、カナンの地でシャローム、平和を享受することになったということです。私たちは、これまでサムエル記上4~6章において、契約の箱の物語を見てまいりましたが、その間、姿を消していたサムエルが、突然7章になって、再び姿を現すのを見ることになりました。3章の終わりの記事には、(P433の19節からです。)

“サムエルは成長していった。主はサムエルと共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルのすべての人々は、サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた。”

とありますから、姿を現しませんでしたが、契約の箱の物語の背後において、イスラエルの民に御言葉を少しずつ食べさせるという地道な働きがあったのだろうと推測することができます。7章で、突如サムエルを登場させたのは、ついにその働きが実り、イスラエルの民が自らのみじめさを悟り、主を慕い求めるようになったからでしょう。そして7章の結末部分での15節~17節は、サムエルの働きの要約として解釈することができますが、暗黒時代の士師時代の最後に、サムエルを通して、イスラエルに神政政治をもたらされ、理想的な「神の国」の到来が描かれているのです。「神政政治」というのは神さまが直接、王として、ご自身の民を支配される政治体制のことを言います。それは神とご自身の民との間にある「あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」という契約に基づいています。15節~17節で、お気づきになったかもしれませんが、サムエルがイスラエルを「裁いた」という言葉が3度も出てきます。裁くというヘブル語の動詞は「שָׁפַט シャパトゥ」ですが、これが名詞になると士師つまり、「שֶׁפֶט シェフェトゥ」になります。つまり、この要約部分では、サムエルがイスラエルの士師であった、それも王政にバトンタッチする前の「最後の士師であった」ということが強調されているのです。しかし、サムエルは士師でありながらも、実際に、自分がイスラエルに偉大な勝利をもたらした英雄としてではなく、神との間をとりなす祭司として、また、神の御言葉に仕える預言者としてこれまでの士師とは異なる独特な働きが描写されています。それは、まるでモーセを彷彿させるかのようであり、延いて言えば、サムエルは私たちと父なる神の間に立ってくださるイエス様のような仲保者としての姿として描写されているのです。預言者であり、祭司であり、王であるお方がいる限りにおいて、主の手はイスラエルをペリシテから守ってくださったように、私たちを敵から守ってくださるのです。

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이스라엘 자손을 다스리는 사무엘

2019년 9월 29일 센겐다이교회 주일설교

사무엘상 7장 2~17절

여호와의 궤가 기럇여아림에 방치된 날로부터 무려 20년이란 긴 세월이 흘렀습니다. 언약궤가 순수한 이스라엘의 영토에 머무르지 않고 블레셋과 인접한 장소인 기럇여아림이라는 산동네에 머물게 된 사건은 뭔가 상징적인 의미를 나타내는 것이 아닐까 생각됩니다. 그 상징적 의미란 블레셋에게 언약궤를 빼앗긴 후 이스라엘과 여호와 하나님과의 관계가 아직 완전히 회복되지 않았다는 것입니다. 2절에 있는 「사모하다」라고 하는 동사는 성경의 다른 구절(미가 2장 4절, 에스겔 32장 18절)을 보면 「슬픈 노래를 불러, 슬피 부름이여」라고 번역되어 있습니다. 이스라엘 백성은 여호와와의 관계가 단절되어서 영적인 갈급함을 느끼고 탄식하면서 여호와를 찾게 되었을지도 모릅니다. 이스라엘의 성소였던 실로는 블레셋 사람들에 의해 파괴되었고 언약궤는 기럇여아림이라는 산속에 방치된 채로 이제 하나님의 백성임을 잊을 만큼 자신들의 정체성이 상실되었습니다. 하루하루의 생활은 너무나도 가나안 사람들의 문화와 풍습에 녹아 물들어 갔으며 그런 자신들의 비참한 모습을 돌아봤을 때 하나님 앞에 부끄러움과 슬픔을 느꼈을지도 모릅니다. 이는 오늘날 우리 그리스도인들이 나날이 세상의 세속화 물결에 시달리고 있는 상황과 매우 유사한 상황이라고 생각됩니다. 예전에는 하나님에게 뜨거운 마음을 가졌었는데 어느새 완전히 마음이 식어 버렸어요. “다시 한번 하나님을 찬양하기 위해 자는 시간 조차도 아깝게 여겨질 만큼 하나님을 전심으로 찬양하고 싶다, 비록 세상이 주는 그런 부나 쾌락은 없지만 하나님 한 분만 계시면 만족했었던 그런 행복한 때로 다시 돌아가고 싶다.”정신을 차리고 보니 비참한 상황에 놓여 있던 우리의 마음은 말씀의 빛에 비추어 다시 하나님에 대한 갈급함을 갖게 되는 것입니다. 여호와를 간절히 사모하는 이스라엘 백성들에게 사무엘은 여호와와의 관계 회복을 위해 두 가지 방법을 제안합니다. 첫째, 이교의 신들을 제거하는 것이고, 둘째 여호와를 정성을 다해 섬기고 헌신하는 것입니다. 오늘 성경 본문의 3,4절을 보시기 바랍니다.

3 사무엘이 이스라엘 온 족속에서 말하여 이르되 만일 너희가 전심으로 여호와께 돌아오려거든 이방 신들과 아스다롯을 너희 중에서 제거하고 너희 마음을 여호와께로 향하여 그만을 섬기라 그리하면 너희를 블레셋 사람의 손에서 건져내시리라

4 이에 이스라엘 자손이 바알들과 아스다롯을 제거하고 여호와만 섬기니라

여호와와의 관계를 회복하기 위해서는 먼저 이방의 신들, 특히 바알과 바알의 아내인 아스다롯을 제거해야 합니다. 바알은 푹풍우의 신으로 한 손에 천둥을 들고 있어 비를 내리게 하고 가나안 땅에 풍작을 가져다주는 신으로 추앙받았습니다. 아스다롯은 풍요로움과 전쟁의 신으로 성적인 불품행을 초래했습니다. 이스라엘 백성들은 가나안에 정착하기 전에는 유목민족이었으나 정착 후 농경민족으로서 라이프스타일의 극적인 변화를 겪었는데, 그 때 가나안 원주민들이 믿었던 풍습과 문화를 받아들여 결과적으로 이교의 신들을 받아들이게 된 것입니다. 이것은 결코 여호와 하나님에 대한 믿음을 저버리는 것이 아닙니다. 이교의 신들은 결코 이스라엘 백성들에게 유일신 신앙으로 다가오는 것이 아니라 이스라엘의 신앙 그 자체를 인정해 준 다음 그들의 가치관이나 사고방식 깊은 곳에 이교적인 것을 박아 넣는 것입니다. 이것을 혼합종교라고 하는데 이스라엘 백성들은 사무엘에게 지적받기 전까지 자신들이 현재 어디에 있는지, 왜 여호와 하나님은 자신들에게서 멀리 떨어져 버렸는지 장님이 되어 알지 못하게 된 것입니다. 여호와 하나님과의 관계 회복을 위해서는 단지 이교의 신들을 제거하는 것만으로는 충분하지 않습니다. 진정한 회개와 마음을 여호와이신 하나님을 향해 오직 하나님만을 섬길 것이 요구되는 것입니다. 사무엘은 백성들을 미스바로 모았고 그들이 금식하며 죄를 고백하도록 이끌었습니다. 물을 길어 여호와 앞에 붓는 의식, 이 의식의 의미는 정화와 눈물에 의한 회개 의식이라고 생각됩니다. 예레미야 애가 2장 18,19절을 읽어보시겠습니다.

18 그들의 마음이 주를 향하여 부르짖기를 딸 시온의 성벽아 너는 밤낮으로 눈물을 강처럼 흘릴지어다 스스로 쉬지 말고 네 눈동자를 쉬게 하지 말지어다

19 초저녁에 일어나 부르짖을지어다 네 마음을 주의 얼굴 앞에 물 쏟듯 할지어다 각 길 어귀에서 주려 기진한 네 어린 자녀들의 생명을 위하여 주를 향하여 손을 들지어다 하였도다

이스라엘이 진심 어린 고백과 회개를 하고 있는 와중에 블레셋이 쳐들어 왔습니다. 이는 아마 미스바에서 이스라엘이 소집되어 전투 준비를 하고 있다는 정보가 블레셋인들에게 들어왔기 때문일 것입니다. 미스바라는 땅의 이름의 뜻은 「망루」라든가 「파수대」라는 의미입니다. “이스라엘이 블레셋에 당장이라도 공격해 오려고 작전을 짜고 있는 것이다”라고 생각했을 것입니다. “그렇다면 우리쪽에서 반대로 선제공격을 가하자!”라고 해서 블레셋 쪽에서 미스바로 쳐들어 온 것입니다. 이전의 20년과 7개월 전에 아벡 근처 에벤에셀에서 이스라엘은 블레셋에게 대패를 당해 언약궤를 빼앗겼습니다. 그때의 쓰라린 기억이 아직도 이스라엘 백성들의 머리 한구석에 뚜렷이 남아 있었을 것입니다. 이 절대절명의 위기에서 사무엘과 이스라엘 백성들이 취한 행동에 주목해야 합니다. 7,8절을 보시기 바랍니다.

7 이스라엘 자손이 미스바에 모였다 함을 블레셋 사람들이 듣고 그들의 방백들이 이스라엘을 치러 올라온지라 이스라엘 자손들이 듣고 블레셋 사람들을 두려워하여

8 이스라엘 자손이 사무엘에게 이르되 당신은 우리를 위하여 우리 하나님 여호와께 쉬지 말고 부르짖어 우리를 블레셋 사람들의 손에서 구원하시게 하소서 하니

그들은 이 위기 상황에서 더 이상 언약궤를 향해 부탁하지 않았습니다. 오직 하나님과 이스라엘 사이에 서 있는 사무엘에게 부르짖는 것이고 사무엘을 통해 하나님께 부르짖는 것입니다. 이 부르짖음이란 바로 우리의 기도와 같은 것입니다. 하나님은 이스라엘 백성들의 부르짖음에 귀 기울이시고 응답하시는 분이기 때문입니다. 성경에는 백성들의 부르짖음에 응답하시는 하나님이 여러 번 묘사되어 있어서 셀 수도 없을 정도입니다. 예를 들어 출애굽 14장 10절입니다. 보세요.

바로가 가까이 올 때에 이스라엘 자손이 눈을 들어 본즉 애굽 사람들이 자기들 뒤에 이른지라 이스라엘 자손이 심히 두려워하여 여호와께 부르짖고

같은 장면을 여호수아가 설교 가운데 회고하고 있습니다. 여호수아 24장 7절입니다. 그대로 들어 주세요.

너희의 조상들이 나 여호와께 부르짖기로 내가 너희와 애굽 사람들 사이에 흑암을 두고 바다를 이끌어 그들을 덮었나니 내가 애굽에서 행한 일을 너희의 눈이 보았으며 또 너희가 많은 날을 광야에서 거주하였느니라

다시 사사기 3장 9절을 보시기 바랍니다.

이스라엘 자손이 여호와께 부르짖으매 여호와께서 이스라엘 자손을 위하여 한 구원자를 세워 그들을 구원하게 하시니 그는 곧 갈렙의 아우 그나스의 아들 웃니엘이라

마찬가지로 사사기 3장 15절입니다.

이스라엘 자손이 여호와께 부르짖으매 여호와께서 그들을 위하여 한 구원자를 세우셨으니 그는 곧 베냐민 사람 게라의 아들 왼손잡이 에훗이라 이스라엘 자손이 그를 통하여 모압 왕 에글론에게 공물을 바칠 때에

마찬가지로 사사기 4장 3,4절입니다.

3 야빈 왕은 철 병거 구백 대가 있어 이십 년 동안 이스라엘 자손을 심히 학대했으므로 이스라엘 자손이 여호와께 부르짖었더라

4 그 때에 랍비돗의 아내 여선지자 드보라가 이스라엘의 사사가 되었는데

이것은 그히 일부에 불과합니다. 어쨌든 지난 번 패배하고 언약궤를 빼앗겼을 때의 전략과는 분명히 다른 태도를 보이고 있는 것입니다. 지난번에는 장로들이 작전을 짜고 「여호와의 언약궤를 실로에서 우리에게로 가져다가 우리 중에 있게 하여 그것으로 우리를 우리 원수들의 손에서 구원하게 하자」라고 결론을 내렸지만 이번에는 여호와께 맡기고 기도하는 마음으로 사무엘에게 부르짖고 있는 것입니다. 그리고 그 후에 더 결정적인 일이 이루어졌습니다. 그것은 다 태운 제물을 바치고 예배를 드렸다는 것입니다. 9~11절을 보세요.

9 사무엘이 젖 먹은 어린 양 하나를 가져다가 온전한 번제를 여호와께 드리고 이스라엘을 위하여 여호와께 부르짖으매 여호와께서 응답하셨더라

10 사무엘이 번제를 드릴 때에 블레셋 사람이 이스라엘과 싸우려고 가까이 오매 그 날에 여호와께서 블레셋 사람에게 큰 우레를 발하여 그들을 어지럽게 하시니 그들이 이스라엘 앞에 패한지라

11 이스라엘 사람들이 미스바에서 나가서 블레셋 사람들을 추격하여 벧갈 아래에 이르기까지 쳤더라

여호와의 진노를 가라 앉게 하는 향으로 바치는 「번제물」이란 예배자가 음식으로 남길 부분이 전혀 없는 전소의 제물로 이는 여호와를 향한 「모든 헌신」과 「충성」을 의미합니다. 즉 이러한 극한의 상태에서 하나님께 예배를 드리고 있는 것입니다. 그것은 하나님을 신뢰하고 하나님께 모든 것을 맡기고 하나님께 전적으로 헌신했다는 것입니다. 이 싸움은 「여호와의 전쟁」, 「거룩한 전쟁」이 되었습니다. 거룩한 전쟁의 특징은 모든 전쟁을 여호와가 실행하시고 이스라엘 백성들은 아무것도 하지 않는다는 것입니다. 보통 자연현상인 천둥이나 지진, 우박, 어둠을 이용해 싸움의 결말에 이스라엘이 패해서 도망하는 잔당을 소탕하는 것만이 남아있었습니다. 게다가 높은 곳에 있는 미스바에서 저지대 블레셋 진영으로 쫓아가면서 쫓든, 화살을 쏘든 이중으로 유리했다는 것입니다. 이것이 「만군의 주」되신 여호와의 싸움입니다. 우리의 예배도 바로 부르짖는 듯한 기도와 함께 전소의 제물을 바치는 헌신적인 예배가 된다면 하나님께서 우리 삶에 극적으로 개입해 주시고 우리를 정화하고 잃었던 하나님의 자녀로서의 정체성을 회복시켜 주실 것입니다.

13절 이하는 블레셋과의 싸움 후에 주어진 복에 대해 소개하고 있습니다. 세 가지를 꼽았는데, 첫째로 여호와 하나님이 보호해 주신다는 것입니다. 사무엘 시대 내내 여호와의 손은 블레셋을 막아 주셨습니다. 둘째 영토 회복입니다. 에그론부터 가드까지 블레셋에 빼앗겼던 영토를 되찾게 되었습니다. 셋째, 가나안 땅에서 샬롬, 평화를 누리게 되었다는 것입니다. 우리는 그동안 사무엘상 4~6장에서 언약궤의 이야기를 살펴 왔는데, 그동안 자취를 감추었던 사무엘이 갑자기 7장이 되어 다시 모습을 드러내는 것을 보게 됩니다. 3장의 마지막 기사에는 이렇게 기록되어 있습니다.

19 사무엘이 자라매 여호와께서 그와 함께 계셔서 그의 말이 하나도 땅에 떨어지지 않게 하시니

20 단에서부터 브엘세바까지의 온 이스라엘이 사무엘은 여호와의 선지자로 세우심을 입은 줄을 알았더라

그렇기 때문에 모습을 드러내지는 않았지만 언약궤의 이야기 뒤에서 이스라엘 백성들에게 말씀을 조금씩 먹이는 꾸준한 사역을 했을 것이라고 추측할 수 있습니다. 7장에서 갑자기 사무엘을 등장시킨 것은 마침내 그 일이 결실을 맺어 이스라엘 백성들이 스스로의 비참함을 깨닫고 여호와를 사모하게 되었기 때문일 것입니다. 그리고 7장 결말 부분에서의 15~17절은 사무엘의 사역의 요약으로 해석 할 수 있는데 암흑시대의 사사시대의 마지막에 사무엘을 통해 이스라엘에 신정정치를 가져오고 이상적인 「하나님의 나라」의 도래를 묘사하고 있는 것입니다. 신정정치라는 것은 하나님이 직접 왕으로서 자신의 백성을 다스리는 정치체제를 말합니다. 그것은 하나님과 자신의 백성 사이에 있는 「나는 네 하나님이 되고 너희는 네 백성이 된다」라는 언약에 근거하고 있습니다. 15~17절에서 눈치채셨겠지만 사무엘이 이스라엘을 「다스렸고」라는 말이 세 번이나 나옵니다. 「다스리다」라는 히브리어 동사는 「שָׁפַט 샤파트」입니다만, 이것이 명사가 되면 사사 즉, 「שֶׁפֶט 쇼페트」입니다. 즉, 이 요약부분에서는 사무엘이 이스라엘의 사사였다, 그것도 왕정에 바톤터치 하기 전 마지막 사사였다는 것이 강조되고 있는 것입니다. 그러나 사무엘은 사사이면서도 실제로 자신이 이스라엘에 위대한 승리를 안겨준 영웅으로서가 아니라 하나님과의 사이를 주선하는 제사장으로서, 또 하나님의 말씀을 섬기는 선지자로서 지금까지의 사사와는 다른 독특한 사역이 묘사되어 있습니다. 그것은 마치 모세를 방불케 하는 것 같고, 나아가 말하자면 사무엘은 우리와 아버지 하나님 사이에 서 계셔 주시는 예수님 같은 중보자로서의 모습으로 묘사되어 있는 것입니다. 선지자요, 제사장이요, 왕이신 분이 계신 한 여호와의 손이 이스라엘을 블레셋으로부터 지켜주신 것처럼 우리를 적으로부터 지켜 주시는 것입니다.

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